第9章:第一次世界大戦参戦前のルーマニア
ここでは第一次世界大戦にルーマニアが参戦する前、この国家がどのような状態であったかを述べる。
ルーマニアがドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国と同盟していたのはすでに述べたが、おそらく読者はこう思ったであろう。
「なぜ奴らは、領土問題のある二重帝国と同盟しているのか?」
である。これにはルーマニア王国なりの思惑があり、まず彼らはドイツ帝国を仲裁役として二重帝国との間で民族と領土の問題を書面で、つまりは条約として解決できると考えていた。
バルカン半島においてベルリン会議が諸国の道筋を大きく変えたのはご存じの通りで、ルーマニア王国はホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家の王室を戴くこともあり、ドイツ人たちとこうした関係であることを選んだ。また、この同盟は経済的にも軍事的にも非常にメリットが大きかった。ドイツ経済圏への輸出入だけでなく、世界最強と名高い陸戦戦力を保有し技術力でも高度なドイツ帝国が友軍であるのだから、これは間違いではない。こうした同盟関係にあったルーマニア王国は、ぬるま湯につかっていた状態だったとも言える。まったく不運なのは経済的にも軍事的(ドクトリンではなく主に装備面において)にも深いつながりのあった両国が、敵国となってしまったことだった。
また、ルーマニアにおける第一次世界大戦を取り上げる上で、ブカレスト要塞についてもここに述べる。
独立以前からルーマニアにおいては首都を守り抜くための要塞についての研究がすでに存在していた。これは戦争においては首都の喪失は避けなければならないという当時の原則に基づいたもので、またこれらの防衛施設は周辺諸国との関係に少なからぬ影響を良い意味で与えると考えられていた。それだけでなく、軍事的にもブカレストはワラキア平原において攻勢するも防衛をするにも始点となり得る要衝だった。
1882年になるとより具体的な計画の策定のためにゲオルゲ・マヌ将軍(※1)が委員長を務める委員会が設立されたが、根本的にルーマニアには近代的な要塞に対する知識が圧倒的に不足していたため、外国の協力を要請した。最初にドイツ帝国が選ばれたが外交関係の悪化を懸念し、中立国であるベルギーを選択した。カロル1世に選ばれたのはベルギーのヴォーバンとも呼ばれる軍事建築家のアンリ・アレクシス・ブリアルモンで、彼は実際に現地を訪れてこの都市要塞の計画を立案し、1883年に最初の予算が計上され、1884年に要塞は3つのセクターに分割されて建造が開始された。
・セクターI(北東方面)堡塁1から9および堡塁の側面砲台
・セクターII(南東方面)堡塁10から13および堡塁の側面砲台
・セクターIII(南西方面)堡塁14から18および側面砲台
最終的にブカレスト要塞の建造費は、当初8827万5080レイと見積もられていたが建造途中の修正等によって上昇し、総額1億1150万レイにも及んだ。これは当時の年間陸軍平均予算のおよそ3倍を注ぎ込んだことになる。要塞は20年以上に渡って作業が行われ建設が続き、1899年に完成した。要塞は道路と鉄道で結ばれた18の大型堡塁と、それらの堡塁の間にある18の独立砲台で構成されている。このブカレストを取り囲む環状要塞にはおよそ240門の砲が設置されていた。直径は21.5kmから23kmの間のいずれかとされており、要塞施設の総面積は120ヘクタール、収容可能兵数は3万3000名である。大型堡塁はタイプにもよるが、その土塁の厚さはおよそ2メートルから5メートルとされている。一部には水堀によって囲まれた独立砲台もあり、建築年数の長さから複数の種類が混在している。また、堡塁と独立砲台の間は移動式攻城砲によって補強されていた。以下はその攻城砲の一覧である。
・1891年式クルップ・105㎜榴弾砲
・1887年式ロシア製152.4㎜沿岸砲
・1868年式クルップ・78㎜野戦砲
・1885年式クルップ・150㎜砲
・1883年式アームストロング152.4㎜砲
もろもろをあわせ、1914年時点でブカレスト要塞には1100門の大中小さまざまな火砲が配備されていた。これらは調達国も口径も雑多なものであり、特にクルップ社のものが多かったことから彼らが大戦に参戦した時、その追加調達手段がほぼ失われたという点は無視できない。
さて、これらの要塞は第一次世界大戦前どころか、戦中においてもかなりの規模の要塞であった。が、ルーマニアが大戦に参戦する前にベルギーにおける戦いが行われ、これらの近代要塞に対する見方が変わってしまった。そもそも、このブカレスト要塞はドイツ帝国軍によって破壊され攻略された要塞と同じアンリ・アレクシス・ブリアルモンの設計で、それが無力化されたともなれば軍事的な価値が低下するのは当然のことだった。
取り急ぎ、ルーマニア軍は要塞にある火砲を要塞砲としてではなく野戦砲などに仕立て直すことにした。これは要塞の火力よりも、歩兵師団の火力を底上げすることが重要であると認識していたためだった。この認識は間違っていなかったが、根本的な弾薬及び砲身や部品の追加調達問題に関しては解決できていない。ルーマニアにも砲弾製造工場はあったが、当時の列強であるドイツ帝国のそれと比較して砲弾の質も火薬の質も悪く、信管も不良気味であった。その他、ルーマニア軍の実戦経験の不足は参戦後、トゥトゥラカン要塞の戦いにおいて露見することになる。
ルーマニア海軍の状況は陸軍より当然悪い。そもそも地政学的に陸軍ありきであるルーマニアにとって、海軍で出来ることと言うのは限られている。その限られた責務以上のことをする能力は、当然ない。
唯一の航洋軍艦である防護巡洋艦「エリザベータ」の状態が予算不足によって悪化の一途をたどっていることは既に述べた通りで、これが良くなることはついぞなかった。第一次バルカン戦争の際、彼女はイスタンブールのルーマニア居留地と大使館保護のために130名の海軍陸戦隊を引き連れて権益保護に活躍した。第二次バルカン戦争中、このちっぽけな巡洋艦はドナウ川河口の守備のためにスリナに留まっていたが、危惧していたブルガリアの海軍はほとんどその実力を発揮せずに戦争は終わった。彼女はいまだにフランス・サンシャモン製120ミリ単装砲を4門と75㎜砲4門、そして魚雷発射管が残っていたが、大戦を前にしてその装備と状態では希望は持てるわけがない。
唯一、ルーマニア海軍がある程度供えられたと言えるのは、やはり河川艦隊の分野であろう。「ブラティアヌ級」の「イオン・C・ブラティアヌ」「ラスカル・カタルギウ」「ミハイ・コガルニセアヌ」「アレクサンドル・ラホヴァリ」は、世界的にも誇れる河川モニター艦であった。また、魚雷艇に関してもそれなりの数と規模があった。かつてオスマン帝国に一矢報いた「ランドゥニカ」は外装水雷から自走式魚雷を装備するなど近代化がなされ、いまなお現役にあった。
以下公式に、ルーマニア海軍の艦艇分けである。
「ドナウ艦隊」
・河川モニター
-ブラティアヌ級4隻(680トン)
・砲艦
-ビストリッツァ級3隻(118トン)
-ラホバ級4隻(45トン)
・魚雷艇
-カピタン・ニコラエ・ラスカル・ボグダン級8隻(47トン)
-ヴェデア級4隻(30トン)
-ランドゥニカ(10トン)
-ブジョレスク、カティンカ(非武装のリバーボートから改造された2隻)
「黒海艦隊」
・巡洋艦
-エリザベータ(1330トン)
・魚雷艇
-ナルカ級3隻(56トン)
・機雷敷設艦
-アレクサンドル・セル・ブン(104トン)
・砲艦
-グリヴィツァ(110トン)
・練習艦
-ミルチャ(360トン)
見ての通り、黒海艦隊は悲惨である。これらの艦艇は1880年代に購入されたもので、あらゆる面で完全に時代遅れと化していた。
そのため、ルーマニア海軍は1910年頃に外洋艦隊向けに駆逐艦6隻を取得するという考えを撃ちだし、これは海洋海軍の創設を目的とした第四次軍備計画となるはずであった。
最終的にルーマニアがイタリアに頼んだ艦は、すさまじく中途半端なものになった。排水量1500トン、速力25ノットから30ノット、主砲120ミリ―――これは駆逐艦でも偵察巡洋艦でもない、その真ん中のようなものだ。
この契約は激しい議論を巻き起こした。この時期はとある雑誌に仮名で掲載された現役海軍士官の海軍人事政策批判から、次々に離職者が商船へ流出している最中だった。
最終的に予定6隻の内、駆逐艦4隻が1913年5月25日にイタリア・ナポリのパティソン造船所に発注された。建造のため674万8433.70レイの前払い金が12月16日までに造船所に支払われた。建造自体は順調に進んでおり、1915年4月の国務大臣にあてられた報告書の時点で「艦の材料と部品に、艦の冠する名前の頭文字が刻まれることになっている」と記されている。
このため、イオン・I.C.ブラティアヌは、フェルディナンド1世に勅令案を提出した。これには4隻の名称がそれぞれ「ヴィフォル」「ヴァルテジュール」「ヴィスコル」「ヴィジェリア」と名付けられ、国王は承認した。この4隻は結局のところ時すでに遅し、イタリア海軍が接収しそれぞれ「アクィラ」「ファルコ」「ニッビオ」「スパルヴィエロ」として運用することになる。
これとは別にラ・スペツィアのフィアット造船所に1隻の潜水艦が発注されていたが、これも戦争勃発によって建造前に破綻した。潜水艦に関しては海軍内でも多くの支持者がおり、新聞「ウニヴェルスル」が海外に潜水艦を発注するための募金を募ったところ約300万ゴールドレイもの大金が集まり、このうちの100万をフランスのシュナイダー社に支払ったが、これも戦争勃発により徴用され、ルーマニアが支払った100万はそのままルーマニア向けの軍需物資の代金に転用された。
注文したものが来ないため、ルーマニアはいつもの手に頼ることになる。ありものを使うのだ。
ルーマニア海事局には、いくつかそれなりの大きさの艦艇があったし、民間の商船もバカにはならないものだ。
ない袖は振れぬ、これは個人的にルーマニアの直面してきた問題に度々起こりうるものだと考えている。もっとも、まず袖がないのは、そもそも買う金がないからなのだが。
※1 ゲオルゲ・マヌ将軍は独立戦争時の第4歩兵師団の師団長であった。プレヴナとヴィディンの戦いに参加している。1877年5月にはルーマニア人で初めて「武勲勲章」を受勲した。
マヌ将軍はドイツの士官学校卒でルーマニア政府の承認を受けて少尉としてプロイセン陸軍に勤務していた。母国に帰国後はルーマニア軍に入隊し、ルーマニア砲兵隊の設立に携わっている。1874年から1877年までブカレスト市長を務め市内に近代的な水道網の構築に手を付けた。これは在職後に実際に1879年まで長さにして10キロメートルにわたる水道管が設置された。
独立戦争後は1888年まで砲兵総監の地位にあり、辞任後は1889年まで陸軍大臣を務めた。また1889年11月5日から1891年2月15日まで首相を務めた後、1895年に引退するまで政治にかかわっている。