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星の涙を流す娘  作者: 日咲ナオ
プライベーティアの女神
17/25

新たな出立 1

 あれから、十日ほどが過ぎた。

 デュヴァリエール国内は、まだずいぶんと混乱しているようだ。それでも、新王に即位するのはベルトランで本決まりらしい。一部から反対意見もあるようだが、いずれは収束していくのだろう。

 決して楽観しているわけではない。ジルの襲爵の儀も、いずれはきちんと執り行う必要がある。国が落ち着いてくれなければ、いつまでも戻れないのだ。

 あまりリヴァルークになじんでしまうと、今度は帰りづらくなってしまう。

 リヴァルークに残ると決めたエティは、こちらにおける礼儀作法の確認をした。数日で完璧に覚え、セオドアからしっかり合格をもらっている。

 今は、お披露目の席で着るドレスのため、採寸や仮縫いに追われているところだ。

 戻ってきて以来、ヴァルとは一度も顔を合わせていない。失われた日々を取り戻すように、ずっと弟妹と過ごしていた。

 ヴァルに会いたい、と思うことはある。けれど、普段の居場所はまったく知らないし、誰かに聞くこともない。もちろん、向こうから会いに来てくれるわけでもないようだ。

 中庭の四阿には、涼しい風が吹き抜けていく。木々の葉がこすれ合って、サラサラと心地よい旋律を奏でている。

 弟妹が採寸に行った隙に、エティは小難しい顔をしながら本をめくっていた。時々、傍らに置いた紙束と見比べては、首を左に軽く傾げて考え込む。

 土を踏む音がして、エティはゆっくりと顔を上げる。

「アンは勉強熱心だね」

 セオドアに向かってニッコリ微笑み、エティはパタンと本を閉じた。

「これを貸してくださったのは伯父様でしょう?」

「人に聞かれたくない話をするには、これが一番だろうと思ってね」

 エティが抱える本の表紙には、グニャグニャした線が書かれている。適度に隙間が空いていることから、かろうじて文字であることがうかがえた。

「大変興味深く、面白いものですね。文法や単語はともかく、発音は難しそうです」

「まあ、しばらくは筆談でもかまわないよ。僕が話すのを聞いていれば、アンはすぐ話せるようになるだろうしね」

「参考までに、伯父様はどのくらいかかりましたか?」

 じっくりと思い出すように、セオドアは腕を組んで考えている。

「初めてその文字を見たのが、十二の時。滑らかな筆談は三年、会話はさらに五年ほどかかったかな」

 今ではまったく使われていないこの言葉を、学ぶ意味がいったいどこにあるのか。

 覚えること自体は楽しいが、エティでも、ふとそんなことを考えてしまう。

「では、半年で筆談に不自由しないようになりましょう。私には、時間がいくらでもありますからね」

「本当に、アンは頼もしいね」

「……親友に言われたのです。戦う力を持たないと嘆いた私に、知識で人を守ればいいと」

 この言語は、もともと興味を持っていたものではある。けれど、関係の書物がなかなか手に入らず、結局習得することができなかったのだ。

 それが、セオドアの厚意で、長らく読みたかった書物を借りられた。それどころか、彼の手作りの辞書まで貸してくれている。

 今は使われていないこの言語が、今後、生きていく上で必要になる。そんな時は、きっと来ないだろう。できれば、来て欲しいとは思わない。

 だが、知っていて損はないはずだ。

「二人の女神に守られているヘンリエッタ号は、リヴァルーク王国が誇る無敵の私掠船として、後世に名を残すだろうね」

「そうなります」

 穏やかに微笑んで、エティはきっぱりと断言した。

 ヘンリエッタ号の守護女神ヘンリエッタは、船そのものを守る。けれど、乗る人を取り巻くものには太刀打ちできない。

 だからこそエティは、直面した敵や刻々と変化する複雑な情勢から、乗組員たちを守る女神となりたいのだ。

「いずれは、『リヴァルークの守護女神』と呼ばれるようになりたいものです」

「アンだったらなれるよ。今でも十分、この国にとって大切な存在だからね」

 大それた目標だと、決して笑われることはない。セオドアはひどく真剣な眼差しを、ジッとエティに向けた。

「……僕はもう、失いたくないんだ」

「伯父様……」

 婚約者との時間は、わずかながらに取り戻しているとは聞いた。けれど、かつての時間は、何ひとつ戻ってこなかったのだ。その上、十六年会っていなかった妹も、呆気なく失ってしまっている。

 セオドアが大切に思い、深く慈しむ者ほど、彼の手から奪われてしまった。

 いつかヴァルも危険な目に遭い、命を落とすのではないか。恐らくセオドアには、そんな不安が常に、じっとりとつきまとっているのだろう。

「君もリズのように、見つけた『星』と添い遂げようとするだろうからね。僕の目が届くところに置いておかないと、心配で仕方ないんだよ」

「そうですね……私はもう、『星』は見つけましたけれど、先のことはわかりませんもの」

 これからまだまだ、ヴァルは船に乗る。彼を追いかけていくなら、たくさんの危険がつきものだ。

 うっかり巻き込まれて、命が危険にさらされる可能性もある。

「明日を境に、デュヴァリエールには帰りたくとも帰れなくなってしまうけれど、本当に良かったのかな?」

「私の気持ちは、以前お話したとおりです」

『ジルの襲爵後、デュヴァリエールには、公用以外で足を踏み入れるつもりはありません。あちらには親友がいますが、私は彼女の香り水以外使いたくありませんから、定期的に顔を合わせることはできます』

 ここに留まるのか。それとも、向こうへ帰るのか。

 そう聞かれたエティは一切迷うことなく、リヴァルークに留まることを選んだ。当然、セオドアの姪であることをきちんと明らかにした上の話になる。

 自分の進む道は、しっかりと自分で切り開きたい。どんな結果であれ、それを残さずきっちり受け止める覚悟を持って答えた。

『ヴァルのいない世界で、自身の生死さえわからない時間をただ過ごすより、彼のそばで息をしたいのです』

『アンはやっぱり、リズの娘だね。根底にあるものが、リズと同じだよ』

 どうやら、エリザベスも同じように答えたことがあるらしい。

 母に似ている内面がある。初めてそのことを知り、嬉しくて涙がこぼれそうになった。

「どこでどのように暮らそうとも、私がアンリエット・エルヴェシウスであることに変わりはありませんから」

「そうだね。じゃあ、明日を楽しみにしているよ」

「居合わせた誰もが忘れられない日になるよう、精一杯努めさせていただきます」

 優美な笑みをしっとりと浮かべ、エティはスッと立ち上がって一礼した。

 リヴァルーク国王の姪として、どこへ出しても恥ずかしくない。その自負はある。

 楚々としたエティの立ち居振る舞いは、見る者の心をとらえて放さなくなる予感がした。


         ‡


 身支度だからと、エティは朝の目覚めとともに入浴させられた。甘い花の香りに心がひっそりと満たされ、温かな湯が意識をしっかり覚めさせていく。

 淡い緑色のドレスに着替えさせられ、膝裏辺りまで届く朱色のガウンを前で止める。髪は二つにわけて、それぞれに赤色のリボンをギュッと編み込まれた。ベールを被り、それを押さえるための額飾りをはめられる。

 十五歳の少女らしい印象を、決して損なわないよう。化粧はかなり控え目で、素顔とほとんど変わりない。

 姿見に映し出された自分自身にため息をつくと、わずかな衣擦れの音がした。ふと姿見を見れば、後ろにセオドアが立っている。

 侍女に着替えが終わったと聞かされて、早速見に来たらしい。

「うん、よく似合っているね」

 セオドアに手放しで褒められたから、納得のいく出来映えなのだろう。だが、まったく慣れていない盛装に、エティは早くも疲れていた。

「アンには息苦しいかもしれないけど、公の場に出る時は必要だからね」

「重々承知しております」

 厄介なこともなく、そして一刻も早く、この面倒なお披露目が終わること。今のエティにできるのは、ただ祈ることだけだ。

「そういえば、僕がヴァルより先に見てよかったのかな?」

 エティはニッコリ微笑んで首肯する。今どこにいるのかわからないヴァルを、こっそりと思い浮かべた。

 たったそれだけで、胸がじんわり熱くなる。ちっとも会えなかった時間が、涙となってほろりとこぼれそうだ。

 薄いとはいえ、化粧をしている。それが落ちてはいけないと、エティは必死になって涙を堪えていた。

「ああ、泣かないで。今日一日、アンをエスコートするのはヴァルだから、思う存分振り回すといいよ」

「え……?」

 思ってもみなかったことを言われ、ピタリと涙が止まる。

 目尻からあふれそうな涙を、セオドアが取り出したリネンでそっと吸い取った。

「このところ、ヴァルにもいろいろ頼みごとをしていてね。毎日アンの様子を聞かれたから、今日一日張りついて、自分の目で確かめろと厳命したんだよ」

(……ヴァルが、私のことを?)

 また無謀なことをしていないか。不意に突飛な行動を起こして、誰かに余計な迷惑をかけていないか。

 相変わらず、そういった類いの、無用の心配をしていたのだろう。そう思うと無性におかしくて、エティはクスクスと声を立てて笑う。

「今の言葉で笑うなんて、アンはヴァルのことをよくわかっているんだね」

 ヴァルのことは、もっとたくさん知りたいと思い続けている。だから、どんな些細なことも見逃したくない。

 デュヴァリエールにいた頃よりは、ずいぶんヴァルについて詳しくなった。その自信がある。

「ヴァルはアンの心配ばかりだよ。アンは子供じゃないのにね」

「今日、ヴァルにわからせます」

 苦笑するセオドアに、エティはきっぱりと宣言した。

 世間的には、十五は確かにまだ子供だ。けれど、半ば大人でもある。そのことを、ヴァルに思い知らせたい。

 二年後には、いつ結婚してもおかしくない年齢になるのだから。

「いつまでも子供と思っていると、痛い目を見ますよ、と」

 鏡の中で着飾ったエティは、ひたすら清楚な笑みを浮かべていた。


         ‡


 久しぶりに見たエティは、綺麗に着飾っていた。十五にしてはかなり大人びた顔立ちだと思っていたが、やはり年相応に見えない。

 何か褒めた方がいいのか。そう考えながらも、結局、ヴァルは何も言葉にできなかった。

 昼食をとってから、屋根のない馬車で城下をグルリと回っていく。セオドアと、ヴァルの顔はよく知られている。だが、同乗するエティのことは、誰も知らない。

 これで顔がエリザベスに似ていれば、相当聡い者は察するのだろう。しかし、推測できる材料は、エティの外見には何もなかった。

「この子は、リズの娘だよ」

 エティが誰なのかを、セオドアは尋ねられるのをジッと待つ。問われてからようやく、そう答えるのだ。

 後継者を決定づける娘と知り、民衆の歓声が湧き上がる。ひと目エティを見ようと、あっという間に民が押し寄せてきた。

 彼らに対し、エティはにこやかに手を振る。しかし、彼女の隣にいるヴァルは、かなり固い表情のままだ。

「ヴァルは、こういうことが苦手ですか?」

 一瞬頷こうとして、それからゆっくりと首を横に振った。

 元々、人々の話を聞くのは好きだ。笑顔で寄ってきて、不満を教えてくれる民を、少しでも救いたいと思っている。

 こんな時でなければ、ちょっと笑って手を振るくらいは造作ない。

「伯父様の企みに関してであれば、安心してください。私も不快に思っていますから」

「そうなのか?」

 意外だと言いたそうに、ヴァルが驚きの声をあげる。当然、見上げてくるエティの表情には、不満げな色が浮かんでいた。

「私にも理想というものがあります。伯父様にはすでに苦言を呈しましたが、このようなやり方は嫌いです」

 二度も面と向かって言われ、セオドアは苦笑いで横を向くしかない。

 ヴァルはさらに驚いた様子で、目を大きく見開いてぼんやりしている。

 エティは初対面の時から、話で聞いたりして、知識として自分のことを知っているとわかっていた。だから、てっきり、セオドアの策に喜んで乗ってくるものと考えていたのだ。だが、どうやらそうではなかったらしい。

「言っておくけれど、アンはヴァルが思っているより女の子だよ」

「伯父様」

 エティはキッと睨みつける。セオドアは慌てて口を閉じて、ちょいと肩をすくめた。

 ほんのり色づいているエティの顔は、読めるほどの表情はない。怒っているのか、照れているのか、見ただけではわからなかった。

(まだ、十五だったな)

 どんなに知識が豊富であろうと。武器や脅しに決して怯まない、驚異的な精神の強さを見せつけようと。エティが、十五になったばかりの少女である事実は、何ら変わらない。

 ヴァルはようやく、そのことに思い至ったのだ。

 ゆったりと流れる景色を眺めるエティの横顔に、何となく視線を落とした。

 きらめくそれが涙なのか、それとも『星』なのか。たまに、判別に迷う時がある。

 初めてエティの『星』を見た時は、泣いているのかと思った。その後は、よく目尻をそっと拭う仕草を見せている。それが、潮風が目にしみていたせいだと、はっきり言われるまで気づけなかった。ひそやかに企む笑みを見せたかと思うと、やけにあどけない微笑みを浮かべる。

 エティは、光や風のように刻一刻と変化する。そのたびに、やたらと鮮やかな印象をしっかりと残していく。

(こいつにつかまったら終わりだと、わかってたのにな)

 叔母相手なら、抱く想いが絶対に叶うことはない。いつでも好きなだけ、優しい思い出の中にたっぷりと浸ることができた。

 エティ相手に同種の感情を抱くことの危険性は、十二分に承知していたはずだ。

 セオドアは連日、顔を見にいく時間さえくれなかった。すっかり思惑どおりになってしまった気さえする。

 けれど、会えない間にはっきり自覚したことを踏まえて、しばらくの抵抗を試みよう。

 そんなことを考えて、ヴァルは口の端をわずかに持ち上げた。


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