乗り込んだ船 1
ヴィストレームのアン・カルロッテ号は、あっという間に近づいてくる。互いの顔が見える距離で、きっちりと横づけにした状態で停泊した。
穏やかな波を受け、時々船体が接しそうになる至近距離だ。
甲板には、何人かの男たちが立っていた。誰もが金色でやや癖のある髪と、薄青色の瞳を有している。年頃は、セオドアと変わらないか、少し年下といったところか。
全員が同じ恰好をしていることからも、彼らはヴィストレームの軍人なのだろう。
「リヴァルークの、ヘンリエッタ号だな?」
責任者と思しき男が前に進み出て、声を張り上げた。やはり大きく前に出たヴァルは、軽く頷くだけに留める。
「そちらの船に乗っている、天使に会わせてもらいたい」
「この船にそんなものは乗っていない」
それは事実だ。
あくまで、人の噂で『天使』などという大それたものにされている。ただそれだけだ。エティ自身は、デュヴァリエールで生まれ育った、単なる貴族令嬢に過ぎない。
「……隠し立てする気か?」
「何なら、隅から隅まで調べてもらってもいいぞ?」
彼らがどんな『天使』を想像しているのか。それは、エティにも推測しかできない。
けれど、『天使』という存在は、どの国にもある神話の類いに出てくる。神々の使いとして、人々にたくさんの幸福をもたらすとされている存在だ。
その印象を抱いていれば、あれほど懸命に探すのも無理はない。
(……なぜ、わざわざ『天使』を探しに来たのでしょうか)
ある意味、ヴィストレームは恐ろしいまでの現実主義だ。抽象的なものより、はっきり目に見える形を求める。人の記憶や心など、あってないものの扱いのはずだ。
無償で他人を助けることが、かの国にいったいどんな恩恵をもたらすというのか。
もしかして、そんな夢にすがりたくなるほど、ヴィストレームの情勢が悪化しているのか。
考えて、エティはすぐにそれを否定する。
少なくとも、エティの知る限り、ヴィストレームは非常に安定した国だ。軍が支配するようになって、ずいぶん長い期間が過ぎている。民からの不満が、いまだに噴出していない点をかんがみても、大きな問題はないだろう。
(……乗り込まれるよりは、乗り込むことに利があるのですが)
しかしヴァルは、エティをアン・カルロッテ号に向かわせない可能性が高い。
こちらが戦場になる分には、相手を追い出すだけで済む。しかし、向こうで戦闘になった時には、どうにか活路を開かなければいけない。しかも、急いで退却する必要に迫られるからだ。
船を渡る時間を稼ぐだけでも、確実にひと苦労する。
それでも。
「ヴァル、行きましょうか」
このヘンリエッタ号を、絶対に戦場にはしたくない。汚されたくはないのだ。
ニッコリ微笑むエティに、覚悟を決めたのだろう。ヴァルはひとつため息を吐き出し、すっかり諦めた顔でエティにスッと手を差し出す。そこに自身の手をそっと重ねて、エティは満足げな笑い声をこぼす。
「一度、ヴィストレームの軍艦を見てみたかったのですよね」
「……頼むから、余計なことはするなよ?」
「明言はしません」
そもそも、見慣れない他国の船だ。それも、商船ではないし、ヘンリエッタ号ともまた違う。
これまで縁のなかったものに堂々と乗り込み、間近ですべてをつぶさに観察できる絶好の機会だ。みすみす逃す手はない。
「あまり夢中にならないよう、気をつけはしますが……難しいでしょう」
存分に気をつけたところで、知的な好奇心には絶対に勝てないのだ。それは、今まで生きてきた時間の中で十二分に自覚している。
デュヴァリエール出身の、単なる貴族令嬢。
それで通用するうちに、無事に退散できるかどうか。何もかも、そこにかかっているだろう。
「……まあ、最悪、どうにかするさ」
普段のヴァルであれば、「どうにかしてやる」と言ってくるところだ。
軍事国家をうたうヴィストレームの軍人たちを相手取るには、さすがに不安が大きいのだろう。
多大な希望的観測を含んだ声に、エティは思わずヴァルをジッと見上げる。
「そうですね。どうにかしましょう」
エティの知識の中には、当然のように、ヴィストレームの弱点に匹敵する情報も入っている。それをどう使うかは、ヴィストレームの出方にかかっているのだ。
「もし、奴隷商船がいたら、すぐに追いかけろ。俺たちはこっちでどうにかする」
そう言い置いたヴァルに手を引かれ、渡された板をゆっくりと渡る。
初めて、こうして船を行き来した時は、ヴァルに抱き抱えられていた。先だっての奴隷商船の時は、船室でジッとしていた。
自分の足でこの板を渡るのは、実は初めての経験だ。
波に揺れる船の動きで、板は上下に揺れる。慣れない動きに、どうしても足がすくみそうになってしまう。
(……ヴァルがいてくれるのですから、大丈夫です)
乗せていただけの手で、大きくて硬い手のひらをギュッとつかむ。すぐさまグッと握り返してくれたヴァルに、嬉しくなって顔がふわりとほころぶ。
こんな簡単なことで、こんなにも喜べる。自身の単純さに呆れつつ、エティはにこやかに板を渡っていく。
甲板に下ろした靴を鳴らし、エティは小首を傾げてニッコリ微笑む。
「初めまして、ヴィストレームの方々。私はデュヴァリエール出身のエティと申します」
簡素なカートルに、髪を首の後ろでひとつに束ねただけ。そんなエティだが、挨拶は恰好に似合わず優美だ。
指先にまでしっかりと気を配る姿は、ここにないドレスすら見せてくれる。
「遠路はるばる、私に会いに来てくださり、大変嬉しく思っております」
完全に呆気に取られ、誰も口を開かない。そんな状況で、エティはさらに自己紹介を続けていく。
「私は、デュヴァリエールでは、伯爵令嬢と呼ばれております。偶然、このヘンリエッタ号に乗り合わせました際に、奴隷商船から解放された方々を看護いたしました。私は、領民でなくとも、困難にある方を助けるよう言い含められて育ちましたもので」
エティは身分や、なぜ『天使』と呼ばれるに至ったかの経緯を、サラリと告げる。そのことに、ヴァルは驚きを隠せないようだ。
まじまじと、ヴァルはエティを見つめている。
一時も微笑みを絶やさないエティは、どこからどう見ても、立派な貴族階級の令嬢だ。カートル姿で甲板を平然と歩き回っていることなど、微塵も想像させない。
「私には、特別な力は何もございません。ただ、貴族としての義務を果たしたまでです」
これですっぱり諦めてくれる相手ならば、取り立てて身構える必要はなかった。一筋縄ではいかないからこそ、ヴァルも警戒していたのだ。
あくまで笑みを浮かべたまま、エティは小首を傾げてヴィストレームの出方を待つ。
しばらく呆然としていた軍人の一人が、ハッと我に返る。チラリと階級章を確認すれば、師団長と言われる階級のものだった。
ヴィストレームの軍は、まず十人ほどの小隊で形成される。その小隊を十集めたものが中隊で、五つの中隊をまとめたものが師団だ。師団長は、その師団の責任者というべき立場になる。
そして、この師団長の階級章には、所属する師団の番号も入れられていた。
(……師団一番、ですか……大物が出てきているのですね)
師団一番は、国王に最も信を置かれている、ヴィストレーム最強の師団だ。軍人たちは、ここへ入ることを夢見て鍛錬している。一番から落とされるのは大きな恥であり、失意のあまり辞めてしまう者もいるほどだとか。
ついでとばかりに、他の軍人を見回す振りで、階級章を確かめた。やはり、一番の中隊長五人だ。他にも当然、戦力を乗せているだろう。
(……戦って、無事に済むとは思えませんね)
もし戦ったなら、確実にこちらが切り捨てられる側になる。
師団長の視線は、微笑むエティを上から下まで、じっくりと通り過ぎていった。決して不躾ではなく、どちらかと言えば値踏みするものだ。
「この娘を買おう。いくらだ?」
「お断りします」
真顔のヴァルが拒否するより早く、エティがきっぱりと言い切る。
「私は品物ではありませんから、私自身の意志で居場所を決めます。それは、誰にも覆すことはできません」
エティは、リヴァルークで生きると決めたのだ。それをわざわざ邪魔する者には、絶対に容赦しない。
「ふむ……リヴァルークの民になる、ということか?」
「そうですね。今の私には、デュヴァリエールに戻る理由がありませんから」
「まあ、そうだろうな。リヴァルークの次の王を決める娘なんだ。セオドア王が手放すはずがない」
驚きを隠すエティは瞬きを繰り返し、不思議そうな顔で首を軽く傾ける。その姿は、本心からわかっていないようにしか見えなかった。
「私が、そのような大それた娘だと、お思いなのですか?」
よくよく見れば、服装は庶民そのものでしかない。しかし、所作はまぎれもなく貴族令嬢のそれだ。
まったくごまかしようがないことは、エティにも痛いほどわかっている。
「左の目尻にほくろのある、デュヴァリエールの娘。それに当てはまるのは、お前くらいだろう?」
「……そうでしょうか? しっかりと探せば、いると思いますが」
いったい、どこまで情報をつかんでいるのか。
片頬で笑う師団長を、エティは目を細めて笑いながらジッと見つめる。
余裕のある表情は、決してはったりではないと示していた。
もっとも、知られていることは仕方がない。あれほど大々的にやれば、間者から情報が流れるに決まっている。当然、他の国でもエティのことはきっちり把握されているだろう。
まさか、ヴィストレームの間者が堂々と入り込んでいるとは、思ってもいなかっただけだ。
「探された上で、私が王位を決める娘と思われたのでしたら、その理由をお教えいただけますか?」
目を逸らさず、瞬きも減らして、エティは師団長をジッと見つめる。その視線を受け止めた師団長は、不意に笑い出した。あまりにも楽しげで、エティは思わず怪訝な顔を向けてしまう。
「ヴィストレームの船とわかっていながら、ほぼ単身で乗り込んでくる娘だぞ? それだけ度胸があれば、リヴァルークの王を見極めるくらい、大したことじゃないだろう。大方、ヘンリエッタ号に乗っているのは、ヴァレンティンを最も有能と認めたから、といったところか?」
(なかなか、鋭い方ですね……)
自信ありげな様子の師団長に、エティは舌を巻く。
だが、所詮は推測だ。大きく外れはしないが、当たっているわけでもない。
ヴァルが候補者の中で最も有能であることは、誰もが知っていることだ。ただ、エティが船に乗ったのは、ヴァルを見極めるためではない。そんなものは、もうとっくに終わらせてある。
単純に、ヴァルのそばにいたい。彼の助けになりたい。
それが、ヘンリエッタ号に乗る唯一の理由だ。
「……私が王位を決める娘として、何かご用ですか?」
「いや、特に用はない。我々は、リヴァルークの天使を探しに来ただけだ。王位を決める娘に興味はない」
ジーっと見つめてから、おおよそそのとおりだろうと判断する。
彼には、エティをどうこうしようという意思はない。天使が手に入るなら、入手してみたかった。本当に、ただそれだけだろう。
「天使は、しがない貴族令嬢です。がっかりしましたか?」
「いや、むしろ興味が湧いたな」
「……なぜですか?」
強さを求めるヴィストレームにとって、エティはその基準に届かないはずだ。何しろ、護身術しか、身を守る術がないのだから。
いったいどこに、興味を持ったというのか。
「誰彼問わず無償の施しができる理由が、知りたくなった」
「それは……私が貴族だから、としか言いようがありません」
エティにとっては、あくまで、貴族としての責務に過ぎない。
領民をきちんと守ることで、税として返してもらえると、理解しているからだ。
もっとも、その義務すら果たさず、権利ばかり主張する貴族が圧倒的に多い。それもまた事実だった。
れっきとした、由緒正しい貴族が減っている今、珍しいと言えばそうなのかもしれない。
もちろん、それだけでなく、ヴィストレームには貴族という階級が存在しない。王族か、軍人か、庶民か。それだけだ。ゆえに、貴族の持つ義務というものが、根本的に理解できないのだろう。
「貴族であれば、誰でもできるのか? 違うだろう?」
「……そう、ですね。訂正しましょう。私が、昔ながらの貴族の家に生まれ育ったから、としか言えません」
エティは、他に言い方を知らない。いや、違う言い方に変えられないのだ。
果たすべき義務であって、お人好しの善意ではない。たとえ敵であっても、弱っていたら手を差し伸べるだろう。
貴族と呼ばれる存在であるなら、そうあるべきだ。
「……ふむ、まあいい。もう少し、話をしたくなった。中で茶でも飲んでいかないか?」
ニカッと笑う師団長に、一瞬、不審な目を向けてしまった。だが、すぐに表情を取り繕う。
これまで目にする機会のなかった、ヴィストレームの軍艦の中。それを、船内で茶を飲むとなれば、この目で見ることができるのだ。
またとない機会に、心がグラグラと揺れる。
(……ですが、船内に入ってしまえば、逃げ出すことは容易ではなくなります)
逃走の必要が出た時に、ヴァルにいらない苦労を背負わせてしまう。それどころか、ヴァルだけ命を奪われる危険も考えられた。
「……これだけいいお天気ですから、ここでお茶を飲みませんか? テーブルと椅子を運ぶのは、少し大変かもしれませんけれど、きっと気持ちがいいと思います」
無条件に信頼する存在ではない。
熟慮した末に、エティは、ヴィストレームをそう判断した。そのことが、師団長にも伝わったのだろう。彼はひょいと肩をすくめ、仕方なさそうにため息をこぼす。
「わかった。では、そうしよう」
さっさと部下に指示を出し、師団長だけがここに留まっている。
エティは、知らず知らず力の入っていた手から、少しずつ力を抜いていく。しかし、その手をギュッと握られた。
驚いてヴァルを見上げたが、微妙に顔を逸らされている。その思惑は、エティの位置からはまったく探れない。
「そういえば、ヘンリエッタ号の主砲の具合はどうかね?」
「……え?」
師団長から落とされた爆弾に、さすがのエティも素で固まってしまう。
「つい最近、使ったんだろう? あれは、我が国が売ったものでね」
すでに使ったことを知っている。その情報の速さに、素直に驚かされた。
しかも、ヴィストレーム製の主砲だ。
そもそも、ヘンリエッタ号の装備に関しては把握している。けれど、それらがどこで製造されたものかは、エティもしっかりと調べてはいなかった。
「今度、セオドア王に感想を聞きたいものだね」
「……精度は、なかなかに素晴らしかったですよ。詳しくは、伯父上に聞かれるといい」
「そうさせてもらうか。ついでに、引き渡しに行くとしよう」
サラリと放たれた言葉に、エティだけでなく、ヴァルも呆然とする。
「知らなかったかな? 私は、セオドア王の協力者だよ。今日も、天使を探してこい、などと無茶振りされただけで、仮に見つけても連れ帰るつもりはなかったんだ」
人払いをした形になったからか。砕けた口調の師団長は片目をつぶり、いたずらっぽく笑ってみせた。
「我が王の無茶振りは相当でね……ああ、部下たちもわかっているから、ほどほどに話をして帰る予定だったんだよ。まさか、乗り込んでくるとは思わなくてね」
「……協力者……ですか」
すっかり呆気に取られたエティは、ようやくそれだけを呟く。
セオドアの協力者なら、詳しく知っていてもおかしくない話ばかりだ。とはいえ、完全に信用できる話でもない。
「まだ信じてもらえてないかな? ステルブール伯爵が娘、アンリエット嬢?」
頭を鈍器で思い切り殴られたような、大きな衝撃を受けた。
信じられない、とは、もう言えない。信じざるを得ない。
エティは本名を名乗らなかった。父の爵位も、口にしていない。百歩譲って、名前は先日のお披露目で明らかにされている。だが、爵位に関しては、セオドアから直接聞かなければ知り得ないことだ。
初めて会ったいとこたちも、エティがどこの伯爵令嬢かまでは知らないのだから。
「……とりあえず、あなたが伯父様の協力者であることは信じましょう」
「そうか、ありがとう」
師団一番の長というだけあって、とんだ食わせ者だ。
(……戻ったら、伯父様に協力者の名前を聞いておかなくてはいけませんね……)
知っていれば、すぐに事実かどうかの判断ができたことだ。知識にしなかったことを悔やんだのは、初めてだった。