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時は過ぎた。
まだ幼かったヴェロニカも、十六歳となり、社交界デビューを果たした。
社交界はとにかく楽しかった。
色々な人と話せて、お洒落もできる。
が、一番の利点は外に出られることだった。
相変わらず、身体が丈夫でないヴェロニカは、ほとんど外出せず、屋敷で過ごしていた。
訪ねてくる人といえば、婚約者だけ。
しかも、ヴェロニカはこの婚約者がとにかく嫌いだった。
妙に、ヴェロニカに対して馴れ馴れしいのだ。
いくら婚約者と言っても、まだ子どもだったヴェロニカに、舐めるような視線を寄越してくるところも、いつも何かしらの理由を付けて触ってこようとするところも、全てが嫌で嫌で仕方がなかった。
だから、いつも体調不良を理由に、さっさと帰ってもらっていた。
ーーでも、わたしは十六歳になってしまった。もう、逃げられない。
社交界デビューしたら、結婚しなければならないというのは、子どもの頃から言われていたことだった。
それがとうとう現実味を帯びてきた。
物凄く嫌だが、ヴェロニカにはどうすることもできなかった。
これは諦めにも似た感情だった。
子どもは所詮、親の言うことをきかなければ生きてはいけず、女は夫に仕えて生きなければ暮らしていけないのだから。
ヴェロニカはぼんやりとダンス会場を見つめていた。
次は誰と踊らなければならないのだろうかと考え、別に誰でもいいかと思い直した。
どうせ、母親がその辺りのことは把握しているだろうし、そもそもヴェロニカにはダンスをしたいと思える相手もいない。
さっさと終わらせて、早く帰りたいというのが本音だった。
「ヴェロニカ、ちょっとこちらに来てちょうだい」
母に言われ、ヴェロニカは無言で頷いた。
無言なのは、そうしろと言われているからだ。
ヴェロニカは基本、好奇心旺盛でおしゃべり好きなのだが、婚約者の彼はそういうのを嫌っていた。
淑女のような上品で従順な女性が好みなのだ。
だったら、さっさとヴェロニカのことは諦めてくれればいいのにと思うが、現実はそういう訳にはいかず、結局ヴェロニカは大人しい女性を演じ続けていた。
「ここなら、誰もいないわね」
「どうかしたの?お母様」
ダンス会場から少し離れた場所までつれて来られたヴェロニカは、心配そうな表情の母親に顔を覗き込まれた。
「あなた、とても顔色が悪いわよ」
それはそうだ。
連日、社交の場に連れ出されているので疲れが溜まっているのだ。
元々、病弱なので、人よりも疲れやすいのは仕方がない。
「困ったわね。せっかく化粧映えする衣装なのに、顔色がこれでは……」
「だったら、もう帰りましょうよ」
ヴェロニカの体調より、見た目の良し悪しを気にしている母親に辟易しながら、ヴェロニカが帰ろうと言うと、母は少し考える素振りを見せた。
「だって考えてもみてよ、お母様。いくら白粉を塗ったところで、顔色を明るくすることには限度があるわ。だったら、今日は早く帰って、明日に備えたらいいじゃない。ね?」
「……仕方がないわね」
母はため息をつくや、招待主を探して来るので、ここで少し待っているようヴェロニカに言い付けて、ダンスフロアの方へと歩いて行った。
ヴェロニカはそれを見送り、どこか座れる場所がないか周囲を確認したのだが……。
ーー何だか、本当に具合が悪くなってきたわ。
目眩を感じ、一瞬、視界が真っ白になる。
ヴェロニカの身体はよろけた。
「大丈夫か」
不機嫌な声と共に、身体を支えてくれる感触があった。
見れば、銀髪の中年の男性がヴェロニカの両肩を支え、見下ろしている。
ヴェロニカは咄嗟に離れようとして、だが、止めた。
何だか見覚えがある顔だなと思ったのだ。
そして、ハタと気が付いた。
中年男性が小脇に抱えている杖が目に入っていたのだ。
その杖には見覚えがあった。
細工の細かい、綺麗な作りの杖。
紋章が刻まれたそれを、ヴェロニカは昔、目にしたことがあった。
ヴェロニカは離れるのも忘れ、男性に向かって叫んだ。
「あなた、ジェームズね!」
途端、男性の眉間の皺が増えた。
当然だ。不躾に、名前を呼ばれたのだから。
だが、ヴェロニカは頓着しなかった。
畳み掛けるように、言い続ける。
「わたし、ヴェロニカよ。四年くらい前に、劇場の近くで、あなたの馬車に乗せてもらったわ。覚えていない?あなたは、劇のパンフレットを持っていた。あの大根役者が演じた王国の悲劇のパンフレットよ。わたし、あなたに家の近くまで送ってもらって、それで……」
「もういい。わかったから、少し落ち着きなさい」
相変わらず不機嫌顔だが、男性はそう言って、近くのイスまでヴェロニカを連れて行ってくれた。
座るように促され、ヴェロニカが大人しく従うと、そこでようやく、無言だった男性は口を開いた。
「君のことは覚えている」
「君じゃないわ。わたしはヴェロニカよ。ヴェロニカ・サーストン」
「………」
「ねぇ、ヴェロニカだってば」
「……では、レディー・ヴェロニカ」
「まあ、いいわ。わたしも一応、レディーだし。それで、ジェームズ、あなたはここで何をしているの?」
「……公爵だ。わたしはシドニー公爵ジェームズ・サイスニード。今日は招待されたから来た。それだけだ」
「わたしと一緒ね。わたしもお母様に連れて来られただけだから。ねぇ、ジェームズ」
「公爵だ」
「じゃあ、公爵。わたし、もうすぐ帰らなくてはいけないの」
「その方がいい。君は顔色が悪い」
言い方はそっけなかったが、ジェームズは記憶にある通り、優しい人だと、ヴェロニカは思った。
今までダンスに誘ってきた貴族達は、誰もヴェロニカの体調のことなど気付かなかった。
皆、口を揃えて、あなたは美しいと言うだけで。
肉親である母でさえ、体調より見栄えを気にするくらいだ。
だからこそ、ジェームズの無造作な優しさが嬉しかった。
ヴェロニカは思わず手を伸ばした。
ジェームズの手に、自身のそれを重ねる。
「な、なにを?!」
「お願い。しばらく、こうしていて」
ジェームズは乱暴に振り払わなかった。
いや、振り払おうとすればできただろうに、彼はそうしなかった。
ヴェロニカの体調を気遣ってくれたのだ。
ーーあたたかい。凄く安心するわ。もっとこうしていたい。
人に触れたいと思うのは、初めてだった。
今まで、ダンスの時に男性に触れられるのは、物凄く苦痛だったというのに、なぜジェームズだけ違うのだろう。
なぜ、ジェームズは特別なんだろう。
理由を探し、ヴェロニカはジェームズを見つめた。
すると、彼は少しだけ視線を逸らした。
若干、目が泳いでいるのは、緊張しているからか。
ーーきっと、こういう不器用なところなんだわ。
ジェームズの構えない、無骨な優しさを、ヴェロニカはとても好ましく思った。
また会いたいと、そう強く思った。
これが、ヴェロニカの初恋だった。