prologue
――――異世界、エレフセリア。
ある所には鬱蒼とした木々が寄り添いあう樹海が。
ある所にはカラカラに乾き、時折砂嵐吹きすさぶ砂漠が。
ある所にはさざ波が心地いい音楽を奏でる、清浄なる湖が。
ある所には大地の鳴動激しく響く、荘厳なる山脈が。
ある所には全てを内包する、命育む母なる大海が。
ある所には色とりどりの屋根が美しく輝く、文明咲き乱れる街並みが。
そしてそれらを更に彩るは、数多の力強い、またはか弱き生物、精霊、魔物達。
彼らは危ういバランスで生態系を成している。ひとたび崩れれば、あっという間にその波は世界を飲み込んで行くだろう。
今はまだ、少し。…ほんの少しだけ、天秤が揺れる程度。しかしその揺れの最中に、彼は居た。
彼―――――地球からの転生者であるところの、その名はアルバ。それは、夜明けの意味を持つ。
やや切れ長の目が印象的な、整った顔立ちの男である。体重や筋肉は標準、しかし背は高い方。そのせいか、若干ほっそりとした印象を受ける。
髪の色は甘やかな亜麻色、瞳の色は名前の通り夜明けの如く、淡く輝くアクアマリンから深みのあるサファイアへと移る天色。
肌の色は白い。それを守る服装はシンプルかつ、動きやすいもの。オフホワイトのゆったりとしたシャツ、適度に艶を抑えられた、裾にのみささやかな銀の刺繍が施された濃紺のベスト、スラックス。胸元には木々の瑞々しい色を写し取ったかのようなリボンタイ、それを留めるのは瞳の色に合わせた瑠璃色の留め具。
まるで何処ぞの深窓の御令息――――いや、まるでというか、実際そうであるのだ。今日までではあるが。
彼は明日その公爵家の三男という立場を捨て、転生して後生家となった、この屋敷を出るのだから。
「思い直してはくれないかしら、アルバ…」
見るからに豪奢な彫刻がなされた曲線を描く椅子に、緩やかな朱華のドレスに身を包んだ妙齢の女性が座っていた。ゆったりとため息を吐きつつ、しかし言葉とは裏腹にどこか諦めたような風情で先ほどの言葉を呟く。
さらり、と女性が身に纏うシルクのショールが細やかな音を立てる。
「母上、もう決めたコトですので」
女性の向かいに座っていたアルバも、それが分かっているのか紅茶をすすりながらすげなく返した。
「魔法騎士団にもスカウトされているというのに…」
「その魔法騎士団がイヤだから、この家から出るのです」
「も~何がそんなにイヤなの?王立魔法騎士団と言ったら、市民や貴族の憧れの職業なのよ!?」
心底分からない、と母親であるマニャーナは額に手を当て、更に溜息を深めて言った。
王立魔法騎士団。地球で生きていた身からすれば、まさに剣と魔法を地で行ったファンタジーの王道そのもの、この世界の最高軍事力。魔法が使えるものならば誰しもが憧れる。
しかし魔法が使えても、アルバは違った。
(騎士団に入ったら好きに生きていけなくなるじゃないか)
一度入れば、恐らく余程のことがない限りは、一生国に従事して生きることになるだろう。
前世の地球での、苦しくて辛かった人生が脳裏に甦る。アルバの前世は俗に言う、ブラック企業に勤めていた社畜、というものだった。
オマケに天涯孤独で、恋人は居たけれども浪費家で浮気性、最後にはフラれていた。仕事にばかりかまけて、まともに相手もしてあげられなかったせいだろう。
一人ぼっちで、会社のために休日返上、睡眠時間も削って働いて、身体を壊して。そうしていつ、どうやって死んだのか、最後には意識も朦朧としていたからまるで覚えていない。
あの頃、自分は何がしたかったのだろう。何かしたかったことがあったはずで、それすらも忘れてしまう、否、そう思う心すら、なくしてしまっていたのだ。
(それを取り戻すのに何十年かかったか…)
アルバは母に気取られぬよう静かに息を吐いた。
ここへ転生してくる前、疲弊して傷ついた魂が癒しを求めて彷徨い、辿り着いた場所があった―――それはありとあらゆる世界の知識、歴史を詰め込んだ、英知の宝庫。数多の生物が成せる事全てを注ぎ込んだもの、そして数多の星が持ちうる誕生から全ての歴史を、本という形にした巨大な図書館。
アルバはそこで様々なことを識った。
地球というのは、あまりにも広く、そして狭い世界だったことを。
(なんて矮小な人間だったのか…世界は、こんなにも広かったのに)
地球というものを細かに記した本を読む度に、アルバの意識が広がっていく。自分は本当に視野の狭い世界で生きていた。あんなクソみたいな会社しか知らず、他を知ろうともせず。きっと、もっと他の色んな人生を送れる可能性があっただろうに。
―――だから。
(せっかく転生して新しい世界で新しい人生を手に入れたんだ。オレは今度こそ自分の生きたいように生きる)
まずは、この地球とはまるで違う世界を見たい。
各所で形成されてる生態系、それを成す生物、精霊、魔物も知りたい。
そして、もちろん―――魔法だって思い切り奮ってみたい。
(…とはいえ、そっちは加減しないとすぐ騒がれて騎士団に見つかるな)
そもそも、騎士団にスカウトされるほどの魔法を使ったのがマズかった。
アルバは母に気取られぬよう、こっそりと息を吐きつつ一年ほど前のことを思い出す。
―――その日は社会勉強にと、馬車で王都エンハンブレに向かっていた時のことだった。突如、王都手前まで来て魔物が街道に現れたのだ。
魔物はアプリュコス。狼に似た、だが体格は狼よりも二倍はある、中位の魔獣。それが三匹。
(どうしてここに…?アプリュコスは森深くに住む魔物なのに…)
それが何故、人里近いここに現れたのか。考えている暇はなかった。
馬車から出ないでください、と護衛に雇った二人の騎士に言われるが、アルバは大人しく篭っているつもりはない。
(実戦は初めてだが……世界を見るなら、必要な経験値だ)
アルバには魔法の心得があった。
前世では魔法はゲームや本の中で見る架空のものであったがために、その仕組みや発現など良く分からなかったが―――その後〝英知の図書館〟にて、他の世界には魔法というものは現実にあることを知り、学び方、使い方を識った。
―――なるほど、呪文はその魔法を司る精霊・神霊への契約であり、願い事であり、発現するための鍵ってことで…
才能があったのかどうかは知らないが、仕組みを覚えてから暫くして下級魔法ならば難なく使えるようになった。
中級魔法も、それからそれなりに。
―――要は精霊・神霊の力を借りたのが魔法で、仲良くならないと使えないってことか。
面白いのは、魔法が存在するほぼ全ての世界で精霊・神霊が、名前は違えど殆ど同じ存在としてあることだ。おかげで一度契約すればどの世界でも同じ、または似た魔法が使える。
―――上級魔法もいけるか…?時間は、まぁ無限にあるしな。
〝英知の図書館〟は時の流れが存在しない時空にあり、己が転生しようと思わぬ限りはいくらでもここにいられる場所だった。おかげで魔法だけでなくその世界特有の文明など、好きなだけ知識を詰め込むことに没頭することが出来た。
不思議なもので精霊・神霊たちは例外を除いて自由に移動が出来るらしく、〝英知の図書館〟には何かしらの精霊・神霊たちが多く居た。退屈もしないし、じっくりと腰を据えて仲良くなるにも問題ない。
そうして、時間はかかったが、無事上級魔法まで扱えることが出来るようになった。
『貴方なら多分、いえきっと、失われた魔法を復活させたり、魔法を合成したり、オリジナルの魔法を創ったりも出来るわね』
精霊の一柱が言った言葉通り、アルバはとある世界の失われたとされる古代の魔法を甦らせたり、また別の魔法同士を掛け合わせたり、オリジナルの魔法なども創ってみせた。
…とまぁ、順調に魔法というものを片っ端から覚えていったアルバであったが。
(威力の程は試し打ちをしたことがあるから、知ってはいるが…それがどれほど効くのかはわからない。アプリュコスには悪いが、試させて頂こう)
だが―――だがアルバは、知らなかった。
転生してのち、前世を覚えているのだから当然、〝英知の図書館〟の記憶も引き継いではいるのだが、しかしこの転生した異世界の常識というものはそれほど学んでいなかった。
この世界では、上級魔法を扱う者は稀であるということを。
『万物触れること叶わぬ不可侵の女王―――』
詠唱を始める。アプリュコスは素早い。上級魔法は呪文詠唱が長いが、護衛の騎士が引き付けてくれているし、ヤツらは馬車に意識を向けていない。範囲の広い上級魔法で3匹まとめて倒した方が得策、と判断したアルバは、なるべく早口で呪文を唱えた。
『降り頻る涙珠の慈雨、氷肌に伝う…凛たる結晶の裡、空劫等しき天赦を与えよ…!』
騎士の一人がアプリュコスの爪によって持っていた剣を弾かれ、それを好機とみた他の二体が一斉に武器を失った騎士へと向かう。
慌ててもう一人の騎士が援護に向かう前に、ちょうどアプリュコスが三匹まとまったのを見て―――今だ、と氷の上級魔法を放った。
『白魔の氷牢!!!』
瞬間、アプリュコス達の足元に、眩く白銀に輝く魔法陣が出現する。その魔方陣から、透明な大小の球が勢いよく飛び出してきた。それは瞬く間にアプリュコスに触れ、弾け、そこからパキリパキリと凍っていく―――そうして、三体のアプリュコスは見事な氷の彫像となって絶命した。
思った以上の効果にアルバは驚きと喜びを味わったのだが。
「じょ…上級魔法だと…?アルバ様が放ったのか?」
騎士二人は目の前で行われた凄まじくも美しい魔法に、呆然としていた。ただの貴族のお坊ちゃんだと思っていたのが、魔法騎士団の中でも僅かしか使えない上級魔法を使ったのだから。
騎士達は王立魔法騎士団の、街の警備を主な仕事とする第三隊―――隊長の名を取り、通称ヴェガス隊と呼ばれるところの所属であった。そしてアルバにとって不幸だったのは、ヴェガスが騎士の育成、勧誘に熱心だったことだろう。
貴族のお坊ちゃんが上級魔法を使ったことはあっという間にヴェガスの知るところとなり、以降、彼から騎士団への誘いが定期的にアルバの元を訪れることになったのだ。
(彼自身は気持ちのいい人間なんだがなぁ…)
時は流れて、現在。アルバはそれまでに何度か王立魔法騎士団の誘いを受けているが、全て断っている。それでもヴェガスは根気よく声をかけてくるのだ。上級魔法を使える金の卵を、そう易々と諦めるわけにはいかないのだろう。
「旅支度はこんなものか。あとは…」
母と別れ、アルバは自室で明日からの旅のための準備をしていた。とはいえ、前々から準備していたために今更用意するものもない。王立魔法騎士団から逃げるためとは言ったが、元々成人したら家を出るつもりでいたのだ。
公爵貴族であるから、そう簡単に家を出れないだろうと危惧していたが、父はあっさりとアルバの出立を認めてくれた。三男坊であるし、幼い頃から世界に興味を持っていたからこそ、いつかこうなることが分かっていたのだろう、アルバにとっては有難いことである。
「あとは、家に結界を張って、緊急転送魔法陣を設置するだけだ」
ここ最近、魔物の動きが活発になっていた。一年前に街道で襲われたこともそうだが、人前に姿を現さないような魔物が街の近くで目撃されるようになっているのだ。
被害が出る前に魔法騎士団が討伐しているようだが―――ちなみにアルバ自身もヴェガスに引っ張られて何度か魔物を討伐している―――万が一のために、せめて家族だけは守ろうと家をすっぽりと覆うほどの、殺意を持つ者だけに反応する結界を張った。
そしてその結界が破られた時に自身が即座にここへ戻って来れるよう、結界と連動させて転送魔法陣も自室に設置する。
余談だが、術者が中心になって展開する結界と違い、術者が居なくとも破られない限り永続的に続く結界魔法は、上級にあたる。更にそれと連動して働く転送魔法陣も、この世界では扱えるものはそういないだろう。
ヴェガスが見たら「何故騎士団で活かさないんだ!宝の持ち腐れすぎる!」と嘆いたに違いない。
「これでまぁ、安心して旅に出れるかな」
自室から庭へ降り、生まれ育った屋敷を見上げてしっかりと結界が発動していることを確認し、アルバは感慨深げに呟いた。
第二の人生、前世の記憶も〝英知の図書館〟での記憶も持ち、精神的に成熟している上に、並外れた魔法の才能もあってかアルバは幼い頃から他とは一線も二線も画していた。そんなアルバを、両親は分け隔てなく育ててくれ、兄妹たちは変に構えることなく共に過ごしてくれたのだ。
前世では天涯孤独だったため、暖かな家庭に生まれたことは心の底から感謝しかない。
そうして旅立ちの準備も終え、アルバはそれにしては穏やかな気持ちで生家での最後の日を過ごしたのだった。
誰かが言った。何かを始めるには、心の内にあるこみ上げるような衝動が必要だと。日本で言うならば、思い立ったが吉日というやつだ。
まだ夜が開ける前である。アルバは今が好機とばかりにスッキリと目を覚まし、寝台を降りた。
家族はまだ寝ているだろう、音を立てぬように歩きそっとクローゼットの扉を開ける。
いつもならば使用人がアルバの服を用意し、着替えを手伝うのだがこれからは違う。
一人でやるのはもちろん、旅行とは違うのだから荷物になるし、そう何着も服を持っていくつもりは無い。けれど同じ服を何日も来ていたら汚れる―――そのため、アルバは密かに作った特別な服をクローゼットの奥から引っ張り出した。
アルバ自ら魔力を込めて編み、銀の刺繍を施した―――魔導服。
素材の関係で騎士の鎧とまではいかないが、それなりの防御力を誇る。火や、水にも強い。
また衛生的、耐久性にも考慮して、多少の汚れは手で叩くだけで落ちるようにした。加えてアルバの魔力を通せば、破かれたり裂かれたりしても勝手に修復する。
この国の最高峰に位置する仕立て屋でも、これ程のものは作れない。売りに出せば一体どれ程の値が付くのか―――そんなことなど知りもしないアルバは、さくさくと袖を通していく。
「うん―――我ながら、中々良く出来た」
一度姿見の前に立ち、己の姿を確認する。
基本的には、白である。上下共に月白の生地であり、要所に刻まれた銀鼠の刺繍に花緑青の縁どりと同じ色で施された不思議な紋様。
裾がやや長いボトムから覗くのは、同じく白いシンプルな靴。もちろんこれも長旅を考慮して耐久性に優れたものだ。
その白い姿を包むのは、目も瞠る鮮やかな瑠璃色のマント。肩から背中部分に、やはり服に施された紋様と同じものがある。
頭には後頭部をすっぽり覆う、服と同じ仕様の帽子。形はつばの無いキャスケットに近い。頭頂部から紋様と同じ花緑青の飾り紐が2本垂れ下がり、華やかさを彩る。
これで杖でも持てば、少々風変わりだがファンタジー世界の魔法使いの出来上がりだ。
だが、今現在アルバは杖というものを持っていない。道中で手に馴染みそうなものを見繕う予定ではいるが。
(しかし丸腰なのもやはりアレか…魔物が襲ってこないとも限らないし)
昨日の準備段階でも悩んだが、やはり武器は持っていた方がいいだろう。呪文というタイムラグがある限り、魔法だけでは牽制は出来ない。そう思い、シンプルな装飾のナイフと、剣術の修行で使用したレイピアを腰のベルトに吊り下げる。
他に必要なものは、全て小ぶりなウエストポーチに仕舞ってあった。これは腰の後ろへと装着する。
―――これで、支度は整った。
アルバは使用人に見つからないよう、しかし足早に屋敷を出た。前庭の噴水を通り過ぎ、朝露に濡れた薔薇を掠め、彫刻美しい門へと辿り着く。門に手をかけ、アルバは最後に、とそこから振り返って屋敷を見上げた。
(この屋敷を見上げるのも、暫くないか)
昨夜はアルバを送り出すため、盛大な夕食が振る舞われた。両親も、兄妹も、使用人たちも、寂しそうにしてはいたけれど、誰一人としてアルバを引き止める者はいなかった。
今も見送りはないけれど、薄情だとは思わない。そもそも見送りなど不要、とばかりにアルバは起きる者のいない夜明け前に出立するのだから。
静かに腰を折り、頭を下げる。これまで育ててくれた感謝を示すように。
「―――行ってまいります」
一筋の光が彼方から伸びる。夜明けだ。アルバはその光に向かって、門の外へと一歩踏み出した。
さぁ、ここから自由に世界を見聞する旅が始まる。どんなものがあり、どんな出会いが待っているのだろう。
逸る心そのままに、真っすぐ前を見つめる。
「まずは、東―――始まりの街へ」
アルバは清々しい微笑を浮かべ、瑠璃色のマントを翻しながら歩き出した。