虎千代編 誕生から初陣 (父・為景の生涯)
☆序章
*初陣
秋の雲一つない青空高く、白い狼煙が真っ直ぐに伸びていく。その合図を景虎の瞳が、しっかりと捉えていた。
全て手筈通りだ。抜かりはない。
暫くすると、遥か彼方から大量の土煙とともに、地鳴りのような轟音が少し遅れてやってきた。
ついにこの時が来た。敵兵はざっと二千、いや三千か。
大地が震える。いや違う、己の怖じ気づきに違いない。落ち着け、よく見ろ。我らを遥かに上回る軍勢とは言え、陣形を組む素振りすらみせない。思っていた通り、ただの寄せ集めではないか。数に頼んだ力攻めで来るならば、怖れるに足りぬ。
まとまりのない気勢を方々で上げながら、押し寄せる敵の軍勢を、景虎は櫓の上から見下ろしている。
この戦、勝てる。
「新左衛門尉、敵の動きをどうみる」
どこから見ても、統制が取れているようには思えない。景虎は傍らに控える栃尾城代の本庄新左衛門尉実乃に訊ねた。
「御心配には及びませぬ。かねてより我らが予想してきた通り、敵は若殿のことを戦知らずの若輩と侮っているようです。せいぜい、数を頼みに我らを押し潰そう、といったところでございましょう。そこに格段の策はない、と断言出来ます」
「儂の見立ても同じだ。新兵衛、弥太郎からの報せはどうなっている」
「ははっ、夜陰に紛れて、無事に埋伏を済ませた、とのことでございます。敵の背後をつく手筈に、抜かりはございませぬ」
近習の金津新兵衛が、前方の敵を直視したまま返答する。挟撃を狙って、別動隊を率いる近習の小島弥太郎と黒金孫左衛門も、敵に悟られることなく、予め決めた場所に、埋伏が完了しているらしい。
「いよいよで、ござりますな、若殿」
声をかけたのは、援軍に駆けつけた、揚北(現在の新潟県下越地方)の有力国衆の一人である安田長秀である。景虎が見事に指揮する様子を、半ば驚きながらも、頼もしそうに見ている。
「此度、安田殿が合力して下されたお陰で、こうして大胆な策を講ずることが出来ました」
こう言うと、景虎は目礼し応えた。
初陣、ようやく、ここまで漕ぎつけた。
眼下には自らの旗印として決めた「毘」旗が、秋の風に吹かれて翻っている。
「参るぞ」
景虎は近習として新たに加わった、庄田惣左衛門尉定賢や吉江忠景らを従えて、櫓から素早く降り立った。
天文十三年(一五四四年)、この時、長尾景虎の齢は十五歳。前年の天文十二年、景虎は守護代である兄、長尾晴景の命を受けて、「古志郡司」として越後国・栃尾城に入った。
栃尾城代である本状実乃のもとで、中郡(現在の新潟県中越地方)の勢力基盤を固めるためである。
しかし、近隣の黒滝城主である黒田秀忠や、長尾一族でありながら三条城の長尾平六長景らは、守護代・晴景が病弱で、統率力が欠けていることにつけ入り、反抗を続けていた。これらの不逞の輩が、栃尾城を武力で陥落させ我が物にしようと、遂に挙兵したのである。
当時の越後は、揚北(現・新潟県下越地方)の有力な国人の間で、しばしば争いが発生していた。それに加えて、長尾氏の勢力基盤であるはずの中郡においても、守護代・晴景と未だ若輩の景虎兄弟を侮り、反発を表面化させる輩が平然と跋扈する事態となっていた。
その反抗勢力筆頭である黒田秀忠などは、元を正せば、晴景と景虎の父である先代の為景に勤仕して気に入られ、黒川城主として任じられた大恩ある身である。その大恩ある身にも関わらず反故にして、反旗を翻し、栃尾城攻めを決行したのだ。
かかる不義の仕業は、幼少期より林泉寺第六世住持である天室光育の薫陶を受け、「義心」を叩き込まれた景虎にとって、断じて許せることではない。この不義不忠の者を相手にするという意味では、景虎の初陣にこれほどお誂え向きの敵はいなかった。
父、そして府内長尾家から受けた恩義と、かつて誓った忠誠心を忘れ去り、守護代である兄・晴景に反逆する黒田一党を、畏れながら刀八毘沙門天様に代わって、この儂が必ずや成敗してみせる。絶対に勝つ、いや儂は勝たねばならぬ。
決意をあらたにする景虎だった。
「いざ出陣じゃ、鬨の声を上げよ」
『えいえいえい、おう』
景虎勢全員の声が、越後国栃尾の地に高らかに響き渡る。兜を纏った頬に当たる秋風が心地よい。逸る景虎の気持ちを鎮めてくれた。
*誕生
享禄三年(一五三○年)一月二十一日、越後守護代である長尾為景に、待望の男子が誕生した。
為景には永正六年(一五〇九年)に誕生した嫡男の晴景と、その弟である景康がいた。
晴景は生来病弱で気弱なために、継子としては些か不安があり、景康は凡庸が過ぎて、守護代家を支える者としては、心配が尽きなかった。また、大永七年(一五二七年)に生まれた男子も、早逝しており、この時既に四十の歳を超え、壮年期を迎えていた為景にとって、事実上三人目となる男子誕生は、喜びも一入だった。
母親は栖吉長尾家出身の虎御前である。虎御前はこれより二年前にも、為景との間に、女子を授かっている。これが後に仙桃院と呼ばれ、上杉景勝の母となる、景虎にとっての実姉・綾姫である。
「よくやった。元気で利発そうな男ではないか」
「まことに。どうぞ抱いてやって下さいませ」
為景は生まれたばかりの赤子を、ぎこちない手で抱きながら目を細めている。
「良い子じゃ、良い子じゃ」
為景はその赤子から、虎御前に顔を移し、更に続けた。
「そなたの身体に障りがあってはいかぬ。先ずはよう休んでおくれ。この子の名前じゃが、かねてより男子であれば、今年の干支から『虎千代』と決めておった、如何じゃ」
「良い名でございます。殿によく似て賢く、強く逞しい武家の子として、健やかに育って欲しいものでございます。」
「その通りじゃ。嫡男の晴景は、あのように病弱故に心許ない。ゆくゆくは、この府内長尾家を支え、晴景を輔弼して、国に安寧をもたらす程の武者に育って欲しいものじゃ」
この赤子が長尾景虎、後の上杉謙信である。
男子誕生に沸き、心底から喜ぶ為景だったが、この時、越後国守護代としての彼の地位が、盤石かと言えば、必ずしもそうではなかった。
父である長尾能景の後を継ぎ、守護代に就任して以降、その政権地盤は常に不安定であった。
この後も彼が没するまでの十年余りは、政争と戦に明け暮れることになる。父・長尾為景の生涯もまた、波乱万丈であった。
この子・虎千代が元服するまでは、何としても生き長らえて守護代家を、いやこの越後を守らねばならぬ。今の儂にとって、この子は唯一の希望の光だ。この子のためにも、儂は絶対に負けることは許されぬ。
一抹の不安を抱えながらも、生まれたばかりの静かに眠る我が子を、じっと見つめながら、為景は、そう決意を新たにしていた。
庭先からは、どさっという大きな物音が聞こえてきた。積もった雪の重さに耐えかねた、庭木の枝から、崩れ落ちた雪の音に違いなかった。越後の春はまだ遠い。
*下剋上
話は一旦更に、父・長尾為景の若き時代まで遡る。
上杉謙信の生涯を辿るうえでは、当時の越後国や、代々守護代職を継承する府内長尾家を取り巻く周囲の状況、そして謙信が生まれる以前の越後国内外情勢がどうであったかを、予め念頭に置くことが欠かせない。
父である長尾為景の足跡は、謙信の生涯に少なからず影響を及ぼしている。謙信が父や兄から継承したのは、必ずしも歓迎すべき遺産ばかりではない。むしろ、負の遺産全てを、一人肩に背負うことからが、彼の出発点だった。
謙信の生涯は、避けようもない宿命に対し、真正面から真摯に立ち向かい、時には迷い苦しみ抗いながらも、果敢に挑み続けた、まさに死闘の歴史でもある。
足利将軍家の再興、関東での覇権掌握という見果てぬ夢を追い求め、道半ばにして倒れるまでの四十八年余の人生は、先ず父・為景の歩みを知らずしてはとても語ることは出来ない。
謙信の祖父であり、為景の父である長尾能景は、越中国(現在の富山県)守護である畠山ト山からの要請を受けて出陣した、般若野・芹谷野における合戦で、神保氏と加賀の一向宗徒の連合軍に敗れ、敢え無く戦死してしまう。
父の急死を受けて、長尾家第十代の守護代として、急きょ跡を継ぐことになったのが、謙信の父・為景だった。永正三年(一五〇六年)九月、この時、為景十八歳である。
以降、一向宗徒との戦いが、為景から景虎(謙信)までの代にわたり、まるで因縁であるかのように、長年続くことになったことは、謙信第一の宿命と言える。
守護代に就いた父・為景は、先ず五十嵐・石田氏といった越後・中郡の、以前からの反感分子を急襲して、これらを悉く平定した。
しかし、為景にとって本格的な戦いの始まりは、越後守護である上杉房能との、主従間での争いだった。
時は実力だけがものを言う戦国の世である。大義名分と損得を上手く絡ませながら、人望を得ることこそが、下剋上と言われる世を生き抜く条件である。
越後守護である上杉房能は、自身の実兄である関東管領・上杉顕定からの度重なる要請に従い、越山(関東への遠征)を繰り返し行っており、父・能景の代にあっては、これを黙認・追従していた。
しかし、新たに守護代となった為景は、守護・房能の越山を、正面切って「否」と反対したのである。これには、越後国人衆の意向が強く働いていた。
関東への出兵は、越後国人衆にとっては迷惑以外の何物でもない。利益をもたらすどころか、兵の損耗損失と、膨大な戦費支出による疲弊が残るだけの、迷惑な軍役でしかなかった。
従って、能景の時代に燻っていた国人衆の不平不満が、為景への代替わりによって一挙に爆発した格好だった。
関東管領家からの越後に対する出兵要請、これには当時の関東における権力争いが大きく絡んでいる。関東管領家である山内上杉家と扇谷上杉家、その主筋に当たる古河公方、これに新興勢力の北条早雲(伊勢新九郎長氏)が、相互に利害で絡み合い、離合集散を繰り返すことが常だった。
この年々激しさを増す関東擾乱に、関東管領と隣国の越後守護が実の兄弟であることから、越後が門外漢を決め込むどころではなくなっていたのだ。
やがて、約半世紀の時を経て景虎(謙信)も、関東管領職継承の代償として、この関東擾乱という「火中の栗」を拾うことになるのだが、これが謙信にとって第二の宿命であろう。
さて、またもや守護・房能からの越山要請を受けた越後国人衆は、守護代に就任したばかりの為景のもとに徒党を組んで押しかけ、口々にこう訴えかけた。
「守護代殿、亡き御父上の前では、越山の命に我らも渋々従って参った。しかし、とうに精根尽き果てて、限界を超えておる。兵は疲弊し、財は枯渇する寸前、さすがに我らの堪忍袋の緒も切れるというもの。かくなるうえは、守護代殿が何と言われようとも、力づくでも守護・房能殿を廃し奉る所存でござる。ついては、守護代殿も、この際、旗幟を鮮明になされるがよい」
しかし、僅か十八歳とは言え、新守護代である為景は、国人衆の神輿に担がれて乗る、などという愚行は犯さなかった。
為景は国人衆の代弁者としてではなく、慎重且つ強かな一手を打ち、大義名分を整えることを忘れていなかった。守護代就任早々に、反逆者の汚名を被るわけにはいかない。
国人衆の言い分を聞いて上手く帰した後で、為景が訪ねた先は上杉定実のところだった。定実は、同族の上条家より、守護家の養子として迎えられている。
「若様、恐れながら、守護である養父の房能殿は、越後国内の政事よりも、上野国や武蔵国の政事に、重きを置いているとしか思えませぬ。今や、多くの国衆が若輩である、この守護代を通して、若様の挙兵を懇願して参る有様でございます。どうか直ちにご英断下さいますよう、お願い申し上げます」
「しかし、それでは義父への謀反ではないか。左様なことは出来ぬ相談じゃ」
「いいえ、そのようなご懸念は無用に存じます。京におわします管領の細川高国様を通して、既に将軍家からも守護交替のお墨付きを賜っております。つまり、正義は我らにあり。何ら憂いはござりませぬ。全ては、この守護代にお任せくださいませ」
このように、為景は、未だ十九歳とは思えない程の老獪な手口を使って、上杉定実を篭絡し、次期守護として神輿を担ぐことに成功した。
むろん、この守護交替劇の御膳立ては、謙信の代には更に拡大する守護代家の豊富な財力を背景にした裏工作が、効を奏した結果だった。
為景は守護代就任早々から、京人が喜ぶ絢爛豪華な献上の品々を、将軍家や管領に贈り届けていた。その見返りとして、守護交替の内諾を予め取り付けたうえで、初めて不平を募らせた国衆の軍勢を集結させたのであった。
但し、未だ守護の地位にいる上杉房能も、為景の動向を掴んでおり、指を咥えて傍観しているはずがなかった。為景の不穏な動きを察知するや否や、先手を打って、為景討伐の軍勢を招集しようと謀ったのである。
ところが、一族・縁者以外に、この招集に応ずる国人はいない。時流を読み間違った房能と為景の勝負は、既にこの時点で戦わずして決していた。
それでも、上杉房能は諦めなかった。火を見るより明らかな劣勢を挽回し、起死回生を図ろうと、関東への道である安塚街道を進んだ。行く先は兄である関東管領である上杉顕定のもとである。関東管領軍の助勢を得て、捲土重来を期するつもりだった。
しかし、その動きすら既に、為景の耳に筒抜けとなっている。上杉房能の関東脱出が、叶うことはなかった。途中の天水越(現新潟県十日町)で、待ち構えていた為景軍に包囲されてしまっては、自刃して果てるしか途は残されていなかった。永正四年(一五○七年)八月七日のことである。
この実弟の惨劇を耳にして、関東管領たる上杉顕定が激怒しないわけがなかった。
「おのれ、長尾の小倅如きが、小賢しい真似をしてくれる。すぐさま、この儂が軍勢を率いて越後に乗り込み、小倅の首を房能の墓前に捧げてくれよう」
顕定としては、関東管領としての誇りを引き裂かれただけでなく、越後守護である実弟を殺害された、とあっては当然の憤りであった。
しかしながら、この時、顕定は為景討伐軍を直ちに率いて、越後に進むことが出来ていない。為景と内通している、上野国・白井城の長尾景春率いる軍勢が、越後への進軍を遮断して、弔い合戦を妨害したからであった。
ただ、一方の為景も、揚北を中心とする多くの国人衆からは、猛反発を喰らっていた。新守護である上杉定実をあくまで傀儡として擁立し、利用しようとしているに過ぎないという意図を、既に読まれていたからだ。
その結果、本庄・色部・竹俣氏といった揚北の国人衆が、各居城で一斉に蜂起し、為景への反旗を翻したために、先ずはその火消しに躍起とならざるを得なかったのである。
為景が苦しいのは、揚北衆の中の為景支持派と目される中条・築地・安田氏らの援軍だけでは、どうにも施しようがないことであった。そこで、隣国の伊達氏や葦名氏に合力を頼ってまでも、鎮静化に当たる他ないという台所事情であった。
このような越後国内抗争は、翌年の永正五年(一五〇八年)七月まで続き、反為景派の降参による和議や、当主の隠居といった形でようやく決着した。室町幕府が上杉定実を正式に守護と認めたのは、この後の同年十一月のことであった。
もともと、越後・揚北の国人衆は、独立独歩の武者気風が極めて強く、守護代である長尾家の風下に立つことを是としない。この後も為景に対し、事あるごとに逆らい続けることになる。
揚北衆は、謙信の代に至っても、その一部が謀反や反抗的な態度を表面化させており、その都度、対応に奔走することになる。揚北の不安、これが謙信第三の宿命である。
少し余談となるが、時折、謙信が家臣の謀反に遭うのは、失政や人間性に起因するという説を小耳に挟むことがある。しかし、その説やご指摘は、越後という南北に長い国の歴史的背景を、十分に理解されたうえでのことなのか。
そもそも、武田信玄や今川義元と言った、代々名門守護職の家系に生まれ、一定の盤石な基盤で家督を継いだ大名と、守護代家の三男として生まれた謙信を、同じ土俵で比較すること自体が果たして如何なものか。
奇しくも、謙信から遅れること四年後に生を受け、謙信没後の同じく四年後に憤死した織田信長も、尾張一国を平定からするために十三年という長い年月を要していることは、戦国の世とは申せ、血筋や家系によって、有利不利が分かれていたことを証明する例ではないだろうか。
さて、関東管領である上杉顕定が、上野白井城の長尾景春を退けて、実弟である先代の越後守護・房能の弔い合戦のため、越後に向けて進発したのは、永正六年(一五〇九年)七月のことである。既に上杉房能の死から二年近くが経過していた。
上杉顕定と養子の憲房が率いる軍勢八千は、三国峠を越えると破竹の勢いで越後国内を進撃し、瞬く間に越後府中を陥落させた。
「守護代よ、儂はそなたの甘言に乗り越後守護となったが、今からでも遅くはない。管領殿に詫びを入れて降参し、助命嘆願することこそが賢明というものではないか」
越後府中を追われた守護・上杉定実が、狼狽のあまり為景に弱音を吐いた。
「御屋形様、確かに時の勢いは、今のところ管領側にございます。しかしながら、越後国衆の多くは、御屋形様のお味方でございますぞ。既に手を回し、御屋形様を一時越中にお匿いする手筈を整えておりますれば、この守護代と共に一旦落ち延び、再起を期することこそが上策と心得ます」
「落ち延びて、その後何とする。よもや、越中の知らぬ土地で、そのまま野垂れ死になど、まっぴらごめんじゃ」
どこまで、このお方は臆病なことか。いくら形ばかりとは申せ、越後一国の守護である自分に、矜持というものがないのか。
腹の中の半ば呆れた思いを、噛み殺して為景は続けた。
「ご安心召され。この守護代が、必ずや御屋形様を、越後への復帰を果たしてご覧にいれましょう。暫しの辛抱でございます。それに、今から管領殿に詫びを入れても、決して許しては頂けませぬぞ。この守護代を信じて頂く他に、もう途は残されてはいないのです」
ここまで為景に言われては、さすがの定実も腹を括るしかない。
かくして、長尾為景に連れられた上杉定実は、越中への一時国外退去という憂き目に遭い、船で落ち延びていった。
関東管領父子は、その後も為景勢力の一掃を期して、越後国内を蹂躙しながら、所領の没収や厳罰を下そうとするが、各地の反乱は一向に治まる様子はない。やがて、関東管領・上義顕定の心には、いつになっても越後を平定出来ないという焦燥感だけが、日を増して強くなっていく。
時は既に永正七年(一五一〇年)の春も終わりを迎えている。顕定は、留守にして十か月となる関東の情勢が、気がかりでもあった。それも無理はない話である。一度は武蔵国まで駆逐した長尾景春が、新興の伊勢新九郎長氏(北条早雲)と手を組んで、勢力を盛り返していたのだ。顕定のもとには、景春の挙兵近しという不穏な報せが、日を追うごとに方々から届くようになっていたからだった。
顕定の頭の中は、帰国かまたは、越後平定までの遠征継続かの二択で、どちらにするか揺れ動いていた。そのような折に、想定外の報せが、顕定のもとに舞い込んでくる。それは、越中に逃れていた定実・為景の主従一向が、佐渡を経由して蒲原津(現・新潟市)に海路上陸した、との報せだった。
これが永正七年四月のことである。この時期は、梅雨に入る前の比較的海が凪いだ穏やかな頃である。為景は臆病な定実の気持ちを察して、予め、この帰国時期を選んでいたのかもしれない。
為景は越中逃亡後も、しきりに西頸城の村上氏や、揚北の中条・築地氏といった親・為景派との連携を探り、関係性を深めていた。また、隣国北信濃の高梨氏や会津の葦名氏、出羽の伊達氏らからも協力の約束を取り付け、着々と関東管領包囲網を築いていた。更に幕府への根回しも怠っていない。
本来、幕府は自らの政治機構の一部であり、自らが任命した関東管領に味方するのが筋であろう。しかし、この時期に至っては、室町幕府が幕府としての呈を成していないだけでなく、財政を潤してくれる者であれば、誰でも味方をするという為体だった。
こうして、首尾よく越後への帰還を果たした定実・為景だったが、相手は関東管領軍であり、そう易々と事態が好転するわけではなかった。双方は一進一退を繰り返し、余談を許さない戦況が続くことになる。
この状況を一変させたのが、定実の実家である上条家の寝返りだった。上条家は定実の実家にも関わらず、「寄らば大樹の陰」とばかりに、従来は関東管領派であった。これを崩したのは、為景による上条家への裏工作であり、それが効を奏した結果だった。
上条家の寝返りによって、関東管領勢は一大拠点としていた、寺泊からの撤退を余儀なくされる。戦況は一挙に定実・為景軍の優勢へと、大きく流れが傾いていく。
関東管領にとっての不運は更に続く。同じ時期に顕定が最も憂慮していた長尾景春が、再度挙兵したことに加えて、伊勢新九郎長氏(盛時)の武蔵侵略、古河公方家の内紛勃発と、関東における悪い報せが顕定の下を、矢継ぎ早に襲う有様だった。
このような状況に陥った関東管領・上杉顕定は、ひとつの大きな判断の過ちを犯してしまう。味方の諸将の反対に耳を傾けず、越後の鎮静化を諦め、帰国の途につくことに舵を切ったのだ。しかし、一度狂い始めた歯車が戻ることはない。
為景勢が勢いを増して、各地における関東管領勢を撃破する中で、永正七年(一五一〇年)六月二十日には、ついに為景が念願の越後府中を奪還するに至る。ここに合戦の趨勢は決したと言ってよい。
一敗地に塗れた顕定だが、それでも何かに憑かれたかのように、ひたすら関東への帰路を急ぐ。しかし、国境に近い上田・坂戸城の長尾房長(後に謙信の義兄となる長尾政景の父)に退路を断たれたうえに、上田荘・長森原(現・南魚沼市六日町)で、長尾為景と北信濃・高梨政盛連合軍の挟撃を受けてしまう。
ここに、自身の命運もここまでと悟った関東管領・上杉顕定は、最期まで共に戦い貫いた家来衆を前に口を開いた。見渡せば、矢尽き刀折れ、手負いの者ばかりといった有様で、これ以上の戦いが無理なことは一目瞭然だった。
「無念じゃ、我が弟の仇を討つつもりが、返り討ちに遭うとは、なんと口惜しいことか。しかし、事ここに至っては是非もない。かくなるうえは、関東管領として恥じぬ死に様をみせてくれよう。皆の者、儂に続け」
覚悟を決めた顕定はこう叫ぶと、髻を切り阿修羅の如き形相で、先頭で敵中に突っ込んでいった。こうして、関東管領・上杉顕定は、再び上野国の土を踏むことも叶わず、遠く離れた越後の地で、儚く命を散らしてしまう。享年五十七歳である。
弟の弔い合戦を謳い、意気揚々と越後に入った時は、このような末路を辿ることなど想像すらしていなかったに違いない。であればこそ、顕定の無念は如何ばかりかと、察するに余りある。
ともあれ、ここに長尾為景による越後国内の下剋上は完成した。
歴史最大の皮肉は、約半世紀の時を経て、為景の子である謙信が、仇敵であった顕定と同じ関東管領職を譲り受け、顕定とは真逆の越山(関東出兵)を幾度となく繰り返すことになったことだ。
但し、およそ当時の人間業とは思えぬ謙信による越山は、戦果の程はさておき、謙信が有した豊富な財力と、類い稀な天才的軍事力なしには果しえなかった奇跡である。もしも、どちらかが少しでも欠けていたら、途中で頓挫するか、上野・武蔵の野に躯をさらすのが、せいぜいだったに違いない。
謙信の後半生の悲劇は、関東管領職という、既に形骸化されていた名誉職にも関わらず、それ
に縛られ、その幻の職務を全うしようと、最後まであがき続けたことかもしれない。
*内紛
関東管領・上杉顕定の敗死以降、越後に平和が訪れると思えたのも、束の間のことだった。所詮、越後守護の上杉定実は、守護代である長尾為景の傀儡でしかない。
その現実に気づいた定実と、あくまでもお飾りのままにして置きたい為景の対立は、越後国内外の国人衆を巻き込んで激化していくことになる。生来、臆病者の上杉定実ではあるが、自尊心だけは極めて高く、権力への渇望は並々ならぬものがあった。
「儂の近習は全て守護代の息がかかった者ばかり。この儂を政事から遠ざけておる。
これでは、越後守護とは名ばかりの飾り物ではないか」
不満を募らせた上杉定実は、密かに国内外の国人衆に対して檄文を飛ばす。
一方の為景も、守護である定実の不穏な動きを掴んでおり、対抗策として有力な国人衆と起請文を交わして、体制の安泰を図ろうとする。しかし、その起請文の内容は、双方の内政不干渉を確認し合う程度のもので、為景が狙う守護代への権力集中と体制の安定、という目論見からは程遠い内容でしかなかった。
永正十年(一五一三年)八月、隣国信濃の島津氏らの軍勢が、守護・定実への援軍と称して、越後に侵入してくる。これに驚いた為景は、下郡の揚北衆に助勢を求めるが、もう一方の定実からも同時に加勢を求められていたから、揚北衆は堪らない。
これまでは、それぞれが独立独歩の気風を強く持つ揚北衆だった。しかし、この一件を契機として、状況に応じてお互いに共同歩調を取ることに舵を切ることになる。もともと個々でさえ強靭な力を持つ揚北の国人が、結束することで、より強大な勢力になるのは必至だった。つまり、守護と守護代の権力闘争が、揚北に強大な反抗勢力を誕生させてしまったのだ。
その後も、揚北衆は強大な武力を背景として、為景を悩まし続けるが、それは謙信・景勝の代に至っても、変わることはなかった。上郡や中郡の国人衆とは、常に一線を画しつつ、時には力強い味方として、時には反抗勢力として、その存在感と独自性を発揮し続けることになる。
国内情勢が安定した他国から見た越後は、いつでも分断の可能性を内包した危うい国であり、隙あれば一部、あわよくば全部を手中に収めようとする標的の国となり下がってしまった。これは為景の予期せぬ大きな誤算だったに違いない。
永正十年(一五一三年)十月、これまで陰で暗躍していた守護・上杉定実は、遂に反為景の旗幟を鮮明にして、春日山城に立て籠もる。
しかし、所詮、戦にかけては全くの素人である。定実は為景の手によって、わずか十日足らずで鎮圧され、府内へと連行のうえ、館内に監禁されてしまう。
翌年の永正十一年一月には六日町において、為景は守護に味方する八条・石川・飯沼氏を中心とする軍勢を撃破し、同年五月になると、勢いそのままに守護方の中心国人である宇佐美房忠を滅亡に追い込んだ。
既に守護方の敗北は決定的となっていた。
「御屋形様、お久しゅうございます。ご壮健の様子で何より。この守護代、衷心よりお喜び申し上げます」
為景は宇佐美一族討伐後のその足で、府内監禁中の館に赴き、甲冑姿のまま広間に坐し、定実に面会した。述べた口上もあくまで儀礼的でしかない。
「ふん、さような挨拶は聞きたくもないわ。さぞかし、此度の勝ち戦、気分が良いことであろう。この後、儂をどうするつもりじゃ。前守護や管領を誅しただけでは飽き足らず、儂まで亡きものといたすか」
言葉を震わせ、びくびくしながらも、興奮と恐怖を抑えらない定実が、為景に向かって吠えた。
その言葉を受けて、ようやく定実の顔を見上げた為景は、不敵な笑みを浮かべながら言上した。
「滅相もございませぬ。御屋形様には、これからも引き続き守護として、この越後を統べて頂きます、但し」
敢えて間を置いた為景は更に続けた。
「政事などという煩わしいことは、この守護代に全てお任せくださいませ。御屋形様はどうぞこのお屋敷にて心穏やかに、ゆるりとお過ごし頂ければそれで良いのです。何不自由なきよう万事取り図ります故に、どうぞ、ご安心召され。なお」
為景は先ほどよりも更に間を置いて、低音の脅しが効く声で告げた。
「此度のように万が一でも、二心をお持ちになるようなことがあれば、その時はお覚悟遊ばされますよう」
まさに、大蛇が蛙を睨みつけるが如き、為景一流の脅し文句だった。為景による越後の実質的支配が揺るぎないものとなった瞬間だった。父である長尾能景の戦死により、急きょ守護代を継いでから、既に八年の歳月が経過していた。
*越中侵攻
その後の為景は、国内の国人衆との融和を何よりも優先させ、関東への不介入という方針を貫き通し、国内統治に専念することになった。
但し、その唯一の例外が西の隣国である越中である。為景は、越中守護である畠山氏からの助勢の要請を受け入れて、度々出兵している。
これには三つの意義があった。ひとつは、永正六年の関東管領侵攻時に越中退避を受け入れてくれた恩に報いるという意義であり、二つ目は為景自身の領土拡大意欲であり、最後が畠山氏と対立している神保氏が、父・能景の仇に他ならず、自身の手で遺恨を晴らしたいという気持ちが強く働いた結果だった。
越中守護である畠山卜山の在国は、遠国の紀伊(和歌山県)である。このことが、家来であるはずの神保慶宗に、国内での横暴を許す要因となっていた。慶宗は一向一揆と手を結ぶことで、着々と自らの勢力を拡大していた。
越中の国内事情を知る為景は、越後内紛を鎮静化させた今こそ、逆賊である神保氏を討ち、越中統一を進めることこそが、自身の使命であり、仇討ちも果たせると考えた。
しかし、その越中侵攻がすぐに実現するほど、事態は決して単純ではない。
何より、これまで続いた内戦による越後国内の疲弊は激しく、立ち直るには数年を必要とした。
国人衆の出兵環境が整わないうちは、他国遠征など論外でしかない。
また、他の越中の国人衆の動向を見誤るわけにもいかない。動向を探るには一定の時間をかける必要があった。
永正十四年(一五一七年)には、更に予期せぬことが起こる。越後を大地震が襲い、甚大な被害を被ってしまう。当然、震災の事後処理と復興作業を、何よりも優先させる必要があった。
結局、為景の越中侵攻は永正十六年(一五一九年)へと大きく後ろにずれ込むことになる。
同年十月、これまでのうっ憤を晴らすかのように、為景は越後と越中国境の境川において、神保慶宗軍と激突しこれを大破する。更にその余勢を駆って、一挙に高岡まで攻め込み、二上山の守山城を落城寸前まで追い込んだ。
しかしながら、順風満帆だった越中攻めも、ここに来て歯車が狂い出す。共同戦線を張り、西から圧力をかけて挟撃を目論んだ能登守護の畠山義総と、加賀の畠山勝王の両軍が、それぞれ立て続けに、一向宗徒との戦に敗北してしまったのだ。このままでは逆に、為景軍が挟撃に遭い、壊滅の危機を迎えてしまう。加えて、冬の到来が目前に迫っていた。為景は渋々ながらも、一旦越後に兵を引くことを決断した。
前年の苦い失敗を教訓に、為景は冬に閉ざされた中で、従前の根回しを念入りに行っていた。その根回しとは、紀伊国にいる越中守護・畠山卜山からの全面協力を得ることだった。
むろん、卜山は家来筋である神保氏の横行を、快く思っていないから、為景のために労を惜しまないのは当然である。
先ず、為景は卜山からは、神保慶明の越中派遣の確約を取り付けた。慶明は慶宗の実弟ながら、兄とは一線を画し守護・ト山派の筆頭だった。また、ト山には能登守護である畠山義総との連絡調整役を担って貰うことにした。
更にこの間でト山が成し遂げた一番大きな成果は、加賀一向宗徒の越中不介入という約定を取り付けたことである。
ここまで万全を期した為景は、永正十七年(一五二〇年)六月に、再び越中攻めに臨んだ。
もうこれ以上の失敗は許されない。為景勢は快進撃を続け、同年八月には新庄城(富山市)に入ると、その地を越中平定の拠点と定めた。
そして、遂に同年十二月二十一日、新庄城に総攻撃を仕掛けてきた神保慶宗らの、敵対する越中の国人衆を、完膚なきまで叩きのめして、長年の悲願である仇討ちと、越中統一を成し遂げる。
この時が長尾為景の人生における絶頂期だった。
以降の実質的な越中統治は、守護・卜山の名代として手柄があった神保慶明、能登守護・畠山義総、そこに為景を加えた三者体制で当たることになった。
しかし、この為景による隣国越中への統治介入は、同時に加賀能登を中心として、越中にも蔓延る、一向宗徒との全面対決に繋がる導火線となってしまう。更に、為景が越後国内に一向宗禁
制を発布したことで、対立の激化は避けられないものとなっていった。
為景と一向一揆との戦いは、大永三年(一五二三年)に、幕府第十二代将軍である足利義晴と管領・細川高国の仲介により、一旦は終結を迎えるが、それはあくまで一時的な休戦でしかなかった。これが謙信の代まで延々と続く確執と、血で血を洗う一向宗徒との、泥沼の戦いの始まりだった。
*関東擾乱
さて、為景は関東不介入を一貫して貫いたが、そのことは決して、関東の情勢に疎かったということではない。情報の収集は常に怠らず、各勢力からの誘いや、援軍要請も度々受けていた。
大永四年(一五二四年)一月十一日には、扇谷上杉朝興が、北条早雲の子・氏綱に敗れて、江戸城から河越城に逃れている。これより、朝興は山内上杉憲房と同盟し、北条氏綱との対決姿勢を鮮明にしていた。憲房は為景に敗れた顕定の養子であり、顕定の死後は関東管領を継いでいる。
北条氏綱は、越後との連合によって、両上杉氏の壊滅を図るべく画策した。しきりに為景の好きな絵画や蜜柑、酒樽といった貢ぎ物で、機嫌を取ってきたが、それを為景が意に介することは皆無だった。
むしろ為景は、度重なる氏綱からの膨大な量の貢ぎ物に、驚き喜ぶ家来衆を一喝した。
「愚か者、かような貢ぎ物に現を抜かして何とする。儂が伊勢(北条)に手を貸して、両上杉家を滅ぼそうものなら、氏綱の次の狙いは、間違いなく我が越後になる。それくらい分からないで何とする」
一方では扇谷上杉朝興も、しきりに援軍を要請してくるが、これも為景は明白に拒否していた。
さすがに、山内上杉憲房だけは、既に義父の敗死から十五年の歳月が流れているとはいえ、自身も戦って敗れた遺恨ある為景に対しては、援軍を乞うことは行っていない。
この旧・伝統的保守勢力である両上杉氏連合軍と、新興勢力である北条氏の騒乱は、天文十八年(一五四九年)の河越合戦までの間、それぞれの代替わりを経て続くことになる。
そして、その河越での戦に大敗後、衰退の一途を辿る関東管領・上杉憲政が、越後の長尾景虎(謙信)を頼って、落ち延びてくるのである。
為景が北条だけではなく、両上杉氏にも味方せず、頑なに越山を拒んだのは、守護代を継いで間もなく、討つことになってしまった前守護・上杉房能の失敗を教訓として、自らを戒めたに他ならない。「越山は百害あっても一利無し」と冷静に判断した結果だった。
一方で、為景は春日山城を強固な城として要塞化し、越後統治の要として内外に誇示したのも、ちょうどこの時期に当たる。
為景には、かつて関東管領勢に追われて、一度は他国である越中に退避せざるを得なかった苦い経験がある。この失敗から、たとえ今後、一敗地に塗れたとしても、他国で再起を図るのではなく、自国内に「攻めるに難く、守るに容易い」堅固な山城を築く必要性を、常々痛感していた。
その城は新たに築くのではない。間近に聳える春日山城の恵まれた地形に着眼し、これを盤石なものとして、普請拡充することで成し遂げようとしたのだ。武将・為景の優れた才覚を如実に発揮した一面だった。
また、為景は「目の上の邪魔な腫れ物」でしかない揚北の国人衆を、権威で屈服させるために、幕府への工作により、更なる公の地位を獲得しようと画策した。それは、将軍足利義晴や管領細川高国への献上を、惜しみなく行うことで、成し遂げようとしたことに他ならない。
工作の効果は、一向宗徒との和議成立後に形となって表れる。それは、為景を越中新川郡の守護代に正式補任するという将軍義晴からの通知だった。
傍から見ると、関東への越山と越中への侵攻が同じ「外征」という括りであっても、為景の頭の中では、明確に分けて考えられていた。これは、為景の戦人としての力量と、政事を担う者としての平衡感覚が、共に備わっているからこその判断だった。
幕府中枢への献上は、更なる効果となって現れる。
大永から改元して享禄となったその年(一五二八年)の十二月十二日、継子である幼名「道一」は元服に際して、将軍義晴の一字を拝領して晴景と名乗ることを許される。また、それにとどまらず、為景自身が「毛氈鞍覆と白傘袋」の使用を許されたのだ。これは為景が実質的な国主として認められたことを意味するものであり、権威の象徴を授けられた形だった。得意満面の為景だったが、このことが、やがて他の国衆の反感を買うことになるなど、夢にも思っていない。
このように、為景人生の中で、最も穏やかで華やかな時期である、享禄三年(一五三〇年)一月に誕生したのが幼名虎千代、後の上杉謙信だった。
*翳り
長尾為景の幸福で平穏な時間は、決して長くは続かなかった。
きっかけは、虎千代が生まれた年の享禄三年九月、上条定憲が大熊政秀とともに、柏崎で反旗を翻したことである。暫く続いていた越後国内の安寧と均衡が、遂に崩れてしまった。
上条家は守護である上杉定実の実家である。長尾為景という守護代の専横に対する不満が、一挙に噴き出したのだ。
これに対する為景の動きは速かった。同年十一月には、大熊氏並びに同族の大関氏を破ると、一挙に上条城を攻囲して、落城寸前までこれを追い込む。
これに驚き、急ぎ仲介してきたのは、実家の危機を憂いた守護・定実である。定実が、足利将軍家からの御内書を手にしていたため、為景は渋々講和に応じざるを得なかった。
更に、翌年には、為景にとって最悪の報せが、京よりもたらされる。
それは、享禄四年(一五三一年)六月、管領・細川高国が、細川晴元と三好元長の連合軍に敗れて、摂津国尼崎の地で自刃に追い込まれていたという訃報だった。この情報が為景ひとりに留まるはずがない。
これまで常に、為景が幕府の後ろ盾と頼んできた管領の死である。この話が瞬く間に越後国中
に広まると、自ずと為景の求心力は衰え、俄然これまで水面下で燻っていた反抗勢力の勢いが増
すことになった。
守護を蔑ろにして、「|毛氈鞍覆と白傘袋」の使用を誇るなど、驕り高ぶった為景に対しては、多くの国人にとどまらず、同族一門衆にも不満は広がっていた。
このような追い風を受けて、上条定憲が再度挙兵したのは、天文二年(一五三三年)九月のことである。これが「越後天文の乱」と言われ、戦火を広げて数年にわたり、国中を巻き込む大乱の始まりだった。
当初の戦況は、為景軍が圧倒的に優勢だった。北条輔広や安田景元の活躍に加えて、北信濃の高梨氏の援軍が効を奏したからだ。
しかし、天文四年(一五三五年)五月には、同族である上田庄の長尾房長を筆頭に、大熊政秀や宇佐美定満らが、上条定憲のもとに集結したことから、戦況は逆転する。
更に翌六月には本庄・色部といった揚北の有力国人衆までが、為景に対して反旗を翻したことで、いよいよ窮地に陥ってしまうのである。
こうなると、為景にとっての頼る場所は、京の朝廷しか残されていない。一度は紛失した「錦旗」を再度拝領しただけでなく、国内平定の綸旨を発給されたが、その効果は皆無に等しかった。既に為景のもとからは、多くの国人衆が去り、与する味方は栖吉長尾氏と上郡の国人数人しか残っていない。
最後の頼みの綱であるはずの「朝廷の威光」すら、形勢逆転の切り札とはならなかった。数多くの国人衆からは既に見放され、もう為景に打つ手は残されていない。まさに四面楚歌の状態だった。
このような時期に、虎千代は齢七歳にして、為景の命で林泉寺に入れられ、六世住持である天室光育和尚から薫育を受けることになる。
☆黎明の章
*虎千代
「参りました、虎千代さま」
虎千代は聡明で腕白な童だ。いつも弓や木刀を手に持ち、駆け回っては、近習を難渋させている。
この日も木刀を手から離して、降参を申し出る近習に、幼い虎千代は不満げな様子だ。
「彌太郎、おぬしが手を抜いて、わしを勝たせようとしているのは分かっておる。そんなことでは、わしは強くなれぬ。わしが簡単に討ち死にしても良いのか。もっと本気で戦え」
このような会話が交わされるのは、日常茶飯事のことである。虎千代の童らしくない物言いは、近習たちをいつも困らせていた。
彌太郎とは、小島彌太郎貞興のことである。武芸に秀で、既に「鬼小島」の異名を持つ程の若者であった。その彌太郎ですら、手加減せずに、もしも虎千代に怪我でもさせようものならば、命がいくつあっても足らない、と考えるのは当たり前だった。
腕白なのは良いが、利発すぎるのも困ったものじゃ。
心の中でそう叫ぶものの、口外出来ぬ辛さに、耐えるしかない日々である。
また、ある時は弓場でのこと。虎千代が同じく近習の金津新兵衛を困らせていた。
「新兵衛、これはまことの矢にあらず。矢尻がついてはおらぬ。かような矢では敵を倒して手柄を立てることが出来ぬ」
「虎千代さま、もう少し大きくなられましたら、本物の矢を使ってお教えいたしましょう。それまでの辛抱でございますぞ」
「なぜじゃ、なぜ未だ本物の矢を使えぬ。わしはこの通り弓を引けるぞ」
とは言え、虎千代が手にしている弓は、もちろん幼子用だった。
「畏れながら、虎千代さまのお力では、矢がいずこに飛んで参るか、未だ定まってはおりませぬ。とても危険でございます。どうか了見くださいませ」
そう言われても、未だ幼子の虎千代が、分かるものではない。
「いやじゃ、いやじゃ。わしはちゃんと引ける、引けるぞ」
こう言っては泣きじゃくる虎千代に、手を焼くのが日常茶飯事だった。
春日山城内では、こうして腕白な日々を過ごす虎千代だったが、母である「虎御前」の前では、借りてきた猫のように、おとなしく聞き分けの良い童を演じていた。
虎千代の腕白ぶりを時折耳にしている母は、愛おしい我が子を前に、優しく諭すのであった。
「虎千代、近習たちを困らせてはなりませぬぞ。皆はそなたのためを一番に思って、いつも優しく面倒を見てくれているのですよ。そのような皆の気持ちが分らぬようでは、決して良き大将にはなれませぬ。そなたが近習らの言うことをよく聞いて、大きくなってくれることだけが、母のただひとつの望みなのです。分かりますね」
「そうなのですか、母上。虎は早く強き武将になりたいのです。そして、父上や兄上のお役に立ちたいのです。だから、彌太郎や新兵衛たちに、いろいろとおねだりしているのです。このままでは、虎は決して強くなれませぬ」
「そなたのことは御仏が、必ず見守って下さっていますよ。だから、決して焦ってはなりませぬ。そなたの周りの近習たちは、父上が直々に選んだ優れた者ばかりです。皆の言うことに従って、毎日励めば、必ず父上のような立派な武将になれるはずです」
「母上、それはまことですか」
「母がそなたに嘘を言うとお思いですか。さあ、そなたも御仏に手を合わせて祈るのです。それから、彌太郎や新兵衛には、明日ちゃんと詫びるのですよ」
「はい、母上、虎が間違っていました」
幼い頃から、虎千代は信心深い母親の影響を受けて育っていく。しかし、生来の負けん気の強さと剛毅な性分が、決して変わることはなかった。
幼少期の虎千代は、屋敷の中でじっとして文机に向かい、書の手習いをすることなどは、最も苦手とするところだったが、屋敷内での楽しみの一番は将棋だった。刀稽古に疲れると、近習の秋山源蔵や黒金孫左衛門らと将棋盤を挟んで対局に夢中になっていた。
「その手は待て、孫左。前の一手はわしの手元が狂ってしまったせいじゃ」
「虎千代さま、『待て』は言ってはなりませぬぞ。戦に『待て』などございませぬ故に」
「なぜじゃ。なぜ駄目なのじゃ」
「もしも、虎千代さまが戦場で、大将として一手を間違えたから『待て』と言っても、敵は聞いてくれますか」
下を向いて答えに窮する虎千代に対して、黒金孫左衛門は敢えて追い打ちをかけるように、言葉を続けた。
「もしも、時すでに遅いとなれば、何百何千という尊い兵の命に関わるのです。この将棋を戦場と思い、一手一手を真剣に考えて打つのです。これからも、さような言い訳をするようでは、立派な御大将にはなれませぬ」
武芸とは異なり、将棋においては、当時の英才教育の一環として、近習が遠慮することはなかった。幼い虎千代に対しては酷と思いながらも、心を鬼にして孫左衛門は叱咤していた。
武者稽古以外に、もうひとつ虎千代が熱中出来たことがある。それは「平家物語」「義経記」「吾妻鏡」を基にした源義経の生涯を、物語として聴くことだった。この役回りは専ら戸倉与八郎である。
牛若と呼ばれた幼少期の鞍馬山での修行、京の五条大橋での武蔵坊弁慶との邂逅、奥州平泉における藤原秀衡への敬慕、兄・頼朝との涙の対面、一の谷戦大勝利、屋島から壇ノ浦戦へと続く平家討伐の過程を耳にしては、胸を躍らせ目を輝かせた。
特に、鵯越の逆落としや壇ノ浦での八艘飛びは、軍事的天才の名を轟かせた源義経の象徴とも言える活躍ぶりであり、虎千代の心を大きく揺さぶった。また、頼朝との深い確執から、遂には追討される身となり、最期は衣川で果ててしまう悲劇を聞き大いに嘆き涙した。
後年、皮肉にも、頼朝・義経兄弟の如く、兄・晴景と対立することになるなど、幼い虎千代にとっては、思いもしない話だった。
ともあれ、この時ばかりは、虎千代がいつも真剣な眼差しで、もの静かに聴いてくれるので、近習も安心だった。まさか、虎千代が自らを義経に置き換え、近習たちを武蔵坊や佐藤忠信や伊勢義盛といった、家来衆に擬えて想像を膨らませているとも知らずに、である。
こうして、虎千代は春日山城内での幼少期を、成長を温かく見守る近習との穏やかな暮らしの中で過ごしていった。傍にはいつも慈悲深く、愛情を注いでくれる母親がいた。
しかし、絵に描いたような幸せが、長く続くことはなかった。
穏やかな生活の終焉は、突如林泉寺への預け入れという形で、虎千代の前に突然訪れてしまった。
越後国内動乱の渦は、幼い虎千代の身をも、巻き込んでいくことになる。
*林泉寺
林泉寺は、虎千代の祖父である長尾能景が、明応七年(一四九八年)に建立した禅寺である。能景の父である重景十七回忌に建立したと言われ、曹洞宗大本山・永平寺の末寺として厳しい修行を課することで有名だった。
この時の父・為景は四面楚歌の状況に追い込まれ、まさに危機的な状況に陥っていたから、嫡男である晴景を含めて、万が一のことを念頭に置いていた。つまり、自身に万が一のことがあったとしても、僧門に入っている虎千代に危害が及ぶことは先ず考えられない。
また、もしも自分や晴景に危害が及んだ場合、幼少ながらも大器の片鱗を垣間見せていた虎千代に、府内長尾家再興を託そうという意図が密かに働いていた。
むろん、この時代に、武家の男子を僧門に入れることは、決して珍しいことではない。最も多い理由は、成人後の兄弟間の争いを防止するためである。
しかし、虎千代の場合は、兄である晴景とは父子間程の歳の差があり、晴景が病弱で気弱であることから、先ずは才ある虎千代の命を第一に考えた親心だった。
後年、その為景の意向を汲んだ兄・晴景が、虎千代を還俗・元服させて、古志郡司として栃尾城に遣わすことになるのは、まだ先の話となる。
さて、父為景の命によって、虎千代は林泉寺に預けられるが、この時未だ七歳の幼子である。愛おしい母親や近習衆との別れは、それが武門の習いとは言え、幼い虎千代にとって、どれほど辛く心細く悲しかったかは、想像に難くない。
林泉寺は春日山城の麓に位置し、大人にとっては目と鼻の先の距離と言える。しかし、寺境内から一歩も出ることが叶わない、幼子の虎千代にとっては、天と地ほどの異世界に連れてこられた、と感じたことであろう。
「和尚さま、虎千代は城に帰りとうございます。母上や父上にお会いしとうございます。彌太郎や新兵衛と武者稽古もしたい、孫左と将棋もじゃ」
これ以上は言葉にならない。虎千代の思いは大きな涙となって、膝に滴り落ちていた。それでも泣き声ひとつも出さず、手のひらをぐっと握りしめたまま、下を向いて堪えている幼子の様子には、さすがの天室光育和尚も、不憫でならない。
「虎千代さま、さような泣き言を御父上や御母上がお聞きになったら、なんと嘆き悲しむことでしょう。好き好んで、大事な我が子を手放す親などおりませぬぞ」
「では、なぜ、わしをこのように、寺に預けてしまったのじゃ」
「それは、虎千代さまの将来を考えてのこと。拙僧に任せて、様々なことを学んで欲しかったからでございますよ」
「それならば、和尚さまが城に来て、教えてくれれば済むのではないですか」
「いいえ、それは違います。拙僧と寝食を共にして、これまでの恵まれた生活とは、かけ離れた修行をしてこその学びでございます」
虎千代は下を向いたままだ。
「御父上や御母上は、まさに断腸の思いと言い、はらわたが切り裂かれるような辛い思いをして、虎千代さまを拙僧にお預けくださいました。そのようなお二人の思いを、虎千代様は決して無駄にされてはいけません。それとも、そのような親不孝を虎千代さまはお望みですか」
「では、父上と母上は、わしのことを思って、和尚さまに預けたのですか。和尚さまの言うことをきいて修行すれば、いずれは城に戻れるのですか」
「さようでございますとも。但し、拙僧の言葉に耳を傾け、厳しい修行にも耐えることが出来なければ、いつまでも寺の小坊主のままですぞ」
目の周りを覆っていた涙を手の甲で拭うと、虎千代は天室光育の顔をみて、はっきりと応えた。
「わかりました、和尚さま」
こうして、虎千代の林泉寺における、厳しい修行生活が始まった。
これまでの恵まれた生活とは真逆の異なる環境に放り込まれた虎千代だったが、人生の師ともなる天室光育和尚との出会いによって、稀代の名将としての素養を、これから一歩ずつ身につけていくことになる。
修行期間中、虎千代は天室光育より、四書五経を学び、禅の修行から、生死を超えた境地を開眼している。また、漢詩や和歌の素養も授けられた。城にいた頃は全く身につくことがなかった書の才能にも、目覚めていくことになる。
天室光育が名僧と言われる所以は、虎千代が守護代家の男子という意識が根底にあったにせよ、その聡明な才を慧眼して、仏道だけに固執せず「孫子」を中心とする軍法書をも授け、武術稽古も推奨したことだった。また、やがて虎千代が、笛や琵琶といった芸能にも通じ、多様な才能を発揮していくのは、この時期の天室光育の教えなくしては、到底考えられない。
和尚は、この時すでに還暦の齢を遥かに上回りながらも、まだまだ意気盛んである。虎千代の将来を見据えて、時には厳しく、また時には温かく包み込むような愛情をもって育んでいった。
ある時、天室光育は虎千代に向って、こう説教した。
「虎千代さま、良き武将であり、政事をなす者は、常に謙虚で誠実、信義を大切にして、仁愛を貫かなければなりませぬ。そのためにも、日々心穏やかに自らを律するとともに、心身ともに鍛えることこそが肝要です」
「和尚さま、信義とは何でしょうか」
「虎千代さまは弱い者いじめをどう思いますか」
「嫌いです、許せません」
「もし、弱い人が助けて欲しい、と頼ってきたら何といたしますか」
「助けて差し上げとうございます」
「では、裏切りをどう思いますか」
「いやです。絶対にしてはいけないことだと存じます」
「自分は旨いものを沢山食べているのに、家来や民が貧しい生活をしているのはどうですか」
「決して許されることではないと思います。家来や民が良い暮らしになって初めて、豊かな暮らしが許されるのだと思います」
「その通りです。いま、虎千代さまがおっしゃられた全てのこと、それが信義の意味するところです。今のそのご立派なお気持ちを、決して忘れてはなりませぬぞ」
「はい、和尚さま。この虎千代、信義というものを、心に刻んで生きて参ります」
それからも厳しい修行に耐えて、日々虎千代は成長していく。
そんなある日の夜、虎千代の身に不思議なことが起きた。
「ここはどこじゃ」
見上げれば、雲一つない空に下弦の月が浮かび、周囲を明るく照らしていてくれている。その月明りを頼りに細い夜道を歩いていくと、向こうにひとつの御堂がぽっかりと浮かび上がってきたではないか。
虎千代は引き寄せられるように、その御堂の前まで歩み寄ると、観音開きに戸が開いた。手は触れていない。
目を凝らして見ると、中では修験者か、はたまた僧侶なのか、大きな像の前でひとり禅を組み瞑目しているようだ。
その大きな像は、どうやら甲冑で身を固め、矛らしき武器を手に恐ろしい形相でこちらを睨んでくる。足元に目を移すと、邪悪な鬼らしき者を踏みつけて、懲らしめているようだ。
虎千代は更に歩を進め、修験者らしき者の後ろに恐る恐る立ってみた。
その時だった。像の目が碧い光を放ちながら、かっと見開いたではないか。
それに驚いた虎千代は「あっ」という自分の声で飛び起きた。いつの間にか、身体はびっしょり汗で濡れている。
「夢か」
このような夢を見るのは、初めてのことだった。
これは何かの暗示ではないかという好奇心と恐怖心から、翌朝、天室光育和尚にその夢のことを話すと、意外な返事が返ってきた。
「虎千代様、それはきっと毘沙門天様でしょう」
「毘沙門天様」
「虎千代様は未だご存じではなさそうですな。北方を守り司る戦の神様です」
「その神が何故、儂の夢に現れたのじゃ」
「はて、それは拙僧にもお答えいたしかねます。しかし、これはおそらくですが、毘沙門天様が虎千代様に何事かを、お伝えしたかったのでございましょう」
「はて、何事とは。毘沙門天様がわしに何を」
虎千代が考え込んでも、思いつくわけでもなかった。秋の乾いた心地よい風が、子弟の間を通り抜けて、庭木や草花を躍らせている。
その後、虎千代が同じ夢をみることはなかった。これまで通りの厳しい修行の毎日に、明け暮れることになる。
*父の死
話は少し遡る。虎千代を林泉寺に預けて間もない天文五年(一五三六年)八月のこと、長尾為景は突如として家督を嫡男晴景に譲り、自身は隠居した。
これは、反対勢力が拡大し、八方塞がりとなった為景の完敗を、世間に宣言したに等しい行為だった。しかしながら、それでも越後国内の内紛は、一向に収束の目途すら立たなかった。
特に上田の長尾房景は上条定憲とともに、反・為景派の国人衆を糾合していた。為景の隠居はあくまで形式的なものであり、依然として実権は為景にあり、と読んでいたからである。
為景は、彼らが一向に矛を収めようとしない以上は、春日山と反対勢力との緊張関係が続くだけでなく、国難が打開出来ないと判断した。考え抜いた挙句に、為景は残されていた「奥の手」に手を伸ばすことにする。
為景は焦っていた。自身が既に不治の病に侵されていることを、自覚していたからだ。時折腹部を疝痛が襲う。また、血便が混じるようになっていた。疲れやすく顔色も良くない日々が続いている。
この病魔が自分の身体を食い潰す前に、何としても国内の安定化を図り、府内長尾家の安泰を手に入れたいという為景の執念だった。
「奥の手」、それは虎千代の姉である未だ十歳の娘・綾姫(後の仙桃院)を、長尾房長の嫡男・新六(後の政景)に嫁がせることを条件とする、和議の申し入れだった。綾は事実上の人質となる。
この和議の内容は上田長尾家にとって、決して悪いものではない。守護代家との親戚関係によって、自身の国衆内での優位性を高めることが出来るからだ。
そのうえ、長く続く内乱の疲弊は、越後国人衆全員が抱える悩みの種でもあり、この疲弊からようやく解放される、というのが一番の本音だった。
こうして、天文六年(一五三七年)双方間の和議が成立する。これによって、足掛け四年という長きにわたって続いた「越後天文の乱」が、ようやく終結することになった。
しかし、越後に平和が訪れたことを喜んだのも、束の間だった。またもや思わぬところから綻びが生じ、国内を分裂させる事件が勃発する。
その事件とは、守護の継嗣問題だった。為景から晴景への守護代交替で、守護としての存在感が、自ずと増した上杉定実である。しかしながら、定実は子宝に恵まれず、また高齢であることから、養子を迎え入れて、守護後継者を早急に決める必要に迫られていた。
上杉定実は国内国衆から養子縁組することは、内乱の要因でもあることを憂慮し、養子先を国外に求めた。それが出羽国・伊達植宗の三男である時宗丸である。
時宗丸は、伊達植宗と揚北衆の中条氏の娘との間で、生まれた男子である。中条氏と言えば、揚北衆の中では珍しく、常に親・為景派として与してきたから、当然のこととして、守護代家は賛成に回った。
しかし、伊達氏と国境を接し、常に侵攻の危機に晒されている他の揚北衆が、黙っているはずがなかった。揚北衆は挙って、時宗丸の擁立に反対の意向を表明する。
これによって、守護とその親戚筋に中条氏、それに守護代家が加わる賛成派と、揚北国人衆の反対派という対立構図が、自ずと出来上がってしまう。またもや、国内で一触即発の危機を生んでしまったのだ。
そして、天文八年(一五三九年)、恐れていたことが、武力衝突という形で、現実のものとなってしまった。伊達氏が越後下郡に侵攻することがきっかけである。
この伊達氏の越後侵攻に対して、為景の動きは迅速だった。たとえ時宗丸擁立賛成派として、同じ立場とは言え、他国からの武力侵攻による介入ならば話は違う。
大いに危機感を募らせた為景は、朝廷に対して速やかに働きかけ、「敵すなわち伊達追討」の綸旨を発給頂くことに成功する。
これが揚北衆に対して、実に大きな効果を発揮した。この綸旨には、これまでと違い、為景の恣意的な意向が全く混ざっていないからだ。
この綸旨によって、揚北衆による軍事行動が瞬く間に鎮静化した結果、戦う相手を失い、大義名分を無くした伊達軍は、おとなしく自国に撤退せざるを得ない。
天文九年(一五四〇年)、こうして時宗丸騒動は一旦終結するが、為景の命運もここまでだった。
既に身体もやせ細り、床に就いている時のほうが多くなっていた。それでも、「国内分裂回避と他国侵攻阻止」だけは、自身の手でやり遂げなければならない、という一念でのみでその生を保っていた。
その執念が実を結んだ今、そして生き長らえる目的を失った今、為景の命はまさに風前の灯火だった。父・長尾能景の戦死を受けて、急きょ十八歳で家督を継ぎ、戦と政争に明け暮れた為景の生涯も、遂にその終焉を迎えようとしていたのである。
天文九年十二月、後継の晴景・次男の景康・それに林泉寺から危篤の報に接して駆けつけた虎千代の兄弟三人が、為景の枕元に揃った。
為景は残っている限りの力を振り絞り、か細くも最期の言葉を息子たちに与えた。
「虎千代、そなたの成長は和尚から聞いておる。今は戦も一息ついてはおるが、儂が死ねば儂に反攻する国衆がいつ牙を?いて、この春日山を襲うかしれぬ。それに、そなたは知らぬことであろうが、御屋形様の後継問題が未だ定まってはおらぬ。そこで、そなたは林泉寺を離れ、栃尾の瑞麟寺・門察和尚を頼って行け。既に和尚からはいつ来ても良いとの返事が来ておる。安心して赴くがよい」
「父上、虎千代は今すぐにでも元服して、兄上のため、そして越後のために働きとうございます」
涙を堪えて虎千代が必死に訴える。
「それはならぬ。そなたはもう少し修行し、まだ色々と学ばねばならぬ。守護代はおるか」
「はい、ここに」
晴景が為景にすり寄り、やせ衰えた手を握って応えた。
「晴景、虎千代を還俗させるか否かは、お主に任せる。数年後の成長をみて、お主が判断するのじゃ。良いな」
「ははっ」
青白く、いかにも病弱そうな顔の晴景ではあるが、それでも声を張って返事をした。
「もし、虎千代が武将として心許ないと判断したのであれば、そのまま坊主として生涯を全うさせるのもよし」
「父上、虎千代は嫌でございます。栃尾で一所懸命修行に勤め、成長の暁には還俗して、必ずや兄上をお支えしてみせます」
「うむ、励むがよい。そなたの成長は、あの世からしっかり見守っているぞ。そして、景康」
「ははっ」
「晴景は病弱ゆえに、そなたが兄を補佐して、越後と府内長尾家の安泰のために尽くすのじゃ」
「承知しました。父上、そのように数多お話されては、お身体に差し障りがございます。もう何も言わずお休みください」
自分では笑みを浮かべたつもりだが、果たしてどうだったか。為景は目を閉じた。暫くの後に、為景の閉じた目からは、一筋の涙が零れ落ちていた。
肝心の晴景が病弱なうえに気が弱いときては、とても上田や上条、そして揚北衆には太刀打ち出来まい。景康は凡庸で、ああは伝えたが、晴景の補佐役などとても務まるとは思えぬ。
虎千代が唯一希望の光なのだが。
もしも、儂の命があと数年持つのであれば、虎千代を還俗させ、晴景の補佐役として育てることも出来ようが、今となっては、それも叶わぬ身となってしまった。虎千代のことだけが実に口惜しい。
すまぬ、お虎よ、虎千代よ、幼きそなたを残して逝く父を許せ。世が平らかであれば、そなたを寺になど出さずに、儂のもとで育ててやれたものを。元服する凛々しいその姿を、この瞼に確と焼きつけたかった。しかし、今となってはそれすら叶わぬ夢か。儂亡き後の越後が果たしてどうなるのか。これも戦国の世の習いとはいえ無念でならぬ。
「ここは何処か」
周りの景色に記憶はない。いつの間に、春日山から出てきたのだろうか。
枯れすすきが、辺り一面に広がっている。冷たい北風が、そのすすきをざわざわと音を立てて揺らしている。冷え切った四肢には、一層堪える風だ。
気がつくと、周りは敵、敵、無数の一向宗徒が儂を取り囲んでいる。奴らが無言のまま徐々に距離を詰めて来た。誰もが生気のない眼差しで、儂を見ている。その薄汚れた手には、手入れの行き届いていない刀や槍、なかには鎌や鍬を携えている。もはや、逃げる隙間はない。行く手を完全に塞がれた。
覚悟を決めて、長刀に手をかけようと試みるが、意に反して体が全く動かない。もはやこれまでか、と観念したその時、遥か彼方から、一向宗徒の囲みをかき分けて、一人の鎧姿の武者がどんどん間近に迫ってくる。
『父上』
叫ぼうとするが声にもならない。
そうか、ここは越中・般若野。
その能景らしき武者は、為景の前まで来ると、無言のまま為景を凝視し仁王立ちしている。
『父上、儂は仇を討ちましたぞ』
どうにも、言葉にならない。
やがて、武者は表情をひとつ変えず、踵を返し去っていく。
『お待ちください、父上。共に参りましょう。越後統一は叶いませんでしたが、己の限りを尽くして生き抜いたつもりです』
為景は童心に返ったように、夢中で武者の後ろ姿を追いかけた。
天文九年(一五四〇年)、年の瀬も押し迫るなか、越後第十代守護代・長尾為景は、波乱の生涯を閉じた。享年五十二歳と言われている。
常に内憂外患を抱えて、奔走し続けた生涯であった。積み残した多くの難題は、次代を担う者に、自ずと託さざるを得ない。
これからの越後は、暫く虎千代の成長を待つことになる。この時、虎千代十一歳にて、歴史の表舞台に登場するまで、もう数年が必要であった。
*栃尾へ
為景の葬儀は厳戒態勢のなか、粛々と執り行われた。越後守護代として一時代を築いた者の葬儀としては、極めて質素で参列者の数も寂しいことになった。
再び上条氏が挙兵し、春日山城下に攻め寄せてくるという噂話が、まことしやかに流布されたこともあって、常に緊張感が漂うなかでの執行だった。
虎千代も仏門に仕える身とは申せ、万が一のことを考えて、物々しい甲冑姿で参列するという異例尽くめの葬儀となった。
未だ十一歳の虎千代にとって、父為景の死は簡単に受け入れられる現実ではない。しかしながら、久しぶりに会う母や、かつて近習として仕えていた者たちの手前、精一杯強がって振る舞い、涙を堪えて葬儀に臨んだ。
喪に服した母は、悲しみと疲労のせいか、やつれた表情をしている。それでも、虎千代の姿に気づいた母は、気丈な振る舞いを装い、静かに話しかけてきてくれた。
「虎千代、随分大きく立派になりましたね。亡き父上の命で、近々栃尾に赴くと聞きました。栃尾に行っても、しっかりと修行に励むのですよ。この母にとっては、そなたの成長が残された唯一の希望です。この母のためにも、どうか身体を労り、達者でお暮らし下され」
「母上、虎千代は未だ修行の身ですが、必ず武者として、この城に戻って参ります。それまでは、母上もどうかご健勝で。帰りを楽しみにお待ちください」
「そのように、母を喜ばしてくれることを言えるまでに、成長したのですね。何と嬉しいことでしょう。その言葉を信じて待ち続けましょう。何度でも言いますが、身体を一番に考え、新たな和尚様の教えを信じ、お勤めに励むのですよ」
やつれた母の頬に少し赤みが差し、顔には優しい笑みが浮かんだ。お互いが寂しい想いを押し殺しての、安らぎを覚えた瞬間だった。
上条勢が挙兵して攻め込んでくることもなく、単なる杞憂に終わり、恙無く為景の葬儀は終了した。
虎千代が為景の遺志に従い、いよいよ栃尾の瑞麟寺に赴くに当たっては、道中警護のためにかつての近習衆が同道を願い出て、それが守護代・晴景から許されていた。
ほんの僅かな時間とはいえ、懐かしい主従関係の復活だった。小島彌太郎、金津新兵衛、秋山源蔵、黒金孫左衛門、戸倉与八郎の計五名が、道中警護役として、栃尾への旅路に同行することになったのである。
当初は足早に、馬で移動することも考えたが、徒歩での移動を選択した。乱世に乗じて、下郎や兇徒・盗賊の類いが、各地に跋扈し荒らしまわっているらしい。特に馬上の武者が、大勢の荒くれ者に狙われ易いという噂だった。そこで一行は、敢えて身分の低い武士と、その子供という姿に身をやつして、日をかけて栃尾を目指すことになった。
春日山を出発した虎千代一行は、途中林泉寺に立ち寄り、天室光育和尚に対して、これまでの御礼を丁重に申し上げると共に、正式にお暇を頂戴する旨を告げた。
「虎千代殿、そなたは亡くなられた御父上によく似て、生まれつき将としての器を兼ね備えているようじゃ。しかし、その才を活かすも殺すも、これからのそなたの修行次第であることを忘れてはならぬ。御父上のように、いや、それ以上になりたいとお思いならば、栃尾の地でもこれまで以上に、精進なさるが宜しい」
「和尚様の、これまでのご厚情、この虎千代、決して忘れませぬ。再び和尚様にお目にかかる時は、一人の武者として成長し、舞い戻る時と心得ております。どうかそれまでお達者で」
天室光育は、一路栃尾を目指して去り行く虎千代一行を、その姿が見えなくなるまで目を細めて見送った。
林泉寺を後にした一行は、守護である上杉定実の居館を通り過ぎ、越後の海を左に見ながら、集落の点在する道を進んでいく。
海から吹き荒ぶ冬の冷たい北風が、一行の身体を芯から冷やしたが、虎千代に同道している喜びが勝っている。寒さなど少しも感じないくらい高揚していた。
「虎千代様、本当にご立派になられましたなあ。この新兵衛、嬉しくて自然と笑みがこぼれ落ちて参ります。つい先日までは、大殿が亡くなられて、悔し涙に暮れておりましたが、今は心の中の嬉し涙が止まりませぬ」
「それがしも同じでございます。お身体も大きくなられて。武者修行も怠らず、日々研鑚なさっているとお見受けしました。覚えておいででしょうか。それがしが、幼い虎千代様に剣術の指南をした折のことです。虎千代様に怪我をさせてはならぬという一心で力加減したところ、それを面白くないと言って、それがしを困らせたことを」
彌太郎が笑いながら振り返って語りかける。
「そんなことがあったか。儂もその頃に比べれば、多少は強くなったと思うが、そなたの腕にはまだまだ及ぶまい。これからも学問や仏門における修行だけではなく、武芸にも励んで一日も早く一人前の武者になるつもりじゃ。その時はまた、皆が揃って儂に仕えてくれるか」
「なんと嬉しいことを。勿論でございますとも。我ら一同、虎千代様の成長をお待ちした甲斐がございました。その時が参りましたら、例え如何なる妨げがあったとしても、真っ先に馳せ参じる所存でございます」
源蔵が涙ながらに思いの丈を叫ぶと、与八郎が更に続けた。
「これなら、虎千代様の還俗と元服も近いことでしょう。その日を待ちながら、我らも虎千代様に負けぬよう、鍛錬を積まねばなりませぬなあ」
「そなたは今でも虎千代様に負けるのではないか」
孫左衛門が与八郎をからかうと一同に笑いが広がった。
「皆の気持ち、この虎千代、決して忘れはせぬ。必ずや、皆の期待に応えてみせる。それまでの間、どうかそれぞれのお役目をしっかり果たして、待っていてくれ」
「承知しました」
五人全員の声が揃った。
虎千代一行は、その後も昔話に花を咲かせながら、一路栃尾を目指して歩を進めた。柿崎和泉守景家が治める木崎・猿毛の城、そして柏崎をも越えて、斎藤氏が領する赤田城下で二日目の宿をとることにした。この分だと予定通り、明日の夕刻には栃尾に入れそうだ。
事件が起こったのは翌朝である。出発して暫く後のことだった。
「彌太郎、先ほどから後をつけられている気がするが、そなたは気づかぬか」
「はい、虎千代様も感じておられましたか」
「それにあそこを見ろ。あそこにみえる丘の木々の陰から、何とも言えぬ禍々しい邪悪な気配が感じられる」
虎千代は顎と目線で右前方の森を指し示した。虎千代は厳しい禅の修行を通して、気を鋭く研ぎ澄ますことを、自ずと身に着けていた。
目を丸く?いて驚く彌太郎を尻目に、孫左衛門が先走ろうとした。
「虎千代様はここでお待ちくだされ。良からぬ物取りの下郎どもに違いありません。物見役として、先ずは探って参りましょう」
「いや待て」
すかさず彌太郎が制した。
「我ら警護の者はわずか五人と無勢じゃ。それに単なる物取りの類いなれば、前後からの挟み撃ちなどという策は弄しまい。恐らく、我ら一行が虎千代様と警護の者と知っての待ち伏せ、と考えるべきだ」
新兵衛が更に続けた。
「英邁と噂される虎千代様を、亡きものにしようとする、いずれかの国人の手の者であろう。徒党を組んでいる人数が、どれほどかは知れたものではない。しかし、少なくとも数十人はいると考えねばなるまい。ここは虎千代様を中心に囲んで小さくまとまり、我らの命に代えてでも、お守りするぞ」
刀の鯉口を切りながら、必死の形相で孫左衛門が反論する。
「しかし、それでは虎千代様を守り切れるか分らぬぞ」
「いや、丸く小さく固まれば背後を襲われる危険はない。敵が簡単に攻め入ってくることは出来ぬはず。時間を稼ぎながら、何とか死中に活路を見出そう」
そう言ったのは虎千代だった。その冷静な一言に、一同は驚きつつ我に返った。
「虎千代様の言う通りじゃ。真冬の今なら雪の上でもあり、敵もそれほど早い動きは出来まい」
源蔵が自らをも鼓舞するように声をかけた。
「春日山城下で我らの剣の腕前を知らぬ者はおらぬ。それでも、我らを襲おうとは、いずこの家中かは存ぜぬが褒めて遣わす。我らであれば、この場を凌ぐことなど容易きこと故に、考え直すなら今のうちじゃ」
与八郎が賊徒に向けて、大声で叫んだ。見事な「はったり」だ。五人の中では一番剣術の腕が劣るが、一番機転が効くのも与八郎だった。
ここは我ら全員が斃れたとしても、虎千代様だけには生き延びて頂かなければ、あの世で大殿様に会わせる顔がない。
五人の誰もが、同じ思いで刀を構えた。
真冬の陽光が雪面を眩しく照らし、抜いた刀が時折反射して光を放っている。
やがて、身を潜めていた木々の間から、次々と出てきた武者は二十人余か。いずれもが頭巾や面で顔を覆い隠している。いずれの家中かは察しがつかない。
背後をつけてきたのは七人、もう姿を隠す必要はなく、じわりと寄せて距離を詰めてきた。その輩は、せいぜい褒美欲しさに雇われた兇徒か野武士の類いだろう。髪の毛も髭も伸び放題で、眼光だけが鋭く獣のように輝いている。
双方の間合いは縮まっているが、こちらの守りが堅く、腕利きと聞いて攻め手を欠いている様子だ。与八郎の「はったり」が効を奏している。しかし、絶体絶命の状況に何ら変わりはない。
彌太郎が正面の敵に向かって叫んだ。
「我らの素性を知っての襲撃と心得た。しかし、顔を隠して狼藉に及ぶとは卑怯このうえなし。
せめて頭巾や面を取って正々堂々と勝負せよ」
「問答無用」
声の主は後方に控える敵方の頭らしい。この一言で敵は更に間合いを詰めて、にじり寄ってきた。真冬とはいえ、真剣を手にしての睨み合いで、気がつくと額に汗が滲んでいる。
どれくらいの時間が経過したであろうか。遂に痺れを切らした一人の兇徒が、雄たけびとともに孫左衛門に対して一太刀浴びせてきた。孫左衛門はそれをがっちりと太刀で受け押し返す。
この一太刀が睨み合いの均衡を破る引き鉄となった。他の四人にも次々と襲い掛かる。方々で刀の斬撃とともに火花が散る。双方数太刀を交わした後に、またもや睨み合いとなった。
辺りをみると鮮血が飛び散り、真っ白な雪原を朱色に染めている。
手傷を負った敵は、速やかに後方の新手と交代を済ませていた。「はったり」はともかく、こちらの腕前が予想以上とみてか、どうやら今度は焦らしての持久戦を目論んでいるらしい。
虎千代は、このような命のやり取りの中でも、頭が冴えわたり、自分が冷静に様子を見ていられることが不思議だった。そして、近習五人の防御輪の中にあって、何とかこの危機的状況から脱出出来る手立てはないものか、と必死に考えていた。むろん、そのような妙案が、浮かぶはずもない。
時間が経過すればするほど、味方の不利は明らかだった。こちらには敵の数倍の精神的疲労が、蓄積されてきている。やがて隙が生まれる。こうなると、全員討ち取られるのも時間の問題だ。
手傷を負ったのは敵だけではなかった。背後の与八郎が、左腕を切られていた。傷の深さは分からないが、じわりと衣を赤く染めて、雪原に血が滴り落ちていた。
もはやこれまでか。このような形で我が命運も尽きるのか。
さすがの虎千代も観念しかけたその時だった。
西の方角から、雪原を蹴散らす馬蹄の音が徐々に近づいてくる。
新たな敵の加勢か。
いや、違う。先頭を走る馬上にあって、一人の武者が腹の底からの大音声で、何事かを叫んでいる。馬が近づくにつれて、その言葉が虎千代一行に味方する叫びであることが分かった。
「待て、待て、待てぇ。このご一行をどなた様か、知ったうえでの狼藉と心得た。卑しき物取りならいざ知らず、左様に素性を隠し、白昼に多勢で襲うなど、卑怯の極みであろう。この直江与兵衛尉が成敗してくれるから覚悟するがよい。者ども、逃してはならぬ。掛かれ」
敵を蹴散らすその槍には「三盛亀甲に三葉」の紋が見える。越後三島郡与板城主の直江実綱に
相違なかった。
これが後の直江大和守景綱、後の謙信を終生支える「股肱の臣」との出会いだった。この時、実綱三十二歳と言われている。
この直江与兵衛尉実綱の加勢によって、形勢は一挙に逆転した。
もともと褒美目的で雇われた兇徒・野武士の類いは、形勢不利とみるや、命惜しさに一目散で逃げ出し、一人も残っていない。
顔を隠したいずこかの家中の武者共も、頭の撤収の一声でじりじりと後退し、やがては背を向けて、一斉に駆け出し去って行く。その逃げ様は、まさに這々の体という表現が相応しい。恥も外聞もあったものではなかった。
血気盛んな小島彌太郎や黒金孫左衛門は、追い打ちをかけようとしたが、虎千代の一声で思い止まった。
「彌太郎、孫左、深追いはならぬ、危険じゃ。いずれは戦で決着をつける相手となろう。今、お前達に怪我を負われて一番困るのは、この儂じゃ。儂の前から一人たりとも欠けてはならぬ。それに今は、与八郎の傷の手当が先じゃ」
「虎千代様、それがしの傷は大事ございませぬ。この通り、幸い筋は切れておりませぬので、止血すれば心配ありませぬ」
与八郎は腕を動かしてみせて、軽傷であることを訴えた。確かに傷口が塞がれば、大事には至っていないようだ。
賊の撤収を目で追い、危機が去ったことに安堵した直江実綱は、ようやく下馬すると虎千代の前で跪いた。
「お初にお目にかかります、与板城主・直江与兵衛尉実綱でございます」
「長尾虎千代じゃ。此度は命拾いした。そなたは命の恩人じゃ、終生忘れぬ。この通り礼を申す」
「有難きお言葉。本当に間に合ってようございました」
「早速で済まぬが、家来が一人腕に痛手を負っておる。血止めの措置をしては貰えないだろうか」
「お任せください。そのようなこともあろうかと、多少手当てに慣れている者を同道させておりますので。おい、こちらのお方を、手当てして差し上げよ」
実綱の命を受けて、同行した一人が、速やかに止血薬らしきものを、与八郎の腕に塗り込み、用意していた布を手際よく巻きつけていく。
「それにしても、直江殿は何故、我らが襲われていると気づかれたのか」
虎千代は不思議そうに尋ねた。
「恐れながら、虎千代様を襲ったのは、黒田秀忠の家来衆に間違いございませぬ。実は、亡き御父上様ご危篤の報が、国内に広まった頃から、我が与板城からさほど遠くない黒滝城に、不穏な動きがあり、それを密かに探らせておりました。おい、こちらへ出て参れ」
実綱のひと声で、どこからともなく、忍びの術を心得た者が駆け寄り、顔を伏せて跪いた。
「この者が異変に気づき、急ぎ我らの城に、報せて参りました。どうやら、皆様ご一行の動きは、昨日から筒抜けだった模様です」
「名は何と申すか」
虎千代が問う。
「我ら陰の者にて、名はございませぬ」
与兵衛尉より少し年下のように見える。
「虎千代様、この者が陰をまとめる頭です。当家において、長年銭で雇っております。普段は決して表に出ることはありませんが、任務は忠実に遂行する信用の置ける輩です。」
「そうか、此度は命拾いした。礼を申す」
虎千代の一言に、その忍びの者は恐縮したように頭を下げた。
「いずれまた会おう」
「もう下がってよいぞ」
実綱が命ずると、その忍びの者は風舞うが如く、何処へともなく消えていった。
「虎千代様が春日山を発ち、栃尾に向かわれていることは、我らの耳にも入っておりました。今朝になって、黒滝の城から武装した怪しい者どもが、次々と東に向かったとの報せを受けました。
それを知り、虎千代様ご一行に、危険が迫っているに相違ないと断じまして、急ぎ馳せ参じた次第でございます」
実綱の話に合点がいった虎千代だが、何故自分の命が狙われるのかが腑に落ちない。
「そうであったか。しかし、黒田と言えば、亡き父上に大恩ある国衆の一人と記憶しておる。そのような者が何故、息子であり、しかも未だ僧門の身である儂を襲うのか」
「虎千代様、人とは実に卑しき生き物でございます。今はまさに戦国の世、下剋上が罷り通る世にて、残念ではございますが、己の出世や儲け、勢力拡大のためならば、手段を選ばぬ輩が少なからずおります。越後の国内も決して例外ではございませぬ。恐らく、幼くして英邁と名高い虎千代様がご成長された暁には、必ず邪魔になると考えたからでございましょう」
「我らはなんとも虚しい世に生を受けてきたものだ。いつかは、かような醜い争いのない、秩序正しい国をつくり、民が安心して暮らせる世にしたいものよ」
「なんと頼もしいお言葉、虎千代様には是非とも、そのような国を築いて頂きたいものです。虎千代様が元服・挙兵の折は、この与兵衛尉、必ずや虎千代様の旗下に、いの一番で馳せ参じることをお約束いたします」
「還俗して武士となるは、我が望むところ。しかし、長はあくまでも守護代である兄上じゃ。儂はあくまで、兄の補佐役に徹しようと思う。その節は大いに頼りにしておるぞ」
「ははっ」
栃尾に向かって次第に遠ざかる虎千代主従一行の、仲良さそうな後ろ姿を、直江実綱は羨まし
そうに見送っていた。
噂には聞いていたものの、それを遥かに上回る、なんと健気で英邁な御子であろうか。絶体絶命の窮地に追い込まれながらも、決して平静を失うことなく、立ち振る舞っておられた。あの胆の据わり方は、尋常ではない。近習が皆あのように、心底からお慕いしているのも合点がいく。
あの御方こそが、やがては、この乱れた越後を平らかに治める主君として相応しいのかもしれぬ。今の守護代殿は病弱ゆえに、そう長く務めることは出来まい。儂は決めた、一生をあの御方に賭けてみよう。これは実に成長が待ち遠しくなってきたぞ。
一人物思いに耽った実綱は、冬の陽光の眩しさを避けるように、更に目を細めて、虎千代一行の姿を見送り続けている。
やがて、虎千代一行が見えなくなると、満足そうに顔を綻ばせて馬首を返した。
「おい、栃尾まで陰からお見送りせよ」
いずこにいるとも知れぬ忍びの頭に、実綱は大声で指示を伝えた。
*内乱再び
直江実綱と別れた日の夕暮れ時に、一行は瑞麟寺に無事到着した。幸い、その後の道中では、何事も起きていない。
寺の門前まで出迎えてくれた門察和尚も、虎千代の今後については、既に深く理解を示してくれているようだ。予め、林泉寺の天室光育和尚が書状に記し、虎千代のことを詳しく報せてくれていたらしい。
瑞麟寺での虎千代は、元服する日を心待ちにしながらも、以前にも増して仏法の修行に励んだ。
もちろん、修行に止まるわけがない。学問や書、芸能、武術、馬術、兵法の全てに対して真剣に取り組み、着実に腕を磨いていった。
あらゆる面において卓越した虎千代の才能には、門察和尚を驚愕させること、しばしばであったという。
こうして、虎千代は御仏の教えを真摯に学びながら、将としての器を研鑚すると同時に、様々な素養を身につけ、精進を重ねていった。
虎千代が日を追うごとに成長していく様は、自ずと口伝えで越後国内の至る所に伝播していく。
それは春日山城の主であり、兄・守護代晴景のもとにも例外ではなかった。
虎千代が修行に明け暮れる日々を過ごす間も、越後の国内情勢は刻一刻と変化している。
為景が亡くなった翌年の天文十年(一五四一年)には、揚北衆の間でまたもや内紛が勃発した。
これを喜んだのは、他ならぬ出羽の伊達植宗である。先年は綸旨による内紛収束によって、越後介入のきっかけを失ってしまったが、再度、守護の上杉定実を焚きつけて、今度こそ時宗丸を次期守護に擁立しようと画策したのだ。
再び、越後に国内分断という暗雲が立ち込める。しかも、為景亡き今、この危機を乗り越えられる者はいない。為景という後ろ盾を失った守護代の晴景は、手のひらを返すように、時宗丸の次期守護継承に対して反対の意向を示していた。これは中条氏を除く揚北衆の逆鱗に触れることを、恐れたからに他ならない。
父・為景の存命中は、守護・定実と歩調を合わせ、時宗丸継承に賛成の意思を表明していたにも関わらずの翻意である。この優柔不断な晴景に対しては、さすがの守護・定実も黙っていなかった。
激昂した定実が晴景に対して取った仕返しの行動は、「出家遁世」のための隠居宣言だった。
これに慌てた守護代・晴景は、守護・定実のもとを訪れて、すがる思いで懇願した。
「御屋形様、どうか出家だけは、思い止まって頂けませんか」
「しかしのう、守護代殿、この通り儂も年老いていくばかりじゃ。いつ、そなたの親父殿が迎えに来てもおかしくはない爺よ。それを皆が分かっているのに、一向に跡継ぎが決まらぬというのであれば、是非もあるまい。守護職を返納し奉り、新たな守護は、京におわす公方様に決めて貰うのが筋というものではないか」
「御屋形様、この守護代が浅慮でございました。御屋形様が、そこまで思い詰めておられるとは存ぜず、守護代として恥ずかしい限りです。かくなるうえは、あらためて伊達家に使者を遣わし、ご養子縁組の話を進めますので、暫しのご猶予を頂けませんか。どうか、どうか」
この晴景による懇願により、守護継嗣問題は、少なくとも守護と守護代間では、時宗丸を軸として話が一本化される。天文十一年(一五四二年)五月のことである。
しかし、この定実の言い分が全面的に通ったことによって、守護と守護代を巡る権力構図の変化は、想定を超えて大きく方々に波及する。
本来、主従の関係で言えば、守護が主であり、守護代はそれを支える従者の関係にある。しかし周知の通り、越後では長年にわたり、為景が力にものを言わせて、これまで事実上の逆転関係を常としてきた。
それが「守護継嗣問題」における晴景の弱腰と譲歩によって、これまで晴景に味方してくれていた国人衆の信用を、一挙に失ってしまうのである。ただでさえ、健康が不安視されている晴景が、自らの失策で招いた最大級の汚点だった。良きにつけ悪しきにつけ、強烈な決断力と行動力で、内外に力を誇示した先代・為景との差は歴然としている。今や、守護代失格の烙印を押されたのも同然だった。
ともあれ、晴景の信用失墜という大きな代償を払いつつ、守護継嗣問題は決着に向かうか、と思われた矢先だった。今度は、意外なところから火の手が上がり、守護継嗣問題は再び暗礁に乗り上げてしまう。
それは、伊達家の御家騒動だった。なんと、当主となっている伊達晴宗が、父である植宗を幽閉したことに端を発し、親子間での内乱が勃発してしまうのである。これはやがて、越後揚北衆を巻き込んでの大騒乱に発展し、天文十七年(一五四八年)まで尾を引くことになる。世にいう「伊達天文の乱」である。この伊達家お家騒動によって、越後守護継嗣問題は、またもや棚上げとなり、やがては水泡に帰することになる。
このように、越後国内が混乱を極めるなかで、遠く甲斐国(現・山梨県)では、天文十年(一五四一年)十二月に、武田晴信(のち号して信玄)が、家臣団の合力を得て、父である信虎を駿河国(現・静岡県)に追放し、守護職に就いていた。その後は、着々と隣国・信濃攻略へと触手を伸ばしていくことになる。
*毘沙門天
守護職継嗣問題や揚北衆の争いを収拾出来ず、相次ぐ争乱への対処力の弱さが露呈するにつけ、守護代・長尾晴景に対する反感や侮蔑、離反は、揚北に止まらなかった。
それは既に、府内長尾氏勢力の中心である中郡・上郡の国人衆にも広く及んでおり、既に失地回復は困難になっていた。
かかる国難をよそに、虎千代は栃尾の地で、文武両道を貫き、更に武将としての素養を、着々と磨き上げ、著しい成長を遂げていた。
天文十二年(一五四三年)初秋のある晩のことである。十四歳となった虎千代の身に、不思議なことが起こる。
門察和尚の講義と、日課としている武者稽古のため、身体は相当疲れているはずなのに、何故
かその日に限って、虎千代は寝つけずにいた。
いつもは、床に就くと同時に深い眠りに落ちるのに、どうも勝手が違っていた。どれくらい時が経過したものか。ようやくまどろんできたという時に、何処からか、虎千代の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
聞き覚えのないその野太い声の主は何処かと、目を開けて仰ぎ見ると、そこにはいつか夢でみた鬼の如き形相の像が、まさに仁王立ちしているではないか。
『毘沙門天様ですか』
果たして声になっているのか。
よく見ると「竹に雀」が描かれた軍旗を左手に掲げて、虎千代を凝視している。
「起て、虎千代。起つのだ」
この声だけを残し、その像は虎千代のもとから姿を消した。
「毘沙門天様」
そう声を発すると同時に、虎千代は飛び起きた。
どうやら、夢だったらしい。しかし、毘沙門天様らしき像が夢枕に立ったのは、これで二度目になる。確か「竹に雀」の家紋は、上杉家のもの。これらが何を意味するのか。たとえ夢であったとしても、はっきりと聞こえた。間違いなく「起て」との仰せだった。
翌朝、虎千代のもとに春日山からの早馬が到着する。守護代である兄・晴景より、直ちに春日山城に出仕するよう、との報せだった。
栃尾に来て、早や三年半余の歳月が流れている。
同じ時分に、栃尾城代である本庄実乃にも早馬が届いている。春日山まで虎千代に同道するようとの命であった。
「遂に、来るべき日が来たか」
実乃はひとり呟いた。実乃は幾度も瑞麟寺を訪れては、虎千代の修行の様子を覗き見聞きし、その成長を肌で感じると共に、非凡なる文武の才能を見抜いていた。
その翌々日、虎千代は本庄実乃を筆頭として、以降近臣として仕える、庄田定賢や吉江忠景らを従えて、春日山城に入った。
しかし、直ちに叶うと思われた兄・晴景との久々の対面は、三日を経過してようやくの実現だった。理由はここ数日間、体調が優れず床に伏せっているとのことで、仕方がなかった。
仮病を口実に面会を婉曲的に拒絶する手法は、古今問わず使われるが、自らが呼び寄せておいて拒絶される謂れはない。
事実、晴景の病は思っていたよりも篤く、春日山城・本丸正殿に座する晴景は、まさに顔面蒼白の状態だった。相当無理を押して対面に臨んでいるに違いなかった。今にも倒れてしまうのでは、と虎千代は内心気が気ではない。
虎千代の後方には、同道した本庄実乃、そして庄田定賢と吉江忠景が控えて座している。
「兄上、お久しゅうございます、虎千代でございます」
「うむ、大きゅうなったな。父上の葬儀以来か。あれから三年余り。早いものじゃ。如何じゃ、栃尾での暮らし向きは」
病が篤いせいか、言葉も途切れ途切れで痛々しい。
「門察和尚様のご指南のおかげで、御仏にお仕えしながらも、日々文武両道の修行に励むことが出来ております」
「うむ、執着じゃ」
この後、何事か言葉を続けようとしたが、激しく咳き込んでしまう。顔も歪み苦しそうだ。
「兄上、日を改めましょう、お身体に障ります故に」
「いや、良い。すぐに治まる」
その言葉通り、暫くすると咳が止まった。顔を上げた晴景が再びかすれ声で話し始める。
「そなたの修行の様は、この春日山にも伝わってきておる。儂も兄として嬉しく思っておった」
「有難うございます」
「虎千代、門察和尚には既に儂から伝えておるから安心せよ。そなたに還俗を命ずる。儂が烏帽子親になろう。直ちに元服せよ。諱は『景虎』、如何じゃ」
虎千代は嬉々とした表情で即答した。
「この日を心から待ち望んでおりました。このうえは、兄上をお支えし、一日も早く平穏な国に戻るよう努めて参ります」
「頼りにしている。ついては、虎千代改め景虎に、古志郡司を命ずる。元服の儀が終了次第直ちに栃尾に戻り、そこに控える本庄実乃らと手を携え、中郡の要として励むよう」
「ははっ」
平伏した景虎に向かって、更に晴景が続けた。
「多少はそなたも聞き及んでおろう。儂が病で臥せがちなことをしり目に、揚北衆のみならず、近頃は中郡の国人も一部儂に逆らい、勝手し放題じゃ。そなたには中郡の楔となり、不逞の輩を押さえつけて欲しいのじゃ。わかるな」
「無論、承知しております」
「儂は戦や争いごとが苦手じゃ。しかし、守護代でいる以上は避けて通れぬ。そなたには儂の先鋒となって貰いたい」
「ご期待に沿えるよう尽くします」
「うむ、重畳じゃ。さて、元服し古志郡司となれば、手足となる家臣も必要であろう。皆をここに呼べ」
やがて背後の襖が開く。見覚えある五人の武者だ。
小島彌太郎・金津新兵衛・黒金孫左衛門・秋山源蔵・戸倉与八郎といった、懐かしい顔ぶれが揃っている。
虎千代は思わず破顔した。
「兄上、有難き幸せに存じます」
天文十二年(一五四三年)八月、虎千代改め長尾景虎の誕生である。
景虎元服の儀は、雲ひとつない晴天の下、滞りなく催された。新たな若武者誕生の門出を祝するかのような空模様だった。
元服の儀を終えたその足で、景虎が向かったところは、母が棲む庵だった。
母に対しては、これまでも季節ごとに、自身の近況や暮らしぶりを文に認めていたが、父の葬儀で会って以来、直接話せていない。
今では髪を下ろし、青岩院と名乗り、亡き父・為景の菩提を弔う毎日を過ごしている。母が棲むその庵は春日山の麓の、城内の喧騒から逃れるような場所にあった。ひっそりとした佇まいの門前に、一人の尼僧が佇んでいるのが見える。母だった。成長した景虎に一刻も早く会いたくて、きっと待ち焦がれていたに違いない。
母は以前のように、艶やかな衣装や化粧を施しているわけではない。しかし、袈裟を纏い法衣に身を包んだその姿が、飾り気のない素の美しさを湛え際立たせていた。
庵の周りはもちろん、室内も清楚で調度品も整然と設えてある。母の心身共に穏やかな暮らしぶりが見てとれた。
「母上、お元気そうで何よりです。こうして再び、母上にお会い出来ましたこと、本当に嬉しゅうございます。此度は兄上より、還俗と元服を許され、春日山城に罷り越しました」
母・青岩院は喜びの涙を、その目いっぱいに湛えている。
「あのお虎が、このように立派に元服なさる時が来ようとは。この母の膝の上で駄々をこねて、甘えていた幼子が、何とご立派になられたことでしょう。御父上が生きておられましたら、どれほど喜び、頼りに思われたことか」
母の言葉に胸を詰まらせながら、景虎は必死に堪えていた。
「母上、元服した以上は、この越後のため身命を賭して、兄上をお支えする覚悟でございます。
母上から頂戴したこの命、決して無駄にはいたしません。しかし、何時どのようなことが起こるかも分かりません。我が命、もうこの世には無きものとお考え下さい」
あらん限りの見栄を張って、言い切った景虎の言葉だった。
「武者の母としての覚悟は、とうの昔に出来ております。しかし、景虎殿。貴方はどんなに大きくなられたとしても、また更に武将として成長なさったとしても、この母にとっては、いつまでも幼子のままの『虎千代』なのです。母の前では決して無理する必要はありませんよ」
「母上」
「そして、貴方はこれから人の上に立つ星の下に生まれて参りました。他の方々のお命を、預かる立場になるのです。ご自身の命はもちろん、ご家来衆一人ひとりのお命も、大切に守らなければならないのです。そのことだけは、決して忘れてはなりませぬ。そして、この春日山に戻ってきた時は、この母に、その元気な顔を見せてくだされ」
「はい」
景虎はその母の温かい愛情に満ちた一言ひとことに、もう我慢が出来なかった。堪えていた涙が、止めどなく溢れ出て、顔を上げることが出来なかった。
いくら強がっていても、未だ齢十四歳の若者だった。そこには、未だ七歳の頃より寺に預けられ、甘えることも許されずに、親元を離れて人一倍寂しい思いをし、何度も涙で枕を濡らした、幼い頃のままの虎千代がいた。
母は、幼子に戻り涙を必死に堪えている我が子を、慈しみ包み込むようなまなざしで、優しく見つめていた。
「今日まで、よく頑張りましたね」
母がやっとの思いで絞り出した一言だった。
景虎が母の庵を出た時は、既に陽も大きく西に傾き、夕暮れも近づく頃合いとなっていた。
春日山城へと急ぎ戻る道すがら、ふっと左横に目線を移すと、今まで見たことのない小道を見つけた。母の庵に向かう時には、露ほども気がつかなかった小道だ。人が時折踏み固めて出来た程度だから、見落とすのも無理はない。その小道をたどり、更に向こう側に目をやると、小さな御堂がひっそりと建っているのが見えた。
こんなところに御堂が何故、と思いつつ景虎の足は、自然とその小道をどんどん辿り、御堂に近づいていった。御堂の周りは草も刈られて、綺麗に掃き掃除が行き届いている。景虎は凛とした佇まいのその御堂に心惹かれ、気がつくと、観音開きの扉に手をかけてしまっていた。
御堂の中は陽が入らないせいか、暗くてよく見えない。ようやく目が慣れてくると、何やら奥に像らしきものが浮かび上がってきた。ここで祀られている御本尊か。
景虎はおもわず声を出して驚いていた。
先日、夢とも現とも区別出来ないなかで見た仁王立ちの像ではないか。ただ、左手にあるのは「竹に雀」の軍旗ではなく、どうやら中国の矛という武器らしい。
その時、背後に人の気配を感じて、景虎は振り返った。そこには、何と天室光育和尚が、小坊主を従えて、笑みを浮かべながら立っているではないか。小坊主は景虎が栃尾に行ってから、新たに預かった子なのだろう、見覚えはなかった。
「和尚様」
「此度の元服、まことに執着至極に存じます、景虎殿」
「ありがとうございます。こうして元服出来たのも、和尚様のお導きがあったればこそ、でございます」
景虎はお礼の挨拶を述べながら、思わぬ場所で恩師と再会したことに動揺していた。天室光育はその景虎の気持ちを、見透かしたかのようである。
「ところで、景虎殿がここにおられるのは、どうしてであろう」
「勝手な振る舞いをお許しください。つい先ほどまで、母を訪っておりました。その帰り道でございます。この御堂が目に入り、気がつくと吸い寄せられるように、中に入っておりました。そし
て、驚いたことに、数日前、夢枕に立った御像がこちらに安置されていたのでございます」
「世には摩訶不思議なことがあるというが、やはりそうであったか。景虎殿、そなたが幼き頃に一度夢の話をしてくれたことを覚えておいでか」
「無論でございます」
「景虎殿、実はこの御像こそが、毘沙門天像じゃよ」
「やはり、さようでございましたか。この毘沙門天様がはっきりと仰せでした。しきりに『起て』
『起つのだ』と」
和尚はそれを聞き、覚悟を決めたようだ。
「よくお聞きなされ。ここは拙僧が知り得る限り、そなたの祖父である長尾能景様から、林泉寺の先代住職が、大切にお守りするよう、命を受けて参った御堂じゃ。それ以来、先代を受け継ぎ、拙僧もこうして毎度、お浄めを欠かすことなくお守りしておる」
「さようでございましたか」
「この毘沙門天様が、貴殿の夢枕に一度のみならず二度もお立ちになり、お告げをなさったというのは、決して偶然とは思えませぬ。この意味を考えるに、毘沙門天様は、平三景虎殿に何らかの望みを託されたのではないかな」
「それは如何なることでしょう」
「それはしかとは分かりかねるが、例えばじゃ」
「例えば」
「毘沙門天様に成り代わって、この乱れた世を安寧に導いて欲しい、というお告げだったとしても、何ら不思議ではあるまい」
「さようなこと、俄かには信じられませぬ。もし、そうだとしたら、これから如何すればよいのでしょうか」
「それはご自身で考え、ご自身で判断し行動する他ございませぬ。冷たく突き放すようですが、ここから先は、御仏に仕える拙僧の考えなど、及ばぬ範疇ですので」
景虎は混乱していた。それに自分がそのような大それたことを、成し遂げる自信などあるわけがない。
「しかし、既に武門の道を選び、歩み始めた貴殿には、心密かに決めた大義があるのではないかな。その道を迷うことなく、ただひたすら真っ直ぐに進むしかないと思うが如何であろうか。たとえ、それが如何に厳しい棘の道であったとしても」
光育和尚のその言葉は、景虎に一筋の光明を授けるものだった。しかし、その光は未だに弱く方向すら定まっていない。
「今日、毘沙門堂に辿り着き、こうして和尚様にお会い出来たことは、決して偶然とは思えません。畏れ多いことではございますが、確かに、毘沙門天様の思し召しなのかもしれませぬ。和尚様、お願いがございます」
「何なりと」
「これから、毘沙門天様の御前で禅を組ませては頂けませんか。毘沙門天様に向き合い、瞑目する中で、己と向き合い、己は何を成すべきかを、考えなければならないと思えて参りました」
「それは一向に構いませぬ。では、お城には拙僧から使いを出して、景虎殿の所在をお報せすると参りましょう」
「忝く存じます」
景虎はこうして毘沙門堂に籠った。
御堂から出てきたのは翌朝だった。陽の光が眩しい。森の木々に巣作る鳥たちのさえずりが、心地よく耳に響く。景虎は春日山城への道を辿った。
*戦捷
栃尾城内は大いに沸いていた。
景虎と本庄実乃らが帰城後、直江実綱を筆頭として、直ちに揚北の安田長秀、城崎の柿崎景家らが、元服祝いと称して次々に訪れていた。また、赤田城の斎藤氏や小河氏からも、元服祝いの品々が到着し、その度ごとに、家来衆が慌ただしく動き回っている。活気ある声が城内のあちらこちらで飛び交う日々が続いていた。
その一方で、黒田氏や、同族ながらも守護代家に反感を持つ三条長尾氏といった面々は、守護代・晴景の権威失墜と、求心力の衰退をよいことに、勝手な振る舞いを更に加速させている。黒田氏と言えば、三年前に虎千代一行を道中襲わせ、暗殺しようとした張本人である。
景虎の元服を契機として、越後中郡を舞台に、にわかに緊張関係が高まっていく。
景虎は元服祝いの宴などには、全く浮かれていない。目下の関心事は、近々に起こると予想される武力衝突に備えて、与板の直江与兵衛尉実綱を中心とした、味方国人衆との連携を如何に円滑に図るかである。
有力国人衆との酒宴翌日は決まって、朝から綿密な軍議に時間を割き、納得がいくまで具体的な戦略を煮詰めていた。また、時間を見つけては、栃尾周辺の地形を自らが探索し、頭に入れたうえで、詳細な図面を作り上げ、様々な方向からの合戦想定を行っていった。
一方、小島彌太郎や金津新兵衛といった武芸達者な近臣には、長槍攻めを中心とする集団戦術の調練を繰り返させ、兵力の強化を推し進めていった。
兵と言っても、過半数は農繁期には、田畑に従事する者ばかりである。景虎は、調練に参加する者に対しては、その頻度に応じて年貢を減免するだけではなく、わずかでも日当としての扶持米を与えることで、戦闘意欲の向上も図っていた。
こうして、農兵の「質」を各段に向上させると、思いがけない効果も生まれてきた。噂を聞きつけた者が、自ら志願して調練に参加するようになったのだ。その人数も日を追うごとに増えてきている。むろん、この者たちには戦場での働き次第での成功報酬も、予め約束していた。
騎馬を利用した集団戦については、正式に新たな近臣として加えた庄田定賢、吉江忠景、それに古参の黒金孫左衛門を中心に、効果的な戦術を考えさせた。景虎は、頭の中で考えた戦術だけでは、あまり役に立たないと思っている。実戦形式の真剣な調練こそが大切で、考えた戦術を繰り返し実践することで、人馬一体の感覚を身体に覚えさせるよう鍛えていった。
やがて、これが戦況に応じた騎馬戦略を次々に編み出し、後々の戦にも活かされるように、工夫が加えられることになっていく。
天文十三年(一五四四年)の夏を迎えた。
景虎は三島の与板城に急ぎ赴いた。小島彌太郎他、僅かな近臣のみを伴っての秘密裡の移動である。後々の戦法に関わることでもあり、絶対に敵方に知られるわけには行かなかった。
直江実綱は、賊徒襲撃の一件以来、修行の身である虎千代に対しても、書状を通して越後国内の動向を、逐次報せている。
また、門察和尚へのご挨拶という名目で、瑞麟寺を訪ねては、元服前の虎千代が次第に成長してゆく姿を、密かに温かい目で見守っていた。
およそ四年近くにわたって、水面下でこのような関係を続けてきた両者である。既に互いが、堅い信頼関係で結ばれた存在になっていた。元服の報せを聞いて、最も歓喜したのも、他ならぬ実綱である。
「与兵衛尉、いよいよ初陣じゃ。この秋、田の借り入れを待って、必ず黒田は攻めてくる。本音を言えば、お主には我が傍らで、共に戦況を見守って欲しい。しかし、儂はこの戦で、敵を完膚なきまで叩こうと思っておる。そのために、お主にはこの城で、敵の一部を確と引きつけて、牽制して貰わねばならぬ」
「承知しております故に、ご安心召されよ。しかしながら、それがしも若殿の指揮する晴れの初陣をこの目で見られぬ、というのは些か心残りではございます」
苦笑しながらも、実綱は嬉しそうだ。景虎の初陣を一日千秋の思いで、待ち焦がれていた一人である。
「実は与兵衛尉、そなたにはもう一つ願いがある」
「はて、その願いとは何でございましょう」
実綱には思い当たるふしがない。怪訝そうに問うてみた。
「お主が抱えておる忍びの衆を、儂に譲ってはくれまいか。むろん、お主の下にも何人かを預けるが、これからは儂がお頭を筆頭とする一党全員を抱え込み、儂の意向で動くようにしたいのだ」
「何とそれは如何なる理由でございましょう。いくら若殿の願いとは申せ、彼らは我が直江家が代々抱えてきた輩にて、そう易々と承知することは致しかねますが」
実綱の言うことは至極尤もな話だ。
「突然言い出して済まぬ。儂が考えるに、戦の趨勢が兵の強弱で決まるのは、今も昔も、そしてこれからも変わりなかろう。しかし、儂は今後の戦が情報戦になるとみている。数多くの情報を予め正確に、しかもどれだけ早く集めることが出来るかどうかで、戦の進め方が大きく違ってくるはずだ。この考えはどうじゃ、間違っているか」
「仰せの通りと存じます」
「つまり、儂は矢継ぎ早に起こる情勢の変化を的確に、そして出来る限り迅速に掴みたい。戦は生き物であり魔物でもある。予め、どんなに細かい段取りを決めていても、一つの些細な動きの変化が、戦全体に大きく影響を及ぼすことがある。戦場においては、その些細な変化に対応出来なければ、緻密な段取りも、絵にかいた餅と同じになるだろう。儂は臨機応変に判断し対応することで、絶対に負けない軍団を作りあげたい。それには、そなたが抱える優秀な忍びの衆の力が必要なのじゃ」
「なるほど」
実綱はひょっとしたら、仕えようとしているこのお方は、自分の考える範疇を遥かに超えた、とんでもない傑物かもしれぬ、と少し怖じ気づいていた。それと同時に、高まる胸の鼓動を抑えきれずに、面白がっている自分にも気がついていた。「若殿の慧眼には感服いたしました。そこまで言われては、この与兵衛尉、否とは申せませぬ」
そう言うと、実綱はにわかに立ち上がり、庭にむけて一言大声で発した。
「いずこかにおろう。出て参れ」
すると、忍びの衆の頭目と思しき者一人が、四年前のあの時と同じく、物音ひとつ立てずに降り立ち、庭に進み出た。
「儂が呼び出した理由はすでに承知であろう。お前の主は今日から、この若殿となる。良いな」
「我らは銭によって雇われている身にて、殿の命に従うまででございます。それに」
「何じゃ。おぬしが、かくも言葉多く語るは珍しい。申してみよ」
「引き続き、我ら一党、若君様を通して、引き続き殿にお仕えすることに変わりはございません。畏れながら申し上げますと、若君様はこれからの越後に欠かせぬお方と、お見受けいたしております。そのようなお方に我ら一党が、命をかけてお仕え出来るのは、陰の者ながらも誉れと心得ます」
「確かに、お前たちはここ数年の間、いつも陰から若殿を見守っていたから、儂より若殿のことを知っておるかもしれぬのう」
実綱は苦笑しながら景虎を振り返った。
「かように、儂はこの者たちに見限られたようでございます。何やら長年の思い人から、絶縁を伝えられた気分にて、寂しゅうございますが、どうぞ、ご存分になさりませ」
自嘲と冗談を交えながらも、その実はすっかり納得している様子だ。
「あい済まぬ、礼を言う」
景虎は実綱から忍びの頭に目線を移し、更に続けた。
「これからは儂がお前たちの主じゃ、良しなに頼む」
「ははっ」
「ところで、かつてそなたに名を問うたが、ないと申したな。儂が名を授ける。今日から、そなたは幻蔵じゃ。常に陰となって動き、それは幻の如き者ども。よってその一党を『幻の者一党』とする。良いな」
「有難き幸せ」
幻蔵は言うや、少しだけ面を上げた。三十前後か、初対面の時に思ったよりも若いのかもしれない。鳶色の瞳で目は澄んでいる。少しだけ潤んでいるようにも見えた。
「下がってよいぞ」
一礼した幻蔵は、再び音もなく立ち去った。
「ところで若殿、いよいよ初陣に際し、相応しい旗印が必要ですなあ」
あらためて、着座した景虎に実綱が問う。
「そのことだが、実は既に心に決めた旗印がある。お主には一番初めに知って貰いたかった。筆と硯を用意してはくれまいか」
「それはまことに光栄なことでございます。さあ、どうぞご存分にお書きくだされ」
手際よく準備された硯に墨を丁寧に摺ると、景虎は一挙に書き上げた。その真っ白な和紙には「毘」の一文字が、紙一面に大きく記されている。
「それは毘沙門天様の意味でございますね。確かに若殿には、これ以上の旗印は考えられませぬ。
我ら一同は、毘沙門天様の化身となられる若殿に、お仕えするのですから、これは末代までの誉れとなります。この乱れた越後を、ひとつに纏めることが出来るのは、若殿を置いて他にはおりませぬ」
「さように大それたことを申すではない。儂は畏れながら毘沙門天様のように、邪悪を挫き弱き者を助け、正しき世の実現に、少しでも力になれたらとの一念で、旗印として一文字を頂戴したまでのこと」
景虎の言葉を、実綱は全く意に介する様子がない。
「重畳でございます。それがしは、四年前の出会いから、貴方様こそが越後一国を束ねる盟主に相応しいお方、と信じ続けて参りました。こうして成長を遂げられ、元服なされた今、その思いは確信に変わろうとしております。その第一歩がこれから始まるのです。『毘』の旗を押し出して、我らが共に歩もうとしているのです。これを喜ばずしておられましょうか」
「与兵衛尉、儂はそのように大層な傑物ではない。ただひたすらに、毘沙門天様のご威光におすがりして、共に歩んでくれる皆のために、全力で突き進もうとしているだけなのじゃ。まこと買い被られては困る。しかし、与兵衛尉には、我が同朋の要として、これから力を貸して欲しいと思っておる」
「よくぞ、おっしゃいました。本日只今より、この直江与兵衛尉実綱、長尾平三景虎様に我が命をお預けいたします。ご存分にお使いくださいませ」
「宜しく頼む、与兵衛尉。お主の今の言葉は、十万の味方を得た心地がする」
「若殿こそ大袈裟でございますぞ」
「いいや、今の発言は、儂の本音じゃ。偽りはない」
「では二人で、いつか十万の大軍を率いて戦いましょう」
実綱の夢物語のような冗談に、思わず景虎は笑っていた。
この時に確かめ合った互いの結束と、深まった二人の信頼関係は、その後も変わることなく一生涯続くことになる。
二人はこの後も、初陣における極秘作戦を、細部にわたって詰めたうえで擦り合わせ、連携の仕方を確認し合った。
その密議を終えた二人は、ようやく和やかな談笑の時を迎えていた。
すると、城内の何処からともなく、夏風に乗って涼やかな笛の音が聞こえてきた。景虎は思わず目を瞑り、その心地よい音色に酔いしれた。それは優しく、そして美しく何とも儚げな音色であり、景虎の耳に直接囁いているようでもある。
「あれは、我が娘、蒼衣の笛の音でございます」
実綱は気を利かせて言ったつもりなのだが、景虎は心の中を見透かされたような気がした。
「暫しお待ちくだされ。若殿に挨拶するよう、蒼衣に伝えて参ります」
景虎は自分の気持ちを言い当てられたのが、余程恥ずかしかったとみえて、立ち上がろうとする実綱を、思わず制してしまった。
「いや、今日はお主と戦の相談に参った迄じゃ。それに長居をして敵方に悟られては拙かろう、急ぎ栃尾に戻らねばならぬ」
言うが早いか、景虎は慌てるように立ち上がり、別れの挨拶を急ぎ済ませると、与板の城から逃げるように、駆け去ってしまった。
一目会いたい、と何故儂は素直に言えぬ。景虎は自分の意気地のなさを馬上で悔いた。また、実綱の気遣いに素直に応じられない、自身の不甲斐なさにも憤っていた。城は遥か彼方に遠ざかるばかり、今更悔いても取り返しがつかないことだった。
景虎がそんな後悔の念に苛まれていることなど知る由もない。与板城内からは、徐々に小さくなる景虎の馬上姿を、密かに見送る一人の姫の姿があった。
それから半月の後、栃尾城内では景虎を中心として、城代である本庄実乃他七名の近臣が、軍議を催す姿があった。全員がこれまでに探索したことを、詳しく書き込んだ周辺図面を囲み、目を落している。
この年はとりわけ暑い夏の日々が続いていた。この日も風が通らない中、皆の額には汗が滲んでいる。
「よいか、儂に元服の祝いの品を届け、誼を通じてきた者の全てが味方とは限らぬ。直江与兵衛尉と安田長秀殿の他は、どこまで当てになるか知れたものではない。恐らくは、儂のお手並み拝見と、様子見を決め込む国衆が大半であろう。なればこそ、此度の戦は、我らが寡兵であっても圧勝しなければ意味がない。そこでだ」
景虎は一同を見回して続けた。
「敵がこの栃尾めがけて押し寄せるのは、八月末か九月の初めになる。特に黒田はかつて我らを襲いながらも、失敗した苦い過去がある。恐らく、儂のみならず与兵衛尉をも憎んでいるはずだ。しかも、黒田の城と与板の城は目と鼻の先じゃ。与兵衛尉が城を留守にするわけには参らぬ。与兵衛尉には何としても、敵の一部を引きつけたうえで、与板の城を守り抜いて貰わねばならぬから、加勢は期待出来ぬ。よって、我らは安田長秀殿の援軍を含めても総勢一千。それに対して敵は、野盗や凶徒といった不逞の輩をも、銭で雇い集めていると聞き及ぶ。恐らく、この栃尾攻めの兵だけでも、二千五百は下るまい」
「我らの劣勢は否めませぬなあ」
腕を組みながら、本庄実乃が一言挟んだ。
「そこで我らの策はこうだ。半数の五百の兵は、夜陰に紛れて先発し、予め決めた場所に埋伏する。一方、儂を含め残りの兵五百は、一旦城を背にして陣を敷く。しかし、敵の大軍を見て怖じ気づいたとみせかけ、直ぐさま城内に引き下がり、あたかも籠城戦かと思わせる」
「なるほど」
蓄えた顎髭を撫でながら、彌太郎が唸った。
「埋伏した別働隊は、気づかれぬように敵の背後に近寄り、城に攻めかかったところに襲いかかる。同時に退却した我ら城内の兵も、城門を開き挟撃する。敵の動きは、新たに召し抱えた幻の者という忍びの者たちが、逐一儂のもとに報せてくれる手はずになっている」
「見事な策ですな」
本庄実乃は勝利を確信したかのようだ。
「今は、幻の者の頭、幻蔵らに城全体を見張らせており、蟻一匹の入る隙間すら、つくってはおらぬ。万が一にも、この策が敵に漏れることはなかろう。しかし、今後はわからぬ。よって、これからの戦支度は、当日まで慎重且つ秘密裏に進める。よいな」
「承知」
一同静かに声を揃えて応えた。
「別働隊の指揮は彌太郎と孫左に任せる。埋伏の場所をもう一度確認しておくこと。与八郎は、与板の直江と別働隊、そして我ら城方との連絡網を指揮せよ。他の四名は城代殿と共に、儂の目と耳、手足となって支えてくれ。それでは、ご一同、抜かりなく」
そこには未だ十五歳とは思えぬ頼もしい侍大将の姿があった。
天文十三年九月、遂に敵が栃尾城に押し寄せてきた。
その数ざっと三千。対する景虎勢は七百。予想の五百を上回ったが寡兵に変わりない。敵はやはり我らを侮っている。力任せに押し出してきた。
景虎は素早く櫓から降りると、計画通りに城を背に陣を敷き、出来る限り敵を引きつけた。
城門は全て開け放っており、景虎の号令とともに、急ぎ退却する手筈になっている。
「鬨の声を上げよ」
兵の士気は高い。皆が声を張り上げた。心地よい緊張感が体中を駆け巡る。
周りの兵に目線を向けた。多少緊張している者もいるが、作戦に自信を持っているせいか、高揚感が勝っているようだ。
景虎は後方中団の馬上に構えた。先鋒は策を知り、自らが名乗り出てくれた揚北の雄、安田長秀軍だ。如何に敵の先鋒をいなすかは、全て一任していた。
まだまだ、もっと、もっとだ。引きつけろ、焦るな。景虎は自らの逸る気持ちを心の中で、窘めた。
この僅かな時間が、何刻にも長く感じられる。
「弓隊、前へ」
ようやく、敵の先鋒が矢の届く射程圏内に入った。間髪入れずに、景虎は右手に持った軍配を振り下ろした。
強弓を引く強者で揃えた弓手たちが、素早く三段に構えると、豪雨の如く矢を射かけた。
敵の動きが止まり、明らかに怯む様子が伺える。矢除けの盾も揃っておらず、面白いように敵兵が斃れていく。それを見逃さず、安田長秀率いる長槍隊が突っ込んでいった。
敵兵の動揺は更に大きく広がったが、景虎の合図で安田軍は深入りすることなく、素早く反転した。
全軍が吸い寄せられるように城内を目指す。それを見た敵はすぐさま態勢を立て直し、反転する景虎勢を追い、栃尾城をめがけて殺到してきた。敵は数に頼んでの軍勢であり、それぞれが手柄を立てようと、必死の形相で迫ってくる。
しかし、そこへ、先に城内に戻ったもう一つの弓隊が、撤退兵の援護のために矢を射かけるので、敵兵は城門の前で立ち往生のまま、釘付けとなっていた。
景虎はほとんど無傷のまま全軍が城内に退却したのを確認し、素早く城門を閉ざした。更に弓隊の攻撃は激しく、敵は前進するどころか、命惜しさに後退する者まで出始めている。
そこに遠くから鬨の声が聞こえてきた。
小島彌太郎と黒金孫左衛門らが指揮する別動隊だった。手筈通り、敵に気づかれないように、絶妙な間合いで進軍してきたに違いない。
初めて挟撃と知った敵に、大きな動揺がみられた。前方か後方か、矛先をどちらに向けるか、退却しようにも挟み撃ちでは、到底逃げ場がなかった。
こうなると敵の指揮系統などは皆無に等しい。好機とみた景虎は大音声で叫んだ。
「城門を開けろ。全軍で押し出せ」
城門が一斉に開け放たれ、右往左往する敵に向かって騎馬隊が鏃の如く一直線に突進していく。
その後方から長槍隊が続いた。
これで勝敗は決したのも同然だった。
城攻めの総大将として、後方に構えていた三条城主の長尾平六長景が、慌てふためいて戦場を離脱すると、あとは収拾どころではなくなっていた。
大軍とは言え烏合の衆であり、一度脆さを露呈すると崩れるのは、あっと言う間である。挟撃に遭って討ち取られる者、武器を捨て一目散に逃亡を図る者が相次いだ。
その後、逃げる敵を追っての追撃は一刻に及び、挙げた首級は八百に及んでいた。
「おめでとうございます、若殿。大勝利ですな」
返り血を浴びて鬼の形相の彌太郎が、兜を小脇に抱え息を切らして戻ってきた。
「実に見事な采配でございましたぞ」
本庄実乃が興奮を抑えきれずにいる。
先鋒の安田長秀も、思った以上の戦果に驚嘆するばかりだ。
「いやはや、これがとても初陣の若殿が指揮した戦とは思えぬ。心より感服仕りました」
「いいや、これも全て先鋒を進んで引き受けて下された、安田殿の絶妙な動きがあればこその、大勝利でございます」
大将として手柄を長秀に譲り、讃えることを忘れていない。景虎は戦捷の興奮を抑えつつ、更に次の手を打つ。
「戦はまだ終わってはおらぬ。先ずは全員飯を食おう。皆、疲れているとは思うが、この好機を逃す手はない。飯を食ったら、直ちに西へと向かい、直江勢とともに黒滝城を攻める。不忠者の黒田秀忠を討ってこその大勝利じゃ」
栃尾攻めが失敗と知れ、またそれが大敗北となれば、与板城を包囲する黒田勢も必ず撤退するはずだ。その撤退する兵を、直江勢が追い討ちをかける手筈になっている。
「よし、先ずは飯じゃ、飯じゃ」
孫左衛門の大きな声で、城内に笑いの輪が広がった。
(第二話へ続く)