影の人
深い溜息を付きながら、領都ベレタの通りを、野次馬とは反対の方向に、足を進める男が一人。いや、そうでは無い。もう一人同じように、足を進めている男がいる。そちらは、少し酒の臭いをさせているが。酔っているわけでは無かった。
それでも、彼らは殆ど視線を合わせるでも無く。今起こっているトラブル見物に飽きた態で、街の繁華街に入り込もうとしている。
このベレタの街は、いわば城壁都市の機能を持っている。一戸の城と言って過言では無いだろう。曲がりくねった複雑な小道。其れほど使い勝手の良い造りでは無いけれど。外敵が来た時には、この造りが足止めをしてくれる。
この街のことを良く知らなければ、途端に道に迷ってしまう迷路と一緒になっている。いざ戦争になれば、大きな馬車が通れるような、通りは封鎖することで、御屋敷を守ることが出来るようになっている。街の住民は、一つの防壁の役割を担っているのだ。
ベレタの役割は、国境の砦が落ちたときの敵軍の足止めである。こう言った街が点在しながら、有機的に敵の侵攻を止め。反撃の部隊を送り出す。その後方支援の役割を持っている。其れが領都ベレタであった。
頭に巻いた、ボロ布を直すために、足を止める。肉を焼く匂いと、安酒の匂いが鼻腔をくすぐる。其れと、なじみの女が使う香水の匂いを嗅いだ気がした。
ふと目を上げると、直ぐ側には娼館が在った。見た目は、普通の飲食店だが、二階に上がれば安い女が待っている。因みに、この店はいわゆる協力者の店だ。此所の主人は、奥様に恩義があるらしく。何より、こう言った店には意外にも情報が集まってくる。
彼は、ナーラダのリコにはデイックと名乗っている男だ。本名は、忘れたことに成っている。今回の仕事は、ナーラダのリコを無事に、奥様の元へ帰らせること。彼の跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘が、また可笑しな事に首を突っ込まないようにする。其れが、頭領からの命令だった。
厄介なことに、彼の女は結構強い。しかも其れなりには、頭が切れる。既に今回も、危ない橋に乗ってしまっている。文字通りの危ない橋だ。
ディックは、彼女が此所へ到着する一週間前に、領都ベレタに仲間と、乗り込んで、街の安全を確認していた。その際に、橋の柱に、鋸が入れられている事に気付き。其れを納得させるのに、色々と手管を使って、その事実を盆暗の私兵に知らせる事に成功していた。
ただ、思っていたより上に、この事が知られるのが遅かった。正直、殆ど直前に報告が上がったのには、肝が冷える思いが為た。何より、彼の娘の乗る四頭立ての馬車が、一番前を進んでいたからだ。もしも、彼の娘が乗る馬車が橋の事故で、落ちるようなことになったら、彼にも責任が降り掛かってくる。
勿論、此所の領主にだって、責任を問われることになる。何しろ、自分の所の橋の管理が行き届いていなかったことになるから。
彼の娘が、泳げるかどうか判らない以上。最悪死なれるようなことになれば、どんなおしかりを受ける事になるか、考えると恐ろしくなる。何より、頭領は彼女を姫様呼びするほど、大事に思っているのだから。




