第6話
宿屋に戻ったフェリスはすぐさまワンピースを脱いでバスルームに駆け込んだ。
めかしこんだ髪を乱雑にほどき、化粧をゴシゴシと何度も何度も落とすように顔を擦る。
消えてしまいたい気分だった。
不意にその手を掴まれる。
「……離して」
「主人の命令。風邪を引くからそろそろ出ろ」
「離して!!」
手を掴んだのは猫耳メイドの女性だった。
フェリスは声を荒げ、手を振りほどこうと暴れるが女性は意にも介さず手を掴んだままだ。
「……離して」
ひとしきり暴れてから消え入るような声でフェリスは言った。
今度こそ女性は手を離す。
それからフェリスは冷静に身を清め、タオルで体を包んだ。
「私のお仕着せを返して」
女性を見上げてフェリスは言う。
「もうない。主人が処分を命じた」
「どうして! 領主様からもらったものなのに!」
「着替えならここに」
女性の指した先には新品の下着と寝巻、ルームシューズが置かれていた。
まるで貴婦人への対応だ。
「私の着替えはそんな上等なものじゃない! 一度お屋敷に取りに行かせて!」
「これが貴方の着替え。屋敷のものは全て処分した」
「どうして……!」
フェリスのワードローブには母が着ていた服もあった。
外出着では古臭くなってしまうが部屋着にして着ていたのだ。
それ以外にも、これまで着てきたものにはお屋敷の皆と過ごしていた思い出が宿っている。
その思い出さえ奪われたのだとフェリスは気づいた。
淡々と答える女性に苛立ちが募る。
「貴方こそどうして? これが貴方が望んだ結果」
「私が……?」
信じられない思いだった。信じたくなかった。
一度たりともこんな結果を望んだつもりは無かった。
フェリスは濡れた髪もそのままに立ち尽くした。
見かねた女性がパチリと指を鳴らす。
出かける前と同様にみるみる内にフェリスは用意された着替えを身にまとっていった。
そのまま背を押され、ドレッサーに座らされては顔やら髪やらに色々塗りたくられる。
気付けば髪は乾いていた。
「おやお嬢さん、ご機嫌斜めのようだね」
「近寄らないでください」
背後からきざったらしくオズが声をかけてくる。
名前を呼ばれないのが癪に障る。自分自身の存在が今以上にあいまいになるようで嫌だった。
「ミアから聞いたよ。お嬢さんは俺とした約束を理解していなかったみたいだね」
猫耳メイドの彼女はミアというらしい。
フェリスは視線を上に向ける。
出会ったときと同じ、悪魔のような笑みのオズが目に入った。
「睨まれても困るなぁ。君は言っただろう、何でもするって」
苦笑を浮かべるオズ。
「そもそも。俺の下に来ると言っていたよね」
畳み掛けるように言葉を続ける。
確かにオズの下へ行くと約束した。
しかし、その結果自分の存在を無かったことにされるとは思っていなかった。
「物事には整合性が必要でね。俺の力も万能じゃない。わざわざ俺が領主の仕事なんかをやっていたのもそのためだ」
確かにオズは領主としての務めを果たしていた。
業務に支障が出ていれば屋敷はあれほど落ち着いていなかっただろう。
「君にだけは、俺の力が及ばなかったみたいだがね」
オズは上機嫌に言った。
「君が俺の下に来るなら、君の存在を消す必要があった。初めから居ない事にすれば誰も君を探さない」
それが一番手っ取り早い、とオズは語る。
そんな事、フェリスは予想していなかった。
そこまで思考が回っていなかったというのが正しい。
あの時の甘美な囁きは悪魔の囁きだった。
フェリスは激しい後悔と、自分とは正反対にご機嫌なオズへの理不尽ないらだちに苛まれる。
他にあの時なす術は浮かばなかったが――一つだけ思い浮かんだ。
「一つだけ教えてください」
「いいだろう、お嬢さん」
「あのまま領主様にとりついたままだったらどうなっていたんですか?」
何もしないことこそが正解だったのだろうかと、フェリスは投げやりに考えていた。
「私に生命力を奪われてその内死んでいただろうね」
背筋が凍る答えだった。
フェリスが自分の存在を賭けた行動は間違いではなかったらしい。
自分の居場所を失いぽっかり空いた穴に、安堵が注がれる。
「おめでとう、君は君の大好きな領主様の命の恩人になれたんだ! まあ、それを知るのは君と俺くらいだがね」
にこやかにオズは両手を叩いてフェリスを称賛した。
上機嫌なオズの様子に反比例するように、フェリスの瞳にはみるみる涙が溜まっていく。
感情があふれて止まらなかった。
「君は本当に泣き虫だね」
鏡越しにフェリスを見つめながら、指でフェリスの涙を掬い上げる。
オズはそれを舐めた。
オズはそれをゆっくりと舌で味わい、満足気な顔をする。
「とどのつまり、物事には代償が付き物ということさ」
領主様は召喚の代償にその身を奪われた。
フェリスは領主を助ける代償に自分の居場所を失った。
ふと、フェリスは一つの疑問が思い浮かぶ。
この吸血鬼は何の代償に領主としての務めを果たしていたのだろう。
加えて一つ。
何故フェリスにだけ彼の力が及ばなかったのだろう。
一度疑問が浮かぶと更に疑問が増えていく。
何故領主様は吸血鬼なんかに頼ってしまったのだろう、何故あれだけ調べて出てこなかった吸血鬼の倒し方が載った本がフェリスの目の前に落ちてきたのだろう。
結果として領主様を助けることが出来たが、あのままただ領主様を刺し殺していた可能性だってあった。
「ところで君は俺に何でもすると言ったね」
ゾクリと背筋に響く魔性の甘い声。
仕事一筋でそういったものに無縁だったフェリスに耐性はなく、フェリスの思考は全て吹き飛んだ。
オズは上からフェリスを見下ろす。
獲物を目の前にした獣のようにその瞳はランランと輝いていた。
「俺は吸血鬼なのは知っているだろう」
両肩に手がかかる。
「俺は君が屋敷に行きたいと言うから叶えたんだ。その報酬を貰うよ」
「ひぁっ」
言葉とともに、オズはフェリスの首筋に舌を這わせた。
フェリスの背筋がゾクリと泡立つ。
反射的にフェリスはオズを突き飛ばした。
突き飛ばされたオズは不服そうに眉間にしわを寄せる。
「な、なにを……」
「何をとは心外だ。俺は君の願いの代価を受け取ろうとしていただけなのに」
せっかくのムードが台無しだ、と両手を上げて肩をすくめる。
「俺は吸血鬼なんだから、君の願いの報酬は君の血だよ。それが君の持つもので最も価値がある。それに君は他に何を持っているんだ?」
確かに言われれば理解できた。
着の身着のままここに来て、お屋敷にあった自分の荷物は全て処分されたのであれば他に差し出せるものはこの身しかない。
吸血鬼は読んで字のごとく血を吸う生き物なのだから、その報酬として血を貰われるのは、説明されれば確かに理解できた。
が、
「お、おお乙女の柔肌に勝手に触れないでください!」
理解できても、気持ちが追いつくかは話が別だった。