2 妹の部屋
St-Maartensdijk, ZEELAND
そして翌朝。
爽やかな朝の風を気持ちよくはらませて、一本マストの帆船がゼーラントの海を進んでいく。フランクは甲板だ。知り合いの船をちょうど見つけ、馬ともども乗せて貰った。船の上で夜明かししたから、もうじきうちに帰りつく。
ゼーラントは「海の国」、もしくは「海の土地」という意味だ。その名の通り、海に浮かぶ島々から成る。海抜の低い土地だから、あちこちに堤防が築かれている。堤防の伸びる先に見えてきた城。あれが「うち」だ。
狩猟用の城であるティリンゲンと、さほど規模は変わらない。だが、フランクの父にとってはこれが本城。シント・マールテンスダイク、つまり「聖マルティヌスの堤」と呼ばれる城だが、これはそのまま地名でもある。「堤」はとても重要だ。洪水を防ぐだけではない。このあたりの土地の多くは、ひとの手で作られている。つまり、堤を築いて干拓した土地。ゼーラントやホラントの地の多くがそうだ。土地を作った人間が、その土地の領主となる。今の領主の直接の先祖が作ったとは限らないが、そういうことにしといたほうが領民は治めやすい。そしてこの堤の保全は、領主の大事な務めでもある。
本城たるこの城のほか、ズイレンに小さな城がひとつ。フランクの父フロリス・ファン・ボールセレはゼーラントでは有力な領主のひとり。だが爵位は持ってない。一応「騎士」位はもっているが、フランク自身もなれるとは限らない。騎士の位は世襲ではない。
だが、「あの子」は当然「騎士」だろう。そして爵位もすでに持ってる。だから普通そっちで呼ばれる。高貴な方は爵位をたくさん持っているから、一番高いやつで呼ばれる。あの子は「トゥーレーヌ公」さまだ。名前は「ジャック」だったっけ。確かJで始まる名前。だけど「ジャック」はそぐわない。王子さまには似合わない。だからあれは偽名だろう。ほんとに好きな本の話は、フランクだって偽名でしたい。いい年した男のくせに物語が大好きなんて、あんまり公言したくない。
だがそれで気に入られた。ひとに言えない共通の趣味。内緒でそれを語る愉しみ。この次は城で話そう。王子さまはそう言った。王子さまが話したいのは「本のこと」だ。自分の蔵書はきっと見せてくれるだろう。絢爛豪華な挿絵のついた、装飾写本。噂に高い『貴婦人の都』はあの子の手元にあるらしい。噂に聞くベリー公の蔵書にだって、あの子ならば手が届く。いつか見られるかもしれない。このつては、とても貴重だ。
にやにやとしているうちに、港に入る。港というより、船着き場と言うべきか。入港するのは城に物資を供給する船。そのほかはニシン漁の漁船くらい。その向こうに見えているのがもう城だ。
「兄さま!」
上陸するなり、妹が駆け寄ってきた。城の窓から海を見てたに違いない。
「船で朝帰りだなんて、いったいどこに行ってらしたの?」
十二歳になったノーラは、最近日ごとに生意気になる。四つも年下だというのが、信じられない。
「兄さま、聞いてる! どこにお出かけだったんですか!」
「内緒」
にやにやを抑えながら、兄が応える。
「あたしに『内緒』が効くと思うの?」
可愛い声でノーラが凄んだ。
「こないだの『あれ』のこと、母さまにお知らせするわよ」
「え?」
「えっと、たしか『デカメロ……」
「おい!」
フランクのにやけた気分は完全にすっとんだ。そいつはまさに「猥本」だ。色っぽいなんてレベルではなく、はっきりといやらしいやつ。タイトルには聞き覚えがあったから、中身も見ずに筆写の依頼を承知した。だけどあのディーツ版は、確かに「見ちゃダメ」なやつ。ページ数はそれほどなくて、最初は簡単だと思った。薄い本一冊写すだけで、手間賃は普通の本の十冊分。もっとも、十冊写すよりも疲れた。だから二度とやりたくはない。これはほんとに本心なんだ。
「だから、あれは」
「母さまが知ったら、卒倒なさるわ」
「あれがなんだかわかるなら、ノーラも『読んだ』ってことじゃないか」
「挿絵がちゃんとあるじゃない」
紅くもならずにノーラが言った。
「読まなくたって、見ればわかるわ。あたし、ほんとにゲンメツしたのよ。尊敬してる兄さまの写字台の上にあんなモノがあるんですもの。しかも、兄さまの『字』!」
もう返す言葉がない。確かにそれはその通り。
タネ本は文字だけなのだが、渡されたのは絵が入った紙だった。手描きじゃなく木版で、挿絵が先に刷ってある。大きく書かれる最初の一文字、AとかOといった頭文字の空白部分もいちいち卑猥な絵が入ってる。確かにひとめで「それ」とわかる。どれもこれも思わせぶりで、話が読みたくなるような絵だ。
テキスト部分は白紙のままで残されていて、そこに筆写を頼まれた。注文を受けたはいいが文字の書き手が見つからない。そりゃそうだろう。写字生はたいがいが修道僧だ。修道院であんなのが見つかったら、それこそ破門ものだろう。
「あれは断れなかったんだ。義理のある写本屋だし、おれは写すの速いからさ。どうしてもって泣きつかれてしょうがなく……」
「ウソ。やらしい本が読みたかっただけのことでしょ」
「だから」
「そんなことより、いったいどこに行ってらしたの? 従者のひとりもつけてないし、行先も言ってない」
母に告げ口されることより、ここで騒いで欲しくない。周囲で働く領民たちが、そろそろ耳をそばだてている。ノーラはそこまで計算している。
「武勇談が聞きたいか?」
わざと声を低くする。
「作り話の色恋じゃなく、フランク兄さまの恋の冒険」
「あら? ずいぶん調子いいじゃない。兄さまとは思えない」
ノーラがまたやり返し、兄に腕を絡ませた。
「聞いてあげるわ。あたしの部屋で」
拉致されるように城に戻り、妹の部屋に上がった。座を占めたのは奥の窓際。張りだした塔の部分で、真下は濠だ。だから声は漏れにくい。そして海が見渡せる。
「で? 行先はティリンゲンでしょ? 伯にはうまくお会いできたの?」
ささやくような詰問に、フランクは両手を上げてしまう。やっぱり「知って」いたわけだ。
「ウィレム伯がお越しだって聞いたから、きっとそうだと思ったの」
「残念ながら、ウィレム伯には会えなかった」
「うそ」
兄の両手をぎゅっと握って、ノーラが見上げる。
「満足そうなお顔してるわ。収穫ナシとは思えない」
「ご不在だった。ハーグの方にお出かけらしい」
「ハーグ? 父さまは、そちらじゃなかった?」
「そうなのか?」
「ウィレム伯からお使いが来て、お出かけになったそうよ。お戻りはたぶん週明けになるとか」
「なるほど」
後から情報が入ったわけだ。あるいは、その可能性を見越して自分で出かけずおれに行かせた。フランクは頭をめぐらす。
「伯とでなければ、誰と会えたの?」
「トゥーレーヌ公」
腹を決めてそう応える。この妹に、隠してもしょうがない。隠すつもりもなかったのだ。ひとが大勢うろうろしているところでは、言いたくなかった。それだけのこと。
「トゥーレーヌ公? つまり、ジャン・ド・フランス? フランスの王子さまってこと?!」
興奮した声を上げられ、慌てて指で制止する。
「大声を出すんじゃない。みっともない」
ノーラはちらりと舌を見せた。
「庭でばったり会ったんだ。菜園に寝っころがって本を読んでた」
「寝っころがって? 王子さまが?」
「おつきのひとの眼を掠めて、って感じだったな」
「で、兄さまのほうはなんで『菜園』なんかに行ったわけ? 正門からお尋ねしたら、裏に回されたってわけなの?」
「いや、それは……」
「それは、じゃないでしょ! コソコソ忍び込むなんて、泥棒みたい」
「こそこそ本を読んでいたのは、ジャックのほうだ」
「『ジャック』?」
「だから、『トゥーレーヌ公』」
「トゥーレーヌ公のお名前は『ジャン』のはずよ。ジャックじゃなくて」
そこでノーラが両手を合わせ、青い眼を見張らせた。
「ってことは、兄さまほんとに『お姫さま』と会ってたんだ!」
「え?」
「会ったのは、『ジャック』なんでしょ?」
「だから、ジャックと名乗った王子さまだよ。あえて偽名にしたのかな。確かにちょっとコソコソしてた。甲冑の胴だけつけた恰好だったし、剣術の稽古でもさぼったのかな」
「つまり、男装のお姫さまね! 素敵!」
大きな青い眼をキラキラさせて、ノーラが叫んだ。
「ウィレム伯のお姫さまよ。みんな『ヤコバ姫』って呼んでいるけど、ほんとの名前は確か『ジャック』よ。フランス語ではジャック・ド・バビエール、オランダ語だとヤコブ・ファン・ベイエレン。ドイツ語だとフォン・バイエルンだけど、家名はウィッテルスバッハよね? フランス王妃イザボーさまと同じだわ」
すらすらとまくしたてられ、「ジャック」のことを思いだす。「ジャック」もこんな感じだった。ボールセレのフロリスの子か? 淀みもせずにすらすらと、あの子も聞いた。あれも、「女の子だから」だったんだろうか。
「だけど、『ジャック』は男の名だろう? ディーツ名が『ヤコブ』なら、女の子じゃありえないよ」
「ウィレム伯は男の子が欲しかったのよ。だから、男の名をつけた。男として育てているとも聞いたけど、それも嘘じゃなかったのね!」
「だけど、『男と結婚』してるぞ」
「お相手は、とってもきれいな王子さまでしょ。実はドレスを着ていたりして」
悪戯っぽくノーラが笑い、「ジャック」のセリフを思い出す。「かれはとてもきれいだよ」たしかにジャックもそう言った。「彼女」じゃなくて「かれ」と言った。言い間違いじゃなかったんだ。
「そっか。男の子だと思ったから、兄さまでも仲よく話せた。女の子だとわかっていたら、緊張して喋れなかった。そうでしょ!」
図星を指されて絶句する。女の子だったんだ。思ったとたん、耳の先まで熱くなった。女の子だったとしたら、あの会話も当然だろう。ランスロットもトリスタンも、女の子なら当然だ。『フロリスとブランシュフルール』だってそう。冒険譚も確かにあるが、比重は「恋」のほうにある。「見かけによらず少女趣味」は、あの子じゃなくてフランクだ。フランクは「少女」ではないのだから。
「で、お姫さまは何の本を読んでいたって? 隠れてコソコソってことは、えっちな本かな?」
「ノーラ!」
「確か、あたしよりひとつ下よね。でも早熟な方だそうだし……」
「つまりノーラもそういうのを読んでるわけか!」
「読むわけないでしょ。あたしは恋愛ものはイヤ。そんなのはつまんない」
「つまんなくはない」
「あたしはほんとの恋がしたいの。つくりもののお話なんて、興味ないわ」
フランクは息をついた。ノーラならばそうかもしれない。ノーラはあまり本を読まない。写してやれば喜ぶけれど、自分で読んでるわけじゃない。
そしてこの妹は、きっと恋をするだろう。兄と違って器量良しだし、利発でもある。条件の良い男を選んで、現実的な恋をしそうだ。王子さまとはいかないまでも、それなりの地位を持った騎士。ノーラなら夢じゃない。結婚話はまだ出ていない。敵味方がころころ変わる現状だから父は慎重になっているし、そんな余裕はないとも言える。幸か不幸か、結婚相手を押し付けてくる面倒な主君もいまだない。ウィレム伯に近づけば、話も変わってくるのだろうけど。
けれど「ジャック」には無理だ。「ほんとの恋」の夢など見れない。五歳にして「人妻」となったあの子には、恋をして結婚なんてもう絶対に考えられない。現実の「夫」が相手でなければ、それは不倫になってしまう。物語の恋に憧れるのも、悲恋ものに惹かれるのも、なんだかわかるような気がする。
「あたしもヤコバ姫に会ってみたいな」
ノーラがぽつんと呟いて、兄は密かにどきりとしていた。