第9章:独立から大戦に至るまでの戦訓
ここで一度、ルーマニアの独立と海軍の設立から第二次バルカン戦争終結までの海軍の総括(のようなもの)を行う。
ルーマニア海軍は設立時にはワラキアとモルダヴィアの両海軍の合同によりその始まりを迎え、海軍整備と教育をフランスと密接に関係を持ちながら行ってきた。しかしその方向性が決定づけられたのは、クリミア戦争後に調印されたパリ条約(複数あるが1856年のものである。とてもややこしい)である。内容を掻い摘めば以下のようになる。
1.オスマン帝国の領土の尊重。
2.1841年のダーダネルス=ボスポラス海峡の閉鎖と黒海の中立化の再確認。
3.ドナウ川の自由航行原則とそれを監視するドナウ川航行国際監視委員会の設置。
4.ロシア帝国はベッサラビアをモルダヴィアへ譲渡。
5.モルダヴィア及びワラキア両国はオスマン帝国の下、準独立国として認め、セルビアの自治も同様に承認される。
2については、このような内容となっていた。
『第11条:黒海は中立化され、その水域及び港湾は、各国の商業船舶に開放され、その沿岸を保有する国又はその他の国の戦旗を、本条約第14条及び第19条に掲げる例外を除き、正式かつ永久に禁止される。
第14条:全ロシア皇帝及びスルタン両陛下は、黒海において自国の沿岸に維持するために必要な軽船舶の兵力及び隻数を定める目的で条約を締結したので、当該条約は、この条約に附属し、その一部をなすものと同一の効力及び効力があるものとする。この条約は、この条約に署名した国の同意がない限り、取り消し又は変更することができない。
第19条:上記の原則に従って共通の条約により定められた規則の実施を確保するため、各締約国は、ドナウ川の河口に常時軽船舶2隻を駐留させる権利を有する。』
これによって黒海は事実上非武装化され、一方で黒海に流れる河川域においては河川艦隊が睨みをきかせる一方、列強の国際監視委員会の船舶がドナウ川の自由航行権を確保するという奇妙な状態となっていた。言うなればこの時、国力に圧倒的な差はあれども、黒海における海上戦力のバランスはまったくの更地に均された。初期化されたのだった。
この結果としてルーマニア=モルダヴィア連合公国の初期の弱小な海軍は丸ごと用途廃止となったが、一方で河川と沿岸の防衛のために軽船舶を整備する方向性が決まった。こうした中でルーマニア海軍はフランスなどに船舶を発注し、自国の造船所で武装を施して運用してきたのは第1章で述べたとおりである。
そしてこの条約の影響をもっとも多大に受けたロシア帝国は、黒海艦隊の不在と言う状況に陥っていた。露土戦争、つまりはルーマニア独立戦争時に黒海艦隊と呼べる戦力は、1877年の開戦時、ドナウ川にバルト海から列車で運搬してきた魚雷艇9隻、砲艦3隻、機雷敷設船2隻、武装タグボート2隻にとどまった。ここにルーマニア海軍の艦艇と兵員が動員されるわけだが、対する敵の規模を考えればそれでも十分とは言えなかったのである。(とはいえ、彼らが準備不足だったわけではない)
オスマン帝国は100ミリを超える火砲を搭載した装甲砲艦を複数要しており、数的にも質的にも優位にあった。クリミア戦争後に世界においては、南北戦争やパラグアイ戦争のように技術革新とそれに伴う戦術の見直しがあった。装甲艦が世界の海戦常識を永遠に変えたのである。
オスマン帝国は何もしなかったわけではなく、フランスのFCM造船所に5隻の装甲モニター艦を発注している。また開戦時にドナウ河川域には《リュテュフィ・ジェリール級装甲コルベット》2隻が展開しており、これは排水量2540トンの船体に装甲砲塔を二つ持っていた。砲塔と装甲帯は5.5インチ、140ミリの装甲で守られている。他にもこれらに加えて12隻の砲艦、補助艦艇が20隻存在した。
海軍の指揮を執るのは〝ホバート・パシャ〟として知られるイギリス人のオーガスタス・チャールズ・ホバート=ハンプデン提督であった。彼はイギリス海軍の退役大尉で、南北戦争時には封鎖突破船の船長として南軍のチャールストン港へ18回の封鎖突破を果たしている。彼は兄の勧めでオスマン帝国海軍へ仕官し、海軍少将としてクレタ島大反乱の鎮圧に貢献した。英国海軍退役将校の籍はそれによりはく奪されたが、オスマン帝国海軍提督としての地位は高まっていた。
そのような陣容であったため、砲艦同士の殴り合いともなればオスマン帝国海軍の方に分があり、またドナウ川沿いの都市に攻撃を仕掛ける際にはこれらの砲艦や沿岸砲などを無視することはできなかった。もし渡河中にこれらの艦が現れれば、たちまちにして渡河を中断せざるを得ないのだ。また、それでも無視を決め込もうものならドナウ河川域においてオスマン帝国海軍の軍艦があちこちに出没し諸都市を砲撃することもないとは言えなかった。ドナウ河川域という限られた戦域において、これらの艦を無視することは敵艦からの艦砲射撃に直結していた。
こうした状況の中、圧倒的に隻数と火力に劣るロシア黒海艦隊とそれに編入されたルーマニア海軍は、ステパン・マカロフ提督が研究し生み出した「水雷」を用いたゲリラ戦を展開した。
ロシア帝国海軍は開戦の1年前にあたる1876年に魚雷艇の建造をはじめとして外国から水雷兵装とそれらを運用する小型艇をキシナウに集積し始め、機雷網の敷設に必要な兵站を整え、バルチック艦隊と黒海艦隊の将校と水兵が動員された。
ドナウ河川域という限られた戦域を、機雷源で分割した上で敵の機動を阻止し、機雷源で保護された流域では渡河作戦を行い、また「機動戦隊」である水雷艇による奇襲攻撃と沿岸砲兵による攻撃で敵艦に損害を与える。これはオスマン帝国海軍が機雷の掃海作業が機材の不足によりほとんど出来なかったこと、そして陸軍との協力の欠如もあって成功し、有力な砲艦は機雷源の中に取り残され錨を下ろせば沿岸砲兵や水雷艇に襲撃され、また機雷源敷設前に突破を試みたとしても同様に沿岸砲兵と水雷艇によって妨害され、ほぼ封殺された。最終的にオスマン帝国海軍は黒海を通してドナウ河川域に増援を送ることも、黒海へ離脱することも出来ず最寄りの河川港に退避することとなった。
ルーマニア海軍にとって、このロシア帝国ドナウ小艦隊の戦訓は非常に有益なものとなった。
独立戦争後のドナウ小艦隊は、この戦訓を元にして整備され、第二次バルカン戦争を戦い、次なる大戦においても出撃する。
その戦訓とはすなわち、陸軍との緊密な協力と、相互の火力支援というものだった。
またこの戦いにおける「水雷」の重要性は明らかで、特に機雷による攻勢と防衛は大規模な黒海艦隊を編成できないルーマニア海軍にとって、自国の沿岸を防衛する答えの一つでもあった。