序章
草木すら眠りにつき、どこもかしこも、しんと静まり返る真夜中。その屋敷だけが、明らかに違っていた。
「エリザベス、私のことは気にせず戦え。どうせアルマンに家督は行かない」
剣を突きつけられ、人質にされているというのに。知性ただよう男性は顔色ひとつ変えることなく、妻に思う存分戦うよう促す。
自由の身であっても、大して役に立てない。それがわかりきっているからこその言葉だ。
何より、彼女の魅力の一端であり、たおやかな印象をいい意味で裏切る剣技。それらを残らず、敵に見せつけて欲しかった。
「セルジュ……わかりました」
住み込みの家人たちが上げる幾多の悲鳴と、セルジュの言葉に覚悟を決めたのか。
夜着姿のエリザベスは、小剣を鞘からスルリと抜く。ふわりとうねるヘーゼル色の髪を揺らして、敵の利き腕を傷つけ、戦闘能力を奪うために剣を振る。
その動きは一切の迷いなく、滑らかで非常に的確だ。
「──!」
あっという間に二人を仕留めたエリザベスが、不意に動きを止めて唇をキュッと噛み締める。鋭い眼光を、セルジュの背後にある出入り口へキッと向けた。
突然の出来事にも、まったく冷静さを失わないようだ。
愛妻が見た光景を、その目に入れようと考えたのか。セルジュは、突きつけられたナイフで傷つかぬよう、細心の注意を払って振り返る。
「そこまでだ。ジルベールとロザリーの命が惜しければ、今すぐ武器は捨ててもらおうか」
結局見ることのできなかったセルジュも、声と言葉で誰が何をしたのか察したようだ。
──やはり、幼子たちは逃がしておくべきだったか。
ほんの一瞬、そんな迷いが生じた。けれど、遠方の味方を信じているからこそ、ここに残したことを悔やみはしない。
両親の寝室に近い部屋を与えていたことが災いしたのだろう。ぐったりした子供が二人、それぞれ違う男にしっかりと抱えられていた。
「卑怯者が……」
子供たちの命には、代えられない。無事でなければ、味方の努力も無駄になる。
小刻みに震えるエリザベスは、カランと小剣を足元に落とし、拳をグッときつく握った。
エリザベスは、大きなヘーゼル色の瞳に苛烈な怒りを宿す。視線だけで殺せそうなほど、子供を盾にした男を強く睨みつける。
「アルマン、お前はそんなに『星』が欲しいのかい?」
まるで、楽しいお茶の席で、何気なく出た話題のようだ。状況にあまり似つかわしくない、穏やかな声でセルジュが問いかけた。
「ええ、欲しいですよ。遅く生まれただけで、この手に入らないのは不公平ですからね」
まったく違う意味を重ねたセルジュの問いを、アルマンは片方しか解さなかった。よく知っている方についてだけ答え、それがセルジュの冷笑を誘う。
「たとえ死んでも、お前は手に入れられないよ」
(ステルブールの『星』も、リヴァルークの『星』も、ね)
あえて、命を失う側を明言しなかった。そこにも、アルマンは気づかなかったようだ。
ますます、セルジュの顔に皮肉めいた笑みが、ひっそりと浮かぶ。
「……そいつを殺せ!」
セルジュの言葉と表情に、積もり積もった憎悪が触発されたのか。アルマンは一瞬で顔を真っ赤にして、セルジュ殺害の指示を飛ばす。
その瞬間、エリザベスは、自身に課せられ常に用心してきた制約がどこかに吹き飛んだ。もはや、目の前で命を奪われようとしているセルジュにしか、意識が向いていない。
影響を受けてしまう娘のことを、考える余裕すらなかった。
「いやっ、やめて!」
制止するエリザベスの悲痛な叫びもむなしく、セルジュの首はあっさりとかき切られる。薄暗い月明かりの中、力の抜けた彼の体は、フラリと倒れていく。
それでもセルジュは、最期に見ると決めていたものをその視界にしっかりと留める。それから、ゆっくりと目を閉じた。
思い出されるのは、エリザベスと出会ってからの日々。
『私は、君が辺境の単なる村娘でもかまわない。君だから、そばにいて欲しいんだ』
本心を精一杯語った求婚だったが、エリザベスの承諾する涙声が夢のようで。
どこまでも明るく照らすエリザベスの笑顔が、決して曇ることのないよう。
彼女が、寂しさや悲しみで泣き暮れることのないよう。
セルジュなりに守り抜く決意で、十六年前の晴れの日に臨んだというのに。
(君を置いていかないと……必ず、君より後で、と、二つの『星』に誓ったのに…………ごめん)
守れなかった約束への未練が一粒の涙となって、夜空に輝く星のように、セルジュの瞳からはらりとこぼれ落ちる。
「セルジュ!」
とっさに小剣を拾って駆け寄ったエリザベスは、何も物言わぬセルジュに必死にすがりつく。人目もはばからず、声を上げて涙を幾筋も流す。
「…………」
後味が悪いのか。アルマンは、エリザベスからあからさまに目を逸らす。対して彼の忠実な部下は、ナイフをしっかと握ったままだ。感情の一切宿らない冷えた瞳で、エリザベスをジッと見下ろして次の命令を待っている。
「……あなたの決意をお聞きした日に、わたくしも覚悟を決めました。兄様の元へ戻らなかったことも、後悔していません」
ただ、最愛の夫を守りきれなかったことが、悔しい。
幼い子供たちの命は助かるだろう。それがわかっていても、一旦は敵の手に落ちてしまうことが悲しくて。
大好きな人が、もう抱き締め返してくれない現実が、キリキリと胸を締めつける。
「……わたくしを置いていかないと、あなたは『星』に誓ったのでしょう?」
かろうじてしぼり出された声はか細く、みっともないほど震えていた。
十六年前に交わしたのだ。互いに守り合い、どちらかを残していかないという、約束。
生き続けて欲しいから、子供たちと故郷へ帰るよう促したセルジュも。手助けもできず、異国でひたすら死亡の知らせを待っているのは嫌だと、きっぱり拒否したエリザベスも。
あの日の約束を、片時も忘れていないはずだ。
「さて、あなたには『星』の在り処を教えていただかなくては。……兄嫁と甥姪を相手に手荒な真似はしたくないので、素直に出していただけますね?」
「お断りよ」
下の二人は捕らわれた。この先で彼らを待ち受ける恐ろしい現実も、はっきりと想像がついている。
(わたくしでは、エティたちを助けてあげられないけれど、兄様でしたらきっと……)
兄とは十六年前から顔を合わせていない。それでも、覚悟を決めた日に、今夜起こることを手紙に記して送ってある。
きっと、手を打ってくれていると確信していた。
年齢に見合わず、冷静で頭の切れる娘エティは、幸いまだ無事なようだ。彼女は託されたものを必ず守り抜いてくれると、セルジュもエリザベスも強く信じている。
希望の光は、いまだ、何ひとつ潰えていない。
「セルジュが渡さないと言ったものを、わたくしが渡すと思って?」
エリザベスは鮮やかに、十七年前、兄弟を一瞬で虜にした微笑みを浮かべる。
死ぬことは、ちっとも怖くない。怖いのは、一緒に死ぬのだと約束した人と、死ねないまま引き離されること。
どこまでも一緒だと言わんばかりに、エリザベスはセルジュと同じ側の首を、自らの小剣で素早くかき切った。
「くそっ」
最期の瞬間に、寄り添うことを選んだエリザベスを忌々しげに見下ろす。アルマンは彼女の下にいるセルジュの胸倉をグッとつかんで、ひどく乱暴に引き離す。
離れがたいのか。いつまでもセルジュに触れるエリザベスの手に、収まりきらない苛立ちがますます募っているようだ。
「……まったく、不愉快なやつらだ」
子供を抱えている男たちに、予定の場所へ運ぶよう指示を与える。それからアルマンは、セルジュの体を力いっぱい蹴飛ばした。
ガクンと揺れたセルジュに合わせ、エリザベスの手もゆらりと揺れる。
アルマンは手の空いている者に『星』を探せと命令を下してから、二階へ続く階段へと向かった。