第二章:政治的混乱、保守党の安定、自由党の憤怒
第二章:政治的混乱、保守党の安定、自由党の憤怒
カールの就任はしかしながらルーマニア海軍にとって幸運とは言えなかった。クザ(※1)は海軍の近代化と拡大を目指していたが、カールに治世にあってはその動きは停滞化した。そこにあったのは極度の混乱であった。
ルーマニア公国の目下最大の問題はクザ公の退位によって、連合公国は瓦解の危険があることだった。オスマン帝国の勅令はクザ公の在位期間のみ公国の連合と統一政府を認めており、この退位の後にオスマン帝国は実際に国境に兵を展開し始め、その勅令を実行に移そうとしていた。しかし統一政府は前述のとおりにナポレオン三世の推薦を受けたホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール・アイテル・フリードリヒ・ゼフィリヌス・ルートヴィヒ(当時二十七歳)を説得し、国民投票でも賛成多数(賛成68万6000票、反対234票)で承認、1866年5月22日には統一議会は正式にホーエンツォレルン家のカールを公として宣言し、ルーマニア語に合わせてカロルと称した。列強はこの決定に従い、またオスマン帝国も10月23日の勅令によってこれを承認した。こうしてワラキア=モルダヴィアの連合公国は、最終的にオスマン帝国によってその統一が承認されるとともに、貨幣鋳造権と兵員三万の軍隊を保持する権利も認められた。
同時にドイツ系王室を擁立したことによって、これまで親仏であったルーマニア公国が改めてプロイセン(のちのドイツ)へとなびく切っ掛けともなった。ルーマニア公国国内の親仏派は(ロシア帝国とオスマン帝国のどちらの統治にも失望していたために)多かったが中でもフランスへの留学者や亡命者が多い自由主義者たちはその傾向が強く、普仏戦争でベルリンへの共感を表明したカロル公に対して彼ら示威行為を行い、それは反王朝的な傾向まで帯び始めていた。ついには自由主義者たちによるプロイェシュティ共和国を名乗る反乱が起きたほどであった。反乱は15時間ほどで鎮圧されはしたが、これらに対してうんざりしたカロル公は退位さえ考えたものの、保守派のラスカル・カタルギウ(※1)が保守主義者を政党にまとめあげて組閣し、カタルギウは保守党によって選挙を厳密に監視したために5年間も政権を維持することが出来た。
この間、普仏戦争がフランスの屈辱的な敗北に終わり、ナポレオン三世が失脚し、混乱と没落に叩き落された一方で、ルーマニア海軍には第一章で記述した河川砲艦「フルルゲル」がトゥーロン造船所で誕生した。船は武装していない状態でルーマニア海軍に引き渡され、本国への回航はイオアン・ムルジェスク大尉が行った。排水量わずか90トン、速力7ノットのこの軍艦は、非武装であるためボスポラス海峡を通過して黒海を巡り、ガラツィ造船所に辿り着きそこで武装を施された。元密輸船の蒸気外輪船「ルーマニア」や王室ヨットの「シュテファン3世」と違って、この軍艦は最初から軍用に建造されたものだった。艦首と艦尾にラムを備え、装甲を施され、ルーマニア海軍はこの艦にクルップ社製の砲を据えた。大国の大洋海軍から考えればこのちびでみすぼらしい軍艦は、河川海軍として誕生したルーマニア海軍にとって特別な、複数の意味を持つ軍艦でもあった。
新気鋭の軍艦の就役と回航の成功の最中、ルーマニアは政治的暴力を避け、王室の人気を復活させ、さらには1873年10月にはオーストリア帝国・ドイツ帝国・ロシア帝国による「三帝同盟」へと接近していった。複雑な情勢の中でこの新生国家は、ウィーン、ベルリン、サンクトペテルブルク、ローマに外交代表部を開設し、ルーマニアの鉄道をオーストリアとロシアの鉄道網に接続させ、近隣諸国と郵便協定を結び、またオスマン帝国のコンスタンティノープルからは拒絶されたものの、いくつかの国とはじめて通商協定を締結することが出来た。
ルーマニア公国はようやくカタルギウ政権下で安定し、着実に西欧社会に手を伸ばしているかのように見えたが、オスマン帝国の保護国という立場からは逃れられなかった。カロル公のルーマニア公国は法的にはオスマン帝国の従属国であり、それはホーエンツォレルン家のカロル公もオスマン帝国のスルタンの配下であるということを意味していた。この屈辱と並行して東欧では1875年のヘルツェゴビナ蜂起、翌年にそれを支援するためにセルビア公国・モンテネグロ公国が宣戦布告するも大打撃を受けて事実上敗北し、ブルガリアの4月蜂起の失敗とオスマン帝国による虐殺(ブルガリア人4万人が犠牲になったとされる)があり、ルーマニアの世論は立ち上がったキリスト教徒への共感を示していた。
ここでカタルギウ政権は野党の自由党に敗北し、かつてのクザ公を退位させた「大連合」の重鎮であり、カロル1世をルーマニアへ招いた人物であり、そしてプロイェシュティ共和国の反乱で彼らの思想に影響を与えたとして一時逮捕されたこともある、自由主義者の中心的人物、自由党の大黒柱、イオン・ブラティアヌが内閣を支配した。露土戦争が終結してしばらくするまで、外交の処理は外相として任命されたミハイル・コガルニセアヌが行った。
東欧に流血と暗闇が差し込み始めた1875年には、イギリスのヤーロー社によって建造された外装水雷艇「ランドゥニカ」がルーマニア海軍に就役した。この小さな船は排水量10トン、長さは14メートル、最高速度8ノット、乗組員5名といったもので、武装は外装水雷があるだけだった。一本の煙突が伸び、砲弾のようなものが先端にくっついた長い棒を積んでいる小さな蒸気舟といった見た目だ。外装水雷は単純かつ強力な兵器で、長い棒を伸ばしてこれを水面下に突き入れ、敵艦に接触させて炸裂させるというものだった。これは棒の長さ=射程距離というものであり、当然外装水雷艇は敵から攻撃を受けてしまえばひとたまりもなく、また外装水雷を水面下に突き入れずに炸裂した場合は自らも損害を被る可能性があるなど危険なものでもあった。しかしながら外装水雷艇は相手が巨艦であっても、成功させることが出来れば撃沈も可能であるという金のない国にとっては持っておいて損はない代物でもあった。外装水雷艇「ランドゥニカ」は、そうしてルーマニア海軍の艦列に加わった。
自由党はボヤール出身を内包してはいたが、目下の既得権益を安定化させ大地主の地位を守護する保守党勢力とはやや異なり、オスマン帝国への屈従と従属に対してはもっとも苛烈であったかもしれない。彼らは自由急進主義者と言っても良い。東欧がオスマン帝国の軍隊によって踏みつけられている中で、その自由党が与党となるのも無理からぬことであった。彼らは早速1876年6月にオスマン帝国とその保護国、列強宛の覚書の中で、
「ルーマニア国の独自性」
として「ルーマニア」という国名の承認を求めたが、この結果は芳しくなくオスマン帝国の大宰相府はこれを無視し、列強は拒否し、ロシア帝国は「東方問題」を悪化させるなと釘を刺した。コガルニセアヌの外交官特権の取り下げまでちらつかせてきた。だが、それでブラティアヌなどの自由党と議会は立ち止まらなかった。そうして背景もあってこの東欧流血の時代、ルーマニアはセルビア公国とモンテネグロ公国には好意的中立を保ち、オーストリア・ハンガリーと、そしてロシア帝国へと接近していった。
国内に戻った外相ミハイル・コガルニセアヌはロシア外交官のアレクサンドル・ネリドフと個人的に秘密会議を行い、共同参戦と引き換えにロシア側の承認を取り付けた。自由党の中心的人物であるCAロゼッティとブラティアヌと共に、コガルニセアヌはロシア軍の軍事通行権を認めるようにとカロル1世への説得を行った。一方で政治的混乱の続くフランスは、それでもルーマニアの強力な擁護者でもあったため、コガルニセアヌはルイ・ドゥカズ外務大臣に助言を求めたが、答えはルーマニアがロシア帝国へ肩入れする場合、他勢力はルーマニアへの保護をやめるだろうというものだった。コガルニセアヌはその答えを留意しつつも、決定的な瞬間にはフランスは我々を支援してくれると思うと、希望を述べたにとどまった。
1876年12月に発布されたオスマン帝国憲法は、火に油を注ぐ出来事だった。この憲法の内部でルーマニアを、
「特権を賦与されし帝国の一州」
と呼称していたからであった。これに対してブラティアヌは言った。
「バヤズィトとメフメトのヤタガンをもってしても、ルーマニアの山中まで攻め入ることはできなかった」
1877年春、カロル1世はこの難局の打開を政府へ命じた。自由党が与党の議会はロシア帝国の軍事通行権を認める案をカロル1世に認めさせ、4月16日にはこの協定によってロシア帝国軍の国内軍事通行権が認められた。また、ルーマニアの保有する少数の軍艦はルーマニアとロシアが共同で運用することが定められた。
ルーマニア側はこの時、ロシア帝国軍が何時こちらにやってくるのか連絡を受けていなかった。またロシア帝国はロシア帝国で、ルーマニアはオスマン帝国への道であって、自国の新しい保護国程度にしか考えていなかった。ロシア帝国はルーマニア軍の参戦を許すつもりはなく、功績なき者に戦後に交渉の席を与えるつもりもなかった。ロシア帝国は本心では4月の協定通りに「ルーマニアの領土を擁護し尊重」することを望んでおらず、オスマン帝国という病人の支配するコンスタンティノープルに至るまでの土地を、可能な限り征服し支配することを望んでいた。ルーマニア公国もそのことを理解していたが、オスマン帝国のスルタンの下で臣従するよりはマシだった。交渉の余地はなく、ロシア帝国はルーマニアを道として扱った。
4月24日にはモルダヴィアのウンゲニ市にあるエッフェル橋からロシア帝国軍が続々と進駐し始めた。1876年のプルト川の春の氾濫で多くの鉄道橋が流されるか破壊され、フランス人技師のギュスターヴ・エッフェルが再設計と再建を行ったこの橋は、3日前に完成したばかりであった。ロシア帝国軍はウンゲニ市を経由してルーマニア国内へと進駐していき、宣戦布告を行った。露土戦争が始まった。
ルーマニアはいまだに宣戦布告していなかったが、5月3日にはオスマン軍の砲兵隊がブライラとドナウ沿岸のルーマニアの諸都市を砲撃し、5月11日にはブカレストの下院が賛成多数でオスマン帝国へ宣戦布告した。また10日後の5月21日には賛成多数で「ルーマニアの完全独立」を承認した。同時にオスマン帝国への朝貢金91万4000レイの送金を取りやめ、すべて国防費に転用した。だがしかし、独立宣言は列強によって受諾、承認されなければ意味のないものだった。
5月22日はカロル公がブカレストに到着しルーマニアの公になってから11周年の日であり、大きな祝祭が催された。午後2時30分に至るまでルーマニアの独立宣言について、そしてその宣言を可決した議会への感謝と諸々の偉大さ、勇気についてのスピーチなどが続いた。そしてその日の夜にはプロイェシュティから列車でロシア帝国軍元帥ニコライ大公が到着し、カロル公は彼らを出迎えた。
ルーマニアが真に独立を勝ち取るには、ルーマニアの持ちうる力で、オスマン帝国へ打撃を与える、軍事的介入が必要不可欠であった。まず交渉の場に座らなければば、生きるも死ぬも口にできないのだ。
章外小話
※1 アレクサンドル・イオアン・クザは「公務よりもジャマイカのラム酒が好きな、トランプ遊びばかりしている男」と評された人物で、連合公国の成立や数々の近代化による啓蒙君主的な側面はありはしたものの、問題は彼のスタンスや私生活のほうだった。彼の公としてのスタンスはナポレオン3世のような権威主義的なもので、自由主義者からしてみると議会を尊重しているとは思えなないもので、一方の保守派に対してはボヤールの法的特権廃止に始まって一連の農地改革により、完全に彼らを激怒させてしまっている。また妻にロゼッティ家のエレナ・クザがいたにもかかわらず子供に恵まれず、一方でセルビア公アレクサンダル・カラジョルジェヴィチ統治下でワラキアに亡命していたオブレノヴィッチ家のミロシュ・オブレノヴィッチの元妻、マリア・オブレノヴィッチを愛人として2人の子供を産ませていた。さらには産まれた2人の子供はエレナに面倒を見させていた。
とはいえ、彼が諸々の改革を行ったこと、ルーマニアに初めて鉄道を敷いたこと、情報機関を設立したことなど数々の功績があるのは確かではある。
―ミロシュ・オブレノヴィッチとマリアの間にはミランという子供がいたが、出産してすぐに2人は離婚している。ミロシュ・オブレノヴィッチは外国人傭兵としてワラキアで死に、マリアは豪華な貴族生活に夢中でクザの愛人となった。ミランは両親を若くして失い、いとこのミハイロ・オブレノヴィッチに養子縁組となって、彼の家族となった。ミハイロ・オブレノヴィッチはカラジョルジェヴィチに追放されたセルビア公ミハイロ・オブレノヴィッチ3世その人であり、彼がセルビア公に復位して後に1868年6月10日に暗殺されると、14歳のミランは摂政のもとでセルビア公に即位し、ミラン・オブレノヴィチ4世となった。後にセルビア王国を宣言する時に、彼はミラン1世として戴冠している。
※2 保守党による実質的な政治的安定期は5年と短かいようで長い期間に渡り、カタルギウは自由党によって非愛国的反動主義者と糾弾されたが、独立戦争の開戦によって内閣全体の弾劾案は取り下げられた。
※3 イオン・C・ブラティアヌは自由党(国民自由党とも)の大黒柱である。ムンテニア地方のアルジェシュの裕福なボヤールの生まれで、1848年のワラキア革命には友人のC・A・ロゼッティ(※4)と共に参加して臨時政府の警察庁長官となった。ワラキア革命が鎮圧されるとパリへ亡命し、フランスがルーマニアの自治と連合を支持してくれうよう運動を行うが、扇動罪で逮捕され罰金と禁固3か月の判決を受け、さらには精神病院に監禁された。1856年に彼はワラキアへ戻り、クザ公の治世下で自由党(国民自由党が正式名称)を設立し、最終的にクザ公を「大連合」によって排除した。プロイェシュティ共和国の反乱ではブラティアヌが影響を与えたと疑われて逮捕されているが、解放されている。ブラティアヌはルーマニアの成立において重要な人物のひとりであり、また彼の遺したブラティアヌ家はこの後もこの政党からルーマニア史に関わっていく。
※4 C・A・ロゼッティはビザンチン・ギリシャ人とイタリア・ジェノバを起源とするモルダビアのボヤール、貴族家の出身で、ワラキア革命にも参加していた人物。独立宣言と露土戦争への軍事的介入に積極的な姿勢を崩さなかった。ブラティアヌとは友人でワラキア革命では臨時政府秘書官、ブカレスト警察署長、新聞「ルーマニアの赤ん坊」の編集者だった。革命失敗後はフランスへ亡命して雑誌「ルーマニアの未来」と雑誌「ルーマニア共和国」の発行に関わり、民主主義国家による公国の統一を書いている。帰国後は進歩急進主義な新聞「ロマヌル」の編集者だった。ロゼッティは新聞や雑誌などを駆使して政治闘争を行っており、1858年にはブカレスト印刷労働者協会を設立して議長になっている。また1867年にはルーマニア文学協会の創設メンバーの一人となり、これは後にルーマニア・アカデミーとなる。独立戦争後はブラティアヌと対立し、自由党内の対立派閥を率いていた。