第4章:グリヴィツァの三色旗、火薬庫の誕生、黒海艦隊
第4章:グリヴィツァの三色旗、火薬庫の誕生、黒海艦隊
プレヴナへの第三次攻撃はロシア帝国皇帝アレクサンドル2世と、ルーマニア公国のカロル公が見ている中で開始された。ロシア・ルーマニア軍は8万3千人と424門の砲で構成され、オスマン帝国のプレヴナ駐屯軍は3万4千人の兵士と72門の砲で構成されていた。
9月7日から3日に渡って続いたロシア帝国軍とルーマニア公国軍の砲撃と攻撃は、プレヴナの要塞に決定的な被害を与えることは出来ず、また破壊された箇所に関しても砲撃の合間にオスマン兵たちがこれらを修復する状態だった。オスマン帝国軍は次から次へと弾をロシア兵へ撃ちまくり、その火力によってロシア軍をしばらくは寄せ付けなかったが、勇猛果敢なミハイル・スコベレフ将軍はそれでも何度も堡塁への攻撃を指揮した。ルーマニア軍第3師団を指揮するゲオルゲ・アンヘレスク将軍は戦闘で塹壕の一つを奪取し、ロシア帝国軍もまた尾根の一つを制圧することができた。
本格的な攻勢は9月11日に開始された。スコベレフ将軍は南部の二つの堡塁を奪取し、ルーマニア軍はカロル公の督戦の下でゲオルゲ・マニュ将軍率いる第4師団がプレヴナ要塞のグリヴィツァ堡塁に攻撃を開始し、突撃は3度に渡って破砕された。第10ドロバンツィ連隊の第1大隊の突撃の先頭に立ったゲオルゲ・ソンシュ少佐を含む複数の将校と多数の兵が犠牲となった。そして4度目の突撃によってルーマニア軍はこのグリヴィツァ堡塁を奪取し、第2猟兵大隊のグリゴール・イオン軍曹は退却中のオスマン兵がオスマン帝国の軍旗を持っていることに気づき、それを撃ち、ゲオルゲ・スタン軍曹とヴァシル・ニカ伍長の支援と協力を受けて大隊にこの旗を持ち帰った。
翌日の9月12日にはオスマン帝国軍の逆襲が行われ、連戦と突撃によって疲弊していたスコベレフ将軍の部隊は驚異的な粘りを見せたものの最終的に二つの堡塁の支配権を失って退却した。一方でルーマニア軍はオスマン帝国軍の三度にも渡る攻撃をなんとか撃退し、グリヴィツァ堡塁を死守することに成功した。この時点でロシア帝国軍は2万人の兵を損耗し、ルーマニア軍もまたグリヴィツァ堡塁での戦闘で5000人の兵を損耗していた。オスマン帝国軍の損失はおよそ5000から6000人ほどであった。
そして4度目の攻勢は要塞専門家として名高いエドアルド・トートレーベン将軍がニコライ大公の下に呼ばれ陸軍参謀総長として着任すると、それまでのものとは違うものになった。トートレーベンはプレヴナ要塞のオスマン・パシャをオスマン帝国軍の指揮から孤立させ、包囲し、降伏させることにした。この包囲戦術に気づいたオスマン・パシャは上層部にプレヴナを放棄して撤退する許可を求めたが、最高司令部は撤退を許可しなかった。10月24日ロシア・ルーマニア軍は包囲を閉じ、プレヴナとオスマン・パシャの軍勢を孤立させることに成功した。補給路もなくなったプレヴナ要塞では物資が不足し始め、12月には弾薬と食料が底を突き、飢餓と風邪、疫病が蔓延し始めていた。一方でこれまで頑強に要塞を死守したオスマン兵の士気は高く、未だに降伏を考えてはいなかった。最終的にオスマン帝国最高司令部は撤退を許可し、オスマン・パシャは12月9日の真夜中にオパネッツ村へ突破を試み、橋を使ってヴィト川を渡った。目的地はブルガリアのソフィアであった。オスマン帝国軍はロシア軍の塹壕の第1列を突破したが白兵戦によって消耗していった。援軍によって数的不利に追い込まれたオスマン帝国軍は不利になりヴィト川を渡って撤退を始めたが、そのさなかにオスマン・パシャは足に銃弾を受けて落馬し、彼が死んだという噂はオスマン帝国軍を壊走させた。支柱を失ったオスマン帝国軍はルーマニア軍によって包囲され、オスマン・パシャはルーマニア軍によって捕らえられた。翌日にはオスマン・パシャが降伏を宣言し、その剣と守備隊をルーマニア軍のミハイル・チェルケス大佐、ロシア帝国軍のイヴァン・ガネツキー将軍に渡した。剣はアレクサンドル2世に渡され、ロシア皇帝アレクサンドル2世はオスマン・パシャの勇気に対する報酬としてその剣を彼に返した。
時を少し戻し、1877年の11月6日から7日の夜には、ニコラエ・ドゥミトレスク・マイカン少佐率いるルーマニア沿岸砲兵隊が河川モニター艦「ポドリゴツァ」との戦いを演じていた。河川モニター艦「ポドリゴツァ」は10月末に冬の到来に備えてその他の小型船と共にドナウ川に浮かぶ島の影に停泊しており、これらの島は草木に覆われ対岸からでは視認や砲撃が困難だった。「ポドリゴツァ」を沈めるために新たな沿岸砲陣地を構築するように命令されたマイカン少佐は、島陰に隠れた敵艦を葬り去るために3門の6インチ(152ミリ)迫撃砲を6番ルネサンス砲台から運び込み、200発の砲弾を持ち込んだ。砲台の近くには杭で補強された柱が立てられ、そこに観測手が望遠鏡を持ち込んで「ポドリゴツァ」の様子をうかがう体制となった。
砲撃は11月7日に始まったが視界を覆う濃霧が午前11時まで晴れることが無く、マイカン少佐はモニター艦の状態を確認するために川を渡ってカナパ島に上陸した。望遠鏡でモニター艦を確認してみると「ポドリゴツァ」は島の木々から上部構造物がはみ出さないよう、上部構造物を解体していることが分かった。沿岸砲からの攻撃に「ポドリゴツァ」は反撃し、その精度は高かった。マイカン少佐は「ポドリゴツァ」の砲火の下で監視所を通り過ぎ砲台に戻り、貨物を確認して3人の電信兵を連れてカナパ島と沿岸砲台を電信で結んだ。初弾はいい具合だった。
迫撃砲の発射は午後3時40分まで1発ずつ続き、77発目ともなると、「ポドリゴツァ」の甲板に濃い煙が見られ、その後に爆発した。その後まもなくして「ポドリゴツァ」は沈み始めた。オスマン帝国の水兵は艦から逃げ始め、岸に隠れた。迫撃砲は砲撃を続け、112発の砲弾が発射され「ポドリゴツァ」はさらに3発被弾していた。「ポドリゴツァ」と共に島陰にあったタグボートやポンツーンもまた沈められた。夕方の4時30分には砲音は止み、再び静かなドナウ川の流域が戻って来た。オスマン帝国軍はドナウ川上流、ヴィディンからニコポルに至るまで防御手段を失ったのだ。
ルーマニア軍はまたプレヴナの勝利を拡大し確固たるもとするべく西部のヴィディン要塞へと向かった。西部軍(※1)の指揮官はクザの退位後に摂政委員会に名を連ねていたニコラエ・ハラランビー将軍であり、彼らは氷点下25度の霜や脆弱なインフラ、オスマン帝国軍騎兵の襲撃を受けながらもヴィディン要塞へと辿り着き、スマルダンの戦いの勝利をもってルーマニア独立戦争は終結した。スマルダンの戦いにおいては238人が戦死し、そのうちの5人が将校であった。
露土戦争と呼ばれるこの一連の戦争の中で、ルーマニア公国はロシア帝国海軍黒海艦隊と共同しオスマン帝国海軍を相手にマチン沖海戦で勝利し、プレヴナ要塞への道を血で舗装しながらグリヴィツァ堡塁を奪取し死守し、包囲戦に参加し、オスマン・パシャとプレヴナ守備隊の降伏を見届け、バルカン半島内陸部への連絡路となるヴィディン要塞を包囲し、スマルダンの戦いで悪天候の中で戦いこれに勝利した。犠牲は大きかった。4302人の戦死・および行方不明者、3316人が負傷、戦病者は1万9904人を数えた。このような戦争の代金は巨額で、オスマン帝国への朝貢金だった91万4000レイぽっちで賄えるわけもなく、1億レイもの巨額な戦費がルーマニアに圧し掛かった。戦争省の予算は不十分で1300万レイしかなく、この赤字を紙幣の発行(1877年に5レイ、10レイ、20レイ、50レイ、100レイ、500レイ紙幣が発行された)と住宅ローン債権で補ったがこれは数年に渡るインフレを引き起こした。市民からの寄付などで924万7千レイが集まり、また戦争中に自発的にルーマニア軍に食料、動物、衣類、包帯、薬品などが提供された。ルーマニアの各州は戦時徴発として5万9千頭の牛と食料が集められたが、その支払いは戦後に行われた。
露土戦争の終結は東ヨーロッパをスルタンの手から解放するといった、華々しいものではなかった(※1)。ロシアとオスマン帝国で結ばれたサンステファノ条約ではルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立を承認することと、ブルガリア人の自治国を新たに設立することが明記された。しかしこのブルガリア人の自治国というのは、東は黒海沿岸の都市ヴァルナやブルガスから西はスコピエとヴァルダル川流域まで、南はサロニカとエーゲ海沿岸にまで及ぶことになっていた。このサンステファノ・ブルガリアは、ブルガリアがロシア帝国の傀儡、その影響圏に入り、ロシア帝国の影響力がバルカン半島に大きく食い込むことを危惧した列強諸国の介入もあり、続くベルリン条約でその領土は大きく削られた。マケドニアはオスマン帝国領に戻され、ブルガリアとイスタンブールの間には緩衝国として自治領の東ルメリアが新たに設けられた。
ルーマニアは戦勝国であり独立を勝ち取ったが、サンステファノ条約ではそれに見合う結果を得られてはいなかった。ルーマニアは列強による独立の承認、戦傷賠償金、ドナウ・デルタとドブルジャの割譲を要求したが、ロシア皇帝はオスマン帝国に対してルーマニアの独立承認とドブルジャの割譲を認めさせた一方で、その交換条件として1865年にモルダヴィア公国に返還したカフル、ボルグラード、イスマイルなどの諸都市を含むベッサラビア南部をロシアに譲渡させた。ルーマニアは自国の要求が容認されるよう努めたが、効果はなかった。1878年6月から7月にかけておこなわれたベルリン会議ではイオン・ブラティアヌとミハイル・コガルニセアヌの両人が発言し、列強は二人の発言に耳を傾けたが、ルーマニアに関する条項はまったく修正されなかった。ベルリン会議はルーマニアの独立を承認し、衰退した古びた港のコンスタンツァやマンガリアを含むドブルジャ北部とドナウ・デルタの譲渡は認めたが、その代わりとしてカフル、ボルグラード、イスマイルなどの諸都市を含むベッサラビア南部はロシア皇帝へ返還するほかなかった。カロル公はこの決定に終始不服であったが、ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクがコンスタンツァやマンガリアの経済的可能性を考慮して妥協するようにと手紙を送り説得された。
ベルリン条約は第44条(※2)に新生国家に対しその臣民の宗教の間にいかなる差異ももうけないことを義務付けていたが、これもまたルーマニアからしてみれば失望に値するものだった。1866年のルーマニア憲法は非キリスト教徒が帰化する権利を認めておらず、この措置はドブルジャのイスラム教徒ととりわけロシア帝国から移住してきたユダヤ人に対して適用された。特にユダヤ人は土地所有の権利を奪われていたために都市に密集し、世紀末には都市人口の19%を占めるまでになったが、一方で農村部では彼らは宿屋の主人や金貸しになり、モルダヴィアではとくに土地の管理人が多く、その立場のために住民との争いを起こすことがしばしばあった。伝統的なキリスト教的反セム主義に代わって、経済的な反セム主義が現れ始めた。このことはパリの世界イスラエル人連盟によって取り上げられ、ベルリン条約の条文をよりどころにして西欧列強に対してルーマニアの独立承認条件として憲法第7条の削除を求めるように要求し、ルーマニア人たちはこれを内政干渉であるとして拒否した。激しい対立が生じ、1879年10月にブラティアヌ率いる政府は条文の修正を認め、ユダヤ人はルーマニア市民となることができるが、ただし個々人の帰化証明書によるとし、また土地所有は以前と同様に認めなかった。これに列強は満足し、1880年2月にフランス、イギリス、ドイツが正式にルーマニアの独立を承認した。しかしながらユダヤ人の移住はその後も増加し続け、ユダヤ人問題はくすぶり続けた。この反セム主義は年月を重ね、ついにはルーマニアの政治社会における一勢力にまでなっていくことになる。
一方で、一時とはいえブルガリア人による広大な国家、サンステファノ・ブルガリアが存在し、そして列強によって切り裂かれた。ブルガリア人はロシア帝国の約束したこの「失われた土地」を忘れなかった。この戦争は一つの終わりではなく、新たな火種を東ヨーロッパ、バルカン半島に埋設した戦争でもあった。
露土戦争終結後、ルーマニア海軍はドナウ川を航行して独立戦争を戦った兵士たちを本国へと移送した。この生まれて30年足らずの小さな、成功した海軍は、ルーマニア南部の国境であるドナウ川の制河権を確保する強力な河川艦隊の必要性を痛感した。1880年にはオーストリア・ハンガリー帝国のトリエステ技術工場製の砲艦「グリヴィツァ」が就役した。排水量110トン、乗員30名、57ミリ・6ポンドノルデンフェルト速射砲2門、37ミリ砲2門を備えていた。
ルーマニア海軍では1883年から1885年、1886年から1888年、1906年から1908年の三段階に及ぶ海軍再軍備計画が計画された。そのほとんどは予算不足によって部分的に行われたものの、艦船の調達は止まることはなかった。
1882年には第一次海軍再軍備計画の艦艇たちがやって来た。ヤーロー社から2隻の装甲水雷艇「ショイム」「ヴルトゥル」が購入された。排水量は12トンで速力は16.5ノット、8名が乗り込み、外装水雷で武装していた。これは外装水雷艇「ランドゥニカ」よりも大きく、素早いだけでなく、装甲化された司令塔を備えていた。この2隻に続いてテムズ鉄工造船所から3隻のラホバ級河川砲艦が配備され、これは排水量45トン、速力8.5ノット、37ミリ砲1門と機関銃1基で武装していた。またテムズ鉄工造船所製の排水量104トンの警備艇「アレクサンドル1世」も就役し、速力は9ノット、乗員20名、12トンの石炭を積載し、37ミリ1ポンド砲2門と機関銃2基で武装していた。警備艇「アレクサンドル1世」は砲艦「グリヴィツァ」に続く2隻目の航洋軍艦であった。
続いて1888年にはテムズ鉄工造船所製116トンのビストリッツァ級海防巡洋艦(実質的に砲艦)3隻の「ビストリッツァ」「オルトゥル」「シレトゥル」が就役した。このヴィクトリア朝の趣のある艦の建造費はそれぞれ125,000レイで、煌びやかな艦首飾りに前後にマストを備え、真ん中には一本煙突を備えたこの艦の乗員は30名、速力は13ノット、12トンの石炭を積載し、57ミリ・6ポンドノルデンフェルト速射砲とホッチキス37ミリ・ガトリング砲をそれぞれ1門備えていた。喫水線が白で描かれた黒い船体に、水線下部は赤で、船尾側にわずかに傾いているマストと煙突、それから上部構造物は黄色で塗装されていた。
イギリスは沿岸警備隊の船だと思っていたが、これは海軍の船だった。海軍といってもドナウ川国境が途方もなく長いルーマニアにおいては、新しい砲艦が河川で運用されるのはどういうわけか自然なことだった。この当時、ルーマニアの貿易のほとんどすべてがガラツィ、ブライラ、スリナなどのドナウ川の河川港を経由して行われており、コンスタンツァの開発はまだ途上だった。
1890年、航洋型砲艦「グリヴィツァ」の就役から10年が経過したこの年の夏、ルーマニア海軍はそれまでの「小艦隊」を近い将来に「黒海艦隊」と「ドナウ艦隊」の2つの部門に再編成することを取り決めた。この「黒海艦隊」の基地は新たに獲得したドブルジャのコンスタンツァに設けられ、「ドナウ艦隊」の基地はこれまでどおりガラツィに所在することとなった。この時になってようやく、ルーマニア海軍は世間一般でいうところの「海軍」を編成したと言っても良い。その設立から独立戦争に至り、マチン沖海戦やドナウ川を航行していた「小艦隊」はそのまま「ドナウ艦隊」へと類別されている。つまるところ、ルーマニア海軍の設立の血脈はこの「ドナウ艦隊」のほうにあるのであった。
そしてもちろん、「黒海艦隊」と言ったところで船が湧いてくるわけでもなければ、関心が向けられるわけでもない。当面の予算は「ドナウ艦隊」に注ぎ込まれていた。この航洋艦隊である「黒海艦隊」よりも河川艦隊である「ドナウ艦隊」の方が発言力も装備も火力さえも上という状態は、今後しばらくルーマニア海軍において継続することとなる。
章外小話
※1西部軍の戦闘序列は第1師団、第2師団、第4師団を主戦力として、予備として第5師団、ロッシーニ騎兵旅団が付随していた。主戦力の師団は2個歩兵旅団、1ないし2個カララシ騎兵連隊、1個砲兵連隊で構成されており、予備の第5師団は民兵大隊、第1カララシ騎兵連隊、砲兵隊(第1砲兵連隊から2門、カラファトの沿岸砲8門、領土砲兵の混成)で、ロッシーニ騎兵旅団は第1と第2ロッシーニ騎兵連隊で構成されていた。
※2 列強諸国の東ヨーロッパに対する見方は厳しかった。列強諸国は自らの国家の影響力と地域圏でのパワーバランスをまず念頭に置いており、自分たちが独立を承認した新生国家を等しく見下していた。必要であればこの新生国家はさまざまな手段を用いて傀儡のようにすることもできるとさえ思っていた。オーストリアの外相のアンドラーシ・ジュラは1873年、オーストリア近東の諸国は「乗りならされていない馬のように扱うしかない野蛮なインディアンであるから、手にした鞭で威嚇しながら、もう一方の手で麦を与えるべきである」と述べたという。特にオーストリア・ハンガリーに隣接するセルビア公国は矢面に立たされていた上、汎スラヴ主義や1844年にイリア・ガラシャニンの「ナチェルタニエ」などにより中世セルビア帝国への領土拡張思想を腹に抱え込んでいた。これら列強の駒扱いされたバルカン諸国は、しかし列強の思惑よりも遥かに巨大なそれぞれの「失地回復思想」を持っており、意図したように動く駒にはならなかった。これらは二度行われたバルカン戦争とサラエボ事件などで起爆し、世界中を巻き込む戦争となった他、ユーゴスラビアの崩壊によって再び炸裂した。チェスのポーンが、将棋の歩が、記録にあるもっとも素晴らしい自国領土を頭に描き、盤上で暴れ回ったのだ。
※3 しかしながら列強であるはずのロシア帝国は国内のユダヤ人に対してこの平等原則を守らなかった。むしろ1881年にアレクサンダル2世が暗殺されるとロシア各地でユダヤ人の襲撃や虐殺、いわゆるポグロムが発生した他、20世紀に入ってもロシア帝国は反セム主義志向を止めなかった。むしろ国内の不満などを解決するために、その不満のはけ口をユダヤ人へ誘導したためにポグロムは止まることはなく、むしろ大規模かつ残虐に行われることになった。このためロシア国内から逃れたユダヤ人は周辺諸国へと流入していき、ルーマニア国内においてもユダヤ人移民が増え続けた。