07:魔眼
――時は移って、宵闇も深まってきた頃合いである。
ざわめきに笑い声が混じり、時折そこにグラスや食器のぶつかる音が加わる。
天井は立ち上る湯気で白くけぶり、あちこちから香ばしい匂いが漂っていた。
「おまちどうさま! 本日のオススメ、豚煮込みスープ・エディ風でーす」
現在エルは酒場で食事中だ。運ばれてきた料理は香辛料のたっぷり掛かったもので、湯気と共に立ち上る香気が食欲をそそる。だが見た目はいささか頂けない。
『なんというか……豪快、ですね』
豚煮込みスープ・エディ風と銘打たれたそれ。美味しそうではあるのだが、それ以上に大雑把というか野性的というか。刺激的な香りの中、ぶつ切りの具材が椀の中にひしめいている。
肉、肉、野菜、肉、肉、肉、肉――やたらと肉が多い。塊肉の隙間から、他の具材がちらりとだけ見える。
『お上品な料理なんぞこの街に合わんよ』
卓の隅にある赤い液体を景気よく振り掛けながら、エルが答える。そしてそのまま料理を勢いよく掻き込んでいく。
スープは最早真っ赤なのだが、彼女の顔色は全く変っていない。どういう味覚をしているのだろう。あの赤色調味料は別に辛くないとか? いやまさか。
『……もう少しゆっくり味わえばいいのに』
様々な疑問が沸いたが、アークは結局それだけを言った。早食いは良くないと思う。
『この手の場所はいつ何が起こるかわからん。乱闘騒ぎで飯を食いっぱぐれるのは御免だ』
肉の塊を咀嚼しつつ、念話での言葉が返ってくる。するとそれが呼び水となったかのように、何やら店の一角からわめく声が聞こえてきた。
見れば先程料理を運んできた給仕娘が酔っ払いに絡まれている。
『一見客か。ここのマスターの恐ろしさを知らないとは……』
エルのつぶやきは呆れ混じりで、ついでに心底嫌そうな響きである。「やれやれ」という台詞が聞こえてきそうだ。
だが間の悪いことに、その"恐ろしい"マスターは席を外しているらしかった。カウンターには温和そうな料理人がひとりだけ。騒ぎの場へ飛び出そうとしているが、相手を殴る前に自分が突き指しそうなひょろ長い若者である。
彼は馴染みらしき客に押し止められているものの、諦めずに前へ出ようとしている。
『ちっ。飯が不味くなる』
エルはそう吐き捨てた。スープの最後の一滴を飲み干すと、がたりと席を立つ。
アークはそれを意外な目で見つめた。
『目立つのはお嫌いかと思ってました』
『……マスターには昔から世話になってるからな。あと、ここの飯は旨いんだ。料理人に怪我されちゃ困る』
彼女はため息と共に、いかにも面倒そうな足取りで騒ぎの中心へ向かっていった。
* * *
「きったない手で触んじゃないわよ!!」
「なんだなんだぁ? オキャクサマに対して口の効き方がなってねえなぁ」
店の隅のやや奥まった場所。そこでは赤ら顔の酔客が給仕娘の腕を掴んでいた。口には嫌らしい笑いが張り付いており、どうもたちの悪い酔い方をしているらしい。
周りもその男の仲間らしく盛んに囃し立てるばかり。そのテーブルは体格の良い男たちが六人で囲んでおり、周囲の客はその数を警戒して手を出しかねている風情だった。
「なぁお嬢ちゃん、俺達ちょっと寂しくってさあ。相手して欲しいんだよ」
「止めてって言ってんでしょ! ウチが売るのは酒と料理! 女が欲しけりゃ色街に行きなさい!!」
「まぁたまた、そんな身体してる癖によぉ」
横合いから別の男がおもむろに手を伸ばした。そのまま給仕娘の豊かな尻をむんずと掴む。
グラマラスな肢体を持つその娘は、一瞬凍りついた後に。
「っざけんじゃないわよこのxxxx野郎ーッ!」
卓上の大ジョッキを取り上げて、尻を掴む男の頭に迷いなくぶちまけた。
飛沫を散らしながら流れ落ちる液体。驚きに固まる男。周囲の者たちも呆気にとられてそれを見ている。
だが数秒の後、酒を浴びた男は怒り心頭といった様子で立ち上がる。
「ッこのクソアマ、黙ってりゃあ付け上がりやがって!」
「きゃあっ!」
頭から液体を滴らせた酔客は、乱暴に給仕娘を突き飛ばした。
そしてそのまま腕を振りかざし――
「……そこまで。いい加減に頭を冷やした方がいい」
その拳を、気配なく歩み寄ったエルの手が掴み取った。
* * *
全身黒ずくめ、おまけにフードで顔を隠した突然の闖入者。
異様な風体に一瞬だけ男は怯んだが、酔いと怒りに任せて勢いを取り戻す。
「あんだよテメエは? 邪魔すんじゃねえよ!」
凄みながら掴まれた手を振り払おうと試みる。だが。
「まずは落ち着くことだ。怪我をしたくないのなら」
対するエルは平坦な口調で返す。彼女はさして力を込めているように見えないのに、捉えられた拳はぴくりとも動かなかった。
男の顔色はまず戸惑いを示し、次いでじわじわと新たな怒りに染まっていく。
「っテメエ馬鹿にすんじゃねえ!」
仲間の男達にもその怒りが伝染したのだろうか。彼らは次々に立ち上がりエルへと詰め寄っていく。
ふとその中の一人が、思い付いたように言った。
「暑っ苦しいフードなんかで顔隠してよう。手前どんなツラしてんだい、ええ?」
仲間の男達も便乗して囃し立てる。
「おおよ、二目と見れねえ不細工に違えねえ!」
「ぜひとも拝ませてくれよ!」
そうして、中の一人が黒衣に手を伸ばす。
「やめろ、そいつは!」
客の誰かが声を上げたのと同時に、ばさりと音を立ててフードが落ちる。
「……隠しているわけじゃない。隠して"やって"いるんだよ」
不気味なまでに落ち着き払った声が、場の空気を打ち払う。唇に刻まれた笑みは強烈な嘲笑だ。露わになる"緑色"の髪は、そこにいる誰よりも鮮烈で特異な色彩だった。
しかしもっとも特筆すべきなのは別の箇所だ。
「ひっ」
酔客の一人が喉に貼り付いた悲鳴を上げる。その視線の先には、冴え冴えとした金の瞳と、縦に裂けた瞳孔がある。
――爬虫類の如き特徴を備えた、ヒトにあらざる黄金の目。それが冷ややかな光を放ってそこに在る。
気が付けばその場の全員が魅入られたように硬直していた。一様に引きつった表情は彼らの恐怖を雄弁に語っていたが、それでも誰ひとり視線をそらすことはなかった。
まるでその首を鉄金具で固定されているかのように見続ける。畏れながらも魅入られる。
金眼に込められた威圧の力。それが見るものを縛り付け、屈服させる。
「……魔眼」
誰かの呟きが、静寂に零れ落ちた。
* * *
沈黙がたっぷりと場を支配した後。
「怪我はないか?」
「……ひっ!」
エルが静かに声を掛けると、横で放心していた娘は身を竦ませた。それを見た彼女は目を逸らし、店の奥へ視線を向ける。
そこには新たな人物が登場していた。
巌のような体躯に、鷹の如く鋭い目。揺るぎない存在感を備えた壮年の男だ。どう見ても素人ではないが、エプロンを付けた格好からして恐らく店のマスターなのだろう。
彼はフードを外したエルの姿に目を見張り、次いで場の状況を見て思い切り顔をしかめた。
「すまん、面倒を掛けたか」
「……いや。後は任せた。代金はツケといてくれ」
エルはそう言い置くと再びフードを目深に被り、その場を立ち去った。
* * *
騒動の後。宿の一室に戻ったエルは、そのまま寝台に座り込んだ。
動作にいつもの切れがない。疲れた様子だ。
『エル、さっきのあれは……』
「驚いたか?」
『……ええ、まあ少しだけ。貴女の眼には力があるんですね』
アークが告げると、エルは唇を歪めた。
「ろくでもない力だよ。うるさい輩を黙らせるには便利だが」
『その眼、お嫌いなんですか。僕にはそう忌避するようなものと思えないのですが』
「"魔眼"だぞ? どう見たって異形だよ」
彼女は苛立った様子で吐き捨てる。確かにあの眼差しは"強すぎた"かもしれないが――威圧を込めなければただの珍しい瞳だろう。
少なくともアークには、忌むようなものと思えなかった。
深い溜息をついたエルはマントを脱ぎ、腰のポーチを外した。そこで少し動きを止め、ふと思いついたように水晶を取り出す。
結晶をかざした彼女は、彼をじっと見詰めている。
「あんたはこの眼が恐ろしくないのか」
真剣な面持ちで語りかけてくる。じっくりと彼女の顔を眺めるのは遺跡で出会ったとき以来かもしれない。
『恐れる理由がわかりませんね』
そこにある顔はまだ若い。整った面立ちは、各部の造りだけを見れば涼やかで繊細だ。氷のように澄き通った美しさ。けれどその印象は、眼差しの強さで裏切られる。
瞳に宿る真摯な光は鋼の強さを併せ持つ。真っすぐ貫くように相手を見詰めるひとだ。
『美しい色だと思いますよ。満月を映した瞳だ。それに』
首の後ろで無造作に括られた髪を見て続ける。
『その髪も、翡翠……いえ、翠緑ですね。命育む緑の色。とても綺麗です』
「…………」
エルは、塩の代わりに砂糖を飲み込んだような、なんとも言い難い表情をした。不味いと予想はしていたが、覚悟していたのとは全く別種の不味さだったとでもいうような。
だがアークにしてみれば、そんな反応こそが意外だ。彼女の持つ姿は"普通のヒト"と少しばかり違うだけで、本当に美しいものなのに。
『ヒトの中では変わってますけど、それだけじゃないですか』
思わず零れたアークの言葉。
「あんたは、まるで自分がヒトではないように話すんだな」
それを聞いたエルがつぶやく。
つぶやきを受けたアークは自問する。果たして自分はヒトなのか否か?
答えは呆気ないほど簡単に出た。彼にとっては当たり前すぎるほど身近な事実だった。
『ええ、そうです。僕はヒトではありません。だったら何か、と言われると思い出せないのですが……』
エルは、緩慢な動作で天井を見上げた。
「そうか。あんたはヒトじゃない、か。何なんだろうな。あんたも、私も」
落ち着いた声音、平静な表情。だがその横顔は幾分か寂しげに見えた。
何故か焦りを覚えたアークは、やや早口で言葉を紡ぐ。
『貴女に流れる血はヒトのものですよ! もちろん特異な部分はありますけど、貴女はヒトだ。それは断言出来ます!』
「断言できるのか?」
『はい! わかります。任せてください!』
彼女はそんなアークの様子に小さく笑った。
「そうか。ありがとう」
だが、その顔には影が差したままだ。
アークはもどかしく思う。鮮やかな色彩。血に潜む力。"ヒトらしくない"部分であっても、それは決して忌むものでないのに。
そう……彼は確かに知っている。
『あんまりその眼を嫌わないであげてください』
記憶は無くとも心の中に強い確信があった。
『僕は感じる。きっとその色も、その力も……貴女を味方する為の"祝福"なんです』
力を込めて語る。どうか彼女に伝わりますようにと祈るような心地で。
――だが、それを聞いた途端にエルは表情を消した。
「祝福だって? 呪いの間違いだろう」
固く凍った口調で吐き捨てる。
『呪いだなんて……』
「言っても詮無いことだけど。この眼も、この髪も、大っ嫌いだよ」
そうして彼女は、それきり口を閉ざした。
* * *
彼女の、"呪い"という言葉には大いに反論したかったけれど。
その瞳はなによりも明確に拒絶の意を示していたので、アークはそれ以上何も言うことが出来なかった。