あなたに一番近い場所
1.
「ねえ、エリオット、あなたは誰なの? どうして私を助けてくれたの?」
ややあって、エリオットは虚空を見つめて答えた。
「そうするべきだと思ったからかな」
エリオットは何もないはずの目の前の空間に向かって、うんと頷いた。彼に言わせればそこには信条だとかプライドだとか、そういった形のない原動力が浮かんでいるのだ。
「何者なのかという質問には答えてあげられない。僕もプリンセスと同じく、憶えてないんだ」
そう言ってエリオットは問いかけてきた十歳ほどの少女を見つめた。
プリンセスというのは、名前を憶えていない少女の事。エリオットと違って名前さえも憶えていない彼女を呼ぶため暫定的に使っているに過ぎない呼称だ。
けれど、純白のドレスと花冠を頭に載せた彼女の呼び名としては、これ以上はないというほど、しっくりきたものだとエリオットは思っている。なんせ、そんな姿をしている幼い少女というものは、多くを失った記憶なりにも浮世離れした格好であると認識されるものだから、しっくりきているというよりも、もはやこれしかないといった具合だ。
対してエリオットは、世界中に同じような姿をした人物が山ほど居るであろう何の変哲もないスーツ姿。けれど、エリオットの内面はそうではなかった。本人に自覚があるかは甚だ疑問だが、徹底し過ぎているほどに全てが紳士的で誠実だった。
しかし、内面が外見と違うという話なら、プリンセスもいいとこ勝負だ。浮世離れした服装とは裏腹に、その心は幼く好奇心で極彩色に染め上がっている、どこにだっていそうな少女そのものだった。
それにしても、どうしたものか。記憶の多くが綻んでいて、何故ここに居るのか、そもそもここがどこであるのか、さっぱりわからない。
ただ、大きな森と広い平原の際に二人は居た。
エリオットは都会育ちで、こんな自然を前にするのは彼にとっては不自然そのものだった。プリンセスに関してどうかはわからないが、少なくともエリオットよりいくらかこの環境を受け入れて、小鳥のさえずりや蟻の行進、時折吹く柔らかな風と青い空を、けがれない瞳で捉えてはエリオットには考えも及ばないような子供特有の鮮やかさを見出していた。それらの色が彼女の心をまた一つ彩った。
2.
陽が下りてきた。エリオットは周囲をうろついて、あまり良くはない目で遠方に人の気配や何かがないかを探し回っては、何も見つけずにまた元居た場所に戻るという事を繰り返していた。
プリンセスは相変わらず、呑気に太陽の移ろいによって齎される情景の変化を享受し、今は夕焼けという太陽が見せるクライマックスに胸を躍らせている。
もしかすると、彼女も都会育ちなのかもしれないな、そうエリオットは思った。
陽が落ち切ると、エリオットはどうするべきかと悩んだ。ポケットには幸いにもライターがあったが、ここで火を起こすべきだろうか?
きっとここでこのまま夜を明かすとなれば相当に冷えるだろう。それに加えて、なんせ森と草原のある場所だ。何かしらの猛獣が現れることだってあり得る。
それらの脅威と、先程プリンセスを狙った謎の集団に発見される脅威、どちらの方が危険だと判断すべきだろうか。
だいぶ長い事悩んだのだが、結局エリオットはその辺に落ちていた枯れ木で焚き火をする事にした。
その決断を下させたのは、『日が暮れるまで周囲を見ても人が潜むような場所はなかったので大丈夫だろう』という慎重さを伴った推測ではなく、プリンセスの「ねえ、エリオット、寒い」という極めて単純な言葉だった。
続いて、おなかがすいたというプリンセス。エリオットは、日中の散策のうちに集めておいた木の実を食事とした。プリンセスは、美味しくないと言ってエリオットを困らせたが、背に腹は代えられないのか、それらを完食した。
プリンセスはその後まもなく眠りについた。エリオットはスーツの上着を彼女にかけてやり、火の番をしていた。だが、だいぶ疲労がたまっていたせいか、いつの間にか寝入ってしまった。
3.
プリンセスが翌朝目を覚ますと、そこは昨日眠りについた草原と森の境などではなく、白いベッドだけが置かれた部屋だった。何事か、周囲を見回す。ただ白いだけの殺風景な壁を蛍光灯が照らしているだけで、窓もない。
重そうなドア、白い壁、不愛想な明かり、硬いベッド。本当にそれだけだ。
「エリオット? どこ?」
怖くなって、エリオットを呼ぶがどこにも居ないのは一目瞭然だ。それでもエリオットと呼び続けた。
4.
「成功、成功だ! ついに、ついに成功したんだ!」
コンピュータの液晶ディスプレイのみが光を振りまく怪しく薄暗い部屋で、一人の老人が狂喜乱舞している。その光源であるディスプレイの一つには、部屋の中でエリオットを呼ぶプリンセスの姿がモニターされている。そしてまた別のディスプレイには、プリンセスの部屋と大して変わらない部屋がモニターされ、「プリンセスはどうしている」と何度も何度も配置された職員に訴えるエリオットが映っていた。
部屋の中でも一番大きなディスプレイには森と草原の中で野宿をする二人の姿を撮ったビデオも映っていた。
男は、科学的なアプローチで、人間の精神に愛情というものを植え付けるという実験を行っていた。いわばその分野における博士のようなものだ。その処置を行う際に若干の記憶障害が発生したが、それさえも博士にとっては好都合なものと思えた。
興奮がやや落ち着いたところで、博士は実験の最終段階へ着手した。
5.
「エリオット君、実は……、とても言い難いのだが、今プリンセスに会わせてあげることは出来ないんだ」
例の博士は、深刻な面持ちでエリオットにそう告げた。
「何故!? いや、プリンセスは無事なんですね。そうか、それなら一先ずよかった」
エリオットは自分に言い聞かせるようにして、ふうっと大きく安堵の溜息をついた。
だが、
「いいや、それが、言い難いと言ったのは、プリンセスは重篤な病を患っていて、今まで病院から出た事なんてなかったんだ。……その、わかるだろう?」
博士はさも気遣いに満ちているかのような言葉づかいでエリオットを揺さぶった。
「危険、だと?」
「ああ、気の毒に」
そう言って博士は目頭を押さえて、間もなく言葉を続けた。
「しかし、ドナーが居れば回復させる事が可能だ」
言い終えるとエリオットを見つめる。
「私がドナーになります、わざわざ私に話をしに来たというのは、そういう事なのでしょう?」
博士は、大きく頷いてから「すまない」と言った。
「いえ、プリンセスの命が助かるなら、私はあなたに感謝します。どうか謝らないでください。私には本当に、それだけで十分なのですから」
博士は自らの口角が吊り上がっていくのを必死に堪えた。
そう、愛とは己の身を砕こうとも、愛するものを何よりも優先しなければならない、エリオットはまさにそれを出会ってまだ三日も経たない少女に対して実行出来る。研究によってもたらされた結果がいかに完璧であるか、それを知って上機嫌にならない科学者なぞ居ないだろう。
6.
「プリンセス、すまない、こんなところにずっと閉じ込めるような真似をして。こうするよう指示したのは私なんだ」
博士は言った。
「エリオットは!?」
プリンセスは開口一番に聞いた。
「その事なんだがね、プリンセス。とても気の毒な話なのだが、彼は君が眠っている間、大熊に襲われて、生死の境を彷徨った。酷い傷だった。そして……」
「そんな!! けど先生が治してくれたんだよね!?」
やや沈黙を呼び起こしてから、博士はとても残念そうに口を開いた。
「我々にできる全力を尽くした。しかし……」
いくら幼子でも死くらいはわかる歳だ。プリンセスは泣き出した。
「すまなかった」
博士はそう言うと部屋を出た。なんせ、いくら非道な科学者と言えど、幼い少女が愛する者の死に涙を流すというのは、耐えられそうもなかった。その元凶が自分自身であるとなれば、なおの事だった。
7.
どうせ人の道を踏み外すのだから、良心の呵責など綺麗さっぱり捨て去ろうと思い、実行できたと思っていたはずなのだが、どうやらそうとも言えないらしい。
しかし、ここまでやってしまったのだ、後戻りなど出来はしない。
次は、彼女の愛する対象を自分に書き換える事だ。それこそがこの非道極まりない研究の最終目標なのだから。
交通事故で妻と娘を失って以来、私は狂っていった。そう博士は自覚している。そしてその狂気は恐れへと変わっていった。このままもう誰からも愛されずに、誰からも忘れられて一生を終えるのかと。
もしも、彼が才能に溢れる人材で、多くの人間に評価されていたならばこうはならなかっただろう。しかし、彼は凡庸だった。
唯一の支えを失った事によって、凡庸だった彼は凄まじい速度であらゆる研究を行い、一躍天才との呼ばれを欲しいままにした。皮肉というほかにない。それに、もう何もかも遅い。彼は既に愛情の渇望という呪いに憑りつかれているのだから。
8.
試作体だったエリオットは手筈通りに『処分』され、彼の葬儀が行われた。
非道になり切れなかった博士の、なんの償いにもならない計らいだった。せめて、プリンセスに、別れの時くらい、用意してやりたくなったのだ。
葬儀は呆気ないものだった。プリンセスは泣き続け、何度も何度も彼の遺体の頬を撫でた。彼の身体が焼かれて空へ昇る。
博士はその様子を見て心苦しさを覚えると同時に、安堵していた。この葬儀に、エリオットに対して満ち溢れる愛情が、次は自分に齎される。そう思うとすべてが報われる気がした。
9.
葬儀を終え、翌日に控えたプリンセスの再処置。愛の対象の書き換え。
博士は自らのありとあらゆる善に分類される目に見えないモノたちが音もなく木端微塵にはじけ飛ぶのを感じ、邪悪としか言えない明るく祝福に満ちた未来を思い描き、心を躍らせた。
だが、翌日になってみるとどうだろう。プリンセスは忽然と姿を消していた。
10.
「エリオット、あの夜に火の番をしてくれていたの、私見てたの。とっても嬉しかった。私、エリオットの事、大好き。あの時に初めて会ったはずなのに、ずっとずっと昔から知ってるような気がしてたんだ。だから、エリオットはきっと運命の人なんだって、私、思うの。だって、そうでしょ? エリオットは私をプリンセスって呼んでくれていたもの。プリンセスを守る人は王子様で、お姫様と王子様は運命の人だって、いつか絵本で読んだような気がするの」
海を見ていた。どこをどう通って来たのかわからないけど、目の前には切り立った断崖とその先の海があった。きっと初めて見る海。記憶がぼやぼやするから、本当かどうかはわかんないけど。
「そして、運命の人は、いつもそばに居てくれるっても書いてあった。進めばそこに居てくれるんだって!」
そう言うとプリンセスは大きく息を吸い込んだ。
「だから、今、私、行くね、エリオット!」
少女は軽やかに飛んだ。地獄の底を目指して。
切り立った崖から海へ向かって投げ出された体は、何度かその崖にぶち当たる。
ああ、そうか、今、私、確かに大好きなあなたに近づいてるんだ。そう思った。打ち付けた痛みは獄火の開門、吸い込む大気には彼が溶けている。
そう、私は海に溶けていって、空に溶けていったあなたの一番近くに行くの。