03:道連れ
ふと気付くと、頬に冷たい感触がある。ほんの僅かな既視感は、瞼からの光でかき消された。
高くさえずる鳥の声。寄せては返す波のような樹々のざわめき。ゆっくりと開いた視界には、数多の気配が放つマナの輝きが映る。
ここは命に溢れている。
――闇と静寂に閉ざされた、あの暗い空間とは違う。
(ああ、戻ってこられたんだな……)
麓の森の転送陣。祭壇の形をした穏やかな場所。屋根を持たないそこで、苔むした台座は優しい木漏れ日に包まれている。
暖かい。
陣の上に寝転がるエルは、瑞々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「生きてるって素晴らしい……」
ぼんやりした意識のまま誰にともなくつぶやく。すると。
『全くですね……』
不意に響いた男の声に、エルは思わずぎょっとする。慌てて周囲を見回しかけ――そこで我に返り、己の左手を確かめた。
手の内にある冷たい感触。氷のように澄んだ結晶。ゆっくり光る銀の星が、その中心に灯っている。
『空が、明るい』
水晶はそれだけを言い、口を噤んだ。
宿る光が、ただ静かに揺らめいていた。
* * *
しばしの沈黙の後に、エルは口を開いた。
「おい、水晶」
『……物みたいに呼ばないでくださいよ』
「いや石だし。物だろモノ」
『違いますって。貴女結構失礼ですね。僕はれっきとした知的生命体ですっ!』
先ほどまでのしんみりした雰囲気はどこへやら、水晶は途端にぷりぷり怒り始めた。どうやら彼なりの矜持があるらしい。銀の光が跳ねるように点滅している。
「だったら名前を思い出せ。それとも勝手につけていいのか? ポチとか」
『へ!? ち、ちょっと、止めてください! 今から全身全力誠心誠意、真心込めて思い出しますから!』
悲鳴を上げる水晶が、今度は慌てたように瞬く。顔のない石の見せる目まぐるしい"表情"が、エルにとっては少し可笑しい。
右手を持ち上げ結晶をかざす。
「あんた一体何者だ?」
『急かさないで! ――ああ、あい、あう……』
身のうちを巡った熱。翠緑の光。彼女が普段扱うマナと似た、だがそれよりもずっと濃密な力。ぴったりくる言葉は"生命の輝き"だろうか。
エルからその力を引き出し、導いたのはこの水晶。力を借りる、と聞いた当初は一体どのような目に逢うかと危惧したのだが――実際には大きな安心感があった。
不安は無かった。本当に不思議なほどに。
『あえ、あお、あか。うーん?』
「何やってるんだ」
『いや、順繰りに音の並びを挙げていったら名前の響きを思い出すかと』
「……阿呆?」
彼女は呆れた。
『阿呆って何ですか阿呆って! 結構有効ですってば! こう、口に出すのがミソで。あき、あく……うん?』
「どうした?」
『うーーーん。アルク、いや、アーク? そう、アークと呼ばれていた気がします』
「アークか」
『ああ、人に呼ばれるとますます確信が深まりますね! 僕の名前はアークですよ!』
エルの視線の先、得意げにきらめく光。当てずっぽうも的を射ることがあるらしい。
そんな水晶――アークは「ほら、有効なんですよ、阿呆なんて言わないでくださいよ!」と騒いでいる。なんとも阿呆な石だ。微笑ましいような苛立たしいような。
(だけど、こいつはただの阿呆じゃない)
目を閉じて一呼吸。真っすぐに水晶を見つめてエルは問う。
「アーク、あんたは何者だ?」
瞬間、水晶は沈黙する。凍りついたように静止する光。
『……さあ、何者なんでしょう』
一拍置いて応えた声、それは途方に暮れた迷子のようだった。銀の灯火は先程とは一転して酷く弱々しい。
「思い出せないのか? 今、名前の響きを拾ったみたいに」
『どうしようもなく欠けているんです。大切な物が足りない、なのに何が無いのか思い出せない』
結晶の中、頼りなく灯るかぼそい光。それは今にも消えそうに震え、ひとつ大きく揺らぐ。だが。
『けれどこれだけは解る。……僕は、身体を取り戻さなければいけない』
言葉と共に、彼は再び強い輝きを放った。煌々たる銀の星、その光がエルの目を射抜く。
手の中にあるのは冷たい鉱石。けれどそこには確かな"心"が宿っている。
「見た目は石だが、別に身体がある?」
『はい』
「本当の僕、とか言っていたのはそういうことか」
なんともまあ、とエルは嘆息した。生き物から精神を抜き出して石に移すなど聞いたこともない話だ。
が、しかし、古代文明であれば有り得なくもない。なにせあの時代の技術はおおむね頭のネジが二、三本飛んでいるような代物で、現代人の尺度では計り知れないのだ。
「取り戻す、ということは奪われたのか?」
『おそらくは。そうでなければ、好き好んでこうも窮屈な思いをしようとは思いませんよ!』
叫びながら、銀の光は居心地悪そうに震え出した。その動きは、本当に心の底から嫌なのだと全力で主張している。
「しかし、あんたの身体が何処にあるかは分かるのか? いや、それ以前に……まだこの世に残ってるのか……?」
『不吉なことを言わないで下さいよ……って、そうだ! そもそも僕はどの位あそこにいたのでしょう』
気楽そうなその口調に、真実を告げるべきか迷う。だがしばしの逡巡の後、エルは静かに言葉を発した。
「あんたを縛ってたあの封印、あれは現代人の手による物じゃなかった。古代王国の技術だよ」
『古代、王国?』
「千年以上の大昔に滅んだ幻の国さ」
『え!? それは、つまり――』
絶句する水晶。無理はない。
囚われの身から解放され、やっと外に出たら千年以上が経っていたなど。
かける言葉が思い付かず、エルはじっと水晶を見詰める。戸惑うように瞬く星の光を。
『千年、ですか』
「多分な」
『長いですね。とても長い』
「そうだな」
黙りこくる水晶。微かに揺れる意思ある光。
『……でも、やっぱり僕は身体を探します。この大地のどこかにある、そう感じるんです。本当にあるかどうかは分からないですけど……それでも、探さなければいけない』
彼は自らの思いを確かめるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
曇りのない結晶は、強い光を湛えている。
「こだわるには何か理由が?」
『大切な、やらなければいけない何かがあったんです。そのために身体を取り戻さないと。……肝心な部分が全部抜けているのに、やらなきゃ、って所だけ残っていて。おかしいですよね』
最後の語尾が気弱に震える。けれども澄んだ光は気丈に輝き続けた。
『きっと、近くに行けば感じ取れると思います。このような身では探すこともままなりませんけれど、色んなヒトの手を流れていればいつかは辿り着くかも』
「……」
穏やかな葉擦れの音が響く。
さざ波のような音色を背景に、緑の天井を見上げながらエルは言った。
「なあ。あんたをこっちに連れてきたのは私だ。あんたが何をしてあの空間でとっ捕まってたのか……正直、あんたが善いモノか悪いモノか、全く分からない」
『僕は……!』
傍らの気配が気色ばむ。だが。
「何にも思い出せないんだろう。もしかしたら極悪人かも」
『……』
途端に小さく縮こまる銀色の光。
しゅんと萎れる犬の姿が脳裏に思い浮かんで、エルは小さく笑う。
「なんてな。冗談だよ。あんたみたいな分かりやすい奴、悪い奴じゃないと思う。少なくとも悪党向きではなさそうだ」
『……え?』
「ま、私も暇だし。良ければ協力するよ。あんたの身体探し」
『えっ!?』
「命の恩人……恩石? ともかく、あんたに助けられたことは確かだ。あちこち連れて回るくらいで良ければ、当面付き合うさ」
『えええーっ!?』
森を抜ける風が心地良い。瑞々しい生気に、こちらの気まで新しくなるようだ。ついでに水晶の声も……こう、落ち着きのなさが出なければ響き良い美声なのだが。
『い、いいんですかエル!? 僕にとっては願っても無いお話ですが、自分で言うのもなんですがとっても得体が知れませんよ!?』
「あんたの得体が知れないのは元より折込み済み。万が一悪いモノなら責任もって始末するから安心してくれ」
『し、始末ですかっ!?』
一気に血の気が引いたのだろうか。泡を食ったような口調に合わせて光が明滅するのが面白い。
だがそれにしても。
(得体が知れない、か)
さて、あのときの力――翠緑の光は、誰もが持ち得るものなのだろうか。
それとも?
(善いモノか悪いモノか分からない、なんて私が言う台詞ではないな)
込み上げてくる自嘲。
けれどもそれを押し隠し、エルはできる限り明るい声を出す。
「時には連れが居るのも悪くない。お喋りな水晶と二人旅、ってのは滅多にない経験だ」
透明な結晶を見つめ、軽く微笑んだ。
沢山のものを無くした彼が、この旅路で何かを得られ、あるいは取り戻せるといい。かつての彼女が、いくつかの出逢いに恵まれてここにいるように。
思いがけず生まれた奇妙な縁。それが彼の道行きの助けになればいいと――そう、エルは思う。
「これから旅の道連れってことで良いかな。よろしく、アーク」
『こちらこそよろしくお願いしますね、エル!』
樹々の葉擦れが楽しげに歌う。
そよぐ緑と爽やかな風に包まれた、夏の森で生まれた繋がり。
今はまだ誰も、そこから生まれる波紋を知ることは無い。
* * *
こうして、旅の剣士に奇妙な道連れが生まれた。
お喋りな水晶と女剣士との、珍妙な道中の始まりである。
chapter1 「墜落剣士と囚われの水晶」 end




