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星の涙を流す娘  作者: 日咲ナオ
天使を乗せる船
21/25

乗り込んだ船 1

 ヴィストレームのアン・カルロッテ号は、あっという間に近づいてくる。互いの顔が見える距離で、きっちりと横づけにした状態で停泊した。

 穏やかな波を受け、時々船体が接しそうになる至近距離だ。

 甲板には、何人かの男たちが立っていた。誰もが金色でやや癖のある髪と、薄青色の瞳を有している。年頃は、セオドアと変わらないか、少し年下といったところか。

 全員が同じ恰好をしていることからも、彼らはヴィストレームの軍人なのだろう。

「リヴァルークの、ヘンリエッタ号だな?」

 責任者と思しき男が前に進み出て、声を張り上げた。やはり大きく前に出たヴァルは、軽く頷くだけに留める。

「そちらの船に乗っている、天使に会わせてもらいたい」

「この船にそんなものは乗っていない」

 それは事実だ。

 あくまで、人の噂で『天使』などという大それたものにされている。ただそれだけだ。エティ自身は、デュヴァリエールで生まれ育った、単なる貴族令嬢に過ぎない。

「……隠し立てする気か?」

「何なら、隅から隅まで調べてもらってもいいぞ?」

 彼らがどんな『天使』を想像しているのか。それは、エティにも推測しかできない。

 けれど、『天使』という存在は、どの国にもある神話の類いに出てくる。神々の使いとして、人々にたくさんの幸福をもたらすとされている存在だ。

 その印象を抱いていれば、あれほど懸命に探すのも無理はない。

(……なぜ、わざわざ『天使』を探しに来たのでしょうか)

 ある意味、ヴィストレームは恐ろしいまでの現実主義だ。抽象的なものより、はっきり目に見える形を求める。人の記憶や心など、あってないものの扱いのはずだ。

 無償で他人を助けることが、かの国にいったいどんな恩恵をもたらすというのか。

 もしかして、そんな夢にすがりたくなるほど、ヴィストレームの情勢が悪化しているのか。

 考えて、エティはすぐにそれを否定する。

 少なくとも、エティの知る限り、ヴィストレームは非常に安定した国だ。軍が支配するようになって、ずいぶん長い期間が過ぎている。民からの不満が、いまだに噴出していない点をかんがみても、大きな問題はないだろう。

(……乗り込まれるよりは、乗り込むことに利があるのですが)

 しかしヴァルは、エティをアン・カルロッテ号に向かわせない可能性が高い。

 こちらが戦場になる分には、相手を追い出すだけで済む。しかし、向こうで戦闘になった時には、どうにか活路を開かなければいけない。しかも、急いで退却する必要に迫られるからだ。

 船を渡る時間を稼ぐだけでも、確実にひと苦労する。

 それでも。

「ヴァル、行きましょうか」

 このヘンリエッタ号を、絶対に戦場にはしたくない。汚されたくはないのだ。

 ニッコリ微笑むエティに、覚悟を決めたのだろう。ヴァルはひとつため息を吐き出し、すっかり諦めた顔でエティにスッと手を差し出す。そこに自身の手をそっと重ねて、エティは満足げな笑い声をこぼす。

「一度、ヴィストレームの軍艦を見てみたかったのですよね」

「……頼むから、余計なことはするなよ?」

「明言はしません」

 そもそも、見慣れない他国の船だ。それも、商船ではないし、ヘンリエッタ号ともまた違う。

 これまで縁のなかったものに堂々と乗り込み、間近ですべてをつぶさに観察できる絶好の機会だ。みすみす逃す手はない。

「あまり夢中にならないよう、気をつけはしますが……難しいでしょう」

 存分に気をつけたところで、知的な好奇心には絶対に勝てないのだ。それは、今まで生きてきた時間の中で十二分に自覚している。

 デュヴァリエール出身の、単なる貴族令嬢。

 それで通用するうちに、無事に退散できるかどうか。何もかも、そこにかかっているだろう。

「……まあ、最悪、どうにかするさ」

 普段のヴァルであれば、「どうにかしてやる」と言ってくるところだ。

 軍事国家をうたうヴィストレームの軍人たちを相手取るには、さすがに不安が大きいのだろう。

 多大な希望的観測を含んだ声に、エティは思わずヴァルをジッと見上げる。

「そうですね。どうにかしましょう」

 エティの知識の中には、当然のように、ヴィストレームの弱点に匹敵する情報も入っている。それをどう使うかは、ヴィストレームの出方にかかっているのだ。

「もし、奴隷商船がいたら、すぐに追いかけろ。俺たちはこっちでどうにかする」

 そう言い置いたヴァルに手を引かれ、渡された板をゆっくりと渡る。

 初めて、こうして船を行き来した時は、ヴァルに抱き抱えられていた。先だっての奴隷商船の時は、船室でジッとしていた。

 自分の足でこの板を渡るのは、実は初めての経験だ。

 波に揺れる船の動きで、板は上下に揺れる。慣れない動きに、どうしても足がすくみそうになってしまう。

(……ヴァルがいてくれるのですから、大丈夫です)

 乗せていただけの手で、大きくて硬い手のひらをギュッとつかむ。すぐさまグッと握り返してくれたヴァルに、嬉しくなって顔がふわりとほころぶ。

 こんな簡単なことで、こんなにも喜べる。自身の単純さに呆れつつ、エティはにこやかに板を渡っていく。

 甲板に下ろした靴を鳴らし、エティは小首を傾げてニッコリ微笑む。

「初めまして、ヴィストレームの方々。私はデュヴァリエール出身のエティと申します」

 簡素なカートルに、髪を首の後ろでひとつに束ねただけ。そんなエティだが、挨拶は恰好に似合わず優美だ。

 指先にまでしっかりと気を配る姿は、ここにないドレスすら見せてくれる。

「遠路はるばる、私に会いに来てくださり、大変嬉しく思っております」

 完全に呆気に取られ、誰も口を開かない。そんな状況で、エティはさらに自己紹介を続けていく。

「私は、デュヴァリエールでは、伯爵令嬢と呼ばれております。偶然、このヘンリエッタ号に乗り合わせました際に、奴隷商船から解放された方々を看護いたしました。私は、領民でなくとも、困難にある方を助けるよう言い含められて育ちましたもので」

 エティは身分や、なぜ『天使』と呼ばれるに至ったかの経緯を、サラリと告げる。そのことに、ヴァルは驚きを隠せないようだ。

 まじまじと、ヴァルはエティを見つめている。

 一時も微笑みを絶やさないエティは、どこからどう見ても、立派な貴族階級の令嬢だ。カートル姿で甲板を平然と歩き回っていることなど、微塵も想像させない。

「私には、特別な力は何もございません。ただ、貴族としての義務を果たしたまでです」

 これですっぱり諦めてくれる相手ならば、取り立てて身構える必要はなかった。一筋縄ではいかないからこそ、ヴァルも警戒していたのだ。

 あくまで笑みを浮かべたまま、エティは小首を傾げてヴィストレームの出方を待つ。

 しばらく呆然としていた軍人の一人が、ハッと我に返る。チラリと階級章を確認すれば、師団長と言われる階級のものだった。

 ヴィストレームの軍は、まず十人ほどの小隊で形成される。その小隊を十集めたものが中隊で、五つの中隊をまとめたものが師団だ。師団長は、その師団の責任者というべき立場になる。

 そして、この師団長の階級章には、所属する師団の番号も入れられていた。

(……師団一番、ですか……大物が出てきているのですね)

 師団一番は、国王に最も信を置かれている、ヴィストレーム最強の師団だ。軍人たちは、ここへ入ることを夢見て鍛錬している。一番から落とされるのは大きな恥であり、失意のあまり辞めてしまう者もいるほどだとか。

 ついでとばかりに、他の軍人を見回す振りで、階級章を確かめた。やはり、一番の中隊長五人だ。他にも当然、戦力を乗せているだろう。

(……戦って、無事に済むとは思えませんね)

 もし戦ったなら、確実にこちらが切り捨てられる側になる。

 師団長の視線は、微笑むエティを上から下まで、じっくりと通り過ぎていった。決して不躾ではなく、どちらかと言えば値踏みするものだ。

「この娘を買おう。いくらだ?」

「お断りします」

 真顔のヴァルが拒否するより早く、エティがきっぱりと言い切る。

「私は品物ではありませんから、私自身の意志で居場所を決めます。それは、誰にも覆すことはできません」

 エティは、リヴァルークで生きると決めたのだ。それをわざわざ邪魔する者には、絶対に容赦しない。

「ふむ……リヴァルークの民になる、ということか?」

「そうですね。今の私には、デュヴァリエールに戻る理由がありませんから」

「まあ、そうだろうな。リヴァルークの次の王を決める娘なんだ。セオドア王が手放すはずがない」

 驚きを隠すエティは瞬きを繰り返し、不思議そうな顔で首を軽く傾ける。その姿は、本心からわかっていないようにしか見えなかった。

「私が、そのような大それた娘だと、お思いなのですか?」

 よくよく見れば、服装は庶民そのものでしかない。しかし、所作はまぎれもなく貴族令嬢のそれだ。

 まったくごまかしようがないことは、エティにも痛いほどわかっている。

「左の目尻にほくろのある、デュヴァリエールの娘。それに当てはまるのは、お前くらいだろう?」

「……そうでしょうか? しっかりと探せば、いると思いますが」

 いったい、どこまで情報をつかんでいるのか。

 片頬で笑う師団長を、エティは目を細めて笑いながらジッと見つめる。

 余裕のある表情は、決してはったりではないと示していた。

 もっとも、知られていることは仕方がない。あれほど大々的にやれば、間者から情報が流れるに決まっている。当然、他の国でもエティのことはきっちり把握されているだろう。

 まさか、ヴィストレームの間者が堂々と入り込んでいるとは、思ってもいなかっただけだ。

「探された上で、私が王位を決める娘と思われたのでしたら、その理由をお教えいただけますか?」

 目を逸らさず、瞬きも減らして、エティは師団長をジッと見つめる。その視線を受け止めた師団長は、不意に笑い出した。あまりにも楽しげで、エティは思わず怪訝な顔を向けてしまう。

「ヴィストレームの船とわかっていながら、ほぼ単身で乗り込んでくる娘だぞ? それだけ度胸があれば、リヴァルークの王を見極めるくらい、大したことじゃないだろう。大方、ヘンリエッタ号に乗っているのは、ヴァレンティンを最も有能と認めたから、といったところか?」

(なかなか、鋭い方ですね……)

 自信ありげな様子の師団長に、エティは舌を巻く。

 だが、所詮は推測だ。大きく外れはしないが、当たっているわけでもない。

 ヴァルが候補者の中で最も有能であることは、誰もが知っていることだ。ただ、エティが船に乗ったのは、ヴァルを見極めるためではない。そんなものは、もうとっくに終わらせてある。

 単純に、ヴァルのそばにいたい。彼の助けになりたい。

 それが、ヘンリエッタ号に乗る唯一の理由だ。

「……私が王位を決める娘として、何かご用ですか?」

「いや、特に用はない。我々は、リヴァルークの天使を探しに来ただけだ。王位を決める娘に興味はない」

 ジーっと見つめてから、おおよそそのとおりだろうと判断する。

 彼には、エティをどうこうしようという意思はない。天使が手に入るなら、入手してみたかった。本当に、ただそれだけだろう。

「天使は、しがない貴族令嬢です。がっかりしましたか?」

「いや、むしろ興味が湧いたな」

「……なぜですか?」

 強さを求めるヴィストレームにとって、エティはその基準に届かないはずだ。何しろ、護身術しか、身を守る術がないのだから。

 いったいどこに、興味を持ったというのか。

「誰彼問わず無償の施しができる理由が、知りたくなった」

「それは……私が貴族だから、としか言いようがありません」

 エティにとっては、あくまで、貴族としての責務に過ぎない。

 領民をきちんと守ることで、税として返してもらえると、理解しているからだ。

 もっとも、その義務すら果たさず、権利ばかり主張する貴族が圧倒的に多い。それもまた事実だった。

 れっきとした、由緒正しい貴族が減っている今、珍しいと言えばそうなのかもしれない。

 もちろん、それだけでなく、ヴィストレームには貴族という階級が存在しない。王族か、軍人か、庶民か。それだけだ。ゆえに、貴族の持つ義務というものが、根本的に理解できないのだろう。

「貴族であれば、誰でもできるのか? 違うだろう?」

「……そう、ですね。訂正しましょう。私が、昔ながらの貴族の家に生まれ育ったから、としか言えません」

 エティは、他に言い方を知らない。いや、違う言い方に変えられないのだ。

 果たすべき義務であって、お人好しの善意ではない。たとえ敵であっても、弱っていたら手を差し伸べるだろう。

 貴族と呼ばれる存在であるなら、そうあるべきだ。

「……ふむ、まあいい。もう少し、話をしたくなった。中で茶でも飲んでいかないか?」

 ニカッと笑う師団長に、一瞬、不審な目を向けてしまった。だが、すぐに表情を取り繕う。

 これまで目にする機会のなかった、ヴィストレームの軍艦の中。それを、船内で茶を飲むとなれば、この目で見ることができるのだ。

 またとない機会に、心がグラグラと揺れる。

(……ですが、船内に入ってしまえば、逃げ出すことは容易ではなくなります)

 逃走の必要が出た時に、ヴァルにいらない苦労を背負わせてしまう。それどころか、ヴァルだけ命を奪われる危険も考えられた。

「……これだけいいお天気ですから、ここでお茶を飲みませんか? テーブルと椅子を運ぶのは、少し大変かもしれませんけれど、きっと気持ちがいいと思います」

 無条件に信頼する存在ではない。

 熟慮した末に、エティは、ヴィストレームをそう判断した。そのことが、師団長にも伝わったのだろう。彼はひょいと肩をすくめ、仕方なさそうにため息をこぼす。

「わかった。では、そうしよう」

 さっさと部下に指示を出し、師団長だけがここに留まっている。

 エティは、知らず知らず力の入っていた手から、少しずつ力を抜いていく。しかし、その手をギュッと握られた。

 驚いてヴァルを見上げたが、微妙に顔を逸らされている。その思惑は、エティの位置からはまったく探れない。

「そういえば、ヘンリエッタ号の主砲の具合はどうかね?」

「……え?」

 師団長から落とされた爆弾に、さすがのエティも素で固まってしまう。

「つい最近、使ったんだろう? あれは、我が国が売ったものでね」

 すでに使ったことを知っている。その情報の速さに、素直に驚かされた。

 しかも、ヴィストレーム製の主砲だ。

 そもそも、ヘンリエッタ号の装備に関しては把握している。けれど、それらがどこで製造されたものかは、エティもしっかりと調べてはいなかった。

「今度、セオドア王に感想を聞きたいものだね」

「……精度は、なかなかに素晴らしかったですよ。詳しくは、伯父上に聞かれるといい」

「そうさせてもらうか。ついでに、引き渡しに行くとしよう」

 サラリと放たれた言葉に、エティだけでなく、ヴァルも呆然とする。

「知らなかったかな? 私は、セオドア王の協力者だよ。今日も、天使を探してこい、などと無茶振りされただけで、仮に見つけても連れ帰るつもりはなかったんだ」

 人払いをした形になったからか。砕けた口調の師団長は片目をつぶり、いたずらっぽく笑ってみせた。

「我が王の無茶振りは相当でね……ああ、部下たちもわかっているから、ほどほどに話をして帰る予定だったんだよ。まさか、乗り込んでくるとは思わなくてね」

「……協力者……ですか」

 すっかり呆気に取られたエティは、ようやくそれだけを呟く。

 セオドアの協力者なら、詳しく知っていてもおかしくない話ばかりだ。とはいえ、完全に信用できる話でもない。

「まだ信じてもらえてないかな? ステルブール伯爵が娘、アンリエット嬢?」

 頭を鈍器で思い切り殴られたような、大きな衝撃を受けた。

 信じられない、とは、もう言えない。信じざるを得ない。

 エティは本名を名乗らなかった。父の爵位も、口にしていない。百歩譲って、名前は先日のお披露目で明らかにされている。だが、爵位に関しては、セオドアから直接聞かなければ知り得ないことだ。

 初めて会ったいとこたちも、エティがどこの伯爵令嬢かまでは知らないのだから。

「……とりあえず、あなたが伯父様の協力者であることは信じましょう」

「そうか、ありがとう」

 師団一番の長というだけあって、とんだ食わせ者だ。

(……戻ったら、伯父様に協力者の名前を聞いておかなくてはいけませんね……)

 知っていれば、すぐに事実かどうかの判断ができたことだ。知識にしなかったことを悔やんだのは、初めてだった。


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