『世界』からの消滅
わたしは、久遠カオリ。
北海道の寒い地方に住む、中学校二年生だ。
好きな食べものは中華系、嫌いな食べものは苦いもの。ピーマンとか、何のために存在してるか分からない。お母さんはしっかり食べなさいって言うけど、嫌いなものを無理に食べたくない。
勉強が苦手だから、学校はあまり好きじゃないけれど、友達がいっぱい居るから、体育と給食のために通っているようなもの。
わたしには三つ年上の兄が居て、お父さんもお母さんもいつもお兄ちゃんのことばかり可愛がる。
無理もないのかな。お兄ちゃんはわたしと違って頭がいいから。学校では天才だのなんだの言われてる。
神様は不公平だ。
お兄ちゃんにはあんなに素敵な頭脳を与えるのに、わたしには何もくれなかったんだから。
毎日がつまらない。つまらないから、わたしはクラスの人気グループの中心になって、ある遊びをしている。
わたしのクラスには、黒ぶちの眼鏡を掛けた、いかにも物静かそうな女の子がいる。身体があまり丈夫じゃないのか、学校は休みがち。
休んでばかりいるから、もちろん友達もいない。
見た目も暗く、垢抜けていないから正直言って――かなりダサい。
わたしはその子にあだ名を付けた。地味子ちゃん、もしくは雪女。
だって地味だし、いつだって無表情で冷たい印象を与えてくるから雪女。ピッタリでしょ?
わたしが地味子だの雪女だの言うから、クラスの男子達もそう呼ぶようになった。
雪女は暖房にあたったら溶けちゃうよね? そんな理由で冬場は暖房にあたらせず、雪玉をぶつけて遊んだりした。
どうせ地味なんだから、雪玉があたって髪型とか崩れたって構わないでしょ? 地味子ちゃんだもんね。
それが、わたしの毎日の楽しみ。
お兄ちゃんと比べられて、親から可愛がってもらえないわたしの――心地好い憂さ晴らしのひと時だ。
そんなわたしは、先日引っ越した。
あ――もちろん、わたしだけじゃないよ。一家で引っ越したんだ。
新しい家は元の家と変わらず結構なボロ。築ウン年って言ってたけど、わたしにはよく分からないや。
エンジン音ばかり立派なお父さんの車に乗って、新しい家に引っ越した。ウチは貧乏なのに、持っていくものは山のようにある。
狭い軽の車は中がぎゅうぎゅう詰めだった。
玄関は横開き、ちょっと触れるだけで勝手に開いてしまうほど緩い。しっかり鍵を掛けないと、すぐに泥棒に入られてしまいそうなくらい。
木造二階建ての四畳二間と八畳の居間があるだけ。お風呂もあるけれど、とにかく狭い。
おトイレなんて汲み取り式だった。
二階はあまり陽が射さないらしく、じめじめしていた。
窓は北側に造られていて、採光にはやや不向き。
一通り見てわたしが思った感想は、『前の家の方がここよりは立派だった』と言うこと。
どうして引っ越したの? と、お母さんに聞いても教えてくれなかった。
そして、わたしが一番気に入らなかったのは玄関の前にある木だ。
「……本当に不気味……」
それは、引っ越して初めての夜のこと。
古い家は夜がとても寒くて、就寝と共に暖房を消してしまう我が家は、完全に冷え切っていた。
そんな中、わたしはトイレに行きたくて目が覚めてしまった。
玄関を潜ってすぐのところにあるトイレ。行くには当然、玄関が視界に映る。
横開きの玄関戸は曇り硝子で覆われていて、完全に透ける訳じゃなかったけれど。
玄関の真向かいにある木の影が『首を吊っている人の影』に見えたのだ。
その木は、猫柳の木だった。
硝子越しに見えるシルエットは一部分が下に垂れていて、その下に人が首を吊ってぶらさがっているような――そんな影にしか見えなかった。
もちろん、翌朝見てみても、当然家の前に首吊り死体なんてぶら下がっている訳がない。完全に木の角度の影響なのだと思った。
毎日毎日繰り返し見ても、やはり同じだった。
どう見ても、首吊り死体がぶら下がっているように見える。
「お母さん、お母さん。玄関の外に首吊り死体があるわ、怖いよ」
そうお母さんに訴えても、やっぱり何も言ってくれなかった。
お父さんも同じだ。怖い、と言ってみても、お父さんもお母さんも何も言ってくれない。
二人はなんとも思わないのかな? 大人は怖くないの?
お兄ちゃんには――どうせ馬鹿にされるから、何も言わなかった。
それから数日後、お母さんの隣に潜り込んで眠ろうとしたわたしは、ふと足に違和感を感じた。
「やだっ!」
何かが絡みつくような、そしてヒンヤリとした冷たい何かが触れる。
慌てて布団の中を見て、息が詰まった。
「――きゃああああっ!!」
そこには、真っ黒い長い髪をした女の人が居たからだ。
黒く長い髪、白いセーラー服、青白い顔。もちろん、わたしはこの人を知らない。
わたしの家族はお父さんとお母さんとお兄ちゃん。そしてわたしの四人家族なんだから。
「お母さん! お母さん!」
――助けて!
慌てて飛び起き、隣で眠るお母さんを起こそうとするけれど、お母さんは目を覚まさなかった。
その間に、布団の中からその女の人が這い出てきた。
先程感じた冷たい感触は、この女の人の手だ。わたしの足を掴んで、引っ張り込もうとした。
「来ないで! お父さん、お母さん! 助けて!」
必死に泣き叫んでみるけれど、お母さんは目を覚まさない。二階で眠るお父さんやお兄ちゃんが降りてくる気配もなかった。
わたしは怖くなって、バランスを崩しながらも必死に逃げ出す。
あの、玄関へ。
「え……っ!?」
例の玄関に着いて、わたしは目を疑った。
首吊り死体がぶら下がっているように見えた木。
その木から『ぶら下がっているもの』が忽然と消えていたのだ。
――つまり、首吊り死体のような部分が。
まさか、と思って振り返ると、青白い顔をした女の人がすぐ真後ろに立っていた。
「いやああああっ!!」
『……コロシに、キタよ……』
わたしが悲鳴を上げて勢い良く後退ると、青白い顔の女の人は口の端を吊り上げて薄っすらと笑う。
そこへ、お母さんが寝室から出てくるのが見えた。
――助かった、お母さんだ!
わたしはもう恐怖で一杯で、溢れ出る涙を拭う暇もなく女の脇を駆け抜けてお母さんに駆け寄った。
運良く、二階からお父さんも降りてくる。
よかった、これで助かる!
でも、わたしの予想は大きく外れた。
わたしの手は、お母さんの服を掴めなかったのだ。
「どうした、何かあったのか?」
「あなた……いいえ、なんだかカオリの声が聞こえた気がして……」
お父さんの声が聞こえた、お母さんの声も聞こえる。
――お父さん、お母さん。カオリはここにいるよ?
二人に触れようとしても、わたしの手はお父さんの身体にも、お母さんの身体にも触れられなかった。どうやってもすり抜けてしまう。雲でも掴むかのように。
どうして? どういうこと?
「無理もないさ、まだ……あの交通事故から三ヶ月も経ってないんだ。見守ってくれてるのかもな、カオリが」
「ええ、そうね……」
「それにしても、無理に引っ越さなくても良かったんじゃないのか?」
「だって、あの家に居たら……カオリが元気に帰ってくるんじゃないか、って……どうしても期待してしまうんですもの……」
わたしはお父さんとお母さんの会話を聞いて、目の前が真っ暗になった。
カオリはわたし! わたしだよ! ここにいるよ!
でも、どれだけ声を張り上げても――お父さんとお母さんは、わたしに目も向けてくれない。どうして? わたしが見えないの? どうして?
そんなわたしの疑問に答えてくれたのは、あの青白い顔の女だった。
『アナタは……交通事故に遭って……死んだんだよ……コロシにキタって、言った、デショウ……?」
「わたしが、死んだ……? う、嘘よ、嘘に決まってるわ! 大体、死んだならなんで殺しに来たなんて言うのよ、おかしいじゃない!」
『アナタ……ヒドいイジメをしてたんデショ……? だから、お空からのムカエは……来ないし……アナタの魂は罪深い、から……消されることになった、のよ……』
女は、にぃ……と口端を引き上げて薄ら笑いを浮かべながら近付いてくる。
冗談じゃない、何かの間違いだ。夢か何かだ。そうでなければおかしい、そうだ、これは夢なんだ。
『ワタシも……ね……イジメられて、自殺シタ……のよ、あそこの木で……首を吊って、ね……』
よくよく見てみれば、女の首には縄で縛られたような痕が残っていた。色は変色し、赤紫色になっている。
そして、わたしに手を伸べてきた。
「ネェ……イジメられる側の気持ち、考えたこと……ある……? とてもクルシイの……ミジメなのよ……』
ゆっくり静かににじり寄ってくる女を見て、背筋が凍る。
わたしは慌てて、お父さんとお母さんに向き直って声を上げた。――カオリはわたし、ここに居るの!
気付いて、気付いてよ! 夢なら早く覚めてよ!
『ムダよ……今のアナタはユーレイだもの……ダレにも見えない、のよ……』
「い、いや……! いやよ! あっち行きなさいよ!」
『テンゴクからのムカエは……来ない、わよ……アナタは消えることに、決まったんだから……』
わたしが一体何をしたっていうの!?
してない、わたしは何もしてない! どうしてこんな思いをしなきゃならないの!?
わたしには見向きもせずに、お母さんは寝室に、お父さんは二階に上がっていってしまった。
そんな、待って。わたしはここにいる、カオリはここにいるのよ、助けてよ!
必死に追い縋ろうとしたけれど、その瞬間。首に何か冷たいものが触れた。
「え……?」
立ち止まって恐る恐る見てみると、それは刃物だった。
だけど、普通の刃物じゃない。喉仏にそっと添えられた、平べったいもの。それはわたしの真後ろ――更に言うなら随分高い位置から伸ばされている。
青ざめながら振り返ってみれば、女の頭上に黒いフード付きコートを羽織る何かがふわふわと浮かんでいた。
刃物は、その『何か』から伸ばされている。
「うそ……でしょ……」
フードから微かに覗いた顔。
それは人ではない。嘗て人であったもの――人骨だった。所謂死神。
そして死神から伸ばされている刃物は――、
『地獄の鎌よ……これで首を刎ねられれば、魂は……消滅するからね……サヨナラ、カオリちゃん……」
「いや、いやよ! 助けてよ、わたしは……! お父さん、お母さ――――!」
少女の声は、そこで途切れた。
古びた家には泣きながら親を呼ぶ少女の悲鳴が木霊したが、
その声は、やはり家族に届くことはなかった。