序章
エティがヘンリエッタ号に乗るようになって、すでにひと月ほどが過ぎていた。
前回は、そろそろ帰港するという時に奴隷商船が通りかかった。一度戻り、再び準備を整えて出てきて、もう十日目だ。
毎日、天候には恵まれているものの、出会う船は真っ当な商船ばかりだった。
燦々と降り注ぐ日差しと、心地よく吹き抜ける風に、エティはふと目を細める。グルリと見回す景色は、乗っている船を除いて青一色だ。
「今日もいい天気ですね。洗濯物がよく乾きそうです」
船上ではとうに当たり前となった、質素なカートル姿のエティが朗らかに笑う。
エティがしっかりと抱える大きな籠の中には、綺麗に洗われた衣類の山が入っている。
船で生活するにあたり、最初は船室で大人しく本を読んでいた。しかし、それだけではすぐに退屈してしまったエティは、洗濯を買ってでたのだ。
体を動かすことは、決して嫌いではない。むしろ好きな方だ。何より、毎日身につけるものは、綺麗で清潔なものを使いたかった。そして、ヴァルを含む乗組員たちにも、同様にして欲しいと考えている。
今までは、それぞれが時間のある時に洗濯をしていたらしい。だから、身綺麗な者とそうでない者の差が激しかった。
あまりに汚らしい恰好の者は、奴隷商船から助けた者にも嫌がられてしまう。その辺りを、少しでも緩和したかったという理由もある。
何といっても、エティ自身が、細々と体を動かしていたかったのだ。
ヴァルに頼んで作ってもらった干し場のロープに、ひとつひとつ丁寧に吊るしていく。風で飛ばないよう、止めるための道具もきちんと用意してくれている。おかげで、常に作業は順調だった。
そこに、バタバタと足音をさせて、赤茶色の髪の少年がやってくる。
「エティ、中に入って!」
「アーサー、何かあったのですか?」
途中かけの洗濯物を抱えたまま、エティは小首を傾げる。だが、アーサーはよほど慌てているのか、そのままエティの腕を引っ張って船室へ向かおうとした。
「アーサー!」
強い口調で名を呼べば、アーサーはビクッと硬直する。
「何があったのかと、私は聞いているのです」
困った顔でため息をついたエティが、すぐさまニッコリ微笑む。それでようやく冷静になったのか、アーサーはハッとした顔で説明を始めた。
「ヴィストレームの軍艦が来たんだよ。戦いになったら危ないから、中に入っててって船長が」
「……ヴィストレームの、ですか?」
軍事国家と名高いヴィストレーム国の、軍艦。
かの国は、いくつか軍艦を所有している。その中でも特に有名なものは、アン=カルロッテ号だろう。
帆がある分、風をとらえればヘンリエッタ号の速度が勝つ。しかし、その他の装備に関しては、それほど差がない。
互いに本気でやり合えば、最悪の場合、双方が沈むことになる。
「どちらから来ていますか?」
「え? えっと、十時の方角だけど……あっ、エティ!」
洗濯物を籠にそっと放り投げ、エティはそちらに向かって駆け出した。彼女の後を、慌ててアーサーが追う。
船首の辺りは、緊迫した空気に包まれていた。そこへエティは、平然と突っ込んでいく。
「ヴァル! ヴィストレームの軍艦が来ているのですか?」
「エティ!? お前、中に入ってろって伝えさせただろ!?」
「どうして私が中に入っていなければいけないのですか? 私は、ヴァルと同じものを見て、この船のためにものを考えたいのです!」
慌てふためいたヴァルに、エティは平然と言い返す。
しばらく沈黙した後、諦めたように、ヴァルは重くて深いため息をひとつこぼした。
「……わかった。ほら、あそこに見えるだろ?」
スッと指差された方角を見れば、船影はまだかなり遠い。それだけでも、その船が普通の商船とは違うことが見て取れる。
そもそも、船体の色からして違う。木造船の茶色ではなく、金属にしっかりと覆われた鈍い銀色だ。
「……遠眼鏡は、ありますか?」
「ほら」
わかっていたかのように、ヴァルはエティに遠眼鏡を渡す。それを目に当て、エティは船を凝視する。
船首に飾られた女神は、ふわりとした長い髪に、目を閉じ口を開けて歌っているかのごとく見えた。
間違いなく、アン=カルロッテ号の女神だ。
アン=カルロッテは、ヴィストレーム出身の優れた歌い手だった。天使の歌声と称えられた声を聞くために、他国の貴族がこぞってヴィストレームを訪れたという。
その歌姫を女神にすえたあの船は、伝承にある海の魔物のように他の船を沈める。そんな意思表示だと言われている。
「あれはアン=カルロッテ号です。今のところ、砲台などに動きはないようですが、全力でこちらへ近づいていますね」
確認し、話している間にも、船影はどんどん大きくなっていく。
「……何が目的だと思う?」
「恐らく、私ですね」
「……どういうことだ?」
ここまで簡潔にしてしまうと、さすがに伝わらないらしい。
怪訝な顔をしているヴァルをジッと見上げ、エティは改めて説明をする。どのみち、他の乗組員にも伝えておかなければいけないことだ。
「私も救出された時と、前回。そこで私は、売られかけていた人たちの世話をしました。これは、貴族として当然の行為と考えていますので、特別褒められる話ではありません。ただ、助けられた方々からすると、そうではないようです。私と同時に救助された方々の一部が、リヴァルークの船に助けられ、そこで天使に出会ったと語っているようです」
頭痛がしたのか、ヴァルは額を指先でギュッと押さえる。
エティとて、初めて聞いた時は唖然としたものだ。当たり前と思っての行動を、そこまで大げさに称えられるなど、いったい誰が想像しただろうか。
「前回の方々が国へ帰れば、ますます噂は広まるでしょう」
「……お前は、本当に、次から次へと……」
呆れ果てた声でヴァルに呟かれ、エティは申し訳なさそうに肩をすくめる。
「何の変哲もないただの娘とわかれば、ヴィストレームの興味も失せるでしょう」
軍事国家というだけあって、ヴィストレームは目に見える強さを求める国だ。状況次第では武器より強くなるエティの知識を、強さとはすぐに認めないだろう。
その辺にいるか弱い少女だと思っているうちに、飽きさせてしまえばいい。
リヴァルーク国王の姪であり、次の王を決める。そんな特別な娘だと、絶対に知られないようにしなければいいだけの話だ。
「……お前が、何の変哲もないただの娘、のわけないだろうが……」
あえて、述べた言葉を繰り返すヴァルに、エティはニッコリと微笑みかける。
「少なくとも私は、見た目はデュヴァリエールの娘です。しかも、武器を持って戦うことはできませんから」
あふれる知識を披露するような、余計なことを言わなければいいだけだ。