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軍営  作者: 横山士朗
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景虎編 二度目の上洛まで

 

  *上野原


 宗心あらため景虎による前代未聞の出奔劇は、こうして幕を閉じた。

『災い転じて福となす』という諺があるが、結果的にこの事件を境に、長尾景虎が名実ともに越後国主としての権力を、完全掌握することになった。

 この権力の集中と掌握こそが、景虎の果断な戦闘指揮の下で戦国最強を誇る、越後軍団の原動力となったことは間違いない。

 むろん、この裏づけとしては、各国衆から差し出された人質の存在を、忘れることは出来ない。

景虎は各国衆との主従関係をより強固にするためにも、彼ら人質を丁重に扱い、城内に仕える者や将兵と同じように処遇した。

 この時期から、景虎は人質が住みやすい居住地と環境の整備を目指して、春日山城の拡張普請を急速に進めている。それがやがては、春日山全体が難攻不落の一大要塞の呈を成す迄に至るのである。

 春日山城に帰還した景虎は、直江実綱をはじめとする出奔を知る城中の者たちから、温かく迎えられた。特に歳の近い庄田定賢や吉江忠景などは、嬉しさと安堵のあまり、涙で顔が皺くちゃになる程だった。

 景虎の心の中は、気(まず)さでいっぱいだが、ここは平静を装うしかなかった。直ちに大熊朝秀討伐の軍議を招集し、対応に当たることから着手した。

「此度の備前守謀反は、殿より受けて参った大恩を反故(ほご)にしたばかりではない。愚かにも、敵対する武田晴信の口車に乗っての仕業であり、今後二度と繰り返さないためにも、断固厳しい態度で臨む必要があると考えるが如何か」

 軍議席上では、数日間、春日山城の留守を預かり、水面下で大熊討伐軍の編成準備を進めていた直江実綱が、こう口火を切った。

「同感でござる。殿は如何お考えか。もし、大熊備前守が降伏を申し入れて参った場合、帰参をお許しになるお気持ちが、有るや無きやについてお尋ねしたい」

 実綱の発言を受けて、こう後押ししたのは、駆けつけていた本庄実乃だが、これに対し景虎は迷わず即答した。

「此度、武田に通じた者を許せば、たとえ質を取っていたとしても、同じことを繰り返すに違いない。儂は罪のない質を殺めるような非道は、行ってはならないと思っておる。それに北条丹後守の時のように、備前守を擁護する者もおらぬ。ましてや、備前守は先代から引き継ぎ、段銭方という国の要職に就いていながらの謀反である。これは、儂への裏切りであると同時に、国への裏切りでもあるという意味で罪は重い。よって、備前守に帰参を許すつもりは毛頭ない」

景虎の考えが二人の宿老と同じである以上、もう議論の余地はなかった。

「惣左衛門尉、ここへ参れ」

 景虎が庄田定賢に命じた。

「今、儂が動けば大熊が警戒する。此度はそなたに儂の名代を命ずる。既に大熊に内通する者は捕らえたとは言え、我らの動きを悟られてはならぬ」 

 景虎不在の間、春日山城を預かっていた直江実綱は、幻の者を使って内通者の洗い出しを進めていた。すると、「景虎翻意し帰城」の一報が入って、城内が緊張から解かれる中、一人不審な動きをする者が、幻の者の網に引っかかったのだ。既にその者は処断されている。

「密かに戦支度を整え次第、兵を率いて上野家成のもとへ向かえ。此度の謀反の一因は、上野との土地争いにある。よって、儂の名のもと、家成には大熊備前守朝秀討伐軍の先鋒を命じよ。出来れば、備前守を生け捕りにして儂の下へ連れて参れ。じゃが、生け捕りに拘る必要はない。討ち果たしても構わぬ。判断はお主に任せる」

「承知いたしました。では、戦支度が整い次第、出立いたします」

 弘治二年(一五五六年)八月、こうして大熊備前守朝秀討伐軍は春日山城を発した。

 やがて、大熊朝秀も景虎帰還を知り、慌てて武田晴信に援軍を乞うが、一向にその返事はなかった。

 そのうちに、上野家成を先鋒に、庄田定賢率いる討伐軍が、箕冠城に向かって迫っていることを察知した朝秀は、城を捨てて越中国境に向かことにした。そこで武田晴信にあらためて「信濃から越後に攻め入って欲しい。自軍は越中国境から攻め入るので、春日山城を挟み撃ちにしよう」

との書状を送るが、やはり返事は梨のつぶてだった。

 そもそも武田晴信には、越後国内に援軍を派遣する気など毛頭ない。

 過去二度にわたる川中島での交戦で、痛い目に遭っている晴信である。ましてや、土地勘のない敵地・越後にのこのこと出向き、自ら損害を被る危険を冒すはずがなかった。

 寝返りによる越後国内の分断と弱体化こそが、晴信にとって最大の目的であり、寝返った大熊のことなどは、もともと将棋の駒ひとつ程度にしか考えていない。

 そうとは知らぬ大熊朝秀は、越中国境の西浜口に陣を敷いて、晴信からの吉報を待つが、そこに庄田定賢率いる守護代勢が、急迫しているとの報せが入ったから堪らない。

 両軍は駒帰(こまがえし)で激突するも、兵五千の大軍を擁する庄田・上野勢に対して、総勢一千の大熊勢が敵うわけがなかった。

 大敗を喫した大熊朝秀が、命辛々落ち延びた先は、甲斐国の武田晴信のもとだった。

 これに一番驚いたのは、他ならぬ晴信である。内通を唆した張本人とは言え、まさか、国を捨てて自分のところに助けを求めて逃げてくるなど、想定もしていない。

 大熊朝秀も、城を捨てて、追われる身となった自分に、もう行く先など残っていない。一か八かの大博打で、晴信の懐に飛び込んだのだ。

 しかし、ここが武田大膳太夫晴信という人間の大きさであり、狡猾さでもあった。

 敵方の将が、自ら懐に飛び込んできたことで、これまで知り得なかった越後の情勢が、容易に知り得るようになる。また、未だに抵抗して降っていない信濃の豪族に、自分が寛大な人間であることを、知らしめる良い機会だ、と判断したのだ。

 晴信は躑躅ケ崎館に落ち延びてきた大熊朝秀を前にして、優しく声をかけた。

「これは、これは、大熊殿。よくぞ逃れて参られた。貴殿の援軍要請に応えようとしたが、なかなか兵が集まらぬ。稲の刈り入れ時期故に、兵の招集に手間取っておったが、そうこうしているうちに、大熊殿の敗戦を知り、身を案じておったのじゃ。先ずはご無事そうで何より。お疲れでござろう、この甲斐は山国故に、何のお構いも出来ぬが、ゆるりと休まれるがよい」

 出兵の準備などしているわけがない。全てが嘘で塗り固めた言葉だったが、敗戦と長期に及ぶ逃避行のために、心身ともに疲れ果てている朝秀にとっては、何よりの有難い一言だった。

「面目次第もございませぬ。敗軍の将に対して、かくも温かいお情けを掛けて下さるとは、何という寛大なお心でございましょう。この大熊備前守朝秀、本日のことは一生心に刻み置きます」

「いやいや、当然のことを言った迄のこと。お気になされませぬよう。ところで大熊殿、如何であろう。今は何も考えられぬかもしれぬが、儂に仕えてみる気はござらぬか。無論、今までのように、城持ちとは参らぬが、食うに困らぬくらいの扶持は差し上げるつもりだが」

 朝秀の心の内はまさに欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の状態だった。大博打に勝ったのだ。面前の晴信に対して、朝秀は満面の笑みで返した。

「有難きお言葉、喜んでお仕え申し仕上げます。かくなるうえは、生涯を通し、御家に誠心誠意ご奉公申し上げる覚悟にて、宜しくお頼み申し上げます」

 こう言うと、余程嬉しかったのであろう、晴信の前で地面に額がつくほどに、ひれ伏す朝秀だった。

 この時の朝秀の言葉に、嘘はなかった。大熊朝秀は、後に、晴信によって譜代並みの扱いを受け、終生武田家に尽くすことになる。やがて二十六年の時を経て、多くの裏切りが出る中、朝秀は一切迷うことなく、武田家滅亡に殉じ、天目山の露と消えることになる。

 一方、駒帰で大勝した庄田定賢は、景虎から感状を授けられると同時に、大熊朝秀が担っていた段銭方を取り仕切るよう命じられている。

 これまで、国衆が担っていた税の徴収を、側近に集約したことは、景虎の財政基盤をより一層強固なものにするという点で、極めて大きな意義があった。また、このことは景虎の下で人材が育ち、他の国衆の力を借りずに、国内統治が行えるようになった証でもあった。


 明けて弘治三年(一五五七年)一月二十日、景虎は信濃の更科八幡宮に願文を捧げた。

佞臣(ねいしん)武田晴信は信濃諸将の土地を奪い滅ぼし、神社仏閣を破壊するなど、悪行三昧を繰り返しております。自分(景虎)は信濃の国の安寧のために、乞われて出陣しておりますが、是非とも神のお力で、国に平穏をもたらして頂きたい』との内容を記した願文だった。これは信濃国に鎮座する神に、景虎が自らの信濃出兵の正当性を誇示してものだ。

 景虎の晴信に対する当初の感情は、ここまで(こじ)れたものではなかったはずである。

 しかしながら、合戦に及べば逃げる、避ける、を繰り返し正々堂々と戦う気がない。更に北条や大熊といった諸将を(そそのか)して、謀反を起こさせるなど、卑怯極まりないことを平然とやってのける。これらの繰り返しによって、徐々に歯痒さと怒りが増幅し、この時期には(はらわた)が煮えくり返るほどの激しい憎悪に、転化していったのであろう。

 清廉潔白で真っ向勝負の景虎の性分とは、全く相容れない行いを晴信が繰り返す以上は、当然の帰結でもあり、景虎の苛ついた気持ちが、この願文に表れている。

 越後の国内情勢が落ち着きを増すほど、景虎の眼は自ずと国外へと向けられる。その最たる国が、目と鼻の先くらいに近い信濃だった。

 しかし、このような景虎の願文をあざ笑うが如く、武田晴信はまたもや動き始めた。

 二年前に普請拡張した葛山城を、武田軍が急襲し、これを攻め落としたという報せが、春日山城にいる景虎のもとに届いたのは、弘治三年(一五五七年)二月だった。

 葛山城は寝返った栗田永寿が籠る旭山城に対抗して、拡張した山城である。

 調略を得意とする真田幸隆によって、葛山城を守っていた落合遠江守が武田方に寝返り、晴信の重臣である馬場民部の軍勢を、城内に手引きされたとあっては一溜りもなかったらしい。

 守将の落合備中守と、援軍の将であった小田切駿河守は城内で敢なく討ち死にし、援軍を試みた長沼城主の島津忠直は、たまらず大蔵城に逃れたという。

 景虎の怒りは凄まじかった。遣り口があまりにも汚すぎる。

「姑息にも城方を調略して、城に引き込むなど卑怯千万。断じて許せぬ。今度こそ戦に引きずり出して決着をつけてやる」

 こう言い放つと景虎は直ちに陣触れを発した。

 ところが、時期が悪い。陰暦二月下旬は雪も溶け、稲作に向けての準備期間に入っている。

 急な兵の招集には身動きが取れず、景虎の陣触れといっても、応じられない国衆ばかりだった。 

 それは、直参並みの直江実綱や本庄実乃をはじめ、今や親戚筋筆頭の長尾政景ですら、同じ有り様だった。

 その結果、多少の兵が追い付いてくると予想し、先に進発していた景虎の思惑は外れ、信濃国境で立ち往生することになる。

 戦国時代の兵は、未だ兵農分離が進んでいない。つまり、農閑期の出稼ぎ兵が多く、越後も例外ではなかった。最も早く兵農分離を進めた織田信長でさえも、その実現はもう少し後になる。

 恐らく、今回は冬から用意周到に準備を重ねて、計画的に出兵した武田晴信のほうが一枚上手だった。降雪量の違いはあれども、越後と信濃の雪解け時期はほぼ変わらない。

景虎が国境付近で、兵の招集に苦心している間に、晴信軍本体を加えた武田勢は、更に侵攻を進める。遂には、景虎の親戚筋に当たる高梨政頼の居城・飯山城まで、押し寄せていた。

 飯山城は単なる親戚筋の居城に止まらない。越後とは目と鼻の先に位置する重要拠点である。

もし、この城が武田の手に渡るようなことがあれば、まさに喉元に刃を突きつけられた危機的な状況に陥ることになってしまう。  

 再三の援軍要請にも関わらず、遅々として参陣しない景虎に対して、城を守る高梨政頼はもう手段を選んでいる時ではなくなっていた。遂に脅しとも取れる内容の書状を送りつける。それは「これ以上、城を守ることは出来ぬ。ご出馬が遅れるようなら止むを得ない。敵方に城を明け渡すしかない」という内容だった。

 景虎にしても、今度こそ武田晴信の息の根を止めてやる、と意気込んで臨んだ出陣にも関わらず、思うように兵が集まらない。業を煮やしているところに、政頼からの書状だから堪ったものではなかった。こうなったら止むを得ない。

「寡兵であろうとも構わぬ。義叔父上を見殺しには出来ぬ。飯山の落城を阻止せねば、末代までの恥となる。参るぞ」

 景虎は、わずか兵二千足らずで飯山城に急行した。弘治三年(一五五七年)も、早や四月を迎えうとしていた。

 ところが、景虎急行の報を耳にした晴信は、すぐさま飯山城の攻囲を解き、一旦塩崎城まで引き下がってしまった。晴信は景虎の軍勢が未だ寡兵であることを知らないはずがない。

相手が寡兵でも長尾景虎である。正面切っての戦は、相当の犠牲を覚悟しなければならず、敢えて回避したのだ。大軍を動員した晴信だが、その内訳は信濃と甲斐の半農の出稼ぎ兵が大半である。

 ここで大量に死傷者を出すことは、農業生産力の減少をも意味し、それだけは絶対に回避しなければならない。また、特に、傘下に入って間もなく、いつ離反するとも限らない信濃兵の損耗は、極力避けなければならなかった。 

 いずれにせよ、これで飯山城の危機は遠ざかった。飯山城に入った景虎は、高梨政頼に遅参を詫びるとともに、飯山の地からあらためて越後の諸将に参陣を呼び掛けた。

 すると、今度は越後の各地から続々と諸将が参陣し、兵の数も瞬く間に七千五百にまで膨れ上がる。もともと諸将が景虎の参陣要請を拒んでいたのではない。兵が集まらないだけなのだ。田植え作業を終えた兵をかき集めた諸将が、これ以上の遅参は拙いとばかりに、慌てて駆けつけてきた結果だった。

 ようやく態勢が整った景虎は、全軍で信濃を南下し、山田城・福島城・長沼城といった敵方の出城を次々と攻略し、その勢いのまま善光寺平へと向かった。

 景虎勢が横山城に入ったのは、弘治三年(一五五七年)四月十八日のことである。横山城は善光寺のすぐ隣の小高い丘に並び立つ平山城である。

 この時の善光寺は、既に魂の抜けた、単なる建造物になっている。本尊の善光寺如来像は武田の手にわたり、他の重要な仏像仏具は越後善光寺に移してしまっていたからだ。しかし、巨大な建造物を戦時に利用する価値は十分にあり、景虎はこれに着眼した。

 もちろん、信心深い景虎が、城として利用するはずがないし、その用途にも適しているわけではない。善光寺の建物を横山城に収容できない将兵の寝所代わりとして利用したのである。

 景虎はこの善光寺・横山城を拠点として、その南西に位置する旭山城を再建させた。ここは一昨年の和議の際に破却させた城である。栗田永寿の寝返りがなければ、もともとは越後勢の重要拠点としていたところだ。葛山城が敵の手によって焼失した今となっては、武田勢を牽制する意味でも、旭山城の再建が急務だった。

 景虎の目的は、この旭山城再建により、善光寺・横山城との二方面から、南にいる武田晴信に向けて、いつでも攻撃出来る態勢を整えることだった。

 以降、景虎は塩崎城に留まっている晴信に対して、しきりに挑発するが、一向に出てくる気配がない。越後勢が余程隙を見せるとか、指揮系統に緩みが見つからなければ、到底攻めてきそうもなかった。

 弘治三年五月十日、景虎は自らの苛立ちを紛らわすかのように、今度は晴信討伐の祈願文を、飯山の小菅山元隆寺に奉納した。

 しかし、そのような景虎の焦燥をよそに、相変わらず晴信の動く気配が感じられない。

 業を煮やした景虎は、遂に自ら全軍で動いた。向かった先はなんと、八幡原を越え、晴信が陣取る塩崎城を西に見ながら、更に南進した坂城だった。

 坂城に到達するには、かつての村上義清の居城である葛尾城より更に南に進まなければならない。第一回目の対戦時に攻め立てた、荒砥城を西に望む場所に位置する。まさに敵の懐深くまで入り込んでの対陣だった。

 景虎としては、これが武田晴信に対するぎりぎりの挑発だった。しかし、今度こそと思えたこの策にさえ、晴信は動こうとしなかった。

 その代わりに、景虎が幻の者から入手した報せは、全く反対方向からの軍勢接近だった。

 北条氏康が派遣した援軍三千五百が、上野国を経て、信濃国・上田に向かって急行しているという。総大将は北条家臣団のひとりである北条綱成らしい。晴信からの要請に従ったものだ。その標的はもちろん景虎である。

 上田と坂城の距離は直線にしておよそ三里しか離れていない。北条軍は、もう目と鼻の先に迫っている状況だった。

 晴信はこの時、諸手を上げて喜んだ。まさか景虎がわざわざ坂城まで南下してくるなどとは、思ってもいない。このまま北条軍が北上すれば、景虎軍の背後を襲うことになる。つまり、晴信勢が北から攻めることで、景虎を挟撃出来る千載一遇の機会が転がり込んできたのだ。

 一方の越後勢は、袋の鼠であり、全滅も覚悟しなければならない。景虎は直ちに陣払いを命じた。夜陰に乗じて、密かに坂城からの離脱を開始し、早暁には塩崎城のはるか東に位置する妻女山麓を抜け出ることに成功していた。

 翌朝、無事善光寺・横山城へと辿り着いた景虎は、間一髪で危機を脱出したことになる。一方の晴信は、景虎を討ち取る最大の機会を逸してしまった。

 弘治三年六月二十三日のことだ。これは西暦で言うと八月十一日にあたる。言うまでもなく真夏である。晴信は遠路援軍としてやってきた北条綱成を丁重に労うが、問題は暑さ対策である。

 越後勢を挟撃する機会が失われた段階で、援軍を活かす最大の策は既に失われてしまっているが、このままでは、炎天下の中で長々と対陣させる羽目になってしまう。晴信は北条勢を荒砥城と葛尾城に分けて配置することで、事なきを得ていた。

 一方、横山城に戻った景虎も、南方の晴信に目を光らせながら、柿崎和泉守景家に兵二千を与え、野沢城の市河藤若を攻めさせたが、なかなか落城には至らない。野沢城は、北信濃にあって武田方の楔とも言える城であり、ここを攻略する必要があった。敵のお株を奪って、高梨政頼を通して調略も行ったが、応じるまでには至っていない。

 こうして、甲越両雄の読み合いや策略が、?み合うことなく、謂わば、空振り続きの状態が続き、またもや、徒に月日だけが過ぎていった。

 季節はまたもや、秋を迎えていた。此度の対陣も既に五か月に及ぶ長期となり、再び兵も倦み始めている。

 ここに来て、さすがの武田晴信も焦り始めた。

 もう、駿河の今川義元に対して、仲裁の労を願うという訳にはいかない。起死回生の手はないか考えてはいるが、相手が相手だけに簡単には思いつかないのだ。

 晴信は弟の典厩信繁と、野田城を守る飯富兵部(おぶひょうぶ)虎昌を呼び寄せて、妙策がないかを練ることにした。

「されば殿、もうすぐ霧の深い日が訪れます。北条軍には城に留まって貰い、後詰めを任せて、その払暁に、この塩崎城から軍を進発させ、善光寺・横山城を襲うという策は如何でしょう。先ず、東に軍を動かし、尼巌砦の麓で小休止の後に、暫し千曲川沿いに進みます。上野原の手前で反転して、横山城を急襲するという道筋ならば、先ず敵に気づかれる心配はございません」

 周辺図を指で動かしながら、飯富兵部が自らの戦術を示した。

「しかしそれでは、敵方の髻山砦(もとどりやまとりで)の守兵に気づかれはしまいか。もしも、早々に見破られれば、我が方が挟撃を食らってしまう。何といっても、相手は長尾弾正景虎、そう簡単に事が運ぶとは思えぬが」 

 典厩信繁が危惧するのは尤もだ。景虎の怖さを一番知っているのは典厩なのだ。

「むろん、その危険があるのは重々承知のうえです。そこで、軍を二手に分けるのです。一方は髻山砦を牽制する軍であり、もう一方の本軍は善光寺・横山城を目指します。これで挟撃の懸念は払拭されましょう」

「確かに挟撃は避けられる。しかし、越後勢の動きは変幻自在。これまでも煮え湯を飲まされておる。慎重に考えるべきと思うが、兄上は如何か」

 典厩信繁は、晴信の考えを求めた。

「典厩が心配する気持ちはわかる。かく言う儂も同じ気持ちじゃ。しかし、恐れていては何も進まぬ。兵部の策を基とするが、横山城攻めの後詰めを、儂が引き受けるというのはどうじゃ。つまり、第三軍として、本体から東側に少し距離を置いて陣構えする。もし、敵が迂回して我が本隊の側面を襲うような動きがあれば、それを封じ込めることが出来る。これでどうじゃ、典厩」

「なるほど、その陣構えであれば、敵の如何なる想定外の動きにも、臨機応変の対応が可能となります」

 典厩の返答に対し、満足そうに頷くと、晴信は軍の編成を語り始めた。

「主力は兵八千で善光寺・横山城を攻める。典厩、そなたが大将じゃ。先鋒は馬場民部とする。馬場民部には戦の才覚があるとみている。それを試す良い機会だ」

 馬場民部とは、馬場民部信房のこと、後の馬場美濃守信春である。

「飯富兵部、そなたには髻山砦を兵二千で牽制してもらう。主力から外れるのは、些か不満かもしれぬが、戦況を見極めながら、時と場に応じた立ち回りが出来るのは、そなたを置いて他にはおらぬ」

「承りました」

「儂は兵三千を率いて後詰を務める。主力本隊から少し離れて進み、越後勢の変幻自在とも言える動きに備える。これで総勢一万三千じゃ。深い霧が出るのは、朝晩が冷える秋晴れの日と決まっておる。真田にいつが良いか探らせよ。また、全軍にはいつでも進発出来るように、戦支度を整えさせよ」

 晴信はようやく腹を決めた。

 弘治三年(一五五七年)八月三十日払暁、予想通りその日は霧が深かった。辺り一帯に立ち込めている、霧の中を総勢一万三千の武田軍が、塩崎城を静かに進発した。


 この時、景虎は未だ武田軍の動きを知らない。

 しかし、妙な感じが纏わりついて離れない。夜明け前から早くに目が覚めてしまっていた。その後もなかなか寝付けない。何のせいかが分からないというのは、自分の記憶には今までにないことだった。

 どれくらい経ったのだろうか、外に人の気配がする。覗いてみると、そこには片膝を立てて控える幻蔵がいた。

「どうした、何かあったか」

「武田大膳太夫、本日払暁、塩崎城を進発。総勢一万三千。進路を東に取り、今は尼巖砦の麓で小休止中との伝令でございます」

「そうか、なかなかの大軍だな。やっと動いたか。奴の狙いは読めたぞ。我らに気づかれぬよう、霧を利用して、そのまま軍を北上させて後、一気に進路を西に変えて、この横山城を襲うつもりに相違あるまい」

「先ず、間違いはないかと」

「よくやった。攻め寄せてくる方向はおよそ見当がつくが、今日の霧は一段と深い。更なる詳細の動きを掴み次第、また報せてくれ」

「ははっ」

 幻蔵は立ち上がると、その姿は(たちま)ちのうちに、濃い霧の中に消えていった。

 景虎は直ちに主だった将を、叩き起こして招集した。軍議などと悠長なことをやっている場合ではない。一刻を争う一大事なだけに、一方的に敵の動きと戦法を通告した。

「敵が動いた。その数およそ一万。その数から、狙いはこの横山城に相違ない。恐らく、髻山の砦を牽制しつつ、我らに悟られぬよう霧に乗じて、北東から攻めてくるという算段だろう。そこで我らは先読みして、ここ上野原に陣を敷く。全軍七千五百で敵を迎撃する」

 景虎は図面を指で動かしながら、幻蔵の知らせをもとに敵の動向を伝えた。

敢えて、敵兵の数は少なく伝えた。ここ横山城に控える兵の総数は約八千、守兵五百を除く実質の戦闘員は七千五百である。

 戦は事前の気構え次第だ。敵の総数を聞いて怖じ気づく将兵がいなとも限らない。それに武田晴信の慎重な性格から推し量れば、恐らく後詰の兵として三千程度は割くとみた。これまでの戦いぶりから考えても、不測の事態に備えて軍の編成を行っているだろう。実質一万という兵数も、あながち間違いではないはずだ。

「全員に急ぎ兵糧を取らせろ。戦支度が整った隊から順に進発じゃ。言いたいことがあれば、今言ってくれ」

「殿、此度はひとつお願いがございます」

 その声の主は長尾政景だった。

「何でござろう、新五郎殿」

 景虎は平時の物言いとは区別し、「義兄上」とは言わない。正式な席上や戦場においては、あくまで国主であり、総大将として接しなければ、諸将に示しがつかないからだ。

「これまでの戦において、時には留守居役を仰せつかり、また時には陣中において後詰を承ることが多くございました。しかしながら此度の戦は、我が上田長尾衆の武名を、ここ信濃においても轟かせる絶好の機会と存じます。ついては、この新五郎政景が、先陣の命を賜りとう存じます」

「よくぞ申された。では、本日の戦、先陣は上田長尾勢といたす。存分なお働きを期待しておりますぞ」

 この二人のやり取りを、他の国衆は目を丸くして聞いていた。まさか、景虎が同族一門の筆頭である政景に先陣を言い渡すなど、他の国衆にとっては想定外のことである。

 実はこのやり取りは、事前に二人の間で仕組まれたものだった。

 時は数週間前に遡る。

 政景は善光寺・横山城本陣に景虎を訪ねていた。

「この戦、またもや膠着が続きますなあ。両軍ともに決め手を欠いております。このままですと、先年の戦のように、冬を前にして双方痛み分けとなる公算が大きいのではございませんか」

「いや、敵は必ず動くとみております。我が軍も辛いが、敵はもっと辛いはず。甲斐からの長期遠征で、兵の士気を保つのが容易ではないはずです。それに信濃衆の多くは武田の軍門に下って未だ日も浅く、まこと信用できるのは真田幸隆くらいでしょう。他の信濃衆の信頼を繋ぎとめておくためにも、このまま一戦もせずに、のこのこ引き下がることは出来ぬはずです。そこに、我ら、越後勢の付け入る隙が、生まれると踏んでおります」

 毎度のこととは申せ、景虎の戦場における読みの深さには感心させられる。そう思いながら、政景は続けた。

「なるほど、確かに敵の身になってみれば、簡単には引っ込みがつきませぬか。それであれば、殿、ひとつお願いがございます」

「あらたまって何でございましょう、義兄上」

「おそらくは、次が一戦に及ぶ最後の機会でございましょう。その先陣を我が上田衆に賜りたいのです」

「なんと、それは」

 政景からの急な申し入れに、景虎は一瞬戸惑うが、直ぐに気を取り戻した。

「義兄上を、さような最前線に身を晒させてしまうことは出来ませぬ。義兄上は副将としての立場で戦を指揮して貰わねば困ります。それに、もしものことがあれば、姉上や卯松に合わせる顔がございませぬ」

 その景虎の反対を遮るように、政景は尚も粘り(こだわ)った。

「殿のご配慮には感謝申し上げる。しかし、我が上田衆にも、戦にかける意地と矜持があるのです。此度こそは、越後に『精強なる上田衆あり』と世に知らしめねば、儂の、いや上田衆全員の気が済まないことを、どうかご理解頂きたい。それに、これは同族一門を優遇している、という他の国衆の密かな不満を、抑えるためでもあるのです」

 確かに、これまで景虎は、政景と上田長尾家に対して、細心の心配りを行ってきている。その心配りに対しては、政景も十分に結果で応えてきているが、今、政景に言われた通り、確かに他の国衆の視点に立った配慮が、多少欠けていたことは認めざるを得ない。

「義兄上、(かたじけな)く存じます。義兄上の一言に気づかされました。他の国衆からみれば、同族優遇と取られても仕方ない点がありました。我が浅慮の段、どうかお許しください。此度は、有難く先陣をお願いしましょう。但し、折角、先陣をお願いするのですから、他の国衆がいる前で、義兄上自らが願い出て、それを儂が受けるという形にしては如何でしょう」

「なるほど、それなら他の国衆から、妙な詮索もされずに済むということですね。突然、一方的に殿から先陣の指名があれば、何かあったのでは、と勘繰られるのが常ですから、敢えて無用な火種を自ら作る必要はない。それでは、その時が参りましたら、自ら進んで先陣を申し出ることにいたしましょう」

 政景は満足そうな笑顔を景虎にみせ、景虎も目を細め静かにうなずくことで応えていた。


 弘治三年(一五五七年)八月三十日卯の刻(午前六時頃)過ぎ、越後勢は長尾政景を先鋒とする陣を上野原に敷いた。陣形は魚鱗である。

 その頃、武田勢は尼巖砦の麓で小休止を終え、千曲川沿いから西南方向に位置する横山城に向けて、ひたすら進軍中だった。

 そこに先行していた斥候から晴信のもとに注進が入る。

「申し上げます。越後軍、既に上野原に陣を敷き、我が軍勢を待ち構えている様子。霧で確かな兵数は計りかねますが、大軍であり、ほぼ全軍で押し出してきたものと思われます」

 晴信は直ぐに百足隊を招集した。

「拙い、典厩と飯富兵部を呼べ。一旦、進軍を止めるよう全軍に伝えよ」

 晴信の伝令が方々に飛んでいく。

 やがて、前方を進み本隊を指揮する典厩信繁と、髻山牽制隊を率いる飯富兵部が、晴信のもとに駆けつけた。それぞれの大将を呼び戻すということは余程のことだ。何か異変が生じたことは疑いがなかった。

「典厩、兵部、策は破れた。敵は善光寺・横山城にはおらぬ。既に上野原に陣取って、我らを待ち構えておる。よいか、これから我らは足色を落として、ゆるりと進軍し、上野原手前で霧が晴れ、見通しが利くようになるまで待機する。かくなるうえは、我らは全軍で、上野原に待ち構える敵と一戦交えるしかあるまい。飯富も我ら後詰も、本体に合流する。飯富隊は本体と我が後詰の間に入ってくれ。もし、敵が横から本隊を襲ってきた時は、指示を待たずに直ちに出撃して構わぬ。但し、勝手な抜け駆けを許してはならぬ。本隊では、全て典厩の号令で動くことを全軍に叩き込め。あとは必要に応じて、儂が後方から下知する」

 急ぎ、二人が駆け戻っていく。

 それにしても、長尾景虎とはまこと恐ろしき奴よ。こちらが裏をかくつもりが、危うく敵の策にまんまと()められるところであった。あのまま進軍していれば、我が軍本隊の右翼が側面から襲われていた。相当の犠牲が出たのは間違いない。まさに間一髪であった。

 晴信は胆を冷やしながら、心の中でこう呟いていた。


 霧が徐々に薄くなるにつれて、敵の全容が掴めてくる。一万余の敵兵が待ち構える戦場は壮観と言うしかない。長尾政景は馬上にあって、軽く武者震いをした。幸い誰にも悟られていない。

 敵も我らが上野原に陣取ったことに気づき、側面からの攻撃で撃破するという策はもう取れない。両軍が正面から睨み合って、戦機を伺っている。

 焦るな、新五郎。先陣に逸ってはならぬ。むやみに突っ込むような愚を犯しては敵の思うつぼとなる。それにしても、なかなかの堅陣だ。攻め手が見つからぬ。ここは我慢比べか。しかし出る。必ずどこかに(ほころ)びが出る。それを見逃すな。

 政景は根気強く敵陣を凝視し続けた。

 いつの間にか、陽は高く上り、秋色に染まった上野原を照らしている。

 政景は敵の先鋒に、些か落ち着きのない一人の侍大将を見つけ目で追いかけていた。先ほどから頻繁に馬を左右に回わしている。あれは自らの逸る気持ちを、必死に抑えている(あかし)だ。

「伝令」

 いざ、こちらから仕掛ける場合は、景虎に伝える手筈になっている。

「殿に急ぎ伝えよ。これから、あの左右に激しく動いている武者の隊に(けしか)けてみようと思う。その動き次第で道が開けるかもしれぬ。その時は存分に働きくだされ、とじゃ。行け」

「委細承知」

 伝令を受けた騎馬武者が、景虎の待つ本陣に駆け去っていく。それを目で送りながら、政景は引き連れてきた軍勢を前に大音声で叫んだ。

「皆の者、よく聞け。我らはこれから、あれに見える敵の先鋒に仕掛ける。弓手は儂の号令で前に出よ。矢が届く間合いに入ったら、急ぎ三本を射かけるのだ。敵は気が逸っているから、必ず誘いに乗ってくる。敵が突出すると同時に、我ら騎馬隊は二手に分かれ、一旦後方に散ると見せかけて反転し、左右両方向から挟撃する。槍隊は弓隊と速やかに入れ替わり、騎馬隊での攪乱の後を、正面から叩けるだけ叩け。その後のことは戦況をみて判断する。よいか、この戦は我らの働き次第で決まる。我ら上田衆の武名を轟かせる絶好の機会と心得よ。しかし、絶対に抜け駆けは許さぬ。全員、儂の指令に従え。良いな」

「おう」

 上田衆の掛け声が地響きのように後方の本隊に伝播した。


 敵の動きが慌ただしくなってきた。

 先鋒を承った馬場民部は、典厩信繁からの突撃指令を待っているが、一向にその気配はない。

幾度となく、後方に陣取る典厩信繁に伝令を送っても、返ってくるのは、未だ待て、の指令のみだった。

 その血気に逸り、焦れている馬上の姿が、敵将・長尾政景の眼に止まっていることなど、知る由もない。勇猛果敢で知られる馬場民部少輔信房は、この時齢四十三を迎え、壮年の域に達していたが、侍大将としての経験は未だ乏しい。逸る気持ちが何気ない動作に表れていた、としても仕方がなかった。

 この時の典厩信繁は、横山城急襲の策が破れた以上は、正面切っての決戦は回避しようとしていた。これまでの苦い経験が蘇り、積極策には慎重にならざるを得ない。

 とは言え、こうして大軍同士が対陣しているからには、信濃国衆の手前、一戦も交えずに退ける状態でもない。また、睨み合いが続くなかでの、軍の退き方が難しいことも知っている。下手をすれば、退くところを襲われて総崩れになる危険すらある。

 先鋒の馬場民部からは矢の催促を受けているが、その都度、戦機は未だ熟さず、と追い返していた。

 気づけば、陽も高く上り、午の刻(正午)を迎えようとしている。まさか、このまま夜を迎えるわけにもいかない。そもそも、今日に限っては機が熟することなどないのかもしれない。 

 典厩信繁は、一度目を閉じて一呼吸を置き決断した。

「馬場民部に伝令、頃合いを見極めて攻め立てよ、とな」

 赤色の具足を纏った百足隊の兵士が駆け去り、馬群の中に消えていった。

 それと同時だった。遥か向こうの敵方から、矢が降り注ぐように射かけられ、味方の先鋒に吸い込まれていく。先手を打ち、仕掛けたのは越後勢だった。

 しまった。一呼吸遅れたか。

「源五郎、真田隊と共に兵を率いて、直ちに馬場民部を援護せよ」

 源五郎とは高坂弾正虎綱の幼名である。高坂弾正は真田幸隆隊と共に前線に急行した。


 思った通りだった。敵の先鋒がまんまと誘いに乗ってきた。長尾政景は敵の突出してきた騎馬隊を、挟み込むように馬を回し攻め立てた。

 しかし、なかなか思うようには崩せていない。敵将は開戦前の様子とは打って変わり、冷静に指揮しているようだ。騎馬隊をしっかり左右二手に分けて応戦してきている。

 このような騎馬隊同士の混戦状態では、どうしても槍隊の働き場が失われてしまう。目の前の敵を打ち払いながら、どうしたものかと考えあぐねていると、急に前方の敵が崩れて抵抗が薄れた。

 庄田惣左衛門尉定賢率いる騎馬隊が、鋒矢(ほうし)の陣形で敵の側面に突っ込んでいたのだ。

 戦の定石では、旗本が総大将の陣取る本陣を離れて、戦の最前線に回るなどはあり得ない。しかし、この景虎の采配こそが、戦に関して天賦の才を持ち、その右に出る者はいない、と言われる所以だった。

 この奇襲によって崩れた馬場民部隊に、長槍隊が総攻撃を仕掛けたから、武田軍は堪らない。

しかし、総崩れとなるかに見えたのも、ほんの一瞬でしかなかった。

 急行した高坂弾正の隊が、崩れかけた先鋒を吸収しながら、上手に後退させており、攻撃の波が伝わりづらくなっている。

 そこにまた新手の軍が加わった。旗印は六文銭、真田幸隆の軍勢である。逆に越後勢を挟撃に入る構えだ。政景は一旦軍を退こうとするが、攻めの勢いを簡単には止められない。このままでは味方に大きな犠牲が出てしまう。それを阻止せんと、猛攻を仕掛けたのが、直江実綱軍と柿崎景家軍だった。挟撃態勢に移っていた真田軍を左右から搾り上げてきた。こうなると、真田軍も退かざるを得ない。

 その頃合いをみて景虎は、直ちに退き鐘を命じた。

 景虎は横に大きく広がった戦場を睥睨(へいげい)していたが、このままでは双方に犠牲が増えるばかりで、何ら得るものはないと即断したのだ。

 一方の武田信繁も、これ以上の犠牲は望んでいない。越後軍の退却に合わせて、全軍に撤退を命じた。

 やがて、両軍の間には半里ほどの距離が生じ、またもや双方は睨み合いに入った。既にこの時、陽は大きく西に傾いている。

 両軍にこれ以上戦う気はなかった。申の刻限(午後四時)を迎えると、申し合わせたかのように双方が後方から順に軍を退き、酉の刻(午後六時)には、上野原から完全に人の気配が消え去っていた。

 横山城に戻った景虎は、先鋒を担った長尾政景を、早速本陣に招き寄せて、その功を労った。

「新五郎殿、先鋒の大役、見事でございました。今日の戦で我が方が挙げた首級は、凡そ四百五十に対して、失った兵の数は百足らずでございます。あの乱戦の中で、これだけの戦果はなかなかのもの。さすがは精強を誇る上田衆です。」

 景虎の賞賛を、政景は素直に喜べない。

「敵の先鋒、馬場民部とやら、なかなかの強者でした。軍の動きも敵ながらあっぱれ。庄田殿の援軍があればこそ崩せた相手で、我らだけでは如何ともいたし難く、きっと往生していたでしょう。さすがは殿の采配と、あらためて感服しております。それに高坂隊に加えて、真田隊が迫ってきた時は、正直これまでかと観念しました。その時も、直江殿と柿崎殿に救われ申した。ご両人の援軍がなければ、どうなっていたかと思うと、今思い出しても鳥肌が立ちます」

「いいや、戦は全軍で挑んでこそ、勝機が掴めるというもの。先鋒を周りが支えるのは当然の務めというものです。新五郎殿が戦機を見極めて、先端を開いてくれたからこその勝ち戦でござる。それに、あの難しい引き際を、ほぼ無傷で撤収出来たのは、お見事と申し上げる他ありません」

 同席していた直江実綱が、些か不満げな政景を慰めてくれた。しかし、その言い分は的を射ていた。戦場においては特に、撤退が一番難しいことは、誰もが知る常識だ。日頃の鍛錬と、兵の操縦術が要求される。その意味でも政景の采配には、事実目を見張るものがあった。

 それでも、政景は、この程度の勝ち戦で納得できるものではない。開戦前から、この一戦に賭ける意気込みは、並々ならぬものがあった。

「殿、またの機会があれば、是非とも再度先鋒を仰せつかりたい。今度こそ、敵を圧倒してご覧に入れましょう」

 景虎はこの時、何故か政景が生き急いでいるように思えてならなかった。一種の危うさを感じていながらも、やはりそれを口にすることは(はばか)れた。政景には、直江実綱と同様に、自分の片腕としての役割を期待しているし、充分にその力量もある。自身が出奔騒動から、こうして国主の座に舞い戻っているのも、政景の働きが大きい。戦での手柄などは、他の国衆に任せればよく、あくまで二の次でよかった。

「何とも頼もしきお言葉。いずれ、その時が参りましょう」

 こう言って政景を見つめ、その場を取り繕うしかない景虎だった。


 同じ頃、晴信は全軍を率いて、尼巖砦に向かっていた。弟の典厩信繁と轡を並べて馬上にある。

 一晩を砦で過ごし、翌日、塩崎に帰城するつもりだった。

「なかなか、敵の虚を突くというのは至難の業のようじゃ」

 晴信が真っ直ぐに前を見ながら信繁に話かけた。

「まこと、左様でございます。我が軍の動きを事前に察知していたのでしょう。腕利きの忍びを数多く抱えているものと思われます」

「しかし、それは我らの三ツ者も同じであろう」

 三ツ者とは武田晴信(信玄)が抱えた隠密集団の総称である.

「仰せの通りです。しかしながら、戦の折には敵の忍びの相当数が、この北信濃に入り込み、複数の組に分かれて、連携を取りながら動き回っている様子です。なかなかその正体を掴ましては貰えません」

 それを聞いた晴信は、暫く何事か考えている様子だ。こういう時の晴信に対しては、再び口を開くまで待つしかない。

「いま、三ツ者の総数はどれくらいか」

「およそ六十人と聞いております」

「ならば、ここ数年で倍に増やせ。銭は使って構わぬ。腕の立つ者を集めよ。戦の折にはこの信濃に集めて、敵と思しき者を捕捉次第、抹殺していく他あるまい。頼んだぞ」

「承知仕りました」

「ところで、民部と源五郎の働きぶりは如何であった」

「二人とも、なかなか良い働きぶりでした。馬場民部の用兵はしぶとく、敵の先鋒である長尾越前守政景も、相当手を焼いたものと思われます。景虎旗本隊の庄田惣左衛門尉なる者に攪乱されていなければ、ほぼ互角の戦いでした」

「毎度とは言え、景虎という男、想像を超える突飛な策を弄する奴よ」

「全く。その後の槍隊の攻撃も侮れません。高坂隊と真田隊が少しでも遅れていれば、お味方が危うく大きな損害を被るところでした」

「兵四百五十の損害で済んだのは、不幸中の幸いと言うべきか。それにしても、景虎を何とかしなければ、一向に信濃攻略が進まぬ。いずれは雌雄を決する他あるまい」

 晴信は嘆息しながらも、この時、やがて迎えるであろう、景虎との決戦の日を覚悟していた。

 遠くに見えていた尼巖砦の篝火が、徐々に近づいてくる。いつの間にか、西の空から暗雲が迫っていた。

「明日は一雨降りそうです」

 典厩信繁がぽつりと呟いた。


 双方ともに、この上野原での激突が限界だった。秋は深まる一方で、朝晩の冷え込みが増すばかり。これでは兵の士気が下がる一方だ。何よりも二度目の長期対陣により、望郷気分が将兵の間に蔓延している。顧みれば、此度も双方半年余りの、不毛とも言える月日を費やしてしまっていた。

 景虎にとっては、旭山城の再構築と確保が唯一の成果で、北信濃の守備態勢を固めた後に、九月早々に帰国の途につく他なかった。

 一方の晴信も、景虎帰国後、川中島以南の支配固めと論功行賞を行い、十月に甲斐へと引き上げた。

 但し、武田晴信はただ帰国した訳ではない。尼巖砦の麓を蛇行するように流れている千曲川を、堀として利用した城を築くよう、高坂弾正に命じていた。

 晴信は、北信濃の支配を盤石にし、越後勢を駆逐するには、西側の塩崎城だけでは物足りないことに気がついていた。そこで、東側の平地に一大拠点を築き、越後勢の南下を防ぐために、手を打った結果が、この築城命令だった。後の海津城である。

 こうして、三度目となる川中島での対戦も、上野原での衝突以外は、双方擦れ違いのまま終結を迎えた。

 しかし、これまで三度にわたる対戦にも関わらず、一向に決着がつかないという甲越双方の鬱憤は、時の経過とともに蓄積されて増幅していく。また、その後の数年間の晴信と景虎の動向が、鬱憤の増幅に拍車を掛けることにもなった。それがやがて、永禄四年九月の一大血戦へと、両者を(いざな)うのである。上野原の合戦は、あくまでも、その前哨戦に過ぎなかった。


  *信濃守護


 この頃、名を義藤から改めた室町幕府第十三代将軍足利義輝は、未だ近江国・朽木谷での逼塞を余儀なくされていた。

 むろん、朽木谷での暮らしに満足し、安穏と日々を過ごしているはずがない。この時、畿内覇者として権勢を振るい、まさに我が世の春を謳歌していた、三好長慶打倒を模索しながら、密かに入京の機会を伺っていた。

 義輝は再度入京を果たすに当たっては、朽木稙綱や六角承禎といった近江国の有力諸将の助勢だけでは、巨大勢力を誇る三好勢に対抗するには、心許ないと考えている。つまり、遠方国の有力武将を含めた反三好勢力の結集と、三好包囲網の形成が必要不可欠と判断していた。

 その中でも特に、先年上洛を果たし、雑掌・神余親綱を通して、幾度も誼を結ぼうと接触を図ってきている越後の長尾景虎が、頼みの綱の筆頭格だった。将軍・義輝の目論見は、景虎の強力な武力を背景として、再度入京を果たし、将軍親政を行うことであり、それを実現しようと必死に画策していた。

 弘治三年(一五五七年)十二月、年の瀬が押し迫る頃、義輝は政所執事である伊勢貞孝と、朽木谷の主であり、義輝を庇護している朽木稙綱の三人で、如何にして景虎を上洛させるかを、真剣に密談していた。

「公方様、長尾弾正少弼景虎なる越後の主は、聞きしに勝る傑物でございます。公方様がご執心なのも、いちいち頷けます。先年の上洛の折の評判は、小耳に挟んではおりましたが、まこと義侠の(おとこ)とは長尾弾正のことでございましょう。関東に攻め上がった時も、北条から奪い返した領地は、全て旧領の諸将に返還しただけで、自らの支配下に置くことを、一切行っていないというではございませんか。また、信濃国への出兵にしても、あくまで村上・須田・高梨諸氏といった信濃諸将からの懇願に基づくもので、決して私利私欲に走った戦ではないと仄聞(そくぶん)しております。今日のように、正しき秩序も蔑ろにされ、力ある者だけが大きな顔をして、のさばり横行している世にあって、長尾弾正こそが唯一無二の快男児でございましょう」

 それまでは、越後の田舎者としてあまり知ろうともせずに、興味を示してこなかった朽木稙綱だったが、景虎の噂や評判を集めた結果がこうだった。ケチをつけようがない。

「予がかねてより言っていることを、ようやく分かってくれたか。しかし、長尾弾正景虎は単なる義侠の漢と片付ける訳にはいかぬ。越後は上野国や信濃国に接しているが故に、自国の防衛ということも念頭に置いたうえでの、国外出兵であろう。しかし、その方の言う通り、奪い返した領地領民を、全て元の主に全て返還しているとは、俄かには信じられず、予も驚いておるところだ。長尾弾正こそ、頼むに足ると信ずる漢じゃ。今の予は、将軍とは名ばかりの『お飾り』に過ぎぬ。しかし、長尾弾正の合力を得て、何としても京に舞い戻り、鹿苑院様(第三代将軍・足利義満)の頃のように、なんとか将軍親政を復活させたいのだ」

 義輝の想いに対しては、政所執事の伊勢貞孝が水を注さざるを得ない。

「公方様、しかし、長尾弾正を上洛させるのは、至難の業と心得ます。たとえ弾正が上洛を望んだとしても、甲斐の武田大膳太夫晴信が、それを黙って見過ごすはずがございません。つい三月ほど前まで、信濃国・善光寺平で甲越両軍が戦っていたというではございませんか。既に対戦は三度に及びながら、双方相譲らず未だに決着がついていないとか。もし、長尾弾正が越後を留守にして上洛したと武田が知れば、北信濃から越後への侵攻を企てるは必定でございます。そのような不安があるうちは、長尾弾正の上洛が叶うことはないと存じますが」

「然らば何とすればよい。何か良い方法はないものか」

 些か憤っている義輝に対して、伊勢貞孝は待っていました、と云わんばかりに、平静を装い、自案を提示した。

「妙案がございます。以前から武田大膳太夫は、甲斐守護に加えて、信濃守護への任官を欲しております。その申し入れを呑み、信濃守護に任ずることを条件として、公方様が甲越両者の和睦仲裁の労を取り持つ、というのは如何でございましょうか」

 それを聞いた義輝は驚いた。

「信濃守護には、未だ小笠原長時がおるではないか。ましてや、長尾弾正がそれを快諾するとは、とても思えぬ。余が武田を信濃守護に任ずるということは、信濃の支配権が甲斐に移ることを、公式なものとして認めることに他ならぬ。つまり、長尾弾正が正義と信じて疑わない、信濃国衆を助勢するための出兵が、不義という理屈になる。そもそも左様な話を、長尾弾正が受け入れるはずはなかろう」

「公方様の仰せは尤もなれども、武田大膳太夫を納得させて、長尾弾正を上洛させるには、この伊勢殿の策しか残されていないと心得ますが」

 傍で聴いていた朽木稙綱が、ここぞとばかりに伊勢貞孝の案を後押しした。稙綱の賛同を得て勢いづいた貞孝が更に続けた。

「公方様、これには裏がございます。武田大膳太夫を信濃守護に任ずるのは、ほんの一刻(いっとき)でございます。長尾弾正からの不服申し立てがあった段階で、信濃守護補任を撤回すればよいのです」

「そのように任官を軽々しく考えることは罷りならぬ。それにその方が言う通り、武田が信濃守護に拘っているのであれば、一旦許した以上、易々と撤回を受け入れるとは思えぬ」

「しかしながら、それではいつまでも長尾弾正の上洛は叶いませぬ。そこまで公方様が拘るのであれば、長尾弾正上洛の折には、それより大きな馳走があることを、予め約すれば宜しいのでは」

 伊勢貞孝の反論は意味深だった。

「その馳走とは」

「関東管領職でございます」

「なにっ」

 義輝は絶句したが、貞孝は尚も続ける。

「現在の関東管領は山内上杉憲政でございます。長尾弾正が越後で庇護していることは、ご存じの通り。しかし、管領とは名ばかりにて、嘆かわしいかな、長きにわたり、有名無実の職に成り下がっております。そこで長尾弾正に関東管領の職を継がせるのです」

「しかし、関東管領は代々、山内上杉家が継ぐことになっておる。越後の長尾家は、その家来筋に当たるもので、越後守護代である弾正が、管領職を継ぐことを簡単に許すわけにはいかぬ」

 義輝の言い分は至極当然なものだ。

「長尾弾正を、山内上杉憲政の養子にしてしまえばよいのです。そうすれば、何ら問題はありませぬ」

「なるほど、それは妙案じゃ。しかし、いくら上杉家が名門とは言え、長尾弾正がそう易々と長尾の名跡を捨てて、従ってくれるかどうか」

「そこは公方様が納得させる他ありませぬ。関東管領となれば、関東出兵の大義名分を得るのみならず、立場は甲斐・信濃守護を兼任する武田晴信の上位に当たりますぞ。決して、否という返事はないものかと」

「うむ、確かにその通りじゃ。では、早速、その方向で話を進めるがよい。京にいる神余何某(なにがし)とやらに、早速持ち掛けてみよ」

 ようやく合点がいった足利義輝は、甲越講和の話を前進させるよう、得意満面の伊勢貞孝に命じた。

 しかし、この妙案と思えた策も、政所執事の伊勢貞孝が、事もあろうに話を進める順番を違えた結果、一時頓挫してしまう。

 本来は、先ず越後の雑掌である神余親綱を通して、景虎に本意を伝えて内諾を得た後に、武田晴信に対する信濃守護職補任の御内書を発するべきところである。ところが、伊勢貞孝は晴信に対して、先に伝えてしまったから、もう始末に負えない。

 これが明けて弘治四年(一五五八年)一月のことであるが、こうなったのには裏事情があった。

 以前から武田晴信は、正式な将軍義輝に対する陳情とは別に、政所執事である伊勢貞孝に対して、信濃守護職補任の後押しを願い出ていたのだ。むろん、高価な献上金品を添えての陳情である。

 将軍義輝が越後贔屓(えちごびいき)であることを知っており、当初、(まいない)を受け取るだけで、放任していた伊勢貞孝だった。しかし、晴信からの書状が、徐々に高圧的な脅しを帯びた内容に変化してきたために、どうしたものかと焦り始めた矢先の、将軍義輝からの相談だった。

 当然、貞孝は『しめた、この機会を逃す手はない』と、内心では、にやにやしながら、義輝に策を授けた結果が、この始末である。順番さえ違えなければ、景虎が諾と返事をするか否かはともかくとして、何の問題もなかったはずである。

 しかし、人とはいつの時代も浅はかなもの。更なる賂欲しさに目がくらみ、自らの手柄と言わんばかりに、真っ先に晴信に報せてしまったのだから、もう手の施しようがなかった。

 この話が、味方の信濃衆から越後にもたらされ、景虎が激怒したのは言うまでもない。

 むろん、神余親綱を通して、晴信信濃守護補任の説明、晴信との和議と上洛要請、関東管領職継承の話が、後から正式に伝達されたが、景虎は到底これを受け入れることは出来なかった。

 もし、上洛して欲しいのであれば、そもそもの順番が違う。取引道具として関東管領職就任を目の前にチラつかされるのも不本意であり、また関東管領職そのものを冒涜するものである、と全く取り合うことはなかった。

 もちろん、景虎が将軍家に対して直接的表現で上洛を拒否することは誠に畏れ多いことだ。そこで病を理由に上洛は平癒の後、と先延ばす旨の回答に留めるしかなかった。

 この失策の張本人である伊勢貞孝は、数年後、義輝によって政所執事を更迭されるのだが、この時も、自身の失策を将軍義輝に報告していない。後日、景虎上洛の折に、この事実が露見し大いに叱責を食らうことになる。

 一方の義輝は、かねてより神余親綱を通して、あれほど自分への忠誠を誓い、謁見を望んでいる景虎が、何故かくも消極的で、上洛の話が頓挫しているのか、不思議で仕方がない。

 そうこうしているうちに、今度は京で義輝の逆鱗に触れる事件が勃発した。弘治四年(一五五八年)二月に、朝廷が将軍義輝に何ら相談することなく、元号を永禄に改元してしまったのだ。

 本来、改元は朝廷と幕府、すなわち将軍義輝と協議のうえ、行うことが慣例となっている。この慣例を無視して、こともあろうか朝廷が、在京の三好長慶と相談のうえ、勝手に改元してしまったのだ。義輝が激昂するのは当然だった。

 怒りの矛先は当然、三好長慶に向けられる。義輝は、景虎の上洛を待つことなく、朽木氏や六角氏の支援を受けて遂に、朽木谷で挙兵した。これが永禄元年(一五五八年)三月のことである。

 挙兵後、自らの拠点を一歩進め、坂本に拠点を移したまではよかった義輝だったが、当初味方と目された諸将の離反の憂き目に遭ってしまう。この結果、戦況は一進一退の繰り返しで、必ずしも(かんば)しいとは言えなかった。

 しかし、敵方の三好長慶は、自らが置かれている状況を冷静に見定め、この場合、決して力で義輝をねじ伏せようとはしなかった。いつまでも将軍家と敵対することは得策ではなく、このままでは、全国の有力諸大名から、反感を食らってしまうと判断したからだ。これ以上、歴史に悪名高い人物として名を残したくない、という気持ちも働いたかどうかは定かではない。

 ともあれ、三好長慶は六角承禎を動かし仲介役になって貰い、将軍義輝との和議を成立させることに成功する。

 これが永禄元年(一五五八年)十一月のことである。将軍義輝は五年ぶりの入洛によって、ようやく室町御所での幕政を実現させる運びとなった。以降、義輝は自身の権力基盤を確固たるものとするために、仕切り直しで景虎上洛の話を進めることになる。

 一方の景虎は、晴信の信濃守護補任などは言語道断とばかりに、その怒りの感情は収まるどころか、日に日に勢いを増すばかりだった。

 永禄元年(一五五八年)三月の雪解けを待って、景虎は直参の兵に、村上義清や北信濃の高梨政頼・須田満親勢らを加えて、信濃国の奥深く攻め入った。

 この軍事行動は、これまでの三度にわたる川中島周辺における合戦とは、性格を異にしており、武田晴信との決戦を意図したものではない。

 信濃国は甲斐の武田に隷属するものではなく、国を追われた身とは申せ、信濃守護職はあくまでも小笠原長時である。信濃の諸国衆が、自領を取り戻すために、景虎は加勢して戦っているということを内外に示す、いわば示威的軍事行動の色彩が強いものだった。

 しかも、前年の半年にわたる長対陣から数えて、未だ半年余りしか経過していない中での、急な出兵である。これから農繁期を控える時期と相俟って、兵の招集もままならぬことは承知のうえで景虎は動いた。この時の景虎が、如何に怒り心頭だったかがわかる動きだった。

 この景虎の行動に対して、武田晴信は極めて消極策に出た。それは信濃諸将に対して『城門を固く閉ざし、如何なる挑発にも乗ってはならぬ。息を潜めて、越後勢が立ち去るのを待て』という通知だった。兵の招集が困難なのは晴信も同様である。まして、信濃守護の地位を将軍家から公式に認められた以上は、この時期に、越後勢に対抗して出兵する意義は極めて希薄だった。

 このような晴信の対応は、景虎もある程度は念頭に置いていたが、信濃諸城の無反応ぶりには、ほとほと閉口していた。どんな誘い水を投げかけても、城内からは音ひとつとして聞こえてこない。火矢を投じても、予め準備していた水桶で、鎮火させる動きしか感じられないのだ。

 堪忍袋の緒が切れた景虎は、上田の地よりも更に南下し、今や完全に武田領と化した海野の地まで軍を進める。怒りの矛先は、その地一帯の小砦に向けられたのだが、被害は民家や田畑にも及んでいた。

 景虎勢はその一帯を次々に放火して回り、その都度気勢を上げることでしか、晴信の信濃国守護補任に抗議する術はなかった。そこに、景虎や北信濃勢の忸怩(じくじ)たる思いが表れている。

 越後国外とは言え、罪のない民を苦しめることになったことは、景虎にとっては極めて不本意であったに違いない。しかし、ここまで挑発の限りを尽くしながら、武田に味方する信濃諸将が応じないのであれば、民の怒りの矛先は、自分たちを守ろうとしない領主にも向いていく。そこまで計算しながら、断腸の思いで命じた行動だった。

 この景虎の行動を、現代人の我々の感性で、残虐非道と指摘することは容易だが、当時の戦略や常識からは、決して外れたものではない。敵方の土地の農作物、特に田に植えたばかりの稲が、少なくともその年に収穫出来ないということは、武田方にとっては大打撃なのは間違いない。ましてや、信濃や甲斐は海に面しておらず、四方が山に囲まれ、当時は特に未開の不毛な土地が多い国であり、他の収入源に限りがあるという意味でも、その効果は絶大だった。

 それに加えて、景虎が予測した通り、民の怒りは越後勢に向けられると同時に、弱者である民を一切守ろうとせずに、傍観静観を決め込んだ武田に味方する領主に対しても、向けられたという点で、その心理的波及効果は計り知れないものになった。

 こうして、景虎は信濃における一方的な示威的軍事行動を終了させ、春日山城に帰還した。永禄元年(一五五八年)五月のことである。

 帰還した景虎を待っていたのは、京の雑掌である神余親綱だった。親綱は将軍足利義輝直筆の御内書を(たずさ)えていた。この時の将軍義輝は未だ坂本の地にあって、京への復帰を伺っている状態にある。

 この御内書は、政所執事の伊勢貞孝が自身の失策を糊塗(こと)したまま、景虎の機嫌を直して貰うために、将軍直筆の書状を送ることを提案し、神余親綱に持ち帰らせたものだった。

 御内書は、義輝の率直な気持ちが、書面全体に反映したものになっていた。景虎の病を気遣う文面で始まり、病が癒えた後には是非とも上洛して、自分を補佐して欲しいという思いが溢れた内容だ。また、関東の今後についても直に話し合いたい、信濃守護補任についても取り消す意向だ、とも認めてある。

 むろん、景虎の病は晴信の信濃守護補任への抗議と、上洛延期を示唆する方便に過ぎない。

 この義輝の真摯な気持ちに、景虎が感激しないはずがなかった。

 事実、将軍義輝は三好長慶との和睦が成り、京に返り咲いて直ぐさまの永禄元年(一五五八年)十一月に、武田晴信に対して御内書を発している。

 それは晴信が依然として北信濃において長尾勢との小競り合いを続けていることから、すぐさま停止するようとの内容である。また、信濃守護補任は、越後との和睦が大前提であり、直ちに争いを止めなければ、守護補任を取り消すという厳しいことも付記してあった。

 むろん、晴信が信濃における自身の軍事侵略の正当性を言い連ねて、将軍の御内書に対しても、一切取り合わなかったことは言うまでもない。

 一方、将軍義輝の本意と真心を御内書の文面から汲み取った景虎は、神余親綱に返書を持たせて、坂本にいる義輝に送り届けさせた。その返書とは、信濃における争いを棚上げとし、翌年を目途として上洛を果たしたい旨を明記したものである。

 未だ入洛出来ていない将軍義輝が、大いに喜んだことは言うまでもない。

  

 ☆昇華の章


  *日吉大社


 永禄元年(一五五八年)九月、越後の山並みが紅葉で色づく頃、景虎の姿は与板にあった。わずかな供回りを引き連れての墓参りだった。

 直江家菩提寺である徳昌寺近くの墓所である。目の前にあるのは蒼衣の墓であり、傍らには父親である直江実綱が控えている。

 初めて墓前に立った景虎は、やがて腰を下ろし、静かに目を閉じて祈りを捧げた。つい先ほどまでは、些か取り乱す心配をしていた自分が、まるで嘘のようだ。心穏やかに向き合い、自然と蒼衣の御霊に語りかけることが出来ている。


 そなたを失って早や五年、歳月の流れは待ってはくれぬ。瞬く間に過ぎてゆく時の速さを、近頃はつくづく感じるようになってきた。

 この間、儂なりに必死で生きてきたが、果たしてこれでよかったのかと、後から迷うことばかり。そなたが生きてさえいてくれたら、どれだけ心強いことか、と何度羨んだかわからぬ。

 そなたに誓ったことも未だ道半ばじゃ。越後を争いのない、平穏で民が豊かに暮らせる国にするという約束のことだ。かような弱音は、そなた以外には誰にも語ることが出来ぬ。

 国主というものは実に孤独で辛く寂しいものよ。こんな情けない儂を、そなたは今頃笑っているのであろう。

 その瞬間、景虎の頬を優しく撫でるように、秋風が通り過ぎていった。

 そうか、情けない弱気な儂を、笑い慰めてくれたのか。でも、安心してくれ。儂はそなたに誓ったことを必ず実現してみせる。いつ果てるとも知れぬこの命じゃが、精一杯生きて見せよう。それまでの間、どうか傍で見守っていてくれ。

 今度は、近くの木々の枝が静かに揺れ動いた。葉の擦れ合う音の中に、蒼衣の声を聞いたような気がした。

 また参る。


 景虎は目を開き立ち上がった。

「殿、お参り下さり、有難うございました。さぞかし、蒼衣も喜んでくれていることでしょう」

 直江実綱は御礼を言い、景虎に向かって深々と頭を垂れた。

「うむ。儂もようやく蒼衣の死を、正面から受け止められた気がする。城に戻ろう」

 そう言った景虎の口元からは、微かに笑みが零れていた。

 直江実綱は景虎に再び軽く会釈すると、心地よく注ぐ秋の陽だまりの中を先導した。

 

 湯屋を済ませた景虎は、上気したその顔を、実綱に向け酒を注いだ。

 旅の疲れが心地よく感じられる。口の中に広がる酒の豊潤な香りと味が、一層、景虎の心と身体を寛がせてくれていた。

「実は今日、不思議なことが起きた。儂が墓前で蒼衣の御霊に語りかけていると、風の音に混じって、蒼衣の声が聞こえてきたような気がしたのだ。儂の身勝手な願いが招いた、幻想かもしれぬが」

 景虎は墓前での出来事を正直に話してみた。

「そのようなことがございましたか。蒼衣は心から殿のことをお慕いしておりましたから、それは真実かもしれませぬ」

 実綱も今は亡き愛娘のことを想い、感慨深げな表情で酒を口に運んだ。

「儂は今でも蒼衣のことを思い出すと胸が苦しくなる。きっとこの想いを一生抱いて過ごすに違いない」

「もし、今そのことを聞いていたら、さぞかし喜んでくれていると存じます。生前、蒼衣は殿に寄り添って生きることが出来ぬと知り、それならば自分は心の中の伴侶を貫こうと誓い、仏門に身を投じました。幸せには、人それぞれの形がございます。殿と想いが通じ合っていたことを知った蒼衣は、きっと日の本一の果報者だったに違いありません」

 いつの間にか、二人の目には、うっすらと光るものが浮かんでいる。

「与兵衛尉、今日はもう蒼衣の話はよそう。一層想いが募り、辛くなるばかりじゃ」

「左様でございますね。また、いつでも墓参りにお越しください。喜んで御供いたしましょう」

 実綱は顔を伏せたまま応えた。

「思わず感情が高ぶってしまったようだ。本題に参ろうか」

 景虎は感傷的となってしまった場の空気を変えようと、酒を一気に煽り、ひと呼吸を置いて語りかけた。

「上洛のことですな」

 実綱もすでに気持ちを切り替えている。

「そうだ。何故分かった」

「武田大膳太夫の信濃守護補任の件、殿の信濃出兵、そして神余親綱殿帰国の件を合わせ考えますと、結論はそうとしか考えられません」

「ならば話は早い。親綱が持ち帰ったのは、畏れ多くも公方様直筆の御内書であった。儂を頼みにしていることが、文面の随所から滲み出ている、有り難き内容であった。ここまで頼りにされたとあっては、上洛を拒むことなど出来ぬ」

 景虎の自慢げに嬉しそうな顔で話す表情を見たら、反対する気持ちなど、消し飛んでしまう実綱だった。

「殿のご性分であれば、左様でござりましょう。たとえ数多(あまた)の反対があったとしても、押し切る覚悟に変わりはありますまい」

「再び心配を掛けることになるのは、済まぬと思っておる。しかし、ここで今、儂が動かなければ、乱れたこの世が治まることはなかろう。この世は、あくまで足利将軍家を頂きにして、その行う政事に各国の主が従うものでなければならぬ。それが実現するならば、儂はこの身の全てを捧げても構わぬとさえ思っておる」

 まさに「水を得た魚」の如く、活き活きと語りかける景虎の様子に、実綱はすっかり観念している。

「殿のお気持ちはよく分かりました。反対はいたしませぬ。それで此度も、我が御役目は差し詰め、春日山城の留守居役でございましょう」

「うむ、頼みたいのはそのことじゃ。義兄上には、上野国の動向が気になるが故に、坂戸の城で(にら)みを効かせて貰わねば困る。以前のような国衆の訴状があるわけではないが、越中の不穏な動きも気になる。そのうえ場合によっては、信濃を牽制するとなると、お主以外に頼める者はおらぬ。筆頭留守居役として引き受けて欲しい。此度は柿崎和泉守にも留守居役を命ずるつもりだ」

「仕方ございませぬ、お任せくださりませ。それで、上洛の時期はいつ頃をお考えですか」

「万事整えて参るとなると、早くとも明春になろう。よもやとは思うが、此度は戦支度も必要じゃ。未だに公方様は坂本に止まり、三好長慶と争っているという話だ。決して油断出来ぬ滞在となろう」

「それは困りましたな。しかし、殿、決して短慮はなりませぬぞ。如何に殿が戦上手とは申せ、土地勘がない国では、相手方に一日の長がございます。どこに罠が張り巡らされているか、皆目見当がつかない以上は、安易に考えてはなりませぬ。弓矢をもって応ずるのは、あくまで万策尽きた時の、最後の手段と思し召し下され」

「心配には及ばぬ。滅多なことで干戈を交えるつもりはない。数千の兵を率いて参ることになろうが、それはあくまでも戦の暴発を抑止するためじゃ。大軍を率いての上洛となれば、そう易々と我らに弓引く輩はおるまい」

「それを聞いて安堵いたしました。しかし、公方様と三好殿の関係が、これからどう進展するかによるとは申せ、此度は先の上洛を上回る、長期の滞在になりそうですな」

「うむ、問題はそこじゃ。公方様や朝廷、そして公家衆への手土産はもちろんのこと、長くなればその分だけ、兵を養うための銭が必要となる。そこはこれから、庄田惣左衛門尉や蔵田五郎左衛門尉らと、詰めることにしておる」

「殿もなかなか、休まる時間はございませぬなあ。せめて、今日くらいはゆるりと御酒など召されてお(くつろ)ぎくだされ」

「今日は最初からそのつもりじゃ。それにほら、すでに寛いでおる」

 景虎は盃を口に運び、笑いながらも、ある感慨に耽っていた。

 思い返せば二人の邂逅は、未だ虎千代と呼ばれていた時で、栃尾に向かう途中の事件がきっかけであった。あれから、早や二十年近くが経とうとしている。実綱の支えがなければ、今日の景虎はなかったかもしれない。この関係がこれからも長く続くことを、願わずにはいられなかった。

 景虎は夕暮れ時の城から見える、色濃く映えた紅葉に目を移していた。


 永禄二年(一五五九年)四月、景虎は近江国・坂本の地に留まり続けている。自らの意思で留まっているのではない。足止めを食らって早や五日になる。景虎は苛立っていた。

 上洛に向けては、前年の秋から諸準備を始めてきた。およそ半年をかけて万事を滞りなく整え、満を持しての出立であったはずだ。率いた兵も五千の大軍である。陸路近江国まで進んできたところまでは、極めて順調な旅路と言えた。

 越中や加賀の一向宗徒も、精鋭五千の大軍が相手では、迂闊に手出しが出来ない。また、宗滴の死後も、越前朝倉家とは縁を切らすことなく上手く付き合っており、もう道中拒むものなどないはずだった。それが京を目前にして、まさかの足止めである。

 大軍を長期間養う資金は、豊富な財源から確保してきている。朝廷や公家衆、そして将軍家への献上金品も、一部臨時の段銭を課したうえで、十分に準備してきたつもりだ。つまり、景虎にすれば、入京を拒まれる理由が、何一つとして思い浮かばないのである。

 朝廷からは早々に参内日程を、五月一日と伝えてきている。その使者は、関白近衛前嗣(さきつぐ)(後の前久)から遣わされた者だった。

 将軍家には、越前国の三国浜から早馬で、入京予定日を報せている。しかし、その返事は意外にも、連絡するまで坂本で待て、とのつれない返事だった。それからは全くの梨の(つぶて)である。

 上洛して欲しいと懇願してきたのは、他ならぬ将軍義輝なのだ。それにも関わらず、この冷たい態度を取られる理由が、景虎には皆目見当がつかない。

 しかし、これには意外な裏事情があることを、雑掌・神余親綱からの報せによって、景虎が知ることになった。

 五年ぶりに京入りを果たした足利義輝は、将軍親政に意欲を燃やしていたが、山城国の実質的支配者である三好長慶が、それを易々と許すはずもない。

 長尾景虎の坂本着到は、畿内全域に広く伝播しており、三好長慶が神経を尖らかせているのは当然だった。そこで、長慶は様々な行事や将軍としての客人応対を理由として、実質的に義輝の身柄を拘束して、景虎との接触を遅らせるよう、嫌がらせを続けていたのだ。

 しかし、入京出来ない理由を知ったからといって、景虎の苛立ちが収まるものではない。その様子を見かねた小島彌太郎と金津新兵衛は、気晴らしの外出を勧めた。

 それは日吉大社への参拝である。

 近江国の日吉大社は、比叡山の麓に鎮座している。平安京遷都の折に、京を鎮守することを目的として、鬼門の方角であるこの地に開かれた、山王七社を中心とするお社の総称である。

 足止めを食らっているこの機会に、此度の上洛中の安全祈願に詣でてみては如何かと、随行している旧くからの近臣が、景虎を誘ったのだ。 

 信心深い景虎が、この誘いに否と応えるはずがない。ましてや、暇を持て余している状態なのだ。早速、支度をして詣でることにした。

 景虎一行は大宮橋で馬を預けて後、山王鳥居までの石畳を、自らの足で歩を進めた。梅雨入り前の乾いた初夏の風が、時折心地よく一行の間をすり抜けていく。

 額に滲んだ汗を拭こうと立ち止まり、山王鳥居手前の参道脇にふと目を移す。

 そこには、武者らしき二人が低頭したまま、こちら側を向いて跪いている姿が目に入った。一人は四十過ぎの初老といったところか、もう一人は元服して間もない若者らしい。二人は親子に違いなかった。質素な出で立ちながらも、実に清楚な雰囲気を醸し出している。

 もちろん、殺気は感じられない。我ら一行に危害を加える気などは毛頭ないらしい。

 きっと、参拝の帰り道に出くわしてしまった我らに対して、礼を尽くしているのであろう、と景虎は軽く考えた。

 誰一人として、二人を誰何(すいか)することなく、そのまま一行は山王鳥居を潜り抜けて、東西本宮を参拝した。

 境内や参道の至る所には、楓が植えられており、鮮やかな緑色で辺り一面を覆っている。

 さぞかし、秋には一面の紅葉で彩られ、見事な景色であろう、などと、風流を嗜む景虎らしい感慨に耽りながら、先ほど来た道を辿って歩いた。

 山王鳥居まで戻ってくると、なんと先ほどの親子と思しき二人が、未だ参道脇に控えているではないか。

 さすがに気になった景虎は足を止めた。

「新兵衛、あれに控える武者らしき二人は、確か先程も同じ所におったはずじゃ」

「仰せの通りでございます」

「では、何用か聞いて参れ。おそらく、儂を越後の長尾景虎と知ってのことと思う」

「殿、その必要はございませぬ。実はあの親子二人、一昨日、我が陣屋に殿への仕官を求めて参りました。父親の名は河田伊豆守元親、子は長親と申す近江国守山生まれの者共でございます」

「その近江の国人が何故、儂に仕えることを望んでおるのか」

「畏れながら、それは殿ご自身の口から確認するのが一番と心得ます。親の伊豆守は数年前までは、南近江の六角殿に仕えていたと申しております。仔細は殿に直答したいとのことですが、全てを捨て、仕官先探しを含めて、親子見聞の旅に出たとのこと。つい最近まで、浪々の暮らしに身を置いていたようでございます」

「わが越後にも参ったということか」

「はい」

「あい分かった。しかしながら、ご当地は畏れ多くも、神々が宿(やど)るお(やしろ)であり、我らが軽々しく世俗の話をする場所にはあらず。続きは直接陣屋で訊くとしよう。後ろからついて参るよう、二人には伝えて参れ」

「承知いたしました」

 新兵衛が参道の傍らに控える河田親子のもとに駆け寄っていく。その駆け寄る新兵衛の姿が景虎には何故か嬉しそうに見えていた。


「古来より、政事の良し悪しは、その土地に住む民の暮らしぶりでわかると申します。我ら親子二人は諸国を遍歴して参りましたが、越後の右に出る国はございませんでした。行く先々の街や港は活気に溢れ、人々の暮らし向きにも潤いを感じました。そして、何よりも、この乱世には珍しく、義を第一に重んじるという、長尾弾正少弼様の生き様に深く感銘を受け、仕えるならこの御方しかないと思い立ち、こうして馳せ参じた次第でございます」

「確かに、儂は民の暮らし向きを重んじておる。しかしながら、未だに何一つ満足してはおらぬ。ひとたび飢饉が国を襲えば、口を糊することすら叶わず、路頭に迷う民が数多おることも承知しておる。左様に褒めそやされても、全く嬉しくはない。それに、貴殿の物言いから察するに、たいそうな自信家に思えるが、そこまで言い切れる訳を申してみよ」

 景虎は河田元親の尊大な言い方が、少し(かん)(さわ)っていた。景虎は生来、自分の才覚を高くみせようと売り込む者や、世辞で媚びる者を嫌い、決して傍近くに置こうとはしない。いわゆる、謙譲の美徳を大切にする質であり、河田元親の言い方は、景虎が嫌いな典型だった。

 それを鋭く察した元親は、直ちに詫びを入れた。

「それがしは決して自信家などではございません。お気に障りましたならば、何卒ご容赦くださりませ」

「分かればそれでよい」

「ありがとうございます。これから申し上げることは、決してお世辞などではございません。たった今、直接お伺いしたことで、長尾弾正少弼様の民を思うお心が、真実であることをあらためて知ることが出来ました。此度たとえ仕官が叶わずとも、こうして参った甲斐がございました。但し、誤解されぬよう、お伝えしなければならない儀が、ひとつだけございます」

「何じゃ、申してみよ」

「お仕え申し上げたいのは、老体のそれがしにあらず、ここに控える息子の岩鶴丸あらため長親でございます」

 息子の長親に目を移すと、未だ顔を伏したままだ。些か緊張しているのか。

「長親とやら、面を上げよ」

 年の頃は十六、七歳といったところだろう。景虎は自身の若き頃の姿と重ね合わせていた。景虎が黒田秀忠を滅ぼした時と同じ年頃か。長親の顔立ちは凛々しく、胆は据わっているように見える。それに澄んだ眼差しをしている。景虎は一目で気に入っていた。

 景虎の表情が幾分和らいだのを見て、父・元親は一気呵成に長親を売り込んできた。

「父親のそれがしが申し上げるのも、烏滸(おこ)がましいことは、重々承知しております。しかしながら、決して親馬鹿の戯言で申し上げるつもりはございません。我が息子・長親には、乱世を生き抜いて欲しいという細やかな親心から、幼き頃より厳しく(しつけ)を行ない、文武の才覚を伸ばそうと努めて参りました。また、我ら親子二人で浪々の旅を続けるなかで、(たくま)しさを身につけております。未だ若輩ではございますが、ゆくゆくは、弾正少弼様のご期待に沿える働きが出来るものと存じます。せめて、弾正少弼様が畿内におられる間だけでも、お試しに傍でお仕えさせて頂けないでしょうか」

 しかし、景虎は冷静だった。

「今度は息子の自慢話か。才覚の有無は儂が判断するもので、親の貴殿が判断するものではないと心得るが。まあよい、自信の程はわかった。しかしながら、貴殿の言い分をそのまま信ずる訳にはいかぬ。儂と敵対関係にある、どこかの間者かもしれぬし、あるいは、儂の暗殺を企てている者の仲間かもしれぬ。決してそうではないという証を、今すぐに示すことが出来るのであれば話は別だが如何かな」

 景虎の言い分は尤もであり、さすがに河田父子は返答に窮してしまう。しかし、その二人に助け舟を出したのは、傍でやりとりを聴いていた近臣の小島彌太郎だった。

「殿、実は一昨日、新兵衛と共にそれがしも、この親子の話を聞いておりました。殿が心配されることは、我らも全く同じでございます。話の真偽を確かめるべく、我が家人が守山に出向いておりましたが、今朝がた戻って参りました」

「新兵衛だけではなかったのか。それで何が分かった」

「ここに控える二人が、河田父子である証はございませんし、親父殿の風貌や背格好が、かつての河田伊豆守殿に似ているらしいとしか申し上げられません。ただ、確かに弘治二年頃、六角氏から安堵されていた全ての俸禄や土地、財を返上して、守山の地から浪々の旅に出た河田なる親子がいた、というのは紛れもない事実でした」

「河田父子がこの二人とは断ずることは出来ぬが、三年前に浪々の旅に出た二人がいるということは確かだ、ということだな」

「はい、そこで殿、こういうことにしては如何でしょう」

「申してみよ」

 彌太郎が予め用意していた案らしい。

「殿のご懸念は至極ご尤もです。この両名がいずこの間者でもないという証を、立てることは出来ません。しかし、我らお傍に仕える近臣の多くが年々歳を取り、いつまでも殿にお仕えしたい気持ちとは裏腹に、いつ出来なくなるか分からない、という不安を抱えております。今こそ、若き有能な者を殿のお傍に抱え、育てることこそ急務と考えます。そこでここに控える元親殿と思しき親父殿は、この彌太郎の預かりとし、畿内滞在の間は一切息子との接触を絶たせて監視いたします。一方の長親殿と思しき息子殿は、丸腰のまま新兵衛の預かりとし、新兵衛の厳重な監視下で、殿のお傍で仕えさせ、その才覚を見極めるというのでは如何でしょう」

「なるほど、彌太郎の考えにしては上出来じゃ。さては、其の方ら、予め相談のうえ、考えをまとめておったな。ひょっとすると、日吉大社への参拝も、あの場での邂逅も、儂を(たばか)ったのであろう」

「申し訳ございませぬ。殿には隠し事など通じないことは分かっておりましたが、こうするより他に手立ては考えつきませんでした」

「心配するな、責めてはおらぬ。まだ何か言いたそうだな、彌太郎」

 言うことを躊躇している様子の彌太郎を見て、怪訝そうに景虎が催促した。

「殿はお気づきではないと思いますが、この長親殿と思しき若武者は、どことなく殿のお若き頃の面影と、重なるものがあるのです。それでついつい、余計な世話を焼いてしまいました」

「何かと思えば、そんなことか。余計な世話だったかは、これから分かることだ。ところで、元親殿とやら。六角家から出奔した訳を未だ聴いてはおらぬ。肝心なこと故に、正直に話されよ」

 元親は景虎の疑念を晴らせるか否かは、この出奔理由次第であることは最初から分かっている。そのうえで、三年前に自らが取った行動や判断に、恥や悔いがない元親は、澱みなく語り始めた。

「さればお答え申し上げます。当家は代々六角家に仕え、南近江の守山に居を構えて参りました。守山の地は六角家重臣である後藤殿の土地と隣り合わせのために、その境界線を巡っては、以前より小競り合いがございました。但し、小競り合いと申しましても、お互いが旧知の仲でもあり、家来同士の言い争いが専らです。せいぜい素手での殴り合いの喧嘩程度で済んでおり、それを我ら当主同士が、事情を聴き取り、その都度丸く収めるというのが常でございました」

「猫の額ほどの土地を巡って、争いが絶えぬというのは、いずこも同じということか」

 嘆息しながら、景虎が言葉を挟んだ。

「左様、お恥ずかしい限りでございます。それがしが、常日頃から家来に対して、もっと強く躾していれば、と今更悔いても遅きに失しますが、事が起きたのは天文二十四年の秋でございました。その日は、ここにいる幼名・岩鶴丸を連れて、馬の稽古に遠出をしておりました。いつものように、土地の境界線を巡っての言い争いとなったらしいのですが、この日ばかりは、少し様相が違っておりました。後藤家ご家来のあまりの言い分に腹を立て、遂に我が家人が、刃傷沙汰を起こしてしまったのです。普段はおとなしい家人でしたので、余程腹に据えかねたことを言われたのでしょう。後藤家家中の何某殿は、何とか一命をとりとめたものの、二度と戦に出られぬ身体になってしまいました。当然のことながら、後藤殿の怒りは収まることなく、とうとう六角の殿にまで、訴え出られてしまいました。むろん、当家にも言い分はございましたが、如何なる理由があるにせよ、非は刀を抜いた我が方にございます。如何に収拾を図ろうかと思案しましたが、後藤殿が最も納得する答えは、我が河田家の禄を返上し、後藤殿に割譲することだと考えました。この時より一年前に、この子の母親は他界しており、身軽な我ら父子二人ならば、食い扶持くらい何とかなると思ったのです。そこで、沙汰を起こした家人だけは、暇を出すことで収め、他の家人全員を召し抱えて貰うことと引き換えに、責めの全てを負う形で、先祖代々から引き継いできた全てを返上し、浪々の旅に出た次第でございます。なお、旧領のほとんどが後藤殿の領分として再配され、我が家人であった者全てが、従来通りの暮らし向きであると聞き及んでおり、安堵しております」

「何故、浪々の旅になど出ようと考えたのじゃ」

 景虎の疑問は的を射ている。当時、好んで浪々の旅に出るなど、普通では考えられない。

「乱世に生を受けたからには、南近江に止まらず見聞を広めたいという、それがしの若い頃からの密かな願望がございました。それに、この長親にも旅をさせることは、諸国の事情を直に見聞することになり、将来の仕官先を見つけるうえで、必ず役立つと考えました」

「なるほど。しかし、いくら旅に出たいとは言え、全てを捨てるなど、惜しいとは思わなかったのか」

「未練がなかったと言えば、それは嘘になりましょう。しかし、家人を罪人として処罰せず、そして、他の家人が路頭に迷うことなく、如何に円満に事を収めるかを考えた結果、この結論しか思いつきませんでした。それに、これはもしや、神が我に与え給うた試練であり、天命ではないのか、と考えたら、意外と簡単に諦めがつきました。辛かったのは、長年仕えてくれた家人たちとの別れです。我らが旅立つ日、姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた姿は、今もはっきりと目に焼きついております」

「三年間、諸国を回って如何であった」

「幸い、多少の貯えは持ち合わせておりましたので、寝食に困ることはありませんでした。苦難は覚悟のうえでしたので、むしろ、親子二人の流浪の旅を楽しむようにして参りました。それに何よりも、この日の本には想像を超える沢山の国と、そこに暮らす人々がおります。そして、その土地、土地での風習や決まりがあり、視野が一挙に広がったことは、やはり無駄ではなかったという気がいたします」

「三年間の流浪が役立ったというわけか。彌太郎、もうよいぞ」

 景虎は元親から目線を彌太郎に移した。

「今、この者が申したこと、そなたの家人が守山の地で聴いてきたことと、まこと相違ないか」

「はい、寸分も違えてはおりませぬ」

「わかった。では、先ほど申した通り進めるがよい」

「ははっ」

 彌太郎と新兵衛は弾む声を揃えた。

 景虎は後を任せて立ち去ろうとしたが、思いついたように一瞬立ち止まり、河田長親に声をかけた。

「長親、励め」

「はい、有難うございます」 

 景虎の思いがけない一言に感激した長親の声は大きく、周りを驚かせる程だった。

 その声に満足した景虎は、笑みを返しその場を立ち去った。

 

  *再上洛


 雑掌・神余親綱を通して、足利将軍義輝から上洛の命が届いたのは、日吉大社参りの翌々日である。

 早速、日吉大社参拝の御利益を授かったと、景虎は喜び勇んで室町御所へと足を運んだ。永禄二年(一五五九年)四月二十七日のことである。

 越後から五千の兵を率いてきたとは言え、三好長慶を過度に刺激してはならない。大半の兵は坂本に止め置き、入洛は精鋭三百に人員を絞ることにした。それでも、京の民は六年前の越後勢入洛時の雄姿を忘れていない。室町御所迄の沿道は、その凛々しく勇ましい武者姿を、再び目に焼き付けようという野次馬たちで、たちまち埋め尽くされた。

 将軍義輝への謁見は作法に則り、滞りなく行われた。形式的な言葉が幾度か交わされ、土産として持参した太刀や馬、数多の黄金を献上し、公式行事は終了する。

 その後に景虎が案内されたのは室町邸だった。

 室町邸は将軍義輝の私邸であり、いわゆる、心許せるほんの一握りの者しか立ち入ることが出来ない空間であるが、なんとそこには先客が座っていた。

 服装や烏帽子、そして佇まいから、一目で相当高貴な公家の一人であることは想像がつく。年の頃は二十四、五歳といったところか。将軍義輝とそう変わらぬように思える。

 そのお方が景虎の姿を見るや、いきなり気さくに話かけてきたので、景虎は些か面食らってしまった。

「貴方がいま、(ちまた)で評判の長尾弾正さんかえ。この際、難い挨拶は抜きにしましょう。麿(まろ)は近衛前嗣じゃ。宜しくお頼み申します」

 そのお方は、五摂家筆頭の近衛家、関白前嗣だった。

「いかにも、越後守護代、長尾弾正少弼景虎でございます。以後お見知りおきの程、御願い奉ります」

 如何に難い話は抜きと言われても、その言葉を鵜呑みにする訳にはいかぬ。その言葉通りに粗略な返答をして、あとから田舎者の誹りを受けては堪らない。景虎は腰を下ろし、諸手をついて丁重に平伏して挨拶した。

「だから、難い挨拶はなし、と言ったではないですか。貴方の華々しい評判は、先年の上洛の時から耳にしておりました。如何なる御仁であるのかと、こうして会える日を心待ちにしておりましたぞ」

 前嗣の言う通り、顔を上げた景虎は、その人懐こそうな前嗣の目を見ながら訊ねた。

「不躾ながらお訊ね申す。御公家様の筆頭である関白殿下が何故、将軍家への出入りをなさっているのでしょうか」

「驚かれるのも無理はないですね。我が母はもともと細川家の出のため、我が心と身体には武家の血が半分流れております。その母が久我家の養女に入り、父・稙家に嫁いで生まれたのが麿ということ。それに、我が妹は将軍家に政所として嫁いでいるから、義輝殿とはこうして、義兄弟としての交誼を重ねておる次第。お分かり頂けましたかな」

 景虎は神余親綱からの事前情報として、この婚姻関係を知ってはいたが、まさか本人不在にも関わらず、私邸の中に勝手に入っても、何ら咎められない程の、蜜月の関係とまでは、驚くしかない。

「左様なご関係でございましたか」

 こういう時は余計なことを口にしないほうが無難だ。景虎は必要最小限の反応に留めた。すると、思っていた通り、前嗣のほうから勝手に話をしてくれる。

「ご存じないのも尤もな話。この畿内を実質支配しているのは、知っての通り三好殿ですからね。麿の中には武家の血が流れている、などと嘯いてみたものの、情けない話とは思うけど、その三好殿に睨まれることだけは何としても避けたいところ。公家としての臆病風が吹いて、公方さんとの関係を、吹聴してはいないというだけのことですよ。とは言え、京人の口に戸は立てられない。知っていながらも、およそ知らぬふりを決め込んでいるものと思っておりますが」

 このお方は、公家には珍しく、正直者ではあるらしい。景虎は前嗣という男に少し興味を持ち始めていた。

「すると、公方様と関白近衛家との関係は、我ら遠国の者には伝わらなくとも、三好殿は既にご存じのはず、と読んでおられるのですな」

「無論知らぬわけがないでしょう。ただ、当家と公方さんの間柄を、公式なものとして天下に示すことは、自ずと公方さんの威光が増してしまい、三好長慶にとっては都合が悪い。だから、黙っているだけのことです。長慶殿は正面切って公方さんと事を構えるつもりはないはずですよ。何故ならば、貴方のような、将軍家を信望する他国の多くを、敵に回したくないからね。その意味で言うと、貴方の上洛には相当、神経を尖らしているはず。こっちは面白いと思っているけど」

 そう言うと、前嗣は公家特有の高笑いで話を締めた。この前嗣という御仁は、一方的に心を許してしまうと、およそ公家とは思えない、ぞんざいな言葉を使うらしい。

 そこにようやく、将軍義輝が二人の前に姿を現した。

 義輝は既に平装に衣替えしている。あらためて、威儀を正して挨拶しようとする景虎を、義輝は手で制しながら着座すると、既に非公式の場と割り切り、気さくに話しかけてきた。

「長尾弾正、待ちかねておったぞ。よくぞ上洛してくれた。また、予から上洛して欲しいと頼んでおきながら、坂本に幾日も止め置いた非礼を許して欲しい」

 公式の謁見の場とは打って変わり、そこには清々しい一人の青年貴人がいるだけだ。

「公方様、勿体なきお言葉でございます。左様な些末(さまつ)なことはどうかお忘れください」

「いいや、そうはいかぬ。征夷大将軍とは言え、今の儂には力がない。悔しいが、三好の機嫌を損ねぬよう、つかず離れずの態度を取るしかない。どうか分かって欲しい」

「なんの、こうしてご尊顔を拝し奉れましたことで、左様なことは、全て鴨川の水に流しております」

「嬉しいことを言ってくれる、のう関白殿下」

 義輝は、先ほどから二人のやり取りを興味深そうに聞いている、関白前嗣に話を振り向けた。

「左様、公方さんは貴方のことを、他の誰よりも心底頼りにしてはる。それは世辞でも何でもなく、まことの話。そう言えば二月に尾張の織田上総介信長も上洛して、公方さんにお会いになっておりましたね。でも、あのお方は何を考えているか分からず、怖い人の印象しか残っておりません。公方さんもそれっきり、関わりなしですよ」

 尾張の織田信長が、景虎より一足早く上洛したのは、神余親綱から報せがあり、知らない話ではなかった。

「公方様、この機会に我が志を申し上げても宜しいでしょうか」

 景虎は、一番言いたかったことを、いよいよ口にする絶好の機会だと思っていた。自分の真の心の内を、将軍義輝には知って欲しかったのだ。

「ここは非公式、私の場。予に言いたいことがあれば何なりと」

「この乱世にあって、日の本の民は疲弊の極みに達しております。また、それぞれの国では、力ある者が手段を問わず弱き者を滅ぼし、力こそ正義なる誤った風潮が罷り通っております。かような間違った世の中を『真のあるべき姿・秩序ある世界』に戻し、民を疲弊と困窮から救わねばならないと考えております。臣・景虎、正しい秩序に基づく、あるべき世の中に一歩でも近づけるよう、これからも不逞の輩と戦い続けて参るつもりです」

「貴方が考える、あるべき世の中とは、どのようなものなのですか。説明してくださいな」

 半分意地悪い顔で、関白前嗣が景虎に問いを投げかけた。

「無論、それは公方様を頂点とする政事の実現です。本来、全国の国主は公方様に忠誠を誓い、争いごとを起こしてはならないのです。専ら民の生活が潤い、豊かになるにはどうすれば良いかを考え、与えられた領地を治めるのです。民が豊かになれば、自ずと領主である公家や武士も豊かになります。如何でしょう、これを夢物語と、一言で片付けるのは簡単ですが、誰かが言い出さなければ、この乱世を終わらせることは出来ませぬ」

「とは言え、なかなか実現は困難と思いますが」

 関白は公家らしく、この手の話はなかなか素直に聞けないらしい。

「もちろん、一筋縄では参りませぬ。それが何年かかるか、ひょっとしたら、我らが存命の間は無理かもしれませぬ。しかし、我らは一国を預かる者として、その実現に向けて、少しでも歩を進める必要があると存じます」

「よくぞ打ち明けてくれた。今申したことは、予が目指す政事の姿と全く同じじゃ」

 将軍義輝が割って入った。

「長尾弾正こそ、我が第一の忠臣と思う。頼りにしているぞ。このまま越後になど戻らずに、長く京に留まり、予を支えてはくれぬか」

「有り難き幸せにございます。仰せの通り、このまま公方様のお傍近くでお仕えしたい気持ちに嘘偽りはございませぬ。なれど、うつつに目を移せば、越後に家族を置き去りにしている将兵に対して、京に長期留まるように強いるは、国主として忍びのうございます。それに今、我がなすべきことは、甲斐の武田や相模の伊勢(北条)といった輩を駆逐し、公方様に忠誠を尽くす者が力を合わせて、東国を治める世にすることと心得ます。そのことが成し得たならば、あらためて上洛のうえ、京に長く留まり、公方様にお仕えいたしとうございます」

「なんと殊勝な心掛けじゃあありませんか、ねえ公方さん」

 関白前嗣らしからぬ意外な一言が発せられた。またもや、からかっているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

「弾正さん、これまでの少し意地の悪い物言いは、どうか堪忍してくださいね。貴方にとても興味を持ったので、深く知りたいと思ってのこと。だから、悪くは思わないで頂戴。公方さんが頼りに思っていた理由が、今よく分かりました」

「しかし、左様に嬉しい話をされると益々、ずっと京にいて余を支えて欲しいと思ってしまうものよ、のう関白殿下」

「まことに」

「長尾弾正、そなたの偽りなき我を思う気持ち、そしてあるべき国の姿を求めて止まぬ渇望は、この義輝が確と受け取ったぞ」

「ははっ」

「しかし、まさか折角京に参ったのじゃ。直ぐに帰国するというわけでもあるまい」

「もちろんでございます。来る五月一日には、朝廷へのご挨拶を予定しております。また、高野山無量光院にも詣でて、我が師・清胤様にもお会いするつもりです。家来には種子島(火縄銃)の玉薬処方術を学ばせようと思っておりますし、その間は、どなたか和歌の大家に師事いたし、田舎者の我流から殻を破り、多少なりとも風流の神髄に触れたいとも考えております」

「ほお、戦と風流の二刀流とは、やはり、なかなか面白き御方ですねえ」

 また、前嗣が口を挟んできた。どうやら、こういう話のやり取りが常なのであろう。義輝は前嗣の話には触れずに、景虎の話に対して返答した。

「であれば尚更、暫くは国元のことを忘れて、ゆるりと寛いではどうか。和歌の大家は多少心当たりもあるによって、世話をしないでもないが如何かな。一日でも長く畿内に留まってくれれば、それだけ三好に対する楔にもなるから、予にとっては好都合じゃが」

「是非とも、宜しくお願いしとうございます」

「あい分かった、任せておけ。今日は実に気分が良い。こんな気持ちは何年ぶりであろうか。これからは、長尾弾正上洛の祝い酒と参ろう。久しぶりに飲み明かそうではないか、のう関白殿下」

「実は、麿も同じことを考えておりました。今宵は喜んでお付き合いいたしましょう」

 関白前嗣がまたもや甲高い声で笑った。

「それなら決まりじゃ。長尾弾正に不服はあるまい」

「不服などあろうはずもございませぬ。喜んでご相伴に預かりとう存じます」

 景虎の返事に、二人は気を良くして目を合わせ、満足そうな表情を浮かべていた。


 永禄二年(一五五九年)五月十六日、景虎は近衛邸に招かれていた。去る五月一日には、正親町天皇への拝謁を無事終えている。そのおよそ二週間後のことだ。

 景虎は朝廷に数多の弊物を献上した返礼として、天皇から直々に天盃と御剣を賜ることが出来ており、気分は上々である。特にこの十日間は、珍しく穏やかな日々を過ごしてきた。

 前月二十七日の室町邸における三人の酒宴は、夜が白々と明けるまで続き、異常なまでの盛り上がりとなった。景虎の心意気にすっかり魅了された将軍義輝と関白前嗣は、酒豪の景虎を相手に、なかなか帰そうとしてくれない。自らは相当の酩酊に陥りながらも、まだまだこれからが本番、と言っては景虎を引き止めた。ついには二人の酒癖の悪さに、さすがの景虎も、閉口する始末だった。

 この日、近衛邸に招かれたのは、前の関白である太閤・近衛稙家に、和歌の教えを乞うためである。近衛稙家は前嗣の父であり、当時著名な和歌の大家として名を馳せていた。

 稙家は息子の前嗣から、景虎が和歌に大きな関心を寄せていることを聞き、それならば一肌脱ごう、と自邸に景虎を招いたのである。稙家が自邸に景虎を招いたのは、和歌のことはもちろんだが、今、(ちまた)を騒がしている長尾景虎なる人物が、果たしてどのような人物か、品定めをするつもりでもあった。

「貴殿が長尾弾正殿ですね。当代のお武家さんには珍しく、天皇(おかみ)や公方さんを真の心で尊んでいらっしゃるとか。ほんに殊勝な心掛けです。ところで、和歌に強い関心がおありと聞きましたが、それはいつ頃からであらしゃいますか」

 稙家はもちろん、景虎という評判の人物には興味があったが、和歌を教える話は別ものだ。和歌にかけては当代一流という矜持もある。もしも、生半可な気持ちで習いたいというのであれば、この場で師事を断るつもりでいた。

「和歌は幼き頃より、修行のために預けられていた寺で学びました。元服までのおよそ八年間を、寺の小坊主として過ごしましたが、その間、恩師のおかげで、御仏の道の修行のみならず、武芸や兵法はもとより、漢詩・書・笛・琵琶などの素養を身に着けることが出来ました。幸い、和歌の道にも触れるご縁がありましたが、何ぶんにも田舎者の我流故に、折角の上洛の機会であり、どなたか高名な御方に教えを乞いたいと思っておりました。そうしたところ、過日、関白殿下と公方様より、太閤殿下のお話を伺い、本日こうして罷り越した次第です」

「左様でしたか。当代随一の弓取りと名高い弾正殿ですが、今のお話で、風流の道にも相当精通なさっているようですね。この太閤で宜しければ、何なりとお訊きくだされ」

「太閤殿下に師事したとあれば、弾正、一生の誉れとなりましょう。宜しくお頼み申し上げます」

 景虎はこうして、この日から近衛邸に足繁く通うことになった。

 山形県米沢市の上杉神社・宝物殿には、この上洛時に景虎が詠んだと思われる和歌を中心とした「弾正少弼景虎和歌」が現存し大切に保管されている。

 景虎が近衛邸を頻繁に訪れたのには、別の楽しみもあったからだ。稙家と関白前嗣、それに将軍義輝も夜に忍んで訪れては、四人で宴を興じていた。酒豪であることが、すっかり知られてしまった景虎である。毎度、銘酒「柳」で大いにもてなしを受け、夢のような時間を過ごすことになった。

 このように、互いの親交を深めるなかで、景虎に傾倒するがあまり、のちに前代未聞の行動に出るのが、関白近衛前嗣である。まさに破天荒という言葉が相応しい人物と言える。 


 永禄二年(一五五九年)六月、景虎は京を一時離れ、高野山に向かった。もちろん、金剛峯寺・無量光院第三世住職である、師・清胤法印を訪ねての旅である。

 清胤は、久しぶりに訪ねて来た、弟子としての景虎を温かく迎えた。

「先ずはご健勝で何より。一瞥より幾年が過ぎましたかな」

「早や、五年と七箇月になります。いつぞやは誠にお騒がせいたし、申し訳ございません」

 景虎が詫びたのは、三年前の出奔・出家騒動のことだ。

「出家し当院に向かっていると聞いた時には、正直、心の臓が飛び出るかと思うほど驚きました。貴殿のことですから、余程のことがあったのであろうとは思いました。何はともあれ落ち着かれたようで、安堵いたしております」

「以前申し上げた通り、今でも全てを投げ捨てて、御仏にお仕えしたいという気持ちに変わりはございませぬ。しかし一方では、この身が背負った修羅の道を、現世では全うする他ない、ということも悟っております。かように不出来な迷える弟子ではございますが、今後ともお見捨てなきよう、お頼み申し上げます」

 清胤が静かに笑みを浮かべながら、景虎に向き合うその姿は、泰然自若そのものだ。

「見捨てることなど、あろうはずがございませぬ。遠路遥々お越しいただき、こうして再会を果たせたことは、何よりも嬉しい限りです。きっと、御仏も喜んで下さっていることでしょう」

「そのような有難き御言葉を頂戴出来るとは、思いもしませんでした。遠路訪ねて参った甲斐がございました。これからも、人生の師、御仏の道の師として、お導き頂きとうございます」

「それは申すまでもなきことです。ともに御仏の道を極めて参りましょう」

 清胤の景虎を見る目は、御仏そのもののように慈悲深く、まるで母親が赤子を見ているかの如く、優しさに包まれたものだった。

 高野山での静寂に包まれた一夜を過ごした後、坂本に戻った景虎は、比叡山延暦寺を参拝し、その足で石清水八幡宮にも詣でることにした。

 石清水八幡宮は、平安の昔に、やがて源氏の棟梁となる源義家が元服した由緒ある神社である。当時から武神信仰の中心として崇められていた。源義家が「八幡太郎義家」の名で、今も親しまれていることは言うまでもない。

 長尾氏の祖は桓武平氏の流れを汲むもので、景虎が源氏に所縁のある神社に詣でるのは一種違和感を覚えるかもしれないが、この時、既に将軍義輝からは、上杉の名跡を継ぐようにと、非公式では話が進んでいたのだ。

 室町幕府初代将軍である足利尊氏の生母は、上杉家の出であり、その後も足利・上杉両家の婚姻が重ねられた結果、上杉家は源氏の一派となっていた。この時の景虎の心境は、上杉の名跡を継ぐことに迷いながらも、武神信仰の中心でもある石清水八幡宮を、詣でようと思い立ったに違いない。

 その後、休む間もなく、景虎は将軍義輝から室町御所に呼び出しを受け、坂本から入洛する。永禄二年六月二十六日、真夏の陽光が照りつける暑い盛りだった。ましてや、京の都の暑さは盆地特有の気候が災いし、越後の夏とは比べものにならない。ここ二箇月の間は、京と坂本の往復、高野山・比叡山・石清水八幡宮への参拝と、まさに東奔西走の日々が祟り、景虎の疲れはこの時頂点に達していた。

 それでも将軍直々の呼び出しとなれば、景虎の性格上、断ることなど出来るわけがない。

 将軍義輝にしても、むろん悪気などあろうはずもない。景虎が大喜びすると思って用意した、有形無形の品々を直接渡したかっただけなのだ。

 義輝より最初に授けられたのは、景虎が喉から手が出る程欲しかった、火縄銃の玉薬(火薬)調合方法を記した薬方書である。これは北九州の雄である大友宗麟が、将軍義輝に献じたものだが、景虎が求めていることを知った義輝が、写本を作らせたものだった。これで景虎は帰国後、火縄銃の玉薬を自前で作ることが出来るようになった。

 次に義輝が授けたものは、裏書御免の保証と塗輿御免の特権だった。先ず、裏書御免は封書の裏に署名するのを省略しても良いとする特権であり、これは将軍と三管領に加えて、足利一門に準ずる者だけに認められていたものだ。これを一守護代でしかない景虎に与えたのだから、義輝が如何に景虎を信頼していたかを示す証である。また、塗輿御免についても、国持大名としての地位を景虎に対して保証するというものである。後に、将軍義輝から許された七免許のうち、この時二つが許されたことになる。景虎が喜ばないわけがなかった。

 そして、最後が、関東管領たる上杉憲政の進退は、景虎に一任するという正式通知だった。つまり、これは景虎が関東管領職を継いでもよいことを、足利将軍として公式に表明したことを意味する。

 しかし、この一点だけは、ある程度覚悟しながらも、景虎が未だに戸惑いを覚え、躊躇していることでもあった。関東管領を継いで欲しいことは、既に近衛邸においても、非公式に度々(ほの)めかされている。もちろん、名門・上杉家の名跡を継ぐことに、全く魅力を感じないわけではない。しかし、景虎にはどうしても簡単に首を縦に振れない二つの事情があった。

 そのひとつ目は、景虎の真面目な倫理観にある。当初の想定には、自分が憲政に取って代り、管領職を継ぐ気など毛頭ない。つまり、憲政を保護し関東進出を試みたのは、あくまでも越後を外敵から守り、自らの義侠心に従って、助けを求めてきた相手を匿った結果に過ぎない。景虎にとっては、憲政を奉じて関東に静謐をもたらすことが正義であり、関東管領を自分が継ぐことは結果として憲政を利用したことになり、周囲の目もそう見るに違いない。それが景虎には厭で我慢出来なかったのだ。

 もうひとつは、父の代から続く越後守護代家と関東管領家の、過去の確執と闘争の歴史だった。

景虎が長尾の姓を捨てて、遺恨のある上杉の名跡を継いだ場合、父・為景の御霊が果たして賛同してくれるだろうかと、逡巡していたのだ。

 結局その日も、管領職継承だけは結論を出せずに、そのまま室町邸での祝いの宴となった。近衛家の父子も招かれて、既に着座している。しかし、この時の景虎は、宴が始まる前から、様子がおかしかった。普段は色白で、酒をいくら飲んでも顔色一つ変えない景虎の顔が、宴が始まる前から既に赤く火照っている。高熱を発しているのは明らかだった。

 それでも、生真面目な景虎は、直ぐに帰ろうとしなかった。将軍義輝が、景虎が喜ぶ様々な品々を用意してくれたのだ。景虎としてその厚意に報いる唯一の礼儀が、宴席を断らないことだった。

 しかし、尋常ではない景虎の様子を見て、さすがの義輝や前嗣も気が気ではない。最後には、「将軍からの命令」として、早々に室町邸を辞去させることになった。

 こうして、なんとか坂本に戻った景虎だったが、その病状は思いの他篤いものだった。その後、およそ一箇月の間、床に就いたまま、生死の境を彷徨うことになってしまう。

 景虎の高熱は幾日も続いた。京から有名な薬師を呼んでも、回復に向かう兆候すら見えない。この時に、寝ずの番で献身的に看病したのが、あの河田長親だった。

 京から取り寄せた貴重な氷を手際よく砕くと、布に包んでは景虎の頭を冷やし続けた。下の世話はもちろん、水分補給がままならぬ状態の時は、布にたっぷりの水を含ませて口に入れる工夫をしては、新兵衛らの近臣を驚かせた。また、高熱が原因で次々に噴き出す汗を拭いては、身体が冷えないように、着替えを手際よく済ませることも、進んで行っていた。

 この間、長親は常に景虎の病床近くに控えていた。新兵衛ら近臣からは、いつ寝ているのかと心配されるくらいだった。

 やがて、七月も下旬を迎え、朝晩の涼しさが感じられるようになると、長親の看病の甲斐あって、ようやく景虎の病状も快方に向かっていく。

 河田長親は日吉大社での出会いから、新兵衛の監視したにありながらも、まさに昼夜を問わず景虎に尽くしていた。無駄のない俊敏な所作にも、秀でたものがあり、新兵衛や彌太郎を驚かせている。六月の高野山・無量光院や石清水八幡宮への参拝には、既に同道も許されていた。それに加えて、此度の不眠不休の看病である。

 景虎と側近の信頼を、完全に勝ち得た長親は、病が癒えた景虎から正式に申し渡しを受けた。

「河田長親、その方を長尾家家臣として召し抱えることといたす。以降、我が片腕として、更に精進し、務めに励むがよい。なお、父親の河田伊豆守元親も、本日よりその方の後見役として、列することを許す。以上じゃ」

 傍らに控えた小島弥太郎と金津新兵衛も、心なしか嬉しそうだ。

「有り難き幸せ、このご恩に報いるよう、より一層精進いたしますことを、ここにお誓い申し上げます」

「うむ、重畳じゃ」

 ここまでは儀式のようなものだ。

「ところで殿、ひとつお伺いしても宜しいでしょうか」

「何じゃ。申してみよ」

「我らが敵の間者ではない、とお認め頂けたのでしょうか」

 景虎は笑うしかなかった。

「間者であれば、儂が病床に伏せている間に、寝首を掻くことくらい、いとも簡単に出来たであろう。密かに薬の代わりに毒を盛ることも出来たはずじゃ。これ以上疑うほど、儂は人が悪くはないぞ」

 その景虎の言葉に安心したのか、長親は初めて十七歳らしい満面の笑みを浮かべた。

「殿、それがしは嬉しくて仕方ありません。これからも殿のお傍近くにいて、お仕え出来るだけで幸せなのです。ここ坂本でも、京でも、越後に戻ってからも、それがしをどんどん使って鍛えてください。必ずご期待に応えてみせます」

 景虎はまた笑った。

「その自信家な物言いは、親父殿に似ておる」

「申し訳ございません」

「いやよい、親父殿がそなたを褒め、売り込んできたのは間違いではなかった。それに儂が熱にうなされ、生死の間を彷徨って居る時も、寝ずの看病で儂を救ってくれたというではないか。この恩は生涯忘れぬ。あらためて礼を言う」

「礼などには及びませぬ。当然のご奉公でございます」

 そのやり取りを微笑ましく聴いていた彌太郎が口を挟んだ。

「殿、実に良き家臣を得ましたな」

「うむ、河田父子を門前払いにせず、儂を(たぶら)かしてまで会わせようとした、彌太郎と新兵衛の二人にも感謝せねばならぬか」

「殿、それは言わないでくだされ。これも全て、殿のために良かれば、との思いで進めたことでございます」

「わかっておる」

 彌太郎の一言に、その場に居合わせた全員が爆笑した。

 河田長親はこの日の出来事と、この時景虎から貰った言葉を生涯忘れなかった。謙信亡き後も、

「御館の乱」で衰退した越後を捨てず、信長からの仕官の誘いを敢然と断り、上杉家一筋で三十八年の生涯を全うした。

 

 こうして、景虎は病気が平癒した後に、再度上洛し将軍義輝に謁見を求めた。表向きは見舞の御礼だったが、重要な物を携えて向かっていた。その重要な物とは、関白近衛前嗣による血書起請文である。

 関白前嗣はかねてより、京での窮屈な生活に辟易(へきえき)していた。当初は西国への下向を企図していた模様だ。しかし、景虎が上洛し親交を深める中で、ひとり勝手に越後への下向を決めて、景虎に起請文を差し出してきたのだ。起請文が持つ性質から、前嗣の並々ならぬ決意が込められている。前嗣はこれを景虎に差し出すことで、自らの退路を断つという、公家らしからぬ荒業に出たのである。

 関白が京を捨てて他国に移るなど、前代未聞の珍事であり、景虎がこの片棒を担ぐ訳にはいかない。相談する先は将軍義輝しか残されていなかった。

 その起請文に義輝が目を剥いて驚いたことは、言うまでもない。いくら関白前嗣が破天荒とは言え、まさか京を捨てて越後に下向するなど、将軍義輝には、思いつきもしないことだった。こんなことならば、前嗣に景虎を会わせなければ良かった、と後悔しても後の祭りである。

 頭を捻った末に義輝が出した結論は、景虎に対して御内書を発給することだった。御内書の中身は、関白の越後下向と受け入れを延期させよ、というものである。中止ではない。

 これには永禄三年(一五六〇年)に予定されている正親町天皇の即位式に出席の後であれば、越後への下向も止むを得ず、という苦肉の判断が含まれていた。

 間接的に将軍義輝から、下向延期を求められた以上は、さすがの前嗣も、渋々了承せざるを得ない。ましてや、理由が天皇即位の場に関白は臨席すべし、とあっては尚更だった。

 前嗣の問題が一応の決着をみると、景虎は残された時間を歌道の学びに費やした。太閤・近衛稙家の下に通い、少しでも和歌の腕を上げるつもりだった。景虎の予想以上の熱心さには、太閤・稙家も舌を巻いたという。

 八月二十四日には、景虎に対して、遂にその太閤から和歌奥義の伝授があり、「詠歌大概」の書写を頂戴することが出来ていた。景虎が最も望んでいた「三智抄」の代わりに、太閤稙家が入手してくれたものである。

 こうして、半年という長きにわたった、畿内での生活も終わろうとしていた。最も心配していた三好長慶も、景虎が非好戦的であることが分かると、様子見を決め込み、表立っての不穏な動きを見せることはなかった。 

 思わぬ大病を患った結果、ひと月ほど予定よりも長い滞在となってしまい、これ以上、本国越後を留守にすることは出来ない。国元では永禄の大飢饉に見舞われており、その対処も急ぐ必要がある。景虎は十月七日を帰国の日と定め、別れの挨拶に室町邸を訪れていた。室町邸には、関白・近衛前嗣と太閤・稙家も、居合わせているとのことだ。

 関白前嗣は越後下向を先延ばしされた当初、すっかり落胆していたが、今では何事もなかったかのように振る舞い、将軍義輝を安心させているらしい。

「公方様、そして太閤・関白殿下、お暇乞いに参上いたしました」

「やはり、帰ってしまうのだな。分かってはいても、いざその時が来ると、何と寂しいことか。本心を言えば、このまま何年も京に留まり、予を支えて欲しいのだが」

 武芸達者で、剣豪の一面を持つ義輝だったが、この時ばかりは気弱な一面を覗かせ、名残惜しそうである。

「申し訳ございません。この弾正、このまま公方様のお傍でお仕えしたい気持ちは、今も変わらず、むしろ日々増しております。それは越後に帰ったとしても、決して揺らぐことのない真の心根でございます」

「いや、済まぬ。ついつい甘えたことを言ってしまった。三好如きに負けてなるものか。長慶も此度そなたが半年もの長きにわたり、畿内に留まったことで、下手なことは出来ぬと痛感したはず。そなたは、いざという時、いつでも越後から馳せ参じてくれることを、身をもって天下に示してくれた。これほど心強いものはない」

「公方様から、かように過分のお褒めを頂戴したこと、臣・景虎、生涯忘れませぬ。関東や信濃の仕置きに目途がつき次第、必ずや上洛を果たし、その時こそ公方様の臣下として、お仕え申し上げたいと存じます」

「最後まで嬉しいことを言ってくれるではないか。予もその時を楽しみに待つとしよう」

「ははっ」

「ところで弾正、関東管領の職を継ぐか否かの結論は、如何いたすことにしたのじゃ」

「その件は、これまで本当にご心配をお掛けしましたが、ようやく腹が決まりました。無論、国元の憲政様にお伺いを立てたうえで、その御返事次第ですが、熟慮を重ねた末、上杉の名跡を継ごうと決心しました」

「それは目出度い。この間に、どのような気持ちの動きがあったのじゃ」

「公方様もご承知の通り、憲政様をお迎えしているのは、決して下心あってのことではございません。何よりも、我が父と関東管領家との間には、根深い遺恨がございました。それを知りながら、上杉の家督を継ぐことは、父の御霊を冒涜するのでは、と逡巡して参りました。しかし、過日、病を患い生死の間を彷徨いながらも、こうして生きていられるのは、生まれ変わったつもりで上杉の名跡を継ぐように、との石清水八幡宮の神の思し召しでは、と考えるようになりました。何よりも、公方様がお望みなのであれば、それに従うことこそ真実の忠義と、考えをあらためた次第でございます」

「それでこそ、弾正殿です。ねえ、公方さん」

 二人の話に割って入ったのは、またも関白前嗣である。

「麿も関東管領の国元に下向する、という方が立場上何かと都合がよい」

 息子の調子のよい発言に、思わず父である太閤・稙家が気まずそうに詫びを入れる。

「弾正殿、関白の我が儘をどうか許されよ。この太閤が止めたとて、聞く耳を持つ関白ではない」

 太閤の親としての本音に、内心苦笑しながらも景虎は言葉を返した。

「太閤殿下、ご心配には及びませぬ。我が遠国越後に関白殿下をお迎え出来るなど、我が末代までの誉れにございます。関白殿下を粗相なくお迎え出来るよう、それまで準備万端に整えておく所存にて、どうかご安心ください」

「弾正、予からも頼む。何だかんだ言っても、武家の出ではない殿下が、異国の地で上手くやれるか心配なのじゃ」

 将軍・義輝もやはり、破天荒な関白が気がかりなのだ。

「お任せください」

「うむ。しかし、正直を申せば、羨ましい話だ。予も一度は越後を訪れてみたいと思う」

「公方様、それは決して夢ではございませぬ。公方様を頂とする政が叶った時、それも実現できましょう。この弾正、正しき秩序に則った世を実現するため、これからも命を賭けて戦って参ります。それまで、どうか、御身を大切に」

「うむ、さらばじゃ、長尾弾正」

 再会を約した義輝と景虎だったが、これが二人の今生の別れになってしまった。

 室町御所を出て、馬上の人となった景虎は、これで暫く京も見納めか、と晩秋の景色に目をやった。邸の屋根より高く育った楓の木から、紅く染まった葉が数枚、風に吹かれて舞い落ちる様子を、景虎の眼が捉えていた。


(第五話へ続く)



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