第6章:軋みを上げる国の海軍
新世紀が到来したとて、ルーマニアの周辺に真に味方と呼べる勢力は存在しないことに変わりはなかった。
1883年にドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア王国の秘密軍事同盟である「三国同盟」にルーマニアが参加していたが、これはロシア帝国の膨張を防ぐためでもあった。一方でこの「三国同盟」はドイツ帝国宰相のビスマルクがフランスのアルザス=ロレーヌ奪還を抑え込むためでもあり、またベルリン条約において取り決められたこの戦後を保持するためでもあった。オーストリア・ハンガリー帝国は特にその傾向が強く、すでに多民族国家としての統治限界に達していた一方で、バルカン半島における覇権をロシア帝国に奪われるわけにはいかなかった。この地域におけるパワーバランスを一番過敏に受け止め、なにかが起これば介入や威圧、出兵などを行うのは大抵オーストリア・ハンガリー帝国かロシア帝国であり、かつての主であるオスマン帝国はアルバニア人を尖兵として送り込み不正規戦を行う以外に出来ることは限られていた。
イタリア王国とルーマニア王国は、どちらもオーストリア・ハンガリー帝国に対して敵意を孕んでいたということで共通していた。イタリア王国はイタリア統一に至るまで、オーストリア・ハンガリー帝国と戦い、かの帝国にはいまだに「未回収のイタリア」と呼ばれるトレントとイストリアを抱え込んでいた。しかしながら一方で植民地帝国として海外進出を図るイタリアにとって壁となり、敵意を向けてきたのは広大な北アフリカ植民地を持つフランスだった。敵がフランスであればドイツ帝国と手を組むのは素晴らしい提案だったし、なにより目下の敵はフランスであり、オーストリア・ハンガリー帝国は昔、あるいは潜在的な敵というだけで、両目を瞑って手を握る程度ならばどうということはなかった。
ルーマニア王国は、イタリア王国とは逆の方向で脅威を感じていた。ロシア帝国の帝国主義は明らかであり、その歴史的領土認識によって土地を解放しようという方針は頭の上に大砲が圧し掛かっているようなものだった。ロシア帝国からのユダヤ人移民などは増え続けていたし、なにより過去の占領統治の記憶とその振る舞い、そして独立戦争の結果としてベッサラビアを割譲させされたことをルーマニアは忘れることはなかった。ロシア帝国は脅威であり、そのためにドイツ帝国と手を組むのは素晴らしい提案だった。一方でオーストリア・ハンガリー帝国はトランシルバニアにおける同化政策を行い、それに対して民族的立場から主張を繰り返すトランシルバニア・ルーマニア人たちを弾圧し、投獄していた。ハンガリーはルーマニア人に圧制を敷いていたが、なにより目下の脅威はロシア帝国であり、いけ好かないカビの生えたオーストリア・ハンガリー帝国と両目を瞑って手を握る程度ならばどうということはなかった。
イタリア王国もルーマニア王国も、ドイツ帝国と手を組むついでに、あの忌々しい古臭くいけ好かないオーストリア・ハンガリー帝国と握手をしていただけだった。二つの王国はハプスブルク家が、そしてマジャール人がなにをしてきたか、なにをしているのかを忘れなかったし、忘れる気もなかった。
そのような秘密軍事同盟を背景にしながら、新しい世紀はルーマニアにとって静かに、世界にとってはきな臭くも始まっていった。
ルーマニアにおいて静かに増大していったのは、ユダヤ人たちだった。ロシア帝国におけるポグロムは苛烈であり、1903年の4月6日から8日にかけて、かつてはルーマニアの領土であったベッサラビアのキシナウで起こったポグロムによってこれは加速した。1900年までにルーマニアには25万人のユダヤ人がおり、人口の3.3%、都市居住者の14.6%、モルダヴィアの都市人口の32%、ヤシの人口の42%にもなっていた。これらのユダヤ人は前章で述べた通りに大地主から土地と財産管理を任された請負農場主として、土地を持たない農民たちに過酷なノルマを課して農作業にあたらせていた。そうした一方でルーマニア政府はルーマニアに帰化しないユダヤ人に対して特に冷淡であり、1893年にはユダヤ人の子供が公立学校で学ぶ場合は一般ではない高額な授業料が必要となり、1898年には中等教育学校と大学からユダヤ人を締め出す法案が通過していた。また裁判所はユダヤ人に対する不快な「ユダヤ宣誓」を強いた。これは中世時代の不快な習慣は屈辱的な方法の下で自分はユダヤ人であることを宣誓させ、そうでなければ法的な証人と認めない裁判所の手続きの一つであった。ベルリン条約が調印された後もルーマニアはこの「ユダヤ宣誓」を継続した上、その理由として「ユダヤ人は農村や田舎で富を搾取しており、相応の報いを受けるべき」という糾弾を繰り返していた。
様々な問題が静かに膨張して大きくなっていく中で、ルーマニア海軍は1900年に防護巡洋艦「エリザベータ」をガラツィ造船所においてボイラーと機械設備系の大規模整備が行われ、この複雑な作業は9月1日まで続けられた。防護巡洋艦「エリザベータ」は歳を取り、老朽化の兆しが見えていた。また同年には独立戦争で華々しい活躍を見せた外装水雷艇「ランドゥニカ」も近代化改装が行われ、乗組員を雨風から守るための上部構造物が追加された。
1901年7月1日から5日の間に、ルーマニアはロシア帝国黒海艦隊の戦艦「ロスティスラフ」をコンスタンツァに迎えた。戦艦にはアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公が乗り込んでいた。言うまでもなく、ルーマニア海軍の顔役は「エリザベータ」だったが、しかし、表敬訪問には「白鳥」と呼ばれた英国製の旅客船の1隻である「カロル1世」が使用された。
この年の終わりにかけて行われた演習においては、いくつかの問題が明らかになった。クルップ社製の150ミリ砲の射撃は独自の方法でホッチキス37ミリの砲弾を用いて代替され、57ミリノルデンフェルト砲は砲自体の整備や維持ができても照準装置などの技術的分野はすっかり古びてカタログ通りの性能を出せなくなっていた。適切な資金がないために魚雷発射訓練は実際には行われないままで、この船が抱え込んでいる魚雷が本当に発射できるのかすら怪しかった。これらはすべて海軍の予算不足に起因しており、金のないルーマニア海軍において防護巡洋艦「エリザベータ」はあまりにも豪華すぎる船だった。ガラツィ造船所での整備があったにもかかわらず、防護巡洋艦「エリザベータ」の状態は悪く、ますます頻繁に故障を起こすようになっていった。結局のところ、1903年10月6日には再びガラツィ造船所に戻ることになり、フランスのFCM社から新しいボイラーを取り寄せて換装する他なかった。これらの作業は1904年の10月29日までかかった。
黒海艦隊の防護巡洋艦「エリザベータ」だけがその影響を受けているわけではなかった。ルーマニア海軍は設立当初からフランス海軍に多大な影響を受けており、もちろんこれはフランス海軍の海軍戦略思想である「青年学派」と無関係ではいられなかった。ルーマニア海軍において重視されたのは、沿岸海域というよりも河川帯における海防であり、ドナウ川に強力なモニター艦を保有するという案は1880年代後半にはすでに指摘されていた。報道機関等による長い報道合戦の後、この問題は議会に達し、1898年5月に海軍近代化のための予算案400万レイが承認されていた。この予算案は「2隻の河川モニター艦、3隻の海洋魚雷艇、武器、魚雷装備」などのためとされていたが、これらは結局使われることが無かったために取り下げられ、海軍は自らの欲するモニター艦がどのようなものにするかすら決められなかった。
海軍が当初考えていたのは、ブラジル海軍がパラナ川で運用している排水量470トン級のモニター艦のようなものだった。実際、独立戦争で行われた行動は、ドナウ艦隊に必要なもの、つまり艦隊の機動と陸軍との協調を浮き彫りにしていた。独立戦争中に際立った作戦行動は、該当地域の敵船の移動制限(特に機雷原の使用による)、戦闘の強制、魚雷や大砲による活発な戦闘、あらゆる種類の軍事輸送を提供することだった。モニター艦はこれらの作戦行動において間違いなく必要なものであった。新しい仕様は1900年にイオアン・ムルジェスク少将によって形作られることになり、造船所からの提案を応募したのだが、必要な予算が承認されるのが遅れてしまった。モニター艦がどのような仕様でどのような設計になるのかまで詰めていたというのに、ルーマニア海軍にはそれを発注し、形作るだけの金がなかった。ルーマニアは貧乏であり、さらに貧乏な農民たちに小麦と言う黄金を作らせていた。そこには効率や機械が介在しない、ただただ原始的な農業があり、つまるところ、この国は辺鄙な田舎でしかなかった。
その間、世界では極東の島国である大日本帝国(※1)とロシア帝国の戦争が推移していた。その戦争はルーマニアに対してなんら寄与する面はなかったが、ロシア帝国はこの戦争で内憂外患となっており、ツァーリと帝国の威光に影が落ち始めていた。
1905年の始めに「血の日曜日事件」が発生し、ロシア帝国軍が民衆に銃を向けるとその傾向は加速した。各地でストライキが勃発し始め、なんの中央統制組織もないこの帝政批判者たちは、それぞれてんでバラバラなそれぞれの目的のために活動し始めた。奉天会戦と日本海海戦でロシア帝国が陸と海においてアジア人に敗北を喫し、6月に入るとこれらの運動はストライキどころのものではなくなっていた。労働者、農民、自由主義者、共産主義者、学生や果てはアナーキストすらもが全国各地で暴動や反乱を起こし始めた。彼らの目的や主義主張は統一されておらず、ただ一つそこになにかを見出すならば「現状の改善」といったものだった。ロシア第一革命の勃発である。
ロシア第一革命においてロシア帝国のツァーリがその九割がユダヤ人だと述べるように、これらの政情不安によりルーマニアへのユダヤ人の流入は止まるわけもなかった。そしてこのロシア第一革命においてルーマニア、ひいてはルーマニア海軍が直面した最大の危機が「戦艦ポチョムキン=タヴリーチェスキー公の反乱」であった。反乱の内容やその主張などについては別に譲るとして、この黒海艦隊最新鋭の戦艦の反乱が、なぜルーマニアとルーマニア海軍の危機となったのか、そしてそれらの詳細と対応についてのみ記述することとする。
1905年6月19日、午前9時頃。スリナにいた砲艦「グリヴィツァ」が運河から淡水をくみ取ろうとしているらしき3本煙突と2本マストの艦影を目撃した。砲艦「グリヴィツァ」の艦長であるミハイル・テオドレスク大尉はそのことをコンスタンツァ港へ電報で報告した。電報は13時に海軍司令長官のコンスタンティン・バレスク提督の元に届き、入手可能な情報をまとめた結果、これはロシア帝国黒海艦隊の主力艦である「戦艦ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」(以下、戦艦ポチョムキン)であることが推測された。この当時、コンスタンツァ港にいたのは防護巡洋艦「エリザベータ」と練習船「ミルチャ」の2隻のみだった。17時30分、防護巡洋艦「エリザベータ」の監視員が戦艦ポチョムキンを発見した。
18時には魚雷艇「イズメイル」を伴った戦艦「ポチョムキン」がコンスタンツァ港の外に停泊していた。戦争大臣と外務大臣がそのことを発表し、現場では港の責任者であるニコラエ・ネグル少佐が彼らの指揮官と話すために戦艦「ポチョムキン」へ乗艦した。戦艦「ポチョムキン」は反乱に伴い将校の大多数が殺されていたため、マツシェンコと革命委員会の指揮下にあり、彼らはネグル少佐に水と石炭、食糧などの物資の提供を求めた。ルーマニア側は即答しなかった。コンスタンツァではこの世界のどの国家も歓迎されない革命集団がルーマニア当局の扱いに憤慨し、コンスタンツァ港をありったけの火力で破壊するのではないかとパニックを引き起こした。傍目から見ても防護巡洋艦「エリザベータ」と練習船「ミルセア」の2隻が、戦艦「ポチョムキン」と魚雷艇「イズメイル」を相手にして勝てるわけがないというのは明らかだった。
ルーマニア王国は6月20日の朝、物資の提供を拒否することをマツシェンコに告げた。コンスタンティン・バレスク提督は、ルーマニア当局は必要物資の提供を拒否したが、武装解除の上で彼ら反政府勢力の亡命を受け入れる用意があることも彼らに伝えた。一方でバレスク提督は戦争省からこの革命勢力が「コンスタンツァへの強硬上陸、ならびにあらゆる権利の侵害を防ぐために海軍全部隊を自由に使ってよい」という命令を受けていた。とはいえ、これは言葉だけ強気で、戦争省がまったく現状が理解できていないか、あるいはやけっぱちであることを示していた。控えめに言って革命勢力がどれほど脆弱で規律がなく士気が低くとも、ルーマニア海軍には戦艦「ポチョムキン」を撃沈できる術を以ていなかった。黒海艦隊の防護巡洋艦「エリザベータ」と練習船「ミルセア」はコンスタンツァにいたが、魚雷艇3隻はガラツィで修理中だった。バレスク提督に出来ることは限られていた。
夕方になると、魚雷艇「イズメイル」が灯台が国際信号FW――入港するべからず――を発しているにも関わらず、コンスタンツァ港へと侵入しようと航行し始めた。港湾警備船が魚雷艇を止めようとしたが、失敗した。
バレスク提督は決断した。防護巡洋艦「エリザベータ」は警戒態勢を取ったままだった。空砲による警告射撃が行われたが、魚雷艇は応じる兆候を見せなかったために、魚雷艇の前方に実弾を発砲し警告するように命じた。防護巡洋艦「エリザベータ」は魚雷艇「イズメイル」の前方に実弾を発砲し、砲音と水柱が港にあがった。魚雷艇は速度を落とし、戦艦「ポチョムキン」の後方に向かってそこで錨を降ろした。この2発の砲音はコンスタンツァにあらたなパニックと混乱を引き起こした。
とはいえ、それ以上の混乱と悲劇は訪れなかった。戦艦「ポチョムキン」は6月21日の1時25分に錨をあげて出航した。精神的にナーバスになっていたコンスタンツァの住民たちは今や砲撃されるのは確定的事実であると思い込んでおり、戦艦「ポチョムキン」が動き出したのも砲撃するために離れたものだとさえ思っていたが、そのような悲劇は起こらなかった。だが明らかになったことがあった。ルーマニア王国にはこのような招かれざる客を持て成すための十分に強力な海軍が存在せず、全国民は招かれざる客の存在そのものと一挙手一投足により混乱に陥れられたのだ。
この厄介な招かれざる客は1905年6月24日の夜に再びコンスタンツァに戻って来た。防護巡洋艦「エリザベータ」が対応に追われ、すぐにゲオルゲ・カンタクジーノ首相に伝令を送って戦艦「ポチョムキン」の再来を知らせた。悲しいことに、カンタクジーノは遣わされた小隊長のトネガルに対して微笑みながら「ポチョムキンは1時間前にセヴァストポリで沈んだと電報があった」と言った。そして防護巡洋艦「エリザベータ」の艦長に対して「この点に関しては指示に従うこと」と伝えた。
一方でマトシェンコらはボートで上陸を果たし、2人の船員が脱走した。彼らの話によれば戦艦には2つの派閥、つまりはコンスタンツァに上陸したいという派閥と、革命の継続を主張する派閥があった。後者は物資の補給をしなければ不可能であり、彼らは再度ルーマニアへ物資の要求を繰り返した。ルーマニアの返答は決まっていた。武装解除した上での下船は認める。しかし彼らは物資の要求を繰り返した上に、武装解除せずの下船の申し出をし始めたが、どこの誰に言っても答えは決まっていた。物資の提供はしないし、武装解除をしないのであれば上陸は認められない。最終的に彼らはこの条件を受け入れることになった。
1905年6月25日13時15分、戦艦「ポチョムキン」はコンスタンツァ港の南北岸壁に停泊した。ロシア人たちが戦艦を去った後、イオルグレスク少佐率いる150名の水兵と将校団が、ルーマニアの三色旗が掲げられた戦艦「ポチョムキン」を引き継いだ。艦内の状況は悲惨なものだった、イコン以外のものは荒れ果てていた。戦艦の中には2頭の牛がおり、ロシア人たちが艦を降りる際にはキングストンバルブが開かれていた。戦艦「ポチョムキン」はコンスタンツァ港に着底した。ロシア人たちが戦艦を捨てていった後日、戦艦「ポチョムキン」から略奪した物品が遥かに低価格でブカレストやコンスタンツァの市場で売りさばかれた。一方で魚雷艇「イズマイル」は武装解除を拒み、コンスタンツァ港から去っていった。
6月26日午前9時、ピサレフスキー副提督の指揮下にある戦艦2隻、魚雷艇4隻からなる小艦隊がコンスタンツァ港にやって来た。ロシア艦はルーマニアの旗を掲げ、21発の礼砲を撃ち、防護巡洋艦「エリザベータ」も礼砲を返し、ロシアの提督に対する礼砲15発を続けた。革命勢力を名乗る無礼な者どもと違い、海軍の礼節がそこにはあった。12時10分には海軍工廠長のイェウスタツィウ・セバスティアンの指揮下でガラツィで修理中だった魚雷艇たちがコンスタンツァ港に入って来た。海軍の悲惨な状態がそこには表れていた。将校不足によって臨時の指揮官を充てることが出来ず、海軍工廠長がその代わりとして指揮を執る羽目になった。1898年の海軍法によれば各港には独自の魚雷艇戦隊とその指揮官がいることになっていたが、それはなされずに節約されていた。金がなければ人もいないのだ。
14時には戦艦「ポチョムキン」のルーマニア海軍の艦長であるイオルグレスク少佐が「ルーマニア国王より。ロシア皇帝の戦艦、クニャージ・ポチョムキン・タヴリーチェスキー。これはルーマニア当局によって統治され、ルーマニア当局によって武装解除させられた」と宣言した。ロシアの将校は「皇帝に代わって、戦艦クニャージ・ポチョムキンを受領する」と応じた。これによって、戦艦「ポチョムキン」が巻き起こした危機はようやく終わったのだった。
この戦艦「ポチョムキン」が引き起こした危機は、ルーマニア海軍の機能不全を明らかにした。ゲオルゲ・カンタクジーノ首相は海軍の予算確保とその整備を約束したが、政治家は約束を守ることはなかった。ルーマニア海軍の予算不足は明らかなままであり、防護巡洋艦「エリザベータ」のような排水量1000トンを超える艦を運用するだけの予算と、整備し維持するだけの予算と、演習によって消費する砲弾を補給する予算はなかった。予算がないならばすることは節約だけだった。将校の数は満足ではなかったし、将校の不足は即応体制の不全につながっていた。特に黒海艦隊はその影響を多大に受け、1916年に至るまで1905年のこの状況のままあまりにも苛烈な試練を受けることになった。
一方でドナウ艦隊は待望のモニター艦の取得に向けて動き始めていた。翌年1906年には1250万レイ(1200万レイとも言われる)の予算が承認された。この予算では4隻のモニター艦と、イギリス製の8隻の魚雷艇の取得に充てられた。この4隻のモニター艦はオーストリア・ハンガリー帝国のトリエステのSTT社造船所でパーツが生産され、ルーマニアのガラツィ造船所で組み立てが行われ、1945年の事実上の敗戦に至るまで、周辺諸国における最強の河川砲艦として君臨することとなる。黒海艦隊において無力感が募り、ドナウ艦隊はその戦力と能力を向上させていく。
だが、ルーマニア王国はそれよりもはるかに大きな問題を放置して忘れようとしていた。それらは解決されたわけでもなく、消えたわけでもなかった。それらは蓄積され誤解され、ただ日陰にあり続けただけだった。
1907年2月、モルダヴィアにおいて農民の反乱が始まった。燃え上がった火はすぐに南部にまで延焼し、非常事態宣言が発令され、陸軍の動員が開始されるほどとなった。
それは4月の始めまで続くことになる、全国規模の農民反乱の始まりでもあった。
※1 ルーマニアと大日本帝国の外交関係が樹立されたのは1902年であった。在ルーマニア日本国大使館によると「牧野駐ウィーン日本国特命全権公使がギカ駐ウィーン・ルーマニア特命全権公使に対し、日本及びルーマニア間の外交関係立希望を表明した書面を送付」したのが1902年である。ルーマニアがこの極東の島国を知ったのはそれよりも古く、17世紀末のことである。モルダヴィア出身の学者、ニコラエ・ミレスクが1675年から1678年にかけてオリエントへの遠征を行い、その経験を元にして執筆した論文「中国について」の最終章「高名かつ偉大な島と日本人について」で当時の日本について触れられている。これは鎖国した日本について記された珍しいものであったため、当時最新の日本についての論文であるとされた。そして1902年の外交関係の樹立以降、日本とルーマニアの外交関係が深まるのは、共同交戦国、つまりは連合国として共に戦うこととなる第一次世界大戦を待たねばならない。