裏の世界
神崎は居酒屋のカウンターでビールを飲んでいた。
先ほどチンピラがやってきてカード十枚と一万円札を置いていった。神崎がそんなにはヤらないと断ると、更に一万円札を置き店を出て行った。カウンターにカードの束と二万円が置いてある。
神崎はそれをスーツの内ポケットに仕舞った。
「一週間後、同じ時間にこの場所で」
これが、チンピラの発した最後の言葉だった。
すぐに神崎も店を出ようとしたが、珍しく藤沢からメールが届いた。律儀に会社でつかうメッセージと個人で使うメールを分けて使うところが藤沢らしかった。
どこに居るのかと聞かれ正直に送り返すと、ここまで来ると返事があった。
きっと例の車の情報だろうと、神崎は待つことにした。
三十分もすると、藤沢が店に現れた。
見ると昼に見たド派手な紫のスーツを来ている。居酒屋では目立ちすぎる。
神崎はあわてて藤沢の手を引き店から連れ出した。
仕方が無いので、比較的近くにある馴染みのバーに行くことにし、二人でそのバーに向かった。
バーに入ると、他の客は一組の男女だけだった。四つほど席を開けて藤沢と隣同士で座った。
神崎はウィスキーのシングル、藤沢はスコッチをダブルで頼んだ。
バーに来る道すがら、藤沢は今日の愚痴をこぼしていた。相当堪えたらしい。店に入ってもその愚痴は止まらなかった。
「ほんとにもう、最悪!」
珍しく藤沢が語気を荒げた。
「まあ、落ち着けって。ちゃんと聞くから」
神崎は困り顔だ。
「ほんとに聞いてくれますぅ。神崎さーん」
そう言って、藤沢は顔を近づけてきた。メガネの奥の濡れたガラス細工のような茶色い瞳で、神崎の目を見つめた。その後、手に持っていたグラスを引き寄せた藤沢は、そのグラスでスコッチをぐいっと大きく一口飲んだ。
「お前、酔うのが早すぎるよ」
今度は神崎がカウンターに肘をついて藤沢の顔を覗き込んだ。
「酔ってません!」
グラスをコースターに乱暴に置く藤沢。
「ふぅ……」
神崎のため息がもれた。
「もう、何が大変だったって。ずっと立ちっぱなしだったのよ? もう!」更にグラスを煽る
「それは、大変だったな」
神崎の持つグラスで氷が音を出した。
「いいえ! 立ちっぱなしは良くあるの。でも、あの雰囲気が最悪。専務なんてずっと怒ってるのよ! 私にまで八つ当たりしてくるし! 黒岩部長もなんか今日は余裕が無かったみたいで、助け舟もあんまり出してくれなかったのよ! それに課長連中なんか、ほとんど発言しないの。それがまた専務の怒りに触れたみたいで、もう、大っ変。社外取締役もいつもの楽観主義はどこへやらで、こうなったら警察に捜査させようと息巻いちゃって。もう私、立ってるだけで眩暈がしそうだったああ!」
そこまで喋って、スコッチを飲み干した藤沢はお代わりを頼んだ。え……。
「ふーん。大変だなあ」
そう言いながら、神崎は藤沢のペースを予想し、会計が幾らぐらいになるのかを計算し始めていた。
足りんのか? 俺の今の手持ちで……。
「あ、でもね。神崎さんが来てからは雰囲気はがらっと変ったのよ。部長もいつもの余裕が出てきて、あの後は全部仕切ってたんだから」
お代わりのスコッチを半分も飲む藤沢。
「ああ、良かったな」マズイなあ……。
「ええ。でも、課長連中は相変わらず意見を言わないの。みんな貝のように黙っちゃって。部長は仕方が無いと思ったみたいだけど、今度は他の取締役が怒っちゃって、最後には明日までお前達の意見をまとめて来いって激怒してたわ。部長は出来るだけでいいからと言ってたけど、菊池課長なんて見てて辛くなっちゃった。あの人は畑違いなのにね」
と、喋った後、残りを一気飲みの藤沢。
「そういや、会議のあと死にそうな顔で帰ってきてたなあ、菊池課長」
もうなくなっちゃったよ……。まずいなあ、一万は超えそうだ……。
「でしょー? ……あれ? お代わりください!」
そう言って、グラスを置く藤沢。氷が鳴る。店のマスターは微笑んでスコッチを注いだ。
藤沢に微笑んでるのか、藤沢のペースに喜んでるのか。とりあえず今日は儲かるな、マスター。
「ところで、例の車のこと、何かわかったか?」
「ごめんなさい。今日は一日あれだったから、調べられなかったの。部長の話だと、今週はこの件で忙しくなるかもしれないって言ってたから、今週は無理かもしれないの、ごめんね」
また、大きく一口飲む藤沢。
小さい口なのに、随分一口がでかいなあ……。
「そうか。別に急ぐわけじゃないから、いいよ」
この後、藤沢の愚痴を三十分ほど聞き、神崎の一杯目のウィスキーがなくなったところで、二人で店を出た。支払いにチンピラから受け取った二万円を使ってしまい、断ることもできなくなったなあと、心の中で思う神崎だった。
家に帰った神崎は藤沢の話に出た、課長連中の明日までに考えをまとめろ、という言葉を考えていた。
関係ない課長連中に聞いてどうする気なのか? 会社は一体なにをしたいのか。
今回、うちは被害がないはずだが、月産自動車は違う。ごっそり資料が抜かれている。世間に知れたら大スキャンダルだろうが、それを業種も違う四菱重工が発表できるわけがない。それなら、取締役達は何をしようとしているのか。
神崎には見当もつかなかった。
それはそうだ。経営のことなどどうでもいいのだ。神崎にとって興味を引くのは情報だけだ。
月産もやはりハッキングされたのか?
だとしたら、月産をハックしたヤツはどんなヤツなんだ。仮にも月産だ。守りは鉄壁のはず。それをどうやって破った? うちに仕掛けてきたヤツとは違うのか?
そう考えた時、はっとする神崎だった。
別のヤツ? 違うハッカーなのか? うちを攻撃してきたヤツとはレベルの違うハッカーだったのか?
そう考えると、神崎の心は徐々に躍っていった。
どんなやり方で攻めたんだ? やはりWebからか? いやいや、違うな。ウィルスか? 多分、そうだろう。あの月産を破るんだ。半端なことではあそこのファイアウォールは抜けないだろう。だとすると、やっぱりウィルス。それも確実にやるならネットからではなく内部から。
現在のハッキングの主流は、ウィルスを仕込んだUSBメモリーを直接PCに挿して行う。それが、絶対確実だ。内部に入ったウィルスはバックドアを開ける。バックドアとは、正規のルートではなく、他には知られないように開けておくルートのことで、そこからハッカーがネットを使って侵入するのだ。
しかし、これだと内部に手引きするヤツが必要になる。月産の誰かが裏切ったのか。
だが、そこまで調べる方法がない。確実なのは月産のシステム管理者に会って、直接聞ければ全て分かるだろう。ついでにルーターログも見せて欲しいが、当然そんなことは不可能だ。
そもそも、月産がハッキングされた証拠がない。見たのは月産の車の資料だけだ。四菱自動車にもハッキングされたという証拠がない。自分勝手に推理しただけだ。
ここまで考えた神崎だったが、自分が勝手に調べるわけにもいかず、この件は保留にするしかないと判断するのだった。
次の日も出社すると、隣の開発課長の菊池はげっそりしていた。
やはり、課長達は午前中に会議に呼び出されていった。
昼前に帰ってきた課長達も、いつもの元気はないように見受けられた。
三日経っても特に進展はなく、藤沢からも車の件で連絡がくる様子もなかった。
一週間が経ち、チンピラとの待ち合わせの居酒屋に行った。
既にチンピラは待っており、神崎が隣に座ると、待ちくたびれたとばかりに話しかけてきた。
「へへへ。兄さん。お久しぶり。持って来てくれたかい?」
下衆な笑いで話をするチンピラ。
「ああ」
神崎は鞄から十枚のカードを取り出した。
一呼吸おいてから、ため息まじりにチンピラの前のカウンターに置いた。
「ほー」
カードを持ったチンピラはトランプを見るように扇状に広げ、満足げな顔をしている。
「疑うわけじゃないけどさ。ちょっと調べてみていいかい? 兄さん」
チンピラは下衆な笑いはそのままに、眼光だけを怪しく光らせている。
「ああ」神崎は軽くうなずいた。
「じゃあ、ちょっと出ようぜ」
顎で指示したチンピラが立ち上がった後に、神崎も鞄を持って立ち上がる。
そして、チンピラの後を追い、店を出た。
「あそこで」
指さしたのはコンビニだった。
チンピラはコンビニに入り、雑誌を手にレジに行った。
金額を店員に告げられ、手に持っていたプリペイドカードを読取り機にかざした。
ピッという音と共にレジに一万と表示され、店員がレジを叩く。
「ありがとうございました」
その声を背にチンピラとコンビニを出た。
「いっひっひっひ。マジかよ」
店を出てすぐ声を上げるチンピラ。
「もう、いいだろう。俺は帰るからな。じゃあ」
神崎が立ち去ろうとすると、チンピラが言った。
「あああ。ちょっと待ってくれよ」
「なんだ」神崎が足を止めた。
「これで、バイバイって酷いんじゃねーの、兄さん」
「どうしてだ。ちゃんと十枚持ってきたぞ。中身は同じだ、心配すんなよ」
「その辺は心配してねえよ。だからさあ」そう言って、一歩近づいたチンピラが、神崎を鋭い目で覗き込んで言った。「商売しねーか。兄さん」
一瞬何を言っているのか理解できなかったが、すぐにわかった。
「商売だと?」
「ああ、そうだよ。どうだい?」神崎の目を睨むチンピラ。
「馬鹿な。何いってんだよ」
手さげ鞄を肩にかけて、神崎が呆れた表情でこたえた。
「俺はマジだぜ。いいか……」チンピラは神崎から視線をはずし、神崎の周りを歩き出した。「俺はこれから毎日十枚のカードを持ってくる。兄さんには一万を渡す。毎日だ。どうだ? いい話だろ?」
「くだらねえ。じゃあな」
帰ろうとする神崎の片腕をチンピラが凄い力でつかんできた。
「待ってくれよ」
「離せよ」神崎はつかんでる手を見た後、チンピラの顔を睨みつけた。
「すまねえ。俺の話を聞いてくれれば離すよ」
「ちっ。わあったよ」神崎は吐き捨てた。
チンピラは手を離し、「物分りが良くて助かるよ」と、ニヤついた。
神崎はチンピラに正対し、「お前、毎日十枚って、そんなに捌けんのかよ」と、呆れ顔で詰問した。
「捌く?」空を見てこたえるチンピラ。
「惚けんなよ。俺から一枚千円で買ったカードを、どうせ七、八千円で売るんだろ?」
「ひっひっひ。まあね」
「だから、そんなに売れんのかって聞いてんだよ」語気を強める神崎。
「それは問題ない」
「誰に売るんだよ」
「それは言えねえよ。企業秘密ってやつだ」
「けっ。だが、毎日十枚は駄目だな」
「どれぐらいならいいんだ?」
「月に三十枚。それが限界だ」
「おいおい。待ってくれよ。そりゃあ、少なすぎるよ」
思わず両手を出すチンピラ。
「こっちだって、足が付かないようにやってるんだ。月に三十枚が限界なんだよ」
顔をしかめて神崎は言った。
「ちっ。くそ。十分の一か。しょうがねえな。じゃあ、それで手え打つよ」チンピラは下を向いて爪を噛んでいたが、すぐに上を向いて承諾した。「その代わり、十日で十枚にしてくれねーか」
「まあいいだろう」
「受け渡し場所は、あの居酒屋でいいか?」
「ああ」
うなずく神崎に、突然もったいぶるようにチンピラが話した。
「兄さん。ひとつ言っておくけど、逃げないでくれよ?」
「ああ」
神崎はうなずいた。
「兄さんなら大丈夫だと思うけど。万が一逃げたら……」
「どうする気だ?」
「んー。まあ、大丈夫だろう。兄さんはそんなタマじゃないようだしな」
「そうか」
鞄を肩で持ちながら言い放つ神崎。
「ああ。俺みたいなのとも普通に接してくれるしな」
ふんと鼻でこたえた神崎に、チンピラは笑っていた。
チンピラが「明日、また十枚持ってくる」と言ってきたが、もし断って押し問答になっても面倒だと思い、ここは素直に受けることにした。
最後に金田と名乗ったそのチンピラは、「また明日ここで」と言って去って行った。
少々面倒なことになった。三十枚に根拠などない。足が付かないように、伊藤など知り合い相手にちまちまやっていたのだ。いままでは頼まれたからやっていたのが、突然義務感に襲われて面倒になってくる。これも初めの二万を使ってしまったからかと、諦める神崎だった。