01:崩落
(ついてない。全くもってついてない!)
女は全力で走っていた。後ろは見ずに、ただ前を目指す。
小刻みな揺れと絶え間なく降るつぶての雨。壁がひび割れ、柱が次々倒れていった。崩落はすぐそこまで迫っている。
天井の色硝子が砕け散り、ひときわ高い音が響いた。七色が光にきらめく。鮮やかに舞う硝子片を払いのけてひたすら走る。
美しい装飾も今や無惨なもの。なんとも勿体ないことだ。
(っと!?)
そんなことを考えていた最中、再びの揺れが遺跡を襲う。彼女は危うく転倒しかけ、寸前で立て直した。
思わず一息つきかけたその瞬間、だが目の前には深い亀裂が広がっている。
背中を冷たい汗が滑り落ちた。
全身に力を込める。歯を食いしばりながら足を早め、地を蹴り上げて大きく跳躍。筋肉が悲鳴を上げるが構ってはいられない。
一瞬の直感で進路を選び、着地と跳躍を繰り返す。崩れる床を次々と踏み越え、轟音を背に瓦礫の回廊を突き進む。
――ここは"白月宮"。
数多の伝説を残す悠久の遺跡は、今まさに崩壊の時を迎えようとしていた。
そもそも何故このような事態になったのか? それは先程この地を襲った大きな揺れに端を発する。天地がひっくり返るかという程の振動。だがまさか遺跡そのものが崩れるとは予想もしていなかった。
なにせ白月宮は千年を超える歴史を持つ古代遺跡だ。滅多なことで壊れるはずがない――呑気にもそう思っていたのだ。
けれど形あるものはいつか滅びる。つまりはそういうことなのだろう。
ちなみにこの"古代遺跡"とは、ただ古いだけの建物ではない。かつて卓越した魔術により栄華を極めたにも関わらず、唐突に消えた幻の王国。その技術の粋をもって造られた構造体の総称だ。
それらが共通して備えるのは、えげつない防衛機構の数々と、訪問者を迎える凶悪な守護体。そして出鱈目もいいところな自己修復機能。
とはいえ、事ここに至ってはそれらも用をなしていないのだが。
彼女は崩れる遺跡に悪態をつきつつも走る速度を緩めない。舞い上がる砂塵の向こうに、目的地が見えてきた。
大人五、六人が立てるほどの面積を持つ円形の台座、魔術文字が刻まれたそれは"転送陣"と呼ばれる仕掛けだ。上に乗った人やモノを、対となる陣まで運ぶ神秘の装置。
行く手にある転送陣は、起動状態を示す青白い光に包まれていた。
(良かった、まだ無事……)
思った瞬間に再び揺れが襲い、右手の壁が崩れ落ちる。彼女は差し込む陽の眩しさに思わず目を細めた。
冷たい外気が頬を撫でる。大きく開いた穴の向こうに鋭角な山嶺が連なっている。遠く突き抜ける青空を背に、果てなく広がる雲海が見える。
白月宮、それは天に最も近い場所だ。
世界一の霊峰クォルツ。その頂にあるこの遺跡は、月を抱く孤高の宮殿とも称される。
この地に徒歩で辿り着くのは困難だ。頼りとなるのは転送陣だけ。そして、もしそれが壊れてしまったら? ぞっとしない話だが、事態は今や現実となりつつある。
遺跡の崩壊速度は増すばかり。残された時間はあと僅かだろう。
間に合うかどうか、それは考えない。ただひたすら前へと進むのみだ。
どうにか保って欲しい。
切実な思いで奥歯を噛みしめ、力強く床を踏み切る。
最後の距離を一気に詰める。
身体が台座へ転がり込むと同時に周囲が一斉に崩れ始めた。
(まだあともう少し……"跳べ"!)
刻まれた文字に光の波が走る。陽炎のように景色が揺らぐ。
身体を包む浮遊感が、陣の起動を伝えていた。
「まに、あった……」
深い安堵に思わず声が漏れる。
だが。
かしゃり、と硝子の砕けたような音が響いた、その瞬間。
彼女は途方も無い暗闇に"放り出された"。
* * *
右も左もわからない。
何もかもが歪み捻れて、あらゆる感覚が悲鳴を上げる。
掻き回されて千々に乱れる。
このままではいけない。
意識の手綱を無理矢理引き絞り、周囲に感覚を広げる。
溺れた者が空気を求めるように必死でもがく。
だが感じるものは闇、闇、闇。何もない。
ただただ暗くどろりとしたものが、波のように押し寄せる。
なんという圧倒的な闇だろうか!
絶望しかけた矢先、意識の端で何かが瞬いた気がした。
それはとても幽かな、だが暖かな光。
吹けば飛んで行きそうなそれに、死に物狂いで手を伸ばし――
* * *
ふと気付くと、頬に冷たい感触があった。思考に掛かるもやを払いながらゆっくりと瞼を開く。
さて一体何があったのか。記憶はひどく曖昧だが、幸いにして五体は無事だ。
うつ伏せていた身を起こしながら周囲を窺う。
(転送中に事故が起こった……のか? ここはどこだ)
光を吸い込む漆黒の床が、視界の彼方まで続いている。頭上は深い闇に包まれており、天井があるのかすらはっきりしない。
風はない。音もない。辺りには生温い空気が沈澱している。
と、そこで奇妙なものが目に映った。彷徨っていた視線が一点に止まる。
彼女が立つ場所の先に、奇妙な明かりが存在していた。
大人ひとりがすっぽり納まる大きさの、白くぼんやりと光る球体。それが果ての見えない暗がりに頼りなく浮かんでいる。
いかにも怪しげな代物だ。
この場所に彼女以外の生き物の気配はなく、耳が痛くなるような静けさだけが満ちている。夢と現の境界が溶けてしまいそうな程に現実味がない。
(だが夢でも現実でも、こんなところに居続けるのは御免だな)
胸の中でひとりごちると、球体に向かって足を進めた。近付いて覗き込むと、遠目で光と見えたものが細かな文字の集合だとわかる。
"魔術文字"――世界の根源たる力を操る為の文字。それが糸のように連なり、球を成しているのだ。
白く光る魔術文字の円環がいくつも重なり球となっている様子は、まるで繭のようだと彼女は思った。ぼんやりと光るこの繭は、何かを護っているのか。あるいは閉じ込めているのだろうか?
その中身は、何層にも重なる文字に阻まれて知ることができない。
これはいったい何なのだろう。
からからに乾いた唇を僅かに舐める。彼女はじっと集中し、目の前の物体を探るべく"第二の視界"を開いた。世界を支える大いなる力、"マナ"の流れる位階に焦点を合わせて、その相を読もうと試みる。
薄い布を剥がすように、もうひとつの世界が姿を現していく。いつもなら踊るような光の流れが見えるはずなのだが――今、彼女の前に立ち現れたのは全く違う様相だった。
マナの流れは確かにある。だがそれは自然界のように有機的に絡み合うものではない。完全に計算されつくした幾何学模様、それが空間全体を覆っている。
中心には術式絡み合う謎の光球がひとつ。間違いなく、誰かの作為が存在していた。
こうして見ると術式の厳重さがより一層よく分かる。あまりにも複雑すぎて、その構成を正しく読み解くことはできそうにない。
(雰囲気としては封印か? 危険な感じはしないが、よくわからないな)
彼女は少し思案すると、ポケットから一番小さな銅貨を取り出した。やや離れた位置に立って軽く放つ。
硬貨はあっさりと繭をすり抜け、向こう側の床に落ちた。乾いた金属音が闇に響く。
どうやら物理的な障壁ではないようだ。
更に思案する。ベルトから鞘ごと剣を外し、先端で球体をつついてみた。剣の先は繭の表面を呆気なくすり抜けるが、そのまま中身を探るように左右へ動かしてみる。
伸ばした腕が空を切ること数回。この行動に間抜けさを覚え始めた時、硬い何かが剣先に触れた。
同時に軽く痺れるような刺激が腕から眉間へ流れ――
『……そこにいるのは誰……貴女は誰ですか……?』
「!?」
唐突に、雑音混じりの声が聞こえた。




