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軍営  作者: 横山士朗
3/12

景虎編 越後国守護代継承


  *粛清


 景虎勢の動きは驚くほど早かった。

 負傷兵や一握りの守備兵を除き、栃尾城を進発すると、撤退する黒田勢の追い討ちを掛けていた直江実綱勢と合流し、夜半には黒田長秀の居城である黒滝城を囲んだ。

「お見事な勝ち戦、執着至極に存じます」

 陣中で再会した実綱が戦捷の祝いを述べた。

「お主の背後の牽制と、幻の者一党の働きのおかげじゃ」

 景虎も笑顔で応じた。

「ようやく、この日が参りましたな」

 大勝利の報せに、他の誰よりも喜んだ実綱は、顔を紅潮させている。

「ところで相談がある、これからの黒田の仕置きのことだ。お主は如何すべきと考える」

「若殿にとっては因縁の憎き敵でございましょう。この勢いで攻め落とし、首を取るという手もありますが」

「黒田は我が父のおかげで、城持ちになれたと聞く。その大恩があるにも関わらず、跡を継いだ兄上に逆らい、この儂を二度も襲うなど許し難い」

「ご尤も」

「しかし、それはあくまで儂ひとりの考えでしかない。守護代の一家臣の立場としては、この時点で厳罰に臨むことが、果たして適切かどうか。それに幻蔵からの報せによれば、黒滝城内の守兵はおよそ五百と聞く。攻め落とせぬ数ではないが、我が方の犠牲も多少覚悟せねばなるまい。それは儂の本意にはあらず」

 景虎の若さに似合わぬ思慮の深さには驚くしかない。

「儂は守護代の命を受けた古志郡司に過ぎぬ。ここは、あくまで降伏投降を勧め、裁断は守護代である兄上に委ねるべきと考えるがどうであろう」

「若殿がそこまでお考えなのであれば、この与兵衛尉が申し上げることはございませぬ。この戦で若殿のご武勇は、一挙に越後国内に伝播することでしょう。加えて、そのように冷静な仕置きを行えば、多くの国人が競って、若殿の下に馳せ参じること、間違いございませぬ」

 案の定、戦捷と黒滝城攻囲の報を聞きつけた近隣の国人衆が、景虎のもとに我先にと、軍勢を差し向けてきたために、総勢は四千に膨れ上がっていた。戦前はお手並み拝見と、様子見を決め込んでいた輩である。

 その大軍による包囲で、当初は高かった黒田籠城兵の士気も下がる一方で、黒田秀忠は打つ手を失ってしまう。

 その城内を見透かしたかのように、景虎は次の決定的な一手に打って出た。

 それは、栃尾城の合戦で惨敗し、居城の三条に逃げ戻っていた長尾平六長景が降伏したことを、黒滝城の籠城兵に向けて喧伝することだった。これからでも投降した者の命は保障する、という触れ込みも忘れていなかった。

 こうなると、黒滝城からは雪崩を打ったように、夜の闇を利用して、城外へと投降する兵が後を絶たない。

 遂に黒田秀忠は抵抗を諦め、自らも投降するに至った。

 景虎は拘束した秀忠の身柄を、早速、春日山城の晴景のもとに送還した。天文十三年(一五四四年)十月のことである。

 美しく色づいた山々の紅葉も、すっかり散り落ちてしまっている。越後の長く厳しい冬の足音が、ひたひたと音を立てて、すぐそこまで迫ってきていた。


「此度は完敗でござる。弟君を若輩と侮った、我らの驕りがもたらした敗戦。既に我が命は無きものと、覚悟のうえで投降しております。しかしながら、特段のお慈悲をもって、我が出家をお許し頂けまいか。叶うことなら、僧として俗世を離れ、戦で命を落とした者どもを弔いながら静かに余生を暮らしたいと存ずる。如何であろうか」

 黒田秀忠は命乞いをした。場所は春日山城内、守護代・長尾晴景の御前である。

 秀忠は悪びれる様子もなく、更に嘆願を続けた。

「むろん、越後国内になど、我が居場所はないと心得ております。どこぞ、知らぬ国に参り、ひっそりと生き長らえる所存。守護代殿、どうか命だけは助けて頂きたい。この通りじゃ」

 この傲慢とも取れる嘆願、というより一方的な物言いだったが、気弱な晴景は判断出来ない。

 悩んだ挙句に、自身での裁定を投げ出して、側近の桃井氏と守護の上杉定実に、その断を丸投げしてしまう始末だった。

 そして、こともあろうか、この秀忠の嘆願を、守護の定実は「諾」との断を下してしまう。

 この頃の守護・上杉定実は、自身の継嗣問題で一旦隠居を強行し、それを慌てて晴景が止めにかかったことで、権力構図は逆転し、自ずと国人衆への影響力も増している。

 黒田秀忠は、もちろん、この権力構図の変化はとうに見抜いていた。当然、定実に対しては、かねてより接触を図り、誼を通じている。此度の開戦に当たっても、予め自身の正当性を、内密書簡で守護に訴え、抜け目のないところをみせていた。これが敗軍の将として裁かれる身になった今、活きることになった。

 あらためて言うが、長尾晴景は決して愚将ではない。しかし、病弱で気も弱いことが、この度も災いしてしまっていた。またもや、守護代としては致命傷とも言える失態を犯してしまったのである。

 かくして、自由の身になった黒田秀忠は、命乞いの時の約束など、元々なかったかのような行動に出ていた。

 国外退去や出家するどころか、姿を一時くらましながらも、黒滝城に残る家来衆と密かに連絡を取り続けていたのだ。それは、黒滝城を密かに奪還して、再起を計ろうと、暗躍していたことに他ならない。

 そして、天文十四年(一五四五年)十月、悲劇は起こった。

 兄である守護代・晴景から、黒滝城代に任じられ、城に詰めていた長尾景康が、黒田秀忠の手によって暗殺されるという事件が勃発する。秀忠は家来衆の手引きにより、夜陰に紛れて城内に入り込み、その足で景康の寝込みを襲ったのだ。

 腹違いとは言え、景康は景虎の兄に当たる。共に父・為景の臨終にも立ち会っている。その兄の悲報を耳にした景虎は、烈火の如く激昂した。

 景虎は兄弟としての情もさることながら、自分と同じく守護代・晴景を支える一人の忠臣が、謀殺されたことに、抑えきれない程の憤りを感じていた。

 同時に、前年の秀忠に対する甘すぎる沙汰に対して、全く異議を挟まなかったこと、更に遡れば、自身の手によって処断しなかったことを大いに悔いていた。

 こうなった以上は、景虎に残された道はただ一つ、兄の弔い合戦である。憎き黒田秀忠を討ち、兄・景康の墓前に、その首を供えることだった。

「兄上、此度の黒田秀忠の所業を、断じて許してはなりませぬ。すぐさま、この足で取って返し、黒滝城に籠る秀忠と、その一族郎党を殲滅いたす所存にて、何卒ご裁可くださいますよう」

 景虎は急ぎ兵をまとめて栃尾から春日山に急行し、兄・晴景に甲冑姿のまま謁見した。

「済まぬ、儂の弱さが景康を死に追いやってしまった。一生悔やんでも悔やみきれぬ過ちであった。頼りはそなたのみじゃ。儂の名代として、どうか黒田秀忠を成敗してくれ」

 景虎は、兄・晴景からだけでなく、守護・上杉定実からも、黒田秀忠追討の裁可も得ることが出来ていた。

 定実は、景康暗殺の原因が、自らの甘い判断が招いたことだけに、バツが悪いことこの上ない。

 景虎と会うことは断ってきたが、その代わり、秀忠追討を命じる書状を送り届けてきたのだ。

 これで大義名分は揃ったが、景虎はこの間、他の国人衆にも檄を飛ばし、黒田追討軍への合流を呼び掛けている。

 その効果はてき面だった。黒滝城に向けて進軍する途中にも、上郡・中郡だけでなく、揚北の一部からも軍勢が合流し、黒滝城に達した時は総勢六千五百にまで膨らんでいた。

 天文十五年(一五四六年)二月、景虎は黒滝城を包囲すると、反撃の隙すら与えることなく、電光石火の如き総攻撃で、これを落城させる。

 むろん、投降してきた秀忠を捕獲するや、申し開きなど言語道断と、即刻その首を刎ねただけでなく、その一族郎党と加担した家臣全てを誅滅したのだった。

 この景虎の徹底した粛清の断行は、越後国内に大きな衝撃を与えた。

 それまで、当たり前に横行していた反乱分子による横暴が治まっただけではなく、これまで旗幟を鮮明にしていなかった大方の国人衆が、雪崩を打ったように揃って、守護代家に忠誠を誓ってきたのだ。

 これは、守護代家を支える、頼もしい若武者の登場として、景虎が越後国内に認知された証でもあった。

 このように景虎の鮮烈な登場が、越後国内を席巻しているちょうど同じ頃、天文十五年四月、関東では覇権争いを決定づける大きな戦が起きていた。

 父・氏綱の後を継ぎ、新興勢力として拡大しつつあった相模国・北条氏康の軍勢八千が、武蔵国・河越城において、扇谷上杉と山内上杉の連合軍に、古河公方の足利晴氏の軍勢を加えた総勢八万の大軍を、夜襲によって大破するという大番狂わせを演じていた。

 このように、越後を取り巻く近隣諸国の情勢は、刻一刻と変化している。景虎が望まずとも、やがて歴史の表舞台に登場せざるを得ない土壌は、着々と醸成されつつあった。


 *春日山入城


 黒田氏の滅亡以降、守護代・晴景と景虎の兄弟政権が、越後一国を平らかに治めるかと思われたが、そう単純に事は進まない。

 人間の(さが)とも言える、嫉妬や劣等感といった感情が微妙に絡み合い、一瞬にして関係性を壊してしまうのは、五百年近く経った現代と、然程大きく変わるものではない。

 景虎とは親子ほどの年齢差がある異母兄の晴景は、日に日に名声が高まる弟の存在が疎ましくなっていく。そして、晴景の微妙な感情の変化と心の隙間に、つけ込む国人が少なからず存在していた。

 晴景と景虎が手と手を携えて越後一国を統治することは、その兄弟に政事の主導権を完全に奪われるということである。それよりも、弱々しい晴景の単独政権を歓迎する国人が存在しているところに、越後という国の複雑さと難解さが表れていた。

 その国人の代表格が、上田長尾氏の房長・政景父子、そして揚北の黒川実氏だった。

 とりわけ、長尾政景は、父・房景の家督を継いでおり、居城である上田庄・坂戸城から、上田長尾氏の長として、国内における勢力の拡大を虎視眈々と狙っている野心家であった。

「守護代殿、この頃のご舎弟殿は、勝ち戦を鼻にかけて、些か調子に乗っているのではござりませぬか。この春日山を(ないがし)ろにして、各国衆と頻繁に回を重ねては、何やら良からぬ相談をしているという、専らの噂でございますぞ」

 政景が春日山城を訪っては、守護代・晴景にけしかけることしばしばであった。

「その良からぬ相談とは何か」

(しか)とは分かりかねますが、どうやら、畏れ多くも守護代である貴方様を廃し奉り、力ずくで自らがその座に就こうとしているとか。その噂を耳にしたのも、一度や二度ではございませぬ」

「黒田を滅ぼして調子に乗っているという噂は、我が耳にも届いておる。しかし、よもやこの兄である儂に、弓を引くことなど、景虎に限ってはあり得まい。しかし、上田殿の耳にもそのような噂が届いているということ自体が、由々しき限りじゃ。奴に隙が生まれているということに他ならぬ」

 当初の晴景は、景虎に対する嫉妬はともかく、謀反などあり得ぬことと全く信じてはいない。

しかし、景虎の意向はともかく、栃尾への各国衆や使者の訪いは後を絶つことがなく、それが日を追うごとに頻繁となっていたのは、紛れもない事実だった。

 誠実で礼節を重んじる景虎は、わざわざ遠路足を運んでくれた者に対して、会わずに帰すなどという非礼に及ぶことは出来ない。儀礼的に挨拶し、ただ労いの言葉を交わすだけなのだ。しかし、それがまた、誠実との評判が立ち、訪問者が増えるという妙な循環に陥っていた。

 栃尾を訪う人数と回数が増えるほど、それが晴景の耳には、秘密の謀議を巡らしている、かのように喧伝(けんでん)されてしまう。やがては、兄弟間の深い溝をつくるまでに、発展してしまっていた。

 つまり、反景虎派の策謀によって、「景虎謀反の兆しあり」と晴景に吹聴され、それが更に歪曲誇張されたかたちで、頻繁に晴景の下に届くようになっていく。

 当初は単なる噂として、全く耳を貸さなかった晴景も、やがて「栃尾の景虎謀反」を本気で、疑うまでになってしまっていた。

 もう一方では、晴景に代わって、景虎を守護代として擁立しようという動きも存在しており、その勢いは日毎に増幅しているのも、隠しようのない事実だった。

 その筆頭が与板の直江実綱であり、揚北の中条藤資と安田長秀、義叔父でもあり北信濃の高梨政頼、栃尾の本庄実乃、三条の山吉行盛、栖吉の長尾景信らが、それに名を連ねていた。

 これらの動きが表面化するに連れて、晴景派と景虎派が火花を散らし、遂には一触即発の危機に至るまで、対立は悪化していったが、景虎自身はこの状態を、決して喜んではいなかった。そして、この状況は我が本意にあらず、という弁明を認めた自筆の書状を、幾度も晴景に送り届けていた。

 この時、景虎は幼い頃に傾倒した「義経の物語」を思い出していた。兄・源頼朝と弟・義経の関係が、今の兄と自分に酷似している。そして、同じ悲劇的結末を繰り返してはならない、と自らを戒めていた。

 そのうえ景虎は、信義に(もと)ることは絶対に行ってはならない、という天室光育和尚の教えを自身の強い信念としている。親景虎派と呼ばれる国人それぞれに対して、根気強く説き続けたが、それは父とも兄とも慕う直江与兵衛尉実綱に対しても同様だった。

 しかし、そんな景虎の必死の抗いも、時流という大きな渦の中では、風に飛ばされ舞い落ちた一枚の木の葉のようなものだ。ただ虚しく渦の中に巻き込まれ、呑み込まれるしかなかった。

天文十六年(一五四七年)四月、守護代・晴景の命を受けた長尾政景を中心とする反景虎勢が、兵四千余を率いて春日山城を発ったという報せが幻蔵の手によって、もたらされた。

 乱世の習いとは言え、何故血を分けた兄弟同士が、争わなければならないのか、景虎は悩み苦しんだ。双方が無駄な血を流し合った結果、残るのは遺恨だけでしかない。どれだけ考えても、全く無益な争い、としか景虎には考えられない。

 これまでも幾度となく、景虎は謀反の意図を否定し、兄である守護代への忠誠を誓ってきた。それにも関わらず、かかる仕儀に至ってはもう、解決の糸口は残されていない。

 景虎もやむなく味方の国人衆に加勢を願い、出陣するしかなかった。

 ところが、景虎の意を受けた直江・本庄らの国人衆の連携の速さと大きさは、景虎の想定を遥かに超えていた。軍勢は見る見るうちに膨らんで、柿崎の原野に到着した時は、八千の軍勢を越えるまでになっていた。

 景虎擁立派は、実のところ、この日が来るのを待ち望んでいた。いつ出陣しても良いように、戦支度を整えており、景虎の要請に瞬時対応した格好だった。

 この大軍を前にして、景虎は驚くと同時に、大いに喜んだ。戦に勝てると踏んだからではない。

数で圧倒することで、戦をせずに和平交渉に導ける、と考えたからだ。この時期、戦になれば、田畑の作物への影響は避けられない。戦になれば、無駄な血を流すだけでなく、民の疲弊にも繋がってしまう。

 この大軍勢に驚き、及び腰になったのは、他ならぬ長尾政景を中心とする反景虎勢だった。味方は相手の半分しか軍勢は集まっていない。途中から招集に応じた国人は殆どおらず、軍勢は当初の四千のままだ。

 おまけに、敵の陣構えには隙が見られない。各陣営から沸きあがる闘気も、自軍とは桁違いに大きい。味方の形勢不利は明らかだった。攻め手を欠いた反景虎勢は、一戦に及ぶことを逡巡せざるを得ない状況に追い込まれていた。主戦論を主張する長尾政景だったが、他の国衆はそれを退けて、早くも退陣論が大勢を占めるに至っていた。

 敵が迷っている間に、景虎は密かに守護の上杉定実に使者を送っていた。和平調停の仲立ちを乞うためである。

 定実はこの時、人生の終末に差し掛かっている。これまでの人生を振り返ると、自身で褒められることは何一つとしてなかったと言ってよい。これからの残された僅かな命は、せめて一人の人間として、恥ずかしくない生き方をしようと、心に期するものがあった。守護職継嗣問題も伊達家のお家騒動で頓挫したまま、今日に至っている。自らの手で何とか国の将来に道筋をつけ、守護として最後の花道を飾りたい、というのが偽らざる本音だった。

 守護として生きた四十年間は、常に傀儡としての詰まらない人生だったが、定実にとって人生最後に、最大の功績を残す機会が、今、訪れようとしていた。

「既に国内の人望は若き景虎に集まりつつある。守護代勢に倍する軍勢が集まっているというではないか。越後の未来のため、ここは儂が晴景に引導を渡す他あるまい」

 独り言の後、老体に鞭打って向かった先は、春日山城だった。

「守護代殿、戦わずとも既に勝敗は決まっておる。お主もそう見ておるのではないかな」

 守護・定実の指摘が的中しているが故に、守護代の晴景は何も返答出来ずに、沈黙したまま困惑している。その様子を見かねた定実は更に続けた。

「この際、和議を結んで、双方軍を引いては如何かな」

「しかし、それでは敵が納得いたしませぬ」

「自分の弟をこの後に及んで、敵という言い方はおやめなされ。この和議の仲裁を頼んできたのは、他ならぬその弟君ですぞ」

 初めて、人を叱ったような気がした。今更ながら、以前からこうやって、何事も本音で話していれば、守護代との関係も円滑だったのでは、とも思った。しかし、時すでに遅きに失するか、と自嘲した定実だった。

 晴景の顔に目を移すと、驚きと安堵が交差した表情が見て取れる。

「如何かな、守護代殿」

「弟がそう言うのであれば、当方に異論はございませぬ」

 元来、気が弱い晴景である。最悪の場合、自分の首も危ないと、内心びくびくしていた晴景なのだ。本音のところでは、定実からの和議の打診は、願ってもない助け船だった。

 こうして、国を真二つに割った兄弟骨肉の争いは、景虎の思惑通りに一滴の血も流すことなく、決着がつくことになった。


 正式に和議が成立し暫くの後に、景虎は与板城にいた。

「与兵衛尉、此度の儂の判断だが、味方してくれた国衆は正直、儂の判断をどうみておる」

「ご安心ください。皆が安堵しております。正直を申せば、好き好んで戦をする者は、誰一人としておりませぬ。ましてや、越後国内の争いとなれば、時には身内同士が戦い、血を流すことまで覚悟せねばなりませぬ。兵を駆り出すだけでも物入りなのに、死ねば残された一族の処遇まで考えねばなりませぬ。此度は一兵も失うことなく、事実上の大勝利です。若殿に対する期待と信頼は、一層高まったと申せます」

「まことにそうであろうか」

 景虎は自分への誉め言葉を簡単に信ずるほど、目出度い性格ではない。

 その性分を見抜いている実綱は更に続けた。

「確かに若殿は、果敢に戦を仕掛ける勇猛な武将、という一面が強調されがちです。しかし、その一方では、信義を大切にする慈悲深いお方の面も持ち合わせており、その人望は遠く離れた揚北の国衆にも、既に浸透しているという噂ですぞ」

「それならば良いのだが」

 景虎はまだ素直に実綱の話を信じられない。

「何か気になることでも」

「儂はこれまで僧門に身を置くなかで、様々なことを二人の師から学んできたつもりじゃ。御仏の道に止まらず、書や芸能、兵法、武芸と毎日が必死だった。しかし、今こうやって政事に携わるようになって初めて、考えや手法に誤りはないのかと迷いを生じてしまう。いまひとつ、自信が持てないのだ」

 それを聞いた実綱は、大笑いした。

 すぐさま、拙いと思い、非礼を詫びた後に続けて言った。

「さようなこと、ご心配には及びませぬ。未だ殿はお若こうございます。何事も場数を踏むことが肝要。これから嫌というほど、様々な判断に迫られることでしょう。しかしながら、最初から完璧な人など、この世にはおりませぬ。成功と失敗を繰り返しながら、人として将として、これから成長なさるのです。但し、信賞必罰という言葉がある通り、手柄のあった者に対する公平で相応の褒美を与えることが、これから最も重要となります。このことだけは決してお忘れなく、胆に銘じてくださいませ。主従関係を良好に保つためには、むろん信義も大切ながら、一番は目に見える褒美なのです」

「あいわかった。しかし、人の豪とはまことに面倒なことじゃのう。人は欲という魔物から逃れることは出来ぬものか」

「それは難しゅうございましょう。欲というものは、時に人を支配し惑わすもの。その一方で、活力の源にもなり得る厄介な代物でございます。欲を力で実現させようとすると、それが時には戦になってしまう」 

 確かに与兵衛尉の言う通りだった。気が滅入る話に、景虎は思わず目を閉じてしまう。

 するとそこに、いつか聴いた懐かしい笛の音が、かすかな風に乗って、心地よく景虎の耳をくすぐった。

「若殿、今日は我が城にお泊りください。久しぶりに一献傾けましょう。畏れながら、若殿は少々生真面目が過ぎるところがございます。あまりに根を詰め過ぎますと、心と身体の均衡が保てませぬ。せめて、今宵くらいは面倒なことを全て忘れて、酒に溺れるのも一興かと存じますぞ」

「それもそうじゃ。では、お主の言葉に甘えて、今宵は飲み明かすとするか」

 実綱の一声で、手際よく膳と酒が二人の前に運ばれて宴が始まった。

 酒が進むにつれて、心地よい酔いが景虎の身体を包んでいく。

 生来、酒豪の景虎は、どんなに飲んでも、酒に飲まれることはない。しかし、今宵だけは酒の力が自らの舌を饒舌にしているようで、それが不思議だった。

 久しぶりに、心の中では父とも兄とも慕う実綱との、肩の力が抜けた話に興じて、どれくらいの時が経過したものか。ふいに襖が開き、そこにはひとりの姫が手を揃えて平伏している。

 実綱の娘、蒼衣だった。

「蒼衣、栃尾の若殿にご挨拶しなさい」

 実綱が上機嫌に促した。

「直江与兵衛尉が娘、蒼衣でございます。ようこそ、お越しくださいました」

「若殿、この与兵衛尉が親馬鹿なのは、自ら重々承知しております。しかしながら、蒼衣の笛はなかなかのもの。是非とも一度近くでお聴き頂きたいと存じ、勝手ながら、この場に来てご挨拶申し上げるよう、呼びつけてしまいました」

「確か、儂が初陣を前にした時だと記憶しておる。ここ与板の城に参った折に、一度遠くに聴いた覚えがある。澄んだ音色に心が洗われる思いであった」

 景虎は酒の勢いとはいえ、気持ちを素直に表している自分に驚き、戸惑っていた。

 それを聞いた蒼衣の頬が、ほんのり桜色に染まった気がする。

 蒼衣も自身の恥ずかしさを隠すように、すぐさま笛を口元に運び添えて奏で始めた。

 梅雨の晴れ間に現れた月が、見事に冴える夜だった。間近で蒼衣が奏でる笛は、そよ風のように優しく、清雅な音色であり、やはりどこか儚げでもある。

 景虎は叶わぬ夢とは知りながら、この至福のひと時が、いつまでも続けば良いと願っていた。心を奪われているのは、笛の音にだけなのだろうか、それとも。

 自分の気持ちを悟られぬように、景虎はひと息に手元の酒を煽った。


 天文十六年(一五四七年)六月、景虎は府内に構える守護・上杉定実の館に赴いた。前の和議仲裁の労に対する御礼が目的である。

「御屋形様、此度は兄である守護代との和睦に際し、特段のご尽力を頂戴いたしましたこと、あらためまして御礼申し上げます」

「いやいや、当然のことではないか、礼には及ばぬ。それよりも、今日はよくぞ来てくれた。そなたが未だ『虎千代』と呼ばれ城におった時分に、一度だけその腕白ぶりを目にしておる。しかし、その時はかような日が訪れることなど、夢にも思わなかった。人の(えにし)とは不思議なものよ」

 上杉定実は老いて衰えた身体を、従者に支えられながら、目を細めている。

「さようなことがございましたか。幼き頃のこととは申せ、お恥ずかしい限りでございます」

「しかし、その後は林泉寺、そして瑞麟寺での厳しい修行に耐え、多くのことを学んでこられたと聞いておる。今や、越後の国中で、そなたを知らぬ者はおらぬ。よくぞ立派に成長してくれたものじゃ」

「有難きお言葉。天室光育和尚様と門察和尚様に教わったことは、御仏の道のみではございません。人として如何に生きるべきかを深く考え、修行に励む日々でした」

「正直を言うと、最初にそなたから和議の仲裁を頼まれた時は驚いた」

「それは何故でございますか」

「そなたほどの戦上手じゃ。上田長尾が率いる守護代軍よりも、遥かに大軍を率いての対陣だったであろう。戦で決着をつけるものと、勝手に思っておった」

「此度は恥ずかしながら、兄弟・一族間の争いごとでしかございません。さような揉め事に、血を流すいわれはございましょうか」

「なるほど、それも道理じゃ」

「戦は民を疲弊させ、国をも疲弊させます。万やむを得ぬ時のみの、最終手段であるべきと考えます。ましてや、此度は如何なる理由があれども、兄に弓引くということなど、とても耐え難いことでした。そのような忠義の道に反する戦を行えば、いつか必ず報いを受けることになるでしょう」

「さように殊勝な考えであったか」

「その代わり、民に利をもたらし、義に適う戦であれば、如何なる場合であろうとも、全身全霊をもって戦う所存でございます」

「そなたは民の利まで求めると申すか」

「政事を担う者は自らの利にあらず、常に民のことを最優先に考えて、事を成すべしというのが、天室光育和尚様の教えでございました。それが仁愛の道に通ずるものと心得ております」

「うむ」

「それに、民が豊かであれば、その国や家を守るために、必死の思いで戦ってくれるはずです。

この越後をそのような国にするために、兄上を支えて参りたいと心底考えて参りましたので、今はただ無念でしかありません」

「そうであったか。思い返せば、儂の一生は詰まらぬことばかりであった。しかし、最後にそなたのような清々しい若武者に会えたことを、心底嬉しく思うぞ」

 そう言いながら、定実の頬を一筋の涙が伝ってこぼれ落ちた。

 その晩、定実は身体の衰弱とは裏腹に、これまで覚えたことのない程の、満ち足りた感慨に浸っていた。

 夏の湿った生ぬるい風すら、今宵だけは、心地よく感じられる。

 今更ながら、自身の老いを恨めしく思った。もう少し若ければ、儂なりに景虎を支えて、面白い歳月を重ねられたかもしれない。

 景虎こそ、これからの越後を任せるに相応しい逸材だ。つまらぬ儂の生涯であったが、お陰で最後に一花咲かせられそうじゃ。 

 天文十七年(一五四八年)十二月、上杉定実は守護代・晴景を説き伏せ、景虎を晴景の養子として家督相続させる。同時に、晴景は隠居の身となり、歴史の表舞台から姿を消すことになった。

 年の瀬も迫った同年十二月三十日、景虎はついに越後第十二代守護代として春日山城に入城した。年が明ければ、景虎も早や二十歳を迎えようとしている。

 

  *戦雲


 晴景と景虎の久々の対面は、春日山城・本丸広間で行われた。立会人としては、病を押して守護・上杉定実が、薬師とともに傍らに控えている。

「兄上、決して我が本意ではありませんが、かかる仕儀となってしまいました」

 景虎は結果として、自らが兄を隠居に追い込んでしまったことを率直に詫びた。

「何も申すな。儂の方こそ、一番信頼すべきお主に対して、刃を向けてしまった。周りに(そそのか)されたとは申せ、そなたの力量と人望に嫉妬してしまったのは紛れもない事実。どうか許してくれ」

「お手を上げてくだされ、兄上。兵を出したのは私も同じでございます」

「今となっては恥ずかしい限りじゃが、ここにおわす御屋形様から、そなたの真の思いを聞かされなければ、気づくことさえ出来なかった、情けない兄じゃ」

 晴景の目には涙が滲んでいる。

「いいえ、弟のそれがしこそ、もっと色々とお報せや相談をなすべきでした。そうしていれば、要らぬ誤解を生むことも、周りに隙を与えることもなかったと、今では悔いるばかりです」

「思えば、景康亡き後は、たった一人の男兄弟。もっと互いに心を通わしていれば、無駄な争いは、避けることが出来ていたのかもしれぬ」

 どうやら、兄弟双方の蟠りは溶けたようだ。その様子を感じ取った守護・定実が、景虎に向かって語りかけた。

「そなたの真心を信じ、こうして快く守護代の職を禅譲する兄君は、そなたにとっては今から養父でもある。そなたの才は誰もが認めておるが、未だ若さ故に経験が足りぬ。これからも、養父となった晴景殿を、何かと頼りにするがよい」

 定実の言葉は、か細く、さすがに力がなかったが、景虎を見つめる目だけは、しっかりとした光を放っている。

「此度は何から何まで、御屋形様にご心労とご足労をお掛けいたしました。お身体が優れぬご様子にも関わらず、ご登城頂き、御礼の申し上げようもございません」

「いやいや、儂が望んで世話を焼いた迄のこと。礼には及ばぬ。これが守護らしき最後の務めとなろう。これからの越後は、そなたの双肩にかかっておる。確と頼みましたぞ」

「承知仕りました。御屋形様も、最後などと寂しいことをおっしゃらずに、ご養生ください。そして、また元気なお姿をお見せください」

 景虎はあらためて、責任の重さを肌身で感じていた。もう後には引けない。如何なる艱難辛苦にも耐えて、この越後を守らなければならない。

 自らの想定を遥かに超える、波乱に満ちた人生の第一歩が、いよいよ始まろうとしていた。


 景虎は春日山城に入り守護代に就任したが、それを最も不快に思い、冷たい目でみていた国人がいた。上田庄・坂戸城の長尾房長・政景父子だった。

 二人は苛立ちを覚えつつ、降り注ぐ長雨を憂鬱そうに眺めている。この年の梅雨は長雨続きだった。この日もなかなか止みそうもない空模様だ。

 天文十六年の対陣では、晴景の名代として、景虎との対決姿勢を露わにしており、最後まで戦いに拘ったのも政景である。

 その後も景虎との関係は、雪解けを迎えることなく、天文十八年(一五四九年)の初夏を迎えていた。

 元を辿れば上田長尾家は、越後長尾家の祖である長尾景恒の長子の系統であり、正当な長尾家の継承者としての自負がある。

 景恒の四男である長尾高景を祖としている、府内長尾家などは傍系に過ぎず、房長・政景の代に至った今でも、府内長尾家を主とは認めていない。上田長尾家では常に、府内長尾家の風下に立つことを是としない家風に満ち溢れていた。

「坊主上がりの小倅が。御屋形様に擦り寄って、守護代職を我が物にするなど断じて許せぬ。盗人猛々しいとはまさにこのこと。近いうちに必ずや、一泡を吹かしてやろうではないか。のう、新五郎」

「はい、必ずや」

 父・房長が語る背後で、家督を継いでいる新五郎政景が、その決意を漲らせていた。

 降り注ぐ雨は激しさを増す一方で、二人の会話をかき消していく。雨雲が周囲の山々にかかったままだ。そんな雨模様の空を、二人はただ眺めるだけだった。

 それから暫くの後、長かった梅雨明けが間近に迫ったある日、春日山城に運命の使者が訪れていた。

 関東管領・上杉憲政の使者だという。

 上杉憲政は、かつて若き長尾為景に討たれた、関東管領・上杉顕定の養子憲房の子にあたる。

 上杉憲政は武蔵国・河越で北条氏康の軍勢に大敗を喫していた。同盟していた扇谷上杉朝定は討ち死にし、扇谷上杉氏は滅亡。憲政自身も命からがら逃げ去るという有様だった。

 北条軍の十倍の軍勢を擁しながらの大惨敗によって、関東管領とは名ばかりとなり、その頃の山内上杉家は、衰退の一途を辿るばかりだった。


 この使者の春日山城到着より、時は少しだけ遡る。

 天文十八年(一五四九年)四月、北条氏康は兵二万を率いて北上し、上野の国境を流れる神流川(かんながわ)まで押し寄せた。

 これを管領麾下の太田資正(すけまさ)と長野業政(なりまさ)が迎え撃つも、散々に蹴散らされ、憲政居城の平井城まで逃げ帰っていた。

 既に山内上杉家は、家の存続すら危ぶまれる、まさに「風前の灯」状態だった。

「憎きは伊勢(北条)の子倅、氏康よ。どうやら、関東管領の儂まで本気で滅ぼす気でおるらしい。資正、儂は如何したらよいのじゃ」

 関東管領である上杉憲政は、狼狽(うろた)えながらも、思ったことを口にして気を紛らわすだけの、実に小心者であった。これでは北条に惨敗するのも頷ける。

「殿、誠に無念ではありますが、お味方が次々と離反している以上は、打つ手がございません」

 数か所に刀傷の後が残る甲冑姿のままで座し、太田資正は涙ながらに訴えた。

「では、ここで儂に降伏しろと言うのか。それはすなわち、儂に腹を召せ、と言っているにも等しいことじゃ。儂は嫌じゃ。絶対に腹は切らぬ、嫌じゃと言ったら嫌じゃ」

「いいえ、そうは申しておりませぬ。ここは関東管領としての意地を、皆にお示しください。この平井城は、そう容易くは陥落いたしませぬ。敵が攻めてきたなら、兵を鼓舞して籠城し、戦いましょう」

「そうか、落城はしないのか。それならば守りに徹しよう」

「しかし、いつまでもというわけには参りませぬ。万事窮す、という時には討って出て、華々しく散る他に、残された途はございません。どうか、その時はお覚悟召されますよう」

「あいや、暫くお待ちくだされ」

 それまで瞑目して、二人のやり取りを聞いていた長野業政が、ようやく目を見開き、その口を開いていた。

「長野殿、他に何か策があるとでも」

 資正の問いかけに直接応えることなく目で制すると、業政は管領憲政に対して、次のように問い質した。

「殿、ただ一つだけ策がございます。但し、この策は関東管領という矜持を、全てかなぐり捨てて頂かねばなりません。誠に屈辱的な手段ですが、殿にそのお覚悟はおありでしょうか」

「この期に及んで、関東管領の矜持など、とうの昔に捨てておるわ。この命が助かるのであれば、何でもする。何でも耐えてみせよう。早く言ってみよ、その策とやらを」

「されば申し上げます」

 ひと呼吸を置いて、業政の口から発せられた内容は、憲政の想像を大きく超えるものだった。

「越後の守護代・長尾景虎殿を頼るのです」

 憲政は暫く絶句の後、一言発するのがやっとだった。

「なんと、儂に越後を頼れと申すか」

「さようでございます。殿にとって、越後は仇も同然。御父上が越後の地で一敗地に塗れただけではなく、先々代の顕定様が討たれた、憎き相手であることは、重々承知のうえで申し上げております」

「しかし、よりによって越後とはのう」

 憲政の逡巡をみて、すかさず代弁するように太田資正が口を開く。

「聞くところによれば、先だって長尾景虎殿は兄を追いやって、守護代の地位を射止めたというではありませぬか。さような男を頼り、騙し討ちにでもされようものならば、それこそ後世の笑い者でございますぞ」

「いいや、我が耳にしたところによると、景虎なる若き当主は、兄に取って替わることを最後まで固辞したという。あくまで兄を支えることに拘った、今時珍しい忠義の者との評判だ。それを守護である上杉定実殿が、兄の前守護代を説き伏せ、景虎殿を養子縁組させたうえで、後を継がせたとのことだ。前守護代の晴景は生来身体が弱く、国衆を統べることも出来ぬ気弱な性格であったらしい。それ故に、見かねた守護が一計を案じたもので、景虎が力ずくで兄を追い出したのとは、全く訳が違うといいますぞ」

「それは真の話か」

 憲政は俄かには信じられない。この乱世にあって、そのように殊勝な者がいるなど、そもそも考えられない。

「まこと相違ございませぬ。そのうえ、景虎は戦上手で情け深く、弱き者を助けるという極めて義侠心の強い若武者と伝え聞いております。また、幼少期より禅寺での厳しい修行にも耐え抜き、己の信ずる義を第一として貫き通す、この世で唯一無二の律義者と評判の(おとこ)でございます」

「いや、しかし、越後では未だに景虎の守護代就任を、快く思わない国人がいて、とても越後が安泰とは言えぬとも聞いております。そのような中で、果たして援軍などとても叶うとは思えませぬが」

 太田資正が危惧するのも、尤もな話だった。しかし、長野業政は更に続けた。

「いや、景虎殿が噂通りの義将であるならば、多少の困難をも厭わず、加勢してくれるはず。我らには残念ながら、このわずかな可能性に賭けるしか、策はもう残されてはおりませぬ」

 資正は武蔵国・松山城主であるのに対し、一方の業政は越後と国境を接する上野国・箕輪城主である。越後の情勢は時々刻々と伝わってきており、また近年の景虎の台頭と活躍ぶりも詳細に把握している。

「殿、事ここに及んでは、一刻の猶予もございません。ここは過去の遺恨を捨てて、越後を頼り再起を期する他に途はありませぬ。どうか、ご決断を」

 暫くの後に、憲政が重い口を開く。

「わかった。そなたに任せる」

「では、殿。早速、筆をお取りくだされ」

 書状の相手はもちろん越後守護代・長尾景虎宛である。

 業政は考えた。太田資正の言うことにも理がある。景虎は家督を継いで間もない身であり、簡単に身動きが取れるとは思えない。たとえ、評判通りの人物だとしても、今の景虎が軍を率いて越山するのは、相当無理があろう。

 結局、内容は援軍を乞う要請にとどめ、自らの越山を乞うことは控える内容にした。

「ところで、肝心な使者だが、誰か適任の者はいるのか」

「それがしが参ります」

「それは困る。お主に万が一のことがあれば、儂はどうすればよいのじゃ。他に替わりとなる者はいないのか」

「御家の存亡を賭ける大事な使者を、他の誰かに任せることなど出来ませぬ」

 そう業政に言われては、憲政が反論する余地はなかった。

「必ず、無事に戻って参りますので、ご安心召され」

 業政は未だ見ぬ越後の若き盟主に、想いを巡らせていた。それは北条との戦に敗れ、荒んだ心に灯った、かすかな希望の光であった。

 この時、傍らにいる太田資正の居城・武蔵松山城に、危機が間近に押し迫っていようとは、思いもしない三人だった。


 景虎は山伏姿に身をやつした関東管領・上杉憲政の使者との対面に臨んでいる。

 頭を垂れたままの使者は、その名をようやく明かした。それまではどれだけ名を問い質されても、景虎に会うまではご容赦願いたい、と頑なに拒み続けてきた。

 景虎の身を案ずる近臣衆も、当初は、暗殺を狙う他国の曲者と疑ったが、すぐさま護身用の刀を忍ばせた金剛杖も預け、丸腰のまま関東管領からの書状を示されては、正式な使者と認めざるを得ない。

「それがし、関東管領・上杉憲政が臣にて、上野国箕輪城主・長野信濃守業政でございます。ご家来衆の皆さまには、名乗らずにこの場まで控えて参りました非礼を、どうかお許し頂きたい」

「貴殿が勇猛果敢で名を馳せ、関東管領殿の懐刀と言われる、長野信濃守殿でござるか」

 景虎は自分の前に座する者が醸し出す気配から、只者ではないとは感じていたが、まさか長野業政本人であるとは思っていなかった。

「さような過分のお褒めに預かり、恐悦至極に存じます。先ずはこちらをご披見くださいませ。憲政公直筆の書状でございます」

 その書状には当家、すなわち関東管領・山内上杉家と、越後守護代・長尾家の間にある過去の遺恨を水に流し、切に関東への援軍を乞い願う、とある。

 景虎は考えた。

 互いに先々代の話とは申せ、両家間の遺恨を解消したいと、関東管領家の方から頭を下げてきている。これには応じなければ不義というもの。しかし、今すぐに援軍と言われても、未だ越後の国内は不安定で、纏まり切ってはいない。しかも、越山には上田長尾家の坂戸城の傍を避けては通れぬ。未だ断絶状態にあり、いつ戦になるか分らぬ今の有様では、自身の出陣はもとより援軍ですら、到底叶うものではない。

 景虎は目線を書状から業政に移した。

「関東管領憲政公のお気持ちは、この平三景虎が、しかと承りました。また、過去の遺恨には拘らず、という寛大な御心には、つくづく感服いたしました」

「では早速、援軍を」

 間髪入れず、ここぞとばかり業政が回答を促す。

「伊勢(北条)氏康とその一族は、鎌倉以来の名家である『北条』を名乗っているようですね。元を辿れば、血筋はともかく今川家に取り入り、伊豆を乗っ取った新九郎長氏の孫と、その一族でありませぬか。所詮は成り上がり者の(そし)りを、免れぬ輩です。それが自らの武威を笠に着て、関東の秩序を混乱させ、己の欲のまま、他国を我がものにせんとするは、許せぬ所業と心得ております。すぐさま、軍勢を率いて越山し、伊勢一族を討ち滅ぼしたいのは、この景虎も同じ思いでござる」 

 この気持ちに嘘はない。長尾家の祖は坂東八平氏として名を馳せた家柄で、鎌倉北条家は、その主筋に当たる。鎌倉幕府とともに、滅亡の憂き目に遭ったとは申せ、その『執権北条氏』と同じ姓を名乗っている氏康ら一族を、景虎が認めるはずもない。謙信は生涯を通して、後北条家を伊勢という早雲以前の旧姓で呼んだという。

「それはまことに心強い。憲政公が聞いたら、どれほどお喜びになるか」

 業政は更に期待を膨らますが、景虎もこれ以上の発言は控えざるを得ない。

「しかしながら、ご存じとは思うが、家督を継いで未だ日が浅い身。そのうえ越後国内も未だ平らかとは言えぬ現状では、他国への出兵など時期尚早としか申し上げられませぬ。信濃守殿には、どうか了見頂きたい」

「では、援軍は叶わぬと」

「今は出来ぬとしか言えませぬ。しかし、国内を平定した暁には、この平三景虎自らが必ず出陣し、管領憲政公とともに、憎き伊勢の輩を討伐してご覧に入れましょう」

(いささ)か残念ではございますが、致し方ございませぬ。当方こそ、越後国内事情を顧みずに、手前勝手な申し様、何卒ご容赦願いたい。しかしながら、長尾殿は我らに漏れ伝わる以上の、義に篤い御方であると、確信いたしました。それがしも五十路を越え、いつまで生き長らえるかは分らぬ身でございます。されど、長尾殿越山の折は、老体に鞭打ち、是非とも露払いの役目を、務めとうございます」

「それは頼もしきお言葉。我が越山の際は、その役目是非とも貴殿にお任せいたしましょう。それまでは、なんとか敵の攻勢を凌いで頂くようにと、憲政公にもお伝え願いたい」

 景虎の返事を受けて、業政は逗留の勧めを丁重に辞去し、帰りを急いだ。

 振り返ると、春日山城は既に遥か遠くに、霞んで見えるだけとなっていた。長野業政はあらためて思った。

 越後守護代・長尾景虎という若武者は、想像以上の切れ者に違いない。しかも、義に篤く誠実な人柄が、その言動から溢れ出ていた。ご家来衆との絆も、固く結ばれているらしい。我らとは大違い、なんと情けないことか。景虎殿を本当に頼ってよいかを、この目で確かめるために来たが、此度はその甲斐が十分にあった。となれば、我らはこれから何とかして、平井城だけは死守せねばならぬ。

 そんな帰路を急ぐ業政を待ち構えていたのは、絶望的な報せだった。

 越後路を通り抜け、三国峠も無事越えたばかり。上野国に入りひと安心と思ったのも、束の間のことだった。業政の帰りを峠の麓で待ち構えていた家来の話に、業政は落胆するしかなかった。

 武蔵国・松山城の太田資正が、氏康の大攻勢に屈し、北条の軍門に降ったというのだ。これで武蔵国内に、誰も味方はいなくなってしまった。

 冷静に考えれば、かなり以前から、憲政の無策と臆病に、愛想をつかしていてもおかしくはない。むしろ、武蔵国で孤立する中で、ここまでよく辛抱してくれた、とも言える。越後への援軍要請にも懐疑的だったのはなく、諦めの気持ちが強かったのかもしれない。

 業政の気持ちは急くが、足取りは重い。考えれば考えるほど、資正離反の影響は計り知れないのだ。落胆するなという方が無理な話だった。

 気がつくと、鋭く刺すような真夏の陽光を避けて、木陰で油蝉が競って鳴いている。大粒の汗を滴らせながら、業政は平井城への帰路を急いだ。


  *政景


 長野業政が来訪してからというもの、生真面目な景虎は、関東遠征を現実のものとして、考えざるを得なかった。

 その根底には、景虎自身の義侠心が強くあるとは申せ、越山には父祖の代から抱える深い因縁がある。

 景虎にはどうしても、前世から背負わされた宿命に思えてならなかった。その思いは萎むどころか、日を追うごとに増幅するばかりだった。

 もちろん、浮ついた気持ちなどではない。越山決行のためには、後顧の憂いを絶たなければならない。つまり、真の越後国内の統一が先決であり急務だった。

 国内統一の後に、ようやく外征が可能となる。越後は四方を敵に囲まれており、いつ攻め寄せられてもおかしくはない状況にあった。景虎は越後を他国の脅威に屈することのない、強国に変貌させるために、軍事力の拡充を目指した。そのためには、財政基盤の安定確保と更なる権益拡大が、必要不可欠であることを早くから認識している。

 守護代就任後直ちに着手したのは、当家の財政状況を近臣と共に自ら確認し、米以外の権益増大策を強力に推進したことであった。

 その財政政策の最たるものが、青苧(あおそ)である。青苧は麻糸の原料となる植物の樹皮を細かく割いたものである。それを織った反物が越後上布として、当時の京でも高級品としてもてはやされていた。

 もともと、青苧の流通に着眼したのは父・為景であり、そこから生み出される膨大な利益を財源として、軍事的な優位性を保持していたのだが、景虎は更にそれを推し進めようとした。その方法とは、青苧の流通を支配統制する権利を独占することだった。

 青苧は当時、頚城・魚沼・三島を主な産地としていた。その流通を盛んにするために、景虎は国内河川の舟運や馬を使った陸運の統制を進め、各要所で通行税の取り立てを開始した。

 更に、柏崎や直江津の港を直轄化し整備することで、日本海を往来する交易を盛んにすると共に、海運からの利益をも取り込み、自らの財政基盤を益々確固たるものにしていった。

 むろん、これらは一朝一夕に確立出来たのではない。為景と晴景の代からの慣行を基盤として、歳月をかけて築き上げていった権益である。

 しかし、景虎が財政を最重要視し、それも決して米の石高だけに頼るのではなく、つまり農民からの搾取ではなく、商いを発展させることで国を富ましたことは特筆すべき事実だった。

 その莫大な蓄財が基盤にあったからこそ、驚異的な回数に及ぶ越山、信濃出兵や北陸への征西、そして二度の上洛という、華々しい軍事的政治的奔走を成し得たことは言うまでもない。

 また、京との積極的外交を行う、つまり、父・為景に倣って、朝廷や有力公家衆、足利将軍家との交誼を結ぶに当たっても、その豊富な財源が役立ったことも忘れてはならない。

 因みに景虎(謙信)は金山を殆ど支配下に治めていない。晩年支配下に置いた、越中の松倉金山が唯一あるのみである。

 国内の高根金山と上田金山は、それぞれ揚北国人と上田長尾氏の支配下にあり、佐渡金山も景勝の代になって、初めて摂取したに過ぎない。

 いずれにせよ、軍事的天才としてのみに、焦点が当てられがちな景虎(謙信)ではあるが、有能な経営者としての側面を持つ武将でもあった。謙信急逝時に春日山城の金蔵に蓄えられていた金の量は、二万七千両だったいう。

 その豊富な財政基盤構築に貢献したのは、府内商人の二代目蔵田五郎左衛門であった。初代は父、為景の代から仕えており、景虎に仕えたのは二代目の五郎左衛門である。

 五郎左衛門との初対面は天文十八年九月のことだった。

「殿、蔵田屋がお越しです」

「来たか、待っていた、直ぐに通せ」

 景虎の前に表れた蔵田五郎左衛門は、景虎の想像とは全く違っていた。若々しく、その体は逞しく、およそ一般的な商人の印象とはかけ離れたものだ。何よりも目に媚びるところが少しもない。景虎は一目で気に入っていた。

「其の方は二代目ときいておる。父の代から世話になっているそうだな」

「はい、家業を継いで未だ五年目でございます」

「儂はこの国を、そして民を豊かにしたい。先ずは手始めに、青苧の取引をもっと盛んにしたい。そのためにも港湾を拡大整備し、国外との商いを増やさねばならぬ。そうすれば、国内外の人の往来が激しくなろう。そこに通行税をかけて更に収入を増やす。どうだ、一緒にやってみないか」

「畏れながら、申し上げても宜しいでしょうか」

「構わぬ、何なりと申せ」

「驚いたのでございます。これから申し上げますことは、誠に失礼なことです。先ずはご容赦くださいませ。此度の守護代様は、大変な戦上手とは伺っておりましたが、そこまで商いをお考えとは思いもしませんでした。今日はあくまでご挨拶までと思い、罷り越したつもりです。初対面の者に対して、そこまで重要な相談事を、打ち明けて頂けるなどとは思いも寄らず、今はただ困惑いたしております」

「確かに其の方とは初対面だが、当家との付き合いは数十年となろう。他に相談する相手などおらぬ」

「畏れ入ります」

「確かに儂は戦人(いくさびと)じゃ。しかし、その戦はあくまでも、この越後を守り、民が安心して暮らせる豊かな国をつくるための手段でしかない。そして、その手段である戦は、数多の銭を必要とする。米だけでは、とても戦など出来ぬ。一国の主であれば、その財源をつくり増やすことを、考えるのは当然と思うが」

「その当然のことを考えて出来る御方は、限られているかと存じます。感服いたしました」

「感服など、せずともよい。どうだ、儂の力になってくれるか」

「はい。この蔵田五郎左衛門、商いを(まいない)とする身ながら、本日ただいまより、殿のご家来衆と同様に身命を賭して、お仕え申し上げたいと存じます」

「うむ、頼んだぞ」

 その後、景虎は五郎左衛門の類い稀な才覚と力量を見抜き、直ちに士分に取り立てた。

 以降は蔵田五郎左衛門()と称し、春日山城の留守居役兼金庫番として、重要な役割を果たし、景虎(謙信)を支えていくことになる。

 

 天文十九年(一五五〇年)二月、四十余年にわたり越後守護の座にあって、時代の移ろいに身を投じて来た上杉定実が、最期の時を迎えようとしていた。

 定実危篤との報を聞き、景虎は府内の館に馬を走らせた。

 定実の寝所には常時薬師が控えている。定実の顔からは、既に血の気も失せていた。

「御屋形様、平三でございます。景虎でございます」

 景虎の囁きに定実は虚ろな目を開いた。

「おお、守護代殿か」

 再び目を閉じた定実だったが、とぎれとぎれに話をし始める。それは守護としての遺言でもあった。

「そなたも存じておろうが、そなたの父とはいろいろあった、ありすぎた。時には手を結び、時には反目し敵対し。奴は、この儂に対して、幽閉という屈辱さえ、与えたこともある」

「御屋形様、もうお止めください。お身体に障ります」

「よいのだ、もう長くはないことを知っておる。儂には、力も人望もなかった。それに戦は知らぬ。そなたの父には、全て敵わなかった。だがな、だが、儂は最後に、そなたの父が出来なかったことを、こうしてやってのけた。何か分かるか」

「いいえ、分かりませぬ」

「それは、そなたを、そなたを守護代に据えたことじゃ。為景ならば、晴景を不憫に思うがあまり、かような判断は出来なかったであろう。どうじゃ」

 どうじゃと言われても、景虎は何も言えない。

「自慢ではないぞ。儂の守護としての最大の功績。それがそなたを守護代に担ぎ上げたことじゃ。そなたには、守護代として、どうかこの越後を守って欲しいのじゃ。頼む。どうか」

「御屋形様」

 ここまで言うのが限界だったのであろう。深く息を吸うと定実は深い眠りについた。

 その後、定実が目を覚ますことは二度となかった。

 天文十九年二月二十六日、桜の花びらが散るように、守護・上杉定実は静かに黄泉の国へと旅立った。館の外に目をやると、春の日差しが眩しいくらいに降り注いでいる。桜が咲き誇るその日に見罷るとは、なんと対照的な死だろう、と景虎は思った。 

 この定実の死により、越後守護の上杉家は、継子が決まらぬまま断絶した。

 定実の訃報は、直ちに越後全土へと広まった。上田庄の長尾房長・政景父子の下にも例外ではなかったが、父子を憤慨させる報せも同時にもたらされていた。

 それは、室町幕府第十三代将軍・足利義藤(後の義輝)、景虎に対して白傘袋と毛氈鞍覆の使用が許可されたという内容だった。このことは、守護・上杉定実の死去に伴い、景虎が越後の事実上の国主としての地位を、幕府から公式に認められたことを意味している。

 事ここに及んで、政景の嫉妬と焦燥は頂点に達した。

 朝廷や幕府といった既存の権威に対する崇拝の度合いは、景虎の場合、当時の武将の中でも異常なまでに高く、(みやこ)に対する憧憬も並々ならぬものがあった。

 むろん、それは京の権威を拠り所にして、自らの権威の高さを、近隣諸国や越後国衆に知らしめるという効果も、十分に認識している。

 しかし、景虎にとっては、朝廷や幕府に対する揺るぎない純粋な忠誠心が全て、と言ってもよかった。各国の守護・守護代は、朝廷や幕府といった保守的国家体制を支える、義臣であるべきという確固たる信念を持っている。

 その信念こそが、生涯二度に及ぶ上洛の決行にも表れていた。当時の国持大名が数か月という長期にわたり国元を離れるなどは、自殺行為に等しい。ましてや「天下号令」などという大それた野心も、持っていないにも関わらず、である。

 一度目の上洛は、越後国主としての天皇への挨拶と御礼が目的であり、二度目は将軍・足利義輝の要請に基づく三好一党の牽制という意味があったにせよ、純粋な主従関係が前提であったことは疑いようがない。

 そのような考えの景虎が、白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許されたのだから、法外の喜びであったに違いない。

 将軍家からの報せに手放しで喜ぶ景虎をよそに、坂戸城の長尾房長・政景親子は、景虎に対する怒りを露わにしていた。

「若輩のお調子者が、どうやら図に乗っているようじゃ。将軍家に銭三千疋を献上した見返りに、白傘袋と毛氈鞍覆を手に入れただけのことではないか。そんな奴に、もう政事は任せられぬ。今こそ、揚北を含めた反守護代の国衆を糾合して、反旗を翻す時じゃ。我ら上田長尾衆の力を、存分に知らしめてくれよう」

「父上、よくぞご決断頂きました。早速お味方してくれる国衆に使者を送り、決起を促しましょう」

「うむ、直ちにかかれ」 

 しかし、この上田長尾父子の不穏な動きは、逐一、他の国衆から景虎のもとにもたらされている。時流を見誤った上田長尾父子に呼応する国人は、柏崎の琵琶島城主である宇佐美定満を除いては、当初から皆無であり、そもそも無謀な反逆計画だった。

 だからと言って、景虎がこの動きを看過出来るわけがない。

「国内で我ら同族同士が争っている時ではない。関東では上野国まで伊勢(北条)の軍勢が迫っている。会津の葦名や米沢の伊達も、隙があれば越後を侵食せんとし、虎視眈々と狙っているのだ。信濃では甲斐の武田がやりたい放題というではないか。いつ他国の刃が越後に向けられるか分らぬ今、何としてでも、内戦だけは避けねばならぬ」

 このような景虎の願いも虚しく、事態は悪化する一方だった。為景の代で棚上げとなっていた姉・綾(後の仙桃院)の嫁入りも、長尾政景側の拒絶によって白紙に戻っており、残された和平への道は、完全に閉ざされたままであった。

 天文二十年(一五五一年)一月、ついに長尾政景は反・景虎を掲げて蜂起した。

 忍びの頭である幻蔵から政景挙兵の第一報を聞いた景虎の動きは早かった。戦が避けられない以上は、如何に早く収束させ、双方の被害を最小限に食い止めるかであった。

 景虎は先ず、政景方の出城である板木城を攻め、これを落城させた。政景方の栗林経重と金子尚綱が率いる援軍が、到着する前に陥落させる、というまさに電光石火の如き早業だった。板木城の主将である発智永芳とその一族は捕縛され、直ちに春日山城に送検されている。

 続いて、この板木落城を聞いた琵琶島城主の宇佐美定満が抵抗を諦め、景虎方に寝返ことになる。直江実綱が水面下で、定満と接触していたことが効を奏した。これで政景は完全に孤立無援となり、降伏も時間の問題と思われた。

 この機を逃さず、景虎は坂戸城に、近臣の小島彌太郎と秋山源蔵を使者として派遣する。むろん、和議の交渉が目的であり、条件は政景の弟を人質として春日山に住まわせることだった。

 しかし、今度は先代当主の父・房長が、屈辱的和議に応ずること能わず、と和議の提案を蹴り、使者の二人を追い返してしまう。

 こうなっては、景虎の面目は丸潰れである。戦況は圧倒的に有利であり、これ以上の争いは避けなければならない、という思いからの和議提案だった。

 それをも蹴ってくるとなれば、あとは景虎自身が出陣して、同族とはいえ上田長尾氏を滅ぼす他ない。景虎は天文二十年八月一日をもって自ら出陣する、と布令を出した。

 ところが、これには思わぬ方から、横槍が入る。

 それは剃髪し御仏に仕える身である母・青岩院からの諫言(かんげん)だった。

「決して短慮はなりませぬ。そなたの気持ちは分かっているつもりです。しかし、上田長尾家は、私の実家・栖吉長尾家とともに、越後にとっては必要な御家と御血筋です。これから、そなたが越後を治めるうえで、味方にしなければならぬ御家です。この度、そなたが寛大さを示すことで、今後は同族という立場から支えてくれることを期待しましょう。何よりも、慈悲深さこそ御仏の教えであり、貴方が幼い頃より学んできた道ではないですか。今が貴方にとっての正念場なのですよ」

 これまで、政事に一切口を挟むことのない母である。事実、後にも先にもこれが最初で最後の忠告だった。この母の言葉は、景虎が冷静さを取り戻すのに十分だった。

 景虎は総数八千という軍勢で、上田庄・坂戸城を遠巻きに囲んだ。矢を射かけても到底届かぬ距離での攻囲である。

 坂戸城内には水も兵糧も数か月持つほどの蓄えがある。しかし、大軍による攻囲を目の当たりにした政景は、到底勝ち目がないことを悟った。戦をせずとも、既に雌雄は決している。事実上の完敗である。

 景虎が本気になれば、この城を攻め落とすくらい、決して難しくないはずだ。それは黒滝城への猛攻と黒田一族討滅という、過去の戦から十分にわかっている。

 政景は、頑なな迄に降伏を拒否する父・房長の説得に動いた。

 父の府内長尾家に対する対抗心と、上田長尾家の気概と矜持は、十分に分かっているつもりだ。政景自身もつい最近までは同じ気持ちでいたのだ。しかし、もうなす術は皆無で、降伏か玉砕しか、途は残されていない。

「父上、ここ迄です。気持ちはそれがしも同じ。内心は忸怩(じくじ)たるものがございます。しかしながら、今や孤立無援、このまま籠城しても、水も兵糧も限りがございます。討って出ても全員討ち死にとなるは必定。ここは当家存続のためにも、降伏を申し出ることといたしましょう」

「しかし、我らは最後通告を断り、使者を追い返しておる。戦では苛烈を極める守護代のことだ。我らを許すわけがない。今更、降伏など申し出ても、拒否されるに決まっておる」

「いいえ、あの通り大軍で我らを取り囲んでいるのですから、攻める気になれば、いつでも出来るはずです。決して隙を見せてはおりませんが、遠巻きに囲むばかりで、一切攻撃を仕掛けてきておりません。これが本当の最後通牒であり、我らの投降を待っているとしか考えられません。父上、どうか、どうかご決断を」

 この政景の必死の説得で、房長はようやく首を縦に振った。

 長尾房長・政景親子が、起請文と共に降伏の申し入れをしてきたのは坂戸城攻囲から五日目のことである。起請文には、以後、守護代家に忠誠を誓い臣従すると認めてあった。

 この起請文に満足した景虎は、寛大な措置で応えることにした。その内容は、何人たりとも一切処罰せず、本領も安堵するというものである。房長・政景親子には、俄かには信じられない内容だった。

 それから二週間の後のこと、長尾房長と政景父子の姿は、春日山城正殿広間にあった。

 傍らには景虎の近臣衆が控え、そして直江実綱や本庄実乃らの、景虎を支える数名の国衆が、二人の両脇を固めている。

 景虎が首座につくと、政景が伏して口上を述べた。和議とは言え、その実態は完全降伏である。

「此度は遅参と相成り、父子共々ここに深くお詫び申し上げます。また、これまでの度重なる我らの不始末にも関わらず、かような寛容なる仕置きを賜り、あらためて御礼申し上げます」

「新五郎(政景)殿、我らはこれまで、互いの立場の違いや、歩んで参った道が些か離れており、その結果、干戈を交えることになってしまいました。しかし、本日この時より、これまでの遺恨を全て水に流し、共に手を携えて、越後というこの国を支えては貰えないでしょうか」

 景虎の口から出た本音だった。

 しかしながら、この場で多少の叱責を受けることを覚悟している政景は、景虎の真意を測りかねて、無言を押し通すしかない

 その様子から、政景の気持ちを察した景虎は更につけ加える。

「今言ったことは、決して冗談や戯言ではござらぬ。そもそも、当家と上田長尾家とは、祖を一にする兄弟同然の間柄。何やら隣国の動きが慌ただしい昨今、我ら同族が争っている時ではござらぬ。ここに列席の国衆や、我ら同族が心を一つにして、越後国をまとめ上げ、隣国からの干渉や侵入を排除することこそが、肝要と心得るが如何かな」

「それは仰せの通りでございます。ただ、我ら親子を何ら罰せず、また叱責もせずというのは、こちらにお越しの方々を含め、他の国衆に対して示しがつかぬ仕儀と心得ますが」

 景虎の口元には微かに笑みが浮かんでいる。

「このことは和議を結ぶに当たり皆に話し、既に同意を得ておる話です。新五郎殿の仰せもご尤もなこと。本来であれば、そうすべきなのかもしれませぬ。しかし、我が越後が置かれている状況を考えると、上田長尾家に罰を与えているような場合ではござらぬ。貴殿には直ぐに我らの仲間として、役目を果たして頂かないことには、立ち行かぬのでござるよ。上野国や信濃国では不逞の輩が、他国にも関わらず我がもの顔で蹂躙しているという話です。それが、いつ我が越後に及ぶとも知れぬ昨今の状況なのです。今こそ、国中が一丸となって国難に当たるべき時です。それに上田長尾家から土地を取り上げても、貴殿の御家中から恨みを買うことになってしまう。この際、後顧の憂いは絶たなければならないのです。ご理解頂けましたかな、新五郎殿」

 政景は、この男には何もかもが敵わぬ、この男に臣従するしかない、と心底から思っていた。

「ようやく合点が参りました。守護代殿の本心を伺い、これまでの(わだかま)りが嘘のように消えて無くなりました。これからは、ここにお揃いの皆さまと共に、家臣団の一員として、お仕え申し上げましょう」

「よくぞ、決心してくだされた。そこでじゃ、新五郎殿」

「はて、何でござろう」

「あらためて、お願いしたい。我が姉の綾を、新五郎殿の妻として迎えて頂きたいのだ。これは父の代からの約定でもある。是非ともご承知頂きたいのだが」

 景虎はこれまで口を真一文字にして、一切開いていない政景の父・房長に視線を移した。

「わが府内長尾家と上田長尾家の絆が深まることは、今の越後に一番大切なことだと思うのだが、如何でありましょう、のう親父殿」

 景虎の問いかけに応じて、観念した様子でようやく房長が口を開く。

「儂は隠居の身にて、当主の新五郎さえ良ければ異論はござらぬ」

「ではあらためて新五郎殿、如何かな」

「さすれば、守護代殿のご配慮に応えぬ謂われはござらぬ。慶んで我が妻としてお迎えいたしましょう」

「これで我が胸の痞えも取れる気がします。まことに目出度い。これからは新五郎殿を兄上とお呼びいたしましょう」

 長尾政景は大永六年(一五二六年)の生まれであり、景虎の四歳年上である。

「はて、守護代殿も、そろそろ身を固めてもよい時と存ずるが」

 そう口を開いたのは、つい先ほどまで口を閉ざしていた政景の父・房長である。

 内心では、この場で景虎からどのような沙汰が、別途下されるか、気が気ではなかったはずだった。それが杞憂に終わり、気が緩んだ結果、思わず口から出た言葉だった。

 予期せぬ方向からの口撃に、一瞬戸惑う景虎だったが、皆の前で宣言する良い機会と思い直し、自らの決心を語り始めた。

「それがしは、故あって妻帯する気はござらぬ。周りの皆に急かされても、一切断っております。どうか、その儀だけは何卒放免願いたい」

 しかし、その時の景虎には、自身の言葉とは裏腹に、意中の姫の顔が思い浮かんでいた。未だ嫁いでいないと、実綱が言っていたことも頭を過ぎる。景虎は周りに気づかれぬように、騒ぐ心を必死に抑え込んでいた。


 ☆端境の章


  *憲政

  

 景虎は、毘沙門堂に籠る日が多くなっていた。この日も朝から御堂に籠り、独り瞑目に身を投じている。

 御堂の屋根には、二尺もの雪がうず高く積もり、全体を覆っている。

 毘沙門天像の前に座ると、景虎の心はいつも不思議と落ち着いた。この時だけは、下世話な醜い人の性からも解き放たれるような気がした。景虎の耳には、深々と降り積もる牡丹雪のかすかな音だけが、時折漏れ聞こえてくるだけだ。

 守護代として入城後直ぐに、景虎は麓の林泉寺を訪っている。恩師・天室光育の後継である益翁宗謙和尚に、毘沙門堂の移設を願い出るためだった。それは、景虎が平時住まいとし、政務の中心である春日山城本丸近くへの移設願いであり、これが許されていた。

 以降、三十年にわたり景虎(謙信)は、この御堂に籠り毘沙門天像の前で座禅を組み、心身の鍛錬と充実、戦勝祈願のみならず、領国の平安と繁栄を祈念するのだが、この時期は少し事情が違っている。

 上田長尾家が軍門に下ったことで、越後統一を成し遂げた景虎だったが、所領を巡る国人同士の争いは、相変わらず絶えて無くなることがない。その訴えの度に、若き景虎の心はかき乱され、頭を悩ませていた。

 この時期の代表的な争いが、揚北の中条藤資と黒川清実、そして、平子孫太郎と松本河内守との抗争である。

 本来、かかる土地を巡る争いは、事実関係を精査報告させ、裁定を下せばよさそうなものだ。

 しかし、景虎の悩みの種は、国内統一を果たす過程のなかで、訴訟当事者の片方が親景虎派だったことにある。中条藤資は、兄・晴景との家督を巡る争いの時に、強力に景虎を支援してくれている。また、平子孫太郎は、長尾政景勢の鎮圧に大きな功を挙げていた。

 情に流されていては、政事が立ち行かなくなる。景虎の性格上、裁定に当たっては、公平こそが重要、と信じて疑っていない。

 特に、中条氏と黒川氏の争いは、伊達時宗丸の守護職継嗣問題の時から尾を引いている。その頃からの複雑な感情が絡み合い、解決が簡単ではなかった。

 景虎は真剣に悩んでいた。

 どうして、猫の額ほどの極めて小さい土地を巡って、人は争わなければならないのか。何故、他者に労りの心で接し、譲り合うことが出来ないのか。

 それが一族のため、家族のため、家来のためと皆が口を揃えて言うが、果たしてそれだけなのか。本当は己の欲得と詰まらぬ名誉のためではないのか。

 土地などは、この世で生きている時だけのものに過ぎぬ。死ねば全てが無に帰してしまう。何故、譲歩や共存が出来ぬ。慈悲と仁愛の心こそが大事なはずだ。つまらぬ欲得のために、一族郎党や家族の命を賭けるなど愚かでしかない。何故それが分らぬ、何故なのだ。

 これも全て儂の徳が足りないせいなのか。

 このままでは、本当に他国の侵略を許すことになってしまう。

 景虎は焦燥に駆られながら、自問自答を繰り返すばかりだった。

 理想主義の景虎は、自らを厳しく律し、欲得から離れた無私の境地こそが、施政者としてのあるべき姿であると信じて疑わない。これは幼少期からの寺における厳しい修行で、培われた境地に他ならない。

 そして、御仏の道とは相反する殺生でしかない戦も、あくまで天下国家のための聖戦と理論づけ、自らを納得させている。

 つまり、刀を抜き血で血を洗う戦は、正義という旗印のもと、領地領民の安寧と幸福をもたらす戦でなければならない。そして、自らが信ずる大義のためであれば、「毘沙門天」の名の下で先頭に立ち、命を賭けて戦う覚悟だった。

 しかし、この考えは、俗物主義である他の国衆とは、あまりにもかけ離れたものであり、到底理解しては貰えるはずがなかった。

 何ら解決策が見いだせないまま、毘沙門堂内での苦悶は続く。

 外はいつ止むとも知れず、雪が降り続いている。いつの間にか日は沈み、辺りはすっかり暗闇に包まれている。

 ただ、蝋燭の灯りだけが、わずかな隙間から微かに漏れ出て、毘沙門堂の外観をぼんやりと浮き上がらせていた。

 天文二十年(一五五一年)大晦日、除夜の鐘が遠くに聞こえた。 

 

 明けて天文二十一年(一五五二年)一月十日、その日も景虎は毘沙門堂に独り籠っていた。

 前日までの吹雪が嘘のように止み、辺り一面に降り積もった雪が、冬の陽光に反射して眩しい。

 突然、御堂の軒先から、氷柱の重さに耐えかねた雪が、大きな音を立てて崩れ落ちた。

「殿、客人がお越しになりました」

 声の主は金津新兵衛だった。声の調子から、些か慌てている様子が伺える。

「かような季節(とき)に参るとは、どこのどなたじゃ」

 景虎は依然目を閉じたまま、外に控える新兵衛に問いかけた。

「関東管領・上杉憲政公でございます」

 やはりお出でになったか。

 坂戸城の長尾政景からは、既に早馬で第一報が入っている。

 忍びの幻蔵からも、数日前に一行が三国峠を越えて越後に入った、と聞かされていた。

 上杉憲政の居城であった平井城の落城は、前年三月のことだった。

 その後は、厩橋城、そして白井城へと落ち延びていたと聞いていたが、戦わずして逃れてきたのだろうか。

 景虎はようやく、目を見開いた。

「その総勢は何人だ」

「十八人でございます」

「わずかにそれだけか」

 幻蔵の話では、越後に入った時、五十人は下らないと聞いていた。

 恐らくは、その大半が夜陰に紛れて、逃亡したのに違いない。それだけでも、如何に惨めな逃亡劇かがわかる。

 関東管領と言えば、痩せても枯れても、東国の公方様(古河公方)を補佐し、政事を担うべき武士の(おさ)ではないか。

 先々代の顕定殿などは、父・為景と一戦に及び討ち死にされたとはいえ、一時は父が越中に逃れざるを得ない程の武威を誇ったお方だと聞く。

 それが僅か四十年の時を経て、この遺恨ある越後まで、恥も外聞も捨てて、僅かな供回りで逃れてくるとは、何と情けないことか。

 如何に下剋上の世とは申せ、武門の誇りも地に落ちたものだ。

 そう景虎が嘆いても、何かが解決するわけでもない。

「わかった。今から参る。暫しお待ちいただくように」

「承知いたしました」

 新兵衛は来た雪道を踏みしめて、急ぎ戻っていく。

 景虎はその徐々に遠ざかる足音を耳にしながら、暫くの間、毘沙の中に坐したまま、動こうとしなかった。

 

 関東管領・上杉憲政は、景虎を待つ間、本丸正殿の上座に平然と座っていた。

 常日頃は景虎が坐しているその位置に、まるで自分が春日山の主であるが如く、悠長で臆面もない様子で座られては、さすがの景虎も呆れて言葉が出ない。

「おお、そなたが守護代殿か。会いたかったぞ」

 気を取り直す間もあったものではない。

「支度に手間取り、些か遅くなり申した。越後守護代・長尾平三景虎でございます。かような雪深い田舎城まで、ようこそお越しくださいました」

 今にもにじり寄って来ようとする憲政を、手で制しながら、ようやく口にした社交辞令だった。

「先年、長野信濃守殿に越山を約しながら未だ果たせず、こうして憲政公をお迎えすることになってしまいました。まことに残念でございます」

「いやいや、全ては我が不徳の致すところ、守護代殿のせいではござらぬ」

 当たり前だという気持ちが、景虎の脳裏を過ぎったが、さすがにそれは口に出せず、噛み殺すしかない。

 目の前にいる憲政には、関東管領としての風格はおろか、品位の欠片も残っていない。髪は乱れ放題で、その顔はしょぼくれて、やつれ果てている。それは如何に過酷で命からがらの逃亡劇だったかを、物語っているとも言えるが、景虎としては、せめてもう少し身を整えるくらいなんとか出来るだろう、と思えてしまう。

 そんな景虎の気持ちなど知る由もなく、安心したのか、憲政は悪びれもせずに、続けて話し始めた。

「情けないことじゃが、憎き氏康に昨年三月、平井城を攻略されてしまい、その後は流浪の身同然であった。厩橋城、そして白井城にまで落ち延びて、ようやく一息つけるかと思っていたところを、またもや大軍に襲われこの有様じゃ。命からがら、城から逃げ出すのが関の山。とはいえ、もう上野国に逃げ場所は残されておらず。頼れるところは、越後のそなたの所だけであった」

 その言葉とは裏腹に、憲政には、さして悪びれる様子がない。

「憲政公にはご嫡男がいらっしゃると伺っておりますが、いずこにおいででしょうか」

 何気ないつもりで聞いた景虎だが、その返答は耳を疑う内容だった。

「龍若丸は捕らえられ、既に斬首されておる」

 景虎は思わず絶句した。

 このお方は本当に関東管領なのであろうか。敵と戦う気概もなく逃げ出すばかり。おまけに自身の血を分けた大事な子供ですら、放り出して逃げてきたのか。これでは家来衆に見捨てられるのも当たり前、自業自得というものではないか。東国武者の頂点に君臨する者としての、矜持の欠片もないこのお方を、お助けすることが果たして正しいことと言えるのか。

 心中自問自答しながらも、景虎に他の選択肢はないに等しい。

「そのように、辛い出来事があったとは知らず、大変失礼なことを伺ってしまいました。心中お察し申し上げます。ところで、長野殿は今如何されているのでしょうか」

「子細は掴んではおらぬ。しかし、我らが白井城を攻められた時は、確か居城の箕輪に戻っておったはず。そこは抜け目のない氏康のことじゃ。箕輪にも大軍を使わし、おいそれと援軍など出せぬよう、睨みを効かせているはずじゃ。きっと、城に釘付けにされたまま、動きが取れないのであろう」

 伊勢氏康は決して侮れない武将に違いない。恐らく、関東管領家中には内通者がいて、白井城攻めも、長野業政不在の時を狙っていたのだろう。こんな二枚も三枚も上手の相手に、愚鈍を絵に描いたような憲政が勝てるはずもなかった。

「それほど、長野が気になるか」

 憲政というお方は、戦や政事は不得手でも、嫉妬心だけは人並みらしい。

「それがしは越後しか知らぬ、田舎者でございます。関東には長野殿以外に誼を通じている方はおりません。それに長野殿とはひとつ約束がございます」

「はて、その約束とは」

「我が越後勢が越山の折は、先導役を買って出て頂ける、とのことでございます」

 その返事を聞いた憲政の顔色と目の輝きが変わった。

「それは何とも頼もしい限り。長尾殿、儂は悔しいのじゃ。戦下手の儂に代わって、どうか伊勢の奸族を成敗しては貰えないだろうか。それを約束してくれるのであれば、儂は喜んで関東管領の職を、そなたに譲ろうと思う」 

「そればかりは、丁重にお断り申し上げます」

 景虎の断りに対して、憲政は珍しく一歩も引く様子がない。

「いや、当関東管領家と越後守護代家は、数奇な運命の巡り合わせから争い、禍根を残して参った。しかし、そなたは、その禍根を水に流して、我らに加勢してくれるという。その意気に応えようと思うのは当然とは思わぬか。それには管領職を譲るしか、儂に残された途はあるまい。それに、もう戦や政事はこりごりじゃ。出来得ることならば、この越後で隠居し、心穏やかに余生を過ごしたいと思う。この願い、どうか叶えてはくれまいか」

「管領職については固辞いたします。但し、数年のうちに必ず越山し、伊勢の輩を成敗してご覧に入れましょう。それまでは、この越後で、ゆるりとお過ごしくだされ」

 もう後に引くわけにはいかない。

 たとえ、今、越山を断ったとしても、いずれ伊勢氏康とは一戦を交える運命にある。氏康が上野国の次に触手を伸ばしてくるのは、この越後しかない。となれば、憲政公を神輿に担いで越山するのが上策というものであろう。

 幻の者一党の調べでは、伊勢(北条)の急激な台頭と専横を宜しからずという、関東国衆も数多くいるという。これらの反対勢力を糾合して、いずれ正義の御旗を立てることこそ、我が進むべき道となろう。

 先ずは長旅の疲れを癒して差し上げることが先決だった。更に、景虎は仮住まいや当座の暮らしの手当を、近臣の戸倉与八郎に任せることにした。

 その夜、景虎は幻の者の頭である幻蔵を呼んだ。

「察しの良いお前だ。分かっていると思うが、これまで増やしてきた手の者を、出来る限り多く上野と武蔵、下野、常陸に解き放ってくれ。これまでの三倍の数は必要だ。必要な金子は用意する。そして、各国衆の動向や氏康の動きを掴み次第、逐一報告してくれ」

 景虎は黒田秀忠追討以降、頭の幻蔵に命じて、幻の者一党を増やし、精鋭を育ててきていた。情報の量と質が戦や政事の成否を左右する、という景虎の考えは、月日の経過と共に、益々強くなっている。

 更に守護代就任してからは、他国の情勢を掴むために、より多くの幻の者を必要とするようになった。そこで、景虎は幻蔵に命じて隠れ郷をつくらせた。その集落一帯は幻の者一党とその家族のみで占められている。今は、その隠れ郷で必要な武芸の鍛錬を課し、精鋭を育てている最中だった。

 火急の報せは、狼煙から狼煙を伝って春日山まで届くように、工夫が加えられた。狼煙の色や形、大きさで知らせの種類やおおよその内容まで伝達出来る仕組みだ。他にも、忍びとして新たな伝達方法を実用化させた場合や、格別の手柄があった者には、別途褒美を取らせるようにしている。

 このことが、幻の者同士が切磋琢磨して競い合い、一党をより強固な諜報活動と戦闘を担う集団に、変貌させる一因ともなっていた。

「承りました。ひとつ下知を仰ぎとうございます」

 近頃では、幻蔵が直に下知を仰ぐことは、珍しいことではなくなってきている。

「何じゃ、申せ」

「ひとり、気になる者を密かに捕らえてございます」

「それは如何なる者か」

「管領・憲政公に付き従ってきた者の一人でございます。挙動に不審な点がありましたので、密かに見張りを付けておりましたところ、上野国・館林城主であります赤井殿宛の密書を、認めておりました。恐らく、それは誰かに託して届けさせよう、と企んでいたものと思われます」

「その密書とやらは何処にある」

「これに」

 幻蔵が懐から差し出した書状には、上杉憲政が春日山に着到するまでの経緯が事細かく記してある。北条方の赤井氏が、管領家に仕える小者として、家中に潜らせたに違いない。それにしても、今日の景虎との会話まで触れられているということは、憲政が口軽に言い触らしているということだ。

 憲政との話の内容には、今後大いに注意を払う必要がありそうだ。また、周りの世話には全て景虎と近臣で人選し、信の置ける者をつけるしかない。

「その者は庄田惣左衛門(定賢)に預けてくれ。詳しく詮議の後に、処断する他あるまい。大儀であった」

 幻蔵が去った跡には、雪を踏んだ足形だけが残っている。

 景虎はその足跡を、ぼんやりと眺めながら、自身が背負ってしまったお荷物の重さを計りかねていた。

 しかし、賽は投げられたのだ。前を向いて、ひたすら突き進むしかない。景虎は顔を上げた。

 

  *越山


 景虎は府内の南側に位置する場所に、広大な邸の造営に着手した。それが二年後に完成する御館(おだて)と呼ばれた憲政の豪邸である。

 上杉憲政は古河で過ごす一時期を除き、謙信没後に勃発した「御館の乱」で落命するまでの間、終生この邸で暮らすことになった。

 上杉憲政が落ち延びてきた同年の天文二十一年(一五五二年)五月二十六日、朝廷より景虎に対して、弾正少弼の官途と従五位下の位階が下賜(かし)された。

 これは、既に室町幕府から認められた越後国主としての立場を、朝廷からも追認を受けたことを、国の内外に示す意義があった。

 この朝廷からの下賜に感激した景虎は、御礼のための上洛を真剣に考え始めた。

 手始めは、在京の雑掌(ざっしょう)である神余親綱(かなまりちかつな)に命じて、御礼の品々を献上させることだった。親綱は父である神余実綱の後を受けて、京に赴き二年が経過しており、京の事情にも詳しくなってきている。この時、親綱二十七歳、景虎より四歳年長である。

 雑掌とは、室町幕府の弱体化に伴い、各国守護が京から国元へと住まいを移したことが原因で、守護の代理人としての立場で、京における政務外交を担う者のことを言う。

 特に越後では、父・為景が実権を掌握して以降、雑掌が守護代長尾家の私的渉外担当としての役割に変化しており、景虎もそれを引き継いでいた。

 神余親綱は対朝廷・対幕府工作を推し進め、景虎の二度にわたる上洛を陰から支えただけでなく、国元の蔵田五郎左衛門尉と連絡を密にしながら、畿内での青苧の商取引にも大きく関わりを持ち、越後の国庫を潤す役割も担っていく。

 天文二十一年六月、その神余親綱が、急ぎ越後に帰国した。天皇から下賜された品と、将軍・足利義藤からの御内書を携えている。

(みかど)からのお言葉は如何であった」

 むろん、官位もなく、越後国主の家臣に過ぎない神余親綱が、天皇への直答はおろか、拝謁すら叶うわけもない。厚誼を受けているいずれかの公家からの伝聞である。

「越後の弾正からの心配りには、いつも嬉しく思う、とのお言葉を賜っております」

「そうか」

「それに弾正少弼様が官途位階下賜(かし)の御礼に上洛したい旨をお伝えしたところ、楽しみに待つ、という有難き御言葉も頂戴仕りました」

「うむ、重畳じゃ。将軍・義藤(後の義輝)様のご機嫌は如何か」

「今は三好長慶殿と和解が成立し、京に戻っておられます。しかし、今度は管領の細川晴元様が京を追われる始末で、相変わらず公方様の周辺は混沌としております。全く先が読めませぬ」

「そもそも、三好長慶などは管領・細川家の一家臣に過ぎぬ家柄ではないか。その管領ですら、将軍家にお仕えする身じゃ。それが、強大な武力を笠に着て、本来あるべき秩序を蔑ろにした挙句、政事を私するとは、神をも畏れぬ所業と言わずして何と言う」

 景虎の憤懣やり方ない気持ちが爆発する。

「仰せの通りでございます。公方様には、弾正少弼様のお気持ちを、書状にてお伝え申し上げております」

「その御返事が、その御内書か」

 親綱の手から、うやうやしく景虎の手に御内書が渡された。

 景虎はその御内書を噛みしめるようにじっくりと、しかも繰り返し読んだ。

「我が将軍家を敬い尊崇する気持ちが、確と伝わっているようじゃ。必ず上洛を実現し我を助けよ、とある。また、関東管領・山内殿を助けて、乱れた関東を平らかに治めると同時に、近隣諸国の乱れも糺せとの仰せだ」

「おめでとうございます。これで全ての大義名分が揃いましたな」

 この御内書によって、景虎が今後行う上洛や越山を含めた近隣国への外征は、全て足利将軍家の意向に基づくものとなる。正義の御旗の下で、全てが実行されるのだ。

 親綱は素直に喜んでいた。父から引き継いだ自分の務めが、一つ結実したのだから、その喜びに嘘や誇張はない。

 しかし、景虎は気を引き締めることも忘れていない。

「実に目出度い。しかし、これからが儂にとっても、お主にとっても正念場だ。引き続き、京のことは頼んだぞ。金子のことは蔵田五郎衛門尉に、儂から伝えておく」

「有難う存じます」

 神余親綱は、景虎から数日間休養するよう、との勧めを丁重に断り、翌日には急ぎ京に戻っていった。

 

 神余親綱の帰国から遡ること二ケ月前、景虎は坂戸城の長尾政景に命じて、三国峠にいたる軍道の整備を急ぐよう命じている。

 上杉憲政が越後に落ち延びてきて以降、越山がいよいよ現実味を帯びてきたが、上野国に大軍を送り込むうえでは、軍道の拡張整備が急務と判断したからだ。

 景虎は関東情勢に精通するほど、北条氏康が相当の難敵であることを、冷静に認めるようになっていた。これまでの戦ぶりや、領内統治の評判を耳にしても、殆ど隙が見当たらない。このような難敵が相手では、越山が一度や二度で片付くとは、とても考えられなかった。

 大軍の移動、と一言で済ませるのは簡単だが、それには軍馬や兵糧武具、そして薬など大量の必需品を運び出す荷駄隊も含まれている。

 山越えという過酷な移動を、如何に迅速で円滑に進めるかが、兵の士気を大きく左右し、戦の趨勢にも影響することを、景虎は見抜いていた。

 軍道の整備が、一方では商いの道として使えることも、景虎は見込んでいる。平時は越後と関東諸国の往来に使うとなれば、物産の行き来も増え、自ずと商いも盛んとなる。物流の動きと共に民は潤い、そこに幾らかの通行税を課すことで、国も更に富むという仕組みだった。

 周辺の整備を終えた、天文二十一年(一五五二年)八月、景虎は遂に関東に向けて春日山を進発した。これが景虎初めての越山である。

 この越山は本格的な関東制圧を企図したものではなく、実踏的な意味合いが大きい。

 しかし、次のような四つの意義を念頭に置いて、景虎が実行に移したものだった。

 第一に、上杉憲政の要請に応じたという姿勢を内外に示す必要があった。長野業政による援軍要請の時点では、未だ上田長尾父子との一触即発状態があり、とても他国に軍を派遣するなど、誰がみても不可能な情勢だった。それでも、景虎には援軍を派遣出来なかったことが、平井城の落城を早めてしまった、という負い目を感じていた。

 むろん、それは上杉憲政の力量不足でしかないのだが、景虎の生真面目な性格からは、その負い目を一日も早く、払しょくしたかったに違いない。

 第二の意義としては、将軍・足利義藤からの御内書に基づき、早々に越山を実行して、関東の静謐(せいひつ)を取り戻しにきたという姿勢と実績を、将軍家に対して示したかったことだ。

 足利将軍家こそが、武門の頭領であることを信じて疑わなかった景虎は、その忠実な家臣の代表として認知されたいという、いじらしい程の願望を持ち合わせている。そこで、成果の多寡に関わらず、御内書に基づき速やかに動くことを、景虎は優先させたのだ。

 第三には、箕輪城の長野業政を中心とした反北条の旗を掲げる関東の国衆に対し、越後が本気で助勢する気があることを、行動で示す必要があったことだ。その行動が遅ければ遅いほど、関東の大勢は氏康に靡いてしまう、という危機感からに他ならない。

 そして、最後の意義は、北条氏に対するけん制である。これまでのような「身勝手な横暴」は決して許さない、という事実上の宣戦布告を行うことだった。

 旧体制の秩序維持こそが、景虎にとっての不変的正義である。北条による関東制圧を目指しての北上政策は横暴であり、悪以外の何物でもない。

 関東管領の名代として越山すれば、これまでのように簡単に関東諸将が北条側に(なび)くことはないであろう。そして、北条が勝手な武力行動に出る時は、いつでも相手になってやる、という気概を示すためだった。

 天文二十一年八月、景虎は本庄実乃及び平子孫太郎らの諸将とともに、五千の兵を率いて上野国に入り、箕輪城主・長野業政との再会を果たした。

「お久しゅうございます、弾正殿。ようこそお越し頂きました」

「信濃守殿、お出迎え忝い。あれから、些かの年月が経ってしまいましたが、こうしてようやく約束を果たしに参りました」

「何はともあれ、ご無事での越山、祝着至極に存じ上げます」

「それにしても、憲政公が突然、我が越後に現れました時は、些か驚きました。しかも、豪雪の中を掻き分けて、遠路はるばる春日山までお越しになるなど、誰も想像してはおりませぬ故に」

「面目次第もござらぬ。それがしが不在の白井城を狙うなど、氏康らしい狡猾さですが、それを見抜けぬ我が方も、情けなく恥じ入るばかり」

「過ぎたことを悔いても仕方ありませぬ。これからが我らの新たなる反転の時にて、共に手を携え戦って参りましょう」

「頼もしいお言葉、痛み入ります」

「ところで、憲政公のことですが、余程越後の水が合うとみえます。すっかり気に入られ、日々を楽しんでおられる様子。ついては、お住まい頂く新たな屋敷の普請を進めております。此度も、ご同道を願い出ましたが、もう戦は懲り懲りと言われてしまいました。いずれにせよ、恙なく過ごし頂いておりますので、ご安心くだされ」

 長野業政は苦笑いするしかない。

「弾正殿、既にお気づきと存ずるが、氏康は奇襲を得意とし、多用いたします。奇襲を目論むには、予め確かな情報を掴んでいるはず。実は白井城でも小者の一人が、怪しいと踏んでいたのですが、案の定、落城後姿をくらましております。恐らくはその者が、それがしの不在を報せ、好機と踏んだ氏康が間髪入れずに、攻め入ったものと存じます。今は憲政公の傍近く仕える小者に、内通者が混じっていないか、それだけが気がかりなのですが如何でしょうか」

「やはりそうでしたか。実は小者一人を捕らえました。氏康に味方する館林城主宛に書き記した密書を所持していたので、その者は直ちに処断しております」

「それをお伺いし安心いたしました。しかし、越後まで執拗(しつよう)に間者を送り込むなど、油断できませぬ。ましてや、我が上野国となると、いつどこに敵の目と耳があるか分かりませぬ。我らも更に用心するが肝要と心得ます」

「左様、それにしても、氏康という男は、正々堂々、正面切っての戦いをいつも避けているようですね。しかし、それは決して弱いからというわけではない。少しでも油断すれば、とんでもないしっぺ返しを食らいそうな難敵でもある。儂が越山を果たしたことは、既に小田原に届いているはず。それでも、確実に勝てるという確信がなければ、勝負を挑んでくることはないのでしょう。それが些か無念ではあるが、此度は上野の国衆の失地回復が第一義にて、それは必ず果たしてご覧に入れましょう。どうか安心くだされ」

「その力強いお言葉を聞き、勇気百倍でござる。由良・横瀬らの各国衆も、明日には駆けつけて合流できる手筈になっております。いやあ、これで久しぶりに我らの力を存分に発揮できます。今から氏康の渋い顔が目に浮かぶようで、愉快このうえございませぬ」

 珍しく豪快な業政の笑い声が陣中に響き渡った。

「失礼いたした。何年もの間、かように笑うことなど忘れておりました故に」

 これまでの業政の苦労のほどが伺える一言だった。確かに春日山で会った時より白髪は増え、顔に刻まれた皺の数も増えている。景虎はこれから始まる戦を目前に、あらためて自らの責任の重さを痛感していた。


 景虎の予想は的中していた。長野業政と再会を果たしたその日のうちに、小田原の氏康の耳には、長尾弾正少弼景虎「越山」の急報が届いていた。

 氏康は、苦虫を噛み潰したような顔をして、終始不機嫌そうに見える。

「とうとう、越後の若造が、のこのこと出張ってきたか。せいぜい己が身勝手な正義とやらを振りかざし、いい気になっているのであろう。のう、孫九郎」

 北条氏康の傍には、大道寺政繁が控えている。

「左様心得ます。しかし、越後の田舎侍とは申せ、殿に挑もうとするなど、まさに怖いもの知らずとはこのこと」

「まあ良い。越後は雪深い国と聞いておる。冬が来る前には、越後に帰らざるを得まい。たとえ幾つかの城を奪い返されたとしても、奴が帰った後にじっくり取り戻せば済むことよ。それにしても、厄介なお人好しが現れたものじゃ」

 そう言うと、氏康は何事かを考え込むように口を閉じてしまった。蝋燭の炎だけが、秋の夜風に吹かれて、時折ゆらゆらと揺れている。


 景虎は直ちに上野国衆を従えると、沼田城攻めに当たっていた北条幻庵長綱を急襲し、これを撃退、敗走させた。

 次いで、平井・平井金山の各城を間髪入れずに攻め立て、これらの城も奪還した。平井金山城攻めには、庄田惣左衛門尉定賢が当たり、みごと期待に応えている。栃尾以来の旗本馬廻衆ながら、景虎はその軍才を密かに認めていた。

 その後も景虎軍は上野国内を駆け回り、まさに破竹の勢いで北条軍を上野国外へと駆逐した。そして、遂には北条幻庵長綱を、武蔵松山城まで追い詰め、反撃の機会を与えることなく、城内に封じ込めていることに成功した。

 北条幻庵は、この時既に還暦を迎えており、北条家のまさに長老的な存在である。その年齢を感じさせぬ程、意気益々盛んな猛将として名を馳せていたが、その幻庵ですら景虎には敵わず、逼塞を余儀なくされていた。

 こうして、上野国諸城の奪還と、北条幻庵の封じ込めを果たした景虎は、冬を前に帰国の途についた。むろん、次回の越山時には、小田原落城まで追い詰めることを、参陣した諸将に対して意気高らかに約束したうえでの凱旋である。

 一連の旋風とも言える景虎の軍事活動は、関東における反北条勢力の士気を大いに鼓舞し、団結を強める結果になった。同時にその活躍ぶりは、瞬く間に関東一円に広まり、景虎の名声を高めることになったことは言うまでもない。

 

  *与板城

 

 景虎は与板城に向かっていた。

 関東より帰国し、戦後の論功行賞を済ませた後のことである。毘沙門堂に独り三日三晩籠った後に、僅かな近臣を引き連れての訪いだった。

 左に見える日本海の空には、鉛色の雲が低く垂れ下がり、越後に冬の訪れが間近に迫っていることを感じさせる。白い波しぶきをあげて荒れる海がどこまでも続く。時折、打ち寄せる高波は、海岸線を大きく越えて人家に迫るほどであった。

 やがて到着した与板城内の郭で、真っ先に行うのは、白い息を吐きながら呼吸を整えている愛馬の手入れだ。

 景虎は常日頃から、馬の手入れだけは、極力自分で行うようにしている。馬に愛情をかければ、それだけ心が通ずる気がしていた。体中から立ち上がる熱気を冷ますように、きれいに布で拭いてやると、嬉しそうな目をする様子がいつも堪らない。愛馬の鼻面を軽く撫でながら、持ってきた秣を褒美に与えていると、直江実綱が急ぎ出迎えにきた。

 一足先に早馬で向かっていることを報せてあるが、要件は全く伝えていない。「殿、急な(おとな)いに驚いております。何事かございましたか」

 こうして突然訪うのは、初めてではない。これまでにも幾度もあるから、本当は驚いてなど、いないはずだった。

 景虎は実綱に顔を向けることなく、愛馬に草を食ませながら応えた。

「与兵衛尉か。関東から戻り、少しは休みたいところじゃが、そうは参らぬ。所持雑多に振り回され嫌気がさした。毘沙門堂に籠ってはみたが邪念は一向に晴れぬ。そこでそなたの顔でも見て気を晴らそうと参った。心配せずともよい」

「殿も左様なお戯れを言うようになりましたか。まあ、かような場所でお伺いする話でもございますまい。この空模様のなか、馬を飛ばして参られたご様子、さぞかしお身体が芯から冷え切っていることでしょう。先ずは湯屋にご案内いたします。その後で、ご用向きはゆるりと伺いましょう」

「うむ、遠慮なくそうさせてもらう。実は毘沙門堂に籠りながら、幾つか考えたことがある。その相談に参った」

「それは余程大事なことでございますね。では、それがしも確と覚悟して、お伺いすることにいたします」

 再び愛馬の鼻面を軽く撫でた景虎は、後方に控える実綱の家人に、仕上げの手入れを細かく伝えると、実綱と共に姿を城内に消した。

 一刻の後、与板城本丸の上座敷には、二人の談笑する姿があった。

 幼き時分に父を失った景虎にとっては、実綱が父であり兄だった。近臣馬廻衆以外に心許せる唯一無二の存在になっている。

「先ずは先の上野国における数々の大勝利、執着至極に存じます」

「うむ。しかしながら、伊勢(北条)氏康という男、亀の如き奴ゆえに、儂が攻めれば引っ込み、戻ればまた兵を出して、攻め落とすことを繰り返すらしい。越後が雪で閉ざされている間も、関東は雪知らずの空模様と聞く。となれば、この間に奪い返されれば、まさに『(いたち)ごっこ』じゃ。

それを絶つためにも、次に越山する時は、長期戦を覚悟しつつ徹底的に叩き潰さねばならぬ」

「かなりの難敵ですな」

「そこで新たな悩みが生じてしまった」

「はて、それは如何なることでございましょう」

「関東における戦は私戦にあらず。あくまで、関東の国衆を守り、伊勢氏康の侵略を防ぐことを第一義としている」

「仰せの通りです」

「従って、奪い返した上野国や武蔵国の領地は、元の国衆に返却するのが当たり前のこと。それは裏を返せば、褒美を期待して参陣してくれた越後衆には、新たな領地を褒美として分け与えることは出来ぬ。しかし、もし、儂がこれを繰り返せばどうなる。越後国衆の不満を招くことは必定じゃ」

「左様ですな。もう四十五年も前のことながら、それがしも聞いております。殿の御父上が、当時の守護である上杉房能様に対して、やむなく弓を引き奉ったのも、度重なる越山に不満が爆発した国衆に押されての所業であったと」

「その通りじゃ。そこで、此度は土地を所望しない代わりに、『乱取り』の黙認を願い出る者がいた。しかし、儂はその者を厳しく叱責して、決して許さなかった。儂が起こす戦が、関東の民を苦しめることになれば、それは本末転倒というもの。本意ではない、それどころか忌むべき戦となる」

「そうかと言って、褒美を与えねば国衆の反感を招く」

 景虎の意を汲んで実綱が続けた。

「そうなのだ、与兵衛尉。儂は如何すれば良いのじゃ。越山は父祖の代から背負わされた宿命とも覚悟しておる。次の越山で終われば良いが、そう簡単に事が運ぶとは思えぬ」

「左様、広く開けた関東の大地を、一年や二年で平らかに治めるなど至難の業でございましょう。首尾よく氏康を討ち果たすことが出来たとしても、数多き国衆をまとめるなど到底叶わぬことと存じます」

「しかし、儂が越山を決めた真の理由を理解出来ている者は少ない。未だに憲政公や上野国衆への義理立てなどと、単純に考えている者も多くいる」

「殿が越山を決めた一番の理由は、氏康が越後に手出し出来ぬようにするためでございましょう」

「その通りじゃ。むろん、京への将軍家に対する配慮もあるが、最たる理由はそこじゃ。手をこまねいていれば、伊勢一族の勢いは増すばかり。やがては関東全体を併呑して、越後に攻め入ってくるに違いない。それをさせぬためにも、何としてでも、今から奴の勢力を削ぎ落す必要がある」

「しかし、それを言って聞かせたとしても、誰も聞いてはくれぬ、ですね」

 景虎は頷くことで、実綱の言葉を肯定し更に続けた。

「多くの者は目先のことしか見ておらぬ。近い将来のことでも、真剣に聞く耳を持たぬ者ばかりじゃ。結局、関心があるのは目先の損得だけ」

「しかし、それはこの世に生きとし生ける者の我欲というもので、致し方ございません。人は皆その日の食を考え、今を生き貫くことで精一杯なのです。理想で腹は膨れませんし、もし、理想で人を服従させようというのであれば、それこそ傲慢というものでございましょう。例え、国衆が全員、殿の命によって諾と頷いたとしても、その下で従軍している者の多くは土豪や農民です。その輩の行動には、多少のお目溢(めこぼ)しをしてこそ、上に立つ将の器量というものです。殿から頂戴出来る路銀や税の減免だけで我慢しろ、と言っても、決して下々は納得いたしませぬ。それでも頑なに許さぬとなれば、戦の士気にも影響してしまいます。そうなっては元も子もございませぬ。殿のお気持ちを察するに、まさに断腸の思いでしょうが、ここは大局を見据えた判断が必要かと存じます」

「確かに、たとえ感状一枚貰っても腹は満たせぬ。それは分かっていても、何か妙策はないものかと考えてしまう。お主の考えは、関東の国々の安寧のためであれば、一時の民草の犠牲は致し方ないという結論になる。そのような犠牲の上に作った安寧などは、儂の義に反したものでしかない。儂が動けば動くほど、不幸な者が増えてしまうというのは、どうにも納得が出来ぬ」

 実綱は意を決し、言い切ることにした。それは、景虎の性格と気持ちが分るからこそ、吐露する心からの叫びでもあった。

「殿、そうであれば、殿がこの世を変えるしかないのです。詰まらぬことで争いごとが起こらず、平和で民が豊かに暮らせる世の中を、その手でつくるのです。殿はそのために、莫大な銭を惜しむことなく投じ、大きな犠牲も覚悟のうえで、戦に臨んでおられるはずです。しかし、その戦も決して、きれいごとでは済まされませぬ。戦では数多の将兵が傷つき亡くなるだけでなく、その残された家族が嘆き苦しみ、時には路頭に迷うことも珍しくありません。乱取りも戦の一部であると、それがしは心得ます。殿にはこれからも、戦に勝ち続けて頂かなければなりませぬ。そして、戦のない、乱取りなど必要のない世の中をおつくり頂きたいのです。人にはもって生まれた星があると申します。殿はこの乱世を終わらせて、民に安寧をもたらす、という宿命を背負って生まれてきた方に違いありません」

「儂はさように大層な器を持ち合わせてはおらぬ」 

 実綱は止めない。

「いいえ、殿は戦の神、幸福の神である毘沙門天様を崇拝なされ、毘沙門天様に対し、とある誓いを立てておられます。そのことに気づいているのは一部の近臣衆とこの与兵衛尉、そして、()()()()のみでございましょう。その誓いは全て、世の平安と繁栄、そして民草の幸せを心から願ってのこと。殿は激しいご気性の一方で、心根の優しい、誠実で仁愛に満ち溢れたお方でもあります。それがしは、そのような殿にお仕えしていることを、無上の喜びと感じております。殿のこれから歩む道は棘だらけの、修羅の道でございましょう。しかし、どのような道でありましょうが、この与兵衛尉が鬼にも邪にもなり、先頭を突き進んで参りますので、どうかご覚悟だけはしっかりとお持ちくだされ」

「与兵衛尉、わかった。もう何も言うな」

 景虎は嬉しかった。ここまで自分を理解してくれている者がいることを。そして、自分と共に修羅の道を歩んでくれる者がいることを。

 景虎は素直な思いを口にした。

「一命を助けて貰ったあの邂逅から、儂もお主には感謝しかない。どうして、お主一人を鬼に出来ようか。儂は今この時から、目指す理想の実現のため、鬼と化してでも、自らの信ずる道を堂々と歩んでみせよう。ついてきてくれるか」

「もちろんでございます」

 景虎に清濁併せ飲む覚悟が出来た瞬間だった。

 居住まいを正し、景虎は更に続けた。

「ここからは相談事ではない。そなたにだけは予め教えておこうと思った」

「はて、それは如何なることでございましょう」

「そなたの耳にも入っているとは思うが、信濃国のことじゃ」

 隣国信濃は近年、武田大膳太夫晴信の侵攻によって、甲斐の属国化が予想以上の速さで進行していた。

 特に天文二十一年(一五五二年)は、武田勢による北信濃への攻勢が強まるにつれて、信濃守護の小笠原長時や、義叔父の高梨政頼から、しきりに援軍要請を受けるまでの、緊迫した情勢となっていた。

 武田氏の系譜を辿ると、源氏の棟梁として名を馳せた源義家の弟、新羅三郎義光が祖である。甲斐国に土着してからは姓を武田に変えて、代々守護として君臨してきた、謂わば、甲斐源氏の嫡流・名門である。

 父である武田信虎を駿河国・今川氏のもとに追放したうえで、後を継いだ晴信は、諏訪氏を騙し討ちにし、滅亡に追いやって後は、信濃侵略を着々と進めてきていた。

 信濃守護である小笠原長時は、天文十九年(一五五〇年)に、居城である松本城を追われ、北信濃の葛尾城主である村上義清を頼っていたが、その村上義清すらも、既に危うい状態だった。

 村上義清は上田原の合戦や、世にいう「砥石崩れ」で、二度にわたる晴信との決戦に大勝している。それにも関わらず、晴信の信濃国衆に対する切り崩し工作によって、味方と目された国衆から次々と裏切られ、今では孤立状態に陥っていた。

 高梨政頼は、景虎の叔母を妻としている北信濃の豪族である。これまでも、景虎の守護代擁立派の一人として、越後国内にも多大な影響力を及ぼしてきた。しかし、村上氏の葛尾城が落城した場合、いよいよ自分に武田の矛先が向いてくる、つまり喉元に武田の刃が届きそうな、切羽詰まった状況に置かれていた。

 さて、景虎の話は続く。

「村上殿の葛尾城は、どうやら落城寸前らしい」

「信濃への出兵も覚悟されましたか」

「いずれは避けられまい。甲斐という国は山に囲まれ海がない。塩や海産物は隣国駿河に頼っている。駿河国は近いが、今川は強敵なうえに同盟国でもある。攻め落とすことなど、余程のことがない限りは、当分は考えられぬ。そこで大膳太夫が取ったのは北進、すなわち信濃攻略じゃ。そして信濃の次は海を抱える我が越後に、触手を伸ばしてくるは必定。奴は、海に面する国が、喉から手が出るほど欲しいはず」

「なるほど」

「それに儂は、大膳太夫晴信という男が好きになれぬ」

「それは何故でしょうか」

「国衆や家来衆の支えがどれだけあったかは知らぬ。されど、守護である親父殿を騙して国外追放する、という大罪を犯している。確かに親父殿には、国主としての資質に欠ける行いがあったのかもしれぬ。しかし、やり方としては絶対に間違っている。南信濃の諏訪氏を、滅亡に追い込んだ時も、汚い騙し討ちだというではないか。しかも、滅ぼした相手の姫君を側室にしているという拙僧のなさには、呆れてものも言えぬ。村上義清殿に対しては、戦での勝ち目がないと判断するや、周りの国衆を唆し寝返りによって、信濃を手に入れようとする卑怯者ではないか。そのような奴を、儂は断じて許せぬ」

「殿のご気性であれば、まこと左様でございましょう。確かに、殿と武田晴信は水と油の如く、相容れぬ間柄と思われます。但し、そのような一本気ばかりで相対しては、老獪な晴信に足元を掬われましょう。信濃への出陣は、慎重を期することが肝要と存じます」

「それは(わきま)えているつもりじゃ。心してかからねば、敵の思う壷となる。そこでじゃ、与兵衛尉には、これまで以上に負担を掛けることになる」

「何なりと仰せください」

「晴信は必ず、我が越後の国衆にも、懐柔の手を伸ばしてくるに違いない。むろん、儂も幻の者を動員して、国衆の動向を見張り、隙は見せぬつもりでいる。しかし、最も危ないのは越山や他国遠征の時とみている。この越後は統一され、一見落ち着いているように映っていよう。しかしながら、まだまだ儂の基盤は盤石とは言えぬ。残念じゃが、隙あれば儂に取って代わろうという、邪心を持つ者が、出て来ないとも限らない。そこで儂が国元を留守にする時は、与兵衛尉と新五郎殿(長尾政景)の二人を、留守居役の二大家老に任ずることにしたい。どうであろう、引き受けては貰えぬか」

「さようなこと、申すまでもなきことです。殿は命じて下さるだけでよいのです。ただ、上田の政景殿との関係は、その後如何でしょうか」

「あの一件以来、まるで人が変わったようじゃ。今ではお主に次いで、いろいろ尽くしてくれておる。峠道の整備も嫌な顔ひとつせずに、予定よりも早く仕上げてくれた。姉上との仲も睦まじいと耳にしている」

「それはまことに目出度きこと。あの時、温情を示した甲斐がございましたな」

「うむ、それも母の諫言があればこそであった。それが無ければ、儂は本気で上田長尾家を滅ぼしていたかもしれぬ」

「さすがの殿も、御母上には頭が上がらぬ様子ですな」

「そうだな、あらためて母の偉大さを痛感せざるを得ない」

 景虎は少し照れたように苦笑いを浮かべた。

「戯れを申してしまいました。それでも最終判断は、殿がなされたことです。実に賢明なご判断でした。では、この儂も新九郎殿との繋がりを、強くする必要がありそうですな。殿が武田大膳太夫という得体の知れぬ敵を相手に、対峙する以上は、我ら二人も互いを補うことこそが、一層重要となりますので」」

「よくぞ申した、頼りにしているぞ」

「お任せください」

「そのついでと言っては畏れ多いことだが、もう一つ話がある。儂は上洛するつもりじゃ」

「なんと」

 実綱は目を剥いて驚いた。それも無理からぬ話だ。

 戦国の世となってこのかた、うち続く戦乱で京は荒廃し、秩序は乱れ、治安すら覚束ない時である。このような中で、朝廷や将軍家への挨拶に、わざわざ上洛した国主の話など、聞いた試しがない。

 朝廷はもちろんのこと、既に幕府の権威も地に堕ちている。諸国では、己の利益だけを追い求めて争いが絶えず、それぞれの国が、なかば独立国の様相を呈していた。そのような当時にあって、実利が殆どないにも関わらず、わざわざ巨額の資金と月日を投じて上洛する意義などは、極めて希薄であり、景虎以外は誰も考えすらしないことだった。

 むろん、この背景には、越後の豊富な資金源があることを忘れてはならない。

 上洛に当たっては、臨時の税徴収を行っているが、青苧や交易で生まれる利益や、通常の通行税収を相当蓄えていなければ、関東遠征と上洛の二つを、時を置かずに行うことなど、到底出来たものではなかった。

 上洛などという突拍子もない話を口にしたのは、一部の近臣と神余親綱以外には、実綱が初めてである。

 神余親綱は引き続き京に常駐し、朝廷や幕府との渉外担当としての役割を果たしながら、畿内及びその周辺の諜報活動で得た情報を、景虎の下にもたらしている。景虎は親綱から得た様々な情報を基に、自らの上洛計画を秘密裡に進めてきていた。

「さすがの与兵衛尉も驚いたか」

「些か」

「儂はこの世の秩序を、あるべき姿に正したいのだ。京には帝がおられる。その帝から武者の棟梁として政事を任された、公方様がいるにも関わらず今はどうか。公方様の家来や、またその家来といった輩が、好き勝手な振る舞いをしているという。先ほど、お主が申したような期待に、儂が応えられるかどうかは分らぬ。しかし、敬い尊ぶべきお方や、あるべき正しい秩序を蔑ろにして、武力と財力ある者だけが、我が物顔で跋扈しているこの世に、儂は一石を投じようと思っている。その手始めとして行うのが上洛じゃ。内裏に参内し、従五位下の位階を拝し奉った御礼を、帝に直接申し上げる。そして、叶うことならば公方様にもお目通りを願い出るつもりだ。義藤様のお力になりたいが、先ずはお会い出来なければどうにもならぬ」

「しかしながら、上洛には陸路・海路を進むにせよ、他国や領海を通ることになります。能登や加賀の一向宗徒という難敵も控えております。相当の危険を覚悟せねばなりませぬぞ」

「むろん、覚悟の上じゃ。これは予め断っておく。止めても無駄じゃ。儂の気持ちは既に固まっておる」

 ここまで言われては、実綱にもう反論の余地は残されていない。

「余程のご決心と拝察いたしました。お止めすることは叶わぬようでございます。しからば、先ほど拝命したばかりではございますが、殿の名代としての務めを、見事果たしてご覧にいれましょう。隣国や不穏な動きをする国衆には目を光らせ、殿が帰国される迄は、必ずやこの越後を無事守り抜く所存。但しです」

「但し、何じゃ」

「万が一にも、旅の途中でお命を落とすなどという失態なきよう、従前の備えは万全に整えて出立なさるのですぞ。殿には先ほど、わが命を預けたばかり。その方に万が一にも、先立たれることがあっては、もう生きてはゆけませぬ」

「わかった、それは約束する」

「殿は時折、誰も考えつかないような突飛なことを言い出すので、こちらは幾つ命があっても足りませぬ」

「それは済まぬ。しかし、それは儂のような者に仕えることになった、自分の身を恨むがよい。話はこれで終わりじゃ。些か疲れた。今日はその疲れを癒してくれるのであろう」

「もちろんでございますとも。久しぶりにゆるりと、御酒を召し上がりください。喜んでお相手いたしましょう」

 言うが早いか、膳が運ばれてきた。景虎来訪の報せを受けて、実綱が直ぐに命じたことは、宴の用意だった。

 晴れやかな表情の景虎を見るのは、いつ以来であったか。実綱は考えたが思い出せなかった。


 寒い夜の酒は、臓腑に染み渡る。

 守護代という立場から離れて、ひとりの男として、実綱と交わす酒は実に旨い。他の誰も挟むことなく、互いに遠慮も要らぬ。唯一無二の相談相手でもある実綱に、全てを打ち明けた後で飲む酒は、また格別だった。

 ついつい酒量も進み、度を越してしまった気がしている。

 酒量に比例して気持ちが高揚するなか、胸の奥底に沈め自ら蓋をしていた気持ちが、沸き上がってくるのを、景虎は抑えられなくなっていた。

 他ならぬ蒼衣への恋慕の情である。未だ嫁に行っていないらしい。何故、嫁ごうとしないのかも分からない。

 一方の実綱も、愛おしい娘のために、何もして上げることの出来ない自分を、密かに責め続けていた。蒼衣が心密かに景虎を慕い続けており、如何なる良縁が舞い込んでこようが、今日まで他家に嫁ぐことを固辞してきた、その気持ちは痛いほど分っている。

 景虎に対する想いを決して口に出すことはない。そのいじらしさが実綱にとっては、尚更、辛いものになっていた。

 景虎が妻帯しない理由を、蒼衣も知ってしまっている。景虎は国の安寧と戦勝を祈願し、そのために妻帯はもちろん、女人との関係をも絶つ、という堅い決意を、毘沙門天と御仏の前で誓っている。

 以前、蒼衣に仕える侍女が、景虎と実綱の話を耳にしてしまい、それを伝えてしまったらしい。以来、蒼衣の生来の快活さは、なりを潜めてしまった。近頃は、思いつめたような態度ばかりが際立っていた。

 実綱は蒼衣の幸せを願い、思いを遂げてあげたい気持ちでいっぱいだった。景虎に何を言われようが、傍に置いてあげたかった。しかし、それすら景虎が拒むのは分かり切っている。蒼衣の想いを、何一つとして叶えて上げられない、父親の無力さに苛まれていた。

 景虎の御前で嬉しそうに笛を奏でる、かつての蒼衣の姿を、懐かしく思い出す。その蒼衣は、目と鼻の先にいながらも、今も城の片隅で会うことすら憚り、ただひたすら景虎のことを思い続けているのかと思うと、今にも胸が張り裂けそうになる。

 酒が進むにつれて、実綱の心も、風に舞うしだれ柳のように揺れ動き、自らの気持ちを抑えることに必死だった。

 こうして、景虎と実綱、それぞれの思いが擦れ違うなかで、平静を装いながら気持ちの昂ぶりを糊塗するうちに、夜は更けていった。

 やがて、景虎が静かに盃を置く。何事かを言おうとするのが分かった。

「蒼衣殿に一目会って話がしたい。案内しては貰えぬか」

 実綱にとっては、思いがけない景虎の一言だった。

 景虎の蒼衣を想う気持ちが、堰を切った鉄砲水のように、溢れ出た瞬間だった。

「承知いたしました」

 冷静を装いながら立ち上がると、実綱は城内を先導した。

 たとえ、ひと時だけでも良い、蒼衣の願いが叶うのであれば、実綱はそれで充分だった。

 蒼衣の部屋は、微かに御香が漂い、あたかも予め訪いを告げていたかのようだ。あるいは、一途に願っていたのかもしれない。その気持ちがいじらしかった。

 蒼衣は、突然の訪いに一瞬驚き戸惑いながら、居住まいを正して景虎を招き入れた。

 こうして会うのは、いつ以来であろうか。大人の趣を増して、一層佳麗さが際立った蒼衣の姿に、景虎の心は騒いだ。

「ようこそ、お越しくださいました」

「今日は親父殿に多々相談事があって、急ぎ駆けて参った。良き話が出来たせいか、その後は些か御酒を過ごしたようじゃ」

 愛おしい蒼衣の前で、自分は何と詰まらぬ話をしているのだ、と景虎は内心自らを恥じた。

「さようでございましたか」

 蒼衣の表情は涼やかなまま、眼差しを景虎だけに向けている。「知っての通り、儂は幼くして父とは死別している。そのせいか、親父殿が父親のように思えてしまい、つい甘えてしまう」

「父も私の顔をみると、いつも貴方様のお話ばかり。父にとっての生き甲斐は、貴方様おひとりでございますから」

「有り難い話だ。しかし、そなたのことも大事に思っているはずじゃ。儂にはわかる。儂もそなたを大事に思っている」

 景虎は自分の口から出た言葉に驚いていた。酒の勢いとは言え、大胆にも心の奥底に秘めて来た想いを、つい口にしてしまった。

「えっ」

 蒼衣は俯いて黙り込んだままだ。どうする、乙女心など露も知らぬ景虎だ。こうなったら、思うがまま、突き進むしかない。

「そなたはわしが嫌いか」

 顔を横に振る蒼衣をみて、更に続ける。

「突然驚いたであろう、済まなかった」

 蒼衣は依然俯いたままで、その表情はつかめない。

「儂はそなたのことを、蒼衣殿のことを、この世で誰よりも愛おしいと思っている」

 その瞬間、膝に置いた蒼衣の手のひらが、静かに握られるのがわかった。

「しかし、儂はこの越後を争いのない平穏な国にしたい。武士だけではない、民も皆が豊かで仲良く暮らせる国にしたい。そのために儂は毘沙門天様と仏様にお誓いした。妻帯はもちろん、女人とは一切交わらぬことを。だから、済まぬ。どんなに大切で愛おしいと思っていても、そなたを幸せにすることが出来ぬ」

 ようやく上げた蒼衣の顔は涙で溢れている。落ちた滴が纏った朱色の打掛に零れ落ちて、その箇所だけ一層深い赤みを際立たせていた。

 蒼衣は表情を和らげ、優しい眼差しを景虎に向けた。

「嬉しゅうございます。私も今日まで、貴方様のことを密かにお慕い申し上げて参りました。貴方様のことは、一日たりとも忘れたことはございませぬ。されど、貴方様はこの越後にいなくてはならない一番大事な御方。私などの想いが妨げになってはと、心の奥底に秘めて参りました。たった今、貴方様のお心の内をお伺いして、もう思い残すことはございません。ようやく決心がつきました」

「何じゃ、その決心とは」

「仏門の道に進もうと存じます。貴方様が私のことを想ってくださる以上に、私はこれからも貴方様のことを想い続けて参ります。そして、貴方様に神仏の御加護あれ、と生涯祈り続けながら、御仏にお仕えして参るつもりです」

 蒼衣が吐露した景虎への真っ直ぐな気持ちを聞いて、嬉しいと思えたのはほんの束の間だった。御仏の道を歩むということは、俗世を捨てるということであり、生きて二度と会うことはないという覚悟の表れでもあった。自分がそこまで蒼衣を追い詰めていたとは。自分は何という大馬鹿者だ。景虎は激しく狼狽しながら、自責の念に駆られていた。

「待て、そのように早まるものではない。器量よしのそなたであれば、数多嫁ぎ先もあろう。儂のために一生を棒に振るなど、儂自身が決して望むことではない。どうか考え直しては貰えぬか」

 景虎の必死の説得も、蒼衣の固い決心の前では何の意味もなさない。

「いいえ、たとえ貴方様の命であったとしても、私の決意が動ずることはございませぬ。私の幸せは貴方様の御心と共に有り続けます。私の心は何処にいても、貴方様と共に生き続け、貴方様を生涯お支え申し上げます。貴方様の夢が叶うことを共に願い、祈ることこそが我が本望でございます。貴方様が私のことを想っていて下されたことを、生涯の大切な思い出として生きて参ります。それこそが、私の唯一の幸せなのでございます。この我が儘を、どうかお許しくださいませ」

 景虎は蒼衣の頑ななまでの決意を聞き、愕然としていた。

 自分は国の安寧を希求し願をかけ、その代償として、自らの煩悩を絶つことを、神仏に固く誓っている。

 しかし、その願かけは一人の愛おしい女性をも、幸せに出来ぬという悲しい現実と引き換えであった。それは分かっていたつもりだった。しかし、今は蒼衣という愛おしい人を目の前に、あらためてその現実に向き合うことになっていた。景虎は自らの無力さを、つくづく痛感せざるを得なかった。

「許せ」

 景虎は蒼衣の肩を静かに抱き寄せ、一言詫びることしか出来ない自分を恨んだ。蒼衣の細く透き通るような白い手が、景虎の胸元に添えられてきた。甘い髪の香りが、景虎の心を揺さぶる。景虎は己の煩悩と闘っていた。

 二人は静かに抱き合ったまま、時の流れが止まったかのように動かない。

 この時が永遠であって欲しい、という想いは、儚い夢と分かっている。二度と訪れることのないこの瞬間を大切に噛みしめるように、二人はいつまでも離れなかった。

 海から吹き寄せる初冬の潮風が、時折もの悲しい音とともに、戸を揺らし続けていた。

 天文二十一年(一五五二年)十二月、年の瀬も押し迫る頃、与板城の実綱から春日山城の景虎のもとに一通の書状が届けられた。

 蒼衣が髪を下ろし、善光寺に独り静かに旅立ったとの報せだった。


(第三話へ続く)

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