子を捨てた母の気持ち
今日も読んでくれてありがとう。
宿の会議用の部屋は、時折書類をめくる音が支配している。私の未だに握る娘の手から、おびえが伝わってくる。どれほどの恐怖を味わったのか、今のわたしには想像することも出来ない。マリアは掠われてから、それほどの時を置くこと無く、私の下に帰ってくることが出来た。
それでも、心の傷は大きかったようで、あれからこの子は幼くなってしまった。其れまでの教育は、ほぼ一からやり直しになってしまい。お医者様の見立てでは、一時的なことではあるが、無理をすれば人格の崩壊を招くかも知れないとのことだった。
既に第三王子との、婚約のための手続きに取りかかっていたのに、このままではこの話は白紙になってしまう。この誘拐は、其れを阻むための敵対勢力の攻撃だと思われるけど、攻撃している者が特定できていないため、どう対処して良い物か判らなかった。
婚約はもしかすると、難航するだろう。敵をあぶり出してからで無ければ、娘の命が危ないかも知れないから。そんなときに、良い感じに新たな駒を入手できた。これは良い兆候かも知れない。
「悪くは無いですね。どうせ、命令ならあたしら、断ることなんて出来ないし」
私の斜向かい側に座って、雇用契約書を熟読していた娘が、私の瞳を覗き込みながら言った。栗色の瞳には、敵意が表れているように感じられる。
思わずため息が漏れた。私は好かれることなど無いのは、判っているのだけれど、やはり辛い。
たとえ、自分の知らないところで決められて、娘を捨てられたとしても。その後探すこともせずに、あきらめた時点で、子を捨てたひどい親には違いない。憎まれても仕方が無い母親なのだ。
でも、生きていたことを知ったなら、どんなことをしても目の届くところに置いておきたい。そのために、今回はかなり無理を通した。マリア・ド・デニム伯爵令嬢の秘密の護衛。万が一のための身代わりとして、雇い入れる。
此れまで、周りの人間の言いなりになってきた、アリス・ド・デニム伯爵夫人の意志を通したことであった。
ナーラダのリコは、平民とは思えない落ち着いた、仕草で契約書にサインをする。其れは十二歳の娘の物とは思えない。しっかり教育を受けた者のみが、纏う知性であった。
私はそんな娘の姿に、心の奥で暖かい感情があふれてくる。自然と、ほほが緩んだ。




