第三章:ルーマニア独立戦争、マチン沖海戦、プレヴナの頓挫
第三章:ルーマニア独立戦争、マチン沖海戦、プレヴナの頓挫
戦争が開始された時、ロシア・ルーマニア軍はまずドナウ川沿いの船を破壊して回り、機雷を敷設してドナウ川を封鎖した。これによってオスマン帝国海軍の艦艇がドナウ川の渡河地点や諸都市を脅かすことや、オスマン帝国の兵がドナウ川を渡河してルーマニア国内へ侵攻すること、そしてなによりこれら河川で活動中のオスマン帝国海軍の艦艇の脱出は困難となった。
1877年4月には戦争省の命令によってルーマニアで初の沿岸砲兵隊が設立され、これらはルーマニア海軍の艦隊をロシア指揮下に編入する見返りとしてロシア帝国軍から提供された当時最新の1877年式6インチ砲16門と12門の6インチ迫撃砲を受け取りこれはルーマニア海軍の水兵によって構成された320名からなる沿岸砲兵隊で運用された。独立戦争にともない旧式化していたライット式12ポンド砲も沿岸砲兵隊に配備され、順次増員する手はずとなっている。ルーマニア沿岸砲兵隊は海軍のニコラエ・ドゥミトレスク・マイカン少佐が指揮を執ることとなり、ドナウ川沿いのカラファトの野戦砲陣地が沿岸砲兵隊により沿岸砲台へと作り変えられていった。対岸にヴィディンを有するカラファトは1番から8番までの沿岸砲台を有し、ヴィディンの街とその周辺で活動しているフランス製の河川モニター艦「フェス・エルイスラム」級の「ポドリゴツァ」に睨みをきかせていた。
露土戦争当時のオスマン帝国海軍は産まれてからまだ20年も経っていないルーマニア海軍にとっては強大な相手であったが、その戦歴と状態は芳しいものではなかった。かつて西欧キリスト連合が束になって立ち向かったスルタンの艦隊は、18世紀中期からロシア黒海艦隊を相手に敗北を繰り返し、19世紀に入ってはギリシャ独立戦争で戦列艦を保有するオスマン帝国海軍は遥かに軽武装で小振りな武装商船が主体のギリシャ海軍に対してさえ負け続けた。キオス島沖では2隻の火船によって旗艦が炎上し艦隊指揮官が戦死、サモスの戦いやジェロンタスの戦いでもギリシャ海軍の火船戦術によって完膚なきまでに敗北を喫していた。イギリスとフランスとロシアがこの戦争に介入してくると、英仏露連合艦隊によってオスマン帝国海軍はナヴァリノの海戦で決定的な敗北を喫した。ギリシャの独立によって、オスマン帝国海軍はギリシャ人船員たちを永遠に失った。
オスマン帝国の改革運動のタンジマートに並行して海軍は大量建艦を進め、装甲艦の購入も進めたが、クリミア戦争のシノープの戦いではまたもやロシア艦隊により大打撃を被り、タンジマートもまた1875年4月3日にオスマン帝国が経済破綻し債務不履行、事実上の破産に陥ったことで挫折した。
そんな「ヨーロッパの病人」にはいまだに21隻の主力艦と173隻のその他さまざまな船を抱える、世界第3位の規模を誇る腹をすかせた金食い虫が巣食っていた。優秀なギリシャ人の水兵と下士官を失い、経済は破綻し、名誉も誇りも粉々に打ち砕かれてあるのは海原に浮かぶこの艦隊だけだった。広大な帝国を守るためにはこの艦隊を強化し、維持しなければならなかったが、それだけの人材と産業と資金はオスマン帝国にはもはや存在しなかった。あちこちの分野にイギリス人をはじめとしたお雇い外国人がおり、彼らなしにはもはや海軍の維持は不可能だった。オスマン帝国海軍は1877年、そのような状態で戦争状態に陥っていた。
1877年5月25日から26日にかけての夜、ガラツィの下流、ブライラの東にある都市マチン近くでオスマン帝国海軍のコンスタンティノープル帝国工廠製のモニター艦「セイフィ」120ミリ砲2門と、フランスのFCM社ラ・セーヌ造船所製の排水量335トン、速力8ノットの「フェス・エルイスラム」150ミリ砲2門に76ミリ砲6門、蒸気外輪船「クルチ・アリ」に対して、外装水雷艇「ランドゥニカ」「セニア」「ディジット」「ツァレヴナ」(ランドゥニカ以外の3隻はロシア帝国海軍の外装水雷艇)の4隻が縦1列に並び、夜闇に紛れて低速で近づいていった。
外装水雷艇「ランドゥニカ」はロシア帝国海軍の名称として「ツァーレヴィチ」と呼ばれ、ロシア帝国海軍のドゥバソフ中尉が指揮を執り、機関整備士と航海士、ルーマニア海軍の連絡将校としてイオアン・ムルジェスク少佐が乗り込んでいた。
外装水雷艇の戦隊はオスマン艦隊からおよそ60メートルの位置にまで接近することが出来、ロシア海軍のドゥバソフ中尉は「ランドゥニカ」を攻撃に向かわせたが、接近されていることに気づいた「セイフィ」は3回砲撃を行ったものの命中せず、4回目の砲撃を行う前に「ランドゥニカ」が外装水雷を水面に伸ばしてモニター艦「セイフィ」の中央から船尾にかけての中ほどに突き刺し、それが炸裂した。外装水雷が起爆して強烈な爆発が起き、モニター艦「セイフィ」の破片が天高く飛び散った。半分沈みながらも「セイフィ」が発砲してきたが、後続のシェスタコフ中尉指揮の「セニア」が第2撃となる外装水雷を突き刺してこれも炸裂すると、最初と同じようにまたも破片が天高く飛び散り船は壊滅的な状態となった。10分後の朝の3時、モニター艦「セイフィ」は沈没した。5名が操る排水量10トンの外装水雷艇が、最大装甲厚76mmの120mm砲2門を備えた、51名が乗り込んだ排水量400トンの敵艦を損害無しで撃沈したのだ。8000レイぽっちの小舟が、オスマン帝国海軍に数十万フランの損害を与えたのだ。
ドゥバソフは第2次攻撃では奇襲とならず危険であると判断して撤退していったが、撤退は攻撃よりも困難だった。「セイフィ」の悲劇よりも遥かに些末なことだが、「ランドゥニカ」は水浸しで蒸気ポンプはこの小さな船から満足に排水してくれず、全員がバケツを持つ羽目になった。そんな状態で「セイフィ」が沈没するまでトルコ人は小銃を持ち出して射撃してきたが、運よく誰も死なずに「ランドゥニカ」は後退することができた。残った2隻のオスマン帝国海軍の艦艇は逃げる外装水雷に発砲を続けていた。これもまた命中しなかった。魚雷艇たちが離脱してしばらくすると、戦いの最中には沈黙を続けていたカエルたちが再び合唱を初め、静かな夜が戻って来た。
この決定的勝利によりドゥバソフとシェスタコフ両中尉は聖ゲオルギウス勲章を贈られ、ルーマニア側もまたイオアン・ムルジェスク少佐が聖ウラジーミル勲章と独立宣言で新たに制定されたばかりのルーマニア星勲章を授与された。
ロシア帝国軍の渡河作戦はルーマニアの艦隊、外輪蒸気船「ルーマニア」河川砲艦「フルルゲル」王室ヨット「シュテファン3世」外装水雷艇「ランドゥニカ」の支援の下で部分的に行われ、またルーマニアの沿岸砲も渡河中のロシア帝国軍を援護した。1877年6月26日にはロシア帝国軍がドナウ川を渡河して対岸で勝利を収めると、ルーマニア海軍艦艇はロシア帝国との共同管理から外され、ドナウ川の防衛と哨戒任務に当たることとなった。
開戦してからの3か月でシムニツァの戦い、スヴィシュトフの戦い、要塞都市ニコポルの陥落という勝利の一方で、ロシア帝国軍は文字通りの壁にぶち当たる。オスマン・パシャ率いる精強なオスマン帝国軍と要塞化されたプレブナである。ドイツのクルップ社の鋼製後装式火砲とアメリカ製のリピーターライフル、マルティニ・ヘンリーライフルなど最新の火器で武装し、複数の堡塁によって防御されているプレヴナは、シュルドナー将軍がまず攻撃を行って外縁部に一時取りついたものの、すぐに逆襲にあって数千人の犠牲を払っていた。
塹壕と堡塁が時間と共に増えていく上に、さらなる増援を受けたオスマン・パシャの要塞と軍団に対して、ロシア軍はプレヴナの包囲を図り攻勢をかけたが、最終的に7300名の兵士を失い、堡塁や塹壕から叩き出された。ロシア帝国軍が弱いというわけではなかった。勇猛果敢なミハイル・スコベレフ将軍はよく戦い、アレクセイ・シャホフスコイ将軍の騎兵隊も堡塁を一時は奪取していた。このプレヴナを陥落させオスマン・パシャの軍団を無力化することが必要な状況で、ロシア帝国軍は二度も血塗れの敗北を喫した。ロシア帝国軍は態度を変え、ルーマニア軍の参戦を申し入れた。(※1)
すでに4月6日の時点で、ルーマニア軍は動員を開始しており、予備役だけでなく常備軍と郷土防衛隊に至るまですべてをかき集めていた。4月25日には軍の動員が完了し、戦争計画に従って部隊の編成が行われた。ルーマニアは12万5000人以上を動員し、そのうちの作戦軍は6万6000人の兵、1万2300頭の馬、190門の火砲となっていた。さらには若い男性による民兵の訓練と組織も行われ、1万4000人から3万3000人に動員がかけられていた。初期の戦略としてルーマニア軍はドナウ川の防衛、特に対岸にオスマン帝国の要塞の存在する箇所、そこでも国境西端のカラファトと首都ブカレスト方面に脅威ありとして、その防衛に二つの軍団を分けて配置していた。カラファト―ブカレスト間の650キロメートルは郷土防衛隊、ドロバンツィの予備軍が防衛を担当した。ロシア帝国軍がドナウ川を渡る最中、ルーマニアの砲兵隊は沿岸を航行するオスマン帝国軍の艦船を度々砲撃して追い散らし、彼らを援護していた。またロシア帝国軍の要請で、占領した要塞都市ニコポルへ第4歩兵師団を派遣して占領維持と管理も行っていた。
プレヴナでの二度の敗北の後に、ロシア帝国軍元帥ニコライ大公からブカレストのカロル公へと電報が送られた。ルーマニア軍の合流と連携が、ロシア帝国軍の行動を容易にする上で必要だという内容であった。
7月19日にはルーマニア軍はドナウ川を渡り、7月23日には再編成を行いアレクサンドル・セルナト将軍指揮下には4万3414人の兵、7170頭の馬、110門の火砲が置かれた。また引き抜かれた軍の穴を埋めるドナウ川の国境の防衛隊も再編成され、オルテニアから民兵が動員された。
そして8月にアレクサンドル・セルナト将軍率いるルーマニア軍(※2)はブルガリアの大地に足を付け、行進し、プレヴナでロシア帝国軍と肩を並べ、戦列を組んだ。
章外小話
※1 オスマン帝国軍のバルカン方面軍は20万人を数え、10万が要塞や駐屯地に配置され、10万が作戦軍として存在していた。プレヴナで防戦指揮を執るオスマン・パシャの旗下には2万以上の兵力があり、また他にもチェルケシア人のバシ=バズーク(奴隷兵)がおり、プレヴナの防御陣地はソフィアと繋がる道路からさらに増援や物資が送られ続けていた。オスマン帝国軍はスコップや銃剣などあらゆるものを使って塹壕を掘り、堡塁を強化し、ロシア帝国軍よりも優れた外国製の小銃や火砲で激しく抵抗した。ロシア帝国軍が前装式を据え直したM1867ロシアン・クルンカ後送式小銃や、配備が始まっていた単発式ベルダンライフルを使っている一方で、オスマン帝国軍はイギリス製のマルティニ・ヘンリー銃やアメリカ製のピーボディライフルのコピー品、ウィンチェスターM1866連発銃を使い、火砲に至ってはドイツのクルップ社製鋳鉄後送式のもので火力面で優位に立っていた。
ルーマニア軍がプレヴナへ到着する8月にはロシア軍のバルカン方面軍16万のうちの10万がプレヴナへ注ぎ込まれていた。ロシア帝国軍は斥候を出し、プレヴナへの補給路を寸断するために2万の兵力を割いてロヴェチを攻め落とした一方で、ロヴェチ防衛へ派遣したオスマン帝国軍の兵力はプレヴナに戻り、再編された。ロヴェチの陥落によって補給・連絡路が遮断されたとはいえ、オスマン帝国軍は依然として丘の上の強固な防御陣地に3万を超える兵力が展開していた。
※2 ルーマニア軍の装備は主要な歩兵連隊はアメリカ製の1866年から1871年に製造されていたピーボディライフルを使用し、これは側面にパーカッション式のようなハンマーのある単発のレバーアクション式小銃だった。マルティニ・ヘンリー銃がハンマーレス方式でレバーアクションによってコック状態になるのに対して、サイドハンマー方式のピーボディは排莢をレバーアクションで行うのみで、弾を装填したら射撃の直前にハンマーをフルコック位置に起こす必要があった。一方で郷土防衛隊のドロバンツィはいまだにニードルガンと呼ばれるドライゼ銃を使っていた。砲兵はドイツ製の4ポンド砲と9ポンド砲を装備しており、騎兵隊はハンガリーのユサールに影響を受けた軽騎兵、ロッシーニ連隊と、郷土防衛隊のカララシ連隊が存在した。アレクサンドル・セルナト将軍率いるルーマニア軍は第3師団および第4師団を主戦力とし、9個騎兵連隊(ロッシーニ2個連隊、カララシ7個連隊)に3個騎馬砲兵、予備として3個歩兵旅団と1個砲兵連隊が付属していた。また主戦力とされる第3師団、第4師団にもドロバンツィが組み入れられている通り、常備・予備のすみ分けは部隊単位でしか行われず、前線では歩兵連隊とドロバンツィ連隊が共に戦った。