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女伯ジャックと海の騎士 - Keukenhof's Kroniek -  作者: 辰波ゆう
第一章 釣り針の姫   Anno 1411
2/55

1 砂丘の城

                                      Teylingen, HOLLAND


 どこまでも続く浜を、ただ一騎駆けている。

 海に船の姿は見えず、浜には人家も人影もない。ただカモメの声だけが、うるさい砂浜。そして空は晴れ渡り、潮風は心地いい。 


 馬上にいるのは十六歳のフランクだ。身なりは粗末ではないが、派手に飾ってもいない。深く被った帽子には徽章のひとつもついていず、夏の日差しにきらきらするのは額に浮かぶ汗だけだ。


 ほんとにこれでいいんだろうか。

 

 フランクの頭にあるのはまずは身なりのことだった。汚れているわけではないし、質の悪いものでもない。見た目は地味でもしっかりした仕立てだし、生地だって安物ではない。けれどこれは普段着で、城に行ける恰好じゃない。謁見できるなりはしてない。

 気にするなと父は笑った。わざわざ参内するわけじゃなく、ご挨拶に寄るだけだ。たまたまご滞在と伺い、とでも言えば良い。城代はわしを知っとる。お前ならなんとかなる。いつものごとく父はきっぱり言い切って、反論など許さない。

 目指しているのは「ティリンゲン」と呼ばれる城だ。狩猟用の城だそうで、城主はそこには住んでない。今の城主はホラント伯妃、マルグリット・ド・ブルゴーニュ。泣く子も黙るブルゴーニュ公、無畏公閣下の可愛い妹。これは父の「説明」だ。

 もっとも、と父は続けた。可愛いなんて思っているのは無畏公閣下くらいのものだ。あの姫を怖がらないから「無畏公」の綽名がついとる。言って父はにやりと笑った。それは違うと言いかけたフランクに、とんでもないことを命じた。あれが怖くないと言うなら、今からちょっと行って来い。伯がお越しだそうだから、お前が行って挨拶して来い。

 挨拶? おれひとりでですか? 度胆を抜かしたフランクに問答無用と父は応え、豪快に笑って続けた。間違いなく美人だし、お前なら大丈夫だ。

 

 何がどう大丈夫なんだ。


 十六歳のフランクは、心のなかで文句を垂れた。

 彼の父はゼーラントの領主のひとりで、騎士位は一応持っている。ホラント伯の臣下でもあるのだが、寵臣とはとてもいえない。忠臣とはさらに言えない。今のところ反抗はしていないが、今後もそうとは限らない。楯突く気はさらさらないが、そのハメにはなりかねない。このあたりの豪族貴族はふたつに別れ、もうずっと争っている。そしてどちらの陣からも、暗に助力は頼まれている。

 現在のホラント伯はウィレム閣下というひとで、遠くドイツはバイエルンのウィッテルスバッハ家の出身。ドイツ風にお呼びするなら下バイエルン・シュトラウビング公、ヴィルヘルム二世閣下。だが、あの方は「ホラント伯」だ。ホラント伯ウィレム閣下だ。父はハッキリそう言った。称号だけの伯ではなくて、ホラントを統べる方。ホラントだけではない。ゼーラント、エノーもあわせ、ドイツの神聖ローマ皇帝から封されている。そしてこの土地の言葉も、あの方は解される。ディーツの俗語と馬鹿にせず、ホラントを見下さない。あの方は、ハーグ生まれのホラント人だ。


 けれど、伯妃マルグリットさまは違う。明らかにに「フランス人」でディーツなど絶対に話さない。先々代のフランス王の孫だから当然かもしれないが誇り高くていらっしゃる。ホラントよりさらに田舎のゼーラントの騎士の子なんか、虫けらとも思わない。あやしまれればそれで終わりだ。捕まっても不思議じゃない。自ら危険に飛び込んだバカ。誰もがそう笑うだろう。 

 だが父には逆らえない。こわいとも言いたくない。そして父を信じてもいる。父がそう言うのなら、きっとなんとかなるはずだ。フランス語はちゃんと話せる。読んでいる本の半分以上はフランス語で書かれたものだし、読み書きに不自由はない。だからちゃんと話せるはずだ。王族だろうがなんだろうが、ひとには違いないはずだ。自分にそう言い聞かせ、手綱を握る。額にまた汗がにじむ。暑いせいだけじゃない。


 もうずいぶん駆けている。

 左手には鉛色の北海の海、行く手はずっと砂丘が続く。亜麻糸の色を思わすような、わずかに黄みを帯びた砂。そしていくらか草が生えてる。背の高い砂丘の草に、鳥や獣が潜んでる。鷹狩にはうってつけだ。この砂丘で狩られた獲物はあの城で供される。森で採れる木の実やハーブも厨房へと運ばれる。だから厨房の庭、キューケンホフと呼ばれている。そう聞いていたはずなのだが、「森」はどこにあるんだろう。砂丘の上のほうを見ると、いくらかしょぼしょぼ灌木が生えている。まさかあれが「森」なのか? それとも何か見逃したのか?

 馬をそっちに向けてみる。「木の実」を思い出したことで、なんだか小腹も減ってくる。この季節なら、スグリか何か熟れているんじゃないだろうか。みずみずしい赤い果実を思いだし、生唾がわいてくる。うるさいのはあいかわらずカモメだけで、ひとの姿は全く見えない。


 馬から降りて灌木の幹に繋ぐ。砂丘の上まで登っていくと、ようやく城が見えてきた。こちら側には濠はどうやらないらしく、ただひたすら壁が見える。無愛想な城壁が視界をさえぎり、城の塔の頂上だけがいくらか顔を覗かせている。想像とはずいぶん違う、無骨な城だ。フランクのうちだって一応「城」で、それとそんなにかわらない。圧倒的に違うのは周囲の敷地の広さだろうが、ハッキリ境があるわけじゃない。

 その城壁から砂丘に向かって確かにいくらか「木」も生えている。まだ青い実をつけたさくらんぼの木に、くるみの若木。りんごの木らしきものもあるが、なんだか妙にひょろひょろしている。森というより植えられた木で、しかもうまく育っていない。潮風が強すぎるのか、砂地の土壌が適さないのか。干拓地の植栽は、試行錯誤がつきものだ。ゼーラントもそれは同じだ。砂地に育つ果物の木は、なんだっただろう。修道院で眼にした本を思い出す。あそこにあった分厚い本ならなんか書いてあるはずだ。


 そこでパサリと音がした。つまり本をめくる音。だが、こんなところで?

 空耳かと疑いながらも音のほうを見てみると、小規模だが菜園がある。野菜がいくらか植えられている片隅に、大きな葉が茂ってる。何の葉だがわからないが、ずいぶんと大きな葉っぱだ。小さな子なら雨宿りができそうだ。その一枚が揺れている。風のせいとは思えない。葉陰にきっと何かいる。

 近づいてみて驚いた。緑色の葉の下に、妙なものが突き出している。うさぎの尻尾ではなくて、小さな足だ。妖精みたいに小さな足は、きちんと靴を履いている。素足でもなく木靴でもなく、可愛い革の靴を履いてる。


「誰だ」


 子どもの声が厳しく咎めた。土地の言葉、ディーツ語だ。


「邪魔するなと言ったはずだ」


 そしてまた音がする。ページをめくる軽い音。言葉では咎めたくせに、次のページをくっている。つまり本に没頭している? 

 フランクは興味をかられ、足を進めた。こんなところで本を読んでる。夢中になって読み耽ってる。ディーツ語を話すんだから、土地のものだ。使用人とも思えないが、ありえなくもないだろう。文字を覚えることさえできれば本は読める。「本」さえ手に入るなら、誰にでも本は読める。伯妃さまのお城なら、蔵書は当然あるだろう。けれど貸してはくれないだろう。だからこっそり持ち出して、ここで隠れて読んでいるのか? 履いている靴からしても、下働きじゃないだろう。城代の子か何かだろうか。

 

「邪魔してすまない。畑のものはいないのかな?」

「うるさいから追い出した」

 きっぱり応えた子どもの姿に、フランクは息を呑んだ。金色に輝いている。

「邪魔をするなとわたしは言った。本はひとりで静かに読みたい」

 尖らせた唇は、ほんのりと紅くて可愛い。見上げる瞳は空と同じ色をしていて、とても強く輝いている。確かに咎める眼付きだが、咎めているのは「侵入」ではない。そして、「鎧」をつけている。金色の甲冑の、「胴」だけ身につけている。


「全部つけると邪魔だったから、胴だけにした」

 いぶかる視線に、言い訳じみた口調で応える。 

「がちゃがちゃ音がうるさいだろう? 本はひとりで静かに読みたい」


 そこはわかる。着甲の騎士が動くと、金属音が耳につく。そして確かに本を持ってる。膝の上に開かれた本。革ではなく布の装丁。留め金もついてはいるが、高価な飾りはついてない。実用的な並品だ。開かれたままのページも羊皮紙ではなく安価な紙で、見たところ装飾はない。色つきの挿絵どころか、文頭の頭文字(イニシャル)さえ飾られてない。この程度の本ならば、フランクでも買えなくはない。

 筆跡も巧いとは言いがたいが、はっきりしていて読み易い。丁寧すぎてしゃちほこばった感じだが、新米の写字生の仕事だろうか。開かれた本の文面に、思わず嬉しくなってしまう。ディーツ語の本じゃないか! それにこれは良く知っている。この話の冒頭ならば暗唱できる。自分の言葉に直してならば、全編だって語れるだろう。なんたって、一番最初に「書いた」のだから。


「それはおれもひとりで読みたい」

「え?」

 子どもが眼を丸くして、フランクは紅くなった。突然何を言いだすんだ。

「おまえ、これが何かわかるのか? しかもちらっと見ただけで?」

「それは、まあ」

 つい言葉を濁してしまう。  

「ならタイトルを言ってみろ」

「『フロリスとブランシュフルール』。オリジナルも悪くないが、この翻訳は文体がより流麗で美しい。女の子たちにとても人気で」 

 言いかけてまた紅くなる。フランクは、「女の子」じゃない。

 この話は女の子たちにとても人気だ。この本を読んでいると、読んでくれと誰かがせがむ。声に出して読んでやると、城中の女の子たちが集まってくる。恥ずかしくてしょうがない。そしてあとからたっぷりと、男たちにからかわれる。

「実は、父の名がフロリスなんだ」

 焦りのあまり口走り、さらに慌てる。そんなのどうでもいいじゃないか。だが少年の眼が色を変えた。フランクの姿をあらためて観察し、ぼそりと呟く。

「そう言えば、赤毛だな」

「え?」

 言われて帽子に手をやった。念を入れて押し込んだはずの髪が、いくらかこぼれてはねている。クセの強い彼の髪は赤茶けた色をしていて、あんまりひとに見られたくない。

「赤毛のフロリス、ボールセレのフロリスの子か?」

 このセリフに完全に絶句した。

「つまり、鱈党貴族が様子をさぐりに来たってわけだ」

 少年は本を閉じて、自信ありげにニヤっと笑った。

「アタリだろう?」

 まじまじと子どもを見つめる。大当たり。

 

 このあたりの貴族たちは「カベリヤウ」党と「釣り針フック」党のふたつに別れ、ずっと前から対立している。ただにらみ合うだけじゃなく、もうはっきり戦争だ。できることなら関わりたくないのだが、下手に動けば双方から攻撃される。父は態度をはっきりしないが、鱈党からの接触はかなりしつこい。伯のほうは釣り針党だ。豊かに肥え太った鱈を、釣り上げて食おうとしている。北のアルケルという鱈は、今まさに食われる寸前。もしかして、それもこの子は承知なのか?


「伯がこちらと聞きおよび、御挨拶に伺いました。ホラント伯ウィレムさまの臣下、シント・マールテンスダイクとズイレンの領主フロリスの子、フランク・ファン・ボールセレと申します。貴方は?」


 無意識に、敬語になってる。これはただの子どもではない。城代の子ではありえない。城代の子が、甲冑など着るはずもない。


「ジャック」


 少年は短く応え、にっと笑った。きつい感じの目鼻立ちだが、笑うと妙に愛らしい。

「フランスの王家とも、ドイツ神聖ローマ皇帝とも繋がる血筋だ。おまえなぞとは格が違うな」

 可愛い顔で生意気なことを言うが、確かにこれは格が違う。

「だけど今は『ジャック』でいい。わたしは今ひとりだし、しばらくは誰も来ない。わたしが合図しない限り」

 合図すれば兵隊が来る。これもいたって当然だ。

「誰も来るなとわたしが命じた。だから来ない」

 言い切った子どもの声には、何か不思議な威厳があった。逆らうことなど叶わぬような、妙な威圧。

「本はひとりで静かに読みたい」

 そしてまたにっと笑った。うそのように威圧が消えて、無垢な子どもの顔になる。

「わたしもおまえに同感だ。これはとても『りゅうれい』で、わくわくする」

「え?」

「でもちょっと『りゅうれい』すぎて、わかんないとこがあるんだ」

 小さな手がすっと伸び、フランクの手をぐいと引いた。強引に横に座らせ、さっき閉じた本をめくる。

「先生はディーツは知らない。ラテン語とフランス語は知っているけど、ディーツは全然わかんない。ディーツは下賤なものの言葉で、読むものなんかないって言った。この本も読んじゃダメってとりあげたんだ。自分では、全然読めもしないくせに」

 ディーツ語で書かれた本は確かにあまり多くない。物語の本ときたら、とても少ない。だからこそ。

「『フロリスとブランシュフルール』は、つまりこのディーツ版は、もちろん読む価値のあるものです。フランドル伯の宮廷で、伯妃さまのご先祖さまのもとで訳されたものと聞いています。フランス語はわからなくても、聞く耳のあるもののために。無粋なものにはそぐわない、下品なものにはそぐわないって、冒頭にもあったでしょう? それを下賤だなんて言ったら、先生の首が飛びませんか?」

「最初のとこ、そういう意味なの? あそこもよくわかんなかった。でも音はとてもきれいだ」

 子どもの顔がはっきり輝く。

「フランス語が読めなくたって、バカだとは限らない。フランス語はわかっても、聞く耳がないひともたくさんいます」

「聞く耳?」

「物語の語るもの。繊細なひとの心。そういうものを、聞き取れる耳」 

「わたしもそれが足らないのかな。どうしても、わからない」 

 ページをめくる手をとめて、指差した。

「ここ、どういう意味?」

 示された箇所を見て、フランクは真赤になった。婉曲に書いてあるが、そこはそういうことだろう。主人公のフロリス王子は冒険の果て、奴隷に売られた恋人を見つけ出す。愛する姫が幽閉されたハーレムの塔をつきとめて、知恵を絞って忍び込む。そしてついに、ベッドにまでもぐりこむ。指されているのはそのシーン。ベッドのなかでキスをして抱き合って、のその次だ。


「ベッドのなかで、ふたりはなんかするんだよね?」

 青い瞳が無邪気に見上げ、返事に窮する。

「ただ一緒に寝るだけじゃ、ないんだよね?」

「寝るだけじゃないと思う」

 眠るだけのはずがない。 

「つまり、『コンスマキウム』ってこと?」

 難しいラテン語が飛び出してきた。

「わたしはまだしてないんだ」

「え?」

 この子はまだかなり幼い。せいぜい十かそこらだろう。「コンスマキウム」はまだ絶対に不可能だろう。

「もう五年結婚している。だけどまだやってない」

 

 もう五年「結婚」している? 


 改めて子どもを見つめる。どう見ても十歳は超えてない。フランクくらいの小貴族でも、結婚はたいがいが「政略」だ。だがこの歳ではさすがに早い。「婚約」はさせるにしても、「結婚」は待つだろう。幼児に「結婚」させるのは、確かに王族くらいのものだ。

 そこでようやく思い出す。つまりこの子は「王子さま」か? ホラント伯のひとり娘も、確か五歳で「結婚」している。相手はフランスの王子さまで、似たような年だったはず。母上たる王妃さまはドイツ皇帝に繋がる血筋。そして伯の手元にいるはず。フランス王家の宮廷じゃなく、「結婚したあと」ずっとこちらでお育ちのはず。そしてここでようやく気付く。つけている金の鎧に三つのユリの紋がある。まごうことなくフランスの、王家の紋章。


「おとなになったら、改めて『コンスマキウム』の式を挙げる。一緒に寝たことくらいあるよ。口にキスもしたことあるし。でも、それだけじゃないんだよね?」

「それだけじゃない」

「『フロリス』は、ここで凄く焦ってる。ほかの男とそれをしたら、もう好きじゃなくなっちゃうの?」

「本当に好きだったら、そんなことはないと思うよ」

 たじろぎながらそう応えた。フランクもよくわからない。フランクもまだ十六で、経験はない。年よりさらに奥手でもある。

「わたしはかれがほんとに好きだよ。静かで優しくて、とてもキレイだ」

 なんかちょっと複雑だ。押し付けられた相手でも、好きになれれば幸せだ。フランクはまだ経験がない。誰かを好きになったことすら。

「賢い子だから、ベリー公もお気に入りだ。この甲冑もベリー公から」

「ベリー公?」

 その名に耳がそばだった。

先代のフランス王の弟であるベリー公は、兄をも超えた書痴で有名。蔵書の多くは絢爛豪華な挿絵をつけさせ、装丁も贅を極める。そう話に聞いてはいるが、見たことはもちろんない。

「ベリー公って、あのベリー公?」

「どの『ベリー公』なんだ?」

 王子さまがにやにやとした。

「『いとも豪華なる時祷書』の?」

「そう」

 あっさり答え、王子さまはまた笑った。

「フランクは、よほど『本』が好きなんだな。『ベリー公』であれを思い出すなんて」

「装飾写本に興味があります」

 思わず真剣な声になった。ベリー公のコレクションは有名で、フランクはとても興味がある。いつかこの眼で拝んでみたい。それが密かなフランクの夢。

「リンブルフの兄弟が描いたものは、それは素晴らしいそうですね?」

「わたしはよくわからない」

「まさに宝石。そう聞きました」

「絵のついた時祷書は、どれもとてもキレイだよ。金はぴかぴかしているし、色だってまさに宝石だ。あの色は、宝石砕いてつくるんだろう?」

「まるで魔法のように見えます」

「見たことあるのか? つまり、描いているとこ」

「あります」

「ほんとに?」

 子どもの眼が輝いた。

「写本工房に知り合いがいる」

「見たい! もしかして、フランクも絵が描けるの?」

「絵はおれは描けないが、写字のほうなら」

「写字?」

「つまり、本文のテキストを書き写す。実を言うと、これは一冊おれも『書いた』」

「え?」

「つまり、一冊まるごと写したんです。妹が欲しがっていたから、ひとから借りて写してやった」

 ボールセレ一族はゼーラントでは名の知れた豪族で、貧乏ではけしてない。けれど「本」はそうそう買えない。ちゃんとした獣皮紙のものなんか、絶対ムリだ。仔牛のよりはいくらか手頃な羊皮紙だって、一冊の本を作るためには何十頭もの羊がいるのだ。おそろしく値段が張るのはしょうがない。だが「紙」ならうちにある。帳簿なんかに使うために、いつも仕入れて置いてある。古布パルプから作った紙は、獣皮紙よりはずっと安い。だからそれに、自分の手で書いてみた。それがどれほど手間なのか、どれほどの苦行なのか、自分で試してみたかった。

 確かにそれは手間ではあったが、フランクには愉しかった。「写す」という名目で、書物に深く触れられる。男が読み耽るには、恥ずかしい恋の話。その世界に耽溺できる。「妹のために」はウソじゃないが、「欲しかった」のはフランクだ。写した本を読みこんでるのも妹じゃなくフランクだ。

 この本を写したのはもう三年ほど前の話だ。興味がある本だったから、妹をダシにして借りた。一文字一文字書き写していくうちに、本気で夢中になっていた。書き上げた手稿は知り合いの写本絵師が文頭の一文字だけに、絵を入れて飾ってくれた。それだけで、頁がぐんと華やいだ。金があるなら彩飾挿絵も頼めるし、枠外だって絵を入れて飾って貰える。妹に贈ったあの本は、そこまではできてない。それでもとてもわくわくとした。自分の手で写した頁が、綴じられて本になる。幼かった妹もとても喜び、だからやみつきにもなった。


「おまえ、実はヒマ人なんだな」

 子どもが呆れた顔をしている。

「読むだけでもヒマが要るのに、わざわざ自分で写すなんて」

「書写すれば頭に入りますからね」

 頭に中身を叩き込んだら、写した手稿は大抵金に換えてしまう。借りるにも金がかかるが、写して売れば儲けすらでる。そうやってフランクは「読書」してきた。綴じて手元におけるものならそのほうがいい。けれどそんな財力はない。今はまだ。

「そうか」

 子どもはちょっと息をついた。

「貧乏だと、そうしないと読めないんだ」

 思わずムっとしてしまう。

「貴方とは、確かに身分が違いますから」

「だけどちゃんと本を読んでる。わたしは確かにたくさん持ってる。きらきらに装飾されたやつをいっぱい。だけどちゃんとは読めてない。時祷書とか、『貴婦人の都』とか」

「『貴婦人の都』? ピザンのですか?」

「うん。クリスティーヌ・ド・ピザンのやつ」

「装飾入りの? 王太子妃殿下のために書かれた、あれ?」

「よく知ってるな。そう。義姉上のために書かれた本」

 そうだ。この子の兄上がフランスの王太子さまなんだ。そして。

「あの装飾も有名です。素晴らしい絵だそうですね」

 内心涎が垂れそうになる。子どもはそれには応えない。

「じゃあ、『カトーの本』は?」

「ラテン語の勉強にはいい本だと思います」

「『トビアス』は?」

 改めて子どもを見つめた。『貴婦人の都』は読んでいないが、あれもたしか教訓本だ。

「そのへんはどれも『教科書』ですよね。でも、もっと面白いのもあるでしょう? 円卓の騎士の話とか」

 子どもの目がまた強く輝く。

「騎士物語は大好きだ。アーサー王はちょっとおじさん臭いけど」

 思わず吹き出しそうになる。

「若いのがお好きなら、パーシファルってとこですか?」 

「パーシファルは若いけど、坊さん臭くて好きじゃない」

 確かにそれもそうかもしれない。聖杯探求は冒険譚としては面白いが、確かに抹香臭い話だ。キリストの血を受けた杯なんか、フランクも興味ない。修道院に入り浸るのは本が読みたいからであって、お祈りしたいわけじゃない。

「わたしはトリスタンの話が好きだ。トーナメントのあたりとか」

「あ、あれはおれも好きです」 

「うん。トリスタンが勝ち抜いてくとこ、わくわくする。好きな姫を得るために、ってとってもロマンチックだよね」

「意中の姫のために闘う。騎士物語の王道だ」

 思わず溜息つきそうになる。

「フランクも、やってみたい?」

「やってみたいな」

 無邪気な問いにうっかり応え、フランクはまた紅くなった。いつの日にか騎士になり、素敵な姫を賭けて闘う。トーナメントに勝ち抜いて、姫の心を勝ち取るんだ。口に出せば笑われるけど、心の底では夢に見ている。フランクも「騎士の子」だ。

「当然だよね」

 真顔で返され、焦ってしまう。この子の歳なら可愛いセリフも、十六歳では恥ずかしい。騎士物語は御伽話だ。さっさと卒業してしまえ。

「だけど、トリスタンには得られなかった。大好きなイゾルデ姫は、彼のものにはならなかった」

 夢見るように、子どもが続ける。あのあたりはおれも好きだ。騎士としての義務を選び、恋心を押し殺す。

「トリスタンは『代理』だった。意地悪な設定だな」

「うん。姫のほうはドキドキしていた。姫は勝者のものになるんだ。トリスタンが負けてしまえば、違う男のものにされちゃう。だけどちゃんと勝ち抜いていく。姫の期待にちゃんと応えて、トリスタンは勝ち抜いていく。何度読んでもわくわくする。だけど」

 子どもの語るあらすじに、フランクが先を続ける。

「トリスタンは、恩人である王のために闘っていた。勝ち取った姫君は、王の妃になる約束。騎士であるトリスタンにこの約束は破れない。だから一度は諦める。けれど忘れられなかった。引き裂かれた恋人たちは、最期には結ばれる。墓に芽吹いて絡みあい、綺麗な薔薇の花を咲かせる」

「あれは結ばれているんだよね?」

「おれはそう思います」 

「良かった」

 嬉しそうに子どもが笑い、フランクも嬉しくなった。

「そのバージョンがおれも好きです」

「バージョン?」

「写本によってちょっとずつ話が違う。トーナメントの部分だって、全然ない本だってある。だけど今のがおれも好きです。とてもロマンチックだし、それにきれいな終わり方だ」

「うん」

 子どもがなんだかしんみりとしてしまって、フランクはちょっと慌てた。これも子ども向きじゃない。男が語る話でもない。 

「じゃあ、アレキサンダー大王の話は?」

「それはまだ読んでない。持ってるけど」

「海底探検とかわくわくしました」

「かいてい? 海に潜るの?」

「そう。特別な仕掛けを作って、海の底の探検をする」

「ランスロットと王妃の話は?」

 まじまじと子どもを眺める。トリスタンにランスロット? 探検ものより悲恋ものが好きなのか? この子、見かけによらず少女趣味だな。

「恋の話がお好きですか?」

「悪いか」

 つんと口を尖らせて、横を向いた。白い頬がハッキリと上気して、耳たぶまで赤くなってる。その紅色にどきんとし、そして思わず笑い出した。

「実はおれもとても好きです。冒険ものも嫌いじゃないが、恋が絡むとより面白い。男のくせにって妹には笑われるけど、『トリスタン』も『ランスロット』も大好きですよ」

「ほんとに?」

 子どものほうも笑みを返した。

「わたしもジャンに笑われた。だけど、好きなものはしょうがない。フランクとは気が合うな」

 子どもは言って立ち上がった。

「だけど、わたしはそろそろ行かなきゃ。ハーグで伯がお待ちなんだ」

「伯はこちらじゃないんですか?」

「ここに来たのはわたしと供のものだけだ。伯にはわたしからうまく言っとく。次は城でゆっくり話そう。だけど、今のことは誰にも言うなよ」

「え?」

「おまえ、偵察に来たんだろうが。バレたらその首ないと思え」

 愉しそうにジャックは言って、そしてくるりと踵を返した。城に向かって駆け出すさまはあまりにも子どもらしく、最後のセリフと似合わない。

 その背には、ゆるく波打つ亜麻色の髪。色の薄い金髪は、砂丘の色を思わせる。けれどこれは金の色だ。砂ではなくて、高貴な金の輝きだ。無造作にくくられた金の房がきらきらしながら、鎧の背に跳ねている。その髪がずいぶんと長いことに、フランクはようやく気づいた。






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