忘れえぬ過去 2
二十年前のセオドアは、まだ王ではなかった。
漠然と、昨日までと似たような日々が、これから先もずっと続いていく。まったくもって、それを疑っていなかった。
朝一番で届いた仕事を終わらせ、昼食はヘンリエッタと一緒に済ませる。それから息抜きと称して、城の近くを散歩したい。夕方、彼女を家に送っていったら、また仕事に戻ればいい。
穏やかで優しい時間が流れるはずの今日は、起き抜けに突然、呆気なく奪われた。
「セオドア様! ヘンリエッタ様が!」
血相を変えて飛び込んできた部下に、嫌な予感が不安となって湧き上がる。冷静になれと命じる頭とは裏腹に、激しく脈打つ心臓と揺れ動く心は、すでに彼女のことでいっぱいだ。
「……エティが、どうした?」
「今朝、いつもの時間を過ぎても起きてこないと心配した家族が部屋を見たら、どこにもいなかったそうです! 窓が開いていて、賊が侵入した形跡が……」
ザアッと、自分の血の気が引く音がしっかりと聞こえた。
『セオドア様、今日もいいお天気ですよ』
春風のような笑顔と、やわらかく温かな声が思い起こされ、グッと唇を噛み締める。
「エティ……」
目立つ華やかさはないが、そばにいると嫌なことを忘れて、優しく穏やかになれた。心が惹かれていくうちに、自分以外の誰かが彼女の隣に立つことを許せなくなった。意を決して、妻になって欲しいと申し出て、あっさり承諾されたのが半年前だ。
もっと早く公表しておくべきだった。
グルグルと後悔の念が渦巻く。苛立ちをぶつけるように、きつく握り締めた拳を壁に思い切り叩きつける。
ズキズキと鈍い痛みを感じてから、ようやく『星』の存在を思い出す。それほどまでに、いつもの冷静さを失っている自分に気づく。
裏で糸を引いている人間には、確信を持った心当たりがある。この予想は、恐らく外れてはいないだろう。
「我々はヘンリエッタ様の捜索を続けます」
「今さらかもしれないが、私はエティを婚約者として公式に発表するよ」
ヘンリエッタが十七歳になってから公にしよう。そんな甘いことを考えていた自分の落ち度を、今さら悔いる暇などない。
まずは、ヘンリエッタをこの手に取り戻す。やらなければいけないことがすべて終わった後で、好きなだけ後悔をすればいい。
部下と入れ違いに、ドアを壊しそうな勢いで開けて入って来たのはエリザベスだった。
誰に何を聞いたのか、今にも倒れそうなほど青い顔で、息を切らせて駆け込んでくる。カートルの裾を勢いよく跳ね上げ、乗馬用に作らせたブラッカエが膝まで見えていた。しかし、彼女はそのことを気に留めていない。
さすがにたしなめようと、セオドアが口を開きかけた時だ。
「兄様! エティがかどわかされたのですって?」
エリザベスより四歳年上のエティだが、互いに愛称で呼び合うほど仲がいい。
下手な噂を聞けば、エリザベスは簡単に沸騰してしまう。その状態で誰かを問い詰めるよりはと、部下の誰かが気を回したのか。
余計なこと、とは言えない。だが、せめて確認を取ってからにして欲しかったとも思う。
「今探させているよ。僕はこれから、エティを婚約者として国民に公表する」
「そうですね。兄様の正式な婚約者はエティだけと、あの厚顔無恥のバルフォア家に知らしめてやらなくてはいけませんもの」
「もちろんだ。そうそう、リズは体調を崩したエティの見舞いに行ってくれ」
ぷっくり頬をふくらませていたエリザベスは、スッと真顔になった。指示どおりの行動を取るためか、部屋の窓を開けて庭へひょいと飛び降りる。
この部屋が二階にあることを忘れさせるほど、鮮やかで見事な跳躍だ。
「リズ! はしたないと何度言えば……」
「緊急時ですもの、ご容赦くださいませ!」
エリザベスは下から、華やかな笑顔で大きく手を振る。そんな彼女に、セオドアは仕方がないなと苦笑をこぼす。
伝わった『星』の声に順次駆けつけてきた妹たちには、多くを語らない。その代わり、大急ぎで婚約発表の準備に取りかかった。
急遽行われたセオドアの婚約発表は、肝心の婚約者が急病で欠席していた。しかし、それを打ち消すように、大いに盛り上がっていた。
リヴァルーク唯一の王子の婚約者は、今年十七歳になるヘンリエッタ・リトルトンだ。他の誰でもない。その事実が、全国民の知るところとなった。
賑やかに華やぐ祝宴の合間にも、セオドアの元には次々と情報が入ってくる。
「バルフォア家が出資している船が一隻、日の出前に荷物をひとつ積み込んで出港したそうです。行き先は不明ですが、東に舵を取っていたとの証言が」
やはりあの家か。
うっかり呟きが漏れる。絶対に外れて欲しかった予想が当たった苦さが、どんよりと口の中に広がった。
「よし、例の船を出そう」
完成したばかりの船には、現状で考え得る最新の装備を搭載している。守護女神のモデルにエティを選んだその船の名は、もちろんヘンリエッタ号だ。
それこそが、彼女を追いかける船に相応しく思われた。
「東……カルニサーニャでないことを祈るしかないな」
人身売買が横行し、国王はそれを止めようとしない。そんな国で売り物にされてしまうのではないか。
強い懸念と深い後悔が、波のように後から後から押し寄せる。
「ヘンリエッタ号を出す準備を整えておいてくれ。私は祝いの席をこなしてから行く」
王子も婚約者も不在の婚約発表など、さすがにあり得ない。
セオドアは、宴が終わるまでは耐え忍ばざるを得なかった。自分の他に船を──ヘンリエッタを任せられる者など、この世界には存在していないのだから。
部下にさらなる情報収集を命じ、婚約発表で大いに沸く広間へ再び戻る。
逸る心はすでに船へ乗り込み、ヘンリエッタを追いかけていた。しかし現実は、作り笑顔をベッタリと張りつけて、祝福に来た客に拝謝する。時に料理を口に運び、おいしそうに飲み込む、単なる人形のようだった。
「おめでとうございます、殿下」
(アシュボールド子爵……!)
ただ声を聞いただけで、無意識に手が出そうになる。証拠もないのに胸ぐらをつかみ、詰問するわけにはいかない。
上がりかけた手をごまかすため、偶然近くを通った給仕からグラスを受け取る。建前で飲んではみたものの、料理と同じで、まったく味がしなかった。
連れてくる必要のない娘を同伴している男の気が、相変わらず知れない。内心の憤怒と嘲笑が表に出ないよう、セオドアは必死に笑顔の仮面を被る。
「セオドア様が選ばれた方に、ぜひお目にかかりたかったですわ」
「申し訳ないが、彼女は今朝、急な病で倒れてしまってね。リズがそれはもう心配して、私以上に彼女を見舞っていたよ」
朝から花束持参で、エリザベスは何度もリトルトン家の別邸を訪ねてくれた。その姿は、近隣の住民に繰り返し目撃されている。病を得たヘンリエッタを心配して見舞っているのだろうと、話を聞いた者たちは解釈されていた。
何しろ、彼女たちが姉妹同然に仲がいいことは、かなり広く知られている事実だ。そこにヘンリエッタがいないと、誰も思うはずがない。
疑ってかかるのは、ヘンリエッタがすでに国内にいないことを知っている者だけ。
「精一杯着飾ったヘンリエッタ嬢には劣るでしょうが、娘のドレスは街一番の腕を持つ針子に、髪は街で評判の髪結師に頼みましてね、どうです?」
よほど企みに自信があるのか。男は嫌味を含めつつ、自身の娘を売り込むことに必死だった。しかし、セオドアはすべてをサラリと聞き流す。そして、男がひと通り話し終えたのを見計らって、バッサリと一刀両断する。
「アシュボールド子爵は、私の婚約祝いに来たのですか? それとも、ご自慢の令嬢に、誰か紹介して欲しいのですか?」
今まではやんわりと断るしかできなかった。だが、正式に婚約を発表した今、堂々と突っぱねられるのが唯一の救いだ。
リトルトン家とバルフォア家の爵位は、同じ子爵。家の格にも、それほど差はない。
仮に、バルフォア家がいくらか上であったとしよう。しかし、バルフォア家の令嬢は、来訪時はいつもお高くとまり、態度と評判がすこぶる悪い。ヘンリエッタは逆に、誰にでも笑顔で挨拶を返す心優しい娘だ。
たとえバルフォア家が伯爵であったとしても、結果は何ひとつ変わらなかっただろう。
「なっ……」
男の顔は、激しい憤りで真っ赤になる。その勢いで娘の手を引き、あっさりとセオドアの前から立ち去った。
ヘンリエッタが行方不明になり、仕方なく婚約破棄となるはずだ。恐らく、そこで半ば強引に、娘を嫁がせようと計画しているのだろう。
(お前の目論見は成功しない。いや、絶対にさせないよ)
そのために必ず、ヘンリエッタをこの手に取り戻す。
セオドアはたった今、心にそう固く決める。
それからも、笑顔は崩さないようにしながら、祝宴の主役をこなしていく。
その最中に、エリザベスがさりげなく近寄ってきた。にこやかに話しかけてきたものの、かなり声をひそめている。
「……兄様は、見当がついておいでなの?」
「……できれば、外れて欲しいよ」
それを示す言葉は、自然と互いに省く。
笑顔だったエリザベスは、沈痛な面持ちで押し黙る。そんな彼女の頭をなで、セオドアは頼みたいことがあると切り出す。
「かの領地で、事実と、別邸近くである家紋の入った馬車を見かけた者がいるらしい、と噂を流してくれ」
「……わかりましたわ、何もかも」
本当に聡い妹だ。セオドアはそう、思わず感心してしまう。
小刻みに肩を震わせ、怒りを押し殺す妹の背をそっとなでる。それほど憤っていても、彼女の『星』はちっとも泣いていない。
それがどれほど難しいことか、セオドアは身をもって知っている。
セオドアはスッと腰を折って、彼女の目をジッと見つめた。
「必ず戻る」
「約束ですよ、兄様」
「僕がリズとの約束を守らなかったことがあったかい?」
子供の頃のように笑って、セオドアは片目をつぶる。兄の覚悟に、エリザベスは泣きそうな顔で、咲き誇る薔薇のごとく微笑んだ。
祝宴が終わりを告げると同時に、セオドアは動きやすい服に着替えた。城から飛び出す直前に、父親にはヘンリエッタが連れ去られて行方不明だと告げてある。もちろん、奪われた婚約者を取り戻すまで、戻るつもりがないことも伝えておいた。
その程度の覚悟すらない男に、彼女を幸せにする権利はない。
すぐさま、セオドアは港へと馬の首を向ける。乗りつぶしそうな勢いで走らせて到着した港では、船がいつでも出られる状態で待っていた。
「エティ……どうか、どうか、無事でいてくれ……」
セオドアの祈りを受けたのか。ヘンリエッタ号は、鏡のように凪いだ海をスルスル滑るように進む。
ユルハイネンの領海は、あっさりと抜ける。どうにかカルニサーニャの海に出た頃には、すでに日が昇り始めていた。
「船影はありませんね」
「海では追いつけなかったか……」
そもそも、出港の時間が半日以上違う。確かに、ヘンリエッタ号には最新の蒸気動力を積んでいる。とはいえ、それほどの時間差を埋められるほど、それぞれの性能が極端に違うわけではない。
カルニサーニャの港に件の船がないか。セオドアたちが注意深く視線を送っていると、隅にバルフォア家の家紋をつけた船を発見した。
「……あれか」
同じ港に船を着け、セオドアは問題の船をまじまじと見上げる。船内で人が動いている気配はない。やはり、積荷はすでに降ろされてしまった後のようだ。
「確か、街中に市があったね。そこで手当たり次第に、エティらしき娘を見なかったか聞いて回ろう」
信頼の置ける部下を数人連れていく。残りは、ヘンリエッタを取り戻し次第、すぐ帰国できるよう船の整備に当たってもらう。
(どうか、売られる前であってくれ……)
道行く人に尋ねながら、市が行われるという広場へどうにかたどり着いた。だがそこには、何も入っていない檻だけが整然と並んでいる。当然人もなく、あまりにも閑散としていた。
「ひと足遅かったのか? それとも、これからか……」
できることなら、これからであって欲しい。だが、商品の性質を考えると、とうに終わっていると考える方が自然だ。
「客か? 今日の分はまだ届いていないぞ」
商売人とは思えない面構えの男が声をかけてきた。上物の生地を使ったセオドアの服に目を留めたのだろう。ものを見る目は確かなようだ。
彼はセオドアを客と思っているようで、まったく疑っていない。
背筋に冷水を注ぎ込まれた心地になる。自分を戒めるように、手の平に爪がグッと食い込むほど力いっぱい拳を握った。
幸い、『星』持ちは連れてきていない。これだけ距離があれば、リヴァルークの妹たちに届く心配も少ないだろう。そのため、何にも気兼ねすることなく、自分自身を存分に痛めつけることができた。
「……ということは、昨日の分はすでに?」
「日が昇る前に全部売れた。ちょっと変わりものがあって心配だったがな」
その「変わりもの」がヘンリエッタだと、セオドアは即座に察した。
皮肉な笑みを浮かべ、顧客に関する情報は口を割りそうにない男に見切りをつける。
とにかく、何でもいい。ヘンリエッタの行方に繋がる手がかりが、何としてでも欲しいところだ。
セオドアは街の人間に聞いて回ることにした。部下はそれぞれの勘が導く方向へと、あっという間に散らばっていく。
(下級とはいえ、エティは貴族令嬢だからね。商売人なら、それを見抜けるはず。嫌な話だけど、それなりの金を積まなければ入手はできないはず……)
深呼吸を繰り返して冷静さを取り戻しつつあった頭で考えたことから、セオドアは街並みを見て立派な家が並ぶ方へと走り出した。