23:潜入
清々しく広がる蒼天の下。
(……女って怖い)
生物として一応女に分類されるエルは、目の前の光景にそんな感想を抱いていた。
輝ける太陽が惜しげなく光を振りまき、潮の風そよぐ昼下がり。好天に恵まれたヴァッサノーツの街路で仲睦まじげな男女が会話している。
煌びやかな衣装を着こなす伊達男と、薔薇の如き美女の組み合わせだ。
伊達男は横に置いておいて、問題となるのは美女の方である。大輪の花を思わせる麗姿の主は、艶のある栗毛に深緑の瞳、大胆なカットで魅せるドレス、高く複雑に結い上げた髪――そして、よくよく見れば記憶にある顔かたちを持っている。
髪と瞳の色、服装によって印象を変えているが、そこにいるのは紛うことなきルヴィエだった。男の隣で優雅に日傘を傾ける彼女は、従者に囲まれながら楽しげに歩いている。
時折、会話の切れ端が耳を掠めていった。
「本当に素晴らしい機会を与えて下さって……夢のようですわ。なんてご親切な方」
「いえいえ貴女のような美しき方を神の御前に導くことができるとは我が輩にとってもこの上ない喜び」
「まあ! わたくし、貴方との出逢いには運命を感じましたの。これもいと高き方のお導きですのね」
「おお、薔薇の君よ。我が心臓は感激にうち震えておりますぞ」
脳味噌が沸いてるんじゃないか、という台詞の数々で全身が痒い。痒いったらない。どうにかして欲しい。
(別人、絶対別人だアレ。いつもの棘はどこへ行ったんだ!?)
エルは心の中で思い切り叫んだ。
* * *
教団潜入の下調べを始めたエルは、まず裏表両方の市場に水晶が出回っていないことを確かめた。潜入したのに肝心のモノがありませんでした、では流石に洒落にならない。
水晶は売りに出されていなかった。件の門番は本部施設内で暮らしているというから、自宅の奥に隠してある、なんてこともないだろう。上納されているか個人で所持しているかはわからないが、教団の敷地内に存在する筈だ。宝物庫か宿舎か、そんなところだろうか。
在処がはっきりしないのは心許ないが、あれは只の水晶ではない。アークは眠っているだろうが、同じ建物内であれば彼の気配を辿れる自信がエルにはあった。
教団本部へも下見に行った。なるほど少女から聞いた話通り――いや、それ以上に警備が厳しい。
案の定と言うべきか高い壁にはぐるりと術が張り巡らされており、じっと見詰めたルヴィエは「思った通り、厄介な術式ですわ」と小さく言った。
あれこれと検討した結果、二人は"門番に扉を開けて貰って"教団へ潜入する方針を採用する。
さてそうと決まった後、エルを通してルヴィエが買い求めたのは街の社交界に関する情報だった。主要な顔触れと、その中にいる教団入信者たち。
同時に何処からか夜会の紹介状を手に入れると、装身具やらドレスやら諸々の品を瞬く間に手配していく。
貴婦人の衣装はとかく複雑怪奇な代物だが、身支度など全てひっくるめて心強い協力者――"返しきれない程の恩を売りつけた相手"がヴァッサノーツにいるらしい。一体どうやって手に入れた伝手かは怖くて聞けなかった。
そうして富める者集う社交の場へ乗り込んだ彼女は、見事釣り針に獲物を引っ掛けた。"幻の女"に惑わされた男には同情を禁じ得ないが、逆に真実を知らずに済んで幸せかもしれない。
ともあれ成果を釣り上げた魔女は、伊達男と共に教団本部へ向かっている。果たしていかなる手練手管を用いたのか、その手腕はまさしく魔法と言えた。
一方、姿隠しの術に身を包んだエルは、密かに教団へ潜入すべく彼らを追跡中だ。四方に意識の網を投げ掛けながら気配を殺して歩いている。
ちなみに隠形は術式行使者に対しても有効だ。つまり現在、ルヴィエもエルを視認できない。
これでは勝手が悪いので、対策として探知用の魔術を重ね掛けしてある。ルヴィエだけに見える特殊な目印を付け、精神位階からエルの位置が分かるようにしたそうだ。応用で念話も可能だが、深く集中する必要があるために"謎の貴婦人"の演技中は使わないとのことだった。
周囲に警戒している者はおらず、そもそも街中は気配が紛れやすい。油断は禁物であるが、彼女にとっては楽な道行きだった。
そうこうしているうちに派手な一行は教団本部へ到着した。行く手には、四つの尖塔を備えたドームと高い外壁がそびえ立っている。第二の視界を開けば、敷地全体を覆うように魔術障壁が張り巡らされているのを確認できた。
障壁といっても物理的な効果は無い。簡単に通ることができるが、問題は付与された呼び子としての役割だ。"然るべき人物"が"然るべき手順"で開いた扉以外からの侵入者に対し、警報が高らかに鳴り響く。
門番を殴り倒して入ろうにも、この厄介な仕掛けが邪魔をする。かといって障壁の機能を眠らせるには多大な時間と労力が必要だという。
そうしたわけで、魔女が素晴らしいコネと演技力を発揮することとなった。策は功を奏し、とろける笑みの門番が恭しく彼らを迎え入れている。
要所を鉄で補強した厳めしい扉が、重々しい響きを立てて開いてゆく。狙い通り門番はエルの存在に気付いていない。鮮やかな魔術の技に感謝するばかりだ。
ルヴィエが何事かを門番に話し掛け、時間を稼いでくれている。男達は軒並み鼻の下が伸びきった締まりのない表情だ。
(さて、ここからが本番だな)
エルは唇を軽く舐め、潜入の第一歩を踏み出した。
* * *
地を踏みしめる微かな音が、誰の耳にも届かず消えていく。一行の後ろにはもうひとつ、密やかに歩む影があった。
幸か不幸か、そこに意識を向ける者は無い。
そうして舞台は、門の内側へと移る。
* * *
教団施設へ首尾よく潜り込んだエルは、込み上げる吐き気と闘いながら回廊を進んでいた。
(なんだここ、物凄く気持ち悪い……空気が粘っこくてヘドロみたいだ)
盛大に眉をしかめるが、足を止める訳にはいかない。彼女の感覚はこの先に水晶の存在を捉えている。
入口すぐの空間は小ホールになっており、奥の回廊を経て尖塔付きのドーム、すなわち大聖堂へと続く。左右には信徒たちの宿舎と修行施設が建っており、建物間は渡り廊下で繋がっているらしい。
アークの気配は大聖堂の傍にある。詳しい位置は近くに行けばはっきりするだろう。
しかし解せない、と彼女は思った。ルヴィエ達が案内され、長ったらしい説明を受けていた小ホール――施設案内だけ聞いてさっさと後にしたそこでは何も感じなかったのに、奥へ進むにつれ不快感が増してきたのだ。
原因は周囲を包むおかしなマナだ。流れから離れ、汚染されて淀んだ"瘴気"。豪華で煌びやかな内装も、ここでは全て色を無くして見えた。
辺りに散乱する腐敗臭。それは精神位階に由来するものなのに、意識せずとも鼻を刺す程に強い。
感覚の鈍い人間でも、こんな環境では遠からず心身が参ってしまうだろう。しかし、すれ違う信徒達は何故か平気な顔で生活している。
注意深く彼らを観察すると、信仰の証として胸に下げたメダルが目を引いた。どうやらそこに仕込まれた術が彼らを守っているようだった。
彼女はもう一度、解せない、と思った。メダルの術式はおそらく、教団の上位者が異常に気付いていることを示している。だが気付いて放置しているのか? この魔窟のような有り様を。
そして異様な歪みを抱えるに至った経緯はいかなるものか。確固たる原因があるのか。まさかとは思うが、これは人為的なものなのだろうか。
突き止めろ、と脳裏に囁く声がある。少しの好奇心と大きな危機感、理由の付かない憤り。血、心臓、あるいは本能――身体の端々から生まれる声が、思考に向かって訴える。この状態を放置してはいけないと。
だがエルは、耳を閉ざし、目蓋を閉ざす。熱を冷やす。
(今はアークを探し出すのが第一だ。目的が散漫になっては、出来る筈のことも失敗する)
目を開ける。気分の悪さは致し方ないが、さっさと終わらせて戻るとしよう。
教団の謎を探るとしても、彼を取り戻した後のこと。
エルは軽く息を整えると、目的地へ向かって歩き出した。
* * *
通路をしばらく進んだ後、ある一角でエルは足を止めた。目的地に着いたからではない。
アークの気配は少し先にあるのだが――
(中まで障壁を張るとか……どれだけ警備が固いんだよここは。まずい秘密でもあるのかと勘ぐりたくなるな)
呆れながら手を伸ばした先に、見えざる壁が立ちはだかっている。力ある文字で織られた術式の紗幕だ。
外壁に張られていたものと同じ種類だろうか? 中身を探るためエルは感覚を切り替えた。精神の位階に刻まれた文字から意味を読み取るためだ。
しっかりと目を凝らし、構成の全体像を捉える。複雑に環の連なる長い記述だ。重要でない式や定型句は飛ばし、根幹となる部分を探す。特に目に付く単語や語列――言詞と文詞を拾い上げる。
目立つ言葉は、感知、報告。そして読む、解く、分けるという意味合いの言詞。
(警報、それに侵入者の情報解析。機能はもう一個あるみたいだけど、分けるってのは何だ?)
どうもしっくり来ず首を振る。警報の発動条件と併せ、もっとしっかり読み解く必要がありそうだ。
障壁を穏便に消すのは不可能だ。壊すのは簡単だが、砕いた瞬間に警報が鳴る。どうやってここを進んだものか。信徒の出入りに紛れての侵入は可能だろうか?
わざわざ術を張るだけあって、この先が教団中枢のようだった。行く手に見えるのは再び小ホールで、左右それぞれの扉は別棟に続いている。
そして真正面が当座の目的地、大聖堂への入口だ。視界の奥に鎮座する金の大扉は、装飾過多と言いたくなる程に派手で豪華なものだった。
扉の脇には二人、警護の人間が立っている。祭具らしき荷物を抱えて歩く信徒も視界の端に一人。もういっそ全員叩きのめして進みたい誘惑に駆られるが、せっかく隠密にことを進めたのが水泡に帰す。
さて、どうするべきだろう。
事態の急変はその直後だった。障壁に視線を戻したエルは、驚きのあまり顎が外れそうになる。
壁のすぐ向こうに人が出現した。
まるで振ってわいたかのような突然さだった。瞬間転移とも見紛う、唐突そのものの現れ方。
けれどもそう、きっと彼女はずっと歩いていたのだ。如何なる手段でか身を隠す術を纏って。
――つい最近別れたばかりの、スリを生業とする赤毛の少女は。
脳裏に閃きが走り、数分前の謎が氷解する。障壁の持つ残りの機能。それはすなわち、術式の"分解"。
だが分かったところで意味はない。警報は既に発動している!
ゴォン、ゴォン、ゴォ……ォオン――
続けて三度、腹の底を震わす鐘の音が響く。
「何事だ!?」
「侵入者だ!」
「なんだって!」
ざわめき始める信徒たち。
行く手の扉が次々に開いてゆく。
「大聖堂付近に侵入者あり!」
「各人持ち場を離れるな、武僧が追跡にあたる!」
乱暴な足音で駆けつける男が数名。杖や鉄棍で武装した僧兵たちだ。
淀んだ瘴気をかき乱して、人の熱気が錯綜する。
そうして、その端緒たる少女はといえば、戸惑い顔で周囲を見回していた。起こった事を理解していない様子だ。
未だに隠形効果を信じているようで、足取りは少しも揺るがない。
迷わずに前へ進み続ける。
突如現れた人影に色めき立つ僧兵たちと、首を傾げながら歩く赤毛の少女。
刻々と変わりゆく事態は思索の猶予を与えてくれない。
(ああもう厄介になってきたな本当に!)
巻き起こる混乱に頭痛を催しながらも、エルは素早く駆け出した。