26:出発点
目の前には痩せぎすの少年が座っている。その薄い手のひらは、星輝く水晶の上に添えるように乗せられていた。
対するエルは、水晶を手の上に乗せて支えている。アークは丁度、向かい合う二人の手のひらに挟まれた格好である。
彼女は手に乗せた石へと呼びかけた。
「これでいいか?」
「ばっちりです。では力をお借りしますよ」
言葉と同時に"力"が励起され、全身に軽い高揚感が走る。体内を巡る熱、あるいは光――これは彼女の生命に根ざすマナであるらしいのだが、そのうねりが腕から手のひら、そして水晶を経由してゆっくりと少年へ流れ込んでいく。
少年の身体からは逆に、黒い靄が吐き出されていくのが見えた。
濁った水槽に清水を注ぎ込むように、少年の身体に巣食う澱みが薄められていく。傍らではその様子を赤毛の少女が固唾を飲んで見守っていた。
そんなエルとアークによる"治療"は、少年の身体からすっかり瘴気が抜け切るまで続けられた。
* * *
教団から戻って一夜明け、ティオたちのねぐらに赴いたエルとルヴィエ、そしてアーク。
ティオの弟の身体を癒したことで事態はようやく一段落――かと思いきや、そうは問屋が卸さなかった。
物申したのは金髪の魔女である。
「わたくしから盗んでいった隠れ身の術式。貴女はこれを、これからどう使うつもりかしら?」
裏寂れた廃屋の中、厳しい面持ちのルヴィエがティオを前にして佇んでいる。
腕を組んだ彼女は更に言葉を重ねた。
「この後も盗みを続けるのかどうかは知りませんけれど。わたくしの術が犯罪に使われる可能性を見過ごす訳には参りませんわね」
「ならどうするって言うの」
警戒心も露わな少女は身構える。だが、ルヴィエから差し出されたのは意外な提案だった。
「あなた、正規の魔術師を目指す気はおあり?」
「……え」
「記憶力。正確な記述能力。そして年齢に見合わぬ魔力。式の構築能力は未知数ですけれど、術者としての資質は十分過ぎる程ですわ。エドアルドにある賢者の学院、そこで学んでみる気はないかしら」
賢者の学院――それは世界屈指の規模で知られる魔術師たちの学び舎だ。二百年以上の歴史を持ち、術構築、魔工技術、解析学など、魔術におけるほぼ全ての分野を教育課程として掲げている。
多くの才人を世に送り出しており、志ある者に分け隔てなく門戸を開くことが特徴だ。とはいえ、見込みなしとの判断が下された生徒は容赦なく叩き出されるそうなのだが。
「でも……あそこは誰でも入れるって言ってるけど、それでも読み書きができて身元がある子じゃなきゃ駄目でしょ」
少女は唇を噛み締めて俯く。そしてすぐ、きっとルヴィエを睨み返した。
「それに、ジャスがいるもん! 私ひとりでエドアルドになんて行かない」
「それくらい分かっていましてよ」
肩をすくめた魔女は、鞄から筆記具を取り出す。流れるようにペンを走らせる彼女は、どうやら一枚の手紙を描いているようだった。
出来上がった文書を四つ折りに畳み、上から術式を描いて封印する。
「紹介状を書きますわ。そして、学院で教鞭を取るスミス・ラーウィという男を世話役に付けます。ルヴィエ・アル・スフェーニアの紹介と言えば、あちらに否やはない筈ですわ」
すらりとした指を少女の鼻先に突きつけて彼女は続ける。
「身元保証人と学資の出資者はわたくし。入学前には最低限の基礎学力をつける訓練を行ってもらいます。弟の分を含めた生活費と学費は出世払いで貸し付けて差し上げますわ。エドアルドまでの転送陣使用料、これも二人分。もちろん片道ですけれど、そこから先は貴女の才覚しだい。どうかしら、悪い話ではないと思いますけれど?」
反射的に手紙を受け取ったティオは、驚き固まったままで瞬きを繰り返していた。押し寄せる言葉に呑まれて思考が飽和しているようだ。
だが、しばらくの硬直の後に己を取り戻した少女は、魔女を睨みつけながらゆっくりと口を開いた。
「……どうしてそこまでしてくれるの?」
隙を見せず、用心深く懐を探るような口調。それにルヴィエは事も無げに答える。
「もちろん善意だけで言っているのではありません。貴女の特技は野放しにするには危険に過ぎますの。それならば目の届くところに置いた方が安心ですわ」
声音は優しげで口調は軽やか。だがしかし、双眸に宿る光は鋭利なものだ。
「もしこの話を蹴るのでしたら、代わりに魔術の誓約を交わして頂きますわ。今後一切姿隠しの術を使わない、というものを。……背けばその命を食い破る術式ですから、しっかりと覚悟なさいね」
唇こそ笑みの形を作っているが、その目は全く笑っていない。碧の瞳がぞっとするような冷気を放っていた。
その剣呑さには、見守っているエルの方がはらはらしてしまう。
ティオは背後の弟を庇うように立ち、必死で魔女の威に呑まれまいとしているようだった。
そんな緊張の中にひとつ、柔らかな声が零れ落ちた。声量は小さいが、確かな芯を感じさせる響きだ。
「ティオ姉、行こう? このお姉さんたちは悪い人じゃないよ。僕らを放っておくこともできたのに、ちゃんと助けてくれたんだもの。それに、騙すならこんな回りくどいことしないよ」
黒髪の少年は優しく姉に話しかけ、場の空気を和らげるような微笑みを浮かべた。
「……ジャス」
「それに……本当は勉強してみたいって思ってたでしょ? 街の学校の授業を、木によじ登ってよく覗いてたよね。時々枝から落っこちてたけど」
「あ、あ、あんたいつそれ見てたのっ!?」
赤い顔で声を荒げる少女に、彼はもう一度「行こうよ」と促す。ティオはその言葉に背を押されて覚悟を決めたようだった。
大きく息を吸うと、腰に両手を当ててルヴィエに向き直る。
次いで目をきりきりと吊り上げ、挑みかかるような勢いで自らの選択を口にする。
「賢者の学院に、行くわ!」
「色良い返事を聞けて嬉しいですわ。それではしっかりと精進なさいね」
少女の見せる威勢が愉快でたまらないといった風に、清々しくルヴィエは笑った。
そうしてふと居住まいを正すと、幼い頬に白い指先を添える。そっと口を開いた彼女は、詩歌のような文言を諳んじていった。
「"芽吹きを夢見る始まりの種子よ。
魔術の理は近くて遠い。其は果てなく高峻なる山々を渡る道程なり。
だが諦めぬ者、愚直なる探求者の前にこそ扉は開かれん。
叡智を求め、歩みを続けよ。その意志こそが術師を術師たらしめるものなり"
――貴女の道行きに祝福を。わたくしの顔に泥を塗ったら許しませんわよ?」
謡うような音律に聴き入っていたのか、少女は夢から覚めたようにはっと目を見開く。そして言葉を噛み締めるような沈黙の後、はしばみの瞳にはち切れんばかりの光を灯して答えた。
「わたしは路地裏育ちの孤児だけど、お姉さんみたいな凄い魔術師になってみせる! だから出世払い期待しててね!」
それは真昼を照らす太陽のように、燦然と輝く笑顔だった。
* * *
時は夕刻の手前、場所はヴァッサノーツ転移駅――転送陣とその管理機構を収めた駅舎の玄関口だ。
海の街の転送陣から二人の子どもをエドアルドへと送り出した後、エルたちは緩やかな足取りで宿への帰途についていた。
あの少年少女は随分と大人びた子ども達だったが、それでも常になく賑やかな時を過ごしたように思う。アークも含め、皆がどこかしらの寂寥を感じているようだった。
『あの子達は大丈夫しょうか……エドアルドの駅ですぐに迎えがくるそうですけど、ちゃんと無事に会えるんでしょうか? いきなりさらわれたりはしません? 一緒に付いて行かなくて良かったのでしょうか……』
先程からそわそわと落ち着かない水晶に、エルは呆れたように言い返す。
『問題ないだろう。迎えの人間がすぐ気付くように、術で目印をつけているそうだし。それにあの子達は賢い。少々の厄介事は切り抜けられるだけの機転があるさ』
『そうですね。そうですよね……』
子どもたちの方が実はアークより余程しっかりしているのではないか? そうエルは思うのだが、彼が可哀そうなので言わないでおく。
エドアルドには、魔女が信頼を寄せる家人がおり、その人物に子供たちを任せるのだそうだ。先ほど魔術で連絡を取り、駅まで迎えに行かせたらしい。
そんないきなりの連絡で大丈夫なのかと聞いたところ「アレは下僕なので大丈夫ですわ」との答えが返ってきた。
詳細は怖くて聞いていない。ルヴィエは一体何者なのか。
「……そういえばルヴィエ。魔女と魔術師って違うのか?」
ふと思い立ち、かねてからの疑問をルヴィエにぶつけてみる。無知を馬鹿にされるかとも思ったが、答えは案外あっさりと返ってきた。
「魔女と魔術師は全くの別物です。魔女は祈りで魔法を歌う。対する魔術師は理論で術式を描く。そうやって望みの事象を引き起こすのですわ」
「……じゃあ、もしかすると魔女って巫女さんみたいなもの?」
「そうですわね。古代には魔法の使い手が祭祀を司っていたそうですわ」
これはまた思いがけない逸話を聞いた。ルヴィエが巫女などと言うと違和感も甚だしいが、思い返せば彼女が魔法を行使する姿には確かにそのような側面があった。
「あともう一つ。さっきの言葉は何だったんだ? 叡智を求め歩み続けよって奴。あれは魔女じゃなく魔術師の話だよな」
自らを"魔女"と呼ぶ彼女から"魔術師"の心構えについてが語られた事に、先刻のエルはやや驚いていたのだ。
「わたくしは魔女ですが、魔術師でもあります。先程の言葉は師の受け売りですわ」
問いに答えながら、ルヴィエは過去を懐かしむように茜に染まりゆく空を見上げている。
「この身は術師である以前に魔女ですけれど、行く先を示した者としてあの言葉を贈りたかったのですわ。どうか道を違えず、良き術者となってくれるように」
そうして、ふっと笑う。その眼差しからは、彼女が"魔術"というものに対しても深い思いを抱いていることが伺えた。
「本当は最後まで面倒を見るのが最善なのでしょうけれど……まあ、うちのスミスに任せておけば大丈夫でしょう」
「そのスミスさんというのはどのような方なんですか?」
辺りを憚った声で、そっとアークが尋ねる。
「今は学院で教鞭を取っておりますけれど、わたくしの元従僕ですわ」
それを聞いたエルは、なんとなく「おお」という気分になる。元が付いているとはいえ"従僕"とは! そんな単語が気負いなく出てくるあたり、彼女はやはり真正のお嬢様らしい。
まあ、それ以外の何に見えるかと言えば、やはりお嬢様にしか見えないのであるが。
謎の感動を覚えるエルを余所に、ルヴィエは謎の男・スミスについての説明を続けている。
「見た目は冴えない男ですけれど、なかなか優秀ですの。面倒見の良い根っからのお人好しですわ。安心してよろしくてよ」
艶やかな朱唇に浮かぶのは皮肉めいた笑みだ。しかし語られる言葉の裏には確かな信頼が伺えた。ルヴィエの信を勝ち得る人物ならば悪いようにはならないだろう。そう考えながら、一時を共有した子どもたちの顔を脳裏に思い浮かべる。
あの二人はエルたちとの出逢いを転機に、新しい人生を生きていく。縁があれば再び生きる道が交わることもあるだろう。
「ルヴィエが安心と言う人であれば、きっと大丈夫ですね! では僕達は次の探索の方を心配するとしましょうか」
そんなアークの言葉に、しっかりと頷きを返す。
「ああそうだ。これから"蒼樹の迷い森"が待ってる」
「随分と出立を遅らせてしまいましたが、ようやく訪ねることができますわね。緋の深淵同様、隠された区画が見つかることを期待しましょう」
そんなルヴィエの台詞にアークが「任せてください!」と返している。その安請け合いに苦笑する一方で、彼ならば本当になんとかしてしまいそうだとエルは思った。
とにかく少しばかりの寄り道をしたものの、これからが本番だ。心して掛からねばならない。
心の中で気合を入れた彼女は、次なる探索へと意識を向けていった。
* * *
すったもんだの騒動の末、一行はようやく出航に漕ぎつける。
目指すは"蒼樹の迷い森"。そこに求める手掛かりはあるのだろうか?
――答えはまだ、海の底に眠っている。
chapter4 「猫と輝石と海の街」 end