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第9章第4節第2款 族長会議
予想されていた通り、後継者選出の族長会議は荒れに荒れた。それは、自らの子こそ皇帝、あるいは皇帝付き神官、さらには侍従長に就けたいと、それぞれが考えたからである。
すでに決められていた3つの方式のうち、第一の方式については皇帝、神官、侍従長全員がすでに崩御しているため不可能。第二の方式へと自動的に移行していた。だが、第二の方式ということで族長会議を開いたところ、もはや血を見ぬことにはまとまらないほどに荒れていた。
特に重要視されたのは皇帝位だ。今でも3つの位の中で一番上であるが、この当時には明らかに一段高い、という印象があったようだ。皇帝にほとんど全権が握られ、それを神官と侍従長が補佐をするという形式は、このころに確立されたとされる。
1週間、会議場では警備兵の数がより増していき、族長それぞれに10人程度が就いたという記録がある。最終的に1週間討議してもまとまらず、決裂したと、族長会議録第2編第36巻に記されている。これにより、臨時議会が族長会議の名において招集され、民族院、職種院のそれぞれが1か月後に開催されることも決定された。