09:星の導き
「――っ!」
エルは大きく目を開き、荒い息で天井を見詰めた。
乾いた喉。滲んだ冷や汗。湿った服が肌に張り付いて気持ち悪い。
久し振りに最低最悪の夢見だった。昨夜、珍しく人前に眼を晒したせいだろうか。
それとも。
『――貴女を味方する為の"祝福"なんです』
耳元へ蘇る言葉に、きつく瞼を閉じる。
(こだわったところで仕方ない)
エルは自身に言い聞かせる。気にしない、関係ない。
自分はもう囚われてはいないのだ。
爪が肉に食い込むほどきつく拳を握り締める。自分は強いのだし、強くあらねばならない。
そう。ここにいる彼女はもう、か弱い幼子ではないのだから。
* * *
日が高い。うんざりするほど青い空に、太陽が燦然と輝いている。
昼の街は相変わらずの喧騒に満ちていた。
『初めてですね、貴女がこんな真昼から出歩くなんて』
道を歩いていると、いかにも意外という口振りで水晶が話し掛けてくる。確かに平時のエルは夕刻から夜を選んで行動していた。マント姿は暑いうえ、昼間は無闇と目立つのだから。
しかし、今日はある事情からそうも言っていられない。
『訪ね先があちこち引っ張りだこの人気者でね。この時間しか空いてない』
夕刻を過ぎてからが、"彼女"の仕事時間。それを邪魔する訳にはいかないのだ。
とはいえ暑くてたまらない。茹だるような熱気に辟易する。本当にもう、どうにかならないものだろうか。
せめてもの抵抗にフードの首もとを扇いでいると――ふと何かが感覚に引っ掛かった。
些細な違和感を感じて目線を横に流す。すると。
そこに"灰色"の人がいた。
* * *
陽炎立ち昇る街路、人々の声が途切れた空白地帯。
きつい日差しに塗り分けられた漆喰壁。
白と黒。
その影に滲むように灰色の人影が佇んでいる。
目元を隠す仮面で覆われた面相。意識を引っ掻く違和感は、その存在の奇妙な薄さによるもの。
それは瞬きひとつで消えてしまいそうな程に儚く淡い。
「もし、そこのお方」
灰色が口を開く。
男とも、女とも、子どもとも老人ともつかぬ声。
「"銀"の探し物をお求めならば」
茫洋とソレは語る。
「大地の赤、海樹の森、空の箱庭。此方を訪ねられると良いでしょう」
意思の無い人形を思わせる平坦な声。
遠く近くに木霊するその響きは、不思議なほどはっきりと耳に届いた。
「大地の赤、海樹の森、空の箱庭……?」
つぶやき、街路の影に再び目を向ける。
そこには誰もいない。
――街のざわめきが、耳に戻ってきていた。
* * *
『なんだったんだろうな、アレは』
首を捻りながらエルはつぶやいた。白昼夢と言うには明晰すぎる、しかし現実ともかけ離れた時間。
『奇妙な存在でしたね。ヒトにしては気配が薄すぎる。まるで影です』
『なにやら意味ありげな言葉を残していったが、さて』
エルは歩きながら、与えられた言葉について考えてみた。謎々のような台詞に一応の心当たりはある。
だがそもそもアレは何者なのだ? 何の為に出てきた?
(銀、ってのはアークの事を指してたようだが。こっちの事情を何処まで知って……って、こんなの誰も知らない筈だろう!)
考えるうちに段々と煮詰まってきた。只でさえ暑いというのに更に脳味噌が茹ってしまう。
とにかく情報が少なすぎるのだ。
『それにしても、貴女はどこへ向かっているのですか?』
エルが答えのない疑問にうなっていると、不意にアークが問いかけてきた。気付けばもう下町まで来ている。
風景は様変わりしていた。店舗の連なる通りを抜けて今いるのは細い小路だ。蛇のようにうねる道を、罅だらけの石畳が覆っている。
両脇には集合住宅がひしめき合い、あちこちで干された洗濯物が夏風にはためく。
『向かってるのは凄腕の占い師のところさ。あんたの探し物、手掛かりが欲しいだろう?』
『……えっ!?』
水晶は虚を突かれたような声を漏らす。
『ちょっと変わった人物たが、的中率は折り紙付きだ。まあ楽しみにしててくれ』
そんな風に彼へ告げると、エルは悪戯っぽく笑った。
* * *
迷路のような下町を四半刻ほど歩いた後、エルはとある建物の前で足を止めた。周囲の建物に光を遮られてひときわ薄暗い一角、そこに建っている古いアパートだ。
いや……古い、と言うのは語弊があるかもしれない。それを正確に言うなら、"凄まじく古い"、あるいは"ボロい"。
蔦に覆われた壁は各所が崩れ落ち、中の骨組みが見えてしまっている。ベランダには手摺りの残骸がぶら下がり、床は歩くたび泣き声のような軋みを上げる。張り巡らされた蜘蛛の巣に、ひびの入った硝子窓。それらは訪問者に不安しか与えない。
見た目は廃屋以外の何物でもないのだが、「これで案外住み良いんよ」というのが住人の言である。絶対に嘘だと思う。
――コン、コン、コン。
――コン、コココン。
エルは教えられているリズムでノックを行った。扉の前でしばし待つ。すると、向こう側にこちらを伺う気配が現れ――
一気に開け放たれた扉から小柄な影が転がり出てくる。
「きゃあああ、エル! エルやんか! めっちゃ久しぶり~っっ」
頬をすり寄せてしがみ付いてくる子猫のような少女。小柄なその身体を抱き留めて、エルはそっと微笑んだ。
「久しぶりだな、アヤメ。相変わらず元気そうで何よりだ」
* * *
知己である少女からの熱烈な抱擁。そんな"いつも通り"の挨拶の後、エルは室内に迎えられた。
アヤメの居室。そこは手作りの小物で埋められた柔らかい雰囲気の部屋だ。
(相変わらず、"女の子"の部屋だよなあ……。外側は化け物屋敷なのに)
内装を見てしみじみと思う。そこには可愛らしいキルトやリボン、レース編みが趣味良く並んでいた。甘い砂糖菓子のような雰囲気が漂っているが、程良いさじ加減なのでエルにも割合と居心地が良い。毎度ながら建物外観との落差には驚きを禁じ得ない。
だが、この場所にはもうひとつ特筆すべきことがある。それは、棚に、床に、机に……部屋のそこかしこに築かれた書物の山である。
「……また増えてないか、本?」
「何言うとんの、増えてくのは当たり前やん」
ティーポットを片手に事もなく言うアヤメ。流石は本の虫、稼ぎのほぼ全てを書物へ費していると言うのは伊達ではない。
「まあ、私の手土産も本なんだが」
エルはそう言い、しばらく前に古書市で手に入れた本を取り出した。確かこの少女が探していたはずのものだ。
彼女がそれを差し出した瞬間――
「きゃあああ、マジもんのレグロック魔術積層論や! いやぁぁん、エルっち愛してるぅっっ!」
茶器を放り出し、書物に頬ずりしながら喜びの舞いを踊るアヤメ。薔薇色に花咲くオーラが見えそうな勢いだ。傍らにいる水晶が、その奇行に絶句する気配を感じる。
『――ちょっとちょっと、何なんですかこの娘さんは』
『ただの行き過ぎた本好きだよ』
苦笑しながらそう告げる。今まで何度も繰り返したやり取りだが、初めは本当に驚いたものだ。
『えーと。まさかこの子が、"凄腕の占い師"?』
『そうだよ。……まぁ、彼女が"こっち"に戻ってくるまで少し待ってくれ』
今の彼女には何を言っても聞こえはしない。ひとしきり満足したアヤメが我に返るのを待つしかないのだ。
既にそう学習しているエルは、回転する少女を横目に脱いだマントを壁に掛けた。ついでに放り出されていたティーポットを回収。程良い頃合いだったのでカップに注いでおく。
――そうして約三分後。
「あ~、ほんまシアワセや。ありがとなぁエル。……で、今回は何を知りたいん?」
ようやく現実に戻ってきたアヤメは、そう言ってエルの眼を覗き込んだ。
* * *
「ほぇー、喋る水晶かぁ。エルっちは毎度変なコトに巻き込まれとんねぇ」
「聞いたこともない事例だが、実際ここにいるからな。まあ古代文明は何でもありだから」
「ふむふむ。じゃ、その水晶君の身体の在処を探せばいいんね?」
「ああ。頼む」
そんなやり取りを交わす二人。現在エルとアヤメは、小さなテーブルを挟んで向かい合っている。
「探し物は、"縁"が強い方が楽なんやけど……その水晶君、貸して貰うても良い?」
『良いか? アーク』
『構いませんよ』
アークの許可を得て、エルは水晶をアヤメに手渡す。
「わぁ、光っとる。キレイやね! 喋るってどんなんかな~」
途端に目を輝かせて石を眺める少女。ひっくり返したり耳元に持って行ったりと、"喋る水晶"に興味一杯の様子だ。
「アヤメには、こいつの声が聞こえるか?」
もしやと思い聞いてみるが。
「いいや、ぜ~んぜん。光っとる以外、ただの水晶にしか見えんわ~」
「そうか……」
いかにも残念そうな声で返事が来た。アークの声を聞けるのは今のところエルだけらしい。アヤメならばあるいは、と思ったのだが。
「ほいじゃ"視て"みますか」
そんなエルの思考を余所に"占い"が始まった。真剣な表情になったアヤメは深く呼吸しながら瞼を閉じる。
そして、数秒後――ゆっくりと開いたその瞳には、ゆらゆらと揺れる虹の光芒が宿っていた。
「――水晶君から延びとる縁の糸を辿っていくで。身体に繋がっとるのはどれやろ……コレとコレは除外、っと。うーん? 不自然に薄くてよう見えんのがあるわ。数は……いち、にぃ……三本、かなぁ」
淡く灯る七色の光。この虹の瞳こそがアヤメ――占い師フォルトゥナの本領だ。
その技は"占い"と銘打たれているものの、実際のところ"あらゆるものを見抜き、辿り、答えを導く"と言う方が正しい。瞳が探り当てるのはただ事実だけ。故にその託宣は正確無比である。
「ひとつは地下、ひとつは海、ひとつは空に向かって続いとる。ん? なんやコレ、遺跡かいな? けったいな力の渦が見えるで……っと」
そこでアヤメは大きな瞬きをひとつ。途端に虹の揺らめきはかき消えた。
「ごめんなぁ、ここまでや。なんや、いいとこまで行ったんやけど邪魔が入ってなぁ……」
頭痛を堪えるような表情の少女。こめかみを揉みほぐしながら、すまなそうにエルへ告げる。
「アヤメ、大丈夫か? 変な仕掛けでもあったのか?」
以前の占いよりも負担が大きい様子だ。心配になってエルは問う。
「あー、平気平気。ちょこっと疲れただけ。でっかい扉みたいなもんが見えたけど、そこで弾かれたんよ。なんとかできないかなーって思ったけど……アレは無理無理。ごっつい封印でぎっちぎちやったわ」
手をはためかせながら告げるアヤメ。対するエルは、その内容を脳裏へ収めていく。
「そうか。だが手掛かりは見つかったよ。ありがとう。地下と海、そして空の遺跡――だったな」
「そうそう。あんだけマナが集まっとるのは古代遺跡で間違いあらへん」
道中出くわした"灰色"の言葉が蘇る。これはひょっとするかもしれない。
「しっかし陸海空の遺跡ったら、多分アレやろ、アレ」
アヤメが可愛らしい顔に満面の笑みを浮かべる。きらきらと輝く表情は、溢れる好奇心ではちきれんばかりの様子だ。
「――こりゃ世紀の発見くるかいな? とにかくその水晶君、タダモノやあらへんな!」
* * *
そうして戻った宿の一室。
「やれやれ、陸海空の三遺跡とは……。アヤメの見立てに間違いはないだろうが、また厄介なものが出てきたな」
エルはため息と共に言葉を吐き出した。
『彼女は"天星眼"ですね。あのような場所で出逢うとは』
「天星眼?」
耳慣れない言葉に聞き返すと。
『天上の星を宿し、遥かな高みより地を見通す眼のことですよ』
「ああ、なるほど」
腑に落ちる答えが返ってきた。初耳だが的を射た表現だ。森羅万象を見通す瞳に相応しい。
『こう言ってはなんですが、よくああやって普通に暮らせてますね。引く手数多でしょうに』
「もちろんいつもは"眼"を隠しているさ。あの能力のヤバさをアヤメはよくわかってるよ。変なのに目を付けられたら幽閉されかねないからな」
『賢明なことです。でも、貴女は知ってるんですね』
「以前に色々あってな。……さて」
ここからが本題だ。意識を切り替えたエルは地図を広げる。
「陸海空の三遺跡ってのは、数ある遺跡の中でも飛び抜けて謎の多い三つのことだ。一般人にも割と知られてて、多分、あの灰色仮面もこれのことを指してる」
『謎の古代遺跡、ですか』
「ああ。遺跡は大概謎だらけだが、この三つはとりわけ訳がわからん。だが、あんたはもしかしたら何か知ってるかもしれないな。心当たりは?」
『いえ……。ですが、忘れているだけかもしれません。行けば何かわかるかも』
彼の声音は悩ましげだ。色よい返事でないが、もとより期待はしていない。
「ここから一番行き易いのは、地下の遺跡、"緋の深淵"だな」
指で地図の書き込みをなぞっていく。この遺跡は以前に探索したことがある。
エルは記憶を拾い集めつつ解説を始めた。
「こいつは"ただ、そこに在るだけ"の遺跡だ。デタラメ技術の塊だが、用途不明、守護体も出ない。採集出来るような物も無い。はっきり言って探索者にとっての旨味は無いな。ま、安全だし見た目は凄いから、物見遊山の奴や学者連中はたまに居る」
『本当に何もないんですか? あの少女の言葉では、"扉"と』
怪訝そうなアークの言葉に、エルはとある噂を思い出す。それは探索者の間でまことしやかに囁かれる話だ。
「……あるいは眠れる遺跡ではないかとも言われている。実は隠れ区域があるとかな」
主に夢と希望的観測で構成された話だが、完全に有り得ない訳でも無い。偽装・封印は古代遺跡の十八番だ。
とはいえ。
「けれど、それはどう考えても眉唾ものの噂話。実際にはもう探索され尽くしていて目新しい物の無い場所だ。そんな所だが……行ってみるか?」
『ええ。駄目で元々。それに、天の星のお墨付きですから。意外と何か見つかるかもしれませんよ?』
アークの声は張り切っている。明確な手掛かりが提示されたのが大きいのだろう、かなりやる気になっているようだ。
(天の星、か)
エルの脳裏に、虹に煌めく神秘の瞳が浮かぶ。与えられたヒントは謎を抱えた三遺跡。
元より雲を掴むような話だったが、更に訳の分からないことになってきた。
(ま、しばらく退屈していたし。夢と浪漫、伊達と酔狂ってのも悪くない)
懐具合はそこそこ。商売っ気無しの探索も偶には良いだろう。
小さく微笑む。"身体探し"の旅、最初の目的地が決まった。
「では行こうか。――緋の深淵へ」
「はい! 頑張りましょう!」
* * *
かくて剣士と水晶は"緋の深淵"へと旅立つ。
探索の果て、その行く手に待ち受けるものは何だろうか?
chapter2 「魔眼と預言と天の星」 end




