クリス・バートランドの憂鬱
ディックの背中を眺めながら、クリス・バートランドは深い溜息を付いた。彼の歩みに会わせながら、後ろを静かに付いていくしか、彼女には取りあえずの選択肢が無かった。これは拒否権の無い、彼女には如何することも出来ない仕事の成り行だ。
日も高くなって、辺りの空気は少し蒸し暑くて。自分の身体から、如何しても消せない血の臭いが気になって仕方が無い。この時間には、彼女の仕事の関係上、布団の中で寝ている。それに、女の子としての事情もあって、本来なら自分が借りているおんぼろアパートの一室に、閉じこもっていても、誰にも文句を言われることも無い筈だった。
この時期には、夜のお仕事は休まなければならない。と言うか、得意な趣味趣向の者でも無ければ。今の彼女と遊びたいとは思わない。文字道理の変態でも無ければ、汚れと思われている月の物が来てしまえば、男は二の足を踏む物なのだから。
間諜部の頭目の決断には逆らえない。レイナはああ見えて、この辺りの情報部門の、頭目の一人だ。当然ながら、見習いであるクリスには拒否権などある訳も無い。此方も普段のお仕事が出来なくなっている以上、彼女の言うことを聞かなければならない。
ただ、それでもこの月の物がある状態で、マッキントッシュ邸に上がるのは気が引けた。自分の能力については、彼のナーラダのリコと名乗ったお嬢ちゃんの、条件に適しているので、その辺りについて、心配はしていない。何よりついこの間まで、男爵家令嬢をしていた身の上だ。
家が大きな醜聞で、没落しなければ。今頃は何処かの高位貴族の家で、侍女をしている立場でもある。其れが、身体を売るような仕事に就くことになるとは、思ってもいなかった。
当主でも有る父親が、子爵家の者から、借金をして、領内の事業を大きくしようとしたのが、発端だった。その事業は、半年前の水害で旨く回らなくなり。税を払うことも出来なくなった。
バートランド家は、マッキントッシュ家に仕える男爵家では有ったのだけれど。御領主が変わった途端、金の動きが極端に変り。借金が返せなくなり、当然課される税負担も重くなって。一家は解体、離散することになった。
彼女の父親は、無理心中を図り。家族全員連れて行こうとしたのだが、クリスだけは必死に逃げて今に至る。幼い妹や弟は、逃げ切ることが出来ず鬼籍に入っている。
彼女の父親は、家族を連れて死のうとした人ではあったけれど。マッキントッシュ領の財務一般を、任されていた人で、誠実で生真面目だけが取り柄のような人だったのに。何故こんな事に成ったのか、疑問に思う物の如何することも出来ないでいた。
十歳の頃より、婚約者がいて、何も無ければ今頃は、子供の一人くらいは居たのかも知れなかったのだけれど。流石に、借金を作って無理心中を図るような、家族の娘を妻に受け入れられることも無く。生きるために身体を売るような場所に来ることになった。
それでも、父親に手ほどきを受けており。書類の中に隠された、意味を見抜く能力は影働きをしている、彼の娼館擬きの中で重宝されることになった。他の女達とは違い、少しだけ我儘を許される立場。嫌な相手を拒否する権利を貰ってはいる。
その経験が、こうしてマッキントッシュ邸に上がることになった。化粧を変えてはいるから、そう簡単に、自分の正体に気付く者は居ないだろうけれど。それでも、憂鬱で有るには違いない。何より、此所には結婚を約束していた、男が勤めているのだから。




