31:変貌
――ォオオオオオォォォン
雷鳴の如き大音声が、塔の内部に轟いた。 魂を砕く竜の咆哮。聞き手を強く打ち据える、威圧の力を持った声だ。
そこにはマナが籠もっている。弱い心の持ち主ならば、意思を挽き潰されたかもしれない。
だがエルの場合は違った。すぐに立ち直ると、気迫を込めて頭上を睨み返す。
「探し物に来たんだが、別に中を荒らし回ろうってんじゃない。穏便に通してくれるとありがたいんだがね」
特に何らかの反応を期待しての言葉ではなかった。しかし。
『ふざけたことを。誰一人ここを通す気はない』
予想に反し、眼前の相手からは明確な思念が返って来た。取り付く島の欠片もない、限りなく剣呑なものではあったが。
およそ塔の三階層にあたる位置からこちらを見下ろす金色の竜眼。ぶつかる視線に込められた熱量はいつ発火してもおかしくない。
蒼竜は優美な仕草で首をもたげ、一層冷たい気配を纏った。空気がずしりと重さを増す。刃の嵐は消えたはずなのに、全身の皮膚を裂かれる感覚が襲った。
うなじの毛がぶわりと逆立つ。
呼吸を整え腰を落とし、意識を鋭く研ぎ澄ます。彼女は一振りの刃となる。
「そいつは全く狭量なことで!」
踏み込んだ足が地を抉り、弾けるように飛び出した。
* * *
「エル、なんとかあのひとを説得できませんか!?」
「無茶を言うな。相手は殺す気満々だ」
響き渡る咆哮を契機に、太く鋭い氷の槍が次々と放たれる。先のような密度は無くとも脅威としては十二分だ。
物言いたげなアークは無視してエルは手元にマナを込めた。豪速で迫る氷の投げ槍を、軌道を読みつつ斬り落としていく。
「ほんとに弱体化してるのか……?」
最後の一本を打ち砕き、着地しざまに小さくこぼす。
「その目は場の状態も読み取れない節穴ですの? 全方位からの飽和攻撃よりはマシと思いなさいな」
すかさずルヴィエの叱咤が飛んだ。なんという地獄耳か。
「す、すまん」
「次が来てますよエル!」
再び上がる雄叫びで空気が震えて乱される。魔女の制御下から離れたマナが竜の意に従い凝固した。巨体の周囲に無数の氷針が生み出され、光を反射してきらきらと輝く。
宙に浮かぶ結晶は見た目だけなら美しくもあるが、鋭利な先端は容易く肉を貫くだろう。全身針ぶすまは謹んで遠慮したい。
(威力は低くとも避けにくい攻撃。こっちを先に削りにきたか)
場に満ちるマナの密度を読む。ルヴィエの方は自前の障壁で防ぎきれそうだ。
轟く咆哮。かの竜は魔女のように声を用いてマナを制御するらしい。指向性を与えられた氷針の群れがきらめきながら殺到する。
「――はぁっ!」
気合いと共に宙を薙ぐ。
刃に乗せて放ったマナで針の一角が扇状に削れた。ぽかりと開いた安全地帯、そこに飛び込み竜の首を目指す。
輝く金眼が鬱陶しげに細められた。側面から影が迫る。
「エル、尻尾が……!」
風を裂いてしなう長い竜尾が彼女を狙う。虫を払うような仕草だが速さと精度が半端でない。とはいえ辛うじて追い付ける速度だ。調子を合わせ、縄跳びの要領でひょいと飛ぶ。
「まだです、戻ってくる!」
すかさず尻尾が振るい直される。鞭のような一撃を再度の跳躍で避け切った、と思った瞬間その思考が裏切られる。
「ぅえ? ちょ、なんだその動きはっ!」
途中で軌道を変えた尾がエルをすくい上げるように動く。咄嗟に無理やり身をひねり、振るった剣で攻撃を受けた。
が、しかし。
(硬っ)
ギィン、と耳障りな音が響く。受け止めた一撃の重さで腕がもぎ取れそうだ。
反動で宙に弾き飛ばされ、視界が回り、壁面が迫る。そうしてルヴィエの手前ががら空きになる。
蒼竜が吼え、数多の氷槍が生み出された。
(まずいっ……)
壁を蹴る。風が唸る。体当たりに近い状態で空中を突っ切る。音を追い越す勢いで、槍の進路に滑り込む。
「せやぁぁッ!」
身体は魔女を庇う位置に。目はしっかりと氷槍を捉える。
この後ろへは通さない――
ガキン、と硬い破砕音が響いた。
きつい衝撃が身体を貫く。赤い飛沫が宙に散る。
「腕が!?」
「騒ぐな。大したことない」
前にかざした左腕を下ろす。抉れて骨が見えているが、すぐに再生するだろう。
(しっかし、マナで固めて防御しててコレか……きついな)
知らず眉根が寄っていく。いつもとは桁違いに厄介な敵だ。
拳を握れば普段通りの手応えが戻る。傷は痛むが、戦闘に支障ないのは幸いだった。相手はこちらを休ませてなどくれない。攻撃は止め処なくやってくる。
携えた刃にマナを集わせ鋼の光で円弧を描く。エルは飛び来る氷槍を砕き続けた。
最初のような密度でないとはいえ、放たれる攻撃はどれも速度重量ともに桁外れだ。ヒトの範疇から片足を踏み外している彼女をしても、ようやく追い付けているというのが正直なところ。
だが恐らく、相手はまだ本気を出していない。竜の瞳に切迫した色はまるでなく……どちらかといえば鬱陶しさの方が濃いように見えた。
灼けつく痛みを噛み締めつつ、エルは深く静かに反省する。いささか見込みが甘かった。
なんだかんだでここ数年、彼女と同格以上の存在に出会うことはなかったのだ。今回もそうだと頭から考えていた訳では無いが、驕りがあったことは否定できない。
腕に新しい皮膚が張られたところで、再び前方へ向かって走る。尻尾と氷槍を潜り抜けて刃を振るうが、不可視の壁に阻まれる。
「ちぃっ!」
跳ね返ってきた衝撃で腕が痺れ、加わる負荷で刃が震えた。敵の防御はなんとも硬い。
(マナをきっちり込めた状態でコレか。くそっ)
このままでは駄目だ。攻撃が敵に届かない。時間と共に疲弊していき、弱ったところで潰される。
ならばどうする?
彼女は自身に問い掛ける。
――答えは既に出ている。
きちんと"本気"を出せばいい。
けれど……でも!
頭の中で頑是無く駄々をこねる子どもがいる。いつまでも性懲りもなくぐずっている。
心の奥にわだかまる、暗くどんよりと濁った鬱屈。触れないように、捕まらないように、ずっとずっと目を背け続けてきた。
(動け。ここで死んでもいいのか。――死なせてもいいのか?)
迷う時間は無い。なのに逡巡してしまうのがエルの弱さだ。
背中の向こうにある揺るぎない碧の目を想う。あの魔女の強さが少しでもあればいいのに。
(出し惜しみしている場合じゃないんだ。グダグダ考える前に、進め!)
臆する心に叱咤を入れる。余計な思考を蹴り飛ばす。
この身体に眠る忌々しい力。だがそれは状況を覆す可能性でもあるのだ。
思い出すのはひとつの言葉。
『その色も、その力も、貴女を味方するための"祝福"なんです』
今だけは、信じよう。
「――アーク」
「はい。何ですかエル?」
「少し派手に暴れてくる。危なそうだからルヴィエのとこで待っててくれ」
「え……? ち、ちょっと待っ――」
みなまで聞かずに水晶を放る。振り返らずとも、放物線の終着点はルヴィエの手元へと届いている筈だ。
今言ったのは半ば言い訳。もしかしたら彼ならば、何も気にしないのかもしれないけれど。
ここから先は、一人でいい。
「頼んだ!」
「な……っ。貴女、何をするつもり!?」
全ての力を"内側"へ向け、練り込み叩き上げ研ぎ澄ます。精錬と圧縮を重ね、ソレはやがて臨界点を超える。
力の昇華。より速くより強く、高みへと駆け上がる。身体を構成する全てを最適化していく。
轟々と流れる時の狭間に思う。
この戦いが終わった後でも、彼は、彼女は、果たして前と同じように――
(埒もない。馬鹿か私は)
そうして。
彼女は、ヒトならざる姿へと変貌した。
* * *
――それは御伽噺の一幕か、あるいは太古の伝承か。
ルヴィエの前に広がる光景は酷く現実味を欠いていた。
蒼い鱗をきらめかせる竜と、偉大なる幻獣に立ち向かう異形の女。
凄まじい速度で巨体の周囲を飛び回り翻弄する影。その目は爛々と金に光り、全身が緑柱石を削り出したような鱗に覆われていた。しなやかな四肢はより太く力強く変わり、側頭部からは尖った角が伸びている。要所を分厚い鱗の装甲で固めた輪郭は何とも鋭く厳めしい。
人の身に竜の特徴を併せたような姿だった。蒼い巨体と緑の影。様々な部分が異なるものの、ふたつの根底にはどこか似通うものがある。
「竜人……とでも言うべき存在ですかしら」
ルヴィエは小さなつぶやきを唇に乗せた。惚けているような場合ではないが、つい見入ってしまいそうになる。
眼前の景色から強いて意識を引き剥がし、受け取った水晶へと目を向けた。左手に持つ結晶が淡く脈打っている。無機質な筈の石の奥からは、心なしか微かな熱を感じた。
彼が必死で何かを伝えようとしていることに、不意に彼女は気が付いた。
『…………ど……か。……のと……ろへ……』
声にならない弱々しい響き。微かな思念の揺らぎは水のように捉えどころがない。
ルヴィエは思わず眉をしかめた。普段はあれだけ饒舌である癖に、エルの側にいなければ殆ど只の石になってしまうのか。
「……彼女のところへ行きたい、のですかしら?」
なんとなく浮かんだ言葉を口にしてみる。すると瞬く光がほんの少しだけ明るくなったように思えた。肯定の意思を示していると取って良いのだろうか。確証は全く無いのだが。
(まあ、そう仮定しておきましょうかしら。エルのところ、ね)
彼らの戦いを再び視界に入れる。
マナが乱れ舞い、神速の域に達するそのやりとり。網膜に残るのは宙に焼き付く残像ばかりだ。
「無理ですわね」
ルヴィエはあっさり言い捨てると己の編む術に意識を戻した。手元から抗議めいたものを感じるが、一介の術師に無茶を言わないで欲しい。
目で追うことすら困難であるのに、いわんやそこへ水晶を放り込むなど。そもそも今のこの状態も彼の安全を願ってのことだろうに。
(……大人しくしていらっしゃいな。出番があるとしても、きっともう少し先ですわ)
声なき声でそう告げて、口元をきつく引き結ぶ。
今は沈黙を保つとき。
彼と彼女は、ただ事の推移を見守るしかないのだ。