第四章 『二人目の独覚』
三日目……その日は朝から生憎の曇り空だ。
太陽が出ていないから涼しいかと言えばそうでもない。
湿度が高く、気温も晴れている時よりマシかな? 程度だ。
いつものように自転車を押しながら坂を上り、圭は烏が多いことに気付いた。
嫌な予感に突き動かされるように圭は藤山公園に足を踏み入れた。
昨晩、チンピラが西郷先生を拉致しようとした場所に烏が群れていた。
濃密な血と臓物の臭い。
烏が飛び立ち、悪夢じみた光景が露わになる。
死体が転がっていた。烏に食い散らかされた死体は人間の形をしていなかった。
三人とも何かに押し潰されたような壊れ方、人間だったと判別できる要素はボロボロの服だけだ。
すり潰された血肉の上で蠢いているのは蛆。
蛆を生む蝿がいるとか、そんな知識が脳裏を掠める。
気が付けば圭はその場で嘔吐していた。
喉が痛い、口の中に酸っぱい味が広がる。
歯の裏がザリザリして、胃が裏返りそうなくらい蠕動している。
誰だ?
誰が、殺した?
決まってる。
あんな残念な結末を迎えずに済んだ、と言っていたセシルさんが怪しいじゃないか。
ああ、クソ! 考えが纏まらない。
訳の分からない焦燥感に追いやられるように圭は走っていた。
オリンピック選手も青ざめるようなスピードで公園を駆け抜け、車に轢かれそうになるのも構わずに道を横切る。
倒れ込むようにローランド邸の門を越え、圭は掃除を終えて家に戻ろうとしているセシルさんを睨んだ。
「……何か?」
「セシルさん、貴方は言いましたよね? あの三人を殺してないって、なのに……どうして、どうして?」
「何を仰っているのか理解しかねますが、御自身の不甲斐なさを私にぶつけるのは筋違いです。一言で申しますと不愉快です」
ブツンと何かが切れた。
一瞬で十メートル近い距離を踏破する。
海兵隊に五年いた?
知るか!
顎を狙い、拳を振り上げる。
「ガッ!」
だが、苦悶したのは圭の方だった。
セシルさんが圭の拳に肘を振り下ろしたのだ。
中指の骨を折られた痛みを噛み殺しながら圭は無事な腕を振った。
大きく弧を描くフックだ。
だが、拳がセシルさんを捉えるよりも早く、衝撃が胸元で炸裂した。
全身がバラバラになりそうな強烈な横蹴りだ。
血を吐きながら、圭は普段と変わらない無表情を保つセシルさんを睨んだ。
「な、なな、何をしておるんじゃ!」
一瞬で眠気が覚めたのだろう、庭に出て来たクリスが声を裏返らせて叫んだ。
「昨夜の三人が死んでたんだよ!」
「母上を疑っているのか?」
「シロ、ハイイロ」
玄関に座っていた二匹がセシルさんの命令で動く。
ハイイロが割って入ろうとしたクリスに体当たり。
シロが倒れ込んだクリスを背で受け止める。
二匹とも番犬で終わらせるには惜しい連携だ。
雑鬼召還、『礫』!
視界が赤く染まる。
だが、気を捉えるはずの目は何も映さなかった。
聖域のようにローランド邸が清められていたのだ。
何故? と疑問が過ぎる。
仕方がなく、自分の気を消費して符に受肉させる。
ガチガチ! と牙を打ち鳴らす式神をセシルさんは舞うように躱し、流れるように銃弾を叩き込んだ。
だが、銃弾が穿った穴は瞬時に埋まり、式神はセシルさんの柔肌を食い破ろうと襲い掛かる。
圭は舞うように式神を躱すセシルさんに忍び寄り、渾身の一撃を放つ。
「殺った!」
「……未熟」
拳が空を切った次の瞬間、細い指が圭の両肩を掴んでいた。
マズイ、と行動を起こす間もなくセシルさんの両膝が圭の後頭部に突き刺さった。
意識が一瞬だけ断絶。
鼻血を垂れ流しながら圭はセシルさんを振り払い、大きく跳躍して距離を取った。
圭は式神を呼び戻し、衛星のように周囲を旋回させる。
セシルさんは式神を倒せない。
メインに術を据えて、戦術を組み立てるのが上策。
「降参して頂けると嬉しいのですが?」
圭は答えない。
ようやく攻略ポイントが見えてきたばかりだ。
無言で圭は式神をセシルさんに放つ。
セシルさんは昨夜のように襲い掛かる式神の間を擦り抜ける。
圭は驚きのあまり目を見開いた。
式神が元の和紙に戻ったのだ。
セシルさんは二本の短剣を握っていた。
「ご存知かも知れませんが、私は五年ほど海兵隊に籍を置いておりました。ある小国でカルを養子にしたのですが、この短剣はカルの母親になった証として部族の長から譲り受けたモノです。曰く、邪を払い、見えざる怪異を断つ霊剣です」
だが、効果があるかも分からない武器を実戦で使えるだろうか。
セシルさんは圭の疑問を察したように微笑んだ。
「傷を癒すのに二年、海兵隊で五年、日本で二年……どのように残る一年を過ごしていたのか? 私は慣れているのですよ、貴方のような術士と戦うことに。シロ!」
「何っ!」
反射的に圭はクリスの方を見やり、自身の失策を悟った。
シロは動いていない。
気付いた時は手遅れだった。
胸に衝撃を受け、圭は意識を失った。
※
目を覚ますと、クリスが不機嫌そうに顔を顰めていた。
場所はローランド邸の客間、そこに敷かれた布団で圭は寝ていた。
「……ケイ、貴様は人間として問題がありすぎるのではないか?」
「は?」
「死体を見て錯乱した挙げ句、母上に殴り掛かるとは何事じゃ!」
鈍痛がこめかみに走る。
「あの後、母上が藤山公園に行ってきたんじゃが……死体の分量は二人半、押し潰されたような損傷具合だったと言うことじゃ。母上でも何の道具も使わずに人間を押し潰せるはずなかろう」
「そう……だよな、反省してる」
「ケイは実戦経験がない点を差し引いても錯乱しすぎじゃ」
「今、何時だ?」
「四時過ぎじゃ。ちなみにワシはケイの看病をすると言って学校はサボって、改めて資料に目を通していた所じゃ」
「何か分かったか?」
「今年の一月から大川市では四十人近い人間が失踪しておる。全国の失踪者数を年間十万人と仮定して埼玉県だと一つの自治体で三十人くらいになるはずじゃから、少し上回っていると言った所じゃな」
クリスは資料に目を通し、
「腕力がなさそうな爺婆と小学生が狙われてもおかしくないと思うんじゃが、会社員や中高生の方が多い。例外と言えば、一人だけ入院患者が失踪しているくらいかの?」
体を起こし、圭は折られたはずの指を見つめた。
折られたはずなのに指は無事だ。
「母上に謝っておくんじゃぞ」
「セシルさんが手当してくれたのか」
「ワシは応急処置の仕方なんぞ教わってないからの」
はぁぁ、と圭は息を吐いた。
「真っ正面から戦えば勝てると思ったんだけど、セシルさんのあれは反則だろ」
「力の差が明確だったからこそ、その程度の傷で済んだんじゃ」
「俺は両親が死ぬまで割と真面目に修行してたんだぜ」
「母上曰く総合評価は五段階の二じゃと。体術は新兵よりマシ、魔術は中の下、短絡的な思考のせいで身体能力の高さを活かせておらんとも言っておったぞ」
「凄いダメ出し、自信を喪失しそうだ」
「すぐに錯乱するような人間が自信満々ではまずかろう。長谷川裕一の漫画でも読んで堪え忍ぶ戦い方を勉強せい」
ガウガウ! とシロとハイイロの鳴き声。
「ご、ごめんくださ~い!」
「委員長が来たようじゃな」
チャイムいらずだな、と圭は枕元に置かれた漫画をパラパラと捲る。
しばらくして、クリスが美咲を伴って部屋に戻ってきた。
「石動、アンタって本当は弱いの?」
「いきなりそれかよ」
「主婦にボコボコにされるなんてマジあり得ない」
「セシルさんを主婦に区分するお前があり得ない」
蔑むような視線を向ける美咲に圭は反論した。
「何か分かったの?」
「何も分からんと言うことが分かった」
う~ん、と三人で車座になって唸る。
「三人で顔を突き合わせても文殊の知恵には及ばないの」
「だったら、文殊に縋ろうぜ」
「そうするしかないようじゃな」
はふぅ、とクリスは憂鬱そうに溜息を吐いた。
「文殊って誰よ?」
「母上に決まっているではないか。ケイをフルボッコにした時、母上は術士と戦うことに慣れていると言ってたからの」
移動と言ってもセシルさんの部屋はすぐ目の前だ。
「母上、少し相談したいことがあるんじゃが?」
「……どうぞ」
待つこと十数秒、いつもと変わらないセシルさんの声が聞こえた。
しょっぱい大学生のようなクリスの部屋と違い、セシルさんの部屋は殺風景なほど整理整頓されていた。
腰と同じ高さの和箪笥、大昔の映画に出て来そうな文机、タイトルが英語で書かれた料理の本やノートが並ぶ本棚……メイドと言うよりも書生の部屋と言った雰囲気だ。
「……圭様、御加減は?」
「あ~、手加減してくれたお陰で傷一つないです」
ちょっと気まずい。
「例えば、母上が正体不明の殺人鬼を追っているとしてじゃな。どうすれば、殺人鬼を捕まえられると思う?」
「犯人の手がかりは?」
「うむ、地元の警察から仕入れた犯人に襲われたかも知れない人のリストだけじゃ」
セシルさんは考え込むように唇に指を宛がった。
クリスが腰を下ろしたので圭と美咲もそれに倣う。
「経験上、突発的な事故を除けば人が人を殺す理由は怨恨、趣味、仕事に絞られます」
「秩序型と無秩序型ではなく?」
「それは犯罪の傾向であって理由ではありません。憎しみで殺すか、楽しんで殺すか、あるいは対価を得るために殺すか。もっとも、どのタイプでもある程度ならば犯人に迫れますが」
「どうすれば良いんじゃ?」
「犯人の動機が不明でも、行動そのものには理由があります。犯行が特定の地域で繰り返されているのであれば車やバイクを所持していない。女性や子どもがターゲットとされるのであれば犯人が肉体的に脆弱であるなど……」
「うむ、分かった! ケイ、委員長! 次はワシの部屋じゃ!」
※
自分の部屋に戻るなりクリスは大川市の地図をプリントアウト、失踪者のリストと見比べながら赤いマジックで点を書き込む。
クリスは点を地図に書き終え、自信満々で圭と美咲にそれを見せた。
「……藤山公園の近くに点が密集してるな」
「そうじゃ! ここで行方不明になった失踪者の多くはサラリーマンか、学生……秩序だった行動を取る人間ばかりじゃ!」
「けど、何処に攫われたの?」
「何故、昨夜のチンピラ三人は殺されたと思う? それはあの三人が殺人鬼に不都合な行動を取ったからじゃ! 藤山公園に手掛かりがあると考えて間違いない!」
ドクンと心臓が大きく鼓動した。
ようやく事件解決の糸口が見えてきた。
今までやってきたことは無駄じゃなかったのだ。
「善は急げじゃ!」
勢いよく飛び出したクリスはハイイロに躓き、シロにダイブした。
「な、何をするんじゃ!」
ハイイロがクリスを前足で抑えつける。
くぅぅ、とハイイロは困っているかのように小さく唸った。
「ワシはユーカを助けねばならないと言うのに!」
「おいおい」
圭が近づくとハイイロは牙を剥いて威嚇した。
迂闊に手を伸ばしたら噛みつかれそうだ。
「ケイ兄ちゃ~ん!」
ドカッ! と背後から衝撃。
カルは圭の脇から顔を出し、クリスと二匹の犬を不思議そうに見つめた。
「三人とも何をしてるの?」
「ワシが出掛けようとしたらシロとハイイロが襲い掛かってきたんじゃ!」
「シロも、ハイイロもお姉ちゃんを心配してるんだよ。だよね?」
がう! と二匹は同意するかのように吠えた。
「こんなに人間と犬って意思の疎通ができたかしら?」
「少なくとも、シロとハイイロはできるみたいだな」
「ワシは! ユーカを! 助けねばならんのだ!」
クリスが手足をばたつかせてもハイイロは巧みに体重を移動させて逃がさない。
「シロ、ハイイロ……お姉ちゃんの好きにさせて」
ハイイロはカルの言葉に従い、クリスから離れた。
「うぐぅ、子犬の頃から面倒を見ているワシよりもカルの命令を」
「シロとハイイロはお姉ちゃんが好きで好きで仕方がないんだよ」
「何故、そんなことが分かる」
「考えていることくらい分かるよ、家族だもん」
不満そうに唇を尖らせるクリスにカルは当然のように言った。
「なら、ワシが手伝ってくれと言ったら手伝ってくれるのか?」
「……それは」
がう! とシロが言い淀んだカルの代わりに吠える。
「シロ……手伝ってくれるか?」
がうがう! とシロがクリスに答える。
「ならばワシの命令は絶対遵守じゃ! ワシが火の中に飛び込めと言ったら火の中に飛び込み、盾になれと言ったら盾になるんじゃぞ!」
シロは考え込むように黙った。
「シロもやる気満々じゃ!」
シロが抗議するように首を横に振ってもクリスは何処吹く風だ。
きゅ~ん、とシロは諦めたように頭を垂れた。
※
「シロ、探せ!」
クリスは藤山公園に入るなりシロに無茶ぶり。
シロは諦めたように息を吐き、鼻を鳴らしながら藤山公園の斜面を上がっていく。
「犬頼みってのが泣けてくるわ」
「こう見えてもシロは優秀なんじゃぞ。最高スピードは時速八十キロ、起伏に富んだ山道をモノともせず、一晩中でも走り続けられる燃費の良さは他の追随を許さぬほど」
「時速八十キロって、もう犬じゃないわね」
ふがふが、とシロは斜面を下っていく。
県道は目と鼻の先だ。
優花の家がある新興住宅地も近いし、藤山公園を拠点になっているのは考えて間違いなさそうだ。
だが、順調だったのはそこまでだった。
「どうしたんじゃ、シロ?」
グルグルとシロは困惑したように回った。
いや、回ると言うよりも円を描くように歩いている。
がうがう! と何かを伝えようと吠える。
「分からん! 日本語、もしくは英語で話せ!」
「何処まで無茶ぶりするんだよ、お前は」
「ボディーランゲージでギャアアアアアアアア!」
突然、クリスが絶叫した。
地面から伸びた血塗れの手に足首を掴まれたのだ。
ほぼ同時に圭とシロは跳び退る。
いや、わずかながらシロの方が早い。
こいつも単なる犬じゃなさそうだ、とそんなことを考えていると地面の隙間から鼻ピアスが顔を出した。
顔が腫れ上がっているものの、不可逆的なダメージはないようだ。
「あ……た、助けてくれ」
「ヒィィィッ!」
クリスは鼻ピアスを踏みつけ、足首から手を引き剥がした。
ガチガチと震えながら、圭の背に隠れる。
まるで幽霊に遭遇したみたいな怯えぶり。
「ちょ、いきなり踏みつけるなんてあんまりじゃない」
「近づくな、委員長!」
「これなら痴漢もできないでしょ」
大丈夫ですか、動けますか? と美咲は鼻ピアスの腕を掴んだ。
「俺も止めた方が良いと思うんだが?」
「アンタまで何を言ってんのよ。一、二、三で引っ張り出しますから……一、二、三!」
灯油タンクを持ち上げたら空になっていたみたいな感じで美咲は尻餅を突き、
「……っ!」
ズザザザザッ! と鼻ピアスの手を振り解いて後退した。
「お、お陰で助かった。暗くて、蝿がブンブン飛び回っててよ。畜生、芋虫がついてやがる」
鼻ピアスは忌々しそうに芋虫を払い除ける。
白い虫だ。
払い除けても、払い除けても、次から次へと湧いて出る。
「なあ、聞いて良いか?」
「何だよ! 畜生、こんな所にも」
「止めぃ、ケイ」
圭は大きく深呼吸、
「どうして、下半身がないのに生きてるんだ?」
「……何を言って」
鼻ピアスは何もない空間を見つめ、動きを止めた。
そこにあるはずの下半身は存在しない。
断面はグシャグシャに潰れ、無数の蛆が蠢いていた。
「と、トリックだろ? そうじゃなければ……」
「下半身が切断されても生きていられるって話は聞いたことがあるけど、それは適切な処置をされてるからだろ」
「そ、そんな、俺は生きてる! 生きて、生きて、畜生……虫が、虫が」
鼻ピアスは狂気に取り憑かれたように蛆を払う。
だが、蛆は後から後から湧いて出てくる。
この暑さだ。防腐処置されていない体が虫の巣と化していても不思議じゃない。
「へへ、虫を払えば元通りだ、潰したんだ、潰したんだから、元に戻るだろ! おい、お前! 元通りだろ! 俺は……!」
鼻ピアスが地面を這って美咲に近づいていく。
ズルリとシロに噛み砕かれた腕が抜け落ちる。
「近づかないで!」
「ヒャヒャヒャッ! 俺は元に戻ったんだ! 昨夜は失敗しちまったけど、今度は上手くやる!」
「悪いけど、次はねーよ」
溜息を吐き、圭は鼻ピアスを踏みつけた。
残っていた内臓やら、虫やらが断面から溢れ出した。
悪臭が生温かな空気となって押し寄せる。
最悪、吐き気を通り越して頭痛がする。
「少しくらい反省しろよ。あんなことをしていたから死んじまったんだろうが」
「お前に俺の何が分かるんだよ! ろくな経験も積んでないガキがしたり顔で説教してるんじゃねーぞ、ゴラァァァッ!」
「普通の高校生よりも人生経験を積んでるつもりだけどな」
鼻ピアスから離れ、圭は懐から符を取り出した。
雑鬼召還、『散』!
パン! と乾いた音が響いた。
「痛っ! 何よ、今の」
「うぐっ!」
顔を顰め、美咲とクリスが圭を見つめた。
今のは気を散らす術だ。
生きた人間に対する効果は小さな痛みを与える程度だが、
「な、何だよ、いきなり暗くなったぞ……さ、寒い」
死者は気を補填できずに二度目の死を迎える。
「今から、お前は死ぬ」
「何を、畜生……寒い、寒い、ここは寒い」
鼻ピアスの動きが鈍り、
「畜生、畜生、畜生っ! 死にたくなんてなかった! 何もできなくても、クソみたいな人生でも……生きて!」
最後の力を振り絞るように絶叫した後、それっきり動かなくなった。
圭は大きく息を吐き、手が小刻みに震えていることに気付いた。
最後で人間だと認めちまったんだ。
鼻ピアスは同情できる相手じゃなかった。
それでも、あいつは人間だったのだ。
「ケイ、ユーカを助けたら幾らでもワシの胸を貸してやる」
「優花に頼むからいらね」
鼻ピアスが出て来た隙間を蹴飛ばすと地面がスライドした。
そこに隠されていたのは緩やかなスロープ……地面と壁がコンクリートで補強された人工物だ。
「何だよ、これ?」
「よく分からないけど、防空壕じゃない?」
「こんな田舎にこんな防空壕なんて造るなんて意味ないだろ」
「お爺ちゃんが軍需工場があったとか言ってたから、その流れで造ったんでしょ」
「行くぞ、シロ」
クリスはシロを先導させ、防空壕に入り……十秒くらいしてから走って戻ってきた。
「いかん、暗すぎて何も見えん」
「照明もないしな」
圭は懐から符を取り出し、
雑鬼召還、『灯』!
自分の気を消費して明かりを生み出す。
「この明かりは何時間くらい持つんじゃ?」
「一時間くらいだな」
「よし、今度こそ出発じゃ!」
当然のことながら防空壕の中は暗かった。
ふごふご、と鼻を鳴らして進むシロの足取りに迷いはない。
「何故、あの男は生きていたんじゃ?」
「死んでなかっただけだろ。力任せに死を先延ばしにしてただけで放って置けば動かなくなってただろうさ」
「ワシはケイの言う死が今一つ理解できん。先延ばしにしたとしても、死んでいないのならそれは生きているのではないか?」
「少なくとも自家発電から電池式に切り替わった時点で終わってるだろ」
「そんなもんかのう?」
「納得できないなら石動家の古文書を読むか? 一人の人間を生き返らせるために何百人も犠牲にしたり、廃人になった例がゴロゴロしてるぞ」
「……分かれ道じゃな」
足を止め、右の道に進む。
理由は単純、シロが選んだからだ。
「変な臭いがしない?」
「うむ、生ゴミが腐ったような臭いがするのう」
シロに案内されて辿り着いたそこは、
「ちょ……っ!」
「……っ!」
口を抑え、クリスと美咲が逆走する。
「ご、ごめん……吐く」
「ワシもじゃ」
美咲とクリスは分岐点で吐瀉物を撒き散らした。
何の気構えもなく死体の山を見たのだから当然の反応だ。
シロに案内された先はゴミ捨て場だった。
気が狂いそうな蝿の羽音と頭痛を催す悪臭で満たされたそこには腐乱死体が積み重ねられていた。
まともな死体は一つもなかった。
腐敗して膨れ上がったり、体の一部を切り取られたりした死体のオンパレードだ。
もう少しクリスと美咲が注意深ければ、爪が剥がれた死体にも気付けただろう。
被害者の何人かは廃棄された後も生きていて、ここから逃げ出そうとしていたのだ。
ゴミ捨て場に残留する気がそれを裏付けていたが、圭は黙っていた。
被害者が生きながら虫の餌になったと知っても悪夢が長続きするだけだ。
ようやく吐き気を堪えられるようになった二人と今度は左の道を進む。
「……ケイ、学校の図書館にある『異次元騎士カズマ』を読んだことがあるか?」
「このタイミングで何だよ」
「第二部『海賊旗トラベル』でツンデレヒロインが敵の海賊に攫われるんじゃが……」
「無事に助かったんだよな?」
「顔の形が変わるような酷い拷問と凌辱を受け、主人公と再会した直後に死んだ」
「このタイミングで絶望的な話だな、おい!」
「ちょっと、止めてよ!」
「じゃが、もし、もしじゃぞ? ユーカがそんな目に遭っていたらワシは……」
「……待て」
圭は新しい符に明かりを灯し、先行させた。
符が白々と半球状のホールとその中心に横たわる少女を照らし出す。
こちらに背中を向けるように倒れていて、優花なのか確認できない。
少女が寝返りを打ち、目を見開く。
「クリス、美咲ちゃん」
「「優花/ユーカ!」」
「来ないで!」
堪らず走り出した二人を優花が制した。
「お願い、来ないで」
「優花……あの時、助けられなかったのは謝る。もし、あんたが許してくれないのなら許してくれなくても良いから」
「もし、障害が残るような傷を負わされても大丈夫じゃ。良い医者を紹介するし、ちゃんと治療費も面倒を見る。それ以上のことがあってもケイが何とかしてくれるはずじゃ!」
「お願い、来ないで」
再び歩み寄ろうとした二人を優花は泣きそうな声で拒んだ。
「二人とも良いか?」
「何じゃい!」
「優花って攫われて三日目だよな?」
「それが?」
「だから、小便を漏らしてるから近づいて欲しくないんじゃね?」
うぅぅぅぅ、と優花の嗚咽が陰鬱に響いた。
「大丈夫じゃ、ユーカ! ワシもケイに色々されて小便を漏らした!」
「ええ、大丈夫だから! 平気よ、平気!」
二人は安堵の息を吐き、優花に突進した。
優花は泣き喚いたが、最悪の展開を回避できたことに喜ぶ二人は止まらなかった。
シロが紐を噛み千切り、美咲が優花に肩を貸して立ち上がらせる。
「優花、あの大男に何かされたか?」
「……触られた瞬間に気を失って、時々、目を覚ましたんだけど、凄く体が怠くて、触られて気を失って」
どうやら、あの独覚は気を奪うタイプらしい。
「ケイ!」
クリスの叫び声に圭の体は自然と動いていた。
思い切り地面を蹴った直後、背中に灼熱感が走る。
大男が鉈で斬りつけてきたのだ。
空中で体を捻り、
雑鬼召還、『礫』!
気を消費して式神を放つ。
式神は大男の腕を食い千切り、牽制するように周囲を旋回する。
「こう言う台詞は好きじゃないんだが……ここは俺が引き受けた!」
「『倒してしまっても構わんのだろ』ではないのか!」
「悪い、相性的に勝てそうにない」
大男が式神を掴む。
瞬間、式神は元の符に戻った。
大男が符に込められた気を吸収したのだ。
一昨日よりも強くなっている。
「こっちのレベルは据え置きなのに、敵のレベルが上がるってのはクソゲー並だな」
雑鬼召還、『爆』!
符が漆黒の炎と衝撃波を撒き散らしながら炸裂した。
圭はバランスを崩した大男に突貫、壁に縫いつける。
「行け!」
ホールを照らしていた明かりを出口に向かって飛ばす。
まず、クリスが、美咲と優花が後に続く。
追撃を想定してか、シロが最後だ。
どうやら、シロは圭が足止めできると考えていないらしい。
大男が圭の首を掴む。
瞬間、視界が明滅した。
自分で急激に気が吸われているのが分かる。
ギリギリと大男の指が首に食い込む。
「離しやがれ!」
大男の胸を蹴り、圭は拘束から逃れる。
少しばかり首筋の肉を刮げ取られたが、致命傷にはほど遠い。
「なるほど、そう言うことか」
術の直撃を受け、大男が着ていたコートはボロボロになっていた。
その下にあったのは剥き出しの筋肉だ。
あのゴミ捨て場は犠牲者の筋肉を加工し、筋肉強化服を造る工房を兼ねていたのだ。
スピードで攪乱してチマチマ削るしかねーか、と圭は距離を取った。
大男が柄と先端を持つように鉈を構えた。
次の瞬間、地面が炸裂した。
大男の姿が消える。
動体視力を上回るスピードで突進したのだ。
そう理解する間もなく圭は跳ね飛ばされ、ホールの壁に叩きつけられた。
咳き込むように血を吐き、圭は傷を確認する。
全身が熱いが、五体満足だ。
どうやら、大男は小回りが利かないらしい。
「……だから、勝ち目があるって訳でもねーんだよな」
大男は壁から体を引き剥がし、さっきと同じように鉈を構える。
理屈としてはスピードを制御できないから、刃を固定して押し斬ろうと言うものなんだろう。
大男の太股が膨れ上がり、圭は跳躍した。
残像を残して大男が真横を通り過ぎる。
大男が壁に激突、轟音と共にホールが揺れる。
雑鬼召還、『爆』!
漆黒の炎と衝撃波が大男を打ち据える。
並の人間ならば死にかねない威力を秘めているのだが、大男は何事もなかったように壁から体を引き剥がした。
術士になるべく修行した日々を否定されたようで悔しいが、総合評価二のプライドなんてクソみたいなもんだ。
大男が鉈を振り上げる。いや、まるでゴルフのスイングみたいな……マズイ!
大男の腕が膨れ上がり、鉈がコンクリートの床を打ち砕いた。
コンクリートの破片が散弾のように圭に襲い掛かる。
両腕でガードしたものの、肉が裂け、骨が砕ける。
死ねとばかりに折れた鉈が突き刺さり、大男の拳が圭の胸を直撃した。
ゴミのようにホールの入口まで吹き飛ばされ、圭は噎せ返りながら血を吐いた。
意識が途切れそう、鉄臭い味が鼻の粘膜まで侵している。
けど、逃げる時間は稼いだよな。
セシルさんに任せれば良いか、と圭は目を閉じた。
足音が近づいてくる。
不思議と恐怖はなかった。
このまま諦めて良いのかな? と疑問が浮かぶ。
ベストを尽くせたか? やり残したこと、心残りはないか?
……クリスは気に病むんじゃないか?
ベストを尽くしてないし、西郷先生との約束を果たしていない。
カルのオッパイの成長具合を見届けたい。
エロ雑誌をアパートに放置しっぱなしだ。
それに、クリスを泣かすのは絶対にダメだ。
「未練ばっかりじゃねーか!」
満身創痍の体を気合いで動かし、圭は符を構えた。
雑鬼召還、『爆』!
ありったけの気を消費して符を放つ。
出し惜しみはなしだ。
だが、大男は衝撃波をものともせずに突進する。
丸太のような腕を振り回し、それだけで圭を吹き飛ばした。
全身が痛いんだか、熱いんだか分からない。
訳も分からずに涙が出る。
生理現象か、それとも死が怖いのか。
多分、両方だ。
やはり、死は恐ろしい。
傷だらけで満足に動かない体が恐ろしい。
「……まだ、だ」
まだ、逆転の目は残っている。
蹴り上げられ、血反吐を撒き散らし、そのたびに圭は立ち上がった。
分岐点に辿り着いた生きているのが不思議なくらい傷を負っていた。
立ち上がろうとした圭の頭を掴み、大男は右側の通路に投げ捨てる。
ゼヒゼヒ、と呼吸を繰り返し、圭は歩いた。
この先はゴミ捨て場だ。
もう、大男は圭を脅威と認識していない。
だから、圭はゴミ捨て場の入口で笑った。
狂ったように笑った。
気が満ちている。
「……ああ」
不意に理解する。
気は万物の根源……あらゆるモノであり、何物でもない無色の力だ。
空間に残留するのは変化と流転こそが本質だからだ。
いや、それすらも理解から掛け離れている。
今なら兄貴の領域にまで踏み込めるかも知れない。
甘美な誘惑だったが、圭は踏み止まった。
今は独覚を倒すことだけを考えれば良い。
「お前を全力でぶち殺す!」
宣言し、圭は床を蹴った。
床が炸裂し、降り積もった土埃が舞い上がる。
圭は弾幕のように拳を、蹴りを放つ。
そのたびに骨が砕けるが、吸い上げた気で復元させる。
捨て身の攻撃を受け、流石の大男も徐々に後退する。
こいつは逆襲された経験がないのだ。
だから、主導権を握られると防戦一方になってしまう。
「……遅い!」
大男の腕を潜り抜け、
雑鬼召還、『爆』!
至近距離で符を炸裂させた。
生き埋め覚悟、防空壕全体を激しく揺らすほどの衝撃波だ。
壁に叩きつけられた大男は動かない。
大男は剥き出しの筋肉から血を噴き出し、断首を待つ罪人のように頭を垂れていた。
安堵の息を吐き、圭は壁にもたれ掛かるように座り込んだ。
もう少し晴れやかな気分になると思っていたが、残ったのは後味の悪さだけだ。
何かが視界の隅で動く。
殺したはずの大男が動いたのだ。
けど、どうして?
至近距離で衝撃を受けたはずなのに?
ゆるゆると大男が圭に腕を伸ばす。
「……畜生、これまでかよ」
「諦めている暇があるのならば、頭を下げて頂きたく」
次の瞬間、大男は宙を舞っていた。
セシルさんが背後から蹴り飛ばしたのだ。
間髪入れず、ショットガンが火を吹いた。
殴られたような衝撃が圭の頬を叩き、大男の胸が炸裂。
ビシャビシャと血肉が飛び散る。
セシルさんは映画のワンシーンのような光景に不満そうな表情を浮かべ、
「圭様、逃げます」
圭を肩に担ぎ、細身の体から想像もできないパワフルさで走り出した。
セシルさんはホラー映画の殺人鬼のように追い掛けてくる大男にショットガンをぶっ放し、片手だけで再装填する。
「熊狩り用のスラッグ弾を使っているのですが、あまり効果がないようです」
「派手に血肉が飛び散ってるんですけど?」
「着弾した瞬間に筋肉を爆破、分離させて威力を軽減しているのでしょう。戦車に付けるリアクティブアーマーのようなものではないかと」
セシルさんの言葉通り大男は着弾の瞬間にこそスピードが鈍るものの、徐々に距離を縮め始めていた。
「ど、どうするんですか!」
「私が保管しているのは銃器だけではございません」
外に飛び出すと同時にセシルさんは真横に跳んだ。
弁当箱? と防空壕の出入り口に置かれた箱状の物体を圭は眺める。
大男が飛び出した瞬間、弁当箱が爆発した。
轟音、土砂が大男を呑み込み、粉塵が舞い上がる。
「M18クレイモア、700個の鉄球を撒き散らす指向性対人地雷です」
粉塵が収まったそこにはボロボロになった大男が倒れていた。
「って、何じゃこりゃ!」
周囲を見渡した圭は絶叫した。
藤山公園の斜面に累々と人が倒れていた。
警察関係者ではないようだが、
「石動家本家の方々です。救出の邪魔をされたので、再起不能になって頂きました」
「二十人以上いるのに?」
「総合評価は三です。個々の技量は見るべき所がありますが、兵隊としての練度は新兵以下です」
「ケイ、無事だったか!」
クリスが地面に下ろされた圭に抱きついた。
「ち、血塗れではないか!」
「……優花と美咲は?」
「まずは自分を心配しろ、馬鹿者」
圭はクリスの髪を撫でながら安堵の息を吐いた。
「クリス、圭!」
何処か懐かしさを感じさせる叫び声。
セシルさんが圭とクリスを庇うように立った次の瞬間、右腕が宙を舞った。
大男の投げた石がセシルさんの腕を吹き飛ばしたのだ。
肩から噴水のように血が噴き出し、セシルさんはスローモーションのように倒れた。
「……セシル!」
クリスはセシルさんに走り寄ろうとした。
だが、それよりも早く大男がクリスの首を掴んだ。
大男……いや、大胸筋の隙間から病的に白い肌と黒い瞳が覗いていた。
リアクティブアーマー、とセシルさんから教わった単語が脳裏を過ぎる。
こいつは筋肉を剥離させることでクレイモアを凌いだのだ。
「てめぇ、クリスを……離しやがれ」
奥歯を噛み締め、圭は震える足で立ち上がった。
けれど、消耗し尽くした圭にそれ以上のことはできなかった。
無造作な蹴りで吹き飛ばされ、木に叩きつけられる。
力なく血を吐き、それでも、圭は手を伸ばした。
「ケイ、ケイ!」
「クリス!」
ガクガクッとクリスが痙攣した。
赤い視界がクリスの生命力が大男に奪い取られる様を残酷なまでに伝える。
涙で視界が滲んだ。
どうして? どうして、俺は……こんな時に動けない!
神様がいるのなら、いや、悪魔だって良い。
俺に力をくれ!
目の前にいる女の子を助ける力で良いのに!
「……ち、くしょう! どうして、俺は!」
どうして、こんなに無力なんだよ。
大男は無力な圭を嘲るようにクリスの命を啜ろうとした。
だが、大男はクリスの命を啜れなかった。
腕がクリスごと地面に落ちたからだ。
「ケイ?」
「俺じゃない……それよりも早く逃げろ」
「こ、腰が抜けて動けんのだ」
幸い、大男は腕を切り落とされた衝撃でフリーズしている。
今にも泣きそうな顔でクリスは這い、
「……セシル?」
ゆっくりとセシルさんが体を起こした。
闇が陽炎のようにセシルさんを包んでいた。
闇は信じられないほど高密度に圧縮された気だ。
大男が動く。
気を奪う独覚にしてみれば、セシルさんは最高の餌に違いない。
だから、大男は決定的に選択を誤った。
大男は亀のようなスピードで距離を詰め、丸太のような腕を振り下ろした。
だが、大男の拳はセシルさんに届かなかった。
セシルさんが右腕の断面から伸ばした闇で大男の攻撃を受け止めたのだ。
闇の中で血が沸騰したように泡立ち、その中で骨と肉が再生を果たす。
「……嘘だろ?」
思わず、圭は呟いた。
圭にも傷を塞ぐことなら、多分、千切れた腕を繋ぐくらいならできる。
だが、なくなった腕を再生させるなんてできない。
備わっている機能を増大させることはできても、新たな機能を追加するなんてできないのだ。
そんな機能を追加したら、人間じゃなくなってしまう。
鬼神覚醒、『装』!
闇がセシルさんの白い肌を彩り、白い髪を黒く染め上げる。
大男が振り下ろした拳をセシルさんは迎え撃つ。
拳と拳が真正面から激突し、大気が震えた。
力負けしたのは大男だった。
腕を弾かれ、バランスを崩した大男は一歩だけ後退する。
筋肉を膨張させ、大男は再び拳を振り下ろした。
今度もセシルさんは真っ向から迎え撃つ。
衝撃と共に大男の腕が弾かれる。
「……未熟」
大男の腕が千切れ飛び、セシルさんは機関銃のような連打を叩き込む。
大男は筋肉を剥離させて威力を軽減させるが、次の一撃の威力を高めるだけだ。
もう逆転のチャンスはない。
逃げようにも実力差がありすぎて逃げ出せない。
けれど、セシルさんの虚を突ければ……、
大男の筋肉が炸裂し、血煙がセシルさんの視界を遮る。
一瞬、本当に、一瞬だけ連打が止んだ。
大男は足の筋肉を膨張させ、
鬼神覚醒、『槌』!
闇が巨大な拳を形成、一気に大男を押し潰した。
筋肉が弾け、病的に痩せた少年が押し出される。
生まれた時から陽の光を浴びていないんじゃないかと思うくらい青白い肌。
瞳は世界の全てを憎んでいるみたいに、羨んでいるみたいに暗く澱んでいた。
セシルさんは獣のように唸る少年を凍てついた瞳で見下ろし、
「……ま、って」
無言で拳銃をぶっ放した。
頭蓋が爆ぜるが、すでに人間を辞めている少年は死ねなかった。
あー、あー、と意味不明な音を漏らす。
「話す必要はありません。どのような理屈を用いようと貴方の罪は正当化されず、幾億の言葉を費やそうとも……私は貴方を殺します」
そう言って、セシルさんは笑った。
「どれくらい致命傷を与えれば、貴方は死ぬのでしょう? 十回、二十回、百回? 死ぬまで攻撃を叩き込む準備は整えておりますので御安心下さい」
セシルさんは無造作に少年の首を掴み、気を吸い上げた。
ペキペキと少年の首が薄いガラスのように砕ける。
「貴方が行ってきたように、命を吸い尽くされるのがお好みですか? 早く決めて下さらないと枯死してしまいますよ?」
クスクス、とセシルさんは忍び笑うと少年を地面に投げ捨てた。
地面に触れた瞬間、少年の体はガラス細工のように砕け散った。
それが……人知れず、殺人を繰り返した少年の最期だった。
空を仰ぎ、セシルさんは大きく息を吐いた。
「セシルさん、貴方は何者なんですか?」
「私は、バケモノです」
目を閉じ、セシルさんは躊躇うように言った。
「十年前……あの事故で瀕死の重傷を負った私は願ったのです。死にたくない、誰を犠牲にしてでも生き延びたいと」
片膝を突き、セシルさんは手で顔を覆った。
瞳は黒く染まり、禍々しい漆黒の気が立ち上る。
「だから、私は同じように死に掛けていた人々から、奇跡的に無事だった人々からも魂を奪いました」
はぁ、とセシルさんは蕩けるような息を吐いた。
「今、私の中には二つの意思があります。一つは貴方達をバケモノになっても守りたいと言う意思、もう一つは貴方達の魂を奪いたいと言う意思です」
「……これが理由かよ」
ようやく、独覚が最悪の代名詞と呼ばれる理由に気付けた。
セシルさんが教えてくれた。
不相応な力は自分自身すら焼くのだ。
「クリス、逃げろ」
「ワシは逃げん!」
やっぱりか、と圭は頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。
「母上は、セシルは嘘吐きじゃ。いつも嘘を吐いて、誰かを助けるために傷ついて、寂しそうに笑うんじゃ……ワシは覚えておるぞ」
クリスは拳を握り締めた。
「セシルが血塗れの腕でワシを抱き締めてくれたことも、この子を助けて下さいと祈っていたことも……誰も助けてくれなくて、セシルが何かをしたことも覚えて」
大粒の涙がクリスの瞳から零れる。
「セシルは……人間じゃ! ワシの、ワシの大切な母上じゃ!」
闇が弾けた。
結果は言うまでもない。
洋の東西を問わず、奇跡を起こせるのは乙女の涙だけなのだ。
※
その晩、どうしても寝付けずに圭は布団から抜け出し、ローランド邸の庭園を眺めていた。
独覚の正体はすぐに分かった。失踪者リストの中で唯一の入院患者だ。
そいつは先天性の内臓疾患を抱え、何度も入退院を繰り返していた。
幾度となく生死の縁をさまよう中で独覚として覚醒したんだろう。
「……眠れないのですか?」
「ええ、どうしても納得できないと言うか、あまりにも上手く出来過ぎているような気がして」
圭はセシルさんに声を掛けられても驚かなかった。
と言うよりも、タイミング的に声を掛けてくれないと困る。
「例えば?」
「全部……普通の高校生が殺人鬼を追い詰めるなんて、どれだけ警察は無能なんだって話で」
クリスは連続殺人について調べただけだし、美咲は嘘を吐いていた。
西郷先生は西郷先生で全く役に立っていない。
石動本家が動いていたのに事件が解決しないのも変だ。
「貴方達は私が考えていたよりも上手く動いてくれましたが?」
「やっぱり、セシルさんの手の上で踊っていただけだったんですね」
クスクス、とセシルさんは忍び笑う。
「ええ、貴方達が予想通りに……」
セシルさんは台詞を中断し、
「及第点を取ってくれたからこそ、私は独覚を倒せたのです」
この事件を解決するために必要だったのは高校生探偵ではなく、セシルさんが石動本家を撃退するまで殺人鬼と戦うコマだったのだ。
「……それから」
「他にも何か疑問が?」
「つーか、事実確認みたいなもんで」
どうして、圭をコマとして選んだのか?
セシルさんも普通の高校生に殺人鬼を追わせるほど無謀じゃないだろう。
だから、最初からセシルさんは圭が術士だと知っていたんじゃないか。
そう仮定すると、セシルさんの正体が見えてくる。
十年前、重傷を負ったセシルさんは独覚になった。
そこまでは納得できる。
けれど、独覚にしては力を技術的に使いこなしすぎている。
つまり、術士としての下地があったから魂を喰らえたんじゃないだろうか。
「兄貴……だろ?」
「やはり、気付かれましたか」
「どうして、そんな格好してんだよ? その胸はパット?」
圭は無造作にセシルさん……十年前に行方不明になった石動都の胸を揉んだ。
張りがあり、たゆんたゆんしていて……圭は飛んだ。
セシルさんの影に撃ち出され、ロケットのように、砲弾のように飛んだ。
屋敷の塀に叩きつけられ、
「な、なんで、胸があるんだ!」
「ちょっと、スカートを掴まないで下さい!」
「顔を赤らめて言ってんじゃねーぞ! つーか、アンタは男だろ!」
戦線に復帰した圭はセシルさんのスカートの裾を掴んだ。
「母上に何をしておる!」
「ぶべっ!」
クリスに跳び蹴りされ、圭は廊下から庭に転がり落ちた。
「前々から節操がないヤツだと思っていたが、クラスメイトの家庭を滅茶苦茶にするつもりか!」
セシルさんは頬を赤らめ、仁王立ちするクリスの後に隠れた。
「待て、クリス」
「何じゃ?」
「セシルさんは俺の兄貴だ」
「気でも違ったか!」
「違ってねーよ! セシルさんは俺の兄貴なんだよ!」
「何が兄貴じゃ! 大体、その、母上にはついておらんわい!」
「切ったの?」
「アホか! 子宮も、卵巣もあるわい!」
「まさか、移植?」
「自分の臓器ですが」
「訳が分からない!」
「騒ガシイヨ、ゴ近所サンに迷惑ダヨ」
「父上、良い所に! ケイが母上が自分の兄貴だと世迷い言を!」
「いやいや、セシルさんも兄貴だって認めたし!」
シャノンさんはセシルさんを見つめ、
「セシルガ日本ノ戸籍的ニ男ダッタノハ知ッテルヨ? キチント結婚前ニ話シアッタカラネ。ケレド、日本デハ死亡扱イダシ、戸籍ハ新シク作ッタカラ問題ナイヨ」
「何じゃと!」
「ほら、言ったじゃねーか!」
「いや、ワシはレントゲンとMRIで子宮と卵巣があるのを確認しておるぞ?」
顔を見合わせ、圭とクリスは首を捻った。
「……二人ともインターセクシャルという言葉はご存知でしょうか?」
セシルさんの説明によれば、遺伝子的な性別と外見的な性別が一致しないことがあるらしい。
セシルさんの場合、胎児期のホルモンの影響で遺伝子的には女性であるにも関わらず性器が男性器化したらしい。
「え~、つまり、兄貴は……兄貴じゃなくて本当は姉貴だった?」
「そう言うことになります」
「どうして、俺が知らないの?」
「石動は古い家ですから」
なるほど、と圭の方が納得してしまった。
兄貴は婚約者がいたし、実は女でしたじゃ収まらないだろう。
「婚前交渉を繰り返した挙げ句、実は女の子でした♪ は通らないかと」
「そりゃ、通らねーよ!」
突っ込みながら、圭は遺産を奪われた理由に思い当たってしまった。
そりゃ、大事な娘を傷物にされたら八つ当たりもしたくなるだろう。
「積もる話もあるだろうが、最初に言うべき台詞があるのではないか?」
「おかえり、兄貴」
「……ただいま、圭」
ちょっとした沈黙の後、はにかむようにセシルさんは笑った。