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第8章:バルカン戦争

草稿版。まだ加筆できるところがあるんじゃないかと思ってる。

 ここまで仔細にバルカン半島の情勢と、半島諸国の野望や憎悪などを書き記したわけであるが、バルカン半島においてこの程度の文は仔細の範疇には入らないであろう。

 しかしながら、このバルカン半島がなぜ「欧州の火薬庫」などという大層な別称をつけられたのかは、概ね雰囲気で分かっていただけたと思う。ただ民族がばらけあっているだけでなく、歴史的に支配者層であったり、敵であったり味方であったり、そういうことがずっと続いてきた。ここはロシアとヨーロッパ、そしてアジアのオスマン帝国が食い散らかした後に残ったものを、ありったけかき集めて地図に落とし込んで、そこに国境線がああだこうだと列強の言い分で引かれ、あちこちに少数民族として〇〇系なんとか人という形でそれぞれの民族が住み着いていた。そしてその点在する民族は、その国家にとっての栄光ある豊かで正当な最大版図を実在するものだと考えさせるには十分すぎるほどだった。


 そうした背景の中、この盤上でもっとも邪魔で忌々しく老いぼれた存在は間違いなくオスマン帝国だった。かつてヨーロッパ全土を震撼させた大帝国はぶくぶくに膨れ上がったボロ屋に住む借金を負った素寒貧の老人同然にまで落ちぶれていて、それをなんとかしようとして自分で家に火を放ったような状態だった。それを列強と、植民地主義を目指す国々や旧領奪回を掲げた国々が放置するわけはなかった。

 1911年9月にイタリアがオスマン帝国に宣戦布告し、伊土戦争が勃発する。この戦争はオスマン帝国の軍事力の脆弱さとその覇権の終焉をもたらし、さらには10月に入るとオスマン帝国に対する軍事同盟であるバルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロ)が宣戦を布告、ここに「第一次バルカン戦争」が勃発する。同月にオスマン帝国が慌ててイタリアと休戦し、講和条約が結ばれるとリビアとドデカネス諸島がイタリアの新たな植民地となった。(なお、このバルカン同盟にルーマニアが参加していないのは、単にルーマニアがオスマン帝国の欧州領土と接していなかったからに過ぎない。もし数キロでさえ領土が接していて、その地域にルーマニア人が居住していれば、同盟の中にルーマニアが入っていたかもしれない)


 この戦争においてルーマニア海軍はブルガリア軍のコンスタンティノープル攻略の懸念が高まったために、現地領事館と職員の保護のため防護巡洋艦『エリザベータ』が兵員を乗せて現地へ向かう程度であり、基本的には中立を保っていた。


 当時のオスマン帝国の欧州領土はイスタンブールの西側に広がるトラキアから始まり、エーゲ海に面する港街サロニカを含むマケドニア、アルバニア全土と、モンテネグロとセルビアの間にまで延び、まるで突き立てられたナイフのように伸びる北マケドニアがあった。つまるところ、バルカン同盟各国は連帯してはいるものの、領土的にはオスマン帝国という東の帝国に未だに分断されていた。おまけにオスマン帝国のその領土には、いまだにギリシャ人やブルガリア人、南スラヴ人たちが居住していた。フランスやオーストリア=ハンガリーなどは静止を試みたが、一方でロシア帝国は南下政策のためにオスマン帝国の弱体化、そしてオーストリア=ハンガリーの影響力の縮小が目的であったためにこの戦争には協力的だった。


 かくして、ルーマニア以外のバルカン諸国はオスマン帝国との戦争を戦ったわけだが、あまりにもルーマニアにかかわりがないので省略する。

 結果として「第一次バルカン戦争」はセルビア、モンテネグロ、ブルガリアの陸軍が国力比にしても捻出できるだけの軍をつぎ込み、戦い勝利した。そしてギリシャは陸軍も前評判を覆すように戦い、さらにはたった一国でオスマン帝国海軍を封殺した。これによってオスマン帝国は敗北を喫したが、1912年12月には戦線は膠着しだし休戦、条約交渉が行われだし、1913年4月にはモンテネグロ以外の国が停戦し、1913年5月30日に「ロンドン条約」が締結され終戦。条約内においてはアルバニアの正式な独立、エーゲ海のエノスから黒海のミディエの境界線から西にあるすべてのオスマン帝国領のバルカン同盟諸国への割譲、オスマン帝国領のクレタ島の領有権を放棄しギリシャ王国へ譲渡、といった事柄が決まった。


 問題だったのは、この「ロンドン条約」においてオスマン帝国領の割譲内容が定められていなかったことにある。

 これはバルカン同盟内において割譲を定める協議が行われていたためでもあるが、この協議は条約締結時に既に破綻していた。セルビアとブルガリアが戦前に結んでいた秘密協定はアルバニアの独立とアルバニア領からの撤兵によって既に意味をなさないものになっていたにもかかわらず、ブルガリアはセルビアに対して協定の順守を押し通そうとした。そうなればセルビアは戦った意味がなくなると反論してもブルガリアの態度は変わらなかった。北部マケドニアに関してはこうしてセルビアとブルガリアが対立し、南部マケドニアに関してはギリシャとブルガリアが対立し、これらの領土対立に対してブルガリアは軍事的な威圧も辞さなかった。

 ブルガリアは当時、バルカンにおいて屈指の陸軍国家であった。60万人近い動員兵力を持ち、また実戦経験に裏打ちされた叩き上げの将官が揃っていた。一方でセルビアとギリシャはその両軍を掻き集めても43万に届くか届かないかと言った状態であり、装備においても特にギリシャ軍は劣っていた。セルビア・ギリシャ両国はお互いのマケドニア割譲の妥協案を結び、1913年5月1日に秘密裏に軍事同盟を締結、5月19日には相互友好防衛条約が締結された。これはオーストリア=ハンガリーないしブルガリアからの侵攻に対して相互防衛をするというものであった。ブルガリアはギリシャ側との交渉を行い対立を避けようとしたが、この外交努力は最終的に実らなかった。ブルガリアはかつてのサンステファノ条約どころか、今やそれ以上の過激で危険なまでの領土的野心を持っていた。その源泉たるブルガリア王フェルディナント1世は「第一次バルカン戦争」においてロシア側の警告にも拘らずコンスタンティノープルの占領とその地での戴冠を夢見、必要以上にトラキア方面軍を強化した上で占領に失敗していた。また王のその側近たち、ならびに軍指導者たちも領土的野心の同調者であったために議会もその野心を制することが出来ず、ブレーキの壊れた暴走列車のような状態に陥っていた。

 

 さて、ようやく本題に入ると、ルーマニアは第一次バルカン戦争において中立の代償として、そして南部に拡大したブルガリア領との兼ね合いとして、南ドブルジャのシリストラ要塞の割譲を願い出ていたがブルガリア側が拒否し、ルーマニア側が軍事侵攻を持ち出し、ロシアが仲介してなんとか衝突を防いでいた。ブルガリア側は割譲拒否、ルーマニア側は南ドブルジャの全割譲という相反する主張の妥協点としてシリストラの割譲を認める「サンクトペテルブルク協定」が結ばれたが、これに対してブルガリアはロシア帝国の不信感とその能力に疑問を募らせ、ロシア帝国もまたこうした態度のブルガリアに対して懸念を抱いた。

 セルビアとギリシャがブルガリアに対抗することを明確に打ち出すと、6月27日にはモンテネグロもブルガリアが侵攻する場合セルビア側に加担すると発表した。ルーマニアは2月5日にトランシルヴァニアを巡る紛争をとりあえず一段落させていたため、6月28日には「新たなバルカンでの戦争においてルーマニアは中立を保つことはない」と公式に警告を発していた。にも拘わらず、ブルガリアは宣戦布告なしにマケドニアに展開しているセルビア及びギリシャ軍へと攻撃を開始した。ブルガリアにはブルガリアの、あるいはツァーリにはツァーリなりの理論があるのだとしか言いようがない。


 開戦時、ブルガリア陸軍は変わらず強大で動員数も頭一つ抜けていたが、第一次バルカン戦争における損耗によって約60万から50万ほどに兵力が減少していた。訓練不足の新兵によって補填してなおこの数値である他、将校や下士官も同様に損失が大きく軍としての能力は第一次バルカン戦争前と比べて明らかに低下していた。火砲に関しては十分にあったが、小銃不足が深刻で薄氷の上でなんとか踏みとどまっているような状態にあった。

 一方のセルビア軍は第一次バルカン戦争前とほぼ変わらぬ34万8000人を保有し、またこれは1万3000人のモンテネグロ師団によって補強されていた。ギリシャは第一次バルカン戦争で占領した地帯を管理するためにも動員数を増やしており、その数は11万3000人から14万8000人に増強されている。両軍とも火砲の保有数においてはブルガリア軍に劣っていたが、訓練不足の新兵をねじ込んだブルガリア軍よりはまだ質的に同等か優位であると考えられた。

 

 ブルガリア陸軍の第1、3、4、5軍はセルビア軍に、そして第2軍がギリシャ戦線を担当した。第6軍が戦略予備として割り当てられた他、オスマン帝国に対する備えとして第10歩兵師団と独立歩兵旅団が配備された。対反ブルガリア連合戦の計画としては「サヴォフ・ネレゾフ計画」が立案された。

 計画によればブルガリア軍は開戦4日目にはニシュに到達し、5日目には主要なセルビア軍をベオグラードからの補給路から分断、包囲した上で「議論の余地のない」地域からセルビアを叩き出し、この戦争の勝利を決定的にするはずであった。第2軍はこの包囲が達成されるまで、ギリシャ軍を押しとどめる。また、この迅速な勝利によってオスマン帝国とルーマニア王国はブルガリアに対する侵攻を押し留まるはずであった。そのため、ルーマニア方面に関しては国境警備隊しか配置されていなかった。

 以下は開戦時の兵力分布である。



テッサロニキ方面

―ブルガリア第2軍(10万2000人、火砲211門)

―ギリシャ・マケドニア軍(12万1000人)


ヴァルダル=ストラムスキー方面

―ブルガリア第4軍及び第5軍の一部(17万4000人、火砲316門)

―セルビア第1軍及び第3軍、モンテネグロ師団(19万4000人、火砲235門)


ティモシコ・ドナウ=ニシャフスコ・モラヴィア方面

―ブルガリア第1軍及び第3軍、第5軍の一部(10万人、火砲228門)

―セルビア第2軍及びティモシコ民兵隊(8万6千人、火砲180門)



 しかし、現実と計画は別個のものだった。立案時点で陸軍参謀総長のイヴァン・フィチェフ少将はいくつかに点において(特に北部の第1軍の補給不足への懸念、ギリシャ軍の過小評価、戦力集中の不足)杜撰な計画であると指摘していたが、作戦部長兼参謀次長のステファン・ネレゾフ大佐の後ろ盾には最高司令官補佐ミハイル・サボフ中将がいたためにこの計画は実行に移された。ここでいう最高司令官とは、他ならぬブルガリアのツァーリ、フェルディナント1世である。

 6月17日に戦闘が開始されたが、ロシア帝国主導の仲介に縋る内閣の抵抗によってモラビア方面への進撃が停止し、計画は5日遅れた。結果として包囲するはずの敵に真正面から中央マケドニア攻勢が行われた。これには第4軍と第2軍が当てられ、第4軍は大いに進撃したが、セルビア軍の逆襲にあい多大な損害を負った上、国境線まで押し返されてしまった。ギリシャ戦線は小規模な戦闘が続いたが、キルキスの戦いにおいてギリシャ軍の攻勢を受けて撤退せざるを得なくなった。セルビア戦線は膠着し、ギリシャ戦線もギリシャ軍がその規模と装備以上の善戦を見せたが兵站が伸びきったために動きが鈍化していた。



 ルーマニアはフランスとロシアからの同意の下、7月3日から6日にかけて43万7千人の軍の動員を開始し、10日にブルガリアへ宣戦布告した。

 ルーマニア陸軍はフェルディナント王子率いるドナウ軍が首都ソフィアに向けて、そしてイオアン・クルセル将軍が率いる第5軍が南ドブルジャの占領を担当した。

 ルーマニア海軍は陸軍のドナウ川渡河を援護するために、コラビアに集結していた。この戦隊は3隻のブラティアヌ級河川モニター艦、6隻の水雷艇と(おそらくイギリス製)、そして砲艦グリヴィツァで構成されていた。陸軍の渡河作戦を遂行させるためには、ドナウ小艦隊は架橋を妨害するありとあらゆる存在を破壊せねばならない。また、この3隻のブラティアヌ級は、当時河川モニター艦としては最強クラスの艦艇であったことは留意するべきであろう。

 対するブルガリア海軍は4隻の砲艦で構成され、排水量は400トンから600トンほど、2門から4門の75㎜砲と、2門から4門の47㎜砲が装備されていた。またモーターボートも4隻保有していたが、遥かに重武装かつ隻数で勝るルーマニア海軍のドナウ小艦隊との対決と鹵獲を防ぐために早々に自沈してしまった。他のブルガリア黒海艦隊は同様に攻撃と鹵獲を恐れて、武装解除の上でセヴァストポリの中立港へと逃げ込んでいた。これによってルーマニア海軍は、戦闘を行わずにブルガリア海軍を封殺した。

 これによってルーマニア陸軍のドナウ川渡河作戦はほとんど妨害らしい妨害もなく、成功した。7月14日に第一次渡河が行われ、翌日には125本の舟橋を26時間かけて繋ぎ合わせて橋を架けた。その橋を守るためにドナウ小艦隊が展開し、またドナウ川流域における作戦行動支援を行った。



 ルーマニア陸軍はほとんど抵抗らしい抵抗を受けず、7月20日には首都ソフィアの北116㎞にあるヴラツァを占領した。23日には騎兵隊がソフィアからわずか11㎞ほどのヴラジデブナに入城した。また、侵攻に際して設立されたばかりのルーマニア陸軍航空隊が偵察任務に投入された。航空隊は第一飛行隊が航空学校、第二飛行隊がルーマニア航空団となっており、第二飛行隊には9人の飛行士と13機の航空機(そのほとんどがフランスのブレリオ機であった)が配属されていた。航空隊は第1軍に付き偵察飛行を実施し、7月13ニコラエ・カプサがブルガリアの首都ソフィア上空を飛行し、ルーマニア陸軍航空隊が、歴史において戦時中に敵国の首都を飛行した初の航空隊となった。

 ルーマニア軍に対してほぼ対応のできていないブルガリアを見て、オルマン帝国もまたブルガリアに侵攻を開始した。これによってブルガリアの敗北は決定的となり、その破滅も確定した。

 すでにこの段階でブルガリアはルーマニアへのドブルジャの割譲を認めていたため、ルーマニアが今回の講和交渉で仲介役を務めることになった。それはルーマニアのバルカン半島での影響力が高まるということでもあり、彼らはそれを最大限に利用した。まずルーマニアは講和会議にオスマン帝国を招くことを良しとせず、これを拒否した。ブカレスト条約と並行してバルカン半島のあちこちに点在するラテン系民族のヴラフ人に対する同胞意識を発露させた。これらの地域は併合するには遠すぎ、あちこちに散らばっていたが、ルーマニアは他バルカン諸国にヴラフ人の学校と教会の保護を認めさせた。諸国もまたルーマニアがヴラフ人に対して関心を持っていることを無下にはできなかった。ブルガリアが破滅した今、バルカン半島においてもっとも強力な軍隊を保有する国はルーマニアなのだ。


 ブカレスト条約により、ルーマニア王国はドブルジャの完全な領有を果たし、セルビアとギリシャはそれぞれマケドニア領を割譲することに成功した。オスマン帝国は別個にコンスタンティノープル条約によって東トラキアを奪還することに成功した。

 この戦争においてルーマニア軍の被害は比較的軽微であったが、1899年から始まったコレラのパンデミックがこの戦争において表面化した。それまでルーマニアにおいては港の検疫等の衛生対策によって、症例は少数に抑え込まれていた。また1912年にはブルガリアにおいて始まったコレラの流行にイオン・カンタクジノ博士とコンスタンティン・イオネスク・ミハエスティ博士が率いる医療チームが派遣され、この流行を調査していた。この調査において重要なサンプル、コレラビブリオの菌株を収集することに成功し、コレラワクチンを迅速かつ大量に準備するための材料があった。ルーマニア王国は第二次バルカン戦争が起こる以前から、ドナウ川の南でコレラで何が起こっているかについて、十分な情報を持っていた。しかしながら、コレラへの対処よりも講和交渉が最重要視されたために初期対応が遅れ、また軍の装備品にコレラに対する医薬品やワクチンはなく、衛生についての教育なども満足ではなかった。

 7月13日には第1軍団において最初の症例が現れ、軍医がコレラの症状を他の病気(あるいは酩酊や熱射病)と誤診したことによって診断は遅れ、さらには行軍によって蓄積された疲労によりコレラのパンデミックが引き起こされた。7月15日には公式にこれらの確認と報告がなされた他、16日にはすでに第1軍団に死者16名、重症64名、コレラと疑わしき患者204名、第2軍団に死者3名、重症15名、疑わしき患者40名が記録されている。最終的に軍の死者は1200名から1600名ほどとされている。症例はおよそ15000件にも上った。

 このコレラパンデミックは前述のイオン・カンタクジノ博士の指導とワクチンもあり、流行の進行をある程度は押しとどめることができた。第二次バルカン戦争でドナウ川を渡る兵にも検疫が行われた他、コレラの治療システムと組織、衛生知識や予防接種などの仕組みが実践的に構築された。それでも組織上の欠陥や人為的エラーなど複数の要素から取りこぼしが発生し、ムンテニアの内陸河川沿いにコレラは広がっていった。これらの戦いにはフェルディナント王子の妻、マリア王太子妃も率先して参加した他、厳密な衛生検査が施行され、国王カロル1世もまたこの問題を重要視した。陸軍もまた想定されていない軍の損耗、その欠陥についての調査が始まり、誤った認識によってコレラを広めたような将軍などは報告書に記載された。医療分野の人員の数や医療系備品の備蓄数もまた焦点となり、これは明らかに足りていないことが判明した。器具も不足しており、必要な知識がない者もおり、消毒液もまた不足していた。

 コレラとの戦いはバルカン半島諸国が第一次・第二次バルカン戦争を通して並行して継続されたものだったが、11月に入ってブルガリアはコレラはルーマニア軍によってもたらされたものだと非難した。コレラはルーマニア人侵略者のもたらしたものだとして、またルーマニア人は民間人にコレラが広がるのを止めるための措置を怠ったと言い出したのであった。とはいえ、これはカンタクジノ博士が実際に現地に赴いて疫学調査を実施し、事実ではないと確認された。コレラは1913年の6月時点ですでに民間人の間で流行していたのだった。


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