1 邂逅 ―Robot in forest―
被災されました皆様へ、心よりのお見舞いを申し上げますとともに、一日も早い復興がなされる事をお祈りいたしております。
1 邂逅 ―Robot in forest―
広葉樹が枝葉を伸ばす森の中――月影のスポットライトを浴びて、ひとつの人影が顎を上げた。
見上げた空は、周囲の枝葉を額縁に見立て、さながら絵画のように映る。群青色に見える夜空で煌々と中心を得る満月――いや、本質を見れば、空のカンバスに塗られた下地は暗闇なのだろうが、月から降りそそぐ光は淡くぼやけ、空に青みがかった波紋を広げていた。
毎日、いや、毎秒に変化する切り取られた空を、かれこれどれほど眺めてきたのだろう。
一年過ぎ、二年過ぎ――大きく変わる事のない時を跨いだ。過去の記憶をたぐり、己の中で展開すれば、映像の下に数字として浮かぶリアルな日付。
スライドショーのように画像をめぐり、過去へ、過去へと遡って行く。やがて、自分から遠ざかって行く人の後ろ姿。
それを見て、感傷に浸るわけではない。ただ、忘れていない事を確認したのだと思う。
けれどそれが――彼の中で僅かに残っていた時間を、ゼロにした。
★
オイルの臭いが漂うガレージ。外へと続くシャッターは腰高まで開けているが、空間にしみついた臭いはそう簡単に濯げるものではない。
それはわかっている。
それに、普段はそこまでこの臭いが嫌いなわけじゃない。と、灰色のつなぎに身を包んだ黒髪の少年――神谷辰久はスンと鼻を鳴らし、けど、と視線を落とした。
コンクリート舗装がされた床。そこに落ちる影はふたつ。ひとつは辰久、もうひとつは床から少しだけ浮かぶように鉄骨の梁から鎖でつるされ、ぶらりとうな垂れる人型ロボットの影。そこから目を逸らそうか躊躇うが、辰久は目線を徐々に上げ、舐めるようにロボットを見ていく。
シルバーメタリックに磨き上げられたフレーム状の下肢――爪先まで行きとどいた細やかな伸縮配線が、人間で言えば骨盤にあたるフレームに集約されて、背骨を辿り、甲冑のような外装の下、強固な肋骨に守られた中枢部へと繋がっている。
下肢と同様に輝く腕を見れば――繊細な作業もこなす指先から、練り上げられるように太く束ねられていくアクチュエータギミックと配線が、絡まりながら肩へと巡り、両脇を伝って中枢へと集まっていた。
うな垂れた頭はゆで卵のようで――光沢を持つ樹脂でコーティングされた顔面には、深緑のアイカメラと、発話機能と連動するマウスギミック。
シルエットは成人男性とほぼ同じだが、人間とは明らかに違う姿のヒューマノイドを一通り眺めると、辰久はひとつ大きな溜め息をつき、両手にはめた黄色い革手袋を弱々しく外した。
その時――
「おにーちゃーん、朝ごはんだよー」
トタトタと駆け寄る音と声に、もうそんな時間かと振り返れば、住居へと続くアルミサッシの扉が勢いよく開いた。
「ごはんだよー」と顔を出したのは、少年の妹――今年で小学五年生になる神谷千秋だ。赤味がかった髪を両脇で縛り、Tシャツの上に着たカーキ色のオーバーオールが良く似合っている。
「ああ、うん。わかった」辰久は手袋をラックに放り投げる。「で、父さんは?」
「お兄ちゃん待ちだけど」
どうやら父は、しびれを切らして妹をこちらによこしたらしい。辰久は千秋の頭にぽんと手を乗せ「ごめん」と苦笑した。しかし、年の離れた妹は頬を膨らませ、兄を上目で睨みつける。
「いつまでも子供扱いしないで」と、頭をブンブン振る千秋。「それに、せっかく綺麗にしたのに、汚れた手で触んないで」
ぐしぐしと自分の頭を撫で直す妹に、辰久は眉を寄せる。汚物扱いか僕は?
しかし、それを考えた所で、断言されるよりかはましだ。と兄は肩をすくめた。
「はいはい。手、洗ってから行くからさ。先に食べててよ」
「ちゃんと石鹸使ってだかんね」
言って兄を指差した千秋がガレージから出ていくと、辰久は投げ遣りに「はいはい」と首を振った。
一応、妹の言いつけどおりに手を洗い、顔を洗った。洗面台の鏡に映る自分の顔を確かめると、目にかかりそうな前髪を触り、そろそろ切らないと学校がうるさいかな、と踵を返した。そして、家族が待つ食卓へ。
そこでは千秋が配膳をしていて、兄妹の父親である神谷東児が食卓の上座にドカリと座り、丸太のような腕を組んで瞑目しながら全てが整うのを待っていた。
「おはよう父さん」
席に付きながら辰久が言えば、東児の片目がぎろりと開き、遅れてやってきた息子を射抜いた。
「おはよう」
低い声。それに怒りはこもっていない。ただ、この父親と言うのは、職業柄なのか、それとも生まれつきなのか、職人気質で口数も少なく、子供ですら威圧する物腰なのだ。それを知らない辰久ではないし、千秋だってわかっている。これが、普通なんだと。
「はい、お兄ちゃん」
「お、ありがと」千秋に差し出された茶碗を受け取り、食卓に置けば、本日の朝食――ご飯とみそ汁、目玉焼き――千秋モーニングセットが完成した。
「いただきます」東児が手を合わせ、箸を取る。それに合わせて辰久と千秋も手を合わせた。
「いただきます」
「いっただっきまーす」
辰久がみそ汁に口をつける。と、妙に懐かしい味がした。
「あれ? 千秋。味噌の配合変えた?」
「うん。ちょっとだけだけど、赤を増やしてみた」
「そっか」
溜め息のように辰久が零し、みそ汁に浮かぶ影を眺めていると、それを見た千秋が、ふひひと笑う。
「似てた? ママの味に」
「あ、うん。だよね父さん」
同意を求める視線が父を見れば、椀の脇から覗く東児の頬が緩みを見せた。
「ああ。よく似ている」
「やったー」
家族が三人になって二年。仏壇に母親の写真が供えられるようになってからは、千秋が神谷家の台所を守ってきた。まだまだレパートリーは少ないが、味は折り紙つきだ。良い嫁に行くだろうと、辰久は思っている。まあ、時折行き過ぎる気の強さは、良い嫁のカテゴリに該当するかどうかは別の話だろうし、それもまだ先の話だろうと、思う。
それより今、辰久が気になっているのは、ガレージにつるしたヒューマノイドの事だ。
神谷の家は、昔ながらの“神谷板金”という屋号で、ロボット修理工を生業としていた。個人経営なので、住居と作業場が隣り合わせの小さな修理工場だ。先ほどのヒューマノイド――22X―971PEは、依頼主から定期診断を請け負った機体で、辰久が手掛けた初めての仕事だった。国立ロボット工学高等専門学校に通う学生の身分である辰久だが、先週、国家資格であるロボット技師免許を最年少の十八で取得――その祝いに任されたのが、最新鋭機体のメンテナンスだった。そのため、さきほどまで夜通しの最終チェックをしていたのだ。
それを父は知っている。けれどそれに東児が触れてこない事に、辰久は箸を止めた。
「ねぇ、父さん」
「ん」
「あのさ、ガレージの971だけど」
「どうした?」
「本当に僕でよかったの?」
「どしてだ?」東児の箸が止まり、辰久に鋭い目が向く。
「いや、その。まだ学生だし……」
「免許は持っているだろう」
「でも、初めてだったから、上手くできたか」
自信なさげに下がる視線。それを見て父親は、溜め息をひとつ零し、瞑目した。
技師免許を得るには一定水準を超える技術と知識を持たなければいけない。免許を得た辰久にはそれがあるはずだ。機械好きの素人と商業として扱うプロとの違いである絶対的なそれらが。――しかしまだ、経験からくる自信が足りないようだ。
「わかった。引き渡しは昼だ。それまでに俺が一応見ておく」
「お願い、します」
俯くように頭を下げた辰久。だが、批難は千秋から飛んでくる。
「えーっ! パパ、今日は休みだから、これからあたしと買物だって言ったじゃん。約束破るのっ?」
「ん」と、東児の口元が曲がった。忘れていた訳ではないのだろうが、ばつの悪そうな顔をして、辰久を見る。
「代わりに辰久と行って来い」
「え? 僕が?」
「えーっ!? お兄ちゃんと!?」
兄妹の声が重なった。そして顔を見合わせ「なんで?」とユニゾンし、父を見た。兄の目は“これから眠りたい”と言い。妹の目は“兄とはイヤだ”と言っていた。しかしそれらを父は一蹴する。
「ロボットのためだ」
言われ、「うっ」と息を呑んだ兄妹。しばらく沈黙したが、父の目は一度発した言葉を呑みこみそうにない――やがて仕方ないと、了承がわりに食事を再開した。
★
見上げれば真っ青な空。太陽が輝き、入道雲がもくもくと空を飾っている。吹き下ろした風はまだ季節らしい熱気を孕んではいないが、やがて局地的猛暑と呼べる気温をかき回すのだろう。その原因は、日本国政府が打ち出した全国規模の都市再編整備。
居住区と商業区、それと工業区・農業区を清々しいくらい分けた。それもほぼ町単位で。それが顕著なのが居住区と工業区。工業区はすし詰めのように区画を成し、居住区は高層マンションを主体として、円形の町をいくつか形成していた――もっと詳しく言うのならば、町の中心にあるステーションから同心円を描くように高層マンション群、中階層、低階層と、遠くから見れば歪な円錐をシルエットとして見せる町が、日本中に点在している。
その影響を受け、ヒートアイランド現象が毎年の夏を例外なしの猛暑に仕立て上げていた。気持ばかりの緑地化で、街路樹や公園などが設置されているものの、焼け石に水だ。日が高くなれば蜘蛛の巣のように町に走る幹線道路のアスファルトが、陽炎揺らめくフライパンに変わる。照り返しも、地獄だ。
だが、町を行く人影はほとんどがヒューマノイド。明確な命令をマスターから受けて動いているのか、それともロボット払いとして適当に外を出歩かされているのかわからないが、表情を持たない彼らは黙々と、銀のフレームに太陽を反射させながら、町を闊歩していた。
少なくとも、人が移動するときは、道路を走る電気自動車か、国営の路線バスを使うのが常とう手段となっている。のだけれど――千秋と辰久は、ヒューマノイドに混じり、アブラゼミが合唱を始めた街路樹の並ぶ歩道を歩いていた。
買い物と聞いて、辰久はあまり面白い物じゃない。年頃の妹と一緒に行く買い物は特にそう思う。せめてロボットのパーツか、家電製品を見に行くのならば若干の興味はあるが、ファッションとか、スイーツとかにはてんで興味がわかない。それに、そう言った場所に集まる女性たちの輪へ入って行くのが億劫でしかたなかった。つまり、異物として見られ、好奇の目にさらされるのが嫌なのだ。
合わせて、辰久にとっては午前中であっても容赦なく降り注ぐ太陽光も辛い。めまいに似た錯覚を覚えながら、フラフラ――それでも先を行く千秋を見失うまいと、妹の傍まで小走りに近づいたのだが――
「あんまり、近く歩かないでよ」顔をしかめる千秋。
その仕打ちがこれだ。
「仕方ないだろ、父さんの言いつけなんだ」
「それでも」ぶすっとしながらすたすた進む千秋。「誰かに見られたらどうすんの」
「誰かってなんだよ。別に、兄妹だろ。それにしてもどこに行くんだ? ショッピングタウンに行くんじゃないのか? ステーションなら逆」
千秋からの返答はない。それに溜め息を零し、一向に平屋の並ぶ低層区域に目を向ける。はっきり言って、低層区域は中間層よりも少し裕福な人が住む。大抵の場合、一軒家を持て、エレカーを維持できるだけの財力を持っていると言う事だ。同レベルの経済状況であれば、ステーション周辺の高層マンションに住む事も可能なのだろうが、意外とこの区域も人気らしい。
だが、同区域に居を構える神谷板金は、そうではない。個人的なガレージを持つためにこの区域を選んだ。たまたま似たような物好きが少なく、ここら一帯のメーカー修理に至らないロボット定期点検・修理を神谷板金に一任してくれるのだから、結果的にそれなりに安定した収入を得る事ができるのだけれど、学生として、子供として、エレカーなしの生活をするには、少し辛い。
もし、こんな所で商売をして儲かると言うなら、駄菓子屋か、喫茶店くらいだろう。そして、実際に商売をしているのもそういったものだ。と辰久が思い当たる店舗を思考の中で羅列していくと、ぽんとひとつ、この付近にある店を思い出した。
「なあ千秋」
「なによ」
「友引さん家に行くのか?」
「な!?」っと千秋の縛られた髪が一瞬跳ね上がったように見えた。「なんで、そう思うの」
「いや、何となく」
すたすたと先に行く妹に兄は首を傾げて見せるが、千秋は振り返らない。
「行かないのか? 違うのか?」辰久が聞きなおす。
するとぶっきらぼうに千秋は言った。「そうよ」
しかし、どっちの意味か理解できない。辰久は立ち止り、首をひねる。
「ん? 行かないのか?」
「はあ? そこに行くって言ってるじゃん」苛立っている。それがわかる言い方だ。けれど辰久は溜め息をひとつ。
そして、立ち止った位置から脇道へ横目を向ければ、千秋の目的地である“友引さん家”こと、“喫茶ジャンクロイド”へお客を導くホログラフの看板が見える。エメラルドグリーンの縁取りがされ宙空に浮かぶその看板を、辰久は指差し、妹をからかうように言った。
「そうか、だったら戻ってこいよ。もう過ぎてる」
再び千秋の髪が跳ね上がった。立ち止り、俯き、振り返る。恥ずかしさからか、耳たぶは真っ赤だ。
それを見て兄はケタケタと笑った。
だが少し、笑いすぎた――口を一文字に結んだ妹は、兄をかすめるように脇道へ入る途中。握った拳を、辰久の鳩尾に――
「ぐはっ」
叩きつけられ、苦悶に歪む兄の顔。これでは良い嫁になれるはずがないと、少女の背中を涙目で睨みながら弱々しく追った。
喫茶ジャンクロイドは、住宅地の奥まった所にある。幹線道路から看板の示す矢印を辿り、時折エレカーの車幅すらない細い道を行けば、まるで迷路と思う事もある。しかし、種明かしを言ってしまえば、それは店主の趣向であって、看板に頼らなければもっとわかり易い道もあり、店舗にあってはしっかりと駐車場まで完備しているのだ。店長曰く「迷った先で見つけた喫茶店からドラマは始まるものじゃないかな?」だそうだが、実際に迷ってきた客はいない。本当に、趣味の店なのだ。
兄妹も、看板を横目に違う道を進み、ログハウス調の正面を持つ友引さん家に辿り着いた。
最大で五台止まる駐車場を通り、木目の浮かぶ扉を引き開けると、冷房の利いた空気が外と混じり、カウベルの乾いた音が出迎えてくれた。その音が、外装と同じ木目調の店内に響けば、カウンターの向こうから、ぬうと、眼鏡をかけた線の細い男性がエプロン姿で顔を出す。
「あ、いらっしゃい」
「お久しぶりです。おじさん」
店主である友引忠司へ辰久が挨拶する横を、千秋は俯き加減に通り抜け、一番奥のカウンター席に座った。それを見て忠司は、小声で辰久に耳打つ。「千秋ちゃんどうしたの? 機嫌悪そうだけど」
「いや」辰久は苦笑し「さっきからあんな感じなんですよ。今日ここに買い物に来るって話聞いてました?」
言いながら辰久は目を肩越しにやる。ジャンクロイドは元々喫茶店なのだが、店内の窓際――普通ならボックス席がある場所が拡張され、雑貨やアクセサリーが陳列されたショーケースや棚が並んでいる。忠司もロボット工学を習得したひとりで、昔は大手ロボットメーカーに勤めていた。そこを辞め、今では気ままにロボット等のジャンク品を扱いながら、そこから雑貨を作ったりしている。最近ではもっぱら看板娘の友引佳苗が製作しているせいもあり、女性心をくすぐる可愛い雑貨が大半を占めていた。
「僕は聞いてないな」忠司が眉根を揉む。「佳苗、呼んでこようか?」
ちらりと、千秋をふたりが見ると、頬杖をついたまま「おじさん。ブレンドちょーだい」不機嫌な注文が飛んできた。
「はいはい」忠司がコーヒーサイフォンを準備し始める。カチャカチャと、こぎみの良い音が、有線のクラシックに混じった。やがて、一通りの作業を終えたのか「ちょっと待ってて」と兄妹に残し、バックヤードに消えた。
未だに引かない汗。それを辰久は袖で拭い、雑貨スペースを見て回る事にした。特に今、なにかが欲しい訳じゃない。けれど、千秋の傍に座る事を、なんとなくだが敬遠したかった。
そうやって当てもなく商品を見回る。と、ショーケースに並ぶジャンク品――そう言ってしまえば語弊が出る――両手のひらに乗るほどの青白く四角い電池。最新式の無線充電バッテリーに目が止まる。
こういった物もたまにあるのだ。仕入れてくる人物の目が確かなだけに、掘り出し物と呼べる逸品がいくつか。まあ、店主本人としては、売る事を前提に仕入れてきている訳ではないのだろう。オブジェとして――そういった意味が深いのかもしれない。けれど、仮にでも売り物として並ぶ品物だ。それに妥協は微塵もない。
そのため、神谷板金としても繋がりはある。もともと神谷東児と友引忠司は、辰久が通う高専の前身――国立技術工学専修学校創設期のOBであり同級生だ。親友であると見ていい。そういった経緯を踏まえ、ロボット部品の調達でメーカーとやり取りをする中、喫茶ジャンクロイドが神谷板金のお得意様だったりもする。いや、逆か。神谷板金がお得意様なのだ。
そうやって辰久が最新式のバッテリーに目を奪われていると、カウンターの方から明るい声が聞こえてきた。
「あー、千秋ちゃんいらっしゃい」
佳苗だった。忠司が呼びに行ってくれたのだろう。ポニーテールにまとめた髪と、プリントTシャツ。細身のジーパンが良く似合う二十二歳。線の細さは父親譲り、大きな瞳と長いまつげは母親譲りの看板娘だ。そんな佳苗を見て、千秋の顔が明るくなった。
「お邪魔してまーす」
ほら、声まで明るい。
佳苗は食器棚の下にしまってあったエプロンを取り出すと身にまとい、コーヒーサイフォンに目をやる。もう、ドリップは終わっていた。磁器のソーサーとカップを並べ、注ぐ。そして――
「はい。ブレンド」
と千秋の前にひとつ。
「あれ? 辰久っちゃんは?」と千秋の隣席に、もうひとつ置きながら店内を見回す。
「帰ったんじゃない?」千秋がミルクを褐色のコーヒーに垂らしながら抑揚なく言った。
「おい。帰ってないって」ひょこっと雑貨コーナーから顔を出す辰久。「お邪魔してます。佳苗さん」
「久しぶりね」輝かしい程の笑みを見せ「ブレンド、置いといたから」と、千秋の横へ座る事を促す佳苗の掌。ほんのひとコマ戸惑ったが、辰久は妹の隣に座った。それを見て佳苗はサイフォンの後片付けに手をつけ始める。
「いただきます」言って辰久はコーヒーに口をつけた。まだ熱い。舌の先に感じたヒリヒリ感。火傷をしたかもしれない。コトリとソーサーの上に置く。
それにしても佳苗と会うのも久しい。最近はロボット技師の免許を取るため自室で缶詰だった。学校との往復ばかりで、ここに来るのも久々だ。もともとここら辺りで噂になるほどの美人だった佳苗。しばらく見ない間に、美しさに更なる磨きがかかっている。
ポニーテールのために覗くうなじ。すらりとした首元に辰久が目を奪われていると、千秋のジト目が兄を見ていた。
ふと、洗い物をしていた佳苗が口を開く。
「聞いたよ辰っちゃん。技師免許取ったんだって」
「え、あ、はい。一応……」
「凄いね。ウチのお父さんでも二回滑ったって言ってたのに、一発合格。おめでとう。未来の板金屋さん」
「あ、ありがとうございます」
「でも全然」割って入ったのは千秋だった。「今朝だって、パパに泣きついてたんだもん」
「え? そうなの?」
「ちょ、千秋。なに言うんだよ」
「だってホントの事じゃん。そのせいで、パパと来るはずだったのに、お兄ちゃんになった訳だし」
確かに。辰久に返す言葉はない。少し下がった兄の目線を見て、佳苗は「ふうん」と肩をすくめた。「でも、これからだよね。誰だって、最初は、ね」
慰めを聞きながら、辰久はコーヒーカップを手に、そろそろと口をつける。少し苦い味が、いつもより苦く感じた。
聞く耳持たずか……、落ち込むとすぐにこれだ。「もう」と佳苗が、沈黙した辰久から千秋に目を向ける。「ねえ千秋ちゃん。頼まれてたアレ、できてるけど、どうする?」
今持ってこようか? と佳苗の目が言っている。けれど千秋は首をブンブンと横に振った。
「そう。じゃあ、えーっと」
と佳苗が目を泳がせる。それに千秋が「アクセ見せて」と、雑貨スペースを指差した。
「あ、うん」佳苗は辰久を一瞥し千秋を見る。「あっ、そうそう。新作つくったんだよ。千秋ちゃん見て見て」
そう言ってエプロンを外し、カウンターからフロアへ。千秋に手を引かれ佳苗は、アクセサリーが並んでいるショーケースの前でしゃがみこみ、色々と説明し始めた。
それを背中で感じながら、辰久がカップを戻すと、視界の脇に忠司の姿があった。
「どうしたの、浮かない顔して」
「え、いや。その――」口ごもり、言うかどうか迷ったが、辰久はロボット工学の先輩にぽつぽつと、悩みを吐きだした。
「ふうん」と忠司はショーケースの前でキャッキャする娘たちに目線を向けながら、唸った。「まあ、当時メーカー勤務だった僕だってね。最初の仕事は緊張したもんさ」
「おじさんも?」クイと上がった辰久の視線。そこに忠司は微笑み返す。
「ああ……、それに僕だけじゃない。東児だって緊張してたよ」
「父さんも……」
「僕より緊張してたんじゃないかな。ほら、東児の初仕事はさ、技師免許が生まれて三年後の話だから、第四世代の頃――辰久と同じような依頼だったんだよ。定期点検のフルメンテナンス。ロボットを部品ひとつひとつにまでバラいて、組み直すってやつだね。正直、免許を取って最初にあたる壁だと思う。全てを磨き直し、痛んでいた物は差し替える。そこにミスがあっちゃいけないだろう。ロボット――しかもヒューマノイドって言えば当時なら破格の高級品だ。不具合は許されない。お金をもらってならば尚更だ。それに――メーカーよりも丁寧でなくては、店の看板にだって傷が付くしね」
そこで辰久の視線が下がった。
「です、よね」
「うん。だから東児は何度も何度も、納得いくまで点検したんだよ。細かい作業さ。けれどそれで不安を潰していったんじゃないかな。言い方を変えれば、言い訳を作って行ったんだ。ここまでやったんだから大丈夫って。――けれどね、そういった事は知識と経験に繋がる。それがやがて――自信にもね。そうやってフルメンテされたロボットは輝いていたよ。比喩なしに、ピッカピカだった。その代わり東児はボロボロだ。けど、笑って送りだしていた気がする」
「そうだったんですか……」かすれそうな語尾。
そんな辰久に忠司は、肩をすくめ、あっけらかんと付け足す。
「それで、東児は胃に穴が開いた」
「え?」思わず辰久の顔が上向く。
「ストレスからね。ま、誰もが通る道さ。それだけの所に辰久は来たわけだ。それに、聞けば初仕事も無事終えたみたいじゃないか」言いながら忠司は右手で電話のジェスチャーをする「さっき、東児から嬉しそうに電話があった。完璧だってさ」
「ホントですか?」
「ああ、辰久には直接言いたいから連絡しない。と言ってたけど、よほど嬉しかったんだろうな。こっちに電話があった。ま、ここでは聞かなかった事にしてくれよ」
顔を寄せ、小声で言った最後の言葉に、辰久は下唇を噛みながら頷く。
「はい」
「ところで、胃に穴は開いたかい?」
「いえ」
そう言った辰久の顔は、少しばかり複雑だった。忠司の言葉を冗談として取ればいいのか、父ほど苦しまなかった事への嗜めとして受け取ればいいのか――忠司の性格から言えば、前者なのだろうが、辰久は、目線をカウンターへ落とす。そんな少年の姿を優しく包むように微笑み、忠司はカウンターに一本のドライバーを滑らせる。
「これは?」と辰久が見れば、柄と尻にボタンのついたマルチドライバー。流動固定の金属が先端を担う、全てのネジに対応した逸品。買えばそれなりな値段がする。
「ロボット工学の後輩に、初仕事達成のお祝いだよ」
「でも、こんな高い物」マルチドライバーから、忠司に目を向ける。「貰っちゃっても?」
「ま、僕の中古だけどさ。辰久には必要だろ」
忠司の言葉にマルチドライバーの尻を見ればT2と刻まれている。友引忠司のイニシャルを文字っているのだろう。
「それともうひとつ」
「え? まだ何か?」
「技師免許取得の方さ。この店にあるものだったら、なんでもいいよ。ひとつプレゼント」と笑った所で、忠司の顔が真顔に。「ただし、娘はやらんぞ」
一瞬そんな考えを過らせた辰久は、はははと、乾いた笑いを見せた。
★
気が付けば思ったよりも長居してしまった喫茶ジャンクロイド。店内の鳩時計を見れば、十一時前――お昼も近くなってきた事だしそろそろお暇しようかと、辰久が千秋に目配せし、ふたりが席を立った時「待って千秋ちゃん。これ、忘れてるよ」と佳苗に呼び止められた。
「あっ」千秋が声を上げ「そう言えばすっかり」と、照れ隠しに笑う。それを佳苗もふふっと笑い「はい」と、小さな紙袋を妹に渡す。
「ありがとー」受け取り両手で抱える千秋。「あっ、お金お金……」と、財布を取り出そうとする仕草を見て佳苗は「いいよ」と掌を振る。
「でも……」
悪いよ。と言いたい千秋の言葉を、佳苗は人差し指を立て、「しー」っと制す。「どうしてもって言うなら、また今度ウチに来てブレンド注文。それでいいから、ね」
最後の“ね”に合わせ、ウィンク。キランと舞った星が千秋の眉間にあたると、少女は頬を少し赤らめ、大きくひとつ頷いた。
「うん。ありがと」
「すいません佳苗さん。僕もこんなに貰っちゃって」辰久が手に持つ紙袋を持ちあげ言った。
「いいのいいの。それはお父さんからなんだから」佳苗が同じように掌を振り「これからも頑張ってね」と、言った。
見れば佳苗の後ろ――カウンターの奥でも忠司がこちらに手を振っている。
「それじゃあ」辰久が言い。
「また来るねー」千秋が言った。
扉が閉まるカウベルを余韻に、真夏の太陽にじりじりと肌を焼かれながら兄妹は来た道を戻り、幹線道路に出た。相変わらずエレカーは走っているけれど、人通りは少ない。いや、人は歩いていない。ヒューマノイドだけが、歩いていた。
そんな景色を辰久は一瞥し、先を行く千秋に目を向ける。すると――
「あれ? 髪留め」と認めた千秋の髪を束ねていた髪留めが変わっている事に気づく。昔の歯車をアレンジし、ゴムの髪留めにワンポイントとしている髪留め。たぶん佳苗の作ったものだろう。「それを買いにきたの?」
言えば、千秋がピタリと止まった。そして、半眼の眼差しで振り返る。またまずい事言った? と辰久は身構えた。が、どうやら違う。半身のまま千秋は、抱えていた小さな紙袋を片手に持ち、すっと辰久の方へ。
「これ、佳苗さんにお願いしてたの」
「それって?」傾げられる辰久の首。
問うた辰久へ千秋は答えなかった。いや、答えていたのだが、兄から目を逸らし、ぶつぶつと、なにを言っているのか聞き取れない。
「なに?」辰久が聞き返すと、千秋の目がキッと向く。そして――
「こ、れ、はっ!」
と、気合のこもった声が出ると同時、一陣の風が通り抜けた。すると、千秋の持っていた小さな紙袋が消えていた。
「え?」
重なるふたりの疑問符。何が起こったのか認識するまでに少しばかりの時間を要したが、千秋が紙袋の紛失に気付く。そして、周囲を見れば、遠ざかる犬の姿――口元には先ほどまで手に持っていた物が――あった。
「あー!」びしっと犬を指差す。「ドロボー!」
「へ?」辰久は妹の指差す方へ振り返る。確かに走り去って行く丸々と太った黒い毛並みの犬が見えた。「あの犬?」
辰久が確かめる前に、千秋は犬を追って走っていた。
「おいっ! 待てって!」
慌てて辰久も駆け出す。
幹線道路を町の外へ外へと逃げる犬。体型からしてそこまで走る速度は速くない。千秋といい勝負だ。が、辰久が追いつける速度ではなかった。つかず離れず。そんな距離感を保ったまま、追いかけっこは続く。せめてもの救いは犬がまちなかに逃げ込まない事だ。もしそれをされてしまえば、見失ってもおかしくない。けれど律儀に直線をずっと逃げる犬。
「待てー! ドロボー犬!」
叫ぶ千秋。そんな事をするより――
「命令だ。その犬を捕まえろ!」辰久は周りにいたヒューマノイドに命令した。けれど、その命令に反応したのが二体。マスターの命令を受け目的地を目指していたり、命令により荷物を運搬しているロボットは、そちらの方が優先されるため対応しない。それに辰久が命令文に組み込んだ“その犬”を“紙袋を咥えた黒く太った犬”と理解できなかったモノも、自身の動きを止めただけだ。
それでも、二体が味方になった事は大きい。整ったフォームで走り、兄妹を抜き去った二体は、同時に犬へ跳びかかった。
しかし――
全く同じタイミングで跳びかかった二体のヒューマノイドは空中で互いに体をぶつけ合い、そのまま地面に落ちた。こんな事で傷付くようなロボットではないが、融通のきかなさに頭を抱える辰久。反対に犬は、嘲笑うように一瞥を向けるだけで、一向に止まる気配はない。
「ごめんねー」地面に転がるヒューマノイドを千秋が跳び越える。
「命令解除」と辰久も二体を跳び越えた。
そしてまだまだ続く追いかけっこ――舞台はやがて町の端へと変わり、外周を巻く最後の幹線道路をまたげば、そこはもう森。都市再編計画の副産物である大森林だ。以前は森ではなかったのだが、バイオテクノロジーによって成長促進がされた広葉樹の植林された森は、今で見れば、大森林と呼べるまでに成長している。
その森の中へと犬は入って行った。それで諦めるのならば、もう既に諦めていると言わんばかりに千秋も森の中へ。
辰久も千秋を見失う訳にはいかない。もちろん森へ跳び込んだ。立ち入り禁止の看板には目もくれず。兄妹は犬を追った。
太陽の光が伸びた枝葉に遮られ、若干町より涼しく感じる。最初は仄暗く感じた森も、目が慣れれば木漏れ日の差す幻想的な所だ。何処からかセミや鳥の鳴き声が聞こえる。けれど、この森は人工的な物――それを証明するかのように、犬が走る場所はアスファルトが敷かれていた。そのため、その部分を避けるように木々は成長し、ふたりが走る場所はトンネル状になっている。
「こんな所があったんだ」辰久が零す。
無機質で幾何学的な物ばかりに囲まれていた生活。その少し外に出れば、誰の指示でも、規則でもない世界が広がっていたのだ。
「逃がすかー!」
不意に千秋が叫んだ。慌てて辰久が見ると、トンネルから左へ飛び出していく妹の姿。先を見れば犬の姿もない。道を外れたのか。
何か目印――咄嗟に、つなぎのポケットへ手を入れると、指先にあたったエアーマーカー。辰久はそのマジックに似たマーカーを取り出し、キャップを外す。そして、出力ボタンを握り込むと、中空に赤い蛍光の線を引く。千秋が跳び込んで行った茂みに向けて矢印を引いた。それで自分も跳び込んで行く。
ガサガサと掻きわけ、腰高にまで成長していた茂みを抜けると、また道があった。先程までと同じようなトンネル状の道。その先を走る妹と犬の姿もそこに。一応辰久はマーカーで茂みの入口に大きな丸を記し、後を追う。
緩やかなカーブを過ぎ、坂を少し下る。と、どうやら皆の体力もそろそろ底だ。やがて、最後にちょっとした坂を登り、千秋が立ち止った。
少し遅れて辰久が妹の横に立てば、見据えた先にあの犬がいた。もう動けないのか、動かないのかわからないが、こんもりと盛り上がった地面に、口に咥えた紙袋をそっと置いた。
「観念、したみたいだな」呼吸を整え辰久が言う。
「あたし、から、逃げられる、わけ、ないん、だから……」
息も絶え絶え、肩で息をする千秋が、一歩一歩と歩み寄る。それに犬は動こうとはしない。ただじっと、腰をおろし、兄妹を待っているように見えた。
犬が待つ場所――そこは一際大きく空が開けた場所だった。まるでスポットライトを浴びているかのようにも見える。けれど、どうしてここだけ――辰久が見回せば――どうやらここは昔公園だったようだ。その証拠に――四角く土地を切り取るように、塗装がはげ落ち錆の浮いた鉄柵が立っている。それだけじゃない。敷地内には同様に風化したジャングルジムや滑り台。それにブランコ。隅の方には砂場の跡らしき地面に縁どったあとがあった。
忘れ去られた公園。一枚絵としてタイトルをつけるとするならそうだろう。けれど、それだけの公園ではない。
様々な種類の犬がいた――ここまで追いかけてきた犬をはじめ、ラブラドール、チワワ、ミニチュアダックス。あとは名前もわからない雑種たち――それらがまるで、祭壇のように堆く積まれた盛り上がりを囲むようにして、じっと兄妹を見ている。
その異様さを千秋も感じたのだろう。息まいていた足が、止まる。
紙袋が置かれているのは、祭壇の頂上だ。いったい何を?――辰久が千秋の傍らに立つ。と、何が祀られているのかが見えた。そこに祭壇の奥で匍匐し隠れるようにしているモノ――それは――
「ヒューマノイド……」
★
辰久は動けなかった。じっと、ただじっと、蹲るヒューマノイドを見ていた。動く気配はない。よく見れば隠れ方も変だ。ヒューマノイドに標準で搭載されているオートバランサーが働いていれば、あのような不格好さで腹這いになるはずがない。
壊れている。その結論に至った時、つなぎの裾を引っ張られ、目線を落とす。と、引っ張っていたのは先ほどの黒い犬だった。
「なんだ、こいつ?」
まるで、祭壇へといざなうかのような仕草。それに辰久はロボットを一瞥し、犬を見た。
「直せって言うの? 僕に?」
問うても犬が答えるはずがない。けれど、ぐいと引っ張られた足が、前に出る。それを感じて千秋は兄の手を取った。辰久が見ると、妹の目には不安の色が濃く見える。それに、兄は首を振った。
「大丈夫。僕が紙袋を取って来るから」
言って、自らもう一歩を踏み出した。
一応、周囲の犬たちが何かしてこないかと、目を配りながらだが、どうやらそう言った気配はない。どちらかと言えば、辰久がヒューマノイドに寄る度、犬たちの輪が遠ざかっているようにも見えた。
そして辿り着く祭壇――よくよく見れば、この祭壇も土が盛られているのではなく、ジャンク品の集まりだった。錆が浮き、茶褐色に変色していたから土に見えたのだ。その上にある紙袋をひょいとつまむ。
「千秋」妹を呼び「ほら」と抛る。
それを受け取り、千秋は中身を確認した。どうやらなくなってもいないし、傷もついていない。安堵の息を吐いて、兄を見れば、横たわるヒューマノイドの傍らで屈み、そのロボットがナニモノなのか観察していた。
見た感じは、古い型式。最近ではヒューマノイドの頭部に樹脂製のフェイスデバイスを使うのが主流だ。だが、このロボットにはそれがない。ブリキのバケツをひっくり返したような頭部に、ドラム缶のようなボディ。今朝仕上げてきた971では見る事のできた腰椎アクチュエータも骨盤部までボディで隠されている。
腹部稼働域が少ない機体――これは第八、いや――第九世代。
「9X―220RPか」
辰久の脳内にあるカタログをめくれば、確かに――このロボットは、それで間違いないだろう。
9X―220RPは、第九世代のヒューマノイド。世界的に優秀と評価された第八世代とほぼ変わらない形式を持ちながらにして、低コスト化に成功した量産機だ。当時にしてみれば画期的なヒューマノイドで、汎用性に優れた機体として売り出されたが――逆に言えば、特徴がないのが特徴だっただけに、その後発売された第十世代の368RPや、第十一世代の台頭で、世間からほぼ姿を消したといわれている。
ちなみに朝の971は第二十二世代。今の日本において、一年に一世代のペースで進化しているロボットだ。その世代さえつかめれば、おおよその年代は計算できる。
つまり――
「かなり、古いな……」
と言う事。
しかし、不思議な事にそのような年代を感じさせないロボットだった。四肢はしっかりとしているし、フレームから覗く伸縮回路は腐食断線していない。ボディを見ても、穴もなければ凹凸もない。風雨で纏わりついた土をどければ、くすみながらも銀色が浮かび上がった。
こういった形で日本のロボット技術の高さに感心するとは思っていなかったが、現にここで横たわるロボットは、それなりの時間をこうして過ごしたはずだ。それでもこの状態であれば、直せない事もないだろうが……。
辰久はロボットの傍らで、じっと待つ黒い犬に目を向けた。少し潤んだつぶらな瞳が訴えかけるのは、やはり修理なのだろうか。
少し考え、辰久は口をしっかり結んだ。そして――
「直してやる」
ロボットを見据え、自分の紙袋から、マルチドライバーを取り出す。
「お兄ちゃん?」
心配になったのか千秋が呼んだ。しかし、辰久は振り返る事もせず、逆に妹を手招く。手伝えと言うのだ。
千秋は周りの犬たちに目を向ける。今見れば、かなり遠くまで離れている。それに、よくよく考えれば、皆、やせ細り弱々しく見える。恐れる事は、ない。なんて思いながらも、そそくさと兄の元へ駆け寄った妹。背後から作業を覗き込めば、ロボットの背中四隅にあったネジを全て外した所だった。
「千秋」辰久が言う。「反対側に回ってくれ」
「うん……」
少し不満げに言いながら、手に持った小さな紙袋をオーバーオールの胸ポケットにしまい、兄の指示に従ってロボットを挟んで向き合う。
「それで、なにすればいいの?」
「ああ」辰久が妹に一瞥を向け、ロボットの背中を指差した。「外装を外すから、一緒に持ってくれる」
「わかった」
頷き、手をかけ、ふたりで釣り上げる。ロボットの中枢を守る壁だ。それなりに重い。そしてそれを傍らに置くと、辰久がマルチドライバーを握り、中枢へと至る二枚目の壁を外しにかかった。
さすがに日のあたる場所。ドライバーを差し込む辰久の額には玉の汗。真剣に、それでいてどこか楽しそうな兄の顔。昔、父親の横でこんな顔をしていた兄。けれど昨日はひとり、ガレージでとても険しい顔をしていた。それが痛くて、あまり作業を覗かなかったのだけれど、今の顔を見ていると、千秋もなんだか楽しくなってくる。
「二枚目な」辰久の顔が千秋に向く。「ん? どうした?」
ぼうとしていた。それを瞬きで誤魔化し「な、なんでもない。ほら、これも外すんだよね」
「ああ」と言いながらも、辰久は首を傾げる。
そんな事をしながら、壁を取り払うと、ロボットの中枢が覗く。ロボット技術の全てが集まった心臓部だ。配線と基盤に取り囲まれる正方形で真っ黒な物体。これがAIボックスと呼ばれるロボットの頭脳だ。物理的な加工ができないように、させないように、金属でありながら継ぎ目すら見えない加工がされており、開けてしまうと法律にも触れる。それに、AIボックスを加工する技術は、一般公開もされていない代物で、無理矢理開けて壊してしまったら直せないうえ、処罰を受ける。例えプロであっても基本的に触れないのが吉だ。
すうと目線をずらし、辰久は回路や配線をチェックしていった。
「駆動系の端子はこれで、オートバランサーの端子がこれかな。と言う事はこれが水冷パイプで――と」一通りのチェックをするも、壊れている部分は見当たらない。「って事は、バッテリーかな?」
本来ならば、ここで回路の負荷を見たりするのだが、手持ちにそんな機材はない。
辰久は携帯電話を取り出し、掲げ、電波を見る。液晶に映っている電波の種類はふたつ。ひとつは通話用の電波。そしてもうひとつは無線充電用の電波だ。
「おし、ここまで来てる」
そう言って紙袋の中から取り出したのは、喫茶ジャンクロイドで貰った、もうひとつのプレゼント。無線充電バッテリー。紙袋を敷き、それを乗せる。
「使っちゃうの? それ?」千秋が問う。
「ああ、別にいいだろ。たぶん使えるからさ」
言って辰久は、ロボットの中へ手を突っ込み手探りでバッテリーを引きぬく。だいたい片手におさまる大きさのバッテリー。ロボットの物として、最近では使われない大きめの物だ。だが、この9X―220RPなら、バッテリーはひとつではない。
「コレ、持ってて」
と、妹に古いバッテリーを渡し、もう一度。
「これもね」そう言って取り出したバッテリー。千秋の手には古いのがふたつ。
「あといくつあるの?」千秋が聞いた。その返答にと、妹の手にまたひとつ乗せられる。そして――
「これが最後だよ」と、もうひとつ乗せられ、バッテリーは全部で四つになった。
千秋の掌に積み上げられたバッテリーの容積を見て「スペースもあるね」と辰久は頷き、新しいバッテリーをロボットの中へと押し込んで行く。すると、とりあえずスペースには収まった。
けれど、接続は至難の業だ。手探りで端子をみつけ、バッテリーへと繋がなくてはいけない。本来なら、ボディの外装を全て取り外し、むき出しでやるべき作業なのだが、ここにそれができる設備もなかった。
しかし、さすがは最年少ロボット技師免許取得者。幾許かの時間だけで接続に成功する。その証明に、ヴーンとコンデンサーに似た音が鳴り、バッテリーの充電開始を知らせた。
「よし。これで」誰に言う訳でもないが、辰久は自分に言い聞かせ、外していた背中を二枚、元通りにはめ直す。そして汗を袖で拭い、千秋を傍に寄せると、一歩ロボットから離れた。そろそろバッテリーの蓄電がロボットの稼働水準まで達するはずだ。「直ったんじゃない?」
言うと、思った通り、ヒューマノイドのアイカメラが淡い緑色の光を放ち起動する。そして、右手を動かし、立て膝になりながら上体を起こした。それからギギギと顔を上げ、ロボットはその目で兄妹の姿を捉えた。ピントを合わすための音が、チイと鳴る。
ごくりと千秋が唾を呑んだ。
しかし、ヒューマノイドは目線を千秋たちから外し、立ち上がると、まっすぐ前を見つめたまま動かなくなった。まるで、さも先ほどからずっとそこで直立していたかのように、真っ直ぐどこか遠くを見つめ、兄妹にすら目線をくべない。
そんなロボットを見て、千秋は胸をなで下ろした。無害だと思ったのだろう。
だがその時、突然ロボットがひとりでにガタガタと震えだした。「ひゃっ」っと、跳び上がりそうになる驚きに、千秋は兄の背後に隠れ、そっとロボットを覗く。
「ねぇお兄ちゃん。このコやっぱり壊れてるの?」
「ん? ああこれはね」駆動系のセルフメンテナンスのプログラムが起動したのだろう。砂をかんだ関節が、ギギギと音を立てている。「セルフメンテナンスだよ。再起動時の基本。壊れている部位がないか、自己診断しているんだ」
「そうなんだ……」千秋が兄の後ろから見ていると、ロボットの動きが収まる。「あ、止まった」
しかしそれ以上9X―220RPは動きを見せなかった。右側のアイカメラを点滅させるだけで、何かを見ようともしていない。いや、もしかしたら何かを見ているのかもしれない。と、一応辰久がロボットの見据える先に目をこらしたが、そこにあったのは、公園への出入り口だけだった。
不思議なロボットだ。一体ここで何をしていたのかと、辰久が首を傾げれば、被服を後ろからクイと引っ張られる感じ。ああ、あの犬か。と、目を向ければ千秋だった。
「ねえ、このコ、喋れないのかな?」
「いや、言語機能はあるはず。確か第八世代からは標準装備だし……」記憶を呼び覚ましても、差異はない。だったら「質問」
辰久の声に反応し、ロボットの目が、兄妹に向く。そして――
「ワタシに、でしょうか?」
男性の声を基礎とする音声合成ソフトで組み上げられた言葉が、口を模したスピーカーから流れ出した。意外に流暢な日本語だ。当時のデフォルトなら棒読みのはずだが、この機体には追加言語OSが積まれているのだろう。
そんな事を辰久が考えていると、千秋が横から口を挟む。
「ねえ、キミの名前は?」
「ワタシの名前は、ナインエックス、ダブルツーオーアールピーです」
「ほう」辰久は頷く。どうやらこのロボットに搭載されている言語OSは、英語の発音には弱いらしい。
しかし、千秋はロボットの回答に納得がいかない。怪訝に眉をひそめ更に問う。
「それは型式だよね」兄の言った言葉をしっかりと聞いていたようだ。「そうじゃなくって、名前。わかる? 名前」
「ワタシの名前は、ナインエックス、ダブルツーオーアールピーです」
「だからっ!」
違う違うと地団太を踏む千秋を見て、辰久は片眉を上げ、口を開く。
「ナインエックス、ダブルツーオーアールピー」
「はい。なんでしょうか」
「キミの事を、僕たちはナインと呼ぶけどいいかな?」
「了解。アナタたちから受けるワタシの呼び名は、ナインです」
「は?」兄のネーミングセンスに千秋は呆れる。「ナインってそのままじゃん」
「だけど、呼びやすくなった」辰久は妹にロボットはこう扱うんだと得意げに言うと、さっそくロボットの名を呼ぶ。「じゃあ、ナイン。自己診断の結果、なにか異常はあった?」
「はい。左腕駆動系伝達回路のエラー報告がふたつ。及び、右アイカメラからの返信がありません」
外から見えない伝達回路はわからなくて当然だ。頭部は開けなかったのだ、仕方ない。しかしそれらが壊れているにしろ、ここでの修理は無理だ。交換する部品がない。ちらりとジャンク品の山を見るが、雨ざらしのこれらが代わりになるとも思えなかった。それよりも――
「冷却液は足りてる? 水冷は正常?」
「はい。どちらとも許容範囲内です。液圧正常、パイプの破断は認められません」
ならば、暫くの起動に問題はないだろう。とりあえずは応急の修理も必要ない。辰久がそう頷くと、足元で犬が鳴いた。皆の視線が下を向く。
そこには、ここまで兄妹を引っ張ってきた黒い犬がロボットを見上げ、尻尾を振っている姿。その犬が、もう一度ワンと鳴き、赤いゴムボールを咥えた。
それはどこかで見た光景――チイと、ロボットの目が鳴る――「失礼します」ロボットが言葉を発して片膝をつくと、動く右手でそのボールを受け取る。そして――
「また投げて、欲しいのですか?」
問いの答えは、活発な「ワン」。早く投げてと、尻尾が揺れる。
「では、いきますよ」
軽く、アンダースローで抛られたボールを、じゃれるように黒い犬は追った。そして、公園の入り口付近で捕まえ、咥え、走って戻って来る。尻尾を更に振り、ロボットの差し出していた掌に、赤いボールが乗せられた。
「もう一度ですか?」
「ワン」
「では、いきますよ」
再び抛られたボール。その軌跡を兄妹は目で追い、三度目にボールが地面を転がった時に、そろって嘆息する。
「お兄ちゃん。これって……」
「ああ、なんだろうな」辰久は頭を掻きながら「僕も初めて見るよ」
気が付けば先ほどまで遠ざかっていた犬たちも混じり、赤いボールの争奪戦が公園内で繰り広げられていた。ボールはひとつ。犬はたくさん。それでもナインの元へボールは誰かの口に咥えられ戻って来る。その度にロボットは、犬たちへボールを抛った。
「ねえナイン」と言ったのは千秋だった。
「はい」とナインの顔だけが、兄妹に向く。それに千秋は問う。
「ずっと、ボールを投げてたの? こんな所で」
「いえ。そうではありません。彼らに頼まれた時だけ、このようにしています」
「じゃあ、ナインはここで何してるの?」千秋が言い、これではダメだと訊き直す。「なにしてたの?」
「ワタシはこの場所で、マスターの命令に従い待機しています」
「待機?」思わず辰久が零した。引っかかる事はたくさんある。犬にボールを投げてやる事が待機命令の範疇であると言う事――いや、これは別にいい。追加されたプログラムによっては、その解釈も違うだろう。そうとすれば納得もいく。だが、一等腑に落ちないのは……「マスターは今どこにいる?」
「それはわかりません」
「じゃあマスターの名前は?」
「その質問にはお答えできません」
守秘機能――辰久は舌打つ。これも積んでいたか――マスターの情報自体はナインの内部記録に登録はされているだろう。デフォルトの状態であれば、登録情報は開示される。だが、守秘機能を追加インストールしてあるのであれば、警察や税務署、ロボット管理局の執行官が保有する特殊コードを示さなければいけない。
「どうしたの? お兄ちゃん」
千秋の言葉に、辰久は奥歯を噛みならしながら、絞り出すように言う。
「これは、不法、投棄だ……」
「え? でもナインはここでマスターを待ってるって」
「知らないんだよ。コイツは」
「え?」
「不思議に思ってはいた。アイカメラは倒れた拍子、回路に関しては雨ざらしか何かだろうけど、直接の原因じゃない。このロボットが動かなくなった理由はバッテリー切れだけで」と、辰久は千秋の持つ古いバッテリーをひとつ手に取る「これが全部消耗するだけに数年かかる。もしスリープモードを挟んでいれば、その二、三倍はここでほったらかしだったって事」
「あ……」
「つまり、捨てられたんだよ。ナインは」
言って辰久はきゅっと口を結んだ。このロボットは、ここに集っている野良犬たちと同じように捨てられたのだ。
「どうするのお兄ちゃん? やっぱり警察? それとも……」
ロボット管理局へ通報するのが常とう手段だろう。だが、野良犬を警察や保健所に通報すればガス室送りにされるのと同じで、このロボットも溶鉱炉送りとなる。曲がりなりにも自分が手を加えたロボットを、すぐさまそのような事にしても良いのか?
辰久は自らに問う。どうする?
と、千秋の問いがロボットに向いた。
「ナイン」
「はい。なんでしょう」
「ナインはこれからどうしたいの?」
「どうしたい。とは?」
ロボットに自発的な希望を求めても答えられるわけがない。もどかしさを感じながらも千秋は訊きなおす。
「ナインはこれからどうするの?」
「ワタシは、このままマスターの命令を遂行し、次の指示を待ちます」
「でも……、でも、マスターは戻って来ないかもだよ」
「いいえ。それは正しくありません。それに関係ありません。ワタシは、マスターを待ちます」
「けどっ!」
一際大きく飛び出した声。ボールに群がっていた犬たちが一瞬止まり、兄弟たちを見た。たくさんの瞳に映る兄――辰久は妹の肩に手を乗せた。「無駄だよ千秋。コイツはロボットだ。全てにおいてマスターの命令は絶対。待機を命じられていれば、この場を動かない」
目線を合わせなかった言葉。それにナインは頭を下げた。
「ご理解ありがとうございます」
淡々とした抑揚で発せられたお礼。捨てられたと話していた会話もナインは聞いていただろう。それでもそう言うロボットが寂しそうで、悲しそうで、千秋の心が締め付けられる。きゅっと口を結び、少女は決めた。
「だったら、お兄ちゃん」言って千秋はオーバーオールのポケットから小さな紙袋を取り出し、辰久に付きつける。「勘違いしないでよ、これは依頼料。だから――」
その先に続く言葉が兄にはなんとなくわかった。たぶんこうだ。
「ナインのマスターを探して」
ほら――
「言うと思った」