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星の涙を流す娘  作者: 日咲ナオ
プライベーティアの女神
3/25

仕組まれた邂逅 2

 デュヴァリエール王国の北東に位置する、ステルブール伯爵家。そこではその日も、夕食後に一家が居間に集まって、談笑を交わしていた。

 パチパチと、暖炉の中で薪が爆ぜる音。香りと湯気がふんわりと立ち上る茶が注がれた、そろいのカップが五つ。色とりどりの刺繍が施されたテーブルクロスをかけた、重厚なテーブルにきちっと置かれている。

 三人掛けのソファは、大柄な男性でもゆっくりと腰かけられるほど、ゆったりとしている。だから、母親に似た容貌の幼い二人が、両親の間に仲良く座ることができるのだ。

 年長の少女は、両親と向かい合う位置に置かれた肘かけ椅子に腰を下ろしている。そうして、両親と弟妹を優しく見つめていた。

「アンリエットも、もうすぐ十五か」

「ええ。誕生祝いの席で着るドレスが、昼過ぎに届きました」

 少女の父親と言うには若い男性が、心なしか寂しさをにじませてひっそりと呟く。たゆまぬ深い知性を感じさせる眼差しが、ひどく印象的だ。

 アンリエットと呼ばれた娘もまた、思慮深さを身にまとっている。抜けるように白い肌にぽつんと一点、左目尻の泣きボクロが、ことさらに目を引いた。

 細く真っ直ぐなブラウンの髪と、同色の瞳。似たような端正な顔立ちからも、二人が血縁者であることは明白だ。

「綺麗な色のドレスで、お姉様によくお似合いよ」

 よほど感情が高ぶったのか。十歳前後と思しき少女は、頬を上気させている。拳をブンブン上下に振りながら、ゆるやかに波打つヘーゼル色の髪を揺らす。

 彼女の隣に座る少年も、まったく興奮を隠していない。父親の顔を覗き込むように、まじまじと見つめている。

「エティも、そろそろ婚約を考える頃ね」

「い、いや、まだ早いだろう?」

 母親のさりげない言葉に動揺したのは、どうやら父親一人のようだ。

 当の本人は、表情ひとつ変えず、考え込む素振りさえ見せなかった。その話題には一切興味がないと、彼女の態度がはっきり物語っている。

「あら、わたくしがあなたに初めてお会いしたのは、エティと同じ十五よ? 決して早すぎることはないわ」

 ニッコリ微笑んだ妻に、それ以上何も言えなかったのか。父親は低くうめいた後で黙り込んだ。けれど気が気でない様子で、母娘の会話にこっそり聞き耳を立てている。

「お父様、私にも理想というものはあります」

 オロオロしている父親を安心させて、喜ばせたいと思ったわけではない。単に、下手な思い込みやとんでもない勘違いを、絶対に避けたかっただけだ。

 だからこそ、エティは素直な気持ちを伝えることにした。

「私は、私個人を欲しいと言ってくださる、お母様を選ばれたお父様のような方と出会うことが理想なのです」

 家も資産も地位も、ありとあらゆるものを捨ててきた、剣術が取り柄という、他国のおてんば娘を温かく迎え入れてくれるような。

 目線をフッと正面に向ければ、その理想に、最も近くて遠い人がいる。

 ふと、理想とは正反対の顔が頭に浮かぶ。とたんに覚える腹立たしさを抑えるため、エティはギュッときつく目を閉じて、細く息を吐き出した。

「気になる方はいないの?」

 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、パチッと片目をつぶる。そんな母親の問いに、エティは右手をそっと頬に当てて、ちょいと小首を傾げた。

「そうですね……一度お会いしてみたい方はいますけれど」

 これまでにも、さまざまな噂を耳にしている。それと、なぜか母親が持っていた、数年前に描かれたという肖像画。それを見たことがあるだけだ。

 噂同様、肖像画からも理知的な雰囲気のただよう彼は、エティの興味を十二分に引いた。

「そ、それはどこの誰だ!?」

 何ひとつ心得ていないのは、どうも父親だけらしい。他は互いに顔を見合わせ、目線でどうしようかと相談している。

 あまり仲間外れにしては可哀想だからと、小さく微笑んだエティが口を開く。

「リヴァルーク王国のヴァレンティン様が、聞こえてくる噂を半分としても、お父様に似ているようでお会いしてみたいだけです」

 エティたちが暮らすデュヴァリエール王国の北東にあるのが、最も繁栄しているリヴァルーク王国だ。鉱山から産出される鉱石を輸出することで、かの国は潤沢な資金を蓄えている。その上、広大な草原で酪農が行われており、他国の追随を許さない繁栄ぶりだ。

 そんなリヴァルーク王国の現王セオドアは、かつて婚約者を失っている。以来、四十を過ぎても、徹底的に独身を貫き続けてきた。弟のいない彼の後継者は、五人いる甥の誰かと目されている。

 中でも有力視されているのが、今年二十一になるヴァレンティンだ。

 普段は海上にいることの多い彼は、重要な公式行事にしか顔を見せない。しかし、眉目秀麗で聡明と名高く、民衆からの人気が特に高い青年だ。セオドア自身、ことのほか彼に目をかけているらしい。

「……似ている、かな?」

 父親は困惑の色を隠せないようだ。しかも、噂以上にヴァレンティンを知っているのか。諦観の混ざる、微妙で複雑な表情で娘を見つめている。

「ええ。人々に慕われ、人の上に立つ資質をきちんと持っていると感じさせるところが」

 思いがけず、褒められる形になったからだろう。

 つんと口を尖らせた妻に、容赦なくビシビシと背中をつつかれる。その程度には、父親はだらしなく相好を崩した。

 彼が可愛がっているのは、愛する妻に似た、まだ幼い下の二人だ。けれど、信を置いて頼もしく感じているのは、記憶に優れるエティだ。

 父親は、自身の知っていることを余すことなく教えた。そして、そのすべてを、エティは残らず記憶している。もちろん、知識のみならず、乗馬も護身術もすんなりと物にした。

 エティが男だったら、と口にする者はいない。けれど、少なからず思う者はいるもので、時々そういった視線に気づくことがある。

「いつか、彼に会えるといいね」

 小さな頃から聞き分けがよくて、本当に手がかからなかった。駄々をこねられた覚えなど、一度もない。誰もがそう言うエティが初めて、彼に会ってみたいと言ったのだ。

 両親としては、叶えてやりたいのだろう。けれど、彼らの表情には、複雑な感情が見え隠れするだけだった。

「そうだ。今夜はエティが、これを預かってくれないか?」

 父親は胸ポケットから、何かをスッと取り出す。光沢のあるベロア生地で作られた、手のひらにすっぽり収まる小袋だ。

 その中身を察したエティは、わずかに目を見開く。

(なぜ、それを……?)

 預からなくてはいけない理由を問い詰める言葉が、喉まで出かかった。だが、硬い決意に満ちた父親の表情に、結局声にすることはできないままだ。

「……わかりました。今夜だけ、お預かりします」

 手の平に乗せられた重み以上の、責任。

 胸中に襲来する、ひどく不吉な予感。

 苦いものに押しつぶされそうで。してはいけない詰問をして、うっかり困らせてしまいそうで。

 エティは弟妹に不安を与えないよう、懸命に笑顔を作る。

 小袋を両手でしっかりと握り締めて、何でもないふうを装う。どうにか自室へ戻るだけで、本当に精一杯だった。

 幸福な時間は、望む限りいつまでも続くものだ。明日も、今日と変わらず、家族がそろって笑い合える。まったく疑うことなく、頭から信じ込んでいた。

 何気ない幸せが、これほどあっさり消えてしまうものだと、知らずにいた。

 閉じた目尻から、すうっと涙があふれてこぼれ落ちる。それが、ブラウンの髪をしっとりと濡らす。

「──っ!」

 不意に夢から覚め、エティはヒュッと息を呑んだ。

 慌てて隠し物を探し、そっと触れる。今もなお、そこに間違いなく存在していることを確認した。

 余計な力の入った体を休めるように、ホッと安堵のため息をつく。

 幸いなことに、身体検査はされなかったらしい。夜の闇とスカートの布に隠されて、これは見つからなかったようだ。

 これを失くさない限り、何があろうと、エティが自分を見失うことはないだろう。

(……ここは、どこでしょうか?)

 何かにガクンと乗り上げたと同時に、横からドンとぶつかられたような。馬や馬車とはまったく違う、あまりに独特の揺れ。

 ジッと考えごとをしていると、何だか胸がムカムカしてきた。

 年季の入った、これまで見覚えのない天井。手に触れるベッドの感触が、自分のものとは異なること。部屋全体がゆらゆらと、不思議な揺れ方をしていること。

 これだけ情報があれば、居場所の推測は十分可能だ。

(船、ですね。かなり上等な客室のようですが……)

 そもそも、なぜこんなところにいるのか。

 懸命に記憶をたどる。そうして、叔父とともにいた誰かに薬をかがされて、意識を失ったことを思い出した。

 身を起こしたエティは、わずかに眉根を寄せて不安げに見回す。

 真っ先に、きちんと手入れの行き届いた、使い込まれた調度品が目に入る。その質の良さと揺れ方から、大型船の上等な個室にいると目星をつけた。

(いったい、どの国の船なのでしょう?)

 好みでない手触りのベッドから、エティはスルリと降りる。

 足にベッタリまとわりついてくるスカートに、否が応でも苦労させられる。それでもどうにか、海に面した小さな窓へたどり着けた。

 何か見えないかと、グッと背伸びをして、エティは窓を見上げる。直後、鍵が開けられる音に、思わずドアを振り向く。

「お目覚めかな?」

 服装はごく普通の商人のようで、口調も丁寧だ。他国の癖が感じられるものの、言葉自体はデュヴァリエールのものだった。

 ただし、目に宿る光が普通の積荷を扱う商人ではない。

 それを即座に見抜いたが、エティは素知らぬ振りを貫く。

「どこへ、行くのでしょうか?」

 余計なことを知っていると、絶対に勘づかせないように。行き先次第では、うまく逃げ出す好機もあるのではないか。

 いろいろと考えているエティからの問いかけは、あくまで端的だ。

 しかし、男は何も言わず、エティを上から下までなめ回すように眺める。舌なめずりをしそうな、いやらしい笑みを口元に浮かべて、すぐさま出ていってしまった。

(逃げ出す素振りさえ見せなければ、目的地に着くまでは、この部屋に閉じ込められているだけのようですね)

 冷静に分析したエティは、今の男が自分を高く売れる商品と踏んでいると、これが売買目的の人間を乗せている船だと推測する。同時に、人身売買では特に十代前半より幼い子供がもてはやされる実態を思い出す。自分でもいい収入になると思われているのだから、居所が知れない弟妹の命は無事であるだろうことも推測できた。

 金持ちの愛玩になってしまう前に二人を助け出したいが、同じく捕らわれの身である今のエティにはどうすることもできない。

「せめて、国籍がわかれば……」

 海に面した小さな窓やドアの覗き窓から得られる情報はなく、どの国の船を語っているかを知るだけで気分が違う。自国に出入りしている船というだけでは、あまりにも数が多すぎて絞り込むこともできなかった。

 唐突に視界がぼやけたことで、涙がこぼれそうになっているのだと気づく。エティは急いで、鼓舞するように手の甲で乱暴に涙を拭き取る。

(まだ、終わっていません。ジルを見つけ出してステルブールの『星』を渡すまで、何としても生き延びなくては)

 豊富な知識を活用し損ねたエティはベッドに座り込んで、低い汽笛が間近に聞こえゆっくりと船が動き出した瞬間にただぼんやりしているしかできなかった。

 室内の物色も終えて退屈し始めたエティのところに、先ほどの男が食事を持ってきた。ついでと言わんばかりに欲しいものを尋ねられる。迷うことなく櫛と手鏡、それから本を何冊か持ってきて欲しいと頼んだ。

 本を所望したことで、男は呆れた顔で出ていった。彼を見送り、果たして読んだことのない本が一冊くらい混ざっているだろうかと思案する。

(期待はしない。それが無駄な絶望をしない最善の方法……そうですよね、お父様)

 剣の腕が立つ母と、英知に富んだ父。

 二人が揃っている限りは無事でいると信じたかった。だが、両親が生きているならば、自分が叔父の手に落ちてこんな船に乗っているはずがない。その現実を、エティは痛いほど理解していた。

 生きているだろう弟妹を救い出すことだけが、今のエティに残された生への執着だ。

 カチャリ、とドアノブが動く音で現実に引き戻される。顔だけを向ければ、例の男が頼んだものを抱えて入ってきたところだった。

「この船に本はこれだけしかなかった」

(デュヴァリエールの本しかありませんね……偶然でしょうか?)

 自国語で書かれた背表紙に、情報制限をしているのではないかと疑念を抱く。だがすぐに、他国語の本を渡して読めなかった場合に、文句を言われたくなかったのだと解釈する。

 知識が増えることを楽しんでいたエティは、多国語を好き好んで学んでいた。しかし、他国へ嫁ぐことを前提にしていないごく普通の貴族令嬢が、わざわざ持っている知識ではない。

 読んだことのある本だと表題でわかり、ため息をつきたくなった。それでも、他にすることがないので仕方なく目を通す。新鮮さも面白みもないが、多少の退屈しのぎには役に立つ。

 一日中ベッドを椅子代わりに、読書ばかりで動かないエティに合わせたのか。以後の食事も、口当たりと消化のよいものが用意された。

 食事を持ってくるのは、最初に顔を合わせた商人風の胡散臭い男。他の乗組員は、この部屋に近づかないよう厳命されているのか、通りかかる姿さえ見かけない。こちらは情報制限と考えてよさそうだった。

(まだ着かないのでしょうか……)

 船が出港してから三日目。食事のタイミング、窓から差し込む光の加減で、現在の時間は推測できていた。そこからエティは、方角と航海距離で船の目的地を導き出そうとする。

 わざわざ遠回りで大陸の反対側にでも向かっていない限り、どこかの国に着いてもおかしくない時間。それだけを海の上で過ごしているというのに、到着する気配は感じられなかった。

(この船は奴隷船なのですから、目的地は限られています)

 ふと思い当たった可能性に、エティはそれまで頭の中で描いていた航路を変更する。

 船の進行方向左手が見える、エティが閉じ込められた部屋の窓からは海しか見せてくれない。この船が、リヴァルーク方面に進んでいることだけは確かだった。

 そこで考慮しなくてはいけないのが、リヴァルーク王の奴隷商人嫌い。

 余った国費を奴隷撲滅に注ぎ込むほど嫌悪している事実は、恐らく大陸中に知られている。また、まれに領海を通る船に抜き打ちの積荷検査を行うことも、広く知られているだろう。接触しないことが一番と、リヴァルークの領海を通らない場所を選んでいると推測し直したのだ。

 デュヴァリエールから南下しなかったのは、エティが暮らしていた場所が北東の端だからだろう。南下して大回りをするよりは、領海を避けてでもリヴァルークを抜けた方がよほど近い。そんな国へ行こうとしているのだ。

(仮にリヴァルーク側が積荷や乗客を調べに来たとしても、私は旅行中の貴族令嬢と見なされて放って置かれるでしょう)

 だが、彼女の他に乗せている商品には、言い逃れができない扱いをしていることは想像に難くなかった。

 領海から離れて航海した場合の動きと、推定される現在位置。それらを頭の中の地図に書き込んだエティは、この先で高級奴隷を買えるだけの資産を持つ人間の多い国を探す。

(カルニサーニャ、でしょうね……)

 れっきとした法治国家でありながら、色におぼれて政治を省みない王が支配する、無法地帯と評判の国。街の中に堂々と奴隷市場が並び、底辺の暮らしはその日を生き延びるだけで精一杯だという。そのくせ、頂上は他国の王族を凌ぐほどの大金持ちだ。

 入国させられたが最後、よほどの幸運に恵まれない限りは逃げ出すことなどかなわないだろう。

(話のわかる人が買ってくれる保証など、どこにもありませんものね)

 もう、弟妹に会えないかもしれない。

 じわりと浮かんだ涙を指で拭い、膝に手を置く振りで隠した小袋に触れる。

 かの国で奴隷となってしまえば、自分に与えられていた地位を証明する必要は一切なくなる。弟妹を助けに行くことなど、夢のまた夢だ。運良く話のわかる人間に買われる可能性など、限りなくゼロに近いだろう。

 懐かしささえ感じる弟妹の笑顔を思い出す。また胸が詰まって、ほろりと涙がこぼれそうになる。

 その瞬間、後ろから何かがぶつかってきた。あまりの衝撃に、ただ座っているだけだったエティの軽い体は、簡単にベッドから転がり落ちる。驚きと痛みで、こぼれかけていた涙も引っ込んでしまった。

「っ!」

 しこたまぶつけた膝をなでる。にわかに騒がしくなった船内の様子をうかがうため、そっとドアに近寄った。

「襲撃だ!」

 忙しく走り回る足音や怒声の中で、何度も繰り返された様々な言語のその言葉。

 エティは小首を傾げ、右手を頬に当てて考え込む。

(海軍? それとも、私掠船かしら?)

 どちらにしても、鍵のかけられた船室から逃げることなどできない。成り行きに身を任せるより外にないエティにとっては、あまりいい状況とはいえなかった。

 目を閉じ、こぼれ出ようとする涙を手のひらで何度も何度も拭う。

 望むものがあるとすれば、襲撃した側がリヴァルーク王国の船であることだけだ。


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