貿易都市メルカトゥーラ③
(有り得ぬ有り得ぬ有り得ぬ!!)
シモンズは憤慨していた。頭に血が上りすぎて、眩暈すらしてきそうだ。
(あんな若造が、黒靄の正体を見抜き、なおかつ上級魔法を使用し、浄化したなどと…!)
仮にそうだとしても、あの浄化範囲は尋常ではない。絶対に何かあるはずだ。でなければ、この自分が、魔導研究連盟筆頭の自分が、遅れを取るなど有り得ぬことである。
それだけでも憤懣やるかたないのに、更にシモンズを苛立たせるのはその後の魔物退治だ。
あの男は、こともあろうに自分が乗っている船を危険に晒したのだ。結果的に魔物を倒したのは良いとしても、周りには他の騎士も居たはずだ。わざわざあの場で指揮を取る者が真っ先に魔物に向かうなど、何を考えているのか。
しかも魔物を仕留めたのが見たこともない上級魔法で、それもまた腹立たしい。
(あの方の期待を裏切るわけには行かんのだ…この件は何としても、ワシが解決せねば)
そのためには、あの若造は邪魔だ。ゆらり、シモンズの瞳に危うい光が揺らめく。彼の足許から伸びる影も、一瞬蠢いたような。
その背中に、サミュエルが声をかけた。
「シモンズ様…あの、アルバ・カエルムについて調べがついたと、使いが…」
「…聞こう、通せ」
国湖へ行く前に、アルバを不審に思ったシモンズは、こっそりと配下の者にその素性を調べさせていたのである。
さてアルバ・カエルムという男は、実際どういった人物であるのか。
人は見かけ通りではない。どの人間も腹には一物も二物も抱えているものだし、隠したいこともあるのだ。
シモンズはニヤリと下卑た笑みをその口元に上らせる。
(あのお綺麗な顔の裏側を、暴いてやろう…!)
―来訪―
「それでその魔物…えぇとトゥラガーペスだったか?倒したのか」
騎士団専用宿舎の一室。ヴェガスは湖から戻ってきたアルバ達から一通り報告を受け、更に詳しいことを聞くためにユークのみ呼び出して話し込んでいた。
アルバやティエラは今頃、下の食堂でメルカトゥーラの料理に舌鼓を打っているころだろう。
「はい。毎度思いますが、見事なものですね。アルバさんの上級魔法は…」
「そうだなぁ、ホントあの若さでどうやって覚えたのやら。教えられてほいほい出来るものじゃないはずなんだがなぁ、上級魔法ってのは」
下級、中級魔法ならば、学園ないしは騎士団内で、呪文と対応する精霊とその仕組みを覚えれば大抵の者は唱えられる。あとは只管精度を上げる訓練をすれば、充分実践で使用可能な域になるものだ。
しかし上級魔法は違う。ただ呪文と仕組みを覚えればいいだけではない。精霊との直接の交渉―――それも大精霊以上の精霊―――と、上級魔法を扱える資質というものが必要なのだ。対応する精霊に認められ、欲しい魔法を伝え、それに応じて精霊が魔法に合わせた呪文を教える。そうしてそれを扱える素養を以て初めて上級魔法が使えるようになる仕組み。
しかし精霊は気に入った人間以外には滅多に姿を現さない。―――本人から聞いたことはないが、複数の上級魔法を扱えるところから、アルバは数多の精霊と面識があるのだろう。
「それと結界の使い方ですね。…あれは流石に驚きました」
「捕縛用の結界を纏って湖に潜ったってやつか?ホントなのか?しかもその後で黒靄消したってんだろ?そん時の光は、…多分アレなんだろうな…凄まじかったな」
アルバが黒靄を浄化すべく放った上級魔法の輝きは、別行動で湖の周りの魔物を倒していたヴェガスたちの目にも届いた。方向からして国湖の方角だったので、その時はまた何かやらかしやがったか、と思っただけだったのだが…まさか黒靄を消し去ってしまっているとは。
「それも結構な範囲だったんだろ?」
「はい。…最早アルバさんなら何でもあり、とスルーしてしまいましたが…改めて考えてみれば結構な範囲ですよね。浄化の魔法ってそんなに範囲広くないイメージなんですけど」
「アイツのことだ、まだ何か隠し玉持ってやがんだろ」
ホント、腹ン中にどんだけ溜め込んでいるのやら―――それも一つの魅力であると言われればそれで終いなのだが、アレの場合はそれで済まされないのが頭の痛い所。やれやれ、とヴェガスは溜息を吐き、メイドに淹れてもらっていたコーヒーを口に含める。
少しの沈黙を経て、やや重い口調で彼は次の話を切り出した。
「瘴気か…とんでもないものが出て来たな」
変異したモンスターが周りに居るとはいえ、街の方は比較的平穏に保たれているすぐ傍で、そんな危険なものが発生しているとは。
「はい。街の傍にあっていいものではありません。報告の際アルバさんも言っていましたが、今後は瘴気の発生源を探る方向で地下探しのため、街を中心に動くことになるでしょう。街になければ湖の周りを捜索する予定です。湖自体は一度浄化したため、アルバさんによると暫く放っておいても問題ないということです。魔物も落ち着いていくと思われます」
「ああ、一先ず当面の危機は去ったわけだ。こっからはどっしり構えて作戦実行ってとこか。まぁ悠長にしてもいられんだろうが」
それでも魔物について急を要する湖の懸念が晴れたのだから、まだマシだ。
さて、魔物の数が減るのなら、こちらの殲滅部隊を何人かアルバの方に回しても問題なかろう。誰も知らないらしい湖の地下へと繋がる道を探すには、人の手は多くあった方がいい。時間を見つけて、ここの領主にも地下の存在の有無を聞きに行こう。
そう告げると、ユークも頷いて同意した。
「それがよろしいかと思います。許可を頂けるなら、領主の方もオレの方でやりますが」
「いや、それには及ばん、大丈夫だ。…そういや、シモンズどのはどうしたんだ?宿舎に戻ってきた時は、既に姿がなかったが」
あの、人を見下す傲慢な緑のお偉いさん。アルバはよくもまぁ、アレを相手に上手く立ち回るものだ。妙に慣れているみたいだが、あの年ごろであれば普通、仮にもオレなら絶対拳の一つや二つは出ている。
本当に精神と外見がちぐはぐだな、とヴェガスが思っていると、向かいに座ったユークがはぁ、と疲れたようにため息を吐いた。
「ホント何なんでしょうね、あの人。怪我人もなく、変異した魔物も倒して無事に帰ってこれたというのに…何故魔物にわざわざ立ち向かったんだ、だの、私が死んでもいいというのか、魔導研究連盟筆頭だぞ、だの、これだから若造は嫌なんだ、目先の事しか考えない、だの、自分は何にも役に立たなかったくせに口だけはまぁよく回る回る…」
「はっはっは、そりゃあ大変だったな」
「笑い事じゃありません。アルバさんは本当に、あの若さで驚くほど良く対応していると思います。あしらい方が上手いというか…勉強になりますよ」
「それな、オレも思ったわ。あいつの話術というか処世術何なんだ?貴族ってそこまで学べるもんだったっけか?」
「さぁ…自分は平民出身なので、なんとも。そこは子爵である隊長の方が詳しいでしょう」
「オレは教えてもらえなかったつーか、世間に揉まれているうちに覚えたっつーか」
とはいえ、アルバ自身も特に意識してそうした対応を取っているわけではない。恐らく前世でああいった手合いに何度も対峙しなければ、身につくものでもなかっただろう。最低最悪の前世であったが、得るものはそれなりにあったのが皮肉ではある。
しかし二人にとってはそんな事情など知らないので、単純に魔導研究連盟筆頭に対してのアルバの対応力にただただ感心するだけであった。
また少し沈黙を挟み、ヴェガスはならば、と続ける。
「あいつの指揮能力についてはどうだ」
「ああ、それなら最高の一言に尽きます。更に戦闘の経験を積めば、ヴェガス隊長はあっという間に抜かれるんじゃないですか。元々のカリスマ力が違いますし…オレの部下なんかもう、崇拝の域ですよ」
「またえらくはっきり言いやがるなぁ。…まぁお前のそういう所が好ましいとは思っちゃいるが…ていうか崇拝って何だよ崇拝って」
それにしたってベタ褒めすぎでは?確かにメルカトゥーラまでの道のりで発生した戦闘しかり、湖の上での戦闘しかり、怪我人の一人もなく無事に帰ってきたことを思えばそれも頷けるのかもしれないが。
ヴェガスはジト目でユークを見やる。
「ユーク、お前よぉ…」
「はい?」
「惚れた欲目で言ってんじゃないだろうな?」
ブッ、とユークが口に含みかけたコーヒーをふき出した。
「惚れるのは構わんが、任務は公平に頼むぞ?」
「惚れ…ッ、違います!そんなんじゃありません!!」
確かにあの腰はこう、何となく、疼くものがあるが。しかしそれは、多分ティエラに感じるものと同じものだ。あのヘソはいけない。…いや、同じではマズいのか。いやいや。
とんでもないことを言われ、赤くなりながら頭を抱えるユークを見て、こいつも若ぇなぁとヴェガスが思った所で。
俄かに階下が騒がしくなる気配。
「…?」
「何だ?誰か下で騒いでやがんのか?」
何事だ、と二人が急ぎ部屋から出て階下へ降りると、騒動の元はどうやら食堂であるらしいことがわかった。そこへ向かっていけば、怒りに満ちた声が先にヴェガスとユークの耳に届く。
「貴族のお坊ちゃまの遊びには付き合いきれん!貴様には早々にこの任から降りて頂こう!」
その高圧的な声には嫌になるほど聞き覚えがあった。ヴェガスとユークは顔を見合わせ、互いの脳裏に、緑のローブを羽織った恰幅のいい体格である人物が、思い浮かべられているのを察する。二人は思わず眉間に皺を寄せた。帰ったと思ったが、戻ってきたのか。
二人が食堂の扉を開くと、端の方にその姿があった。彼が怒りをぶつけているのは、やはりというか何と言うか―――アルバだった。
「それは全く構いませんが、隊として組み込まれている以上、オレの一存で決められることではありません。まずはヴェガス隊長に話を通して頂けますか?―――そら、丁度いいところにいらっしゃったようですよ」
どこ吹く風とばかりにシモンズの怒りを受け流しているが、食事を強引に中断された上でまくしたてられていたのだろう、丁寧ではあるが流石にその声音には若干のいら立ちが感じられた。
アルバはヴェガスの姿を目ざとく見つけ、シモンズの矛先をさり気なくこちらに向ける。勘弁してくれ。
しかしここの最高責任者は自分だ、面倒でも何か起きたのなら解決を図らなくてはならない。ヴェガスは溜息を堪えつつ、アルバのいるテーブルへと足を運んだ。
「あー、シモンズどの?一体どうされたんだ」
「ヴェガス隊長!聞きましたぞ、この小僧は王立魔導研究機関の人間ではなく、ただの貴族だそうじゃないか!それも調べたところによると、家を出奔したらしいな!こんな貴族の風上にも置けん若造に、一部隊とはいえ預けるとは、貴殿の頭を疑いますぞ!」
王立魔導研究云々は、アンタの勘違いです。あと出奔ではなく、ただの出立です。ちゃんと父の許可も得ていますし、快く送り出して下さいました。と、アルバが訂正したところで恐らく聞く耳持たないだろう。なのでアルバは大人しく口を閉ざしていた。
全くいつの間に調べ上げたのか知らないが、杜撰過ぎると思う。それとも都合よく曲解したか。
向かいに居たティエラもアルバの旅立ちについては聞いていたため、他のテーブルについている騎士たちと同じように白けた顔をしている。アルバが何も言わないから、こちらも援護射撃出来ないのが歯がゆい。
しかし彼はなおもわめきたてるシモンズを、無表情かつ冷ややかな目で見つめていた。率直に言って怖いのだが、怒りのせいかシモンズには効いていないらしい。
「この小僧は、ワシを危険に晒した!信用ならん!今後の作戦についてこれ以上は任せられぬ、即刻別の者を据えるように!もし明日になっても変更されていなければ、ワシら魔導研究連盟はこの件に関して一切協力しないからな!」
協力しないって、この件はアンタらの街で起こっていることだろう。こっちが協力してやってんだ。そう言いたかった騎士が何人居たことか。けれど皆、シモンズの背後でこっそり、人差し指を口元に持っていくアルバにしぃ、と諭されて口をどうにか噤む。
その時だった。
「…!?」
シモンズの肩口から、ふわりと黒いものが立ち上ったのは。
一瞬だった。彼の背中へと視線を戻したアルバが、僅かに捉えられた程度の。見間違いだった可能性すらある。
(今のは…!?)
動揺するアルバを他所に、一先ず言いたいことは言い切ったのか、失礼する、とシモンズは踵を返した。ドスドスと足音を鳴らしながら、彼は食堂を出て行く。怒りをまき散らすだけまき散らして帰っていくとは、まるで台風のようだ。ただただ迷惑にしかならない。
ふぅ、と肩の力を抜いて溜息を吐くアルバに、グラナードが気遣うようその身を摺り寄せた。ユークもたまらず声をかける。
「アルバさん、大丈夫ですか?」
「ええ。―――皆さん、食事時に嫌な思いさせましたね、申し訳ありません」
苦笑を浮かべながら周りを見渡して言うアルバに、食堂に集まっていた騎士たちが一斉に首を振って否定した。
「アルバ様のせいではありません!」
「そうですよ、アルバ様が悪くないのは、ここに居る全員がわかっています」
アルバを擁護する者ばかりだと言う騎士たちに、アルバはお礼を言う代わりに微笑み返す。果たしてその微笑みに、何人がうっとりしたか。ユークはカリスマと言っていたが、もしやこれは。
取り合えず嫌な予感がしたそれは一旦頭の隅に追いやるとして、今はアルバについてだ。ヴェガスは別のテーブルから椅子を引き寄せ、アルバの隣に座る。
「とんだことになったな、まさかここまで融通の効かんお人だとは」
「ホントよね、何なのアレ。言ってること殆どでたらめじゃない。何でアルバがあそこまで言われなきゃならないのよ!アルバも言い返せばいいのに、もうっ!」
まるで自分のことのようにぷりぷりと怒るティエラの怒りは、目の前にあるステーキにざっっっくり深々とフォークを突き立てられていることでも察せよう。
そんな彼女をまぁまぁと宥め、アルバはヴェガスに言った。
「ヴェガス隊長。オレのことは気にせず、あの人の言う通りに。元々一人で調査するつもりでいたのですし、手痛く思うことはありません。魔物も減るでしょうから、戦力が一人減っても問題はないでしょう?」
「どでかい戦力だがなぁ…まぁ穏便に済ますならそうすべきだろうが…」
いつの間にか居なくなっていたユークが、ヴェガスの分も食事を持って戻ってくる。ヴェガスと同じように他所の空いたテーブルから椅子を引き寄せて、彼はヴェガスの隣に座った。ティエラとアルバも、ついでにグラナードも止まっていた食事を再開する。
口に含んだステーキの一欠けらを丁寧に噛み砕いて飲み込んだタイミングで、アルバは更に言った。
「むしろ外して下さい。もうアレの相手すんのクソめんどくせぇので。こうなって逆に清々しているくらいです」
「ヤダちょっとビックリした」
「おーおー、お前からそんな乱暴な言葉が出てくるとはなぁ」
普段から敬語を話す人間からクソめんどくさいなどという単語が飛び出てくると、思った以上のギャップだ。ヴェガスに至っては、年相応だと思って少し安心してしまう。
「口を吐いて出てくる分には敬語の方が慣れているだけで、スラングなど使うときは使いますよ。…そうだ、シモンズ氏について、ヴェガス隊長に伝えていないことがありました」
「おう、何だ?」
「あの人、精霊を感知出来ないそうです」
「は?」
きょとん、とヴェガスが何を言われたのか分からないという顔をする。そうなりますよね、とアルバだけでなく、ティエラもユークも深刻そうに頷いた。
「精霊を感知出来ないって…」
「それどころか、精霊の存在を信じてすらいません」
「………は???」
どういうことだ。本気でわからない。食事の手を止めてしまったヴェガスに、アルバは苦笑するほかない。
「国湖での調査が終わった後、サミュエルさんにもこっそり確認したのですが、どうも本当のようです。それが生まれつきかまでは確認出来なかったのですが。もっとも魔導研究連盟で精霊の存在を否定しているのは、あの人だけのようですけどね。そのくせ、魔法は普通に使用しているらしいときた」
「何だそりゃ…それでどうして、精霊の存在を否定することになるんだ?」
魔法の発動には精霊が不可欠だろうが。シモンズは一体、どういう仕組みで魔法が発動していると思っているのか。
確か国湖では、体内の魔力を使用してとか何とか言っていた気がするが、それが本当に立証されているのかまではまだわからない。人間を含め多くの生物には、確かに多かれ少なかれ魔力を持っているものだが。
「オレにも正確なところは分かりません。それで頼みがあるんですが、シモンズ氏が魔導研究連盟で何の研究、もしくは何を専攻にしているのか、可能であれば調べて欲しいんですよ」
「研究か専攻…ははぁ、成程な…精霊を感知出来ない人間が、一体何を調べているんだってことか」
魔導師というものは、魔法使いとは似ているけれども意味合いが全く違う。この世界では魔法使いは中級以上の魔法を使用して戦う者を指すが、魔導師というのは精霊と呪文の関連性、魔法に関わるあれこれを理詰めで解明していく者を指すのだ。そうして分かったものを魔道具に転用出来るのか、誰でも使えるようにすることは可能か、ということに繋げていくことを生業としている。
更に言えば魔導研究者というのは魔導師の派生で、こちらは精霊や魔物の生態、自然に含まれる魔力のバランスなどを調べている者をそう呼んでいるようだ。
「精霊と魔法は切っても切り離せないものだ。精霊を感知出来ない人間が、一体何をして魔導師などと呼ばれているのか…それも筆頭………だが確かに気になるが、それ、瘴気と関係あるのか?」
「現時点では分かりません。…ですが無性に気になるんです。第六感とでもいうんでしょうかね、良くない予感がするんです」
「…そうか。まぁ、もののついでだ。この件についても調べておく」
「お願いします。では、今後オレは好きに行動させて頂きますね。―――ただこれから暫く、ユークをお借りしたいのですが」
「…だとよ、ユーク。ご指名だがどうだ」
プレートの上に載っているステーキにナイフを入れていたユークが、顔を上げてアルバを見つめる。
「願ってもないことです。どうぞ護衛にも伝令役にも如何様にお使いください」
「ありがとうございます。では早速、この後のことなんですが…仮眠を取って頂きたいんです。そして夜半、日付が変わる頃…オレの部屋に来てくださいませんか」
「えっ」
夜半に部屋に来て欲しい。ついあらぬ妄想をしてしまったのは、食堂に来る前のヴェガスとの会話を思い出したからだ。
「ティエラさんも来て下さい。…そうですね、気になるならヴェガス隊長もいらして頂いて構いませんよ。その場合、お二人ともしっかり仮眠を取るようにお願いします」
続いたアルバの言葉に、アッデスヨネと若干慌てるユーク。顔に出てないだろうな、とステーキを食べた口元を拭うふりして押さえる。その仕草に何か察したのか、生ぬるい視線を寄越したヴェガスのことは全力で気づかないふりをしたユークだった。
カチ、カチ、カチ―――時計の針が二つ、揃って真上に至る頃。
アルバは仮眠から目覚め、身なりを整えて最低限の光量に絞った部屋のソファでゆったりと寛いでいた。唯一のバルコニー付きの窓は大きく開け放たれていて、夜特有の心地よい風を運んでくる。
膝で丸まっているグラナードはうとうとと夢現を彷徨っていたが、やがて何かの音を拾ったのかピクリとその耳が動いた。直後、部屋の扉がコンコン、と鳴らされる。
「開いてますよ、どうぞ」
来訪者に入室を促せば、若干眠そうな顔をしたティエラとしゃっきりした顔つきのユーク、欠伸を隠しもしないヴェガスが順に入ってきた。結局三人とも来たらしい。
アルバは立ち上がって三人にソファへ座るよう促し、自分はお茶の準備を始める。それを見たティエラがアルバの元に来て手伝ってくれた。この辺はさすが、女性ならではの気遣いである。
お茶をそれぞれの前に差し出し、アルバはソファではなく椅子を引き寄せてそこに座った。それを見計らってユークが声を上げる。
「アルバさん、言われた通り仮眠を取りましたが………まさか、これから行動するのですか?」
「そのつもりです。上手くいけば、今夜中に湖の地下に至る道を見つけられると思いますよ」
「「「えっ!?」」」
三者三様に驚いた顔を浮かべてアルバを見た。
「そ、それは、えーと…アルバさんにはすでに、地下へと至る道に心当たりがあるということですか?」
「あるというか…まぁ、怪しいなと思う場所はあります。本当にそこがそうであるかは、これから確認しますが」
「一体いつの間に…」
アルバの言に、ユークはメルカトゥーラに辿り着いてからの彼の行動を振り返る。凡そ自分と一緒に行動していたと思うのだが、一体いつそれらしいものに目星をつけていたのか皆目見当もつかなかった。
ふふ、とそんなユークを悪戯っぽく見つめつつ、アルバはグラナードに向かって告げる。
「グラナード、彼らを案内してきて頂けますか」
「にゃ」
彼ら?
「…って、我々の他にも誰か呼んだのですか?」
ぼやきに近いユークの言葉には笑みを向けるだけの返事をして、アルバはててて、と開いた窓に向かって歩くグラナードを見つめた。今宵は月の光も細く、星々がよく見える。
「んにゃぁ、にゃー」
外へ向かって呼びかけるように鳴くグラナードを見つめ、どういうことなのかとアルバを見つめる三人。
しかしアルバは窓を見つめたまま、誰も居ないそこへ話しかけた。
「入って来て大丈夫ですよ。この人たちは、あなた方に危害を加えません」
アルバがそう言うが早いか、開け放たれた窓から凄まじい勢いで小さい何かが複数入って来る。それは真っ直ぐにアルバへと向かって―――
『アルバアルバアルバーっ!!』
『大変大変大変ー!!』
『助けてぇー!!』
「んぐっ」
正確にはアルバの顔へ、ビターン!と勢いよくそれらは突進していった。まさかそう来るとは思っていなかったのか、アルバは椅子ごと真後ろに倒れそうになったのを咄嗟に堪える。こんな真夜中に大きな音を響かせるわけにはいかない。
『アルバ~~~』
『うえぇん』
「ああ、泣かないで水の精霊たち、落ち着いてください。そして顔から剥がれて下さい」
こんなに顔に引っ付かれては、話しづらいし息もしづらい。アルバの訴えに精霊たちは渋々顔から離れるが、アルバの傍から離れようとはしなかった。皆一様に不安そうな顔をしており、泣いている者もいる。
森の精霊たちと同様彼らもちんまりとした形をしており、水の精霊らしく透き通るような流線形の体つきをしていた。
「お待たせして申し訳ございません。人前に姿を現さない貴方がたにお会いするのは、人が寝静まる夜の方が良いかと思いまして。昼間はどうしても一人で行動することが出来なかったものですから…しかしそれほど慌てているということは、どうもよろしくない状況のようですね」
『よろしくない状況なの!』
『あのねあのね、湖の大精霊様が』
『黒い靄が…』
『とても怖いよ、助けてぇ』
ふえぇ、と今度は顔ではなく腕やら胸やら首やら頭やらに引っ付いて泣かれてしまう。これではまともに話を聞くことも出来ない。
一先ず彼らを落ち着かせるために一旦時間を置くとして、その間に彼らをティエラたちに紹介しようと顔をそちらに向けたが、そこには口を開けたまま固まっている三人の姿があった。
あーまぁこうなるよなーと苦笑しつつ、三人に声をかけようとしたアルバだったが。
『お騒がせして申し訳ありません、アルバ様』
「ッッ!」
そこへ水の中位精霊が現れて、流石にアルバも面食らった。その格にではなく、いやそれにも驚いたが単純にその見目にも驚かされた―――完全に魚だったからである。しかもでかい。魚の形をした水の中位精霊に会うのは、〝英知の図書館〟含めこれが初めてだった。
アルバの動揺をよそに、魚は話し始める。
『大精霊様の使いで参りました。下位精霊たちによれば、この時間帯に来るように言われたと聞いていたので…ご迷惑だったでしょうか?』
丁寧に喋る魚に面食らいつつ、アルバは何とか立ち直る。浮いて喋る魚が何だ、割とシュールだが水の精霊であるなら不思議なことでもない。よくよく見れば鱗が虹色に輝いていてとても綺麗で、アレだ、一言で言うなら虹色の人間サイズ錦鯉。
「いいえ、こちらこそこちらの都合に合わせて頂き大変恐縮です。まさか使いの方が来るとは思わず、何のおもてなしも出来ませんが…」
『構いません。私のことはどうぞ、キュプリとお呼びください。…ところでそちらの方々は、大丈夫ですか?ピクリとも動きませんが』
「…一先ず放っておいてやってください。それより大精霊の使いと仰いましたね、何か言伝が?」
ソファで固まったままの三人が立ち直るにはまだ少し時間が必要だろうと判断して、アルバは先に錦鯉―――キュプリの話を聞くことにした。キュプリは承知したとばかりに頷いて、静かに語る。
『はい。湖の大精霊様は事情があってこちらへ来られませんが、言伝を預かっております。湖へアルバ様がいらして、浄化して下さったことで大分落ち着かれましたが…曰く、〝原因を早う突き止めて解決せい〟とのこと。そのためならば、私たち精霊を如何様にも使うが良いと仰せです』
「それは大変助かりますが…大精霊は大丈夫なのですか?精霊たちが泣いていることも関係があるのですよね?」
未だ引っ付いて離れない水の精霊たちを見つめてアルバが言うのに、キュプリは苦笑しながら―――そう見えた―――大精霊の現状を説明する。
『大精霊様は瘴気を溢れさせないよう湖内に留め置くため、今日まで力を使って抑えておられました。本日アルバどのによって浄化され、暫くの間は大丈夫だと判断して気が緩んだのでしょう。お倒れになりましたが、容体は安定しているのでご心配なく。しかしそれでも、下位精霊たちには衝撃だったらしく…』
「そうでしたか…ほら水の精霊たち、聞いたでしょう。大精霊は大丈夫だそうですよ」
だからどうか泣き止んで欲しい。アルバが彼らを諭すと、水の精霊たちはようやっとアルバから離れて涙を引っ込ませた。
その様子にほっとしつつ、アルバはそれにしても、と思う。どうして瘴気が湖から溢れずにあったのだろうかとずっと疑問だったのだが、なるほど大精霊が抑えていたのかとやっと納得した。あれだけの瘴気を抑えるのは並大抵のものではなかっただろう。
『大精霊様は瘴気を浄化出来る者をずっと待っておられました。我ら含め、此度のことはとても感謝しております。すべてを終えたら、是非我が元へ来るが良いとも仰っておりました』
「身に余る光栄ですね、ありがとうございます。ことが片付いたら、必ず会いに参りましょう。…さて水の精霊たち?」
『なぁにアルバ?』
『なんでもするの!』
先程までめそめそしていたとは思えないほど、水の精霊たちはくるくると優雅に舞って元気に返事した。これでやっとまともに話が出来る、とアルバは彼らを呼んだ本来の目的を告げる。
「道案内をお願いしたいのです。瘴気を湖に溢れさせた原因…それがある地下への道。あなた方はご存知ですね?」
確信を持って言うアルバに、水の精霊たちの肯定の返事がその場に元気よく響いた。