第一章:ルーマニア海軍の設立
見よ、偉大なる影、ミハイ、シュテファン、コルヴィーネ
ルーマニア人たちが、あなたの子孫たちが
武器を手にし、その中に火をともし
「自由な人生、さもなくば死」と皆叫ぶ。
―――ルーマニア国歌『目覚めよ、ルーマニア人』3番より
第一章:ルーマニア海軍の設立
ルーマニア海軍の設立は、ワラキア公国とモルダヴィア公国の合同に伴い両国の公として、モルダヴィア公アレクサンドル・イオアン・クザが選出されたことから始まると言ってよい。
クザはモルダビアのボヤール(※1)、地方貴族の出身で、軍人でもありヨーロッパの近代的な教育を受けた人物だった。また公となる以前からワラキアとモルダヴィアの連合をかねてより講演で主張していた人物でもあった。クザが複雑な外交関係の中で奮闘し、自分の在位中のワラキア・モルダヴィアの連合を宗主国であるオスマン帝国に認めさせ、単一の議会と内閣を組織するなど、数多くの改革を行うということは、ルーマニアの設立にとって歴史上重要ではある。クザ公は寄進修道院所領の世俗化、農地改革、メートル法採用、刑法典と民法典整備、教育制度整備などを次々と行ったが、海軍の歴史にとってそれはあくまで出発点でしかないために割愛する。
1860年10月22日、ルーマニア海軍は既存のワラキア公国の艦隊とモルダヴィア公国の艦隊を統合することによって産まれた。これはアレクサンドル・イオアン・クザ公の勅令173号『海軍を単一の艦隊への統合』によるものだった。もちろん、この当時にブカレストの士官学校には海軍部門などなかったため、海軍士官はフランスのブレスト海軍基地内にあるブレスト海軍訓練施設で訓練を受けていた。海軍最初の司令官はニコラエ・ステリアード大佐で、彼は国境警備隊からモルダヴィア艦隊へ移籍しスクーナー《エマ》の艦長を務め、統合前はモルダヴィア艦隊の司令官であった。彼は1863年12月27日までその任にあり、この小さな艦隊の近代化と設立に尽力した。
海軍基地ははじめ、1861年にイズマイルに置かれたが、1864年にはブライラに移転され、さらには1867年にガラツィに移った。ガラツィはその後、最初の船員訓練学校が1872年に置かれ、将校、下士官、船員の訓練をすることとなる他、現在にも繋がるルーマニアの造船所、ガラツィ造船所が置かれており、ルーマニア海軍にとって歴史的にも実務的にも重要な都市であり続けている。
この当時、ルーマニアの国境で黒海に面した沿岸部と呼べる地域は現在のそれとは大きく異なっており、コンスタンツァなどのドブルジャ地方やドナウデルタの大半はオスマン帝国が領有し、チリア支流の対岸のイズマイルを含む土地をルーマニアが領有し、サシク湖の端から端までを支配していた。これは現在のウクライナのオデッサ州、歴史的には南ベッサラビアやブジャクと呼ばれる地方の一部で、この国境が黒海にまで細長く伸びていた。ロシア帝国とオスマン帝国を隔てるように、この細長い国境、海へと至る国土は存在していた。
海軍の最初の目標は、まずこの小さな艦隊を組織化し、訓練し、そして拡大することだった。統一艦隊といってもワラキア・モルダヴィア両艦隊を合わせて総計6隻(それぞれ3隻ずつを保有していた)ぽっちで、すべての船員を数えても275名しかいなかった。黒海沿岸に面しているだけでなく、南はブルガリアとの国境のドナウ川、そしてガラツィの東でドナウ川に合流するプルト川を有するルーマニアにとって、海軍(意味合い的には『河川海軍』である)は必要不可欠な存在であった。守るにせよ攻めるにせよ、二つの大河によってその行動が制約されるために、この河川の制河権を失うことは膝から下を切り落とされるも同然だった。ドナウ川だけならまだしも、プルト川にまで敵が跋扈するような事態となれば、陸軍はどこへ行くことも出来なくなり、河川輸送は止まり、ゆっくりと死する運命にある。
拡大を目標とするルーマニア海軍の動きは、しかし宗主国であるオスマン帝国とボスポラス海峡の存在もあってなかなかに奇妙な形態とならざるを得なかった。武装した軍艦がボスポラス海峡を通過することは許されなかったために、他国で建造された艦を回航しては国内のガラツィ造船所で武装を取り付けるという方式を取るしかなかった。こうした方式でルーマニア海軍は、独立戦争となる1877年から翌年まで続く露土戦争までに以下の艦艇を揃えた。
外輪蒸気船「ルーマニア」(元密輸船、排水量130トン、速力8ノット、ホッチキス37ミリガトリング砲2基、ノルデンフェルト機関銃2基)
河川砲艦「フルルゲル」(排水量90トン、速力7ノット、87ミリ・クルップ砲2門)
王室ヨット「シュテファン3世」(おそらくプロイセン製80ミリ砲2門)
外装水雷艇「ランドゥニカ」(排水量10トン、速力8ノット、外装水雷)
外輪蒸気船「ルーマニア」は、もともとトゥルグオクナ塩鉱山の塩を河川を使って輸送するためにコンスタンティン・シオカンが四つのはしけと共に購入したもので、密輸が発覚した後に罰金を支払わなかったために政府に接収されたものだった。艦隊に引き渡された当時の名前は「プリンス・コナチ・ヴォゴリデ」で、船はオーストリアのリンツに所在するマイヤー造船所などで何度か修理を行いつつ、武装を追加されていった。この時、初めからホッチキス37ミリガトリング砲が装備されたのではなく、イタリア製120ミリファルコネット砲や、後に「シュテファン3世」に搭載する80ミリ砲などが乗せられた可能性もある。この船はルーマニア海軍の軍艦として初めて、ルーマニアの三色旗を掲げた艦となり、二つの公国の連合を祝しアレクサンドル・イオアン・クザ公によってその名を「ルーマニア」とすることが決定された。
「ルーマニア」の洗礼式は1862年8月2日、ブカレストにほど近いドナウ川に面した都市ジュルジュで行われた。この都市はルーマニア=ブルガリアの国境でもあるドナウ川に面した都市であり、古代ローマ時代からこの周辺は外敵との戦いにおいて戦いの舞台となった場でもあった。洗礼式には国防大臣のサヴェル・マヌーが出席し、多くの聴衆の前でスピーチを行った。
「海軍の至上の使命は、その航海術において人々の息子たちを啓蒙することであり、失われた支配を取り戻し、ルーマニア人の名を上げるように彼らに促すことである」
コンスタンティノープルの外交官であるコスタケ・ネグリもまた、この「ルーマニア」が、
「海原を支配する勇敢な子犬を産むこと」
を望んだ。
すでに独立の意志は固く、ルーマニア海軍はクザ公の下で新設された組織としては豊富な資金を運用できた。しかしながらアレクサンドル・イオアン・クザ公の改革は、あまりにも性急に過ぎ、大地主たち保守派の反対派を産み出し、さらには改革の味方となるはずの自由主義者もナポレオン三世に似たクザの権威主義や私生活、後継者のいないことなどを指摘して敵に回った。そして結果的に1866年2月11日、これら反対派「大連合」の一団と近衛将校がクザの私室に押しかけ、彼に無理やり退位宣言に署名させた。これに伴い、アレクサンドル・イオアン・クザは海外で生活することを余儀なくされた。
後継者はナポレオン三世の推薦を受けたホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール・アイテル・フリードリヒ・ゼフィリヌス・ルートヴィヒ、後のカロル1世であった。クザ公を退位させた後のルーマニアはカールの到着まで混乱状態にあったが、イオン・ブラティアヌによって彼がブカレストに到着してからはある程度の安定を見せた。1866年6月29日にルーマニア憲法が採択され、オスマン帝国への依存を認めないことが憲法で明記されていた。公が変わってもその方針は貫かれ、ルーマニアは独立への道を進み続けるのだった。
章外小話
※1 現在のルーマニアと呼ばれる地域は、ワラキアとモルダヴィアという二つの公国からなっており、貧しい農民が住み、現地の貴族階級たるボヤール(※2)が支配し、オスマン帝国のスルタンへの忠誠の義務を負ったギリシャ人の公が統治する土地(※3)であったが、17世紀初頭にギリシャ独立戦争が勃発して、このギリシャ人たちファナリオティスは弱体化(※4)し、両公国は現地のルーマニア人のボヤールの中から選挙で公を選ぶことが出来るようになった。これをオスマン帝国が認めざるを得なかったのは、この土地が数度に渡るロシア―トルコ戦争の係争地であり、ロシア側の圧力があったためでもある。
しかしながら、ロシア帝国が軍政支配した時代の両公国は幸福とは言えなかった。ロシア帝国は嫌われていたトルコ人やファナリオティスたちよりも内政に干渉し、啓蒙主義的で保守的な官僚理論によって改革を行っていった。ほどなくしてロシア人はそれまでの支配者と同様に嫌悪されるようになり、ブカレストとヤシで反乱が発生し、ロシア帝国とオスマン帝国は合同でこれを鎮圧した。これによってルーマニア人はラテン的である自らの民族的ルーツにアイデンティティを見出し、ラテン「兄弟民族」であるフランス文化に傾倒し、ボヤールも留学しその教育を受け、ついにはクリミア戦争でオスマン帝国が弱体化した隙に、フランスの支援もあり両公国はアレクサンドル・イオアン・クザを公として選出して、この混沌とした東欧の中に産まれることとなる。
※2 ワラキア・モルダヴィアのボヤールはスラブ系国家のそれと同じもので、西欧のそれとはやや異なる貴族階級のことだった。しかしながらワラキアとモルダヴィアの地において、この地方貴族たちの影響力と政治力は決して無視できるものではなかった。多くの公が彼らによって殺され、罷免されている。その中にはあのヴラド3世の名もある。クザ公の発布した1864年憲法はボヤールから法的特権を排除し、貴族階級は公式には存在しないことになった。ボヤールは保守的大地主という新しい形をとり、自らの保持する富を用いて選挙に介入し、経済政策や政治的方針を大地主の既得権益の保護やその存在の公認を推進した。一方で(経済的に)下層のボヤールや、フランス革命に刺激されたボヤールは自由主義者の政治闘争に加わった。他でもない自由党のブラティアヌ家やロゼッティ家はボヤールであった。
※3 大北方戦争中にモルダヴィア公国のディミトリエ・カンテミール公がロシア帝国のピョートル1世に寝返り、オスマン帝国に反旗を翻した出来事があって以降、およそ1世紀に渡って両公国はファナリオティスの公によって支配されていた。それまでは現地のルーマニア人の貴族たちの間から公を選ばせ、オスマン帝国がそれを公認することになっていた。
※4 ファナリオティスは秘密結社フィリキ・エテリアの設立に深く関わっており、そのメンバーとなっている者もいた。ワラキア蜂起の中心的人物のトゥドル・ウラジミレスクはフィリキ・エテリアではないが協力関係にあり、ギリシャの反乱と同時期にワラキア蜂起を起こしている。ワラキア蜂起はファナリオティスに支配されていたルーマニアにおいて、ルーマニア人によるルーマニアを試みた民族闘争であったが、ロシア帝国の強力を受けられなかったことと、ボヤールたちとの衝突・逃走によってウラジミレスクの法的正当性は失われ、蜂起は失敗した。1848年には青・黄・赤の三色旗、のちのルーマニアのナショナルカラーの図案が初めて世に生れた、市民革命であるワラキア革命が起きたが、前述のロシア帝国とオスマン帝国合同軍によって鎮圧されている。