毒のキス、蝶の足跡
てくてく歩く、子供の姿。
夕暮れ時、太陽が最も大きく見える時間。人はまばらで、町は閑散としている。
耳をすませば、どこからか音楽が聞こえてくるだろう。
どこか物悲しくて、悲哀をたたえたあの光景。
瞼を閉じると浮かんでくる。
これが何を示すのか。僕に何を伝えようとしているのか。未だにわからないでいる。
電車に揺られ、うとうとしている時。会話中、瞬きの瞬間。夜おそく、床に就くとき。
瞼を閉じて僕が見るのは真っ暗闇ではない。いつも決まってこの夕暮れ時なのだ。
たぶん、これは僕が幼い頃、まだ母と共に暮らしていた頃の風景、だと僕は思う。
僕を引き取ったおばさんが口癖のように話していた。
「あなたは夕暮れの町からきたのよ。姉さんとあの町に育てられて、わたしの元にやってきたの。あなたはあの町の子供なの。」
「ぼくおぼえてないよ。」
「ええ、ええそうかもしれない。けれどもあなたはあそこで育ったの。綺麗な町だったわ。ずっとずーっと、あの町は変わらないの。」
「おばさんは、その町で育ったんじゃないの。」
「わたし。わたしは違う。わたしが育ったのはもっと別の、機械とビル。文明にまみれた人間の街よ。」
おばさんは僕の生まれ育った町については饒舌に語った。けれども、その話はいっつもループして、ごちゃごちゃしてて、僕はしまいには何が何だかわからなくなった。
ある時は公園にジャングルジムがあって、また別の時にはジャングルジムはなくて砂場がある。
ある時には町に自動車が走っていて、別の時には自動車なんて誰も持ってない。
ある時にはおばさんは夕日に背を向けて僕を抱きしめていて、また別の時には僕じゃない誰かにしがみついている。
毎回毎回、何かがすこしずつ違う。
それでも、変わらなかったことが一つだけある。夕日に向かって歩く子供。このお話だけは、いっつも同じで絶対に変わらない。
だからだろうか。ぼくの心は次第にその子供になっていったんだ。
「さあ、もう寝ましょう。」
そういうとおばさんはぼくを布団に押し込める。
ぼろアパートの3階、六畳一間のかたすみ。窓の近く。二人暮らしの部屋にものは少なくて、ぼくとおばさんが寝っ転がっても余裕がある。そんな部屋だった。
そう。ぼくの居場所はここだけで、ぼく以外の人間はおばさんだけだ。
あの日までは。
「起きて。起きて。さあほら目を覚まして。着替えてちょうだい。」
「おばさん。」
「さあほら早く。迎えがきたのよ。夕日の町から、あなたを迎えにやってきてくれたの。」
「でもおばさん、外にいるのは」
「夕日の町の人たちよ。外は寒いわ、これを着て。これも持って。ああ、あなたのお母さんの写真もね。」
「......うん。」
ぼくはおばさんに渡されたものを素直に全部受け取った。
ぼくはもう分別がつく年齢だった。言っていいことと悪いことの違いぐらい判別できる。
アパートのガタつくドアノブをひねって外に出る。吐く息は真っ白だ。凍えそうに寒い。
ああ、この時が来たのだ。ぼくは雪が舞い散る空を仰いだ。
「......おばさん」
「ほら見て。みんなあなたを迎えに来たのよ。夕日の町の子供をね。さあ行きなさい。」
そういうとおばさんはぼくをぎゅっと抱きしめた。おばさんの細い腕がぼくの背中に回る。おばさんの長い黒髪をかき分けて、ぼくはおばさんの薄い背中に手を回した。
「ねえ、おばさん。」
「なあに。別れが寂しいの。心配はいらないわ。夕日の町は綺麗なところよ。わたしは行けないけれど、あなたと姉さんのことをずっと想ってここにいるわ。」
「......おばさん、ありがとう。」
ぼくはおばさんの耳元でささやいた。
儚さと危うさを纏ったこの人を。ぼくよりほんの少しばかり年上のこの人を。ぼくは本当においていっていいのか。
ああ、けれどもきっと。ぼくがいなくなっても、この人はここで、この寒い人間の街で、ひっそりと暮らしていく。母がそうしたように、ぼくはこの人を置いていく。
そう思ったぼくは、おばさんにたった一言ささやくだけで精一杯だった。
お別れに、おばさんは僕のひたいに軽くキスを落とした。ほんの少し、触れるだけの口付け。
そしてぼくは、おばさんの元を離れたーーー
故郷、とは。
きっと僕の故郷は、おばさんが話して聞かせてくれた夕暮れの町ではない。雪が降ると凍りつく、機械と人間の街。そのかたすみにあるぼろアパートの一室。おばさんと暮らしたあの日々こそが僕の故郷であり、僕の心に根付くものだ。
そう。だからこそ不思議なのだ。
瞼を閉じると浮かんでくる。
この風景。この風景は、夕暮れの町のものだ。おばさんが絶対に間違えなかった。変えなかった。あの夕暮れのお話。
これは一体なんなのだろうか。おばさんの願いが、話を通して僕の頭に住み着いたとでもいうのか。
だとしたら皮肉なものだ。僕が欲しているのは、真に見たいと思っているものは、おばさんとのあの記憶なのに。
ふとした瞬間。僕はあの日々を求め、探してしまう。
電車の窓に映る他人の顔に、おばさんを。友人との会話中、コーヒーの粉砂糖にあの町の粉雪を。深夜、布団で眠る時、おばさんの微かな寝息を。
そんな時、愚かな僕をあざ笑うかのように夕暮れの町が現れる。
きっとこれは、あの人が僕に与えた祝福であり、呪いなのだ。