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第7章:秩序の崩壊

第7章:秩序の崩壊


 1907年2月、モルダヴィアから始まった農民の反乱はこれまで前述してきたルーマニアの農業に関する問題に火が付き、一気に燃え広がったようなものだった。

 ルーマニアの農業は大地主が頂点にあり、請負農場主が大地主の土地とそれに結び付いた財産を管理していた。農民は賃料を払って農業に従事し、その賃料は中間請負の存在や小麦などの穀物の世界市場価格が高騰すれば必然的に高くなっていった。そしてこれはアメリカとロシアの穀物間価格競争によって大打撃を受け、それでも賃料を払うためには働いて作物を売るしかなかった。請負農場主もまた大地主に賃料を払う必要があり、その土地を又貸しして農民を使役していたため、賃料が上がれば上がるだけそのしわ寄せは農民に圧し掛かる。賃料が払えなければ農民は借金をするしかなく、賃料と借金を払うためにはひたすらに働くしかなかった。借金が嵩めば賃貸契約の条件は必然的に不利な条件でも飲まざるを得ず、働いても働いても借金が増えていくということすらありえた。1893年には雇用契約と土地のリース契約に年数制限が加えられたが、これでさえ意味をなさず、ほとんどの場合は無視されるかあるいは悪用され、農民を契約と借金で縛り付けて農奴として使役するやり方が続いていた。

 農民の生活条件は過酷だった。風土病に加えて飢餓を癒すために飲酒をするため、アルコール依存症が問題となっていた。輸送インフラだけでなく衛生インフラも貧弱であるか、あるいは皆無であり、これらは人口増加によってより悲惨な状態に陥っていった。人口増加は土地不足という問題も新たに生み出し、これによって既存の農地の賃料はただでさえ高かったのにさらに釣り上げられていった。この不公平な搾取構造に農民がただひたすらに耐えていたわけではなく、事実として暴動や反乱は1907年以前にもたびたび発生していた。その度に農地改革と銘打って政府により法律などが新たに設けられていたが、そのほとんどが失敗か無視、あるいは悪用され意味をなさなかった。

 政治家であり歴史家でもあるニコラエ・ヨルガ曰く、


「私たちの国の農民が欧州全体で最も後進的であることは間違いない。他のどの国でも、オスマン・トルコでさえ、ルーマニア王国の農民ほど農民がないがしろにされたことはないだろう」


 というような有様であった。

 だが大地主はブカレストやパリでの生活で忙しく、自らが所有する土地のことやその管理は請負農場主に任せていたために現場がどのような惨状になっているかなど気にも留めていなかった。

 知らなかった者が大半であっただろう。だが知る時が来たのだ。


 1907年2月末、モルダヴィア北部のフラマンジ村でユダヤ人(※1)の請負農場主であるモチ・フィッチェルが農民たちの更新契約を拒否したことからこれは始まったとされている。農民たちは仕事が出来ないことに加えて飢餓の恐れから暴動をおこし、フィッチェルは契約を放り投げて友人の下へと逃げていった。仕事を、職を失うことと、飢餓の恐怖からそれはモルダヴィアで燃え広がった。オーストリア・ハンガリー帝国の扇動者も紛れ込んでいたとされているが、それが事実であるかは分からない。ともかくとして、恐怖から農民たちは請負農場主たちとその住宅を襲撃し、大地主の所有物を次々と破壊し略奪していった。その始まりは反セム主義的な一面も孕んでいたが、この反乱が広がっていくにつれて農民たちは、


「我々に土地を寄越せ!!」

 

 の掛け声とともに、請負農場主がブルガリア人であろうがギリシャ人であろうが、同じルーマニア人であろうが関係なく襲い掛かるようになった。事実としてこの反乱でもっとも激しく行われたのはユダヤ人が少ない上に、請負農場主のほとんどがルーマニア人であったオルテニアであった。反セム主義だけがこの農民反乱の原動力であるのならば、ここまで急速に農民反乱が燃え広がることはなかった。これらの惨状が本当に「ユダヤ人は農村や田舎で富を搾取しており」などという糾弾の通りであるならば、こうはならなかった。この反乱で「相応の報いを受けるべき」なのは、明らかにこの農業体制の上で胡坐を搔いていた者たちであり、そしてその者たちは今、恐怖によって立ち上がった農民たちの憤怒によって家を失い、土地を追い出され、あるいは取り囲まれて私刑を受け死に、あるいは傷だらけになって逃げることしかできずにいるのだ。請負農場主、不動産管理業者、地区や地方の議員たちやユダヤ人たちは次々に農民に追いやられて都市へと逃げていった。あらゆる店や市場が略奪され荒廃していった。2千人の農民がボトシャニ市に流れ込み、軍は応戦してこれを退けたが死傷者が発生した。3月末には前述したオルテニアで火が上がり、農民の数千人規模の一団が首都ブカレストに行進を始めたが、これも軍と激しく衝突し二百人の死者が発生した。

 事ここに至って首都ブカレストはパニックに襲われ、勃発した大規模な農民反乱の責任を取り保守党のゲオルゲ・カンタクジーノ政権は辞任し、国王カロル1世の要請で自由党のディミトリ・ストゥルザ政権が誕生した。

 ルーマニア政府の対応は明確だった。3月18日には非常事態宣言が布告されており、続いて一般動員が開始された。3月25日に新政権が樹立し、3月29日にまで14万の兵士が徴兵され、アレクサンドル・アベレスク将軍が陸軍長官としてこの農民反乱の鎮圧の指揮を執った。陸軍は小銃や銃剣に留まらず、火砲や騎兵隊などあらゆる手段を用いて農民反乱を鎮圧した。兵士たちは農民たちに銃を向け、撃った。交渉など存在しなかった。一方的な武力鎮圧によって全国規模の農民反乱は勢いを失っていき、恐怖して農村に逃げ帰った農民たちを取り囲んで砲撃が行われた。4月中旬には反乱の火は完全に鎮火した。

 農民反乱の犠牲者は公式には死者419人、112人が負傷、1751人が逮捕・拘留とされたが、実際にはその数は死者1万人超、逮捕者も1万人以上いるとされている。その実数に関してはカロル1世が関連する文書の破棄を命じ、これらが本当に破棄されてしまったために未だに明らかになっていない。オーストリア外交官は3千人から5千人と言う一方で、フランス大使館は1万人から2万人と言い、新聞では1万2千から1万3千と書かれ、歴史家は3千から1万8千の間の数で彷徨っている。一方で陸軍の損害は10名の殉職、4名負傷、第5ドロバンツィ連隊の75名が反乱罪により起訴され、内61名が終身刑の重労働、あるいは5年から14年の懲役を宣告されたにとどまっている。

 この農民反乱はその暴力的鎮圧に至るまで、さまざまな問題点が塊になって吐き出されたような出来事であった。

 自由党政府は農民に対してあらゆる種類の政治組織・結社を抑圧し、この反乱の扇動者として普通選挙権活動家や教師、司祭、田舎に住む知識人などを次々と逮捕した。農地改革は土地賃貸料の最高価格設定や最低賃金設定、一度に貸し出す土地の広さの制限などが行われたが、大地主は依然として存在し、なんのお咎めもなく法的制限も設けられなかった。


 そのような国内の状態であった一方で、ルーマニア海軍は4隻の河川モニター艦の組み立てを始めていた。オーストリア・ハンガリー帝国のSTT社造船所で建造されたパーツは、パーツごとに鉄道でルーマニアのガラツィ造船所に運び込まれ、そこで組み立てが行われていた。1907年8月15日には「ラスカル・カタルギウ」の組み立てが完了し、1907年9月17日には「イオン・C・ブラティアヌ」が、残る2隻もそれに続きドナウ艦隊に就役していった。1隻あたり200万レイのこの河川モニター艦はそれまでのいかなるドナウ艦隊の艦艇よりも重武装かつ重装甲であり、まさしくドナウ川最強の一角であると断言できる。

 この「ブラティアヌ級」は「イオン・C・ブラティアヌ」「ラスカル・カタルギウ」「ミハイ・コガルニセアヌ」「アレクサンドル・ラホヴァリ」の4隻が存在し、排水量は680トン(満載排水量は700トンを超える)で標準的なオーストリア・ハンガリー帝国河川艦隊のモニター艦である「クーレシュ級」や「テメシュ級」に範を取った設計となっていたが、ブラティアヌ級はそれらよりもより大型でより重武装だった。個々の砲塔に3基のシュコダ120mm海軍砲、2基のシュコダ120mm榴弾砲、4基の47mm速射砲、2基の6.5mm機関銃を搭載し、装甲帯や砲塔や司令塔は70ミリから75ミリの装甲が施されていた。隔壁は60㎜の厚さがあり、甲板も75㎜で装甲化されていたが、一部で20ミリの箇所があった。速力は13ノットで、オーストリア・ハンガリー帝国の「テメシュ級」と同じ速力を発揮できた。

 8隻の魚雷艇はイギリスのテムズ鉄工造船所に発注された。これらの「カピタン・ニコラエ・ラスカル・ボグダン級魚雷艇」は排水量51トンで、シュコダ47ミリ速射砲、6.5mmマキシム機関銃と2基の魚雷発射管で武装していた。艦名は独立戦争時の将校たちから採られており、クラス名のニコラエ・ラスカル・ボグダン大尉に、ミハイル・ロマーノ大尉、コンスタンティン・エネ少佐、ゲオルゲ・ソンシュ少佐、ニコラエ・グリゴア・イオアン少佐、ディミトリー・カリネスク中尉、ウォルター・マラーシネアヌ大尉からそれぞれ名づけられている。これらの8姉妹は1907年から1908年にかけてロンドンから次々と到着し、ドナウ艦隊に配備されていった。

 この4隻のモニター艦と8隻の魚雷艇が加わることで、ルーマニアの河川艦隊はドナウ川においてもっとも強力な存在となった。あのオーストリア・ハンガリー帝国でさえこの時期の最新鋭は「テメシュ級」であり、その排水量は440トン、速力13ノット、2門のシュコダ35口径120ミリ砲に1門のシュコダ10口径120ミリ榴弾砲、2基の37ミリ砲であり、装甲も司令塔が75ミリであったが砲塔は45ミリ、装甲帯と隔壁は40ミリ、甲板は25ミリと、ルーマニアが取得した「ブラティアヌ級」に劣っていた。後の歴史を鑑みると敵に塩を送ったかのような状態ではあるのだが、当時のルーマニア王国とオーストリア・ハンガリー帝国はトランシルバニアのルーマニア人の問題を抱えながらも秘密軍事同盟である「三国同盟」に参加していた同盟国であったことを考えれば納得がいく。


 1908年、最強のドナウ河川艦隊を手に入れたルーマニア海軍であったが、情勢はきな臭いとしか言いようがなかった。

 7月3日にオスマン帝国のバルカン半島諸都市で軍が武装蜂起し、アナトリアから派兵した鎮圧部隊も反乱側に寝返り、7月23日にスルタンが反乱部隊側の要求を呑む形でオスマン帝国憲法の復活を宣言した。「青年トルコ人革命」である(※1)。このオスマン帝国の政情不安を機として、10月5日、オーストリア・ハンガリー帝国はボスニアとヘルツェゴビナを併合し、ブルガリア自治公国は公式にオスマン帝国からの独立を宣言しフェルディナント1世が皇帝として即位した。また翌日にはそれまでオスマン帝国の宗主権下の自治領であったクレタ島がギリシャへの編入を宣言した。これはベルリン会議で取り決められていたバルカン半島の体制が、決定的に崩壊したことを意味していた。

 特に問題となったのはオーストリア・ハンガリー帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ併合であった。セルビアは1903年にオブレノヴィッチ家のアレクサンダル1世が王妃共々銃撃され、そのまま宮殿の2階から投げ落とされ殺害されると、亡命中だったカラジョルジェヴィチ家のペータルがペータル1世として戴冠し即位した。ペータル1世はオブレノヴィッチ家ほど盲目的でも親オーストリアでもなかった。1905年に関税戦争である「豚戦争」で対立した両国は、ハンガリーにおける南スラヴ人の弾圧によってさらに険悪なものとなり、南スラヴ人としての民族主義的側面も徐々に熟成されている最中だった。つまるところハンガリーは、セルビア人ともクロアチア人ともスロヴェニア人とも、そしてルーマニア人とも同じ権利を共有したいとは思っていなかった。


 そのような背景の中でオーストリア・ハンガリー帝国は、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。これは青年革命によって機能不全となったオスマン帝国から掠め取ったかのように見えるが、実際にはオスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴビナを占領していたオーストリア・ハンガリー帝国が、革命によってオスマン帝国がこの領土を奪還するのではないかという懸念からでもあった。セルビアからすればこれは明確な敵対行為であった。「豚戦争」で輸入路の8割が遮断されたセルビアに甘い声を囁き助け、手なずけていたロシア帝国もこれにはいい顔をしなかった。バルカン半島の秩序の崩壊がすぐそこにまで迫っていた。

 だがこれは知っての通り、寸前のところで歯車がいくつか抜けたことで爆発しなかった。オーストリア・ハンガリー帝国自身も即座の宣戦布告は準備不足で不可能であったし、セルビアは宣戦布告さえ考えたがそれにはロシア帝国の支援が必須であった。一方のロシア帝国はドイツ帝国がオーストリア・ハンガリー帝国への支援をちらつかせた最後通牒のために、ロシア帝国は軍の準備が出来ておらず、すぐに戦争を始めることは出来ないと身を引いてしまった。セルビアに出来ることは併合を承認することだけだった。しかしこの事件が引き起こしたのは、戦争の危機だけではなかった。この明確な敵対行為に宣戦布告すら辞さないというセルビアの敵意は民衆や軍もまた同様であり、反ハプスブルク主義の秘密結社や過激派グループの設立の契機となっただけではなく、大セルビア主義というあまりにも大きな薪に燃料をくべて火を点けたに等しかった。恐ろしいことにこの篝火は、決して消えることがなかったのである。



章外小話


※1 1904年の統計によれば、ユダヤ人の農業従事者はルーマニア人が80%を超えるところ、わずかに2.5%だった。その他の内訳は工業・手工業従事者が42.5%、商業・金融業従事者が37.9%、自由業・専門職が3.2%、その他が13.7%である。ルーマニアの商人におけるユダヤ人の割合は全体で21.1%であるが、モルダヴィアとなるとその値は跳ね上がりヤシでは75.3%、ボトシャニでは75.2%、ドロホイでは72.9%にまでなった。第一次世界大戦前までユダヤ人の従事できる自由業・専門職は医師のみであったが、人口比率で5%にも満たないにも関わらず、ユダヤ人医師の割合は大幅にそれを上回り38%にまで達した。都市部で商業などを牛耳り、医師界に進出するこのユダヤ人たちの状況は、都市部に住むルーマニア人の知識層や学生の間で反感を生み、農業請負制度の搾取者として農民からも反感を持たれていた。国内最大派閥の少数民族にして、特異な存在感を持つユダヤ人に対して政府は警戒し、ベルリン条約におけるユダヤ人に対する騒動もこうした事情が背景にあった。


※2 青年トルコ人革命は憲法の復活と帝国の近代化を目指したが、皮肉にもこの革命によってオスマン帝国はボスポラス海峡から向こう側への影響力をほとんど失った。それどころか国内においては伝統的イスラム教の価値観が、西欧的キリスト教の文化によって弱体化すると危惧する声すらあった。一方で青年トルコ人革命による近代化の根本に竜骨として敷かれたのは民族主義であったために、多民族多宗教国家のオスマン帝国は自らの手にヤタガンを振り下ろしたようなものだった。バルカン半島においてオスマン帝国の手となり働いていた、古き良き尖兵であり忠実なアルバニア人たちは、ついにはイスラム教でもキリスト教でもなく「アルバニア人」という民族となってオスマン帝国に反旗を翻すこととなる。続く二つの戦争はオスマン帝国をさらに打ちのめし、ついには世界大戦によってこの萎びた巨大な老人は地に伏せて息絶えた。その死骸と竜骨からとある選ばれし者、ムスタファを筆頭として旗が掲げられ、新たに「トルコ」という国が誕生するのである。

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