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第5章:鋼の王冠と巡洋艦

 独立後のルーマニアは貧しかった。独り立ちした若い国家には戦費が圧し掛かり、政治的、外交的な問題は勝者であるにもかかわらず未解決で燻っていた。

 1881年5月22日にカロル公が戴冠式を行い、カロル1世として即位し、ルーマニア公国はルーマニア王国となった。戴冠式に用いられた王冠は、鈍い鉄色をしていた。その王冠はカロル公の要望で、ルーマニアの兵士の勇敢さを讃えるために金ではなく鋼で作られていた。プレヴナの戦いで鹵獲されたドイツのクルップ社製90ミリ砲が制作に使われ、砲口付近から製造に必要な分の破片を取り出し、ブカレスト陸軍工廠の職人と見習いらが製造を担当した。素材はベルリンのフリードリヒ・ヴェラート製だと言われている。王冠の重さは1,115グラムになった。世にも珍しい、敵軍から鹵獲した大砲で製造された鋼の王冠である。

 独立後のルーマニアにとっての目下の敵は、間違いなくロシア帝国とオーストリア・ハンガリー帝国という二つの帝国だった。ロシア帝国の態度は相変わらず露骨で表面上の付き合いはまだしも、その根本的な野心が内側に向くにせよ外側に向くにせよ、抑制されることはなかった。ルーマニア独立戦争、つまりは露土戦争において戦ったアレクサンダル2世は1881年3月13日に暗殺され、続いて即位したアレクサンダル3世は内向きにその力を振るった。ユダヤ人は特に阻害された他、ロシア帝国の統治地域ではロシア語の強制を初めとする同化政策が行われた。この皇帝はロシアが単一宗教かつ単一言語の単一国家として強固になると本気で信じていた。

 ハプスブルクの帝国は国境を接する東欧への進出とこの地域の主導権を握り違っており、そして一方でその対象とされたセルビアやルーマニアはオーストリア・ハンガリー帝国の国内に存在する「歴史的領土」を取り戻したかった。結果として、関税戦争が起こった。ルーマニアのブラティアヌ政権は保護貿易主義政策としてオーストリア・ハンガリーとの通商条約を1885年に破棄し、1893年まで続く関税戦争を引き起こした。これは後のセルビアによる「豚戦争」に似通っていた。

 しかし、ルーマニアの産業は根本的に問題を抱えていた。生産企業を促進し、外国資本を優遇する諸々の処置をおこなっていたが、工業水準は低迷し続けた。外国資本の支配が顕著で、歴史ある油田地帯であるプロイェシュティの石油などは27%がドイツ資本、つぎにオランダ、イギリス、フランスとベルギーの参加する諸会社により8%が握られていた。石炭も不足し金属工業も発達せず、工場労働力もあまり多くはなかった。過酷な搾取に晒された労働者たちはマルクス主義運動の労働者サークルへ、そしてルーマニア社会民主党へと発展した。

 さらに深刻なのは農民問題だった。ルーマニアは大地主たちの国だった。数千の大地主が百万の農民家庭と同じ土地を持っていた。ルーマニア王国の耕地の半分は、大地主たちのものだった。彼らはブカレストやパリに住み、請負農場主に賃貸し、その請負農場主はさらに農民に又貸ししていた。このアレンダ制(農地経営請負制度)は中間請負が増えるたびに農地の賃貸料は増加し、農民はその賃貸料を払うために働き続ける他なかった。そこに先進的だとか進歩的であるとかいう言葉は、微塵もなかった。機械や化学肥料のつけ入るすきもない原始的な農業がただただ行われていた。昔ながらの農業が進歩もなく続けられていた。よって生産の増大は機械化によってではなく、新たな耕地開拓によってしかもたらされなかった。そしてこの請負農場主の大部分は、とくにモルダヴィアではユダヤ人であり、それが農村部の緊張を高めていた。この産業は小麦の生産で収益をあげ、それによってルーマニアは主要な小麦輸出国となることができた。しかしそれは飢餓輸出とも言っていいもので、国内ではトウモロコシが主食だった。それが原因で栄養失調ペラグラが生じ、その状態での労働を強いられた。この土地なき農民たちはその家族を含めると国内人口の20%にもなった(※1)


 一方で海軍は1886年から1888年の艦隊編成法により、艦隊拡張予算が確保され、それによって発注された艦は防護巡洋艦1隻、海防巡洋艦3隻、魚雷艇3隻を数えていた。このうちの海防巡洋艦が前章にて解説されたビストリッツァ級海防巡洋艦(実質的に砲艦)3隻の「ビストリッツァ」「オルトゥル」「シレトゥル」である。

 魚雷艇3隻はフランスのルアーブルのFCM社に発注されたナルカ級魚雷艇3隻の「ナルカ」「スボルル」「スムル」で、建造費はそれぞれ228,000レイ、排水量は56トン、速力16ノット、艦首に豚の鼻のように並んだ2門の魚雷発射管を備え、艦中央左右に張り出しが設けられホッチキス37ミリ・ガトリング砲を2門搭載していた。魚雷発射管とあるように、ナルカ級は外装水雷ではなく、自走水雷を搭載した魚雷艇だった。この小さな船は強力な主機によって機敏に動くことが出来たが、安定性が犠牲になっていた。黒海でさえ好天でしか航行できなかった。この前衛的な造船設計の魚雷艇はフランスでは「チャビラブル級」と呼ばれており、その意味するところは「転覆したカヤック」であった。このカヤックには15名の乗員が乗り込んだ。この3隻は「黒海艦隊」に配備された。

  1884年にはさらに4隻の魚雷艇が就役した。ヴェデア級外装水雷艇はドイツのシーヒャウ・ヴェルケで建造された排水量30トン、速力10ノット、乗組員16名、1門のホチキス37ミリ・ガトリング砲と1基の機関銃を装備し、2基の外装水雷を装備している。この外装水雷艇は8トンの石炭を積み込むことが出来、フランス製のナルカ級よりも航続距離に優れ、また安定性も秀でていた。

 

 翌年には緩衝国として設立された東ルメリ自治州において、武装蜂起が勃発し、総督は追放されブルガリアへの併合を求める政治組織ブルガリア秘密中央革命委員会が実権を掌握した。これを受けてブルガリア公アレクサンダルはプロヴディフに入り、ブルガリアがこの自治州を併合したことを宣言した。これは列強の意志に反した行動であり、特にオーストリア・ハンガリー帝国は自国の影響力の低下と捉えて統一に反対した。そしてそれ以上に危機感を持ったのはミラン1世が治めるセルビア王国であり、バルカン半島に強力な国家の誕生は容認できるものではなかった。ギリシャもまたサンステファノ・ブルガリアのことを忘れてはおらず、民衆はこの国家を排斥するべきだと軍事行動を求め、セルビアもギリシャに対してブルガリアに対する共同戦線を持ちかけたがギリシャ政府はそれを拒否した。だが、セルビア王国は止まらなかった。セルビア王国にはオーストリア・ハンガリー帝国という後ろ盾があり、また戦争となれば領土割譲が狙えた。1885年11月14日にセルビア王国はブルガリアに宣戦布告した。


 このセルビア・ブルガリア戦争は、オスマン帝国戦を考えてたブルガリアを驚愕させた。戦力の再配置には一週間ほどの時間がかかり、またロシア帝国軍がいなくなってからのブルガリア軍は高級将校を欠き、最高階級が大尉という有り様だった。一方のセルビア軍はモーゼルM1871を改良したモーゼル・ミロバノビッチ小銃を装備した近代的な軍であり、実戦経験のある将軍が複数存在していた。しかしながら、この戦争はブルガリアが勝利した。(※2)

 1886年3月3日、セルビア・ブルガリア戦争はブカレスト条約によって終結した。ルーマニアの首都ブカレストで結ばれたこの条約は、両国が平和状態に回帰したことを記した簡素なものだった。


 そして防護巡洋艦は、イギリスのアームストロング社に発注されエルズウィック造船所で建造が始まった。建造費は1,512,000レイで、設計はフィリップ・ワッツが担当した。排水量は1330トン、3つのバークの帆走マストを備え、4つの円筒形スコッチボイラーを搭載。2基の三段膨張式蒸気機関が2つのシャフトを回転させ、3翼のスクリューをそれぞれ回転させ、332トンの石炭を積載する。速力は16.5ノット、強制通風では17.5ノットを発揮した。全長は73メートル、全幅10.25m、喫水は4.2m。防護甲板は斜面で88㎜、両端では25.4㎜、上面は38㎜で、102㎜の横隔壁が艦首に取り付けられ、司令塔は76㎜の装甲で保護されていた。小柄ながら武装は強力で、4つの6インチ砲と4つの魚雷発射管を搭載することは確定だった。船は美しく豪奢なヴィクトリア朝の色彩で彩られ、艦首飾りを身にまとい、白い喫水線のある黒い船体に船尾側にわずかに傾いたマストと、黄色い煙突が伸び、上部構造物は白く、磨かれた真ちゅう製の通風口を際立たせていた。2台のクラーク・チャップマン・パーソンズ社製の電圧80ボルトで100アンペアの発電機が搭載され、それにより生成された電力で艦内照明を照らしていた。またこの2台の発電機に接続できる2基のマンギン・ミラー式サーチライトを備えていた。この船は名実ともにルーマニア最大の軍艦であり、初の巡洋艦であり、まさしく最強の軍艦だった。彼女の名は「エリザベータ」と言った。(※3)

 防護巡洋艦「エリザベータ」は1887年5月17日に起工し、12月29日に進水した。1888年の海上公試ではタイン川の河口の穏やかな海で行われ、砲は取り付けられておらず、排水量1263トンの状態で19ノットを記録した。1888年9月19日に最後の海上公試を実施し、その翌月の末にはルーマニアへ向けて出航、約3週間の船旅を経てスリナに入港した。11月5日にはガラツィへ入港して海軍兵器庫の前に停泊して、武装を受け取った。武装は主砲にクルップ社製15cm SK L/35砲がスポンソンに搭載された片舷2門の4門、6ポンド・ノルデンフェルト速射砲が4門、ホッチキス37ミリ・ガトリング砲が4門、そして艦首艦尾両舷にそれぞれ1門ずつの全4門の356㎜魚雷発射管を備えていた。これによって防護巡洋艦「エリザベータ」は完成し、113名の乗員が乗り込んだ。1889年にはカロル1世が艦を訪問し、最初の訓練航海が黒海で行われた。装備された火砲が初めて火を噴き、150ミリのクルップ砲の砲弾は12キロ飛翔し、57ミリのノルデンフェルト砲の砲弾は5キロ先に落着した。37ミリガトリング砲も火を噴いたが、一方で1発15000レイという高額な魚雷はその価格のため発射されなかった。1890年の夏に「小艦隊」が再編成された後、防護巡洋艦「エリザベータ」は武装ブリッグの練習船「ミルセア」砲艦「グリヴィツァ」と「ビストリツァ」魚雷艇「ナルカ」と「スボルル」が「黒海艦隊」を形成した。彼女らはそれぞれが黒海での訓練により航海術を学び、実際に合同で訓練をすることによって連携して戦うということを学んだ。


 防護巡洋艦「エリザベータ」は、イギリスの防護巡洋艦等級で表せば三等防護巡洋艦にすぎなかった。

 しかしながら、彼女はルーマニアの艦隊の誇りであり、その三色旗と独立を力強く体現する存在だった。防護巡洋艦「エリザベータ」がルーマニアの三色旗を掲げて航行するだけで、ルーマニアと言う若い国の独立と国の主権を示すことが出来た。それを利用し、活用しないわけがなかった。最初の練習航海は1891年1月2日から6月9日の間に行われ、コンスタンティノープル、イズミル、キオス、アレクサンドリア、カンディア、バレッタ、ラグレット、トゥーロン、カディス、ラスペッツィア、リボルノ、パレルモ、ピレウス、テサロニキにそれぞれ停泊し、ガラツィへと戻った。

 防護巡洋艦「エリザベータ」はルーマニアが世界に見せる顔の一つだった。1892年にはコロンブスの大西洋横断記念式典、1893年にはグリゴーレ・アンティパなどを乗せて黒海の海洋調査航海、1894年には黒海艦隊旗艦として他の艦艇との合同演習を行い、戦隊行動や砲撃演習、連携攻撃、模擬戦などが行われた。1895年には北海とバルト海を結ぶキール運河の開通式典に参加した。ルーマニアの旗の船がこの地域にやってくるのは、これが初めてのことだった。一方で新たな課題も見つかっており、防護巡洋艦「エリザベータ」は黒海での運用に問題はなかったが、そこから外に出ると横波に非常に弱かった。黒海を出る前にすべての物品は固定されていたにも関わらず、コンスタンティン・マネスク少佐曰く「船はひどく軋み、水から出てきた犬のように揺れる」ことがあった。他には「巡洋艦は艦首から波が来るときは安定するが、艦尾や横から来るときは危険だ」とされた。ともあれ、巡洋艦は無事にキールに到着し、華々しい式典の中でビスマルクがいなくなったドイツ帝国の野心のありようをしっかりと見ていた。1897年には古臭い蒸気外輪船の「ルーマニア」はビストリツァ級と共にルビアとブルガリアのラドゥジェヴァト、クラドバ、ヴィディン、ロンパランカ、ルッセ、シリストラの港を訪れた。バルカン半島の平和は薄氷の上にあり、その上で各国は失地回復のための企みを演じていた。この危うい平和を理解しない者は、次にそれ相応の報いを受けることになる。


 この世紀末、ルーマニア海軍は欧州世界の中で端役ではありながらも、確かにその顔を披露することが出来た。

 1900年にはパリ万国博覧会が開かれた。新しい世紀がやってくる。古い世紀は過ぎ去っていく。

 トランシルバニアではルーマニア人が激怒していた。ハンガリー人と同等の民族権利を求めたトランシルバニア覚書はたらい回しにされ、公開された覚書はハンガリー人の憤怒によって抗議に晒された。覚書を作成した中心メンバー、バナトとハンガリーのルーマニア国民党のメンバーは逮捕され有罪判決を受け、禁固刑や懲役を言い渡された。ルーマニア国内の土地を持たない農民たちは、赤く炎症しひび割れた手の痛みを感じながら、日々のノルマのために働き続けていた。新世紀が始まってなお、それらの人々はなんの恩恵も受けずに抑圧され続けた。平和の声が万博で響く中、薄氷の下では、炎がゆっくりと燃え広がっていた。

 

章外小話


※1 ペラグラはナイアシン不足の状態で日光に当たることで発症する。光線過敏症が生じ皮膚炎が起きるのを初めとして、内臓もまた侵されていき各所に炎症が生じる。症状が進行すると慢性疲労、不眠症、感情希薄化を経て脳症による錯乱、見当識の喪失、幻覚や健忘などが起こり最悪の場合死に至る。この原因は、食事によるものだった。イタリアからバルカン半島などではポレンタというコーンミールを粥状に煮たものが農民の主食となっていた。しかしトウモロコシにはナイアシンが含まれていないため、この偏食によってナイアシンが欠乏した状態となって発症する。16世紀にはすでに確認されていたが、ペラグラの原因が解明されるのは1926年であり、ナイアシンの抽出が成功する1937年以後は沈静化していく。

 ルーマニアの人口の最大80%は農民だった。そのうち小さな土地を持つか、あるいは土地を持っていない農民は60%になる。大地主は国内の耕地の半分以上を所有しており、そのほとんどが農民の連帯を恐れて個々人に賃貸していた。また都市部に住む大地主は財産管理の煩わしさを解消するために仲介業者である請負農場主に又貸しさせていた。小麦は輸出のために生産されていたため、世界市場での穀物価格が農民たちのノルマに直接影響を及ぼしていた。


※2 セルビア軍は近代的な小銃と経験ある将軍を持ちながら敗北した。近代的な小銃は新しすぎ訓練はそれに追いついておらず、指揮官の勘違い、あるいは思い込みで800メートル以上の距離からの斉射をして弾を浪費するなど、武器と現実の戦場でのかみ合わせがうまくいかなかった。弾の発注もはるかに射撃速度が遅かった時代の消費量で概算していたため、在庫は乏しかった。歩兵火力を強調して白兵戦を軽視した戦い方は、敵がまったくいないか民兵相手ならよかったが、そうはならなかった。さらにはミラン1世が軍事に介入したために有能な将軍は効果的な軍団運用の場から排除された。また砲に至ってはルーマニアでさえ旧式扱いだったライット式の方が主力であり、後装式のクルップ砲を持つブルガリア軍には砲火力で圧倒的に劣っていた。士気も低く、軍は反乱の恐れを内包しながら戦わざるを得なかった。熱狂的失地回復運動精神を持つブルガリア人たちは、小隊の指揮がせいぜいだった若い軍隊によって果敢に戦い、セルビア王国の軍を打ちのめし、ついには逆侵攻を開始、セルビア領内のピロトでの戦いで勝利した。オーストリア・ハンガリー帝国の介入と圧力で休戦協定が結ばれ、ブカレスト条約でこの戦争は終結した。



※3 エリザベータはカロル1世の妻、エリーザベト・パウリーネ・オッティリーエ・ルイーゼ・ツー・ヴィートのことである。1869年に結婚し翌年にはマリアを出産するがわずか3歳で夭折し、エリザベータは生涯その悲しみの中で生きた。その後の子はなく、カロル1世とも性格的に相性が悪く不仲だった。しかしながらルーマニア独立戦争では負傷者の看病や世話に専念し、これらの職務での奉仕に報いるためにエリザベータ十字勲章を設けた。女性の高等教育を促進し、さまざまな慈善団体を設立した。国立盲人協会の設立者となり、ルーマニア赤十字社の最初の王立後援者にもなった。カルメン・シンバのペンネームで詩、演劇、小説、短編小説、エッセイ、格言集を執筆し、ピアノやオルガンを弾き、絵画など芸術的要素を備えていた。プロイセンの領主ヴィート家の生まれで、王女であるにも関わらず思想的には共和制の支持者だったが、日記にそれを書くにしてもそれを公言することはなかった。彼女の豊かな想像力とロマン主義的な性格は、王位継承者として養子に迎えられたフェルディナントと侍女エレナとのスキャンダルや、その後の花嫁探しで「夢想家でエキセントリック」として見られた他、フェルディナントの妻となったマリアとも不仲であった。


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