表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

毒のキス、蝶の足跡

作者:


 てくてく歩く、子供の姿。

 夕暮れ時、太陽が最も大きく見える時間。人はまばらで、町は閑散としている。

 耳をすませば、どこからか音楽が聞こえてくるだろう。


 どこか物悲しくて、悲哀をたたえたあの光景。


 瞼を閉じると浮かんでくる。

 これが何を示すのか。僕に何を伝えようとしているのか。未だにわからないでいる。


 電車に揺られ、うとうとしている時。会話中、瞬きの瞬間。夜おそく、床に就くとき。

 瞼を閉じて僕が見るのは真っ暗闇ではない。いつも決まってこの夕暮れ時なのだ。


 たぶん、これは僕が幼い頃、まだ母と共に暮らしていた頃の風景、だと僕は思う。

 僕を引き取ったおばさんが口癖のように話していた。


 「あなたは夕暮れの町からきたのよ。姉さんとあの町に育てられて、わたしの元にやってきたの。あなたはあの町の子供なの。」


 「ぼくおぼえてないよ。」


 「ええ、ええそうかもしれない。けれどもあなたはあそこで育ったの。綺麗な町だったわ。ずっとずーっと、あの町は変わらないの。」


 「おばさんは、その町で育ったんじゃないの。」


 「わたし。わたしは違う。わたしが育ったのはもっと別の、機械とビル。文明にまみれた人間の街よ。」


 おばさんは僕の生まれ育った町については饒舌に語った。けれども、その話はいっつもループして、ごちゃごちゃしてて、僕はしまいには何が何だかわからなくなった。


 ある時は公園にジャングルジムがあって、また別の時にはジャングルジムはなくて砂場がある。

 ある時には町に自動車が走っていて、別の時には自動車なんて誰も持ってない。

 ある時にはおばさんは夕日に背を向けて僕を抱きしめていて、また別の時には僕じゃない誰かにしがみついている。


 毎回毎回、何かがすこしずつ違う。

 それでも、変わらなかったことが一つだけある。夕日に向かって歩く子供。このお話だけは、いっつも同じで絶対に変わらない。

 だからだろうか。ぼくの心は次第にその子供になっていったんだ。


 「さあ、もう寝ましょう。」


 そういうとおばさんはぼくを布団に押し込める。

 ぼろアパートの3階、六畳一間のかたすみ。窓の近く。二人暮らしの部屋にものは少なくて、ぼくとおばさんが寝っ転がっても余裕がある。そんな部屋だった。

 そう。ぼくの居場所はここだけで、ぼく以外の人間はおばさんだけだ。


 あの日までは。


 「起きて。起きて。さあほら目を覚まして。着替えてちょうだい。」


 「おばさん。」


 「さあほら早く。迎えがきたのよ。夕日の町から、あなたを迎えにやってきてくれたの。」


 「でもおばさん、外にいるのは」


 「夕日の町の人たちよ。外は寒いわ、これを着て。これも持って。ああ、あなたのお母さんの写真もね。」


 「......うん。」


 ぼくはおばさんに渡されたものを素直に全部受け取った。

 ぼくはもう分別がつく年齢だった。言っていいことと悪いことの違いぐらい判別できる。


 アパートのガタつくドアノブをひねって外に出る。吐く息は真っ白だ。凍えそうに寒い。


 ああ、この時が来たのだ。ぼくは雪が舞い散る空を仰いだ。


 「......おばさん」


 「ほら見て。みんなあなたを迎えに来たのよ。夕日の町の子供をね。さあ行きなさい。」


 そういうとおばさんはぼくをぎゅっと抱きしめた。おばさんの細い腕がぼくの背中に回る。おばさんの長い黒髪をかき分けて、ぼくはおばさんの薄い背中に手を回した。


 「ねえ、おばさん。」


 「なあに。別れが寂しいの。心配はいらないわ。夕日の町は綺麗なところよ。わたしは行けないけれど、あなたと姉さんのことをずっと想ってここにいるわ。」


 「......おばさん、ありがとう。」


 ぼくはおばさんの耳元でささやいた。

 儚さと危うさを纏ったこの人を。ぼくよりほんの少しばかり年上のこの人を。ぼくは本当においていっていいのか。

 ああ、けれどもきっと。ぼくがいなくなっても、この人はここで、この寒い人間の街で、ひっそりと暮らしていく。母がそうしたように、ぼくはこの人を置いていく。

 そう思ったぼくは、おばさんにたった一言ささやくだけで精一杯だった。


 お別れに、おばさんは僕のひたいに軽くキスを落とした。ほんの少し、触れるだけの口付け。


 そしてぼくは、おばさんの元を離れたーーー


 故郷、とは。

 きっと僕の故郷は、おばさんが話して聞かせてくれた夕暮れの町ではない。雪が降ると凍りつく、機械と人間の街。そのかたすみにあるぼろアパートの一室。おばさんと暮らしたあの日々こそが僕の故郷であり、僕の心に根付くものだ。


 そう。だからこそ不思議なのだ。


 瞼を閉じると浮かんでくる。

 この風景。この風景は、夕暮れの町のものだ。おばさんが絶対に間違えなかった。変えなかった。あの夕暮れのお話。


 これは一体なんなのだろうか。おばさんの願いが、話を通して僕の頭に住み着いたとでもいうのか。

 だとしたら皮肉なものだ。僕が欲しているのは、真に見たいと思っているものは、おばさんとのあの記憶なのに。

 

 ふとした瞬間。僕はあの日々を求め、探してしまう。

 電車の窓に映る他人の顔に、おばさんを。友人との会話中、コーヒーの粉砂糖にあの町の粉雪を。深夜、布団で眠る時、おばさんの微かな寝息を。

 そんな時、愚かな僕をあざ笑うかのように夕暮れの町が現れる。


 きっとこれは、あの人が僕に与えた祝福であり、呪いなのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  ほの温かいけど切ない歌を聴いた様な感覚。  ジワリジワリと、触れた先から染みる様に情景が想像させられた気がします。 [一言]  読む人毎に心象が変わりそうな話だなと思いました。  静かな…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ