【改訂前】公爵令嬢は手折れない
「一体……今のは……?」
空は星空が散りばめられており、お天道様がお休みになっている時間。良い子も悪い子も眠り、良い大人も大方は眠っているような深夜。起きているとしたら悪い大人位のもの。
深まった夜ともなると下町は寝静まり殆どの明かりは消え、貴族街も魔法云々を働かせた街灯の灯りのみでに暗く静かである。
そんな深夜に眼を覚まし、異常とも言える量の脂汗を流しているのはとある小国の公爵家令嬢スフレーリア。
動悸息切れは激しく、ともすれば今にこそ倒れてしまいそうになるほどに頭の中は混乱している。質の良いネグリジェは汗で肌にしとりと張り付いていて気持ちが悪い。
「とりあえず落ち着かなくてはいけませんね……」
取り乱して大声を上げたくなるほどの混乱にはあるが、そこは公爵令嬢。
常に落ち着き払うようにと、外聞を気にしすぎる貴族社会にいつ出ても問題ないように常々教育を施されてきた。
深呼吸を数度つき、水差しの中の水を華美な意匠の凝らされたカップへと注ぎゆっくりと飲み干す。
こくりこくりと細い喉をならし水を流しこむと、混乱の所為で火照った身体の熱が僅かに下がる。
水を飲むというワンアクションを置いたためか先ほどよりも幾分かは普段の落ち着きを取り戻した。
取り戻したということで周囲に眼を向ける。
「いつも通りの私の部屋、で違いありませんわね」
天蓋つきのベッドのヴェールの向こうには豪華な家具や、貴重な芸術品の数々が飾られているのが薄らと見える。頼んで部屋へと置いてもらった大きなピアノもいつも通り。ピアノを置いても尚広々とした一室を与えられているというのは、公爵令嬢という立場を再確認させるに十分。
きっと枕元にある呼び鈴を振れば今すぐにでも召使なりが飛んでくること間違いない。
「主の示した啓示、でしょうか……けれど、それにしては意図がわかりませんわ」
何故スフレーリアが異常なほどに取り乱しているのか、理由は単純でおかしな夢を見たからというありふれたものであった。
だが、夢というには余りにも精巧すぎて、感覚も感情も異常なほど鮮明に記憶と心に焼き付けられていた。普段は取り乱すことの少ない落ち着き払ったスフレーリアでさえ混乱してしまうほど。
「先の予知夢? 啓示? ……この際どちらでも構いませんわね」
夢の内容は現実的すぎるまでの未来予想図であった。
内容は濃いと言う他なく、沢山の出来事が思い出すのも難しいくらいに詰まっている。
あえて大雑把に纏めるのならばとある男爵令嬢がその素直で実直な性格でもってスフレーリアの婚約者である第一王子や騎士団長の息子、教皇代理の子息等を知らずのうちに魅了している。
それが気に入らなくて、陰湿な嫌がらせや男爵令嬢の家に対する圧力をかけまくっていたのがスフレーリア。
よくある勧善懲悪の物語と同じように、最後にはスフレーリアの嫌がらせや家柄を利用した私情による男爵家へのちょっかいと言う悪事が見つかり、婚約破棄。
以降、貴族として瑕を負ってしまったスフレーリアは大人しくなり、男爵令嬢ことシエラの側には、彼女を慕う王子等々が側にいて平和に過ごしました。
と、言った自身の悲惨な将来を夢に見てしまったのだ。
「はぁ……まさか、私がこのような厄介な性分を持ち合わせていたなんて思っても見ませんでしたわ。だからこそ、先の夢のような失敗をしてしまうのでしょうね」
思わずぶつくさと独り言をつく。
婚約破棄されただけで済んだのは一重に公爵令嬢という立場があったお陰に違いない。王子ほどの相手とは言わないが結婚相手には事欠かないだろう。それだけの知識と容姿は兼ね備えている自負がある。
だが、重要なのはソコではない。婚約破棄を王子から言い渡されるというのが小事に思えてくるほどの事に気付いてしまった。
シエラに嫌がらせをしていたのは王子と仲を深め、その上他の人間達にもちやほやされている故の嫉妬だとずっと思っていた。もし、夢を見なければ今でさえそう思って疑わなかっただろう。
けれど、夢で感じた将来の可能性を垣間見た時に、婚約破棄を学院の生徒達の前で言い渡されたときに終ぞ気付いてしまったのだ。
「私、シエラさんの事が好きだったんですのね……」
そう、婚約破棄という物語の終局において、やっとこさ自身の本当の感情に気付いてしまったのだ。
あれほど固執していた王子からの婚約破棄がさしてダメージはなく、王子とシエラが手を繋いだ時に狂いそうになるほどに胸が痛み、やっと気付いたのだ。
真に固執していたのは、王子ではなくシエラだったということに。
事件の影響でスフレーリアが大人しく学院生活を過ごしたと、第三者なら思うだろうが本人からすると少し違う。
気付くのに遅すぎた自身の感情、地位なんてどうしようもないほどの性別の壁や行き過ぎてしまった嫌がらせの数々。
嫌われていてもいいから、せめてシエラを見ていたいと学院を去ることも出来なかった半端者だっただけ。
「何故、私が王子や他の殿方には一切触れずにシエラさんばかりに構っていたのか……そういうことだったのね」
そこそこに聡明と評価されているスフレーリアなのだ。
周りの騎士団長の子息や王子に言い募ったり、真っ当な手段をとっていれば少なくとも婚約破棄といった最悪の事態にはならなかっただろう。にも関わらず、シエラばかりに構うのかが自身にも理解できなかった。
王子に接触されるのが気に入らないという嫉妬心だと思い込んでいた。だが、蓋を開けてみればこれである。
「気付くわけがありませんわ……!」
会話に上がることさえ早々ない、同性に対する恋愛感情。
タブーとされているからか、その感情をそうと気付かずに、好きな子を取られたくがないために、その本人を傷つけていたとはなんと愚かしいのか。
「いえ、今は傷つけてしまったことを悔やむよりも、その傷を私自身の手で癒して償わなければなりませんね」
現に、シエラに対して嫌味や棘のある言葉を言ってしまったが、まだ権力を振り回したりはしていない。
気付くのが遅く、既に過ちを犯してしまってはいるが取り返しがつかない状況でもないはず。
神か、それとも未来の自分か、或いは前世か。理由や原理はわからないが、自身の感情の正体を教えてくれた夢。それを知ったこの瞬間、引くという選択肢はスフレーリアにはなかった。
きっとこのまま行けば後悔を一生引きずった人生を歩くことだろう。シエラは幸せだとしてもその横に居るのが自分ではないと思うだけで胸が張り裂けそう。
「決めましたわ。この思いをシエラさんに伝えてみせましょう!」
胸にあった蟠りは全て消え、本当の感情を知った恋する乙女のパワーは無限大だ。
あの手この手を正々堂々と尽くして、誰にも文句を言わせないほどのハッピーエンドを掴み取ってみせる。例え障害が多かろうとも、それすらも踏破して見せよう。
そう覚悟を決め、出来のいい頭を全力で働かせる。
「お嬢様! どうされました!?」
とりあえずは、大声を聞いて飛び込んできたメイドにどう言い訳をするか、それが喫緊の問題であることだけは疑いようもなかった。
「うぅ……導師様、何でこんな大事なものを忘れていってしまったのでしょう……」
あどけなさの残る少女は一人、日の沈んだ街中。誰が見ても上質な生地を使っているであろうことがわかる制服を身に纏い夜の貴族街を一人で歩いていた。
男爵令嬢として両親からの愛をこれでもかというほどに受け、素直に礼儀正しく、真っ直ぐに育ったシエラ・リアルート。
貴族とは言っても末端中の末端であるリアルート家は非常に小さく、両親は年がら年中平民の商人の方々と忙しく働いている。
貴族街なので下町と比べて圧倒的に安全とは言えど、召使いの一人も傍に居ないというのは年頃の少女を不安にさせるに足る材料であった。
「こんなことなら誰かについて来て……ううん、聖典を忘れたなんて導師さまも知られたくないはずよね」
導師はのんびりとしている柔らかな目元が印象的な、この国の教皇代理のご子息さまであり、将来のために導師として日々研鑽を積んでいるお方。
人の縁とは奇妙なもので、木っ端貴族のシエラが導師のほかに、王子や次期騎士団長とも言える方と親しくなれるとは夢にも思わなかった。
無論、それを快く思わない人たちも居るのは当然の反応だとも思う。
その筆頭がスフレーリア公爵令嬢様だ。
貴族院の中でも飛びぬけた美貌と聡明さを持っていて同性であってもその瞳に引き込まれそうになる。銀糸の髪の前ではどんな上等な布で作られたドレスも、宝石を散りばめたティアラでさえも霞むと評されるほど。
そんな公爵令嬢の婚約者の隣に突然現れて親しくしている女が居れば当然良い感情は抱かないだろう。
決して暴力等には手を染めては居ないが、公爵令嬢の棘と皮肉を十二分に含んだ物言いはシエラを傷つけるには十分だった。。
公爵令嬢から疎まれているとなると、他の学院の生徒もシエラからは距離を置き、それを不憫に思った王子や導師達が気遣ってくれて更に他から疎まれるという悪循環。
「とりあえず、聖典を届けたらすぐに帰りましょう。そうしましょう」
どこか抜けたところのある導師に聖典を届け、夜がこれ以上深まる前に家に帰ろうと決意。そうでなければ夜の暗闇に脚が竦んで動けなくなりそうだった。
貴族街にある立派な教会へと到着。
表の大きな扉のある教会は生活スペースではないが故に導師はいないだろうと思ったが、いきなり裏に回ってお邪魔するのも失礼だと思い、うんうんとさんざん悩んだ結果、教会の聖堂にいなかったら裏に回ろうと扉をゆっくりと潜った。
「ふわぁ……」
静かで人の気配はせず、ただ天窓を通して星と月明かりだけが照らす聖堂内は豪く幻想的で思わず息を呑んでしまい感嘆の溜息が零れた。
空気すらも荘厳であり、静けさと相まってこの聖堂内だけ別世界のようですらあった。
「どなたかしら?」
ゆたりと聖堂内を見回しながら歩いていると、急に声をかけられてしまいビクりと跳ね上がってしまう。
誰も居なかったと思い込んでた故に第三者の声に動揺を隠せないシエラ。
「え、えっと、わた、私は……」
「落ち着きなさい、主が見ていらっしゃるわよ」
僅かの濁りも感じさせない綺麗な声に窘められて深呼吸を一つして、聖堂の奥に佇む人影を見つめる。
「ぁ……」
目線が目の前の光景に吸い込まれてしまい、頭の中にあった混乱の全てがどこへなりと消える。
心の内から感動ともよべる情のうねりが湧き、映る彼女に惹き付けられていた。
月明かりをそのまま吸い込んでしまったかのような銀糸の髪を揺らし、真白な透き通るような肌は薄暗いというのにも映えていて清楚さと妖艶さが同居していた。
その上、誰も居ない聖堂内という神聖な空気が彼女と自分を包み込んでいて物語の中に迷い込んでしまったかのように錯覚してしまう。
「綺麗……」
自分にも聞こえるか怪しいほどの声での呟きは当然、彼女に届きはしなかった。
シエラは此処に来た目的も頭から飛んでしまうほどに、その眼に映る幻想的な彼女に見惚れてしまっていた。
「貴女、シエラさん?」
「は、はい!」
名前を呼ばれたことで、意識は急速に現実へと引き戻されて現状を理解しようと働かせる。
目の前に居る彼女は、シエラのよく知る……否、知らない者は貴族学院には誰一人いないだろうスフレーリア公爵令嬢、その人だった。
スフレーリア様だと気付くと、サァと頭の芯の部分が冷えていくのを感じる。こんな所でシエラのことを疎ましく思っている彼女に出会ってしまったのだ。
何より、手には聖典。下手をしたら盗んだかのようにも見えてしまう。
「そ、そのこれは導師様が……!」
咄嗟に事情を説明しようとするも、想定していなかった人物の登場に動揺して上手く言葉に表すことが出来ない。
「そう、あのお方も時々抜けたところがあるものね」
「へ、あ、はい」
盗んだのではと嫌味たっぷりに糾弾されるつもりでいたが、帰ってきた言葉は正反対ともいえるほどに柔らかくて拍子抜け。
唖然としているシエラを見つめた後、視線を逸らし天窓を見つめるスフレーリア様の目元は僅かに赤らんでいるように見えた。
「これも主がきっかけを与えてくれたのかも知れませんわ……」
そう、呟くスフレーリア様の真意は解らず、ただただ黙って綺麗な彼女を見つめることしか出なかった。
呟いた後にシエラを見つめるスフレーリア様の眼はこれまで見たことのないほど真っ直ぐで、ずっと見つめていると吸い込まれそうだというのに目が離せない。目の前の彼女が人々を魅了する魔女だと言われても納得してしまいそうになるほどに惹かれている。
「シエラさん、私のお話を聞いてくださるかしら?」
宝石のようなその瞳に魅入られてしまったシエラにはとてもじゃないが真剣に此方を見つめるスフレーリア様の申し出を断るなんてことは出来なかった。
予定通りに事が運んだとはいえ、異常ともいえる緊張がスフレーリアを包む。
夢で見た未来では、聖典を届けるシエラを偶然にも見かけたスフレーリアが盗んだのではと疑い、そこからシエラに対する当たりが過激になっていった。
だが、それを利用して当たって砕けろ、せめて誤解が解ければよしと一世一代の告白をすると心に決めた。
雰囲気を演出するのに夜の教会内の聖堂というのはこれ以上なく告白に適しているだろう。現に、聖堂内に入ってきたシエラは独特な空気に息を呑んでいた。
正確にいつ訪れると判っていなかったので二週間ほど前からずっと夜の聖堂を貸しきって祈りと懺悔を捧げていた。
シエラに行った冷たい行いに対する後悔と、許されないとわかってはいても抑え切れない感情を少しでも鎮めるために毎日人のいなくなった聖堂へと訪れて一人で傅いていたのだ。
そうして遂に、シエラが訪れてきてしまった。
来て欲しいと願う反面、出来るだけ先延ばしにして欲しいという弱気な気持ちとの板ばさみになりながら過ごした二週間。それがどういう形になるかわからないが終わる時がきてしまった。
ならばこそ、悔いがないように精一杯気持ちを伝えたい。
伝えられないままに不戦敗だなんて主が許そうとも、自身が許せないだろうから。
「まず最初に謝らせてくださらないかしら」
「えっと、何をでしょうか……?」
眼を丸くしているシエラ。普段のスフレーリアの対応を知っているが故に、今の態度に驚きを隠せていないのが判る。
「私が貴女に言った皮肉や嫌味の数々についてですわ」
はとが豆鉄砲を喰らったかのようとは正に今のシエラのことを言うのであろう。驚きで言葉にならないのか口をパクパクと動かしている。
「私は公爵令嬢という立場に関わらず、貴女には幾度も心無い酷い言葉を言ってしまいました。その事をずっと謝りたかったのです」
「ごめんなさい」
謝罪の言葉と共に深く頭を下げる。
誰も居ない静けさに満ちる聖堂だからこそ、立場に縛られずに心からの言葉を放てる。
勝手に謝らせと頼み、謝罪する。自己満足としか言いようのない自分勝手な振る舞い。
だけれど、今回は自分の地位を利用させてもらう。公爵令嬢が頭を下げるというのは、ただそれだけで価値があるのだ。しかもその相手は同じ貴族でも天と地ほどに差がある男爵令嬢。
地位の差をかなぐり捨てて頭を下げている。誰か一人でも他の人間がこの場に居れば絶対に取れない態度を示す。
「あ、頭を上げてください! スフレーリア様は何も悪くありませんから!」
あたふたと戸惑いながら嫌な顔をせずに、スフレーリアのことを悪くないと言ってのけるシエラは矢張り心優しいのだろう。
罵倒の一つや二つどころか、許さないといわれることさえ覚悟していたというのに悪くないと気遣ってくれるその真っ直ぐさが眩しい。
きっとこの真っ直ぐさが、貴族社会で口に含むもの全てに気を遣わなければならず誰とでも腹を探り合うような生活を強いられて辟易としている王子達が好くにあたった理由なのだろう。
「そもそも私が悪いんです! スフレーリア様の婚約者である王太子様に近づいた私が悪いのです!」
「いいえ、王子が貴女に興味を示して近づいてきているのではないかしら? ならば貴女はちっとも悪くないではありませんか」
「け、けれど、スフレーリア様に嫌われるような行動には違いないのです! だから……」
シエラは尚も自分が悪いと思っている。
婚約者の間に突然現れた女だという自覚があり、だからこそスフレーリアに嫌われても仕方がないと理解している。
だが、立場上シエラに興味を示してくる王子のことを拒否だってできないだろう。下手に断ろうものなら不敬罪にすら問われかねない。
身分の差が招いた不可抗力なのだ。
「違います」
「えっ……?」
そして、何よりそれが原因でスフレーリアに嫌われていると思い込んでいる。
嫌っていると思わせる原因を作ってしまった自覚があるからそう思われても仕方がないと判っているし、本当の気持ちに気付いてくれているとも思っていない。
自身ですら、夢の中で婚約破棄されるまで気付かなかったのだから。
「私はシエラさんの事を決して嫌ってはいませんわ」
心臓の音が五月蝿く、呼吸が乱れてしまう。
僅かにへたれてしまいそうになるけれど、ここで引いてしまったらきっとこの先ずっと踏み込めなくなってしまう。
「私は、シエラさんを……」
開けてはならないパンドラの箱。その鍵を何かの悪戯で見つけて開いてしまったのだ。
気付いてしまった感情をもう一度パンドラの箱に仕舞うことはどうしてもできなかった。
「貴女の事を愛しているのです」
その声は聖堂内にしっかりと響いた。
「えっ……」
視界が歪む。
折角思いの丈を吐き出したというのに、少しでもスッキリすると思ったのに僅かにも心は晴れない。
溢れてくるのはグチャグチャに掻き混ぜられた絵の具のような青黒い感情と涙ばかり。頑張ろうと精一杯戦おうと心に決めたというのに心はその通りに動いてくれない。
「え、その、スフレーリア様が私、を。えっと……?」
当然の反応だった。
普段から邪険に扱われている相手にいきなり告白されたのだ。その上同性だというのだから混乱しないわけがない。
気まずい沈黙が聖堂内を支配する。
少なくとも、冗談だとは思われなかったのだけが救い。冗談ですよね、だなんて問われていればその場で膝を折って泣いてしまいそうだったから。
頑張れ、自分。泣くのも後悔するのも後で幾らでも出来るのだから。今この瞬間を活かすのだとあの日の夜から考え続けていたではないか。
目には涙を浮かべれど、まだ心までは泣いていない。ならばスフレーリアはまだ立てる。公爵令嬢として毅然として存在し続けるのだ。
「動揺するのも当然のことですわね。私だって、つい最近気付いた事ですもの」
涙はまだ完全には止まらないけれど、声は全く震えていない。だから大丈夫。問題ない。
「私は王子の傍に居る貴女に、王子ではなく私の傍に居て欲しい。そう自覚のないままに過ごし、素直になれない子供のような言葉をぶつけてしまったのよ……私の言葉一つで貴女の学院生活を左右してしまうというのにも関わらず」
未だ動揺は晴れずともシエラは真剣に話を聞いてくれている。
「気付いた時はどうにかなってしまいそうでしたわ。私が思いを寄せている貴女を、私自身が傷つけていたなんて。……なによりも、同性の貴女に好意を抱いてしまったなんて」
「スフレーリア様……」
「許されるはずがないというのに毎晩此処に訪れて祈り続けていたのですよ、愚かでしょう?」
そんなことはないと首を横に振ってくれて、思わず頬が緩む。
「けれど、祈り続けていると貴女が此処に来た。単なる偶然かもしれませんけれど、もしかすると私に本当の気持ちを伝える切欠を与えてくださったのかもしれない、そう思い至ったのです」
そろそろ潮時だ。これ以上引っ張っても印象が薄れるだけ。ただただ女々しいだけでそれは好ましくない。
例えこの先、シエラと関わることがなかろうともせめてこの一瞬だけは誰よりも美しく記憶に残しておいて欲しい。
「私は貴女には何も求めないわ。けれど一つだけお願いしてもいいかしら?」
「は、はいっ」
精一杯の微笑を、張れる限り全ての虚勢を尽くす。
「私に、貴女を好きでいる権利を与えて欲しいのですわ。ただこの思いを胸の中に抱き続けるのを許して頂戴」
月明かりを背にシエラへと語りかけた。この暗闇だ、崩れそうになる笑顔もきっとわからないだろう。声だって芯が通っていて明瞭。スフレーリアは最後まで公爵令嬢然として振舞えているはず。
「ふふっ、それではごきげんよう。貴女のこれからに幸多からん事を」
固まっているままのシエラの横を銀糸の髪を揺らしながら、確固とした足取りで通り抜けただの一度も振り返ることなく教会を後にする。
途中、泣き出したくなる自身の心の弱さに苛立ったけれど、それでもこれでよかったのだと思える。
これからが肝心だ。
もしかしたら距離をおかれるかも知れないが、当たって砕けろを実践したのだからもう躊躇いはない。
次に学院で顔をあわせたときには出来るだけ綺麗に見えるように、同性ですら魅了できるように自分を磨いて話しかけてみよう。私の物語はきっとこれからが始まりだ。
心を奮え立たせて自分の家へと戻る。これからの未来は夢で見たのとは全く違うものとなるだろう。自身の手で変えて、自分の足で歩いていくのだ。
そう思うと、靄のような感情は少しではあるが鳴りを潜めてくれた。
生憎、隠しておいた馬車で帰るので自身の足で歩くことはなかったけれど。
明くる週明け、休日を挟んで学院へと登校したスフレーリア。
「スフレーリア様! 今日は一段と美しいですわ」
「本当に、この国には並ぶものの居ないほどの美貌といっても過言ではありません!」
取り巻きの令嬢たちに笑顔の仮面で社交辞令の礼を述べて自身の席へと座り、読みかけであった専門書を取り出して開く。
少しでも知識をつけて、これからの障害を乗り越えるための下地を培わなければならない。一度心に火が灯ったスフレーリアは行けるところまで行くと心に決めたのだ。
女は恋をすると美しくなると言ったがアレは正確ではないと今ならば言える。
恋をしたから美しくなろうと努力するのだ。愛しの人を振り向かせるために。
そんなことを考えながら目の前の専門書へと意識を沈ませる。
王族は他国貴族との繋がりばかりを重視するが経済の流れに疎いのではないか。と、家に仕える者達から平民視点の意見を聞き中々に考えさせられるものがあったのでお金の流れに関する実用書の類を取り寄せてもらった。
こうやって貴族的ではない視点からこの国を見ると、由緒と歴史はあれど金はない。金がないというのは力がないというのが嫌でも理解できた。
由緒が正しいが故に、貴族という存在が必要以上に大きくなり立場を自身の能力だと勘違いさせてしまっているのがまた国の発展を妨げているのではないだろうか。
無論これはただの推論であり、まだまだ浅学の意見だ。これからは貪欲に知識をつけて何処に出ても、何を為しても恥ずかしくない公爵令嬢を目指すと心に決めている。
「ス、スフレーリア様!」
思考に没頭していた頭はかけられた声によって現実へと戻ってくる。
その声だけは聞き間違う事も、聞き逃すこともない。
「ごきげんよう、シエラさん」
「ご、ごきげんよう」
本から顔を上げてにっこりと微笑んでみせる。
周りはザワザワとどういうことかと何かを囁きあっている。シエラの後方ではスフレーリアを睨み付けるような、それでいて戸惑っているようにも見える王子たちが居た。
けれど焦点はソコではない。距離を置かれてしまうと踏んでいたというのに、シエラ自身から話しかけてくれたのだ。スフレーリアの思っていたよりも嫌われていたわけではなかったということだろうか。思わぬ僥倖に、今すぐ二人きりの茶会でも開いてしまいたい心持ちだ。
「スフレーリア様、その、今日のお昼……」
少しだけ顔を赤らめ、それ以上に強張った表情で何かを言い淀んでいるシエラ。
何を言いたいのかを察し、シエラの言葉を遮るように話しかける。
「シエラさん、よろしければ今日の昼食、ご一緒しませんこと?」
可憐な笑顔を浮かべてランチのお誘いを投げかけた。
公爵令嬢として、自身よりも下の人間に誘われて食事をするのはよろしくない。
だからこそシエラは此方から誘えるように余地を残しておいてくれたのだろう。
「よろこんで!」
花の咲いたような笑顔を浮かべて誘いを受けてくれたシエラ。周りの人間は事情を知らないが故に目を丸くして驚いている。それは王子であろうと騎士団長子息だろうと変わることはなかった。
「ごきげんようシエラ」
「ごきげんようスフレーリア様」
いつものように朝の挨拶をスフレーリア様と交わしてから自身の席に向かう。
席に向かいながら一度スフレーリア様の方へと振り返ると、シエラに気付いて首を少しだけ傾げふわりと笑む。頬にさらさらと触れる銀糸が妙に色気を醸し出していて思わず生唾を飲む。
惹きこまれる様な笑顔は何度見ても慣れることはなく心臓の鼓動が早くなるのを感じてしまう。
学院でスフレーリア様に昼食を誘われてからお話をして、とても聡明で魅力的な一面に直に触れて知ることが出来た。それからは毎日のように共に出来る時間は一緒に過ごすようになる。
学院に入学してから、王子と知り合い、スフレーリア様と行き違いを起こした所為で同性の友人に恵まれなかったシエラにとって、スフレーリア様と和解した上に仲睦まじく過ごせる日々は心躍らせるものだった。
勿論、あの聖堂での告白を忘れていたことはない。
今まで、告白なんてされた事のなかったシエラにとっては例え同性であっても真っ直ぐに好意を伝えられたのは嬉しかった。無論、戸惑いも多分には含まれたいたけれど。
立場の差と同性だというのを理由に恋人にはなれないけれど、せめて友人になれればいいな。と、楽観的に思っていたのだけれど。
(私の見通しが甘かったのか、それともスフレーリア様の魅力が凄まじいのでしょうか……)
相手はこの国で一番の美しさを持つとまで言われるスフレーリア様。その美しさは国内外から『沈まぬ月』とまで称されるほど。
見目だけでなく、精神性も気高く公爵令嬢然としたままで、必要だからとその脚でもって直接下町へ出向く。
現状を知るとその情報を元に、民が今よりも良い生活を送れるようにしようと手を尽くしているので民からの支持も篤い。
実際、下町の民はスフレーリア様のお陰で暮らしが少しずつではあるが楽になってきたと最近は明るいらしい。
シエラの両親が商人と付き合いがあると知ったときには是非に貴族と商人、どちらの事情も知っている立場から話を聞きたいと一席設けたことを思い出す。両親はガチガチに緊張していて、シエラまで変に緊張してしまったのは少し恥ずかしい思い出だ。
と、軽くスフレーリア様のことを考えるだけで語りつくせないほどの魅力が湧いて出てくる。
そして、それほどの魅力的なお方に好意を抱かれていると言われれば、初心なシエラはどうしても相手のことを意識してしまう。
最近ではスフレーリア様の一挙一動に心臓が早鐘を打ってしまうほどの重症。
知らぬうちに友人として以外の感情が芽生え、挨拶を交わすたびに、煌く宝石のような瞳に見つめられるたびにソレはグングンと成長してしまっている。
(間違いなく、私はスフレーリア様に惹かれている、よね)
恋心というのは年頃の乙女にとってはどんな食事や娯楽にも勝る燃料ということを少し前にその身でもって知った。
と、いうのも好いてもらっているシエラ自身の価値が低いとスフレーリア様の価値を引き下げているような気がしたのと、少しでも釣り合える様にと座学に打ち込んだ。それ以外にも両親から物流や金銭のいろはについて教えてもらったりしている。
(そのお陰で今では学年でも二番目の成績。これなら面目は立つよね?)
一番は言うまでもなくスフレーリア様である。
それでも尚驕ることなく、勉学に打ち込む姿は正に堅忍不抜を体現しているだろう。
スフレーリア様は時間がある日には勉強会を開催しており、シエラも勉強会のある日には必ず参加している。シエラ『も』というより、今ではシエラ『のみ』だけど。
最初のうちは、沢山の令嬢たちが参加していたのだが茶会にも似た社交のための会だと思っていたらしく、想像以上に本格的でハードな勉強会に一人、また一人と参加者が減り今では二人っきりの勉強会となってしまった。令嬢たちは将来嫁いで行くので恥にならない程度の成績を維持するだけで十分なのだ。シエラもそれはそれで間違いではないと思っている。
「シエラ、少しいいか」
今日も開かれる二人だけの勉強会に思いを馳せている時に、声をかけられてハッとして意識を取り戻す。
「王太子様、いかがなさいました?」
最近はスフレーリア様と一緒に居る時間が長くなった所為で王子や導師とは社交辞令的な挨拶しか交わす事がなくなっていたな、とどこか他人事のように思い至る。
「その、少し時間を貰えるかな?」
周りを目線だけで見渡している所を察するに、教室内ではできない話なのだろうと察して立ち上がる。
「察しがよくて助かる」
教室の外へと出て行く際にちらりとスフレーリア様を視界に入れると微笑んで、周りには見えないように胸元で小さく手を振ってくれていた。シエラも手を振り返そうと考えるが、王子に連れ出されるという目立つ中で手を振り返すのもどうかと悩む。
目線で早く行きなさいと促されて、王太子の後を急いで追った。後でしっかりとスフレーリア様には謝らねばと心のコルクボードにしっかりと留めておく。
「待たせた」
王子に連れられた先の空き教室では導師や騎士団長子息といった、スフレーリア様と和解する前に気を揉んでくれていた人が待っていた。
スフレーリア様に習い、貴族としてみっともない態度を見せないように心掛けているから以前のような戸惑いは表には出さないけれど、それでもシエラが何かをしたのではないかと心の中で冷や汗を流す。
「こうやって集まって話すのも久方ぶりですね」
導師がゆっくりとした口調でシエラへと挨拶、騎士団長子息もそれに続いて騎士にありがちなお堅い挨拶をしてくれた。
「ごきげんよう。私に何か用でございましょうか?」
スカートを摘まんで恭しく、出来るだけ品良く挨拶をする。これもスフレーリア様に見習って身に着けたのだ。
近くに居る事で気づいたのだが、スフレーリア様の一挙一動は礼儀作法のどんな教材よりも優れた最大の見本になるのだ。ドンドンと磨きが掛かる完璧ぶりについて行くだけでシエラは精一杯だが、追いかけているのは存外楽しい。
「そんなに畏まらなくても以前のように砕けた態度で構わないよ」
「いえ、王太子様の前で礼を欠くなどといった恥ずべき態度。スフレーリア様の傍に居る身として、とても許容されるものではありません」
スフレーリア様と仲を深める以前にも礼を尽くしているつもりだったのだが、今になって考えるとシエラよりも圧倒的に目上の人間に取るべき態度ではなかった。
器が広かったから許されていたことだが、不敬罪に問われてしまっても仕様がないと今ならば理解できる。
「スフレーリア、か」
シエラがスフレーリア様の名を出した瞬間、場の空気が僅かに冷えたような気がした。
逡巡するように王太子がそれぞれに目配せをし、一つ頷いて重々しく口を開く。
「単刀直入に聞く。スフレーリアに脅されていないか?」
「……は?」
素っ頓狂な声が出てしまった口を慌てて押さえつける。貴族然と、堂々と美しくあれと心掛けてはいたが余りにも埒外の方向からの質問に新品ピカピカである気品の仮面がずれ落ちてしまう。
「その、私の無知を晒すようでお恥ずかしいのですが、質問の意図が掴めません」
深刻な表情から出た意味の分からない言葉には、努力で培った知識も通用しなかった。
「そのままの意味だ。スフレーリアは君をずっと邪険に扱ってきただろう? だが最近ではその過去がなかったかのような笑顔で君と話しているではないか。もしかすると私たちの与り知らぬところで君が不遇な目に遭っているのではないかと心配でね」
王子と他の二人の意見はつまるところ、溝があった二人が急に仲良くなったように見えるのはシエラが権力の差で脅されているのではと勘繰っているらしい。
ようやく質問の意図を理解すると拍子抜けだった。
「いえ、スフレーリア様は私を脅していることは決してありませんわ。私とスフレーリア様の間には不幸な行き違いがあり、とある切欠を経てその行き違いがなくなったのです。それからスフレーリア様は私をよくしてくださっていますから何も心配はありませんわ」
確かに、以前は永遠に分かり合えることがないだろうと半ば諦めかけていた。
けれど、スフレーリア様の真意を知った今ではなんと馬鹿な擦れ違いだったのかと笑い種にさえしてしまえる。
そう笑顔で言ったにも関わらず、シエラを纏う視線は猜疑の色を強める。
「……それは本当か?」
「はい、主に誓って」
躊躇いなく言いのけたというのにも信じてもらえたようには感じられない。確かに、シエラのような下っ端貴族がスフレーリア様に気をかけてもらっているのは引っ掛かるかもしれないけれど事実なのだ。
「脅されているのならば恐れずに打ち明けて構わないんだよ。心配することはない。脅されているという事を理由に婚約解消をして君を王太子妃に迎えてしっかりと守る覚悟だって決めている」
王子の言葉の余りある事の大きさに驚く。ただの木っ端貴族であるシエラの為にそこまでしてくれるのか、と。
そして言葉を咀嚼した次には、沸々と腸が煮えくり返りそうな怒りが込み上げてきた。
「心配には及びません。スフレーリア様はそんなお方じゃありませんから」
語尾がキツくなってしまったがそれでも構わない。一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたかった。
仮にスフレーリア様から不当な扱いをされていたならば彼らはまさしくヒーローでありシエラはヒロインといったところだろうか。
スフレーリア様はあながち、ヒロインを苛めて最後には正義の鉄槌が下る悪役か。
冗談ではなかった。
何故敬愛するスフレーリア様をそこまで悪しきに扱われなければならないのか僅かたりとも納得できない。
王子たちが善意のみでシエラに救いの手を差し伸べてくれているのが判っても尚、胸のうちに灯った怒りは収まるどころか気炎を上げる。
「ならば何故、他の令嬢たちですら参加を遠慮する勉強会に出続けているのだ」
憮然とした態度で騎士団長子息が問い詰めてくる。尚も疑っている彼らは余りにも視野狭窄ではないかと辟易すら覚える。
他の令嬢が参加を遠慮するのは、貴族の付き合いにしか興味がなく公爵令嬢という肩書きを抜いたスフレーリア様自身に対しての情がそれほど深くないから。
シエラが参加しているのは少しでも長くスフレーリア様の傍に居たいからだ。
「スフレーリア様の勉強会は社交的な意図が少ないから皆さん参加しないだけでしょう。私は自分自身の意で会に出ているのです。そこには誰の意志も介入していません」
許されるのであれば王子たちを糾弾してしまいたい。
何故ソレほどまでにスフレーリア様を疑うのか、自分の婚約者を信じられないのかと。
どころか感情に身を任せて口を開けば「貴方はスフレーリア様の婚約者として相応しくありません」と声を大にして叫んでいたかもしれない。
けれど感情を身体に満たすのは構わないが、それを表に出すことがどれほどの弱点になるのかを滾々と教授されたのだ。他でもない彼らにとって疑わしきスフレーリア様によって。
王子にはスフレーリア様は相応しくない。なんだったら婚約者を代わって貰いたいくらいだ。
「あっ……」
そして気付いてしまった。
シエラがいつの間にかスフレーリア様と結ばれたいと思っていたことに。
恋心に似た感情を抱いていることは自覚していたが、この状況の所為というべきか、お陰というべきか王子よりもスフレーリア様を思い慕っていると自覚。
シエラがスフレーリア様を愛しているのだと気付いてしまった。
「どうかしましたか?」
「いえ。……授業も始まるのでお先にお暇させていただきますわ」
返答も待たずに空き教室を出る。失礼に当たるだろうが、これ以上あの場に居る事がシエラには堪えられなかった。
悪意はなかろうとも自身の愛する人の婚約者が、愛する人を不当に貶しているのだから不快になるのは当然。
嗚呼、一刻も早くスフレーリア様の顔が見たい。その香りに触れ、声を聞けばきっとこのうねった感情はすぐに静まるはず。
そして、激情を鎮めたらより一層勉学に打ち込もうと心に強く決める。私には力が足りない、権力もない。ならば使える武器はこの頭脳ただ一つ。
折角花開いたこの思いを、抱えたままに枯れて手折られるだなんて嫌だ。
今なら何だって出来る気がした。いつだかスフレーリア様が言っていた言葉、今なら余すとこなく理解できる。
「恋する乙女の可能性は無限大、ですよね。スフレーリア様」
スフレーリアは久しぶりの落ち着いた時間を、シエラと共に何もせずにただ肩を寄せ合って過ごしていた。
「スフレーリア様とシエラ様よ……!」
「あのお二人はとても画になりますわね」
そんな声をよそに当の本人達は学院の中庭の綺麗に刈りそろえられた芝生の上で談笑。
今では国が誇る秀才と名高い二人と繋がりを持とうとするものは数多くいるが、二人だけしか存在を許さないといわんばかりの空気に誰もが躊躇って関わりをもてないでいることを知るのはもう少し後のこと。
「シエラ、今日は貴女のお家にお邪魔してもよろしいかしら?」
「えぇ! 是非いらして下さい。両親もスフレーリア様にお伝えしたいことが沢山あると言っていましたよ!」
スフレーリアとシエラの二人は言葉にこそしないものの互いに想いあっているのが傍目に見ても解る。
無論、余りにも深すぎる仲は貴族学院内でも噂となりよくないイメージを二人に持たせてしまった。
だが、スフレーリアとシエラはその悪評をものともせず、勉学に打ち込み学院の歴史に名を刻むほどの成績を叩き出した。
それだけではなく商業にも手を出して遂には国を沢山の国が行き交うという特長を活かして発展させ多大な利益をもたらすという偉業を成した。
その過程で、シエラの小さかった家はスフレーリアの力添えもあり国でも有数の名家へと成長。
金を稼ぎ家を大きくしただけで歴史のない成り上がりと裏で揶揄するものは居ても所詮妬みや僻みの類、公爵家が後ろ盾にもなっていることもあり表立ってそれを言うものは居ない。
「……やっと一段落といったところですね」
「えぇ、けれどこれからが本番ですわよ。なんていったってこの国の貴族だけではなく、他国を相手に立ち回っていかなければならないのですからね」
天才が貴族としての建前をかなぐり捨ててまで努力した結果、将来は宰相として国の政治を担えるように。現公爵である父の口添えもありなんとか婚約を白紙へと戻した。
夫人となり王のために尽くすよりも、国のために尽くさせたほうが遥かに国益になると父が熱弁を振るってくれたお陰ともいえよう。その代わり妹が、王子と婚約を結んだが嫌な顔をするどころか喜んでいたので結果オーライというものか。
妹曰く、王子は顔もよく文武両道且つ性格すら気品に溢れていることから正に令嬢たちの憧れの的だったのだという。
「王子たちには悪いことをしたかしらね……」
「私は、スフレーリア様が守ってくださって嬉しかったですよ?」
「守った、というよりかは取られたくなかっただけの子供染みた独占欲にすぎないわ」
「それでも、私が嬉しかったのは何にも変えがたい事実です。それを否定することは王子にもスフレーリア様にも……それこそ私にだってできないのです」
スフレーリアは王子がどれほどの優良物件だと言われても首を傾げざるを得ないのだ。
それはというのも、シエラのことを側室として迎え入れようと熱烈なラブコールを飛ばしてきたのだ。
おまけに導師や騎士団長子息まで妻として迎え入れる準備は出来ているとの厄介極まりない婚約申し込みを送ってくる。
スフレーリアは文字通り鬼気迫る思いであの手この手を張り巡らして、なんとかシエラを嫁がせることなく傍に居させることに成功している。なんだって学生の領分で、商業で培った人脈を同級生相手に振るわなければならないのかと溜息が出そうになることは少なくなかったけれど、シエラを失うことに比べればその程度の苦労なんて知れたものだった。
そんなスフレーリアにとっては王子たちは恋敵ではあっても恋愛対象にはなりえなかった。
確かに言われてみればそれぞれとも成績も常に上位だったな、と思い至る。自身とシエラの上位二つしか見ていなかったので本当に、言われてみれば、である。
伸びを一つしてシエラに体重を預けてボソりと呟く。
「……これからも傍に居てくださいね。貴女が傍にいる限り、きっと私は倒れないでいられますわ」
「嫌だと申されても離れてあげませんよ。それこそ私が倒れてしまっても」
視線を合わせて微笑みあう。
この幸せな一時を掴み取れただけで、それだけでこれまでの選択が間違っていなかったのだと確信をもっていえる。
これからはこの幸せが少しでも長く続くように、力の限りを尽くしていこう。
大丈夫、きっと倒れず手折られずに歩いていける。だって隣に彼女が居て微笑んでくれているのだから。
――とある世界のとある時代のとある書籍。
その小国は大国二つと接し、他の小国とも接しているに関わらず土地は細く地に眠る宝もなく歴史的な価値ばかりが大きな国でした。
けれどそんな国に変革をもたらした一人の少女が居ました。『銀月の姫君』や『沈まぬ月』と評されるほどの美しさを持った令嬢が、これまで停滞していた国の形を一気に変えたのです。
できるだけ国の人々が健やかに暮らせるようにと民を思い、街の下水を整え道を舗装し、他国に囲まれているという特性を逆手に取り交易の要とした国として発展させていきました。
その政治的・商業的な手腕と頭脳は昨今においても評価され続けており、功績を羅列するだけで書籍が出せるのではと一部の専門家達は真剣に研究を進めています。
その銀月の君の所為で、その時代の王もそれなりの名君だったというのに完全に陰に隠れてしまっていて気の毒だと歴史家は苦笑い混じりに言います。
銀月の君に関わる逸話や真偽のわからない話は数多く、研究を進めるほどに増える彼女に関する逸話に歴史家は日々頭を抱えているというのは有名な話です。
有名なものでは彼女は生涯、結婚をすることなく独り身を貫いたというお話は誰も彼もが耳にしたことがおありではないでしょうか。
理由ははっきりとはわかってはいませんが、彼女の優秀さに釣り合う人間がその時代に誰一人としていなかったのでは、というのが最有力とされています。
同性愛者であったのではとの説も中々に興味深く有力説の一つではありますが、決定打に欠けていることで俗説の一つとされています。ですがそのうちにそれを決定付ける証拠が見つかるかもしれませんね。
その結婚を生涯しなかったという処女性から、彼女を題材にした物語は今尚人気が根強く、世間が彼女に抱くイメージを更に昇華させているのではないでしょうか。確か『聖女』などといった呼び名もありましたしあながち無視できない意見だと自負しております。
他には、銀月の君は実在せず国が作り出したまやかしや偶像の類ではないかという面白みもユーモアのない説もありますが、彼女の残した功績やそれに関する証言は余りにも多く信憑性に欠けると言えるでしょう。
さて、銀月の君の話題となれば必ず出るのが『月影の姫君』です。
銀月の君に比べれば知名度は劣るものの、それでも尚有名なお方であります。
その正体は銀月の君よりも謎に包まれており、女性で貴族であったということ意外の詳細で明確にわかっていることは数少ないのです。
彼女もまた生涯に渡って独り身を貫き、銀月の君を支え続けたとされています。
噂によると月影の君もまた魅力的であり、当時の王から側室の申し込みや、教会や騎士団の妻にと引く手数多だったといいます。それを銀月の君が全部突っぱねたと言われていますが真偽の程は判りません。
その正体は実は平民の殿方で、許されぬ恋をしていたのだという類の恋愛物語は数え切れないほど出版されているというのに今尚増え続けているそうです。
なんでも最近判ったことなのですが、このお二人は学院で同級生であったそうで、とても仲がよかったようなのです。
学院の帳簿にはしっかりと名前が載っており、二人そろってとてつもないレベルの成績をたたき出していたという記録があるそうです。
今でもその学院には二人を越えるどころか、並ぶほどに頭の良い生徒は誰一人いないらしいとのこと。
それほどの天才が同時期に生まれ、互いに協力をしていたのだからこそ国が良い方向へと発展したのは間違いなく、数多の意見を戦わせている歴史家達もこの部分だけにおいては口を揃えています。
さて、これまでザッと銀月の君に関する事を書かせていただきましたが、彼女達で最も謎と言われているのがその終生です。
齢が50へと差し掛かった頃に二人揃って、全くの行方知らずとなってしまったのです。
未だに彼女たちの亡骸や遺品の類は見つかることはないのだそう。見つけたものには多額の謝礼を出すとまで国はお触れを出していますが、そのお触れが効果を果たしているのかと言われれば首を傾げざるを得ません。
仕事の引継ぎ等は済ませていたそうで国の機能事態は僅かにも麻痺しなかったのですが、国に走った精神的衝撃は尋常ではなかったでしょう。
その余りにも後を濁さない、元から居なかったかのように立ち消えたことから偶発的な行方不明ではなく計画的に姿を眩ましたと言われています。
この謎の包まれた二人の行方が何よりも、想像の予知を与え今尚我々を魅了しているのです。
若い頃の情報は幾つも発見されど、終生は未だに糸口すら見えず議論は錯迷を極めています。
陰謀論や殺されたのではないか、はたまた役目を終えたから旅に出たのだといった説を現実的な学者は唱え、二人はやはり異性でどこかへ駆け落ちしたのだと恋愛小説家は言います。宗教家達はその功績から主に召し上げられたと吹聴し、我々市民はせめて幸せな余生を送っていたことを願うばかりです。
ところで、話は変わりますが消えたと同時期に城や下町では麗しい少女二人が手を繋いではしゃぎまわっていたと当時の方々の多くが証言しています。
二人が消えて混乱と暗いムードの漂う中で、二人だけの世界を展開しているように見えた少女達はその美しさも相まって豪く印象的だったとの事。二人が二人とも見目麗しく品に溢れていて、間違って町に入り込んだ妖精だったのではという人すらいます。
他の国や地域、また最近に至ってもその見目麗しさから目撃情報は後を絶たないそうですが誰も少女達の正体がわからないそうなのです。
その気品から没落貴族の類ではないかと言われていますが、大の大人ですら彼女達の言葉に転がされたことがあるようで身寄りのない元貴族というには、余りにも芯が通り過ぎているとも感じられ不思議でなりません。
ただどの人たちも彼女達の情報を語る際には口をそろえて「銀糸のような髪が一際美しかった」といいます。
どうして唐突にこの話をしたのかといいますと、著者はもしかするとその少女二人こそが実は『銀月と月影の君』なのかもしれないのではないかと推測、いや願っているのです。
今一証拠には欠けますが夢には溢れているこの説を皆様はどうお考えでしょうか。
世の専門家や書き物をする方々は是非この説を頭に居れて検証していただきたいものです。
読者と、そして『銀月と月影の姫君』の両名に幸多からん事を願って。
「ですって。これが余り売れていないのに、あちらの分厚いだけの的外れな考察書は売れているそうですよ。なんでも銀月の姫の真相を最新の情報を含んでの考察だから信憑性があるのだとか」
「へぇ……歴史家がありもしない陰謀論を戦わせている裏で、真実が書かれている書物が埋もれているというのは中々興味深いものですわね」
二人の少女が小国の書店で見つけた本を手を取りながら何かを話し合っている。もう片方の手はしっかりと離れないように繋いでいるので、相当に仲が深いのだろうと傍目に思わせる。
「一冊買っていきます?」
「……そうね、そうしましょう。もし機会があれば、この本の著者に会って真実を教えてあげるというのも楽しそうではなくて?」
「えぇ! きっと驚いて倒れてしまうかもしれませんね。茶菓子のほかに、倒れた際のお薬も用意しなくては……」
二人は手を繋いだままに、楽しそうに談笑しながら一冊の本を手に店主の下へと持ってきた。
「これ一冊下さる?」
「は、はぁ……」
素っ頓狂な返事をする店主をよそに、本の代金をピッタリ払うとすぐに少女達は踵を返す。行動の一挙一動が品に溢れ、店主は思わず目を奪われてしまいながら戸惑う。
「それではごきげんよう」
「ご、ごきげんよう……?」
綺麗な声で普段使わない挨拶を告げられて店主の混乱はより一層大きくなる。
「お腹がすきましたし、どこかで食事にしましょうか?」
「ふふふ……様、私お弁当を作ってきましたよ!」
「まぁ! ……の手料理は美味しいですから、期待しても良さそうですわね」
美しい笑顔を華の様に咲かせながら手をつなぎ、店を出て行く少女二人を呆然と見送る店主の頭は思考停止寸前だった。
一体彼女達はどこの貴族なのか、はたまた豪商の娘か。お忍びで来たにしては堂々としすぎているし、子供というには雰囲気に危うさが感じられない。
だが、そんな店主が唯一つ確信を持って言えることを呟いた。
「なんと美しい銀糸の髪なのだろう」
さて、少女二人はどこへ向かうのやら。