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3 自責 ―Recollection and the future―

 3 自責 ―Recollection and the future―



 ★



 未だに痛む耳を抑えながら、辰久はモビリティーステーションのインフォメーションに目をやった。“本日の天気は、晴れ。気温、35℃”。示されたとおりに照りつける日差しと熱気を感じつつ、兄妹はそろって溜め息をついた。西に傾きつつある太陽でも、どうやら衰えを知らないらしい。

 ステーションから見えた白く輝く高層マンションの反射に目を細めつつ、辰久が千秋の背中を見ると、不意に妹が振り返る。

「ねえ、次はどのバス?」

 口元にソフトクリームをつけ、満面の笑みで言う千秋。手にはぺろりと平らげられつつあるコーンが握られていた。

「えっと」とグラスモニターを展開し、場所を見る。「七番線かな、たぶん」

「じゃあ、さっさと行くよお兄ちゃん」

 言って、きょろきょろとバス停を探す千秋。先ほどまでの不機嫌さはどこへ行ったのかと、辰久は肩をすくめた。

「口は拭えよ……」

 あの後――虎太郎との一件だが――辰久はなんとか千秋の誤解をといた。どうしてあんな状況になったのかと、言葉で説明するのは簡単――佳苗カスタムだと説明したグラスモニターを虎太郎に奪われ、それを奪還しようとした結末――しかし、その為にかかった時間は、三人目のナインのマスター候補を見つけ、事情を説明し、所有する9X―220RPを見せてもらうくらいだと説明すれば、だいたいの時間と苦労が掴めるだろうか。もちろん、千秋の食したソフトクリームも対価だと言っていい。

 だがしかし、それでもいよいよ次が最後――つまり兄妹ふたりは、この町にナインのマスターがいると言う所まで来ていた。

 辰久の示したバスに乗り、同心円を描く町の外側へ向かう。

 車内は適度な冷房が施され、ベタついた肌を冷たく撫でた。いつも通り最後部へ陣取った兄妹から見える乗客は少なく、高校の制服だろうブレザーを着崩した茶髪の、いかにも不良っぽい男子と、清楚なワンピースを着た黒髪の女性。それと、アロハシャツを着た青年と、クールビズに身を包むサラリーマン風の中年男性が乗車しただけだった。

 やはりここでも、誰かが誰かの連れと言う訳でもなく、会話もない。バスは静かに高層マンション街を抜け、中層階に侵入していく。

 と、突然車内で携帯の着信音が鳴った。デフォルトの音だ。もしかして、と辰久が自分の携帯を取り出すが、着信していない。そのまま千秋を見るが、妹は車窓の景色を覗いたままだ。他の誰かなのだろう。辰久が前を見れば、サラリーマンが睨む先で不良っぽい若者が携帯を取り出し、耳に当てる姿が見えた。合わせて着信音が止まる。

「もしもし。ああ……。わりぃな、今バスに乗ってんだ。次で降りて架け直す」

 言って学生は電話を切ると、降車ボタンを押した。

[次、停まります]

 そうやって学生が降車したバス停から、ふたつ挟み、アロハシャツを着た青年が降りていく。そしてさらにみっつ挟んで中年サラリーマンがバスを降りると、いよいよ車窓から覗く景色が、中層から低層の町並みに変わる。しかしどうやら、ここの低層の町並みは兄妹たちの住む町並みとは違うようだ。階層と言う括りであるなら同じだが、敷地面積と言う点で、大きく異なる。

 ごったがいした景観ではなく、立派な門扉と塀を持ち、ドンと構えた豪邸が建ち並んでいた。

「な、なにこれ?」車窓に張り付き千秋が言った。

「この町はさ、高級住宅街を持ってるんだ」たたずまいを見て、辰久が返す。

 こういった敷地を持つ個人邸宅に住んでいるのは、大抵が政治家か、芸能人。それと、ロボット企業メーカーの上層部と見ていいだろう。虎太郎の実家もこういった住宅街にあったと、辰久は思う。

「お金持ちって事?」

「概ね」

「ふーん」

 と窓枠に頬杖をつく千秋の横顔越しに、辰久は町並みに目を細めた。もし、家業を継ぐのではなく一流企業に就職すれば、こういった家を持つ事ができるのだろうか。

 肩書は利用するべきだと虎太郎は言った。けれどそれは、自分のやりたい事のために肩書を利用するべきだと言いたいのだろう。もし、こういった家に住みたいのならば、辰久も肩書を利用して、一流企業に就職し、出世すればいい。

 だが、それがしたい訳じゃない。辰久は父の背を見て育ち、父のようになりたいと思った。それでいて、家族の思い出が詰まったあの場所を、いずれは自分が守って行かなくちゃいけないと、母が死んで、思うようになっていた。そしてそれが、自分の意志だと言い聞かすようにも。

 しかし、それが正しい選択なのかと、わからなくなる。

 虎太郎は、好きな事を、好きなように、自分の力で勝ち取り、仕事にした。辰久もまた、好きな事を、仕事にした。が、その好きと言う感覚が、時折わからなくなるのだ。

 初仕事がそうだ。できる事は全てした“つもり”だ。それでも不安で、結局、責任を父に委ねた。父の太鼓判は貰ったが、もしあのまま、父親と千秋が買い物に出て、辰久が残った場合――父と同じように自らの笑顔で971を送り出していたのだろうか?

 思うと、無性に後悔した。

 もしかすれば、ロボットを送り出す事で、辰久の中にある“好き”に、一本筋が通ったのかもしれない。虎太郎と比べて芯のない自分に、誰から与えられたわけでも、影響された訳でもない、オリジナルと胸を張り公言できる意味になったのかもしれない。

 それを自ら、不意にしてしまったのだ。

 次はいつになるかわからないのに。

 辰久は深い溜め息をついた。

「どうしたの?」

 千秋の声にはっとする。

「あたしの顔見て、溜め息つかないでよ」半眼で言う妹。その眉が上がり「もうすぐナインのマスターが見つかるんだから、気合い入れてよね」と、生意気に笑う。

「気合い?」

「あったりまえじゃん。ナインを迎えに来てもらえるよう、説得しなくちゃいけないんだから」

「……わかってるよ」

 辰久は零し、バス前方を見る。黒いパネルにオレンジ色で浮かぶ次のバス停の名。それは降りる予定のバス停だった。

[次、停まります]



 ★



 辰久のグラスモニターが示したのは、一軒の豪邸。幹線道路から少し中に入った所にあった。他の豪邸と比べてもなんの遜色もない茶褐色のレンガ塀で取り囲われた敷地と、黒い鉄格子の門扉。そこから兄妹が敷地を覗けば、塀と同じ外壁を持つ一階と、二階部分へ白壁に茶色のラインを幾何学に見せるチェダー様式の豪邸だ。

 ただ、中庭を見ると、手入れのされていない庭木や、芝生。外壁には、張り付いたヘデラ・カナリエンシス(壁面緑化にも使われるツタ)が窓すら覆うように生い茂り、人の気配の希薄さを思わせた。

 兄妹は一度、豪邸から視線を逸らし、互いに顔を見合わせた。そして同時に唾を呑む。高級住宅街なのだからある程度の豪邸は覚悟していたが、どちらかと言えば幽霊屋敷に近い豪邸を目の前にし、固まってしまったのだ。

「ここだよね?」千秋が問い。

「ここだと思う」辰久がグラスモニターを通し、豪邸を横目で見た。「間違いない」

「だったらほら」

 千秋が門扉に備え付けられたインターホンを指示した。辰久に押せと言うのだ。しかし辰久は動かない。それに千秋はむっとし、兄の背中をグイグイと押した。

「ほら、押してよ、お兄、ちゃん」

「なんで僕ばっかりなんだよ。千秋が押せって」

 素早く体を入れ替えると、今度は辰久が妹の背を押した。

「インターホンを押すのは兄の役目だって、紀元前から決まってるの」

 再び入れ替わる兄妹。

「紀元前って、な、オイ、その頃にインターホンがあるわけないだろ」

「じゃあ、呼び鈴」

「じゃあ、じゃない。それに、バスの中での気合いはどこへ行ったんだよ」

「おばけと気合は関係ないの」

 言い切ってグイと辰久を押す千秋。そんな兄妹の姿に訝しげに目を細め、舌打つひとりの男性。携帯から漏れだす友人との会話に「わりぃ、また架ける」と区切りをつけ、携帯電話をブレザーの内ポケットへとしまう。

 そして、兄妹の背後に回り声を出した。

「オイ、テメェら。人ん家の前でなにしてやがる?」

 不意に聞こえた声に千秋の髪が跳ね、辰久の目が丸くなった。そして兄妹が声のした方向へ目をやると、ひとりの学生がしゃに構え、ふたりを睨みつけていた。よく見れば、バスの中で見た不良っぽい男子学生と同じ格好をしている。ただ、同一人物というわけではないようだ。黒い頭髪の――前髪を上げた表情は、鋭く、ホリも深めで、大人びていながら、野性的な印象を受ける。

「え、と……」

 と辰久が戸惑った横で千秋が学生に問う。

「あの、もしかしてこの家の人ですか?」

「あん?」学生は口元を曲げ千秋を見据える。「俺の家だ。文句あるのかよ」

 言われて千秋は首を振った。それを見て学生は「またか」と鼻で笑うと「幽霊屋敷じゃねぇから、さっさと帰れ」兄妹を押し分けるように門扉の前へ立つ。

 そして、目の前にある自分の家を眺め、溜め息をつくと、半身に振り返る。

「それとな、学校でも違うって言っとけ」

 びしっと千秋に向けられた指。それに千秋は目を丸くした。そして、若干の沈黙。

 生ぬるい風が湿気と共に空間を通り抜けても誰として動かない現状に、「ん?」と学生の眉が上がる。

「どうした。早く帰れよ」

 言われてようやく理解した千秋は、首を横に振る。

「ああ?」学生の表情が鋭くなった。「なんだ? まだなんかあんのかよ?」

 威嚇だろうが、お化けでないなら千秋が退く理由もない。

「あの、あたしたち、お化け屋敷を見に来たわけじゃなくて、ここにいるナイン」と言っても伝わらないと千秋は慌てて付け足した。「エックス、ダブルツーオーアールピーに会いに来たんです」

 ふんと鼻息荒く言い終えた少女を見下ろし、学生は首をもたげた。そして、軽く息を吐き出し、肩をすくめる。

「ダブルツーオーアールピー……、220《にーにーまる》か、懐かしい型式だな」

 まるで他人事のように返された言葉に、千秋は詰め寄る。

「ここに居るって」

 だが学生は相変わらずの態度で――

「いねぇよ。わりぃが、他を当たってくれ」

 うるさいハエを払うかのように、しっしっと掌を振った。

 その言動に辰久は確信を得る。やはりここに、9X―220RPはいない。いや、“いた”。同じように千秋も感じたのだろう。負けじと千秋が食い下がる。

「もう他は全部行ってきました」

 ピクリと跳ねる学生の眉。そこに辰久が言葉を足した。

「ロボット管理局のデータベースにある所有者を全部」

「で、最後がここで」

 そう言った千秋が言葉に詰まると学生は、難しい顔をした後、ふっと息を吐き出す。そして踵を返すと、門扉を押し開け、ふたりに言った。

「面白れぇ話だ。中で詳しく聞いてやんよ」

 ギイと軋む蝶つがい。その音がやけに――辰久には無気味に聞こえた。



 ★



 学生に導かれ、荒れ放題の中庭をレンガの通路を歩み抜ける。すると重厚な両開きの玄関扉。それをくぐると、広い木目調のエントランスホールがあった。二階へ続く階段の脇には、木製の台に飾られたヒマワリが数輪。まるで、ゴッホの絵画のようにも見える。ただ、惜しむらくは、それに光があたっていない。飾られたヒマワリも、どことなく寂しそうに見えた。

 靴を脱ぎ、家へ上がると、静けさの中不意に聞こえた穏やかな声。

「坊ちゃま」

 必要以上に驚き、髪の毛がビュンと跳ねた千秋。そんな妹を横目に、辰久が声のした方を見れば、電動車椅子のタイヤを繰り、エントランスへ姿を覗かせた痩せた老女。それでも纏う雰囲気は清楚で、清潔感のある長い白髪を襟元で纏めていた。ギンガムチェックの膝かけに目を奪われがちだが、レンガ色のワンピースの上に付けた白いエプロンがアクセントになっている。

 この人は……、と辰久が思うと同時、学生が老女へ笑みを向けた。

「ただいま。ヨネ

「おかえりなさいませ」頷くように老女――米円よねまどかが穏やかに言った。

「おう」

 と学生が返すと、円はぺこりと会釈する兄妹を認め「ようこそ、おいで下さいました」と微笑んだ。それに慌てて、兄妹は言葉を重ねる。

「お、お邪魔します」

「ちょっと、応接間使うぜ」

 学生は円の対面にある扉を指差し、言った。それに円は「でしたら」と返す。

「お茶をお淹れ致しますね」

「いや、いい。もてなしは俺がやるから、米は休んでろ」

 学生の言葉に米は一瞬寂しそうな顔を見せるが、すぐに穏やかな顔に戻り、「わかりました」と頷いた。

 そして兄妹が通された応接間。二十畳ほどはあるだろうか、赤と茶色を基本的な配色としたアンティーク家具で統一されたゴシックな作り。部屋の隅には暖炉もあり、大きな窓からは外の明かりが間接的に入って来る。ぼんやりとした世界でありながら、妙に落ち着いた空間だった。

 そこで学生は「ちょっと待ってろ」と、兄妹をソファへ腰掛けるよう促し、姿を消した。

 見た事もない広い応接間に残され、辰久の視線が情報を求めて泳ぐ。外観とは違い管理の行き届いた室内。豪華でありながらも、シックなインテリア。その中で棚に置かれたいくつかの写真立てを見つけた。

 その中のひとつにおさめられた写真には、正装に身を包み背筋を正してこちらを見据えているかのような黒髪の男性と、その脇で男性に寄り添い頬笑みをたたえる金髪の女性。そして、ふたりの真ん中で、笑顔を見せる黒髪の小さな男の子。

 また違う写真には、緑の芝生を背景に、金髪女性の膝に乗る同様の男の子。そして、その傍らで頬笑みを浮かべすらりと立つ黒髪の女性メイド。

 それを見てふと辰久は、先ほどの老女を思い出した。よく見てみれば、写真の女性メイドは彼女によく似ている。髪の色は変わってしまっているし、痩せこけていても、纏っている雰囲気は変わらない。ならば写真の男の子は、先の学生だろう。とするなら、金髪の女性は彼の母親で、男性は父親。

 学生の見た目年齢からして、これらの写真が撮られたのは十数年ほど前だろうか。

 しかしそれにしても、写真に収められている歴史は、その部分ばかりだ。現在に至るまでの経過は、ひとつとしてない。まるで、この家では時が止まっているのか、それとも跳躍しているようにも思えた。

 窓ガラスを通して、ジイジイとセミの声が遠くに聞こえる。

 ふと辰久が隣に腰掛けた千秋を見れば、妹は、ぎゅっと口を結び、じっと目の前のダウンテーブルを眺めていた。

 そんな千秋の顔が、扉の開く音がして、はっと上がる。応接間に学生が戻ってきたのだ。

 器用に片手で人数分のグラスと、もう片方の手にはプラスチック製の冷水筒を持った学生を千秋が睨めば、鼻で笑い、肩をすくめる。

「睨むなよガキンチョ。敵意ってもんは、得てして伝わるもんだ」

 諭すように言った学生は、ダウンテーブルにグラスを並べると、兄妹の対面に腰掛け、水筒のふたを押し、開けた。

 グラスに注がれていく麦茶。それが終わるのを待たず、千秋が口を開いた。

「ホントに、この家にロボットはいないんですか?」

「ん? ああ、220の話か?」

 兄妹に目を向けない学生に、辰久は遠まわしに問う。

「いや、それだけじゃなくて、こんなに家が広いのに管理とか」

「ロボットはいねぇよ。それに必要ない。なんだって人がやれば済む事だ。できねぇ事じゃねぇだろ」

 淡々と言う学生。ちょうどグラスみっつに麦茶が注がれた。

「ま、麦茶だが、飲めよ」コトリと水筒がテーブルに置かれる。「で、外の続きだ。220を探してるって言ったな、俺が睨まれなきゃいけない理由含め、聞かせてくれっか」

 言ってソファにもたれかかり足を組む学生。クイと上がった口角からは、自信――と言うより、好奇心が覗いていた。



 ★



 兄妹の説明は順を追ったここまでの経緯だった。それは簡単に、ナインを見つけ、ロボット管理局のデータベースから所有者リストを洗い、登録されている住所地を全て当たったという事だった。

 それを聞いて学生は、「へぇ」と零し、手に持っていた麦茶入りのグラスをダウンテーブルに置いた。

「そういう経緯があったわけだ。不法投棄の220ね――それにしてもご苦労なこった。本当にリスト全員確認して回ってたとは……。けどな、残念だがそのロボットはウチのじゃねぇ。確かにここにゃロボットはいねぇが、見ての通り俺はまだ高二。マスター権限を持てる年齢じゃない。睨まれんのも筋違いだ」

 見ての通りと言われて、辰久は内心肩をすくめ、眉をひそめた。年上でも同い年でもなく、年下なのに、なかなか高圧的な物言いだ。しかしもし、彼の言う通り高校二年生だとするなら、年齢的に十六か十七。それならばマスター権限を持つことのできる成人、十八に至っていない事を意味する。

 すなわち彼は、ナインのマスターに法律的にも、物理的にも成りえない。

 しかしそれは、彼の言葉を鵜呑みにするならば――

「一応、国民IDで確認させてもらえませんか」辰久が切り返した。「年齢」

 それに学生はむっとしたが、ブレザーの懐から革製のカードケースを取り出し、辰久の前へ滑らせる。

「見てみろ」

 そっけない言葉を受けつつ、辰久が学生の差し出したカードケースを手に取り、カード状の国民IDを見れば、学生の顔写真の隣に記された名前――竜泉寺智樹りゅうせんじともき――そしてその下には生年月日。

 確かに、満年齢で十七。嘘じゃない。

「ありがとう、ございます」辰久は国民IDをテーブルにそっと戻した。

 それを見て、学生こと――竜泉寺智樹が、クッと笑う。

「今の年齢を確認してどうするつもりだったんだ? もし俺を疑ってんなら、“当時”の年齢を確認すべきだろ? 理解したか?」と頭を傾げ、千秋を見下ろす。「ガキンチョ」

 今度は千秋がむっとした。

「マスターが、あなたじゃないってのはわかった。でも、この家に住んでるのってあなただけじゃないですよねっ? お父さんとか、お母さんとか、家族とかっ」

 千秋の言葉に、智樹はあっけらかんとした表情で「ふぅん」と鼻を鳴らす。

「ま、そうなるだろうな」

「そうなるって、そうでしょ?」

「わりぃが、お前らが根拠にしてんのはロボット管理局のデータベースだろう。そのデータが間違ってるとは欠片にも思わねぇのか?」

「思いませんね」間髪入れず辰久が噛みついた。

「ああ?」なに言ってんだ。と智樹の表情が険しくなった。鋭い睨みが辰久を射抜く。

「お兄ちゃん……」

「思わないと言ったんです」前かがみに、伏せ目がちになっていた辰久の目が、逆に智樹を射た。「今のロボット社会に置いて、ロボット管理局の保有データは根幹ですよ。税金にしたって、ロボットの犯罪捜査にしたって、そこが引用されてる」

「だから?」眉間に皺を寄せつつ、斜に構える智樹。

「もし、あなたが言う通り、ここに今ロボットがいないとしても、ここに9X―220RPが“いた”と言うのは、認めますよね」

「だから、データが」

 間違っていたら。そう智樹に言わせることなく辰久が強い語気で言う。

「認めますよね」

 ぐっと迫って来るような言葉に、智樹の険しい顔が不貞腐れるように曲がり、視線が下に逸れた。そして学生は大きく息を吐くと、肩をすくめて見せた。

「ああ、認めるよ。確かに昔、この家には220がいた。だが、今はいねぇ。とうの昔に処分されたよ。マスターだったオヤジにな」

 ようやく出てきたマスターへの手掛かり。千秋が食いつく。

「やっぱり、お父さんがマスター」

 少女の声に見開いた目を向け、智樹はもう一度嘆息した。

「そうだ。が――お前らがマスターを探してなにをしたいのかわからねぇが、オヤジはもういない」

「え?」

 千秋が止まる。それを見てか、智樹は一度口元を結び、唇を舐めると、緩やかに言った。

「死んだよ。220を処分してすぐ、海外出張へおふくろと出て行った先で、一緒に事故で死んだ。それ以来、肉親は誰ひとりいねぇ」

 まさか、と辰久は息を呑んだ。しかし、棚に飾られている写真を思い返せば、その通りなのかもしれない。智樹と彼の両親の写真が、幼い頃から更新されていないのは、もう、写すべき被写体がいない事を示す。それは、辰久の母の写真が、これから先増えていかないのと同じだ。

 だとするなら、マスターが既に死んでいたとするなら――

 ロボットとマスターの関係について思考に潜る辰久。その隣で千秋が、安易な仮定を口にした。

「だったらその処分が、不法投棄だった」

「オイ」ぎろりとした智樹の睨みが千秋を射た。「言っとくけどな。ウチは処理費用をけちるほど落ちぶれてねぇし、不法投棄の処罰を知らねぇわけじゃねぇ。なんの利益があるってんだ? 百歩譲ってオメェらの言うように、オヤジがトチ狂って220を不法投棄していたのだとしても、その後の事故死――マスターが不慮の事故で死んだ場合、ロボットのマスター権限はどうなるんだったよ?」

 聞いて「うっ」と言葉を呑んだ千秋。そんな妹に目もくべず辰久は顎に指を添えたまま、智樹への答えを淡々と告げた。

「抹消され、ロボットは国によって回収される」

 聞いて智樹が鼻を鳴らした。

「よく知ってんじゃねぇか。死亡届が受理されればその時点で国民IDが消える。それとリンクしてロボット管理局も動くだろ」

 そこまで言って智樹は、兄妹に首を傾げて見せ、更に続ける。

「だとしたら、ロボット管理局のデータに、ウチにあった220の記録があるはずがない」

「え? どういう事? お兄ちゃん?」わからないと、千秋が辰久を見る。

 それに目を向けずに辰久は、眉間を寄せ、智樹が示唆した自分たちの根拠の揺らぎを、口にした。

「データベースが間違っている……」いや、逆に考えるべきだ。データベースは間違っていない。それであって、智樹の主張が矛盾なく接合する場合ケースは――更に辰久の思考は巡る。

 だが、険しい顔をして沈黙した辰久を見て、智樹の口角がクイと上がった。そしてククと笑うと、前のめりに言った。

「だから言っただろ。俺も、俺の家族も、少なからずお前らが捜しているマスターじゃねぇ」

 その言葉で、辰久の中に閃くものがあった。そうだ、まだマスターの可能性の残る人物がいるじゃないか。

「確かに、そうですね。疑ってしまってすいませんでした」

 力なく言ったのが良かったのか、それとも負けを認めた事が良かったのか、智樹は得意げな笑みを浮かべ、麦茶のグラスを手に取り、グイと飲み干す。

「お兄ちゃん……」

 千秋が辰久のつなぎをクイと引っ張った。不安の表れだろう。だが、それを払拭させるように辰久の口が動く。

「ところで」

「あん?」智樹片眉が上がる。

「先ほどの方は、お婆さんですか?」

 違うのはわかっている。もしそうだとしたら、一気に問題は解決だが、写真の写り方からして――

「ああ、米か。俺の生まれる前から住み込みで家の世話をしてくれている家政婦だ。まあ、婆ちゃんかって聞かれたら」と自慢げに言った智樹の表情が、はっと一瞬固まった。「って、テメェ、まさか米を疑ってんじゃねぇだろうな?」

 ビンゴ――辰久が内心ほくそ笑む。

「住み込みなら、住所地はここになるはず」

「はっ」吐き捨てるように笑う智樹。「何を言うかと思えばくだらねぇ。米が220のマスターのはずねぇな」

「どうして?」辰久が問う。

「米はなぁ、無責任に物を捨てたりはしねぇ。それより、ロボットを持った事がねぇんだから捨てようがねぇだろ」

 兄妹へ叩きつけるように、ガンと智樹の持ったグラスがテーブルへ。そこからぎろりと上がる学生の双眸。それに千秋は気押されながらも、言いたい事を口にする。

「けど、もしかしたらあなたに隠して」

 が、それが智樹の逆鱗に触れた。獣が唸るように紡がれる明らかな敵意。

「黙れよガキンチョ。それは確信を持って言ってんだろうな? ただの憶測でこれ以上米を悪く言うつもりなら、ガキだろうが容赦しねぇ」

 ギュっと固めた右こぶしを見せつけるように千秋の前へ突き出す。しかし、千秋は退かなかった。じっと智樹の目を見据え、言葉を紡ぐ。

「でもずっと、ナインはマスターを待ってるんです」

「待っていようがなんだろうが、米はマスターじゃねぇ。ここに220のマスターはいねぇ。それがわかったんだ、殴られたくなければ、口を噤んでさっさと帰れガキンチョ」

「米さんと話をさせてっ」

 食い下がる。だが智樹は首を縦には振らなかった。

「聞こえなかったか? 帰れと言ったんだ!」

 声を荒げ叩きつけられる拒絶。もう彼には取りつく瀬もない。なにを言っても“帰れ”を連呼するだろう。兄妹のできる事はした。まだ足りないと言うなら、明日か、明後日か――日を改めるべきだ。

 しかし、これでいいのかと辰久は己に問う。

 違うだろう。ここで諦めたらそれは、朝の――971を送り出せなかった――自分じゃないか。せめて、もう少し……、頑張れるはずだ。

 考察する。

 智樹は円の話題になると感情を出してきた。特に、ロボットを捨てた事に関して、食ってかかって来る。もしかすれば智樹は、真実を知りたくないと、駄々をこねているのではないか。人がロボットを捨てる理由――それを彼は、薄々感じ、肥大させているのではないか。

「君は――」辰久が言った。

「ああ?」智樹の顔が怒りでゆがむ。

「君は何を怖がっているの?」

「なっ?」

 図星。それを見て続ける辰久。

「もしかして君は、米さんがロボットに――」

「止めろ!」

 言うが早いか、智樹が辰久の胸倉を掴み、グイと引き上げるのが早かったのか。ダウンテーブルのグラスが倒れ、転がり、同色の天版の上で麦茶が広がった。

「それ以上言ってみろ」睨む智樹。

「殴るんだったら殴ればいい」見据えた辰久。「けど、君の思ってる事が、真実とは限らない」

「クソがっ」

 言って智樹が振り上げた拳。そこへ、すうと入り込むように、優しく、穏やかな声が流れ込んできた。

「坊ちゃま」

 時が止まったような錯覚だった。応接間へ車椅子を繰り、現れた円は、穏やかな表情でありながらも、どこか影を落としているように見える。そんな円の顔をようやく認め、智樹が名を零した。

「米……」

 それに目礼で応えた円は、頭を下げ、言った。

「不躾とは思いながらも、お話を聞かせていただきました」

「あの」と千秋が声を出す。なにを問いたいのかは、決まっていたが、それを継ぐ前に円が瞑目した。

「わかっております。あなた様方がおっしゃるとおり、わたくしがロボットのマスターです」

 聞いて千秋は両手を己の胸に添えた。「やっぱり……」

 それと同時、智樹の両手が力を失い辰久から離れた。そしてぽつりと、学生は言葉を零す。

「本当なのか? 米が、220のマスターだなんて」

「はい。そうです」智樹に向け円は頷き、その後、兄妹へ目をくべる。「そして、お客様がおっしゃっていた9X―220RPは、坊ちゃまが旦那さまから処分したと知らされているあの220です」言って再び円の双眸が智樹に向いた。「それを知りながら――今まで隠しており申し訳ありません」

「でも、あん時のマスター権限はオヤジのはずだろう? どうして米が」

 疑問が爆発しそうだと、智樹の目が言っている。怯え、怖れ、それに混じった哀しみ。全ては裏切りと思ってしまう心が、疑問を生んでいた。しかしそれを全て円は受け止め、輝きを失わない目で、頷いた。

「そうですね。話せば長くなります。それでも?」

「ああ……、聞かせてくれ」頭を抱え、ソファに腰を落とした智樹。

 それを見て円は瞑目した。

「それでは――」



 ★



 日本列島大震災からの都市再編が概ね完了し、諸外国との関係が悪化し始めた年。輝かしい太陽の季節が終わり、冬へと繋がる一時の秋。穏やかでありながらも、寂しさの漂う空の下。手入れの行き届いた竜泉寺家の庭では、まだ幼い黒髪の少年と、銀色に輝くボディの9X―220RPが、芝生の上で赤いゴムボールを投げ合っていた。

 それを二階の書斎から見下ろすひとりの男性――常に背筋を正し、折り目正しいシャツを纏った黒髪の男は、竜泉寺家の当主、竜泉寺正臣りゅうせんじまさおみ。智樹の父だった。

 大きな格子状の窓に手を添え、複雑な表情をガラスに映した正臣は、眼下で笑う我が子を見つめながら、バリトンの声域で背後に佇む人影の名を呼んだ。

「米」

「はい旦那様」

 応えたのは円。レンガ色のワンピースドレスにエプロン姿といった装いで、すらりと立ち、黒く長い髪を後ろで丸く纏めている。そんな円に正臣は「どう見る? 智樹を」と、ちらりと目配せし、窓際に立てと促した。それに円は歩み寄り、外で遊ぶ智樹を見下ろし――そして答える。

「はい。元気に遊ばれていると」

「ロボットとな」

 言って正臣は目線を智樹から切った。そして、書斎の主とも呼べる重厚なウッドデスクへ歩むと、英語で綴られた文面に視線を落とす。題名は[About dependence and Pygmalionism to the robot.]。内容は、日本のヒューマノイドに対する明らかな批判だ。けれど、全くもって否定できない内容でもあった。

 それを噛み締め正臣は思いを零す。

「良かれと思い、ロボットを購入したが――少しなつきすぎだ。これ以上ロボットと遊ぶようなら、愛着が過ぎる」

「それは……」円の表情が少し曇った。

「人はやはり人で、ロボットはどこまで行っても物だ。それがわからなくなる」

「けれど、感情が育つ上であれば」

 現にあのロボットがこの家に来て智樹の笑顔は多くなった。感情としても笑う事の方が多い。しかし正臣は、円の苦言を一蹴する。

「犬猫とは違う。身なりが近いせいで思いがちな、人の代役と考える」

 言って正臣は窓を見た。いや、正確には窓の向こうに220と戯れる息子の姿を思い出しているのだろう。そして、眉間に皺が寄る。

「わかるだろう米。ロボットは何でも言う事を聞く。拒む事をしない。子供のどんな我がままだって文句を言わずだ。このままではロボットに依存し、智樹がダメになる。友人を作らなくなる。人付き合いを面倒と感じてしまう前に、あれは処分する」

「しかし、成長されれば坊ちゃまだってロボットがどういったものか」

「なら、その時に買えばいい。マスター権限を得る事ができるのは成人と認められた時だ。十八、その時必要だと言うなら、止めはしない。だが今、人格形成の段階で、智樹にロボットは必要ない」

 言い切られた言葉に、円は返す言葉がみつからない。正臣が告げた事は正論なのだ。それに、ハウスキーパーとして勤める自分は、提案はできても、主人の決定に拒否はできない。それをぐっと押し殺し、円は穏やかな語調で承諾した。

「わかりました。手続きを進めておきます」

 聞いて正臣の顔が円に向いた。

「悪いな。米。智樹の事で仕事は増えるだろう。だが、これが智樹のためだ」

「いえ」軽く頭を振る。「元よりわたくしの役目で御座います」

「再来週、妻を連れて私は長期海外出張で家を空ける事になる。それまでに頼めるか」

「はい」

 頷いた円を見て、正臣が頷く。

「米が所有者マスターでなくば、手続きに不都合があるだろう。マスター権限は米に譲る」



 ☆



 竜泉寺家の一室。八畳ほどの室内にバランス良く配置されたベッドと簡単なデスク、クローゼット、ドレッサーと木目調で統一された家具と――フローリングの床に敷かれた淡いブラウンの絨毯。出入り口の反対側にある出窓からは、中庭が太陽の光で輝いているように見えた。

「マスターコード認証完了。国民IDを読み取っています――完了――ロボット管理局へ情報を転送します。――了承――ワタシに関する命令権限・所有権は全てアナタに移動しました」

――円に与えられたこの簡素な部屋で、直立した9X―220RPは新たなマスターを認め、チイとアイカメラの絞りを調整した。そんなロボットを凛とした表情で見据え、円は主人から処分しろと告げられたロボットの名を呼ぶ。

「9X―220RP」

「はいマスター」

 応える220に、円は瞑目し首を横に振った。その返しは、いただけない。見開き、諭すように言う。

「この御屋敷の中では今まで通り、私の事を呼びなさい」

「了解。この敷地内では、マスターを米様とお呼びします」

「ええ。そうしてちょうだい。それと、この事に関して誰にも口外しないように」

 これだけは絶対に守って。と念を押すように円の目が若干鋭く絞られる。それを眼前のロボットが悟る事など出来ないだろうが、先に発した命令は、220にとって絶対的な命令となる。

「了解。マスターの変更について口外しません」

 復唱。それを220が終えると、扉の外、屋敷の廊下を子供が走る音がする。

「よーねー。どーこー? にーにーまる知らなーい」

 無邪気に、無作為に発せられている言葉。それを聞いて円は安堵した。命令を終えた後でよかった。ここでの会話は智樹へ届いていないだろう。

 そして入り口扉へと流れていた焦点を220へ移し、命令する。

「坊ちゃまが呼んでいます。いつも通りの対応をなさい」

「了解。米様の指示通りに」

 220が頷くと、彼の背後で扉が勢い良く開き、智樹が顔を覗かせた。

「あ、一緒にいたんだ」

 とてとてと駆け寄る智樹を米が優しく見下ろす。

「坊ちゃま」

 円の言葉に目もくれず、智樹は220の腕を引っ張った。

「にーにーまる、またキャッチボールしよう」

 そんな智樹に応え220のアイカメラが見下ろし、チイと鳴る。

「了解。坊ちゃま」



 ☆



 次の日――竜泉寺家のダイニングに集まった家族。テーブルに並べられた朝食を囲み、父、母、智樹が食事をとる傍らで円は、正臣の背後に立つ220を見つめていた。

 やはり、正臣の言う通りなのかもしれない。改めて智樹とロボットを眺めていれば、一緒に居る時間が極めて長い。それは、正臣よりも、円よりも、誰よりも。しかもそれは智樹が望んでのことだ。なにをするにしてもロボットを呼び、行動しているようにも見える。

 誰かに甘えたい年頃だと言うのはわかる。だが、ロボットは“誰か”には成りえない。

 けれどそれは……。

 思い、円の視線が下がった。それを横目で見た正臣は、口に付けたコーヒーカップをテーブルに置き、息子を見て言った。

「智樹」呼ばれ、小さな目が正臣に向く。「今日は父さんと野球を観に行かないか?」

「え? ホント?」

 野球と聞いて、口に運ぼうとしていたフレンチトーストが止まった。

「ああ、会社の人からチケットを貰った。どうだ、行くか?」

「うん!」瞳を輝かせ智樹が頷く。

 それを微笑み「よかったわね」と、優しく智樹を見つめる智樹の母。金色の髪に、エメラルドグリーンの瞳を持つ竜泉寺ミリアへ、智樹の不思議そうな表情が向いた。

「お母さんは?」

 いかないの? と向けられた問いに答えたのはミリアではなく正臣。

「もちろん一緒に」

「あら、私も?」と目を丸くしたミリアだったが、すぐに微笑み「だったら、お出かけの準備をしないとね」と、ミルクの入ったグラスを手に取った。

「じゃあ、米とにーにーまるも?」

 父を見て智樹が言うと、正臣は首を横に振った。

「いや、ロボットは球場へは入れない。あと米には“用事”を頼んであるから」正臣の目が円に向いた。「それをやってもらうつもりだ」

「そっかぁ」智樹がつまらなそうにフレンチトーストを頬張る。「まんめん」



 ☆



 急に言いだされた野球観戦。それに出かけていった正臣たちを玄関で見送り、円は思う。

 智樹が戻る前に220を処理しなければいけないという事だろう。それは正臣の示したせめてもの優しさなのか、それとも――

 と、そこで円は頭を振った。考えても仕方がない。

 円は自室へ戻り、クローゼットから白いファーのついた深い茶色の外套を羽織ると、デスクの上にある大きめの茶封筒を手に取った。その中身は昨晩準備しておいたロボットの廃棄処分に必要な書類一式。そして、背後に佇むロボットへ、振り向きながら言った。

「出かけますよ、9X―220RP」

「了解。米様」

 220を外へと連れ出した円は、ロボットと共に路線バスに乗り、モビリティーステーションへと向かう。やはりまだ高級品であるヒューマノイドは珍しいのだろう。行き交う人の目が、220を見ては、ひそひそと声がしていた。それに気づきながらも円は口元を結び、前を見据えた。

 凛とした姿で改札をくぐり、円が目指す先はロボット管理局――そこまでの“道筋”は既に調査済み。記憶を辿り淡々と分岐点を踏んで行く。時折チラリと肩越しに、220を見れば、智樹の笑顔が円の脳裏を過った。

 もし、このままこのロボットを処分した場合、智樹の笑顔はどうなってしまうのだろうか、と。

 そうやって円の思考は、己の抱く重力に引かれ、下へ下へと――日の光が届かない場所へと呑みこまれて行く……。

 やがてその思考が苦痛に変わり始めた頃――目的地のある町のステーションへ吹き込む風に、円は目を細めた。



 ☆



 幾何学的でありながら表情のない無機質な役所と似た構造を取るロボット管理局の正面玄関をくぐり、円はエントランスホールに立った。こちら側と事務所を隔てるカウンターには、受付であろうスーツを纏った男性が、ロボットを引き連れてきた円を見て、目を丸くしているのが見えた。その理由など円には関係ない。受付を見据え円は、リノリウム製の床を歩み、男性の前に立つと、外套の懐中から封筒を取り出し、カウンターの上へ滑らせた。

 これを出してさえしまえば。

「廃棄の手続きを、お願いします」

「え、あ、はい」

 言って受付は封筒を手に取ると、中を見た。決められた書式に必要事項が記されている。しかし、と目を円の傍らに立つ220へ向け、視線を円に戻した。そして――

「しょ、少々お待ち下さい」

 そう言いながら受付の男性は、円に椅子へ腰掛けるよう促し、書類を持ったまま慌てて席を立った。その後ろ姿を目で追う円。手続きには時間がかかるのだろうかと、珍しく小さな嘆息を見せる。

 そして、カウンターに残された茶封筒へ視線を落とした。

 遠くで聞こえる声。それに耳を傾けることなく、円は己が思考に潜った。いや、どちらかと言えば思考を放棄しようとしたのだ。思考が苦しみを生むのならば、そこから逃げたとしても誰も責めはしない。けれど、円の中でざわめく思い。それは超自我の生み出す、焦りに似たようなものだ。

 その感情に揺られ、円の時間は、随分と長く引き伸ばされた。

 受付の男性が戻ってきたのは、数分後の事。「米様」と名を呼ばれ、目線を上げると少し男性の様子がおかしい。確認のためにと持って行ったはずの書類も持たず、代わりにハンカチを額に当て、あせあせとしながら「あちらの応接室で対応いたしますので」と、左手を上げ、その先にある扉を示した。

 それを目で追い認めた円は「わかりました」と一言。立ち上がり、歩み、示された扉をくぐる。

 するとそこは確かに応接室の名にふさわしい場所――竜泉寺家のものと比べては失礼だが、小さな部屋にソファとダウンテーブルという簡素な応接セットが配置されていた。

 そこで、先ほどの書類に目を通していた黒いショートヘアの女性が、上目遣いに円を認め、几帳面に書類を整えるとソファから腰を上げた。

「米、円さん?」

「はい」

 答え、円は女性の差し出した右手を握りつつ、その女性を見た。黒いタイトスカートにパリッとしたブラウス。その上に羽織った白衣が、事務員には見えない。どこか、研究者といったカテゴリへ所属しているように円には映った。

 握手を終えると、その女性から腰掛けるようジェスチャーで促された円が対面に座る。改めて背筋を正した円の背後に寄り添って立つ220を白衣の女性は一瞥すると、その視線を下げ、きゅっと口を結んだ円を見て言った。

「本日は、その9Xタイプを処分されたいとの申請ですが……、その手続きにあたり、いくつか質問をよろしいでしょうか?」

「質問、ですか?」ロボットの廃棄には、書類と国民IDの提示で事足りるはず。それなのに、質問?

「ええ」女性は頷き、ダウンテーブルの書類をトンとつついた。「書類としての不備はありませんでしたが、個人的にいくつか」

「個人的に?」

 と、思わず円の眉が少し跳ねた。それに白衣の女性は微笑む。

「実を言うと私は、ロボットのAIを制作したチームの一員で――石原いしはらと申します」

 聞いて円は内心、研究者と見立てた事に狂いはなかったのだと、呑みこむ。そんな円に石原は言葉を続けた。

「まだ一年点検も迎えていない9Xタイプを処理されるとの事に、製作者としていくつか気懸りな点がありまして――もしかしたらロボットの思考行動に、なにか不備があったのではないか、と――もし、その為に処理されるのだと言うのでしたら、具体的なエラー報告をしていただきたいのですが」

 あくまでヒューマノイドフレームではなく、AIとしての不備。そう説明する石原に、円は首を横に振った。

「いえ、特には」

 それを聞いて、石原は口元を怪訝に曲げる。

「ではなぜ? 9Xタイプを処分されると?」

「それは……」幼い子供の――智樹の心を奪ってしまう恐れがあるから……。

 いや、それは自分たちの怠慢が生んだ可能性に過ぎない。ロボットに任せ過ぎて、おのずから歩み寄りを止めた結果だ。このロボットの処分にしても、自分たちは動かず、近いモノを排斥して、距離が縮まったように思おうとしているだけではないのか。

 それは……。

 それは――

 唇を結び、口をつきそうな結論を呑みこむ。そして、噛み締めるように言った。

「個人的な理由です」

 聞いて石原の視線が書類へ落ちた。

「そうですか……」と、表情に寂しさが浮かぶ。だがそれは一瞬。「それでは、手続きを進めていきます」

 淡々とした語調へと転換された石原の声と共に、テーブルには一枚の書類が提示された。同意書と命題された文面に円の注目が向くと、石原が言葉を続ける。

「が、その前に形式的な確認をひとつ」

「はい」

「ロボットを破棄する場合、今まで蓄積してきた全ての記憶は破壊されます」

「記憶を、破壊……」

「ええ、プライバシー保護の観点から、そう決まっています。ですからもし、保存しておきたい思い出があるなら、抜き取ってからの手続きをお勧め致します」

 思い出……。まだ一年にも満たないロボットとの思い出――自分としては少なく、繋がりも薄い思い出だが、智樹にとっては密度として濃い。いや、誰よりもロボット自身のそれが、最も――それを、失う。それは責任転嫁のなれの果て――自分勝手な人間の業ではないのか。

 円は振り返り、無言で立ち続ける220の顔を見た。どう思うかの表情などある筈がないのに。けれど、そんな不安を孕む主人の瞳を見て、ロボットは言葉を出力した。

「どうされました? マスター?」

 ゾクリとする感覚。それは怖れではなく、むず痒く心の中を通り抜ける言葉。

「いえ……、なんでもありません」

 そう言葉を返した円を見て、石原は鼻から息を抜く。そして――

「米円さん」

 名を呼んだ。

「なんでしょう」

 視線を正面へ戻す円。そこには微笑を湛えた石原が、ダウンテーブルの書類を円に向けて押し出す姿があった。

「ここは事務的な場所です。正式な手続きを持って申請されれば、私どもはその9Xタイプを処理いたしますが、今日のところは、お帰りになられた方がよろしいかと」

「それは、どういう」意味で言っているの?

 怪訝の眼差しが、石原を射抜く。それを上目遣いに石原は受け流すと、背筋を伸ばし、口角を上げた。

「個人的な理由と述べられた割に、未練があるように思いましたから」

 それだけ言うと腰を上げ、白衣を揺らし、円の脇で立ち止る。

「もし、私の言葉が老婆心であるなら、もう一度この書類を受付へ提出してください」



 ☆



 書類を入れた封筒を抱え、円はモビリティーステーションの回廊を歩んでいた。行き交う人々から向けられる好奇の眼差しを受けながら、220を連れ、ロボット管理局からの帰路にある円は、とある分岐へ差し掛かった。そして、その足を止める。

 左手の通路へと進めば竜泉寺家のある町へ着く。しかしこのまま、220を連れて帰るわけにはいかない。“今”このロボットは、あの家に必要のない物だ。けれど――書類を提出する決断もできなかった。

――個人的な理由と述べられた割に、未練があるように思いましたから――

 未練……。いや、迷い。

 揺れる円の瞳――

 今は、考える時間が欲しい……。

 円は竜泉寺家へと続く通路に一瞥をくれ、違う通路を選択した。

 どこか別の目的地があった訳ではない。どこへと決めた訳ではない。ただ、220を従え、モビリティーゲートをくぐり、いくつかの分岐を踏んで、どこかの町の、どこかへと向かうバスに乗った。

 町の端へと辿り着いたバスが折り返す前に円は降車し、更に町の外側へと繋がる林道を認めた。立ち入り禁止の立て看板から奥へと続く木々のトンネル。そこへと足を踏み入れ、歩み進めば、やがて見つかる分かれ道。それを左へ曲がり――緩やかなカーブ、下り坂、そして今度は上り坂。するとそこには公園があった。

 人から忘れ去られた廃墟とも取れる公園――人の出入りも、動物の出入りもない空間――塗装がはげ落ち錆の浮いた鉄柵に囲われ、敷地内には同様に風化したジャングルジムや滑り台。それにブランコ。隅の方には砂場の跡らしき地面に縁どったあとがあった。

「ここならば……」

 少し前まで雨でも降っていたのだろう。歩む度に靴が重く感じる。だが、そうやって刻まれるはずの足跡はない。誰かや、何かが立ち寄った形跡を見定めるように円は公園内を進み、その中心で振り返った。

「9X―220RP」

「はいマスター」

「ここで私の指示があるまで待機なさい」

「了解。指示があるまで待機します」

 9X―220RPの復唱に円は、なにも言わず目を伏せて、ロボットの脇を掠めて抜ける。こういった命令が、自分の我儘だと、心のどこかで思いながら。



 ☆



 野球観戦を終え、智樹たちが帰宅したのは夜の帳が下りた頃だった。夕食を外食で済ませ、途中で寄ったスポーツショップで父正臣が買い与えた野球のグローブを手にした智樹。有名選手と同じモデルのそれは、まだ幼い智樹の手に余るものだが、それを嬉しそうに左手にはめ、「ただいまー」と玄関に跳び込んできた。

 それを出迎えたのは円――ただひとり。

「おかえりなさいませ」

 微笑みかけた円へ智樹がグローブを掲げ「お父さんに買ってもらったんだ」と興奮で頬を染めた後ろには、優しく我が子を見るミリアと、厳しい目で円を見据えた正臣がいた。

 処分は出来たのだろうな?

 その意が籠められた当主の視線に、円が目線を逸らすよう頷くと、正臣もまた、頷いた。そして――

「智樹」

 と、息子の名を呼ぶ。が――

「にーにーまるぅっ! お父さんがグローブ買ってくれたよっ!」

 円の脇をすり抜け、もうこの家にはいないロボットを探しに駆けだした。

 今まで心地よかった世界が変わる境目は目に映る事がなくとも、子供は敏感に感じ取るものだ。いや、目に見え、失った事を理解できるなら、感じるまでもない。

 どれだけ家の中を探してもロボットは見つからない。歓喜と興奮に満ちていたその表情が徐々に不安と、焦燥に変わる。そして、皆のいる玄関へと戻ってきた。

「よね、にーにーまるは?」

「それは……」

 切実な智樹の声に円が口ごもる。そこに正臣は、先ほど言いかけた言葉を我が子へ向けた。

「220は捨てたよ。処分した」

 聞いて智樹の目が見開かれた。一瞬、何の事か理解できなかったのだろう。けれど、“捨てた”という単語を脳内で反芻し、ロボットがもうこの家に居ない事を理解する。

「うそ、だよね。お父さん」

 父へと歩み寄る息子に、正臣は首を横に振る。

「なんで、なんでにーにーまるを捨てちゃったの!?」

 感情全てを吐きだすかのような智樹の叫びが玄関に響いた。それを正臣は受け止め、息子と同じ目線の高さになるよう屈むと、智樹の震える両肩に手を置き、言った。

「智樹。ロボットは物だ。使えなくなったら処分するのが当然だろう」

「使えなくなったって、どうしてさ! にーにーまるはキャッチボールだってできるし、絵本だって読んでくれる。お父さんやお母さんがしてくれない事を、たくさんしてくれるのに!」

 悲しみと怒りの混じる叫びに、ミリアは目を伏せた。だが正臣はじっと智樹の目を見て偽りなく言う。

「それは米がしてくれる」

「だけど、にーにーまるだって」

「坊ちゃま、米とでは嫌ですか?」

 円の声に、智樹は目を逸らす。

「そんなことない。けど……」

 けどと濁った言葉の後に、どういった思いが続くのか。それを思い、円の唇が動く。しかし、声にはならない。円の中にある迷いが、それをさせてはくれなかった。ロボットを処分しなければならない使命と、それに従うべきかの間に立つ苦しみにもだえながら――ただその想いだけ、気持だけを無色の息として吐き出す。

 そんな円を視界の隅で認めた正臣は立ち上がると、今にも泣きそうな智樹を見下ろし言った。

「智樹。お前も来年は小学生だ。人と遊び、学校の友達と思い出を作りなさい」

「お父さんのバカっ!」

 言って家の奥へと走り去る智樹の背中を目で追う事しかできない円に、正臣が「お前が、気に病む事はない」と、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。



 ☆



 ロボットとの別れは、智樹の生活から笑顔を消した。円がボールを持ち智樹の好きなキャッチボールへと誘っても、智樹は首を振り、家から出ようとはしない。母親とは今まで通りの距離感を保ち会話するものの、正臣とは明らかな壁が隔たりを生んでいた。

 和気あいあいとした雰囲気が、一日にして、いや、たったひとつ――ロボットの消失によって竜泉寺家から失われてしまったのだ。それは最初からロボットなどなかった方がよかったのだと後悔させるほどに。

 しかし、過ぎた出来事は、戻りはしない。どれだけ科学技術が進歩しても、時は遡れない。できる事と言えば、大災害から復興した町のように、時間をかけて、元通りではない新たな世界を構築するしかないのだ。

 その為には、やはり時間が必要なのだろう。

 けれどそれでも修復できない時は――

 ある日の夜、誰の目にもとまらぬよう円は竜泉寺家を抜けだし、照明片手にあの公園へとやってきた。

 暗闇と静けさの中、月光が220のボディを銀色に輝かせている。スリープ状態でありながらも直立を崩さない220へと歩み寄った円は、ぽつりと声を発した。

「9X―220RP」

 するとアイカメラに緑の火がともり、チイと音が鳴る。そして円を認めた220は「はいマスター」と次の言葉を待つ。

 吹き抜けた風と共に流れた沈黙。サワサワと木々の葉が鳴き、やがてそれも静寂へと変わる。

 今日ここに円が赴いたのは、ロボットを処分するためでも、連れて帰るわけでもなかった。220にこの上なく我儘な命令をしにきたのだ。

「誰かに会いましたか?」

「いえ。誰も来ていません」

「そう。もし、特殊コードを告げられた場合、私の名前を出し連絡先を伝えなさい。旦那様や坊ちゃまの事は決して、口にしてはなりません」

「了解――」

 と復唱する220に、円は更に告げる。

「いずれ必ずあなたを迎えに来ます。それはいつになるのかわかりませんが、坊ちゃまが成人される頃には必ず。それまで、ここで……、我慢して――」



 ☆



 その後、両親は予定通り出張のため海外へ。母ミリアの抱擁を受け、智樹は両親を見送った。それでもやはり父である正臣へは何も言わず、「行ってくる」と言った父の言葉を無言で聞き流し、円の手を握るだけ。それを正臣は咎める事もせず、妻へ目配せすると、子供に背を向けた。

 それから一週間の間、円は智樹を寝かしつけた後、様子を見ては220を待機させた公園に足を運んでいた。「変わりはないか」と同じ質問をし、「異常ありません」という回答を聞いては、頷き、背を向ける。それは、ロボットに対する罪滅ぼしだったのだろう。自分の時間と労力を割き、ロボットを忘れないでいる事に謝罪の念を込めていたのだ。

 だがその日課も、ある日を境に暗転する。

 未だ正臣たちが帰宅しない中、竜泉寺家の電話が鳴った。

 水周りの仕事をしていた円がベルを聞き、エプロンで両手を拭いながら受話器を取ると、片言の日本語で残酷な事実が告げられた。

 そう、正臣とミリアが滞在先であるフランスで事故に遭い、死亡したと言う。

「旦那様と、奥様が……」

 すうと血の気が引いていく感覚。受話器に添えた指先がしびれ、吸い込もうとした息が止まった。

 まるで時間でも止まってしまったかのような円の姿を見て、電話のベルに呼ばれ近くまで来ていた智樹が不思議そうに円の名を呼ぶ。

「どうしたの、米?」

 その声に円は現実に引き戻された。はっと息を吸い、智樹を見下ろす。受話器の向こうからは「お気ヲ、確かニ」と漏れだしてきているが、円はその受話器を電話台へ置くと、屈み、智樹の両肩を掴んだ。震えそうな腕を堪え、なんとか気丈に振る舞うと、怪訝に傾げられた智樹の顔を見据え、つばを呑んだ。

「坊ちゃま、お気を確かにお聞きください――」

 淡々と、できるだけ平静を装うように、円は智樹へ事実を告げた。

「う、うそだ。お母さんが、お父さんが……」

 くしゃくしゃになりそうな智樹の表情から出た言葉も、それ以上は言葉にならない。代わりに大粒の涙が溢れ出し、大声で泣いた。それを円はギュッと引き寄せ、優しく腕に抱いた。そして――

「米がおります。米がおります」

 何度もその言葉を繰り返し、独りぼっちになってしまった智樹を、自分の全てをかけて守っていこうと誓ったのだ。

 それからというもの、円は智樹の両親であり、ハウスキーパーという役目によって忙殺されて行くことになる。もちろん心のどこかでは置き去りにした220を気にかけていたのだろうが、その優先順位が上位になる事はなかった。

 全ては智樹のため。自分の時間は智樹のために。

 盲目にも思える献身的な円によって、智樹は小学生になり、中学生になり――時を重ねることで、哀しみを乗り越えていった。そんな中、笑顔の戻った智樹に友もでき、家へ連れて来た時は、胸をなでおろしながら、密かに涙した。

「立派に、御成長なされましたね……」

 時を跨ぎ、ようやくそう思えた円だが、その代償は大きかった。蓄積された疲労が元々丈夫でなかった足に牙を突き立て始めた。智樹が高校へと進学する年、いよいよその症状は悪化し、自分の思い通りに動かなくなっていった。

 それからというもの、円の老化が加速されたかのように髪は白く色が抜け、体も痩せていく――それはもう、円自身が一日一日と過ぎ去る時間を、残酷なものだと感じてしまう程に……。

 そんなある日。円は車椅子を繰り、智樹の部屋を訪ねた。

「坊ちゃま」

「おう、米。どうした?」

「これを」と差し出したのは辞職願。それを見て智樹の顔が一瞬強張った。

「米……、本気か?」

「はい」ゆっくりと頷く。「もうこの足では、ハウスキーパーとしての役目を全うできません。これ以上、坊ちゃまへご迷惑をおかけできません」

 円が告げた言葉は、紛れもない事実。この足では二階の清掃などできはしないし、庭の手入れすら不可能だ。それにもし、自分がいなくなれば、新たなハウスキーパーを雇う余裕もできるだろう。さすがに円の給料を支払いながらでは、両親の残した遺産も底をつく。

 なら、自分がいなくなれば――

 しかし智樹は、円の差し出した辞職願を受け取ると、破り裂いた。

「あのな米。米はもうハウスキーパーじゃねぇ。俺の大事な家族だ。迷惑だなんて言うな。居てくれるだけでいい」

「坊ちゃま……」


 ――そして時間は、辰久たちの時間へと――



 ★



 智樹に語られた、知らなかった過去。それは一時、脳裏に描いた事を否定してくれるものだった。辰久が言った言葉が、智樹の中で繰り返される。

 ――君の思ってる事が、真実とは限らない――

 確かに、そうだった……。ふっと息を抜き、智樹は伏せ目がちになっていた円に言葉を向けた。

「理由はよくわかった。よく話してくれたな」

「いえ。いずれはと思っておりました」

 それを聞いて智樹はソファへ大袈裟にもたれかかり脱力すると、木目調の天井を見上げ、呟くように言う。

「成人したら……、か。まったく……」

 馬鹿正直すぎだ。と口角を上げる。

「申し訳ありませんでした」

 しかし、そう言った円は、どこか思いつめているように見えた。秘密を暴露し、ようやく解放されるはずであるのに、この顔は、辞職願を持って来た時の顔によく似ている。責任を果たせなかった事に対する――いや、無責任な行動を取ってしまった事に対する処罰を望む顔だ。

 円は昔から、責任というものに執着しているようにも思える。だから、それなら、円を本当に開放するには責任を全うさせなければいけない。

 智樹は背筋を直し、唇をきゅっと結ぶと円を見据え、うな垂れたままのハウスキーパーに雇用主として端然と言った。

「今それを責めるつもりはねぇ。だが、責任は取ってもらう」

「はい。覚悟しております」

 円の顔が上がる。智樹を見返す瞳には、例えどのような処罰であろうとも、といった想いが見て取れた。それに一度瞑目し、嘆息し、智樹は兄妹の方を見る。

「おいガキンチョ」

「え?」不意に呼ばれて千秋の髪が跳ねた。

「僕たち?」と辰久も疑問符を飛ばす。

 それに智樹は表情を緩めると、「ああ」と口元を少し曲げ、ふたりへ頭を下げた。

「さっきは怒鳴ったりして悪かった。謝りついででなんだが……、米と一緒に“にーにーまる”を迎えに行ってくれないか」

 聞いて円は、口元を抑え智樹の横顔を見た。そして零れ出る言葉――

「坊ちゃま……」

 かすれてしまいそうな、それでいて安堵に満ちた円の声のあと、千秋は「うん」と満面の笑顔で頷く。それに辰久も微笑み智樹へ言った。

「わかったよ。けれど君は?」行かないのかい? と少し、意地悪に口元を曲げる。

 そんな質問へ智樹は立ち上がると、照れくさそうに後頭部を掻きながら円たちに背を向け、鼻を鳴らした。

「俺はな、ちょっと、探しもんがある」



 ★



 円の車椅子を辰久が押し、千秋が小走りで森のトンネルを行く。零れる木漏れ日はもう赤味がかりはじめて、時間経過によってかすれつつあるエアーマーカーの記しが、その輪郭を失いつつあった。それを千秋が指差しながら、嬉しそうに「こっち、こっち」と茂みに飛び込んで行く。

 結局、千秋はロボットが欲しかった訳じゃない。きっと、独りぼっちという悲しさを、敏感に感じ取っていたのだろう。彼女とて、母を失い、孤独を知っているのだ。家事を担うと言いだして、千秋の時間は幾分制限された。それは逆に、他との時間を失う事になる。遊びたい盛りの子供に、それをすべて任せていた事――それが、少女の心を締めつけていたのだろう。

 ただ千秋は、それを弱音として見せなかった。ナインを引き取ろうと提案した時、自分の代用品として、ロボットを求めてはいたが、それよりも、ずっと待機を命じられ、それに従っていたナインを、誰かの傍へと強く願ったのだ。できる事ならマスターに、それが無理でも――と。

 辰久は、いつもいつも気丈に振る舞っている妹を思い、父へロボットの購入を提案してみようかと思った。それはどこかの国の科学者が提するヒューマノイドへの依存などではなく、ロボットをはじめとする物へのクリエイティブな発想として――。

 かねてから物へと求められた利便性と言うのは、人が堕落をするために求められたものではない。括りとしては同じなのかもしれないが、物事に対する効率化を図り、個人の時間を作り出せるものだ。それを有意義に使えるのであれば人は、人生の中で限られた時間の何パーセントかを、自由な時間として還元できるのではないだろうか。

 もちろんそれは、ロボットへと任せてはいけない部分もある。それを理解できているのであれば、人は更に笑えるのではないか――辰久は、千秋の後ろ姿を見て、感じた。

 するともう辰久の眼前にはナインの待つ公園が――

「ナイン。マスターを連れて来たよ」千秋がナインへ駆け寄り、グイと腕を引っ張った。そして入り口付近へと指をさす。

 それにナインはチイとアイカメラを鳴らし、ぼやけたままの人影に目を向けつつ、千秋に問うた。

「マスター、を?」

「うん」と頷く千秋。

 その頃ようやく、アイカメラの絞りが焦点を捉える。そこには、辰久に車椅子を押されながら近づく円の姿。それがナインの回路をめぐり、メモリーへ――幾重にも重なり、何度も繰り返してきたスライドショーに浮かぶあの人物。姿形は変化していても、瞳の奥に見せる彼女の“色”は変わらない――照合――完了。

「9X―220RP」

 ナインの前で、見上げるように円が220の名を呼ぶ。それにロボットは静かに、片目でしか捉えきれない主人の影を認識し、言葉として返した。

「はいマスター」

「わかるの? 私だって」

「はい。少しお年をお召しになられましたか?」

「ええ、少し」と伏せられた円の目。「ごめんなさい。ずっと、迎えに来れなくて」

「いえ。ワタシはマスターの命令であれば、いつまででもお待ち申し上げます。――それに、期限にはまだ幾分の余裕が御座います」

 付け足された言葉に円の顔が上がった。ゾクリとする感覚――ロボット管理局でも感じた、心の隙間を優しく撫でられるような感覚――それに円は、込み上げる思いで喉を震わせ、右手をナインへ差し出した。

「帰りましょう。坊ちゃまがお待ちです」

「了解――」

 復唱。そして歩み出されるナインの足。ギギギと軋み、揺らぎ、それでも円を見据え、進み、そして辰久を見た。

「ワタシが、代わりましょう」

「ああ」と車椅子から離れる辰久。

「ありがとうございます」とナインが頭を垂れ、動く右手を車椅子の取っ手に添えた。そして器用に転回させると、フレームを軋ませ、一歩、また一歩と歩み出す。

 それに千秋は回り込む。

「あ、ちょっと待ってナイン」

「何か?」

「そのまま帰れる? 大丈夫?」

「駆動系に大きな問題はありません」

「けどっ」

 と言いかけた千秋を辰久は制した。

「ナイン」と名を呼び、辰久はつなぎのポケットから一本のグリスチューブを取り出しながらロボットの傍らに立った。「グリス。関節にしてあげるよ」

「ありがとうございます」ナインが言った。

 聞いて辰久は屈み、脚部の関節へ重点的に注しながらロボットと、そのマスター円へ言葉を向けた。

「でもこれは応急処置だから……、けど、もしよかったらさ、ウチ、ロボット修理工なんだ。だから、米さん。メンテナンスにおいでよ。ナインを――9X―220RPをさ、新品みたいに、直してみせるから――“絶対に”」

 最後の言葉を噛み締めるように辰久は言った。それは、もう、一人前のロボット整備技師としての自覚を携えた言葉。それを感じ、受け止め、円はひとつ頷くと、辰久へ微笑み、優しく言った。

「ええ、必ず。近いうちにお邪魔させていただきます」



 ★



 ナインが神谷板金へとやってきたのはその次の日の事だ。辰久に委ねられた9X―220RP――それをシャットダウンし、ガレージに吊るした。そして、油で汚れた手袋を新しい革手袋へと交換し、マルチドライバーを手にした辰久は、ナインを見上げ、気合いを入れた。

 丁寧に外装をはがし、全てを分解。パーツひとつひとつを見分し、見定めていく。それは途方もない作業――それでいて、人であるからこそ見極められる繊細な作業だった。

 朝から始まったフルメンテナンスは、夜を跨ぎ、夜明けを迎えると、ようやくバラバラだったナインの形が、人型を模してきた。それはまだ外装にまで手は及んでいないが、ナインの面影が浮かぶ。

 見ればあの時ナインへ組み込んだ無線充電式のバッテリーがボディのフレームの影に覗き、新品にした伸縮性の配線が寄り合わされた脇で、確かな存在感として認められた。それに辰久は微笑み、四肢のギミックを取り付け始める。

 額に浮かぶ汗。それを拭い、手際良く進む作業――外装を磨き上げ、鏡面加工を施す。頭部のアイカメラや冷却関係のシステムも最新の物へと取り換えた。フルメンテナンスの予定だったが、どこかもうオーバーホールに近いのかもしれない。

 そして最後に、ナインの頭脳、ナインの記憶であるAIボックスを、そっとボディへ差し入れ、配線を繋いでいく。丁寧に、的確に。それは辰久が今持てるだけの全てを込めた仕上げとして、納得できる――いや、誇る事のできる仕事の仕上げとして。

 それが成されたのは、午前九時十七分。

 ガレージのシャッターを開け放ち、差し込んできた日差しに包まれたナインは、文字通りピカピカに輝いて見えた。そしてその立ち姿を舐めるように確かめた辰久は、ナインの正面へ戻ると、込み上げてくる達成感に拳を握った。

 その時――まるで、そのタイミングを見計らったかのように住居へと続く扉が勢い良く開き、千秋がひょこっと顔を覗かせた。

「できた? ナイン」と辰久へ駆け寄る千秋。

「ああ」辰久は満足げに笑い。クイと顎でナインを差した。「どうだ? 完璧だろ?」

「うん。凄い。新品みたい」

「じゃあ、再起動だ」

 言って辰久はナインのうなじ――首筋に触れる。そこが、起動スイッチ。

 すると、ナインのアイカメラが点灯し、ヴーンとバッテリーの振動が微かに鳴った。そして、チイと兄妹を緑の目が捉えながら、セルフメンテナンスチェックが、音もなく行われた。それは、あの時の再起動とは明らかに異なるスムーズなウェイクアップ。

 それでも一応辰久は、ナインへ言葉を向けた。

「おはようナイン。何か異常はある?」

 それにナインは首を振った。

「いいえ。全て正常です。けれど少しスペックが向上しているようにも認められますが」

「ああ、それはね」と辰久が肩をすくめた。「いくつか最新のものに交換したから――その為の誤差修正は以前のものに合わせて出力調整してあるから問題ないと思うよ。まあ、もしフルスペックを使いたい時は、体を慣らしながら、ナインが調整すればいい」

「了解。整備技師殿メカニカルマスター

 言われ、辰久はどこかむず痒い。けれどそれを感じられる事が、自分の成長なのではないかと辰久は、鼻の下を擦った。これでようやく、自分の好きに一本筋が通ったのだ。

 そんな辰久を見上げ千秋はふふっと笑う。そして――

「よかったね、ナイン」

 と、笑顔を向けた。その仕草にナインが応えようとした時、シャッターの方から声が飛んでくる。

「おっ、本当にピッカピカじゃねぇか」

 どこかひねくれた物言いの声。その主は誰かと見るまでもない。約束だと正午にやって来る筈の男――智樹。辰久たちが振り返れば、円の車椅子を押した智樹の姿と、その傍らには東児が腕を組んで立っていた。予定より早くやってきた依頼主をガレージへと案内したのだろう。そんな父の無骨な顔――けれど口の端は見守るように上がり、何も口出しはしないと言っているようだ。

 辰久はそんな東児からナインのマスターである円へ目を向けると、胸を張り、作業の終了を宣言する。

「ちょうど今、作業は終了しました」

 聞いて智樹が笑う。「よかったな、にーにーまる」

「はい。旦那様」

「え?」と、辰久と千秋の目が丸くなり、智樹へ向く。それに“坊ちゃま”改め“旦那様”は、不機嫌そうに眉間へ皺を寄せた。

「ああ? 呼び方を変えさせちゃいけねぇのかよ?」

「いや、別に」と千秋が半眼を向ける横で辰久はククっと笑い、「いいんじゃないの」と肩をすくめた。

 それに円は優しく微笑むと、膝かけの中から野球のボールを取り出しロボットの名を呼ぶ。

「9X―220RP」

「はいマスター」

 とアイカメラを向け応えれば、円から差し出される白球。

「これは?」とナインが問う。

 と、智樹がまだ新品に近い、既に引退してしまった野球選手モデルのグローブをはめて、バンと打ち鳴らした。

「やろうぜ久々に。キャッチボール」

 智樹の言葉にナインの目が円に向く。その意味を汲み取るように円は頷いた。そんな円の仕草を見て――その目の色を読み、その意味を、ナインは守り続けられたメモリーから行動を引用する。それはまるで、人と人が瞳で語り合う姿に近い。

 ナインの回答を待たずシャッターの外へと向かう智樹。

 それにつられ、外へと向かう千秋がナインを手招く。

 東児の大きな掌で、頭髪をぐしゃぐしゃと撫でられている辰久。

 そして――

 微笑む円からナインは白球を手に取った。



「了解――マスターの指示通りに」



 I think about――[完]



 読了ありがとうございます。藤咲一です。

 今回、この作品で空想科学祭に参加させていただくのは三回目となりました。

 まずはやはり、今回の企画運営に携わられた方々と、ここまで私の作品を読んで下さった皆様に、感謝を……。と、平伏、平伏でござりまする。

 さて、今回の“I think about――”も楽しみながら書かせていただきました。設定とか世界観を考えている時が一番幸せ。膨らむ妄想が、もう、執筆する指が追いつかないくらいに膨らんで行って、あの文字数……。

 ちょっと反省してます。

 けど、そういったこだわりが書けるのって楽しいですよね。だから後悔はしてません。

 読者が離れてしまうかもしれないと思いながらも、書いてしまう。仕方がないですよねぇ。私ですもの。

 まあ、なんだかんだとそれなりに長くなってしまって、つらつら色んな思いが入り込んだ物語。

 本音を言うなら、第4のパートがあったりもするのですが、それはこの企画の趣旨と言うか、今の時期には不相応であると判断しました。ですからたぶん、それをこれから書く事はないと思います。

 別に、時間の都合でとか、めんどくさくなったわけじゃないんですよ。

 ただ……、ね。

 私の場合、ハード(?)SFを書こうとすると、構想の中にどうしても、暗い部分が出てくるわけなんですよね。

 ある種の極論と言うか、殺意の波動や、暗黒面みたいな感じの毒が。

 それはやはり、世界の延長であるから、人の暗黒面を想像してしまうからなのだと思うのですけれど、明らかな敵意として展開しかねない訳です。それもまた、作品の魅力であるとは思います。でも――

 敵意や悪意を主とした正論は、あくまで筋が通っているだけの話で、そういった理論展開が必ずしも正しいとは限らないんじゃないかなって、少し思いましてね。

 チラシの裏に書いてから、丸めてポイ。

 もともと組み上げたプロットじゃ、第4のパートはなかったものですし、企画作品としては、これで完結なのです。

 ですから、ありゃ? あの伏線らしきものは? って読了後に思われた方々には、本当に申し訳ありません。

 でももし、そういった部分を脳内補完していただけたり、この物語で何かを感じ、何かを考えていただけたのであれば、私は幸せ。両手を上げて、小躍りをします。


 あ、気持悪いとか言わないで……。

 目線を、目線を逸らさないでぇ……。


 すいません。やっぱりこんな感じになってしまいました。

 けれど、こんな私の言葉につきあっていただき、本当にありがとうございました。


 ホントに長ーくなってしまったこの後書きまで読んでいただけた事が、なにより私の喜びです。

 それではまた、いずれどこかでお会いできる事を夢見まして、ここら辺りで失礼します。


 藤咲一でした。

11/07/30

追記

 誤字脱字の指摘をいただき、本当にありがとうございます。

 推敲した“つもり”だった自分が恥ずかしい。

 普段なら企画終了後に訂正をと思っていましたが、その数に顔から火が出そうになりました。コレは実に見苦しい。

 ということで、ご指摘いただいた部分や、それ以外にも誤字に関しましては発見次第訂正していく予定です。

 それでは、この度はありがとうございました。

11/08/16


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