仕組まれた邂逅 1
年頃になったからと、家族とは距離を取った部屋を与えられていたことが災いしたのか。騒ぎにまったく気づかず、エティはずいぶん深く眠っていた。
けれど突然、左目尻の下──ちょうどほくろの辺りだ。そこに細い針の束を一気に突き立てられたような、鋭く激しい嫌な痛みを感じて飛び起きる。
「……っ」
ひどく痛む箇所に指で触れる。遠い昔、同じ場所に優しく触れながら、母親が教えてくれた大切なことを思い出す。
『わたくしが冷静でいられない窮地に陥った時、あなたたちの『星』はそれを教えてくれるの。もちろん、あなたたちのことも、わたくしの『星』が教えてくれるわ』
他にもほくろはあるのに、このほくろだけが特別なのだと、母親は言った。
(お母様に、何かあったのかしら?)
今までに経験のない強い痛みに、無意識で母親の身を案じてしまう。
ゆっくりと身を起こしながら、ズキズキと痛む場所を何度かさすった。その間に、この部屋に近い場所で悲鳴があがる。
それが途絶える頃には、刺すような激しい痛みも消えていた。
(いったい、何が起きているの? お父様たちはご無事なの?)
異変を察して逸る心を、どうにかグッと抑え込む。
家族の安否を確認に行こうと、エティは恐る恐るベッドから降りて靴を履く。ベッドの柵にかけてあった、防寒用の上着をサッと羽織る。
細い月でぼんやりとしか見えない室内を、音を立てないよう静かに歩く。
彼女がドアにたどり着いて開ける寸前で、部屋の外にいた誰かがドアノブを回した。警戒心からだろう、エティの顔はスッと強張る。
「……どなた、ですか?」
闇に慣れ始めた目は、無言で開け放たれたドアから差し込む光を極端に嫌った。
完全に視界を奪われることを避けようと、エティはとっさに目を閉じる。それから、慣らすように少しずつ開けた。
まだ眩しく感じる燭台の明かりに、ぼやっと照らされたその人物。彼を、エティはよく知っていた。だが、何もかもが寝静まっている時間に訪問を受けるほど、常日頃親しくしている者ではない。
「叔父様?」
呼びかけると、彼はニヤリとしか言い様のない、薄気味悪い微笑を口許に浮かべた。
嫌な予感と同時に、ぞっとする悪寒が背筋を走り抜ける。エティは、決して寒いわけではないのに、両腕でカタカタと身震いする体を抱き締めずにいられない。
「今すぐ一番上等なドレスを着てこい」
「……叔父様?」
これまでの優しい口調とはまったく違う叔父に、エティは怪訝な顔で首を左に傾ける。そんな彼女に重ねて着替えるよう促すと、彼は一旦ドアを閉めた。
姪の着替えを覗く趣味は、さすがにないのだろう。
(いったい、どうなっているのでしょう?)
悲鳴はまだ時折聞こえてくるが、だんだん少なくなっている。やがて静かになり、大勢の命を吸った屋敷は、何ごともなかった顔で朝を迎えるのだろうか。
じわりと涙がにじみ出て、ともすれば視界をぼやけさせる。
エティはすっかり慣れた手つきで、サイドテーブルに置かれたリンネルを使いそっと拭う。
(ここから、逃げた方がいいのでしょうか?)
窓に近寄って、階下に人影がないことを確かめてはみる。
しかし、過去にこの窓から脱出を試みたことはない。万一、叔父に勘づかれたり、手が滑って落下するという可能性を想像した。
失敗する可能性が半分はある以上、あえて試すのは愚策だ。
(……叔父様は何かご存知のようですから、とりあえず彼の言うとおりにして、うまく情報を引き出しましょうか)
混乱と冷静が同居する頭で出した結論に従い、エティは二つ並ぶクローゼットの小さい方を開けた。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、たった一度袖を通したきりの、届いたばかりのドレスだ。
別段、豪奢ではない。けれど、髪や目の色が地味なエティに似合いの、華やかさがある刺繍がひと目で気に入ったものだ。
上半身は体にピタリと密着するが、スカートはたっぷりの布でゆったり仕上げられていた。このドレスは、上腕から取りつける大きなカフスと、貴金属製の長い鎖を腰に巻いて完成する。
今まで裏切ったことのない直感が、このドレスを着るべきだと告げていた。
背中の紐を一人で結んだり、カフスや鎖を巻いたりと少々時間がかかる。それでも、上等なドレスを望んだ叔父に、文句を言われる筋合いはない。
意を決して夜着を脱いだ時、机の上に置かれたものが月明かりにキラリときらめいた。
(あれは……)
恐らく、どうにか隠して持ち出さなくてはいけない──正当な後継者に渡るまで、絶対に失うことの許されない大切な物だ。
念のためにと、折りたたみ式の小さな果物ナイフを、ベロアの小袋に一緒に入れた。スカートの内側で特に布が重なっている場所。そこに急いで、けれど簡単に外れないよう、しっかりと縫いつける。
「まだか!」
「もう少しだけ待ってください」
女の準備は時間ばかりかかると、誰に向かっての文句かわからない呟きが聞こえた。
エティはふと、気が強く見栄っ張りで強欲と囁かれる、彼の妻を思い出してしまう。思わず、ひそかに苦笑をこぼす。
作業を終え、手早くドレスを着る。予想どおり、背中の紐とカフスに少々苦戦させられた。けれど、悪くない見栄えにはなったはずだ。
万一、背中の紐が解けた場合には叔父に結ばせよう。たった今、そう決めた。
気持ちよく眠っていた真夜中に、こんな目に遭わされたのだ。そのくらいの意地悪は、恐らく許されるだろう。
隠した小袋があることが、動いた拍子に見破られないか。スカートをバサバサと乱暴に揺らして、あれが落ちてこないか。姿見を見ながら、念入りに何度も確認する。
(叔父様とこの騒ぎは、きっと関係があるでしょう……私がこれを持ち出すことを、お父様は望んでいるはず)
きっと、託されたのだ。
寝る前に両親を問い詰められなかった答えは、騒ぎが起きた今なら嫌でも理解できた。
だが、それでは遅い。
ことが起きる前であれば、他の手段が取れたのではないか。どうしても、そんなことを考えてしまうからだ。
スカートの上から、そっと小袋のある位置に触れた。
どうか、家族と家人たちを守ってくれるように、と深く祈る。
足にまとわりつくスカートに手間取りながらも、エティはドアの前に立つ。大きく息を吸って、空っぽになるまで吐き出してから、ようやくドアを開けた。
「遅い!」
「ごめんなさい、叔父様」
怒鳴りつけられ、思わず首をすくめたエティが謝る。叔父は彼女の腕をギュッとつかんで、乱暴に部屋から引きずり出す。
小さな悲鳴をあげたエティの口を、叔父とは別の方向から伸びた手と布がスッとふさいだ。
「う……」
頭を振ってもがいていたエティの全身から、がくりと力が抜けた。
‡
いよいよ今夜だと思うと、気が高ぶってしまって眠れない。
四十前後と思しき男性は、窓辺にたたずんで景色を眺めている。けれど、そのヘーゼル色の瞳は、まったく別の遠いどこかを見ているようだ。
「どうか、どうか、生きていてくれ……」
数日前に届いた手紙を、くしゃくしゃになるほど強く握り締める。ただひたすらに、彼らの無事を祈り続けるしかなかった。
いつもどおり眠っていたら、決して気づかなかっただろう。右手の小指のつけ根に、かすかな痛みが走る。
「リズ……」
守りたいものほど、手の届かないところで失われていく。
胸にじわじわと満ちていく喪失感が、雫となって頬をすうっと滑り落ちた。
「……君の大切な『星』たちは、僕が必ず助けるよ。君の、最後の頼みだからね」
思い出される遠い日の輝きを空に見つけ、救出と報復を愛しい者にはっきり誓う。
ひとつを失い、この上さらに奪われるのは、どんな状況でも耐えられない。
‡
太陽の光が燦々と差し込む、応接室らしき部屋。
身なりの良い四十前後の男性が、ベロア地の肘掛け椅子に座っている。テーブルを挟んだ向かい側のソファには、四人の青少年が並んで腰かけていた。様々な年齢の彼らは、似通った雰囲気をまとっている。
そしてもう一人、ぼんやりと窓の外を眺めている青年がいた。見たところ、彼が最年長のようだ。他と違い、ヘーゼル色の瞳に深い知性を宿している。
「今日集まってもらったのは他でもない、私の後継者になる者を限定するための条件を、君たちに教えておこうと思ってね」
座っている四人は一様に固唾を呑む。しかし、立っている青年は興味がないのか、まだ外を見続けている。
「十六年前に国を出て行ったリズを、今でもはっきりと覚えているのは……さすがに、ヴァルくらいかな?」
「……リズ叔母上が、どうしたんですか?」
不意に振られた話題の意図が、まったく読めなかったからか。屹立していた青年は、怪訝な表情で男性を振り向き問い返した。
「そのリズと同じ『星』を持つ娘と結婚した者を、私の後継者にしたくてね。ただ、娘の名前や居所は知らないから、探して口説き落とすのは君たち任せになるよ」
にわかに色めき立ち、口々に用事を思い出したと言い残して慌ただしく去っていく。あまりに自分自身に正直な四人を、残された二人は呆れた顔で見送った。
完全に気配が遠のき、再び静まり返った後。
「リズ叔母上は結婚されて、しかも第一子が娘だという保証があるんでしょう? つまり、伯父上は何もかも知っている」
ヴァルは男性にグッと詰め寄る。その表情には、わずかに傷心の色が見えた。
「相変わらず鋭いね」
彼は小さく笑う。それはひどく楽しげで、ヴァルは一瞬、怯んでしまう。
男性は、集めた五人全員がそう来るとは、これっぽっちも考えていなかった。ヴァルだけが問い詰めてくると予想していたのだろう。
何かが上手にできた子供を褒める時のような、晴れやかな笑顔を見せる。
「確かに僕は、リズの居場所も、娘の名前や外見の特徴も知っているよ。リズの娘に継承権を委ねた理由はまだ言えないけれど、どうしても彼女に会ってみたくてね」
「あいつらを利用したってことですか?」
権力にすっかり目が眩んでいる彼らのことだ、リヴァルークのみならず、他国であっても、不確かな噂ひとつで捜索のために飛び込むだろう。
考え方が大きく違うことと、男性がヴァルを贔屓している周知の事実がある。だから、ヴァルと彼らは、お世辞にも仲がいいとは言えなかった。
だからといって、男性の企みどおりの行動を取らされた彼らを、それほど蔑むつもりもない。
「まあ、そういうことになるね。ヴァルはいつもどおり、海の警戒を頼むよ」
叔母一家にいったい何があったら、自分にそんな話が回ってくるのか。
頼まれた意味を、即座に解したのだろう。ヴァルはがっくり肩を落とした。
(よりにもよって、リズ叔母上の娘を保護しろと頼まれるなんて、思わなかったな)
もう十六年、会っていないのに。彼女の名を聞くだけで、幼い頃の思い出が色鮮やかに蘇るのだ。
心まで温めてくれる、やわらかな笑顔。母や他のどの叔母よりも愛らしく、特に華のある顔立ち。
そして、たった一度目にしたことのある、夜空にきらめく一番星に似た輝きを放つ彼女の『星』。
彼女を作る何もかもを思い出さない日は、正直なところ、一日もなかった。
「それは運がよかったらっていう話であって、港と海を往復してる間に、うまいこと抜けていく船もあるんですよ?」
「抜けられたら、単にヴァルに運がなかったというだけだよ。彼女を保護する手は、もちろん他にも打ってあるからね」
国を繁栄させるために使った上で、余った国費を海に注ぎ込む。
男性の並々ならぬ、執念とも言えるそれに理解を示している。だからこそ、ヴァルは諦めの混ざるため息をつく。
「もし捕まえられなかったら、他の手で保護された彼女を、五人全員で一緒に迎えに行きますよ」
「そんなに嫌かい?」
なぜ後継者になることを嫌がっているか。知っていて楽しげに笑う男性をキッと睨み、ヴァルは腕を組んでフッと横を向いた。
「伯父上は、俺が船に乗ってる理由を知ってるでしょう?」
「ヴァルが僕の昔話に腹を立てていることも、身動きの取れない僕の代わりに船を出してくれていることも、もちろん知っているよ」
国民から絶大な支持を受けているヴァルが、後継者になることを頑なに拒否している理由。それがわかっていて、それでもなお、男性はヴァル以外に後を任せられないと考えている。
今回の捜索にしても、後継者の候補にもしたくない候補者たちを、強引でも納得させるための手段に過ぎないのだろう。
「でも、これとそれとは話が別だよ。リズと彼の娘は判断を誤らないと、僕は信じているからね」
どうあっても男性の気が変わらないと悟ったヴァルは、もう一度大きなため息をついた。それから、男性の望みどおり、船を出すために部屋を辞そうとした時。
「そうだ、ヴァルは彼女の顔を見ただけで、リズの娘だとわかるはずだよ」
ありがたいのかそうでないのか。さっぱりわからない男性の言葉を受け、ヴァルはピタリと足を止めた。
脳裏に浮かんだのは、彼の記憶にこびりつく、人を惹きつける太陽のような華やぐ笑顔。
「顔を見ただけでわかるって、リズ叔母上にそっくりってことですか?」
その問いかけには、ひとかけらも心中を読めない笑みで答える。そんな男性に、ヴァルは重ねて問うことはせず、今度こそ部屋を出ていった。