忘れえぬ過去 4
「いつ、アシュボールド子爵の手の者が送り込まれたのですか?」
エティは好奇心に満ちた眼差しを向け、セオドアに尋ねる。それを受けたセオドアは、まず敵の出方を気にするエティに微笑を浮かべた。
「案の定、私が国に戻る前に、差し向けられた刺客を部下たちが捕らえ、生かしたまま私に引き渡してくれたよ。尋問の結果、アシュボールド子爵に頼まれたことだと白状した」
「ですが、それだけでは、確固たる証拠と言えませんよね?」
冷静な判断を下すエティに、セオドアはヴァルにするように種明かしを始める。
「もちろん、たった一回ではね。その後も何度か手を変えて、エティを亡き者にしようとしてくれてね、すべて僕の優秀な部下が阻止した上で全員を生け捕りにしてくれたよ。実行犯の彼らが、アシュボールド子爵を始めとする、バルフォア家に連なる者に依頼されたと口を揃えたらどうかな?」
「どれほど否定しようとも、未来の王妃をかどわかした上に、その殺害まで目論んだと見られて当然ですね」
国民の目は、唐突に明るみに出たバルフォア家の所業にばかり向いていた。そのため、セオドアがどうやって暗殺者たちを捕らえたのか。どうしてことごとく阻止できたのか。それらを疑問視する声は、ひとつも上がらなかった。
誘拐と暗殺の事実がなくとも、かの家が好まれていなかったことは明白だ。
「アシュボールド子爵は、早々の隠居を余儀なくされた。後を継いだ息子のレスターは、リズに求婚し始めた。でも、リズはその頃にはセルジュと出会っていて、当然のように相手にしなかった。もっとも、セルジュと会っていなくても、リズは相手にしなかっただろうけどね」
あまりの愚かさに、エティは思わずため息をこぼした。
自分の持つ価値を正確に把握し、うまく利用すること。それは、生きていく上で必要なことだ。
「レスターは、リズが恥ずかしがって焦らしていると思い込んでいてね、夜中にリズの部屋に侵入したんだ」
「まあ……」
予想の範疇を超えた話に、思い切り呆れ果ててしまった。
未婚の王族の部屋に侵入するなど、単なる大それた犯罪では到底済まされない。容赦なく家を取り潰され、爵位すら返すことになるだろう。
「これが笑い話なのには理由があってね。僕らが『星』の声に駆けつけた時、レスターはリズに叩きのめされた後だったんだよ。その後は、積極的に彼の話を流して、バルフォア家は恥知らずと知らしめたんだ。これが決定打になって、バルフォアを名乗る者はいなくなったよ」
ここでようやく、合点がいった。
エティは、これまで「リヴァルークのバルフォア家」という名を聞いた覚えがない。貴族の一覧にすら、その名は記されていなかったからだ。それが、王族に対する醜聞で取り潰されたのであれば、納得の理由だった。
けれど、まだ謎は残されている。
現アシュボールド子爵の妻には、出身の家名が書かれていない。そのことを指摘し、セルジュに尋ねたが、結局答えはもらえないままだった。
アシュボールド子爵には令嬢がいた。恐らく彼女が、謎の答えになっているのだろう。
「そういえば、当時のアシュボールド子爵には令嬢がいらっしゃったのですよね? 彼女は今、どうされているのですか?」
「爵位維持のために従兄と結婚して、十代後半の息子と娘がいると、風の噂で聞いているよ。あれ以来、彼女は見ていないし、アシュボールド子爵も近づいてはこないしね」
少しでも恥じる気持ちがあれば、そうなるのは当然だ。
かつてのバルフォア家の娘と知られれば、嫌でも白い目で見られてしまう。それに耐えられるほど、彼女は厚顔無恥ではなかった。そういうことだろう。
まずは、胸を張れるほどまともになる。そうして人々の評価を変えなければ、今度は爵位まで傷ついてしまいかねない。
そのための努力を今、彼らはしている真っ最中なのか。それとも、同じ轍を踏んでしまうのか。
すっかり末席貴族となったアシュボールド子爵の話は、ほとんど入ってこない。それは恐らく、過去とは決別できている証拠だろう。
「アンには、事前の承諾なしに面倒なことを押しつけてしまって、本当に申し訳なかったね」
エティは静かに微笑んで、ゆるゆると首を横に振った。
初めてその話を聞いた時は、かすかな怒りを覚えた。けれど今は、そうせざるを得なかったのだと、理解はできている。
(伯父様は、ヘンリエッタ様に関して、何もおっしゃらなかったけれど……)
時々、セオドアと謁見ができなくなる時がある。そう、噂話に聞いたことがあった。
王とはいえ、所詮は人間だ。病を得ることもあるだろう。謁見に時間が割けないほど、多忙なこともあるかもしれない。けれどどうやら、そういった理由ではないようだ。
ただの想像に過ぎないが、リヴァルーク国内では、ヘンリエッタの捜索として留守にしているのではないか。だからこそ、不在でも大きな話にならないのだろう。
(ヴァルに王位を譲った後は、ヘンリエッタ様のところへ行くのでしょうね)
そのためにも、ヴァルを後継者として認めさせたい。ヴァル自身にも、覚悟をして欲しい。
素敵な誕生日の贈り物をもらっている。それゆえに利用されたのであれば、贈り物に免じて、目をつぶってもいいだろう。
「伯父様は、私の見る目を信頼してくださっているのでしょう? 間違った判断を下さないと考えていなければ、こんな小娘にそれほど大切なことを任せられませんもの」
微笑んだセオドアは、眩しいものを見るように目を細める。
「僕は、セルジュとリズを信じた。だから、二人のいいところを取ったアンを信じている。それだけだよ」
感じ入ったのか、エティの目に涙がじわりとにじむ。
「……ありがとう、ございます」
震える声でどうにか礼を口にし、エティは湧き上がる涙を指でそっと拭う。涙相手に苦戦する彼女に、セオドアはリンネルをポンと手渡した。
「アンは泣き虫だから泣かさないでくれと、リズが手紙に書いていたよ。ジルやロジーは外見の特徴だけしか伝えていないのに、君のことは内面もいくつか書かれていた」
エティ自身も、涙もろいと自覚している。けれども、それを恥ずかしく思うから、他人に知られるのは嫌なのだ。
ヴァルの前で泣きそうになった時には、欠伸の振りをした。もしくは、さりげなく拭ってごまかしている。
両親の死を察した時も、弟妹の無事を願う時も、できることなら声を上げて泣きたかった。そのたびに、今はまだ泣く時ではないと、ひたすら堪え続けてきたのだ。
だが、セオドアの前では不思議と、堪えなくてはいけない気持ちが薄れてしまう。
「泣きたくなったら僕のところへおいで。一人で泣かれるより、僕の胸で泣かれる方がずっといいからね」
優しく囁かれる言葉に従い、いっそ甘えてしまいたかった。
けれど、その瞬間、あの夜見た叔父の顔が脳裏に過ぎる。しばらく見ていない家族の、屈託のない笑顔を思い出す。
ただそれだけで、泣いている時ではないと、すぐに気持ちを切り替えられる。
「……今は、泣きません」
エティ自身は、デュヴァリエールに帰るつもりはない。だが、爵位を継ぐ弟はあちらでこれからを過ごすのだ。
後顧の憂いは、ひとつ残らず取り除いておかなくては。
失ったものを想って嘆き悲しむ。それは、すべての事を成し遂げ、弟妹をこの腕にギュッときつく抱き締めてからでも遅くない。
「私には、まだやらなくてはいけないことがあります。ですから、すべてが終わった後に、これまでの分をまとめて泣くことにします」
決して後ろを振り向くことなく、エティの瞳は強く前だけを見続けている。
確固たる目標があり、駆ける理由があるうちは、立ち止まっている暇はない。
微笑んでジッと見つめるエティに、セオドアは小さく嘆息する。その瞳には、はっきりした安堵が揺らめいていた。
「それでは、私はヴァルに計画を伝えてきます。あちらでは、どんなことが起きてもヴァルだけが頼りですもの」
エティは、武器を手に戦うことはできない。そういった事態に陥れば、ヴァルを頼らざるを得ない。時には、巻き込まれないよう、必死に逃げ回ることになるだろう。
母から剣を教えてもらえなかった理由は、わかっている。
いつかこんな日が来ることを、両親はずいぶん昔から想定していたらしい。
「そういうことは、本人に言ったらどうだい? ヴァルも、僕に頼まれるより、アンに言われた方が喜ぶと思うけどね」
「残念ですけれど、私の本心を口にすれば、警戒されてしまうでしょう?」
二度と近づくな。顔も見せるな。
そう突き放されてしまうことが、今は何より怖いのだ。
できることなら、ただのいとことして出会いたかった。面倒な思惑など、何も絡まない。互いに真っ白な状態で、会ってみたかった。
叶わなかった未来に思いを馳せてしまい、じわりと視界がにじむ。こぼれ落ちそうになるものを、落とさないよう懸命に堪える。
「……伯父様はなぜ、私に、継承権を委ねたのですか?」
情けないほど声が震えた。明らかな涙声だ。
リンネルを取り出しながら、セオドアは少し早口で告げる。
「ヴァルにも教えていないけれど、アンには言っておかないといけないね」
どうして、エティの夫を後継者にすると言い出したのか。そこに、どんな思惑があったのか。
その理由を、とつとつと語り出す。
「僕としては、ヴァル以外に王位を継がせられないと思っている。そもそも、早く押しつけてしまいたいから、ヴァルが適任なんだけどね。ただ、今までヴァルを贔屓にしすぎたから、他の甥が反発するのは簡単に予想できた。さすがに、ヴァルにケンカを売ったりはしないと思うけど、僕の代わりに船を出してくれているヴァルに、これ以上無駄な負担をかけたくなかったんだ」
すん、と鼻を鳴らし、エティは手の甲で涙をそっと拭いながら頷く。そこに、セオドアが何気なく、リンネルを差し出した。それを受け取り、目の下にそろりと当てる。
ようやく、少しだけ視界が晴れてきた。
「そこに、リズから手紙が届いた。部下の定期報告から、君がセルジュの知識とリズの豪胆さを併せ持っているとわかっていたし、僕の筋書きを認めさせる芝居を打とうと勝手に決めた」
「……私が、ヴァルに興味を持っていたことも……利用したのですか?」
氷を放り込まれたように、すうっと心が冷えた。
これは、絶対に抱いてはいけない感情だった。かけらも残さず、綺麗さっぱり消し去らなければいけなかったのだ。
遅まきながらも、エティは自責する。
「結果的にはそう取られても仕方がないけれど、君が初めて異性に興味を示したとリズに言われたら、両親に代わって会わせてあげたくなるのが伯父心だよ。ヴァルだって、いつまでもリズの思い出ばかり追いかけているわけにもいかないからね」
「ヴァルは、お母様を……?」
「僕が見る限り、ヴァルの初恋だろうね」
急速に冷やされる想いに比例するように、頭はどんどん冴え渡っていく。
母であるエリザベスを、エティは素晴らしい女性だと認識している。だからこそ、かえって負けていられないと、激しい闘争心が燃え上がる。
「伯父様の目論みは、成功しましたか?」
答え次第では、きっぱりと恋情を封じよう。
そんな決意を固めたエティの瞳は、いまだにこぼれそうなほど潤んでいる。それを見たセオドアは、両手を挙げて降参の意思を示した。
「性急に外堀を埋めたことは失敗したかな、と思っているよ。君は両親に輪をかけて頑なだったからね」
「そうですね。私はお母様のように、ステルブール伯爵の娘でなくとも欲しいと言ってくださる方を愛して、嫁ぐことが夢ですから」
理知的で現実を重視しそうなエティの印象とは、ずいぶんとかけ離れた理想だろう。
すぐそばにいることで、いつでも力になる。ただ想うだけで、苦しい困難さえ乗り越えられる。そんな関係を築ける人と結ばれたいと、幼い頃からずっと願い続けてきた。
ヴァルだったら、そうなれるかもしれない。
そんな淡い夢に溺れるほど、現実では理想に出会えなかった。
『アンリエットは、見かけによらず乙女よね』
そう笑った親友は、今頃いったいどうしているだろうか。
彼女に会いたい気持ちがじわりと湧き出て、不意に涙へ変わった。
「では、最終的に、君の理想どおりであれば問題はないかな?」
すっかり鼻声になっていることは、さすがに気づかれたくない。だからエティは、軽く首肯するだけに留める。
初めて、自分自身の力で、何としても手に入れたい。そう思ったものが、ヴァルの心だった。
どんな時にもそばに置かずにはいられない。何があっても彼が手放せない。そんな、唯一無二の存在になりたい。
「……ですから、今は軽く押すだけに留めておきます」
また泣いていることを知られてでも、この宣言だけは、きちんとしておきたかったのだ。
エティは、不敵、という表現が似合う笑みを見せる。それから、ヴァルに計画を伝えるためにセオドアの部屋を後にした。