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ヴェロニカの初恋はなかなかに厳しかった。
ジェームズは決してヴェロニカに対して、そういう意味での興味を示さなかった。
歳が離れ過ぎているゆえか、まるで子どもか妹に接するような態度だったのだ。
だから、ヴェロニカは必死にジェームズの関心を引こうとした。
はしたないことに、キスをせがんだことさえあった。
物凄く、怒られただけだった。
ーー早く、振り向いてもらわないといけないのに……。
社交界シーズンが終われば、ヴェロニカは婚約者と結婚しなければならない。
期限は迫っていた。
ヴェロニカはこの時には既に、結婚するならジェームズでないと嫌だと強く思っていた。
彼以外の人に触れられるくらいなら、舌を噛んで死んでやるとさえ思い詰めていた。
だから、ヴェロニカは突飛な行動に出ることにした。
最近ようやく大人しくなったと思われている彼女だが、生来の行動力は健在だった。
「わたしと結婚してください」
そう面と向かって、プロポーズしたのだ。
ジェームズが、ではなく、ヴェロニカがジェームズに対して。
ジェームズは怒らなかった。呆れもしなかった。
ただ、彼は悲しそうに視線を逸らしただけだった。
「わたしのことが、そんなに嫌い?結婚したくないほど?ねえ、お願いよ。ジェームズ、答えて」
ややあって、ジェームズは呟いた。
「君には婚約者がいるだろう」と。
ヴェロニカは関係ないと言わんばかりに叫んだ。
「親が勝手に決めた相手よ!わたしは、ちっとも好きじゃない、彼とは結婚したくないわ!だから……」
そこで、ヴェロニカは口を閉ざした。
ジェームズはいつもの不機嫌顔だった。
でも、ヴェロニカにはわかってしまった。
それは機嫌が悪いのではなく、悲しくて泣きそうな表情なのだと。
ジェームズはグッと拳を握っていた。爪が食い込む程の力だった。
ヴェロニカは途端、狼狽した。
自分のせいで、ジェームズを傷付けてしまったと理解したからだ。
彼にそんな顔をして欲しい訳ではなかった。
「ジェームズ、わたし……ごめんなさい。あなたを傷付けてしまって。でも、わたしの気持ちは本物なの。本当にあなたと結婚したいと思っているの。わたしは、あなたを愛しているから」
ジェームズは何も答えてくれなかった。
それから、数ヶ月後。
社交界シーズンの終盤になって、ジェームズはヴェロニカの親を訪ねてきた。
結婚の申し込みの為だった。
ヴェロニカは飛び上がる程、驚いた。
それ以上に、舞い上がるくらい幸せだった。
ジェームズの中で、どんな気持ちの変化があったのかはわからなかったけれど、プロポーズしてくれたことが、とにかく嬉しかったのだ。
だが、話はそう簡単なことではなかった。
「ダメだ。認められない」
両親は決して、ジェームズとの結婚を許してくれなかった。
ヴェロニカ自身の気持ちも伝えたが、どうしても頷いてくれなかった。
ヴェロニカは癇癪を起こす勢いで、両親を責めた。
愛していないとわかっている相手と無理矢理、結婚させて何になるのか。
娘の幸せよりも、婚約者との結婚がそんなに大切なことなのかと。
返ってきた答えは、意外なものだった。
「お前を大切に思っているからこそ、公爵家に嫁がせる訳にはいかないんだ。ヴェロニカ、お前は知らないだろうが、公爵は……夫人に逃げられているんだよ」
ヴェロニカは目を丸くした。
ジェームズの年齢を考えれば、既婚歴があってもおかしくないとは思っていた。
指輪をしていなかったので、今は独身なのだろうとしか考えていなかったが、奥さんに逃げられたというのは、穏やかではない話だった。
「夫人はどこぞの役者と駆け落ちして、家を出て行ったんだ。公爵は追わなかった。醜聞を嫌って、さっさと縁を切ったと聞いている。その後の夫人の足取りは、一切不明だ。裏切った夫人を、公爵が殺めたのではないかという噂もある。だから、お前をそんなところに嫁がせる訳にはいかないんだ。わかってくれ、ヴェロニカ」
ヴェロニカは何も言わなかった。
その時、彼女の心を占めていたもの。
それはジェームズのことだった。
婚約者のことを好きじゃないと言った時の、ジェームズのあの表情が忘れられない。
悲しそうだったのは、きっと自身の境遇と重ねたからではないだろうか。
ジェームズは夫人を愛していて、だからこそ、辛い気持ちを思い出したに違いないと、ヴェロニカは思った。
ーーでも、わたしは彼の奥さんじゃないわ。絶対に、彼を裏切ったりしない。
ヴェロニカは家を飛び出した。
両親が止めるのも聞かず、ジェームズの元へと急いだ。
彼は屋敷にはいなかった。
彼は劇場のある通りが見渡せる公園にいた。
「なぜ、ここに……」
「あなたのところの執事に聞いたのよ。教えてくれないと死んでやるからって脅したの」
ジェームズは咎めるような視線をヴェロニカに寄越したけれど、何も言わなかった。
ヴェロニカはこれ幸いと、ジェームズの隣に並んだ。
「誤解される。誰か、付き添いを……」
「構わないわ。誤解されても、わたしは全然構わない。だって、あなたのことを愛しているもの」
「だから……」
「いいわ、聞かれても。それよりも、ジェームズ。プロポーズしてくれてありがとう。とっても嬉しかったわ」
「……君の父君には、素気無く断られたがな。でも、賢明だ。普通の親なら大切な娘を、わたしのところに嫁にはやらんだろう。君は……聞いたんだな」
何を、とは言わなかった。
ジェームズはヴェロニカがここに来た理由をわかっているようだった。
「駆け落ちの噂は本当だ。わたしは殺していないがな。彼女は今、恋人と大陸にいる。幸せに暮らしていることだろう」
「ごめんなさい。わたし、知らなかったから、あなたに婚約者のことを聞かれた時、あんな無神経なことを言ってしまって。でも、今ここに来たのは謝る為だけじゃないの。あなたに伝えたくて来たの。わたしは、あなたの奥さんみたいに、あなたを決して裏切りはしない。あなたを一人になんてさせないわ。あなたにあんな悲しそうな顔だってさせない。ジェームズ、愛してるわ。あなたを心から愛してる。だから、わたしと結婚して。わたしと駆け落ちして欲しいの」
「……駆け落ちされたわたしに、それを言うのか」
「だって、仕方がないわ。お父様達ったら、絶対に許してくれそうにないんだもの。大丈夫よ、どこか知り合いのいない土地に行って、事情を知らない牧師に、結婚を認めてもらえばいいのよ。既成事実を作ってしまえば、こっちのものだわ」
「ダメだ」
ジェームズはキッパリと言った。
こっちを見ようともしない。
そのことが、ヴェロニカには不満だった。
「意固地な人ね」
「そうだ。わたしは頑固なんだ。だから、妻にも逃げられた。情けない人間なんだ」
「そんなこと言わないで」
ヴェロニカはパッとジェームズの手を取った。
さしもの彼も、人目がある場所での親密な触れ合いは嫌がったとみえて、手を抜こうとした。
が、ヴェロニカは決してそれを許さなかった。
「ジェームズ、そんな貶めるようなことを言わないで。あなたは、わたしの愛する人なのよ。あなた自身がそんな風に言ったら悲しいわ」
「わかった。わかったから、とにかく手を離しなさい」
「嫌よ。わたしはあなたに触れていたいもの。あなたはそうじゃないの?」
「ヴェロニカ・サーストン!そういうことを、恥ずかしげもなく言うものじゃない!」
「だって、言わないと伝わらないわ!」
二人の声が大きくなったからだろう。
周囲の人々が、チラチラとこちらを見やっている。
慌てたのは、ジェームズだった。
「わかった、認める。君に触れたいと、わたしも思っているということを認めるから、とにかく手を離してくれ。そして、わたしにきちんと順序を守らせてくれ」
不承不承といった風に、ヴェロニカは手を離した。
ジェームズは思い切り安堵の表情だ。
少しむかついたが、これもヴェロニカの評判を傷付けたくないという、彼の優しさなのだということは、ヴェロニカにもわかっていた。
だから、口を尖らせながらも素直に尋ねた。
「順序って何?」
「君を正式に娶る為の順序だ」
「それって!」
「声が大きい」
「ご、ごめんなさい」
「とにかく、もう一度、君の父君にご挨拶に伺う。だから、君は大人しく待っていなさい」
子どもに言い聞かせるような物言いだったが、ヴェロニカは満足げに微笑んだ。
ジェームズと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。
いい意味で、ヴェロニカは子どもだったのだ。
好きな人に、大丈夫だと言われて安心するくらいには、まだ大人ではなかった。
そして、この半年後。
ヴェロニカとジェームズは結婚した。
結局、駆け落ち結婚になってしまったが、ヴェロニカは満足だった。
愛する人と、一生の愛を誓い合えた。
これからずっと一緒にいられる。
それだけで、ヴェロニカは幸せだった。
ヴェロニカの初恋は、こうして実ったのだった。