乗り込んだ船 2
アン・カルロッテ号の甲板には、着々と茶会の準備が整っていく。
エティがそれを真剣に眺めている間に、ヴァルはヘンリエッタ号に戻った。乗組員にざっくりと事情を説明して、今はエティのそばにいる。
慣れた手つきでテーブルと椅子を運び出し、並べていく中隊長たち。師団長が手を出そうとすると、彼らが慌てて止めるといった光景が見られた。
ちなみにエティも、早々に手伝おうとして却下された一人だ。
「ヴァルが同じことをしても、止められるでしょうね」
「止められるのは、俺じゃなくてお前だろうが」
心外だと言いたげに、エティはジーッとヴァルを見上げる。
そもそも、エティは止められたところで止まりはしない。そのまま突っ切ることが基本だ。制止に従うのは、そうする理由がある時に限られていた。
ヘンリエッタ号の乗組員たちは、最近、そのことに気づき始めている。
いまだにエティを本気で止めようとするのは、もはやヴァルくらいだろう。
「私は、簡単に止まりませんよ?」
「知ってる」
簡潔に返された言葉で、胸がじんと熱くなる。秘めた想いが、ひと息に加速しそうだ。
嬉しくて、ジッと見つめたままでいると、不意に視線がこちらを向いた。
そういう勘の鋭いところも、好きだと思う。
「……どうした?」
「たいしたことではありません」
ごまかすために、ニッコリ微笑んで告げる。明らかに訝しんでいるヴァルの視線には、まったく気づかない振りを貫く。
彼にとって不要なものだから、一時的に封じると決めたのだ。そんな気配はおくびにも出さず、じわじわと絡めとるために。
とはいえ、そこまで器用な真似ができるか。そう問われたら、エティは恐らく否定するだろう。
アーサーたちを含め、エティの気持ちを知っている者には、しっかりと口止めをしてある。それでも、誰かの口からうっかり、真実がこぼれないとは限らない。
船を捨ててでも、欲しいと言わせる。それまでこれは、決して知られてはいけないものだ。
「さて、アンリエット嬢にヴァレンティン殿下。準備が整ったので、こちらへ」
慣れない敬称のつけられた、久しぶりに聞く本当の名前。それに戸惑ったのは、何もエティだけではない。
「俺のことはヴァルでいい」
「私は最初に、エティと名乗りました。そうお呼びください」
「そうか、わかった。ではエティにヴァル、こちらへ」
大きな楕円の机を取り囲む形で、ぐるりと椅子が並べられている。その中のひとつにエティが座った。彼女の右隣にヴァルが腰を下ろす。
師団長は、エティのほぼ正面に座る。
ヴァルの右も、エティの左も、必然的に中隊長たちが座ることになった。
「まずは、こちらの自己紹介をするべきだな。私は師団一番の師団長で、トビアスという」
セオドアより少し年上だろうか。師団長はそう名乗る。彼に続き、中隊長たちも順に名乗っていく。
(師団長がトビアス様で、彼の右がサムエル様、左がマウリッツ様。ヴァルの隣がホーカン様で、私の隣がスティーグ様。ホーカン様とスティーグ様の間が、アンスガル様ですね)
顔と名前を一致させると、エティは彼らに向かってにこやかに微笑む。
「では、このような茶番に巻き込んだ理由を、お聞かせ願えますか?」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を出したのはヴァルだけだ。ヴィストレームの面々は、なぜかやけに楽しそうな顔をしている。
「その前に、マウリッツの淹れた茶を飲んでやってくれ」
「そうですよ。師団長の秘蔵の茶葉を、僕がブレンドしたんです。ぜひ、感想をお聞きしたいものですね」
さすがに、セオドアの協力者というだけはある。どうやら、一筋縄ではいかないようだ。
仕方なく、エティは目の前に置かれたカップを手に取った。口元へと近づけると、その香りにピシッと硬直してしまう。
動きが止まれば、明らかに不自然になる。それでも、一度固まってしまった体は、簡単には動いてくれない。
「……エティ?」
ヴァルがこっそりと囁きかけてきた。その声には、心配が特に多く含まれている。
それでようやく、エティは我に返ることができた。
「……このお茶には、ステルブール伯爵領で採れた茶葉が入っていますね?」
問う形を取ったものの、確信がある。
独特の鋭さと甘みを含む香りは、他の茶にはあまりない。もちろん、味にも自信はある。慣れ親しんでいるものの匂いだから、エティにはすぐにわかったのだ。
ただし、手に入れるのは容易ではない。
栽培しているのは、領民のためだ。毎日飲むものだから、他から茶葉を買えば、どうしても大きな負担になる。領内で作ったものはステルブール伯爵家がすべて購入し、領民に無料で配っていた。その金銭が、茶畑で働く者たちへの給金となっている。
それでも余ったものを、時々、欲しがるよその人に売ったことはある。量が出回らないものだから、当然のように割高だ。
「おお、香りだけでわかるとは、さすがですね」
「毎日口にしていたものですから」
自宅でくつろぐ時には、必ずこの茶が出されていた。たとえ、さまざまな香りと混ざろうと、それがわからないはずがない。
わざと試すようなことをしたのか。それとも、単に歓迎の意を込めたのか。そこがはっきりしないため、エティは内心でグッと眉を寄せながら、ゆっくりと茶を口に含む。
まろやかな甘みは、ステルブールの茶葉だろう。そこに、ほのかな苦みが出てくる。ゆっくりと広がる甘みと苦みは溶け合い、スルリと喉を通り抜けていく。
まったく引っかからない、爽やかな喉ごしだ。
「師団長は茶葉を趣味で集めていますからね。この茶は、ユルハイネンのアスピ地方の茶葉と、ファルドラッティのクリッパ地方の茶葉、それから我が国で採れた茶葉をブレンドしたものです」
「……お前、容赦なく高い茶葉ばかり使ったな?」
「今ここで使わずに、いつお使いになられるんです? 趣味で集めるだけ集めて、棚の中にただ飾っているのは、宝の持ち腐れと言うんです」
「師団長がマウリッツの好きにさせたんですから、仕方がないですよ」
ホーカンから突っ込みが入り、トビアスは苦笑いを浮かべるしかなかったようだ。妙に渋い顔のまま、黙ってカップに口をつける。
「……ステルブールの茶葉は、残り少ないから貴重なんだぞ。しかも、うまいくせになかなか手に入らないんだ」
「わかっていますよ? だから、あえて出したんです」
どうやらマウリッツは、茶にはかなりこだわりがあるようだ。同時に、茶を淹れる腕前も相当らしい。文句を言いながらも、トビアスはおいしそうに茶を飲んでいる。
「さて、本題だが」
世間話をするかのような軽さで、トビアスが不意に切り出した。思わず、エティは背筋をピンと伸ばす。
「ああ、そうかしこまる必要はない。単に俺たちが、セオドア王の後継者たちと話をしてみたかっただけなんだ。何しろ、話や噂では聞くんだが、実物にはなかなかお目にかかれなくてね」
「……そんな理由で、ここまで来たのですか?」
もっと明確な理由が、悪意を持って隠されているのでは。
どうしても、裏の裏まで考えてしまう。
たとえ彼らが、セオドアの協力者であっても、だ。
「我が王は、何も知らないからね。天使を手に入れれば、ヴィストレームの名が畏怖を持って囁かれると信じている、子供のように純真な方なんだ」
(本音はこちらで読み取れ、ということでしょうか……)
トビアスはにこやかな顔で、耳に障らない言葉を選んだ。けれど、本心は違うのだろう。
それが本音であれば、ちっとも笑っていない目に説明がつかない。
「私はその命令を利用して、セオドア王の後継者に会いに来たという寸法さ」
彼はまだ、何かを隠している。それはわかるのに、隠しごとまで一向にたどり着けないのだ。
あまりにもどかしくて、エティは少しでも落ち着くために、茶で喉をしっかりと潤す。
「……私は、ヴィストレームの船をこの目で見るために、こちらへ乗り込みました。船内も見たいと思っていたのですが、本日はお暇した方がよさそうですね」
「おや、帰るのか? では、またそのうちに会いに来るとしよう」
トビアスも中隊長たちも、まったく残念がっていない。むしろ、ここで腰を上げたエティに対し、評価を高めたようだ。彼らの瞳が、表情が、ありありと伝えてくる。
(胸のうちの探り合いは、あまりしたくはありませんが……)
また会いに来る。そう言ったのだから、どんな手を使ってでも実行するのだろう。
その時までに、彼らの情報をできるだけ手に入れておきたかった。その上で、戦う準備をしっかりと整えなければならない。
「ふむ……いい目だな。女にしておくのが惜しい目だ」
「男であったなら、とは何度か言われたことがありますから」
「なるほど……ますます興味が引かれるというものだな」
返事はせず、エティはすっくと立ち上がる。すぐにヴァルも立ち上がり、エティの手をギュッと握った。
大丈夫。そう伝えるために、大きな手をキュッと握り返す。
「それでは、失礼させていただきます」
「ああ、そうだな。また今度、ゆっくり話そうか」
はっきりと返事をすることは避け、エティはニッコリ微笑む。トビアスも、グッと笑みを深める。
ヴァルに手を引かれて、エティはヘンリエッタ号への不安定な道を渡った。
渡し板を外したとたんに、アン・カルロッテ号がガクンと揺れる。動力を動かし始めたのだろう。
(ヴィストレームの、トビアス師団長……)
彼らは本当に味方なのか。はたまた、実は敵なのか。何もわからないまま、ただ翻弄されてしまった。
その事実が、ひたすら悔しい。
「ヴァル……戻りましたら、伯父様に詳しいお話をお聞きしましょう?」
どこか冷えたエティの声に、ヴァルは一瞬身を引く。けれどすぐに、「そうだな」と同意した。
セオドアが黙っていた理由は、いくつか考えられる。そのどれであっても、もしくはすべてであっても、彼を責める気はない。
(私は、ヘンリエッタ号だけでなく、リヴァルークの守護女神になると決めたのです。今回の件は、私を見極めるためのものでしょう)
不測の事態が起きた時、どう判断して、何をするか。初手で遅れをとった分を、いったいどこで挽回するのか。
それどころか、そもそも、セオドアの後継者にふさわしいのか。
すべて含めて、恐らくは試されているのだ。
それも、セオドアではなく、彼の協力者の独断によって。そして、セオドアは、彼らの動きを知っていて止めなかったのだろう。
(彼らの情報を一から探るとしても、先が思いやられますね)
ヴィストレームの協力者でも、エティのことを知っている。当然、その他の国にいる協力者も知っているだろう。
彼らの情報を得る、自分だけの手段が欲しい。
そのために必要なことは──。
目まぐるしく思考を働かせたエティは、ふとヴァルを見上げた。
「ヴァル。陸に戻ったら、伯父様に夜会を開いていただくか、茶会の主催の許可をいただきます」
これはもう、決定事項だ。
「それから、私はしばらく陸で過ごします。申し訳ありませんが、ヘンリエッタ号のことはヴァルにお願いしますね」
「……何をする気だ?」
船を離れることを、ヴァルは何も言わなかった。
エティが何を考えているか、彼には正確につかめていないだろう。それでも、危険がない限り、止めることはしないのだ。
ヴァルににこやかな笑みを向けた後、エティはアン・カルロッテ号が去っていった方向をジッと見つめる。
「事前に知ることのできた話を、見落としていた私の失態です。二度と、このようなことは起こしません。そのために必要なことを、私にできる範囲でやりたいのです」
下手をすれば、ヘンリエッタ号の乗組員まで危険にさらしていた。到底許される話ではない。
他の誰が許しても、エティ自身が許せないのだ。
何気なく見上げたヴァルは、何か言いたげな顔をしていた。けれど結局、言葉にはしないまま、短いため息をひとつこぼす。
(……これから、忙しくなりそうですね)
戻ったらすぐにやらなければならないことを、頭の中に優先順位をつけて並べていく。
「あ……では、洗濯物を干してきますね」
途中かけで放り投げてしまったことを、今さら思い出したのだ。
誰かがやってしまっていたら、探してお礼を言わなければいけない。やりかけだったら、半分くらい乾いてしまって、妙なシワができている可能性もある。
どちらにしても、仕事が増えるだろう。
それもこれも、残らず自身の失態からきたことだ。甘んじて受け入れる覚悟など、とっくにできている。
軽く息を吐き出して、エティは干し場へと向かった。