忘れえぬ過去 3
家々を取り囲む樹木は、嫌がらせのように邪魔をする。それでもセオドアは、一軒一軒、エティらしき人影を探して懸命に覗き見た。
しかし、家々が並ぶ通りの端は行き止まりだ。そもそも、買った人間を簡単に表に出すはずがない。
がっくりと肩を落とし、セオドアが諦めかけた時だ。その端にある家から、確かに聞き覚えのある声がした。
中の様子がもっと窺える場所を探して、右に左にと歩く。
「お父様、今日もいいお天気よ」
言葉はリヴァルークのもので、それはヘンリエッタの口癖だ。はしゃぐ楽しそうな笑い声も、今までずっと聞いてきた彼女そのものだった。
「エティ!」
声の主が彼女であることを、一刻も早く確かめたい。
セオドアは我を忘れて、立ち入る許可も得ずに駆け込んだ。
「エティ!」
愛しい人の名を何度も呼びながら庭へ入る。
家の中には、忘れようのない彼女が立っていた。目に入った瞬間、もう、居ても立ってもいられなくなる。
突然現れたセオドアに対し、何を思ったのか。なぜかヘンリエッタは不審の眼差しと怯えた表情を見せて、急いで家の奥へ行ってしまう。
(なぜ……?)
彼女も駆け寄ってくれるものと信じていた。彼女の表情は、あまりにも現実として受け入れがたい。
彼女の身によからぬことが降りかかった結果、顔を合わせづらくて逃げたようには見えなかった。そうではなく、もっと根本的な部分で、彼女は違っている。
言うなれば、あれは初めて会った人間に対するものだ。
あのような視線と顔を向けられた理由を知りたくて、セオドアは意を決して家の中まで追いかける。
「お待ちください」
家主と思しき年配の男性に、唐突に行く手を遮られた。見た目の年齢的には、ちょうどエティの父親と同じくらいだろうか。焦げ茶色の髪と瞳は、確か、ファルドラッティ王国に多い色の取り合わせだ。
ファルドラッティ王国は、デュヴァリエール以外の国と国境を接している。それほど大きな国ではなく、リヴァルークとは比較的友好的だ。しかし、腹の中では何を考えているかわからない。そんな国でもある。
セオドアは逸る気持ちをどうにか抑え込み、仕方なく彼の話を聞く姿勢を取った。
もし、つまらない言い訳を聞かされた場合には、彼を切り捨ててでも彼女を取り戻す覚悟で。
「あの子は、エティという名前なのですか?」
「……どういう、ことです?」
そもそも、買われた人間に名前など必要ないのだろう。
そう問い詰めれば、男性はゆっくりと首を横に振りながら、彼女を奴隷として買ったことを否定する。
「彼女は、自分が売られていると認識していませんでした。檻の中からぼんやりと、買いつける人間たちこそ見世物だと言いたげに眺めていたんです」
とにかく怯えて泣き喚く者でなければ、それなりに加虐趣味のある買い手は満足しない。あまりに従順すぎる者は、奴隷として面白みに欠けるのだ。
「穏やかに見える彼女は、どの買い手からも敬遠されていました」
実際にそのひどい光景を見てきただろう男性は、静かな声で語っていく。
「私は趣味で鉱石類を収集しておりますが、人間には興味ありません。普段は近寄らない奴隷市に足を運んだのはほんの偶然なのですが、あの子を見ていたら、保護するために来たのだという気がして、気がついたら引き取っていました」
帰宅途中で、彼女の意識ははっきりした。けれど、ヘンリエッタは馬車から降りたがる素振りがない。それどころか、男性を見知らぬ者だと警戒する様子も見られなかったのだ。
家に帰った際に「ただいま」と口にした男性に倣い、ヘンリエッタも「ただいま帰りました」と初めて言葉を口にした。そこでようやく、男性には彼女がリヴァルーク育ちだと知ることができたらしい。
それでも、ヘンリエッタ自身のことは何も思い出せないようだ。何を聞いても、ただ首を傾げて微笑むだけだったという。
「今のあの子には過去がない、としか言いようがありません」
「……彼女はヘンリエッタ・リトルトン。リヴァルークの子爵令嬢で、私の婚約者です」
グッと眉を寄せた男性は、わずかに憐憫の視線を向けた。それから、痛いほど真剣な顔でセオドアを見る。
「では、あなたは、彼女を取り戻しに来たのですね?」
「ええ。できれば、リヴァルークに連れて帰りたいと考えています」
(今度こそ、この手で守るために)
見知らぬ人物に興味があるのか。それとも、父が親しげに話をしているからか。危険な人間ではないと認識したようだ。
ヘンリエッタは少し離れた壁の向こうから、チラチラとセオドアを盗み見ている。それに気づいた男性が、ちょいと彼女を手招きで呼び寄せた。
「こちらは……」
うっかり名乗り忘れていたため、男性は非常に困った顔でセオドアを見る。
「初めまして、私はセオドアです」
その瞬間、男性は大きく目を見開く。目の前に立っているのが何者なのかを、瞬時に理解したようだ。
「セオドア、さん?」
今までと何ひとつ変わらない調子で、ヘンリエッタは名を呼んでくれる。それが妙に懐かしく、ほんの一日半ほど聞いていないだけとは思えなかった。
しかし、より砕けた呼び方のはずが、なぜか無性に他人行儀で耐え難い。
「エティ、立ち話はなんだから、飲み物を用意してくれないか?」
「はい」
彼女は、自分の名が『エティ』だと疑わないようだ。見慣れた優しい笑顔でこくりと頷き、台所へ向かう。けれど、物の場所がまったくわからず右往左往している。
見かねた男性が、苦笑いで代わりを買って出る。結局、ヘンリエッタがセオドアを応接間へと案内することになった。
「こちらです」
落ち着いて内装を見たセオドアは、驚きでわずかに目を見開く。壁や家具の色合い、調度品の配置に既視感を覚えたのだ。
すぐに、それらが、どことなくヘンリエッタの家に似ていることに気づいた。だからこそ彼女は、これっぽっちも困惑することなく、ここを自宅だと思い込んだのだろう。
「お待たせしました」
茶を注いだカップを二つ、男性が静かにテーブルへ置いた。
「エティ、これから大事な話をするから、少し席を外してもらえるかな? ああでも、家から出てはいけないよ」
「はい、わかりました」
見慣れたヘンリエッタの一礼に、セオドアは懐かしく目を細めた。けれど、彼女は何も思い出してはくれない。その現実がずっしりと重くのしかかり、胸をキリキリと締めつける。
ヘンリエッタが部屋を出たところで、男性が小声で話を切り出した。
「……あなたは、リヴァルークのセオドア王子だったのですね」
いつ婚約したのか。そう問う男性に、セオドアは自嘲気味に、昨日の午後に発表したことを伝える。
ヘンリエッタの誘拐を知ってから、まだ丸一日過ぎただけとは感じられない。それほどに、密度の濃い時間を過ごしていることに、今初めて思い至ったのだ。
「とはいえ、今はその身分を忘れてください。私は、あくまで個人としてここにいるのですから」
男性は頷き、単なる想像の域を出ないことだ、と前置きして話を続ける。
「今の彼女には、人と関わってきたという記憶がありません。あなたをまったく知らない人間と思ったことも、私を父親と思っていることも、過去の人間関係が綺麗になくなり、まったくの白紙の状態だからなのでしょう」
彼の言葉を信じるならば、理屈としては説明がつくのかもしれない。だが、いったいどんなことがあれば、こんなことが起こるのか。
理解や想像の範疇を超えていて、セオドアには強い戸惑いしかない。
「リヴァルーク語を話しながら、カルニサーニャの言葉を解すことができるのは、あなたの妻となる予定だったからなのですね?」
「ええ……エティは、この半年で、熱心に他国の言葉を学んでいました。まだ読み書きはできませんが、簡単な日常会話を聞き取って話すくらいはできるはずです」
求婚を受け入れてもらった翌日から、王城でその勉強を始めた。いつか彼女が王妃として他国を訪問した場合に、いらぬ苦労をして欲しくなかったからだ。
休憩時間のささやかな逢瀬は、何よりも楽しみだった。彼女が覚えたての言葉を聞かせて、セオドアがおかしな点を指摘したこともある。
男性は、非常に流暢なカルニサーニャ語を話していた。ヘンリエッタはごく自然に、慣れ親しんでいるリヴァルーク語が出てきたのだろう。
セオドアのことは忘れても、自分が使ってきた言葉ははっきりと覚えているのだ。
その事実がまた、セオドアを悲しみの淵へと追いやる。
『カルニサーニャの言葉は少し難しいですが、情熱的で学ぶことが楽しい言葉です』
決して包み隠さない直球の表現を、ヘンリエッタはそう表した。
相手を思うゆえに、隠し事をしたくない。だからこそ、心のすべてを打ち明けてしまう言葉に思われる、と。
いつだって、彼女のそんな発想に驚き、感心してしまう。そうして、ますます惹かれていく心を自覚してきた。
そのヘンリエッタが、自分を見ても父の知人程度の認識しか示していない。その現実が何より寂しくて悲しく、つい呼吸の仕方を忘れそうなほど苦しいのだ。
「記憶がない部分は、今まで接した人間に関するものだけのようです。昨夜は一人で入浴も着替えもこなしていましたし、お茶の用意を頼んだ時も、真っ直ぐ台所へ行きましたから」
生活に関する知識は、きちんと残っている。それなのに、自分のことや過去にかかわった人のことは、何もかも忘れてしまう。
そんなことが、あり得るのか。
セオドアの疑問ははっきりと顔に出て、男性は泣き笑いのような表情を見せた。
「ここカルニサーニャには、あなたの想像をはるかに超える様々なものが売買されています。人でさえ売り物になる国ですから、人の心に働きかけて特定のことを忘れさせてしまう薬もあるんですよ。例えば恋人のことだけ、とかね」
痛みを堪える男性を見て、セオドアは即座に察する。
「……あなたも、そうして大切な人を失ったことがあるんですね」
肯定も否定もしなかった男性に、セオドアはあえて追求しなかった。
起きてしまったことを、なかったとは言えない。けれど、あったと他人の前で認めてしまうのも、恐らく相当つらいのだろう。
何しろ、セオドア自身、まだ現実として受け入れられていない部分があるのだ。これが過去のことになるまでは、かなりの時間を必要とするに決まっている。
「もし、そういった類の薬を飲まされていた場合、彼女があなたのことを思い出す可能性はほとんどないでしょう。……私が、そうでしたから」
突きつけられた現実が、じわりと胸に苦く広がっていく。
頭がしっかりと理解するのに時間を要した。理解できても、絶対に信じたくはない。
出会った日からずっと、彼女はセオドアの知らない世界を教えてくれた。彼女がいない未来は、もはや考えられない。それほどまでに、セオドアは彼女を必要としているのだ。
他の誰も、彼女の代わりにはなれない。
「エティ……」
後悔は、この手に取り戻してからすると決めていた。だが、もう耐え切れそうになかった。
「求婚を受け入れられた時に、エティを婚約者だと公表していれば、こんなことには……」
うなだれて両手で顔を覆い、ギュッと固く目を閉じた。これまで懸命に抑えてきた分、悔いる気持ちはとめどなく湧き上がる。
婚約を発表した段階で、アシュボールド子爵が娘との縁談を断念する確信があれば、間違いなくそうしていた。あの親子は、簡単には諦めないだろう。ヘンリエッタが婚約者となれば、犯人を知られないように嫌がらせの類を平然と行ったはずだ。
敵のすべてから彼女を守る準備を整えるまで。ヘンリエッタがいつでも結婚できる年齢になるまで。そこまでは、近しい者以外には伏せておいたというのに。
アシュボールド子爵が敏感に察したのか。それとも、教えた中の誰かが漏らしたのか。帰国後には、それも明らかにしなくてはいけないだろう。
「あなたはまだ、失っていないでしょう?」
唐突に降ってきた男性の言葉に、セオドアはおもむろに顔を上げる。
「あなたのことを覚えていないだけで、彼女は無事です。これから新しく関係を築けば、あなた方はやり直せるでしょう? 恋人だった私のことだけ忘れ、完全に見知らぬ他人のような扱いを受けました。私以外の者には笑顔を向けるのに、私にはしかめっ面になるんです。その原因が、親友と思っていた男でした。彼は、私の恋人に恋慕し、彼女から私の記憶を奪い、私がいた場所を奪いました」
淡々と語れるようになるまで、いったいどれだけの月日を要したのか。
男性の声にも表情にも、今のところ、過去の者たちに対する憎悪は感じられない。
「悪夢のような現実から逃げるために、私は、二十年ほど前にこの国へ移り住みました」
過去に裏打ちされた男性が発する言葉は、セオドアの中にじっくり染み込んでいく。しかし、同意することは、どうしてもできなかった。
「……膨大な人間関係を、一から把握し直すことがどれほど大変か、わかりますか? 役職に就いている者や爵位を持つ者だけでなく、その家族も覚えておく必要が出てきます。他国の王族や、名の知れた貴族の把握も必須です」
真っ白なヘンリエッタに、再びこれらのことを覚えさせるのは躊躇われる。家族や親しい友人はもちろん、セオドアやエリザベスすら覚えていないのだ。これから学ぶとしても、気の遠くなる時間がかかる可能性もある。
彼女は、ここで自由に暮らしていく方が幸せでいられるのではないか。今の彼女を考えると、どうしてもそう思われて仕方がないのだ。
「僕が今のエティと新しい関係を築き上げたとしても、国へ戻れば、他の者たちとも同じように、もう一度関係を作り直さなくてはいけない。実の両親や親友とも、です。こんなことさえなければしなかった苦労を、彼女にさせたくはない……」
それらをこなさなければ、絶対に結婚は認められないだろう。ヘンリエッタの物覚え次第ではあっさりと、別の結婚話が平気で持ち上がると予想できた。
そばにいるのに何もできない苦痛は、未来があると信じられるうちはどうにか耐えられる。けれども、ヘンリエッタを諦めることはできない。彼女が隣にいない未来は、生き地獄以外の何ものでもないのだ。
「では、どうされるのですか?」
今のヘンリエッタを、リヴァルークへ連れ帰ることはできない。それだけははっきりしている。
残された道は、ただひとつ。
「この家はエティの生家に雰囲気が似ていますし、彼女はあなたを父親だと思っている。あなたを信頼し、エティを任せたいと考えています」
「……わかりました。彼女は、私が責任を持って預かりましょう」
わずかな時間だけ考え込んで承諾した男性は、とっくに父親の顔をしていた。
「もし、いつか……あなたが彼女をそばに置くことができる日が来た時には、彼女を迎えに来てください。それまでは、私が彼女を守っていきましょう。幸いなことに、私は金銭に不自由していませんからね」
そう言って笑う男性に、セオドアはもうひとつ頼み事があると打ち明ける。
「僕は、売られてしまう子供たちをできるだけ救いたい。これ以上、エティのような存在を、僕やあなたのように失って嘆き悲しむ者を増やしたくない。だから、その時のあなたにできる範囲で買い戻してくれませんか? その子たちを引き取る際、かかった資金に上乗せをして交換としましょう」
すると、男性は静かに首を横に振った。
「そういった子たちは、私が全力を挙げて保護します。ただ引き取るだけでは納得がいかないというのであれば、リヴァルークの珍しい鉱石類と交換にしていただけますか? リヴァルークの鉱石は質がよく、好みの石が多いのですが、カルニサーニャにはあまり出回らないのです」
男性は、明らかにセオドアに有利な条件で提案をしてくる。
ヘンリエッタの家名は伝えた。そこから、希少な鉱石を産出できる鉱山を有している、エティの生家を導き出したのか。
そんな疑惑の目を、ほんの一瞬向けてしまう。
そうだとしても、別段困ることはない。エティの父親であるワースリッジ子爵も、娘の安全と引き換えならば、多少は融通してくれるはずだ。
「わかりました。ついでといってはなんですが、潤沢な資金を持ち、交換条件で協力してくれそうな方を知りませんか? もちろん、他国の方でもかまいません」
セオドアの思惑を察したのか。男性はしばらく考え込み、国名と名前を対にして、何人かをセオドアに伝える。
「私が知るのはこのくらいですね。それぞれに同じことを尋ねれば、また別の名前が聞けるかと思います」
「ありがとうございます」
座ったまま深々と頭を下げたセオドアに、男性は穏やかに笑って言った。
「大切な者を不当な手段で突然奪われる悲しみも苦しみも、それを経験した者しか正確には理解できないでしょう。今挙げたのは、本人や近しい人間がそういった苦汁を飲まされた者ばかりです。きっと、あなたの考えに賛同してくれるでしょう」
とっさに言葉が出なかった。
彼がそこまできちんと考え、名を挙げてくれたこと。ただただ感謝の気持ちを示すだけで精一杯だ。
「あなたの望む世界が広がるよう、ここでエティとともに祈っていますよ」
再度感謝の言葉を口にし、早速教わった者たちに会いに行こうと立ち上がる。そんなセオドアに、男性は少しだけ待つよう告げた。
仕事机に近寄り、ペンで紙に何やら書き記していく。その枚数は、先ほど男性が名を出した人数と一致している。それらを一枚一枚封筒に入れて、しっかりと蝋で封をした。
「これを、名前のとおりに一通ずつ渡してください。話が早く済むでしょう」
「何から何まで……どう感謝の言葉を並べればこの気持ちを伝えられるか、僕にはわかりません」
「感謝など必要ありませんよ。私たちは同志なのですから」
微笑む男性に優しく背を押され、セオドアは弾かれたように彼の家を飛び出した。港を目指してひた走り、自分以外の全員が揃っているヘンリエッタ号に急いで乗り込む。
「セオドア様、ヘンリエッタ様は?」
成果があったのかなかったのか。部下たちに問われたセオドアは、わずかに表情を硬くした。
それを見て、部下も察したのだろう。一様に痛ましげな表情になる。
「……ここにいる者だけの秘密にして欲しい。墓場まで持っていく約束のできぬ者は、しばらく船内の奥へ行ってくれ」
誰一人、動こうとしない。彼らは真っ直ぐセオドアを見つめている。彼の身に降りかかったすべてを、黙って受け入れようとしていた。
「エティは見つかった」
とたんに歓声を上げた彼らに、手で落ち着くよう示す。セオドアはゆっくり口を開き、話を続ける。
「ただし、これまで交友のあった人間を一人残らず忘れていた。もちろん、私のことも何ひとつ覚えていなかったよ」
誰も彼もしんと静まり返ったきり、言葉はおろか呼吸すら忘れているようだった。
何でもないことのように話すセオドアから、苦悩がにじむ。それが彼らに伝わり、じわじわと浸透していく。
「彼女は信頼できる者に預けた。この国で、ヘンリエッタ・リトルトンではなくエティとして暮らしていく」
「そ、それでは……」
「父上には、療養先からかどわかされたエティは見つからなかったと言う。そして、エティが死んだという確証がない限り、私は彼女以外の女性と結婚することはないと」
静けさは、一気にざわめきへと変わった。
仮にセオドアがそのとおりに公言したとしよう。ヘンリエッタがカルニサーニャにいることを知っている者の手が、絶対に伸びないとは考えにくい。
ヘンリエッタは、間違いなく殺害されるだろう。しかも、その遺体が、リヴァルーク国内の人目に触れる場所へ遺棄される可能性は高い。
「そうなれば、居場所を知るアシュボールド子爵の手の者が、必ずエティを害しに来るはずだ。そこを押さえる」
セオドアの考えを聞いた一人が、早速手を挙げた。
「俺を、ヘンリエッタ様の護衛に残してください!」
「オレもお願いします!」
「あ、ズルいぞ! 俺だって……」
「僕も、ヘンリエッタ様をお守りしたいです」
一人残らずヘンリエッタの護衛に立候補してしまった。このままでは、まったくもって収集がつかなくなりそうだ。
そこでセオドアは、彼らの中から特に腕が立つ者を五名選んで護衛の任を与えた。その五人には、ヘンリエッタが暮らしていく家の場所を教える。
「これから私用で他国を回るが、もしかすると公表前に刺客が送られてくるかもしれない。エティと家の者を、頼む」
「わかりました。必ず、ヘンリエッタ様たちを守り抜いてみせます!」
非常に力強く宣言する部下たちが頼もしく、この上なく心強かった。
これから、いくつかの国を回る。その帰国は、どう頑張ってもかなり遅くなってしまう。
すでに、セオドアがリヴァルーク国内にいないことが知られているはずだ。どこにいるかは、アシュボールド子爵にはすでに察せられていると見ていい。口封じに、すでに手の者が送り込まれている最中かもしれなかった。
今回残していく五人は、その場合に備えた護衛だ。
「国で公表後、一芝居打ってから私もこちらへ来る。速度でヘンリエッタ号に勝てる船などないからね」
リヴァルーク国内には、そんな船は間違いなく存在しない。
世界中を探して見つかるとすれば、ヴィストレーム国の軍艦くらいだ。その国はカルニサーニャの南にあり、軍事国家として名高い。その上、珍しいものが好きな国民性が知られている。
「まずは、カルニサーニャとヴィストレームの国境付近へ向かう。そこに一人目がいる」
わかっているのは、相手の名前とだいたいの居場所だけ。たったそれだけで人を探し出すのは、まさに生易しいことではない。
それでも、悲しみをこれ以上生み出したくはない。自分たちと同じ想いを抱く者を減らすため、何としてもやり遂げたかった。