第一章 『日常の終わり』
その日、石動圭は自転車を押しながら坂を上っていた。
アパートを出てから三十分も経っていないのに汗だくだ。
夏の自転車通学は地獄だ。
肌を焼く日差し、高い湿度、古い自転車が体力を消耗させる。
黄色の通学帽が数メートル先で揺れている。
集団登校する小学生だ。
元気に走り回る姿は活力に溢れている。
俺は無理だ、走り回る気力がない。
ギア付きの自転車に乗り換えたいが、残念ながら懐具合に余裕がない。
石動圭は一般的な高校生よりも貧乏なのである。
十年前に兄がアメリカで行方不明になり、二年前に両親も仕事中の事故で死んだ。
資産家であった両親は相当額の遺産を残していたのだが、後見人を名乗る親戚に奪われてしまい、圭の手元に残ったのは数冊の古文書と父親の手帳だけだ。
古文書は換金方法が分からないし、父親の手帳は生前の交友関係が書かれているだけで金になりそうにない。
ほぼ無一文だった圭が郊外のアパートで一人暮らしができているのは兄の婚約者のお陰だった。
彼女が援助を申し出てくれなければ、養護施設の世話になっていただろう。
はぁ、と圭は坂を見上げて溜息を吐いた。
「……坂が多すぎる」
坂の傾斜は緩やかなのに距離があるし、この街……大川市は平坦な道が少ない。
埼玉県大川市は東京まで私鉄で一時間弱、外秩父山地の外縁に位置する今一つパッとしない街だ。
武蔵の小京都と呼ばれているらしいが、共通点は盆地特有のねっとりとした夏の暑さくらい。
古くから伝統工芸が盛んで、第二次世界大戦中は名産品の和紙を材料とした風船爆弾の工場があったらしい。
要するに大川市は何処にでもあるような田舎町なのだが、学校の教師に言わせると昭和の雰囲気を残した街となる。
昭和と言う単語は誉め言葉じゃないような気もするのだが、大川市には古い家が多く残っている。
坂の上にある武家屋敷風の家もその一つだ。
「「「「「モーニン!」」」」」
「おはようございます」
小学生達が元気よく挨拶するとエプロンドレス姿のメイドは掃除の手を休め、流暢な日本語で答えた。
セシル・ローランド……それが彼女の名前だった。
身長は日本人男性の平均身長を上回るくらい。
ボディーラインはスマートで、ビスクドールのように整った顔立ちは冷淡そのものだ。
彼女の人形じみた印象を際立たせているのが、肩の辺りで切り揃えられた白髪だ。
十年前、彼女は事故にあった。
ニュース番組のトップを飾るような大事故で、彼女は数少ない生存者の一人だった。
生き残ったことが奇跡なら、後遺症一つ残さずに回復したのも奇跡。
だが、その代償のように彼女は記憶と髪の色を失った。
そんな彼女を献身的に支えたのがシャノン・ローランド……彼女の旦那様である。
雇用関係における旦那様ではなく、結婚制度における旦那様!
英語だとハズバンド!
ちょっと控え目なオッパイが!
手を伸ばせば届きそうなオッパイが!
メイドさんのオッパイは既にシャノンさんのものなのである!
だがしかし、人妻である事実が新たな魅力を与えているのも事実なのだ!
セシルさんのオッパイはメイドの従順さと人妻の淫靡さを兼ね備えているのだ!
「おはようございます、圭様」
「オッパ、おはようございます」
ゲフン、と圭は咳払い。
「あ~、クリスは起きてますか?」
「……朝食の際は起きていたのですが」
「分かりました」
「毎朝、申し訳ありません」
「大事なクラスメイトなんで」
嘘じゃないぞ、と圭は時代劇にでも出て来そうな門を潜った。
ローランド邸は広い。
倉とガレージまであるのに土地が余るほどだ。
庭は日本庭園風……二年前は植木が複雑な陰影を生み出していたのだが、今はこざっぱりしている。
枝ガ伸ビ放題ダヨ、と言ってシャノンさんが枝を切り落としたらしい。
「シロとハイイロ、おはようさん」
ガウ! と狛犬のように玄関に座っていた二匹の超大型犬が吠える。
名前の由来は毛が白いからシロで、灰色だからハイイロだ。
犬っぽいのは名前だけで二匹とも妙に立派な体格で凛々しい面構えをしている。
ぶっちゃけ、狼に見える。
怖いことになりそうなので考えるのを止め、圭は屋敷に上がった。
屋敷の間取りはTに近い。
短い線が玄関、土間、居間、台所、風呂、長い線は襖で区切られた八つの部屋だ。
圭は居間に入り、座椅子に座る少女を見つめた。
眠っているのか、頭が不規則に揺れている。
名前はクリス。
腰まである長い金髪をツインテールにしている。
本人は触覚っぽくしたかったらしいのだが、髪質のせいで力なく垂れている。
多分、ウサギの耳が自重に負けて倒れたらこんな感じ。
セシルさんの形質が遺伝しているらしく、無防備な寝顔は天使のように愛らしい。
「おい、クリス」
肩を揺すってもクリスは唸るだけだ。
「……それにしても」
圭は深々と溜息を吐いた。
クリスは外国人に対するイメージを真っ向から否定するような未発達ボディーだ。
とにかく華奢で目を凝らして、ようやくオッパイらしき膨らみが確認できるくらい。
今も残念なことになっているが、将来も残念さが継続しそうなオッパイなのだ。
何故、オッパイのサイズを遺伝させなかった! と遺伝子に説教してやりたくなる。
そんなことを考えているとクリスが恨めしそうな目で圭を見上げていた。
「何故、ワシの胸を見るたびに残念そうな顔をする」
「そんな顔してねーよ」
「まあ、良い」
クリスは億劫そうに立ち上がり、
「ワシの荷物を持たせてやろう」
「お前は何処の貴族様だ」
言い返しながら、圭は床に放置された鞄を手に取った。
二人一緒にシロとハイイロ、箒で地面を掃くセシルさんに挨拶。
我が物顔で荷台に座るクリスに苦笑、圭は自転車を漕ぎ始めた。
※
「仕事ごとごと、見ている内にぃ、働く人にぃなりた~くない! なりたいな、なれないよ! コネもスキルも足りないな! 回るな、地球! 働く人になりた~くない!」
「朝っぱらからネガティブソングを歌うな! 何だ、それは!」
「その昔、NHKで放送されていた『はたらくひとたち』の替え歌じゃ。ワシの働きたくないと言う気持ちを込めてみた!」
「どれだけ働きたくないんだ、お前は!」
「無論、死ぬまでじゃ」
「徹底してやがるな、おい」
「一生遊んで暮らせる財産があるのに父上は仕事を辞める気配がないし、母上は勉強しろとうるさいのだ。おまけに妹のカルは勉強って楽しいよね、と目を輝かせる始末」
「何が不満なんだよ?」
「ワシの怠惰さが際立って困るのだ。世界中の人間がワシと同じくらい怠け者であれば良いのに」
「のび太君みたいなことを言ってんじゃねーよ」
「だが、世界中がワシと同レベルであれば戦争がなくなるじゃろ?」
「……お前は凄いな」
「そうじゃろ」
誉めたつもりはないのだが、クリスは満足そうに頷いた。
ジョギングしている爺婆に怒鳴られたくないので藤山公園を大きく迂回。
ブレーキを掛けながら坂を下っていると可愛らしいくしゃみが聞こえた。
「クリス?」
「フリスクを噛むとくしゃみが出るのはワシだけかの?」
「俺は出ねーよ」
「ふむ、ワシだけかも知れんな」
益体もない話をしながら坂を下る。
長い坂を下れば、圭とクリスが通う大川高校は目と鼻の先だ。
県立大川高校は私鉄大川駅の裏手にある男女共学の普通科高校だ。
校舎は教室棟と特別教室棟に別れている。
体育館、格技場、図書館と部室棟はあるが、プールはない。
のんびりとした校風が災いして進学率は低め、部活動も活発な方じゃない。
のんびり歩く生徒達を追い抜き、校舎裏の自転車置き場に自転車を止める。
いつも校舎裏はジメジメしていて、地面を踏んだだけで水が染み出してくる。
人通りが激しい場所はグチャグチャ、それ以外の場所は分厚い苔に覆われている。
靴を汚したくないからと苔の上を歩くと高確率で苔が剥がれて転ぶ。
一度でも転べば普通のヤツは警戒するようになるのだが、二度も三度も無警戒に歩いて転ぶクリスみたいなアホもいる。
と言うか、二度も三度も転ぶようなアホはクリスだけだ。
「今日もご苦労、ケイ」
「偉そうにしないで足下に気をつけろ」
「二度も、三度も、天才であるワシが転ぶ……ッ!」
転びそうになったクリスを圭は抱き留めた。
「お前が何度もスッ転ぶせいで俺の反射神経は超能力レベルだ」
「このワシが転ぶはずがなかろう! これは……そうじゃ、これは甲斐甲斐しく送り迎えする下僕に対する御褒美じゃ! どうじゃ、世界一の美少女を抱き締めた感想は?」
「筋っぽくて今一つ」
「ワシは特売の肉か! 大体、ケイはワシの何処に不満があるんじゃ? ワシは大卒のインテリで、差別主義者でもない! おまけに家は資産家で、ワシ自身もハイテクパテントで金持ちじゃ! 学歴、性格、金と三拍子揃ったパーフェクト美少女じゃぞ!」
「胸」
「貴様は胸にしか興味がないのか!」
「ない」
ムキィッ! とクリスは両腕を振り上げた。
面倒臭いので圭はクリスを担ぎ上げ、玄関で下ろす。
「ふむ、ワシの靴が汚れないように配慮したのだな」
「まあ、そんな感じ」
「偉いぞ、下僕!」
バシッ! とクリスが圭の尻を叩く。
いつから俺は下僕になったんだろうと思わないでもない。
去年の四月にクリスに声を掛けたのが腐れ縁の始まりだ。
その時の刺々しい態度がツボに嵌り、話しかけている内に下僕扱いだ。
そんなことを考えつつ、自分の教室……二年A組に移動する。
予鈴まで十分くらい、圭は窓際の最後尾に座った。
視線を傾けるとクリスがメガネを掛けた女生徒と何かを話していた。
メガネを掛けた女生徒は綾峰優花。
いつも自信なさそうに目を伏せ、話す時は声のトーンを抑え気味。
髪型はボブカット風で、何処のクラスにも一人はいる地味なタイプだ。
だが、学校一の美乳の持ち主である!
歩く時は美乳を隠すように猫背気味!
ちょっとでも視線が胸に集中しようものなら、頬を染めちゃうようなヤツである!
ふと目が合い、優花が慌てて目を背ける。
「朝っぱらからガン飛ばしてんじゃないの」
「見てただけだろ」
当たり前のように机に座る女生徒を圭は見上げた。
少女は両腕を組み、非難がましい目で圭を見下ろしていた。
彼女……佐藤美咲は空手部の次期主将でクラス委員を務める優等生だ。
髪は少年のようなベリーショート、顔立ちは整っている。
勉強も、スポーツも如才なくこなし、そこそこに人望も厚い。
何気にハイスペックなくせに派手さに欠ける。
オッパイも普通だ。
ここまで圭に何も感じさせないオッパイの持ち主は珍しい。
「不良のくせに」
どうも圭は一部の生徒から不良と認識されているらしく、彼らの急先鋒に立つ美咲は意味もなく突っ掛かってくる。
「ちょ、そんな怖い目で見て、やる気?」
どうすれば誤解を解けるのだろう、と圭が考えていると美咲は机から飛び降り、拳を構えた。
腰を落とした左前構えはそれなりに見事なものだった。
戦えると思い込んでいる時点で美咲は自分の実力を過大評価しているのだが、指摘しても仕方がないので圭は両手を上げた。
「な、何よ、万歳三唱?」
「降参、空手部の主将とやり合うほど馬鹿じゃない」
美咲は安堵した様子で拳を下ろし、
「良い? 私はアンタが不良だからって遠慮しない。クラスの和を乱すような行動を取ったら許さないんだから」
「へいへい」
英雄のように取り巻きに歓迎される美咲を横目に圭は深々と溜息を吐いた。
「毎朝毎朝、見事なツンデレっぷりじゃな」
「ツンデレ?」
「『勘違いしないでよね』と言いつつ、主人公にフォーリンラブなヒロインを差す言葉じゃ」
「ベジータか、鴨川会長みたいなもんか?」
「それの何処がヒロインじゃ!」
クリスが圭の首筋に手刀を叩き込む。
頸動脈から外れているし、非力なクリスに殴られても痛くない。
「作中で『勘違いするなよ』って言うじゃん」
「お前は男をヒロインとして扱うのか!」
「最近はそう言うのが流行っていると」
「流行ってないわい! 少なくとも、お前が言ったキャラクターのカップリングはありえん!」
「……なるほど」
圭が相槌を打った時、チャイムが鳴った。
※
クリスの部屋で読んだ漫画によれば、言われるがままに勉強しているヤツは思考が停止しているらしい。
けれど、上を目指すのならレールに乗るのが手っ取り早いし、レールに乗るために勉強しているヤツは現実を見据えているんじゃないだろうか? と圭は思う。
だから、圭は隣で安らかな寝息を立てるクリスを無視して真面目に授業を受ける。
体育の後なので柑橘系の匂いが漂い、女生徒の下着が、下着がさ、ブラジャーのラインが透けて見えるのだが……無視だ、無視するべきだ。
セシルさんのオッパイと同じように手が届きそうで手が届かないオッパイなのだ。
だが、手が届きそうにないからと鑑賞すら諦めてしまうのは如何なものか?
高校を卒業したら教師になる以外、合法的に鑑賞する術がなくなるのだ。
「あ、あの……石動君、先生の授業って分かりにくいですか?」
「あ?」
ヒッ、と女性教師は小さく悲鳴を上げた。
「照り返しが少し強くて、先生の授業が分かりにくいとかじゃないんで」
「ごめんなさい、気が付かなくて……すぐにカーテンを閉めますから」
大学を卒業したばかりの女性教師は泣きそうな顔でカーテンを閉めた。
女性教師は場の空気を和ませようとしたらしくジョークを口にした。
乾いた笑いが教室に響く中、圭はノートを書き損じて舌打ち。
教室が気まずい雰囲気に包まれ、女性教師は授業が終わると同時に逃げるように教室から出て行った。
「ちょっと、石動ぃ!」
「あ?」
鬼のような形相で向かってくる美咲に圭は気の抜けた返事をする。
「授業の邪魔ばっかしてんじゃないわよ!」
「してないだろ」
「授業中に余所見して、舌打ちまでするなんて授業を妨害しているようにしか見えないじゃない!」
ボリボリと頭を掻き、圭が立ち上がると美咲は拳を構えた。
言い争うのも馬鹿らしいので、圭は眠っているクリスの肩を叩いた。
「……おお、飯の時間じゃな?」
「ああ」
圭は短く応じ、クリスのナップサックを持つ。
重量があるのは二人分の弁当が入っているからだ。
「ケイ、屋上に行くぞ」
「おう」
あからさまに無視されたためか、美咲の肩が震えていたが、圭は黙ってクリスの後を追った。
大川高校の屋上は昼休み限定で生徒に開放されているのだが、圭は一度も他の生徒を見たことがなかった。
高級そうな重箱に詰められた凄く手の込んだ料理を食べ終え、圭はクリスを見つめた。
クリスは途中で合流した優花の美乳を枕に就寝中だ。
勉強しているように見えないが、クリスは成績が良い。
理数系はトップ、暗記科目はパーフェクトだ。
気遣われてんのかね、と圭は重箱をナップサックに戻した。
意外とクリスは気遣いのできるヤツなのだ。
セシルさんに二人分の弁当をお願いしてくれたり、夕食に誘ってくれたりする。
「……なあ」
「は、はい!」
圭が声を掛けると優花は上擦った声で返事をした。
「俺は不良だと思われているんだろうか?」
え? と愛想笑いを浮かべたまま優花が動きを止めた。
目が救いを求めるように忙しく動く。
「……そうか」
「あ、あの、そんなに気にすることないと思います」
「何でだろ?」
ええっ? と優花は盛大に頬を引き攣らせた。
「それは、その」
「髪は染めてないし、授業は真面目に受けてるし、掃除もサボってない。真面目に将来のことも考えているんだけど、共通の話題がないせいか?」
どれだけ共通の話題が重要なのか、クリスと優花を見ているとよく分かる。
共通の話題があるだけで異文化コミュニケーションが成立しているのだ。
「あの、その……私も含めて、みんなは石動君が怖いんだと思います。でも、理由が分からなくて、それで不良だから怖いんだって安心したがってるんじゃないかな、って」
「昔の人が訳の分からない現象を妖怪のせいにしたようなものか?」
「多分、それに近いかも」
「その割にクリスは俺を怖がってないみたいだけど」
「クリスちゃんは物怖じしないって言うか、怖い物知らずって言うか……だから、その」
「だから、俺みたいなヤツに進んで関わると」
ショックは受けなかった。
やっぱり、と納得してしまったくらいだ。
圭は黙って空を見上げた。
※
六限、掃除、ショートホームルームを終えるとクラスメイトが散っていく。
「クリス、放課後はどうする?」
「今日は直帰じゃ。新刊も発売されていないしの」
クリスは漫画研究会に所属しているのだが、全く部活動に参加していない。
休んでもペナルティーを課せられないので幽霊部員=帰宅部として半ば黙認されたような雰囲気になっている。
「ケイ、食事は?」
「御相伴に預かりたい」
「うむ、母上に頼んでおく」
クリスはリュックから取り出したケータイを操作。二言、三言、セシルさんと会話を交わした後でケータイをリュックに戻した。
「快く引き受けてくれたぞ」
「ありがとな」
「下僕の世話をするのは当然のことだ」
圭は苦笑を返し、クリスの荷物を担いだ。
※
初めてクリスの部屋に誘われた時、圭の胸は甘酸っぱい予感に高鳴った。
ピンクの妄想が現実になるかも知れないと期待した。
けれど、床に散らばるDVDーRとエロゲーの箱はハードルが高すぎた。
今日も今日とてハードルを乗り越えられず、クリスの後ろ姿を眺める。
帰宅するなり、ちゃぶ台に置かれた自作パソコンでエロゲーを始めるクリスは変だ。
ディスプレイを見つめながら薄笑いを浮かべる姿は百年の恋も冷めかねない。
ディスプレイの中で首輪をした女の子がバックからヤラれていた。
何故か、パラメーターっぽいのが表示されている。
「どんなゲームなんだ、それ」
「調教ゲームじゃ。この娘とエロエロな行為をしてパラメータを上げると、エンディングが分岐……そろそろエンディングじゃな」
クリスがキーを押すと凄いスピードで文字が流れた。
「ケイ、調教は愛がなければいかん。愛するが故に行為に及び、愛するが故に嫌々ながらも行為を受け容れ、新たな自分を発見する……そのプロセスが重要じゃ。刮目せよ! 我が愛の形!」
スタッフロールが終わり……少女は薄暗い部屋にいた。艶のある拘束具に戒められた少女はフローリングの床に力なく横たわり、こちらを虚ろな瞳で見つめていた。少女が壊れたように童謡を歌い……フェードアウト。
「い、いかん、自我崩壊エンディングじゃ」
「今までの自分すら見失ってるじゃねーか!」
「だ、だが、無茶っぽいコマンドでも表示されれば選びたくなるのが人情ではないか。嫌と言われても、何度も繰り返して愛を確かめようと……裸で公園に連れ出したのがマズかったかの? それとも、ピアスか?」
「お前の愛は怖すぎる!」
「ケイもやるか?」
「やらねーよ」
「なかなか面白いぞ」
「面白くても女の子の部屋でエロゲーをプレイする気にはならねーな」
圭はパソコンから伸びるLANケーブルを摘み、
「ネットゲームをやれば良いじゃん」
「ワシは二年も日本にいるのにユーカ以外に友達と呼べる人間がおらん」
「だから?」
「リアルで友達を作れないワシがネットゲームで友達を作れる訳なかろう」
言い切り、クリスは別のエロゲーを始めた。
クリスは変だが、とても楽しそうだ。
「あ~、ダメな人になりたいな」
「ワシがダメな人だと言いたいのか?」
「別に……DVD―Rくらい片付けろよ。つーか、何が入ってんだよ」
「動画サイトから落とした音楽ファイルが入っておる」
「犯罪じゃねーか!」
「ワシはアップロードなんてしておらんぞ」
「ダウンロード自体が違法だ!」
「罰則規定がないから問題ない」
「大ありだろ!」
「そうは言うが、プレイヤーをインストールしたら動画サイトからダウンロードできるようになってしまったのだぞ? 責任はプレイヤーの制作者にあって、私は望みもしない機能を押しつけられた被害者だ」
「盗っ人猛々しいな、おい!」
「古来より日本にはこのような諺がある……盗人にも三分の理!」
「たかだか三分の理を振りかざして偉そうだ!」
「何なら財布を投げつけてくれても構わんぞ」
「財布ごと追銭を要求するのかよ!」
圭が叫んだ瞬間、スパン! と襖が開いた。
廊下に立っていたのは小柄な……と言っても頭半分クリスよりも背が高い……少女だ。
ブレザーに包まれた肢体は引き締まり、猫科の肉食獣を彷彿とさせる。
髪は荒野の土のようなブラウン、肌は健康的な小麦色だ。
手入れをしていないので眉は太め、ボーイッシュな魅力を持った少女だ。
クリスの血の繋がらない妹でカル・ローランドである。
「ケイ兄ちゃ~ん!」
パソコンを跳び越え、少女は布団に寝そべる圭にダイブする。
ドカン! と内臓が破裂しそうな衝撃に圭は歯を食い縛って耐える。
「エヘヘ、今日も一緒に御飯を食べるんでしょ?」
「いつも申し訳ないとは思ってるんだけどさ」
「気にしなくても良いと思うよ。お父さんも、お母さんもケイ兄ちゃんのことを気に入っているみたいだし、ボクもケイ兄ちゃんが大好きだもん」
「お、おう」
口籠もってしまったのは疚しい気持ちを抱いているせいだろうか。
だが、パンツが見えそうな状況で疚しい気持ちを抱くなと言う方が難しいのではないだろうか?
カルは将来に期待が持てそうなオッパイをしている。
偶然にもオッパイに触れてしまったことがあるのだが、内側に芯を残していた。
通説によれば芯が残っていると大きくなる可能性が高いらしい。
いや、今も魅力的なのだ。
カルの少年のような体つきに軽い倒錯感を覚えるほどだ。
「ケイ兄ちゃん、痛かった?」
「脳内でオッパイ祭を開催しているのではないか?」
「オッパイ祭?」
「一見、ケイはクールに見えるが、オッパイしか見ていないオッパイマニアだ」
カルは今一つ分かっていないらしく首を傾げた。
「分からんのなら良い。ほれほれ、いつまでもジッとしておらんと部屋で宿題でもするが良い」
「分からない所があったら教えてくれる?」
「いつでも聞きに来るが良いぞ」
「ケイ兄ちゃん、またね」
「縞パンか」
カルが襖を閉めた後で圭は小さく呟いた。
「何と言うか、ケイは病気じゃな」
「男なら当然だろ」
「ケイの場合は度が過ぎておる。中学生のカルにまで欲情するくせに同級生のワシには何も感じんのか?」
「さっぱり」
「清々しいまでに言い切るの。やはり、胸のせいか?」
パソコンに向かいながらクリスは左右から胸を押し上げようとする。
けれど、寄せて上げるだけの贅肉がクリスにはない。
「脱ぐと格好良いと自負しているのだが」
「俺も凄いぜ、腹筋が割れてるからな」
むぅぅぅ、とクリスは不満そうに下唇を突き出し、圭の上に飛び乗った。
衝撃はカルの時より小さい。
「お~、ガッシリした体つきじゃ!」
「これでも鍛えてるからな」
調子に乗ってロデオマシンっぽく動いていると襖が開いた。
圭とクリスが反射的に視線をスライドさせると、セシルさんと目が合った。
突っ込んでくれれば気も楽なのだけど、セシルさんは無表情だ。
気まずい沈黙が舞い降りる。
「……お醤油が切れてしまったので買ってきて頂ければ」
「ち、違うのだ、母上! こ、これは疚しいことをしていたのではなく」
「そうです、違うんです! こ、これはクリスが『ワシには何も感じないのか』って乗ってきて! 脱ぐと格好良いとか!」
「清々しいまでに墓穴を掘っておるぞ、ケイ! ブラジルまで突き抜けそうじゃ!」
「……醤油」
「「はい」」
圭とクリスは互いに目を逸らしながら立ち上がった。
クリスが細い肩を震わせながら出て行く。
「圭様、これを」
「あ、はい……っ!」
圭は千円札を受け取り、息を呑んだ。
二つに折り畳まれた千円札の間にゴム製品が挟まれていたからだ。
「え? ええっ?」
「避妊はすべきではないかと」
「俺とクリスはそんな関係じゃ」
「そんな関係でないのなら尚更」
「あ、あの、セシルさん?」
「私は二人を信じておりますが、その気がなくとも若さ故に過ちを犯す可能性は否定できません。むしろ、若い二人は知的好奇心と性欲の赴くままに行動してしまうと考えるべきかと」
「それは信じてないんじゃ?」
「あくまで保険と考えて頂ければ。もっとも、遊び半分で娘に手を出すようであれば」
「て、手を出すようであれば?」
スゥッとセシルさんは目を細め、凍てついた指先で圭の首筋に触れた。
「……地獄に落ちます、この世界に生まれてきたことを後悔するほどの痛みと絶望を味わいながら」
ガクガクガクッと膝が震えた。
胃袋が鉛に変わり、直腸を押し下げるような感覚。
「娘に手を出す時は本気でお願い致します」
「は、はい」
千円札とゴム製品を財布にしまい、圭は玄関に走った。
※
駅前のヤオコーで醤油を買い、外に出ると星が瞬いていた。
昼間よりも気温は下がったものの、高い湿度は健在だ。
圭は荷台にクリスを乗せて自転車を漕ぐ。
「日本の夏は蒸し暑いの」
「俺は、もっと暑い」
ワイシャツが汗に濡れて重い。
濡れた制服のズボンが足に絡み付き、トランクスの中が痒い。
つーか、尻が痒い。
「ケイ、近道じゃ!」
「藤山公園は自転車の乗り入れ禁止だっての。しかも、痴漢が出るって噂じゃねーか」
「この時間帯なら誰もおらん。痴漢とて自転車に乗っていれば大丈夫じゃ」
「どんな理屈だよ」
とは言ったものの、藤山公園を突っ切ればかなり時間を節約できる。
腕っ節はそれなりなはずだし、ホッケーマスクの殺人鬼が出て来ない限り大丈夫だろう。
クリスが言った通り、公園内には誰もいなかった。
死にも似た静寂が予兆のように藤山公園を包んで、
「ファミコンウォーズが出ーるぞ! ファミコンウォーズが出ーるぞ! こいつはどえらいシミュレーション! やー! のめり込める! のめり込めるっ!」
空気を読まないクリスのせいで色々と台無しだった。
「突っ込みがないと寂しいんじゃが?」
「元ネタが分からなくて突っ込めねーよ!」
「ケイが無知なだけではないか? この前、ワシはクラス担任とファミコンのマリオブラザーズや初代ガンダムの話で盛り上がったぞ。伝説の巨人イデオンのジェノサイドエンディングについても激論を交わしたな」
「クラス担任は四十歳!」
「ワシに死角はない」
寒気を覚えたのは公園の半ば、圭は思いっきりブレーキを握り締めた。
茂みから人が飛び出してきたのだ。
自転車の後輪が横滑りして、クリスが振り落とされそうになる。
舌打ちしながら圭は右足を軸に体勢を立て直した。
「危ないだろ!」
驚いたのはそいつも同じだったのだろう。
そいつ……佐藤美咲は無様に転倒し、青ざめた顔で茂みを指差した。
あ? と圭は茂みを見つめて絶句した。
コートを着た大男が拳を振り上げていたのだ。
グシャリと一撃で押し潰された。
無惨に拉げた骨格が白々とした街灯の明かりを浴びて浮かび上がる。
濃密に立ち込める臭いは……買ったばかりの醤油のそれだ。
「危ねーな」
クリスを脇に抱えたまま、圭は男を睨み付けた。
微かに生ゴミが腐ったような臭いが漂っている。
男の体臭なのか、血肉の臭いなのか、どちらにしても面白くないことになりそうだ。
「チッ、仕方ないか」
後退った圭の手を美咲が掴んだ。
顔面蒼白、今にも泣き出しそうだ。
「アンタ、私を置いて逃げるつもりでしょ!」
「アホか! 戦おうとしてたに決まってるじゃねーか!」
「あんなバケモノにアンタが勝てる訳ないじゃない!」
「だったら、俺の手を掴むな!」
「こんな状況じゃなかったら、あんたの手なんて掴まないわよ! この藁!」
「どうでも良いが、来ておるぞ!」
美咲の腕を掴み返し、圭は大きく跳躍した。
「「……っ!」」
クリスと美咲が大きく目を見開く。
二人も担いだ状態で十メートル近い跳躍をしたのだから驚くのも無理はない。
「ここで大人しく待っててくれよ」
「ちょっと、マジで戦うつもり?」
「だから、最初から戦うつもりだって言っただろ!」
二人から離れ、圭は改めて大男と対峙した。
多少の心得があると言っても実戦は初めてだ。
逡巡している内に大男が動いた。
戦術は稚拙で腕を振り回しながら突進するだけだ。
けれど、腕が旋回するたびに頬を打つ風が破壊力を物語る。
多分、まともに殴られたら動けなくなる。
「……ら、ぁっ!」
圭は旋回する腕を潜り抜け、渾身の蹴りを放った。
腰の捻りを利かせたお手本のような前蹴りだ。
多少の体重差があっても、大抵の相手は止まるはずなのだが、大男は前蹴りをものともせずに両腕を振り下ろした。
ダブルスレッジハンマー……組んだ両手を相手の背中に叩きつけるプロレス技だ。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
こんな時にプロレス技を使う馬鹿がいるのか?
いや、俺がガキの頃に小指を骨折しただけで意外に実戦的な技なのか?
「……ッ!」
ダブルスレッジハンマーがアスファルトを砕き、散弾のように飛び散った破片が圭の首筋を掠めた。
傷を抑えながら、圭は大男から離れる。
「いつまで逃げてるつもりじゃ! 反撃せんか、反撃!」
ギャラリーは気楽で良いよな! と圭は大男の懐に飛び込み、下段回し蹴りを叩き込んだ。
ゴムの塊を蹴ったような感触に顔を顰める。
「ケイ!」
クリスの叫び声で我に返った時には遅かった。
咄嗟に跳躍したが、それに合わせるように大男が足を踏み出す。
避けられない! と覚悟した次の瞬間、衝撃が下腹部で炸裂した。
嘔吐感に耐え、圭は大男の間合いから逃れる。
吐息が血生臭い。
目の前がチカチカする。
たった一撃で足にまでダメージが来てる。
「……ゆ、油断した」
「戦っている最中に動きを止めるからじゃ!」
「初めての実戦なんだから、仕方がねーだろ!」
クリスと美咲の所まで戻ったことを誉めて欲しい。
舌打ちし、圭はポケットから財布を取り出した。
「今更、金を渡しても逃がしてくれそうにないぞ」
圭は財布から取り出した和紙を指で挟むように構えた。
財布の中身……数枚の千円札が風に飛ばされ、硬化がアスファルトに落ちて澄んだ音を立てる。
できれば距離を取りたいが、
……雑鬼召還!
ドクンッ! と心臓が大きく鼓動する。
赤く染まった視界が空間に残留する気を捉える。
気は万物の根源、森羅万象に宿るエネルギーだ。
石動の術士は気を視覚的に捉え、規則性を与えることで様々な現象を引き起こす。
圭は薄墨のような気を符に導く。
……『礫』!
密度を増した気が炎のように符を包み、ふわりと浮かび上がる。
グジュグジュと赤い粘液が符から溢れ出し、ソフトボール大の球体を形成する。
『礫』は圭の命令に従うだけの最低ランクの式神だ。
攻撃力は高い方ではないが、何度でも攻撃が可能だ。
「行け!」
圭の命令に従い、式神は鋭い牙を打ち鳴らしながら大男に襲い掛かった。
大男は式神を叩き落とそうと腕を振り回す。
だが、式神は大男の腕を擦り抜け、首の肉を食い千切る。
致命傷にも関わらず、大男は痛みを感じていないかのように腕を振り回した。
血さえ流れていないのだから、真っ当な人間じゃないのかも知れない。
大男が式神である可能性も否定できない。
「戻れ!」
あえて声に出し、圭は式神を引き戻した。
式神を大男との間に割り込ませ、圭は口の端を吊り上げる。
余力があると思い込ませるためにありったけの力で虚勢を張る。
どれくらい睨み合っていたのか、先に動いたのは大男だった。
一歩、二歩と後退り、圭に背を向けて逃げ出したのだ。
大男の気配が完全に消え去ってから圭はその場で尻餅を突いた。
「ケイ?」
「悪い、英世さんと小銭を回収してくれ」
「委員長、貴様も探せ」
「わ、分かってるわよ」
無理だろうな、と圭は溜息を吐いた。
クリスが集められたのは千円札一枚と数枚の硬化だけだった。
ふと見上げると鬼のような形相で美咲が圭を睨んでいた。
原因は美咲が汚らしそうに摘んだゴム製品だ。
「待て、お前は勘違いをしている」
「何がよ?」
「それは娘に手を出す時は本気でお願い致しますとセシルさんから預かったものだ」
「避妊くらいしなさいよ、このサル!」
美咲は頬を引き攣らせ、思いっきり圭の頬を殴った。
※
「ケイは魔法使いなのか?」
「あ?」
そんなことをクリスが言ったのは美咲をバス停に送り届けた後だ。
思わず、問い返すとクリスに後頭部を叩かれた。
大男に殴られた腹も、美咲に殴られた頬も痛い。
それでも、クリスをおんぶする自分は偉いと思う。
「魔法みたいなのを使ったではないか。あれか? 夜な夜な街を徘徊するバケモノを退治したり、魔法使い同士で殺し合いを繰り広げていたりするのか?」
「魔法使いって言えば、魔法使いになるんじゃねーの? 半人前だから術士同士で殺し合ったり、バケモノ退治なんてしたことねーけど」
「あれだけ戦えるのに半人前なのか? 今から修行をすればワシでもあれくらい戦えるようになるか?」
「俺の力ってのは血に宿ってるから無理だろうな……痛っ! いきなり噛みつくな!」
いきなりクリスに噛みつかれ、圭は叫んだ。
「血を飲んだだけでは無理か」
「その理屈だと鳥を食ったら羽が生えるじゃねーか! 要するに遺伝。御先祖様に気を見るヤツがいて、そいつの特性を受け継いでいるんだよ」
「気など実在するのか?」
「俺にも詳しい理屈は分からねーけど、見えるんだから実在してるんだろ。まあ、同じ一族でも同じように見える訳じゃないみたいだから、理屈で説明できないのかもな」
「どう言うことじゃ?」
「俺は薄墨みたいな感じで気が見えるんだが、俺の兄貴は人によって気の色が違って見えたらしいんだよ。それだけじゃなくて、魂みたいなモノも見えたっぽい」
「らしい? っぽい?」
「だから、俺が見てるものと違うんだよ。俺は気が人間の体に詰まっていて、なくなった分だけ補填されてるように見えるのに、兄貴は魂みたいなモノが気を生み出してるって言ってたからな」
「う~む、量子力学チックじゃな。この世界そのものが重ね合わされた状態で観測した瞬間に収束しているのかも知れん。しかも、兄弟でも見え方に個人差がある。ふむ、これは調べる価値がありそうじゃ」
「そんな大層なものか?」
「大事じゃ。この世界そのものが観測された結果として物理法則を保っているのだとしたら物理法則なんぞ破綻してしまうぞ」
「俺にしてみたら物理法則が曖昧なんてのは当たり前のことで、破綻しにくいってのも当たり前のことなんだけどな」
「ていっ!」
ぽかん! と頭を小突かれ、圭は小さく呻いた。
「当たり前とはどういうことじゃ」
「昔はバケモノ退治の依頼が多かったらしいんだよ。けど、今は最盛期の千分の一くらいまで減ってる。これは俺の解釈なんだが、科学的な考え方が浸透してバケモノの生まれる余地ってのがなくなってるんじゃねーかな? 人間の無意識が物理法則を補強してると考えれば、説明できるだろ」
「疑似科学みたいな話じゃな」
クリスは納得していないようだ。
「あの大男は何なのだ?」
「さあ? ドーピングのせいで脳みそまで筋肉になったヤツか、俺みたいな術者のなれの果てか、俺の御先祖様みたいに覚っちまったヤツなのかも知れねーな。純粋なバケモノって可能性もなくはないけどな」
「戦うのか?」
「戦わない。戦う義理も義務も命の遣り取りをする覚悟もない」
「むぅ、学園伝奇バトルを期待していたんじゃが」
「申し訳ねーけど、正義のために戦えるほど俺は善良じゃないんだよ」
坂を上り、門を潜ると、
「ケイ兄ちゃ~ん!」
ドカッ! とカルが圭に突っ込んできた。
普段なら耐え切れたはずの衝撃だが、圭は意識を失った。
※
時々、行方不明になった兄を思い出す。
病弱な兄は白い寝巻姿で寂しそうに庭を眺めていた。
肌は上等な和紙のように白く、髪は首筋に掛かるほど。
汗で濡れた首筋を今でも夢に見る。
「……あ?」
目を覚ました圭はしばらく天井を見上げていた。
蛍光灯の白々とした光が目に痛い。
どうやら、気絶していたらしい。
「目を、覚まされましたか?」
「あ、セシルさん」
「……二時間ほどになります」
枕元に正座していたセシルさんは圭が問い掛けるよりも早く答えた。
「あー、この格好は?」
今の圭はトランクスとTシャツ姿だ。
問題はトランクスとTシャツが圭のではないことでも、どのような経緯で着替えさせられたかでもない。
誰が着替えさせたか、である。
「……娘達が濡れたタオルで額を冷やすんだと張り切り、バケツの水を掛けてしまったので私が」
圭は言葉に詰まった。
気まずいのはセシルさんも同じらしく頬を紅潮させ、恥ずかしそうに俯いている。
「見られちゃいました?」
「……っ! そ、それは……夫が帰っておりませんし……夏とは言え」
息を呑み、セシルさんは言い淀んだ。
冗談っぽく言ったつもりなのだけれど、セシルさんは首筋まで真っ赤になっている。
セシルさんがなおも言い募ろうとした時、静かに襖が開いた。
「ケイ兄ちゃん、怒ってる?」
カルが怯えているかのように顔を覗かせる。
精神的に幼い彼女は人間関係が壊れることを恐れている。
きっと、カルは人間関係の脆さを知っているのだ。
「怒ってないよ」
「ホントに?」
「本当に。さっきのは少し調子が悪かっただけでカルのせいじゃない。だから、今日は勘弁して欲しいけど、いつもみたいに元気に体当たりしてくれると俺も嬉しい」
「うん、ケイ兄ちゃんが元気になったら体当たりするね!」
「ケイのお陰でカルも元気を取り戻したようじゃな……何故、母上が顔を赤らめて硬直しておる?」
カルと入れ違いにクリスが顔を覗かせる。
多分、カルに付き添っていたのだろう。
「ふむ、あやしいの?」
「コホン……圭様、夜も更けて参りましたのが如何なさいますか?」
「泊まっていけ、ケイ。最近は何かと物騒じゃ」
公園の出来事は話していないってことか、と圭は推測する。
「では、夕餉の準備が整うまでお風呂に入られては?」
「お言葉に甘えます」
「クリス、浴室まで案内を」
「うむ、こっちじゃ」
立ち上がり、圭はクリスを追う。
クリスは入浴を済ませたらしく、白いロングTシャツ、ツインテールも解いている。
「セシルさんに何て説明したんだ?」
「自転車を盗まれたと説明したんじゃが、セシルは嘘に気付いているな……ここじゃ」
浴室は玄関の対面……と言っても玄関からは見えないようになっているが……に位置している。
「ワシは部屋におるからな」
「了解、了解」
圭は洗濯かごに下着を脱ぎ捨て、浴室に入った。
浴槽は半植え込み式の檜造り、床と壁はタイル張りだ。
圭は木桶で湯を掬い、ゆっくりと肩から掛ける。
湯の温度は適温、ヒリヒリと痛むので視線を落とすと大男の攻撃を受けた箇所が赤黒く変色していた。傷み始めたバナナの皮に似ていなくもない。
「……何だかなぁ」
湯船に浸かり、圭は呟いた。
ふと圭は視線を傾け、誰かが洗面所にいることに気付いた。
クリスか? いや、話の流れ的にカルかも……いやいや、セシルさんかも知れない。
水を掛けてしまったお詫びに背中を流しに来ましたみたいな!
そうだよ、それ!
そうに違いない!
ガラガラと浴室の扉が開き、頬を緩ませた圭は振り向き、
デカッ!
カミツキガメを発見しました!
外来生物法に基づき冷凍処分をお願いします!
「ヤア、ケイ君。背中ヲ流シニ来タヨ」
「え? えぇっ?」
カミツキガメの本体……シャノンさんは親指を立て、男気ある笑みを浮かべた。
シャノンさんの身長は圭よりも頭一つ分高い。
肩幅が広く、ガッシリとした体格だ。
アメリカのホームコメディにでも出て来そうな陽気な二枚目と言った感じ。
「大丈夫、拙者ハ日本通デゴザルヨ」
「拙者と言ってる時点で危険な予感が!」
「ドレクライ日本通カト言ウト……子ドモト一緒ニ風呂ニ入ッテモ虐待扱イサレナイ、娘ガ男友達ヲ連レテ来タラ背中ヲ流スト知ッテルヨ」
「二つ目は違う!」
「サア!」
圭はシャノンさんに腕を引かれ、檜の風呂イスに座らされた。
「オ客サ~ン、何処カラ来タノ?」
「それも違うし!」
シャノンさんの微妙なギャグに耐え、シャノンさんの背中を流し……何故、俺はクリスの親父さんと浴槽に入っているんだろう?
そんなことを考えつつ、圭は隣でハミングするシャノンさんを見つめた。
「……この曲」
「歌ハ良イネ、歌ハ心ヲ潤シテクレル」
「親子揃ってオタクかよ!」
「ハハハッ、チョット小粋ナアメリカンジョークネ」
「アメリカじゃなくて、日本だよ!」
バシャとシャノンさんは叩きつけるようにお湯を自分の顔に掛けた。
「コレデモ、君ニ感謝シテイルンダヨ」
「感謝されることなんてしていませんよ」
「ズット、クリスハ難シイ子ナンダト思ッテタ」
シャノンさんは遠い目をして言った。
「……トテモ後悔シテイルヨ」
シャノンさんが何を言いたいのか、圭はよく分からない。
多分、シャノンさんは自分勝手な思い込みでクリスを傷つけたことを心の底から後悔しているのだろう。